重吉漂流紀聞

久生十蘭




 名古屋納屋町小島屋庄右衛門の身内に半田村の重吉という楫取かじとりがいた。尾張知多郡の百姓だったのが、好きで船乗りになり、水夫から帆係、それから水先頭と段々に仕上げ、二十歳前で楫場に立った。文化十年、重吉が二十四歳の秋、尾張藩の御廻米を運漕する千二百石積の督乗丸で江戸へ上ったが、船頭と五人の水夫が時疫にかかって陸に残り、重吉が仮船頭をうけたまわって名古屋まで船を返すことになった。
 和船も千二百石積くらいになると相当な大船で、蝦夷あたりまで行くこともあるから、舷も頑丈な三枚棚(三重張)につくる。甲板の下は横墨よこずみと船梁で区切って、舳から順々に、表ノ間、胴ノ間、はざま[#「舟+夾」、U+26A40、337-上-13]ノ間、艫ノ間と四つの間に別れ、表ノ間は座敷ともいい、八畳間ぐらいの畳敷で船頭がいる。胴ノ間は荷倉、※[#「舟+夾」、U+26A40、337-上-15]ノ間は炊事場、楫場の下の艫ノ間は二間に仕切られて楫取と水夫の寝框がある。
 重吉は船頭から尾張藩の御船印と浦賀奉行の御判物ごはんものを受取り、伊豆生まれの水夫を五人雇い入れて半田村の藤介を楫取にひきあげ、水夫頭に庄兵衛、帆係一番に為吉、同じく二番に七兵衛を据え、賄の孫三郎、水夫、綱取、飯炊かしぎなど合せて十四人、帰り荷の燈油二百樽、大豆二百俵を積み、十月の下旬に江戸を出帆した。
 伊豆の子浦ねのうらに寄り、十一月四日の夜、遠州の御前崎おまえざきの沖あたりまで行くと、海面うなづらがにわかに光りを増し、海全体が大きな手で持ちあげられるように立ちあがったと思う間に、丑寅うしとらの強風が滝のような雨とともに火花を散らして吹きつけてきた。そのはげしさ目覚しさは、後にも先にもおぼえのないほどで、楫場にいた藤介が楫を離して藁屑のように吹き飛ばされてくる、十五になる飯炊の房次郎が炊桶を抱えたままキリキリ舞いをするというはなはだしさ。船中、総出になって「帆をおろせ」「楫を立てろ」と騒いでいるうちに、ひときわ高い返り波が潮しぶきを吹いてうちあげ、舷の垣根にいた綱取の要吉が、あッと言う間にさらいとられてしまった。
 海に人が落ちたときは、箱でも板でも、その場にありあうものを投げこんで取りつかせて、船を戻してひきあげるのだが、探してもわからないときは、端舟を一隻捨てる風習になっている。そうなっては端舟も捨てたところで無駄なのだけれども、そうしておけば後で死んだものの親兄弟に言訳が立つ。しかしその時は墨を流したような闇夜のことではあり、船は疾風はやてに乗って空を飛ぶかという異変の最中で、手の施しようなどとてもありようはなかった。
 ようやくのことで帆はおろしたが、それでどうなるというのでもない。波と風とに翻弄されながら、闇黒の海の上を飄々と吹流されて行くうち、夜の八ツ時、伊良胡いらこ崎の燈台の火が見えた。この崎から伊勢の港湾までは五里足らずだから、「助けたまえ、お伊勢さま」とそのほうへ向いて拝んでいるとき、急に風が戌亥いぬいにまわった。いままで東北から吹いていた風が反対の西北に変ったので、波の余勢が風にあおられて山のような逆浪さからいなみが立ち、海面いちめん煮釜が湯玉をあげるように沸きたつなかを船が後へ後へと戻りはじめた。せっかく伊勢の近くまで来て、後帰りするさえ迷惑なのに、帆柱にあたる風ばかりのため、五十里を二刻ほどで走り、翌五日の夜明けごろ、要吉が海へ落ちた御前崎おまえざきの近くまで吹き戻されてしまった。
 船乗は迷信深いものだから、つまらぬ気迷いを起さねばいいがと案じていると、果して伊豆柿崎の三郎助という水夫が、端舟を捨ててやらなかったので、要吉の怨みで船がひき戻されたのにちがいない、死んだものの思いのかかった端舟だから、この際、どうでも捨ててもらわねばならぬと、血相変えて強談にかかった。そこで重吉は、
「まァそれは待て。万一、風が変って南へ流されるようなことにでもなれば、その辺にあるのはみな切立った岩山の島ばかりだ。水主水夫といっても、犬掻き泳ぎもできないのが大概だから、端舟がないと、島にとりつくこともできない。端舟一隻のあるなしが、生き死にの分れ目。要吉の思いを晴らしてやるのもいいが、なんといっても、生きている十三人の命のほうが大切。早まったことをすると、あとで後悔の臍を噛むようなことができる」
 と説いて聞かせたが、三郎助は両手で耳をふさいで受けつけようともしない。もともと伊豆者と尾張者は気性が合わないところへ、尾張方は一向宗、伊豆方は日蓮宗で宗旨までちがう。こじれだしたらおさめようのないことを知っているので、ずいぶん下手したでに出てなだめたが、どうしてもきかない。
「田子村の、柿崎の、それから丑蔵も福松も、いま船頭の言うたをなんと聞いた。われらはどうせ淦水あか汲みだから、海に落ちて死ぬことは厭わないが、端舟を捨てて、懇ろに弔ってくれると思えばこそ諦めもする。船頭がこういう了見では、この先、海へ落ちても見捨てられるにきまった。おぬしらどう思うか。それでもいいのか、情けないとは思わないのか」
 と胴ノ間に胡坐をかいて、精一杯に怒鳴りたてた。伊豆組は三郎助のぐるりにかたまり、重吉に白眼をくれながら、
「三郎助ぬしのいうとおり、こんな薄情な扱いをされては、情けなくて働かれない。端舟を捨てればよし、さもなければ言うことは聞かぬ」
 とガヤガヤしだした。
 重吉は横を向いて聞かないふりをしていたが、思いがけないあらしで気先が弱ったのか、海上の便宜をわきまえている水先頭や帆係までが、いっしょになって管を巻くようになった。こういう大時化のときは、さなきだに気を揃えて働かねば乗切れぬというのに、みなの心が離れ離れになっては、助かる船も助からないことになる。掛替えのない端舟だが、言うようにしてやるほかはなかろう。先のことは先のこと、なるようにしかならぬものだ、と思いきって端舟を捨てることにした。
 伊豆方の水夫は苫の下から端舟を運びだし、
「要吉ぬし、端舟をやるから受取ってくれえよ」
 諸声に法華経をとなえながら海に投げる。こういう時化では端舟などは木ッ端にもあたらない。いちど逆打ちをうっただけで飽気なく沈んでしまう。水夫どもはこれが大難のはじまりになるとも知らず、要吉が喜んで端舟を持って行ったなどと、口々に噺しているのはいかにも愚かな成行であった。
 そのうちには雨はやんだが、風はいよいよ吹きつのる。伊豆の子浦の地方ぢかたの見えるあたりまで行ったところで、舵を壊され、船が横倒しになって山のような浪がうちこむ。これはというので、総出になって荷打にうち(積荷を海へ捨てること)をしたが、それでも及ばないから、帆柱を切倒しにかかった。
 帆柱を倒すのはむずかしいもので、倒そうと思う方(風下の方)はすこし下、風のほうはすこし上の方を、目の高さほどのところへ、同時に双方から斧を入れるのが心得になっている。かこいに帆布や蒲団のような柔かなものをかい、帆柱がフワリと跳ねかえって海へ落ちるように仕掛け、さあいま倒れるというとき、すばやく控綱はんどうを切る。これが遅れると、ハンドウにひかれて帆柱が縦に倒れて舳を割ることがある。言うのはやすいが、天地をえすような大時化の中でやることだから、斧を持って転げまわるばかりで思うようなこともできない。朝の五ツ時にかかって、八ツ時にようやく切り倒し、地方ぢかたの見えるところでまねきをあげる。菰と笠を棹の先につけて舳に立て、流れ舟だから助け舟を出してくれというこれが合図。千二百石積の流れ船はあまりないことだから、村方でもなんとかして助け舟を出そうと、岸波の寄せてはかえす荒磯を、蓑笠着た人々が走りまわっているのが見えたが、そのうちに岩角の高いところへ上って詫火あやまりを焚きだした。われわれの力ではとても助け舟を出されない。どうぞ運よくよその島で助けてもらってくれろというわけ。ここで見捨てられては最後だから、こちらは必死にマネキを振る。村方ではさかんに火を燃す。あの端舟さえ捨てなかったらと、今になって歎くのも愚痴。みすみす手の届くところに地方ぢかたを見ながら、端舟がないばかりに漕ぎつけることもできない。いまはもう舵もなく、帆柱もなく、浪風に弄ばれるままに、一町、一町、岸から遠ざかる。日も暮れ、その日の宵五ツ時、伊豆の利島と新島の間を通った。この間はわずか十七、八町ばかりなので、太い苧綱かがすを三本つなぎ、三百尋ほどにして碇をおろしてみたが、底が深くて届かない。船は碇をひきずったまま流れて行く。六日の朝、三宅島が見えたので、大急ぎでまたまねきを上げたがどうにもならない。情けない情けないといっているうちに、三宅島も波の下に沈んでしまった。
 七日になっても風がやまない。船底に水が入り、梁まで届くようになった。水鉄砲を仕掛けて二人で横木を踏み、小口の樋から淦水あかを掻いださせたが、いちど浪がうちこむと、一刻の骨折ももとの杢阿弥になってしまう。水夫どもはいっこうに腑甲斐なく、桃尻ももじりになってうそうそと胴ノ間にしゃがんでいて、大浪が来ると大声をあげて艫ノ間へ逃げこみ、寝框に突ッ伏して念仏をとなえるというらちのなさであった。
 八日の朝、西北の方角におぼろな島影を見たのが最後で、それからはどちらを眺めても八重汐の海の色ばかり。賄の孫三郎は、心細がって、その日、髪をおろして出家になった。
 十一日の夕方から風が落ちかけ、十二日の朝、九日目でやっと凪になった。見るかぎりの大海原だが、行きちがう船もないではなかろう、昼は見張を立て、夜は灯影を絶さぬように申しあわせ、形ばかりの舵と帆柱をこしらえにかかった。これから先は八丈島だけが頼みだから、心願をこめて※(「鬥<亀」、第3水準1-94-30)みくじをとってみると、八丈島はとっくに通り越し、いまいるところは島の南二百里の海上と出た。
 誰も口にだしてはいわないが、このぶんでは容易なことでは帰れぬと覚悟をきめたらしく、まず賄の孫三郎が有米ありごめをしらべさせてもらいたいといいだした。積荷の大豆は二百俵もあるが、帰りの船のことだから、食いごめは五斗俵で六俵しかない。みなの意見で一俵だけはなにかの用意に囲い、五俵を十三人に割当て、そのうえのことに豆を粉にして主な食料にあてる。月のはじめに大雨に逢ったきり、その後、いっこうに雨気あまけがない。飲み水が不足するのはわかっているから、海水をランビキ(蒸溜)し、その水を等分に分けて飲むことにきめ、十一月いっぱいはそんな風にして暮した。
 十二月のはじめから急に暑気が強くなった。暦ではかんのさなかだというのにあぶられるような暑さで、日中は甲板へ出ることもできない。のみならず、凪ぎだとはいえそこは大海のことで、大波も来ればこれはと胆を冷すような風も吹く。そのたびに念仏を唱えて騒ぎたてるものだから、気力の弱いものはうろたえ疲れ、暑気と心労でほとほとに弱りこんでしまった。なかでも十六歳にもならぬ飯炊かしぎの房次郎と年寄の庄兵衛は、浪の色を見るのさえ物憂くなったのか、寝框にひっこんだきり、なにがあっても出てこぬようになった。伊豆組の三郎助、福松、田子村の丑蔵、音七、亀崎の半兵衛の五人は、益もない繰言のあげくは争論になり、海が荒れだすと、あわてて念仏をとなえ、凪ぎるとまたぞろ愚痴、
「おゝおゝ、国元ではどんなに案じていることだろう。此処かしこと聞きたずねても行方が知れぬから、もしや八丈島にでも居はせぬかと、八十八夜の八丈島の上り船をあてにして、首も細るほど待っているのだろうに」
 丑蔵がいうと福松は首を振って、
「いや、そうではあるまい。当座の間は、好い夢を見たといってはうれしがり、悪い烏鳴からすなきを聞いたといっては覚束ながり、神やら仏やら、あれこれと祈りまわるのであろうが、そのうちにはあきらめてから葬式をだし、一本ばなに仏の飯を供え、子供らを仏壇の前に坐らせ、よう拝むのぞ、ととさんはあそこにござるなどというのだろう。あゝ、帰りたい、帰りたい。皆の顔が見たい」
 すると音七という二十四になるのが、
「おぬしらは、そうして恋しい恋しいと思うばかりなのか。おれのほうはそれどころのことか。出がけに銭を五百ばかり置いてきただけだから、それが心にかかってならぬ。国を出てから、これでもう三月。今ごろは食うあてもなくなり、人のかどに立って、どうぞや、お余りでもと、物乞いをしているのだろう。それを思うと、胸が張り裂けるようだ。あゝ、切ない切ない」といって泣く。
 重吉もまだ二十四で、帰りたい気持はおなじだが、浪風の苦だけでもたくさんなのに、故郷を思い、親や妻子のことを案じて泣いてばかりいては、そのうちにわずらいついてしまうだろう。せっかくどこかの島へ漂い着いても、病気になって死ぬのではつまらない話だと思い、
「親や妻子を養おうと思えばこそ、船乗になって憂き艱難しているが、たとえ妻子に食う宛が無くなっても、親方もいれば仲間もいる。どれほど困っても、われらのように豆の粉を食うまでにはいたるまい」
 となだめたが、音七は、そうは思えない、そうは諦めかねると、身も世もないように泣く。
「だが音七ぬし、切ない辛いといって、泣き死に死んでいいものだろうか。それこそむなしい話ではあるまいか。それほど妻子のことが心配なら、今こそふんばりかえって、生きて帰る才覚をしなければなるまい」
 音七はキッと顔をあげて、
「子供をあやすような甘いことで、この音七を欺せると思っているのか。今日あたりは八丈島から千里も南の海の上。どこに生きて帰れるという当てがあるのだ。そういうおぬしだっても、二度と国の土を踏めるとは思っていまい。いずれはどこかの汐路の果で船を壊され、魚の餌食になってしまうのがおち。助からぬと思えばこそ、こうも泣く。これが泣かずにいられようか」
 といっているうちに、逆上気味になって眼を釣りあげ、
「いやだぞ、いやだぞ。魚に食われて死ぬのは嫌だ。どうでも死なねばならぬのなら、まだしも気力のあるうちに、首を縊って死のうではないか。どこの浦へうちあげられても、一船いっせんの仲間だと知れるように、一本の繩で、いるだけの人数の輪索わさをつくり、みなもろともに死んでこかそ。三郎助も死ね、安兵衛も死ね。福松も、半兵衛も、お楫も、飯炊も、みんな一つ繩で縊れて死のう。こう話がきまったうえは、お船頭もいっしょに死んでもらわねばならぬ」
 そういうなり、細苧の長繩をひきだし、震える手で輪索をつくりだした。重吉はやめさせたく思うが、反対すると海へでも飛びこみかねぬ見幕だから、「お船頭、おぬしも死ぬな」と念をおされるたびに、「死ぬとも、死ぬとも」とうなずいてみせるほかなかった。
 しかしこういう有様では、いずれみな気が狂ってしまう。なにか気をまぎらせる方法はないものかと考えたすえ、かわいそうだとは思ったが、分けた米を欺してとりあげ、太繩で大きな玉数珠をこしらえ、数珠繩を繰って、朝夕、念仏百万遍を唱えたものにだけ米を木皿がさに一杯、水を茶碗に一杯やると触れだした。欺されたと腹をたてるものもあったが、このたびばかりは重吉もきかないので、そういうてあいも追々折れて出た。寝框に入りこみ、なんといっても動かないつもりの組も、命のあるかぎりは米を食いたい。あちらから二人、こちらから一人という風に這いだしてきて、いやいやながら百万遍を繰るようになったが、わずかばかりの豆の粉と水でかすかに命をつないでいるのだから、百万遍を繰るのが大儀でならない。伊豆柿崎の三郎助が、ある日とうとう癇をたて、
「えい、無駄なことだ。念仏念仏と、そればっかりいうが、念仏は極楽でするこった。どちらを見ても山もなく、鳥一羽、飛べばこそ。どこに仏の姿があるというのだ。変らぬものはお日輪にちりんの慈悲ばかり。どうでもここは日蓮大菩薩を拝むべき場合。おれがこう言ったからには、そうさせにゃおかぬ。今日から念仏をやめてお題目をとなえることにする。念仏をとなえるやつは、かっぽろけて海へ投げこむからそう思え」
 とむやみに力みだした。
 百万遍は方便だから、宗旨はなんであろうとかまうことはない。三郎助のいうとおりに百万遍をやめ、その日から題目を唱えることにしたが、浪風が立って、素破すは[#ルビの「すは」はママ]死ぬかというときになると、三郎助は自分の言いだしたことも忘れて必死に念仏をとなえ、波風が静まるとまたお題目に戻る。これですむかと思っていたら、またぞろ音七が狂いだし、百万遍に使った数珠繩をみなの前にひきずってきて、
「みなも見てくれ。どうだ、この繩のやわらかいことは。いまはこれまでというときの用意に、首縊りの輪索をこしらえておいたが、百万遍の数珠にしたこの繩は、みなの手擦れでやわらかになり、いかにも締りぐあいがよさそうだ。今のうちに、あれとこれを取換えておこうではあるまいか」
 というと、楫取の藤介や水夫頭の庄兵衛までが同意し、てんでに数珠繩で首縊りの輪索をつくり、それをズラリと船梁に掛けつらね、
「あれは誰の輪索、これは誰の輪索」
 と指差しながら語りあうのもあわれであった。
 重吉は馬鹿らしいと思ったが、口に出していうわけにもいかない。いよいよこれまでと晴着に着換え、みなといっしょに輪索に首を突っこんだことが、その年の暮までに前後十六遍あったが、いざという時になるといくらか波風がしずまり、そのたびにあやうく命を拾った。
 その年も押詰って大晦日になった。重吉は表ノ間へみなを呼んでいった。
「まずまず、この年も今日一日になった。春になれば南か東風こちが吹きだすから、故郷へ吹き戻される便宜もあるだろう。いい年のはじめになるように、目出度く〆飾をして正月を迎えよう」
 水夫には、ありあうもので〆飾をつくるようにいいつけ、賄の孫三郎には、豆の粉の団子を塩水で茹であげ、形ばかりの鏡餅をつくるように手配させた。夕七ツ時、重吉が胴ノ間のランビキにとりつき、御酒代おみきがわりの水をとっていると、上のほうで、大勢でなにか息巻いているような声がする。また喧嘩でもはじめたのかと甲板に上ってみると、いるだけの人数が、つくりかけの〆飾を眺めて泣いている。どうしたのかとたずねると、亀崎の半兵衛が
「元旦には、松の枝が折れたのさえ忌嫌いみきらうというのに、このざまはいったいなんとしたものだ。国にさえ居れば、酒に酔い、餅に飽き、思うさま飲み食いして楽しむのに、こんな船に乗ったばかりに、浅間しい春を迎えねばならぬとは」
 というと、帆係の為吉があとについて、
「伊豆の衆のいうとおり黄粉きなこ※(「舌+低のつくり」、第3水準1-90-58)めて正月をするようでは、この先の運はもうきまった。こんな甲斐性のないやつでも、同じ村のものだと思うから、船頭だなどと立ててきたが、思えば馬鹿らしくてならぬ。下り船の乗りがけに、いやな気中きあたりがしたが、あれこそは、こんなやつといっしょに、南の海の果で藻屑になるというしらせだったのだろう」
 と怒りつ泣きつする。重吉は笑って、
「泣くほどのことがどこにある。来年は米を食える国へ帰られるという縁起に、明日一日は豆をやめ、囲い米のうちから二升だけ粥にし、米ずくめで暮らさせるつもりなのを知らないのか」
 為吉は、元旦には米を食べさせてもらえるなら言うことはないといい、それでみなも泣くのをやめた。
 元旦は暗いうちに起きだし、羽織を着て表ノ間の座敷へ行く。作法の真似事をし、重吉に新年の祝儀を述べ、形ばかりの膳に向って御酒みき代りの水で盃をまわしはじめたが、水盃というのは不吉な時にかぎってするものだから、気を悪くしてものをいうものもない。盃はだん末座まで下り、とって十六になった飯炊の房次郎の番になると、盃を持ったままいきなりわっと泣きだした。今までこらえていたものもたまりかね、一度に声をあわせて泣きたてる。重吉は声を荒けて、
「昨日の約束を忘れたのか。くだした船を東風こちに乗せて国へのぼらせようという目出度い祝儀に、盃が下ったまま上らないのは縁起が悪い。房次郎よ、うたうのはやめて、早く盃をのぼらせないのか」
 と叱りつけると、それでようやく盃が上ってきた。そこへ粥が出る。一人二椀ずつ食べる約束で、米を食うのを楽しみにしてみたものも、さて雑煮の代りに粥が出たのを見ると、心の中にさまざまな思いが湧き、たがいに愁い顔を見あわせるばかり、進んで箸をとろうとするものもなかった。皆の衆、どうしたことだと催促すると、うつむいてぼそぼそ食べだした。気の早いものは二椀とも啜りこんでしまったが、遅いものは、一椀も食べきれずに鼻汁を啜っている。一人が涙組さしぐめばみなそれについて涙を流す。重吉もたまりかねて甲板に上り、舷に額をあてて声を忍ばせて泣いた。
 しばらくして表ノ間の座敷へ帰ると、まだやめずに愚痴をこぼしている。重吉ももてあまして、「泣くのはそれくらいにして、みなで初春の遊びをしよう。いまこの船に三十両ばかりの金がある。穴のあいた銭も七八把はある。港々の雑用ぞうように預った金だが、浦賀奉行と御判物と尾張様の御船印さえあれば、どこの津へ漂い着いても、雑用には事欠くことはないから、これを皆で分けることにする。おぬしらは、船頭の眼を眩まして淦水間あかまへもぐりこむほど博打が好きなのだから、これで思うさま遊ぶがいい」
 銭箱の底を叩いて金を分けにかかると、楫取の藤介が、
「やめてくれえ。たとえどれほど金銀を持っていたとて、水一杯買えるじゃない。勝負に勝ったとて、なんの楽しみがあるものか。そんなことは娑婆にいての話だ。それとも、このうちにそんな勝負でもしたいものがあるのかい」
 とうわずった眼つきで一座を見まわすと、そんな阿呆がいるものかといい、誰一人とりあうものもない。重吉も仕様ことなく銭箱をしまい、船中の一同は心のなかにさまざまな愁いを抱き、こうして泣き悲しむがせめての心やりと、力なくうち臥しているばかりであった。
 正月もすぎ、二月も送り、三月の末になると、誰彼なくいちように身体が腫れてきた。重吉は真水をとったあとの苦汗にがり湯を浴びていたのでそうしたこともなかったが、月の終り頃になるとみな頭まで腫れがきて、寝框にあおのけに寝たきり、眼玉を動かすこともできず、追々たよりないようすになって、親や妻子や兄弟の名を呼びながら「重湯をつくってくれ」の、「素麺を食おう」の、「早く西瓜を切らないのか」のと譫言うわごとを言うようになった。重吉は及ぶかぎりに身体をまわして介抱してやったが、今までは十三人で手分けしてやっていたことを一人でひきうけ、そのうえ十二人の看病までするので、半月ほどすると、疲れはてて身を起すこともできないようになった。
「とても一人でやれる業ではない。親兄弟というわけでもあるまい。なかには他国者もいるというのに、こんなに身を苦しめるのは、つまらぬことだ」
 と神棚の下へゴロリと寝ころがったが、いや、そうではない。知らぬ他人とはいえ、おなじ船に乗りあわせ、こういうめぐりあわせになるのは、前世でこの人々の恩をうけ、今生でそれを返す番になったというようなことなのにちがいない。そうであったら、親兄弟にもかえて大切にしなければならぬと思うと、とても寝てはいられず、豆を煎る間に薪をこしらえ、ランビキするひまに水を汲み、こうなってからは米を囲っておいてもなにになるものかと、ありったけの米をさらけだし、残りなく重湯にして啜らせた。そうまでしてみたが、人間の力ではひとの定命を半日繰延すこともむずかしく、五月の八日に半田村の七兵衛が死んだ。こういう暑気に死骸をとりおさめておくのはどうかと思ったが、このまま海へ投げたら、残ったものたちが、おれらもああされるかと力を落すだろう。そう思って、腐臭が立つのもかまわずに座敷つづきの雑倉の板の間に安置した。つづいて十六日に楫取の藤介が死んだ。二十八日に飯炊の房次郎が十六歳で死んだ。六月十二日に庄兵衛と伊豆の子浦の福松が死んだ。十三日に出家になった賄の孫三郎が死んだ。十七日に乙川村の為吉が死んだ。十八日に伊豆柿崎の三郎助が死んだ。二十日に田子村の丑蔵が死んだ。二十八日に子浦の安兵衛が死んだ。五月八日から六月二十八日までに十人がつぎつぎに死に、重吉ほかに、伊豆の音七と亀崎の半兵衛だけが生残った。
 八月朔日と二日に、十一ヵ月目ではじめて大雨があった。こんなあてどのない大海原で、どちらの島山へも遠いため、雲霧も及ばなかったのだろう。いま雨が降りだしたのは、どこかの国に近くなった証拠にちがいないと、音吉、半兵衛の二人にも話してきかせ、水を受けられるものはありたけ甲板へ持ちだし、余すことなく天水を貯えた。
 三日の朝、海がカワカワと鳴るが、海面が暗くてなにも見えない。もしや魚の群であろうかとバケを投入れてみると、一尺ばかりの鰹がついて上がってきた。そのうれしさはなににたとえようもない。バケから外して煙出しの穴から下の※[#「舟+夾」、U+26A40、345-下-13]ノ間へ投げおろしておき、舳のほうへ行ってバケを入れると、七本釣れた。持てるだけの鰹を両脇に抱え、さて下へ行ってみると、さっき煙出しの穴から投げおろしておいた鰹が骨ばかりになっている。どうしたことだとたずねると、音七と半兵衛は片息かたいきをつきながら、
「この魚は、神様がくだされたのか、重吉ぬしがくだされたのか知らないが、ここで跳ねまわっているのを見るなり、夢中で双方からとりつき、一と口食い二た口食いしているうちに、このように骨だけにしてしまった。せっかくおぬしが釣ったのに、ただの一と口も得食われず、さぞ腹が立つことであろうが、悪気も候も、夢現ゆめうつつのうちにやってしまったことだから、どうかゆるしてくだされ」
 と動かぬ身体をひッ立て、両手をついて詫びをいった。重吉はかえってすまながり、
「あの魚は、すこしも早くおぬしらに食わせようと思って落してやったものゆえ、食ってくれれば本望。一本二本はなんのことがあろうか。これこのとおり」
 と七本の鰹を見せると、
「ありがたや、お鰹さま」
 ともろともに手を合せて拝んだ。
 さっそく片身を落し、お初穂を神棚に供え、煮るも焼くも待っていられず、片端から塩水に漬けてとりかかり、三人で四本の鰹をまたたく間に食いつくしてしまった。
 魚の群にうちあたったのだとみえ、バケをおろすたびに魚が釣れる。夜も昼も魚ばかり食べているので日増しに元気になり、十日ほどすると、音七も半兵衛も甲板へ出て魚を釣るまでになった。ある日、半兵衛がいうには、
「さて、重吉ぬし、聞いてもらいたいことがある。天の恵みの雨水といい、日々の糧になる魚といい、いまでは不足ないほどに得られるようになったが、それについて思うのは、こういうお恵みにも得逢わず、餓鬼の苦しみをして死んだ十人の者たちは、よくよく神仏に憎まれた人々ででもあったのだろう。おぬしは陸の土に葬ってやらねばならぬなどといい、いまもってみなの亡骸なきがらを雑倉にとりおさめてあるが、このになっても陸地くがちに辿り着かぬのは、ああいうものを船に置いてあるので、その穢れで祟りを受けているのではあるまいか。そんな気がしてならない」
 音七もうなずいて、
「今日で丸二年、こうして海を流れている。いかに海が広いとはいっても、七百日の間、帆影一つ島影一つ見ずにしまうなどということがあるものだろうか。どう考えても、なにかの祟りだとしか思えないではないか。仲間に義理立てをするのもいいが、穢れを背負いこんで、着ける浜にも得着けぬというのでは情けない。死んだものたちも、ここまでの世話をしてもらったうえのことだから、海へ流されたからとて、怨むこともあるまいと思うが」
 この半年の間、重吉は雑倉のつづきの座敷で寝起きし、朝夕、腐肉の臭いをかいでいたが、あわれとこそ思え、ただの一度も、穢らわしいなどと考えたことがなかった。もし祟りを受けているなら、天水や魚の糧の恵みにあうこともなく、とうのむかしに船を沈められ、海の藻屑になっているはずだと思ったが、こんなことで争ってもしようがないから、二人のいうようにすることにきめ、雑倉の板扉の前へ行って、
「さて、おぬしたちはみな成仏したことだから、わしの言うことを、ほとけの心でおだやかに聞いてくれるだろう。おぬしたちの亡骸のことだが、こうしていてもいつ陸地くがちへ着くという当てもない。板子といっしょに朽ちさせるより、いっそ清く海へ流してしまおうと思う。だが、いますぐというわけではない。一と月のあいだ待っているから、どうでも陸の土に葬ってもらいたいなら、夢にでも出て告げてもらいたい」
 と生きた人間にいうようにいいきかせた。
 十二月の二十三日まで待っていたが、それらしい夢も見ない。それで翌日、夕方になるのを待って三人で死体の始末にかかった。
 雑倉の板扉をおしあけると、久しく閉めきったままになっていたので、えもいえぬ臭気がたちこめ、ほとんど目もあけられない。かすかに夕陽の光のさしこむ仄暗いあたりに、おぼろげに人のかたちをしたものが、渚に流れ着いた流れ木といったぐあいに落々らくらくと横たわっている。見る眼にもおどろしい眺めであった。身についた肉はみな溶け流れて骨ばかりになり、その骨も腐れきって泥と化し、触れるそばからハラハラと砕けてしまう。抱くことも抱えることも出来ないので、頭骨も手骨も諸共にかますにさらえこみ、土を運ぶようにして海へ流した。
 そこまでのことは誰一人考えなかったが、何十匹とも知れぬ鱶が人骨の香を慕って集まって来、船についていた魚の群を追い散らしてしまい、それからはただの一匹も魚が釣れなくなった。三人で甲板へ出て、来る日も来る日も魚の便たよりを待ったが、そうなっては雑魚もかからない。豆の粉を水で溶いて日々の糧にするむかしの境界にたちかえったことで、二人は気落きおちして病人のようになり、またぞろ寝框へ入ったきり動かなくなってしまった。
 その年も暮れ、二度目の元日の朝になった。去年の元旦には、形ばかりの〆飾をこしらえたりしたが、もうそんな気もない。二人は艫ノ間、重吉は表ノ間に分れ分れになって暮し、めったに顔のあうこともない。元日くらいはと、艫ノ間へ年賀を言いに行ったが、二人は手枕で寝たまま返事もしない。
 重吉は甲板へ上がって朝のつとめをし、いつものように舳の垣根に肱をつき、鬱々と東のほうを眺めていると、はるか水天一髪の間に、島山とも見えるほのかなたたずまいに眼を射られた。山かと思えば山のようでもあり、雲かと思えば雲のようでもある。その日一日、眺め暮らし、見たとおりの山の形を板切れに消炭でなぞっておき、翌朝、明けきらぬうちに甲板へ出て眺めかえすと、昨日見た形とちがわない。まごうかたなく陸地のすがたなので、さっそく二人をよろこばしてやろうと思ったが、いまところ、島岸しまぎしのなりを遠望したというだけで、帆も舵もないこの船が、しあわせよく漂い着けるかどうか、それさえさだかでない。わけても音七は逆上する気味があるので、くうなのぞみに焦立って、気でもちがわれては事である。たしかな宛ができるまではと、その日はわざと知らせずにおいた。
 風は南からも西からも吹き、汐路の便宜もないことで、島々のありかをまなかいに見ながら、着かず離れずといったぐあいにおなじところを漂っていたが、それでも毎日すこしずつそちらへ流れ寄って行き、一月の二十八日には陸岸の模様の見えるところまで近づいた。一体が岩島だが、草の生えた丘もあれば谷間もあり、いかさま人の住んでいそうなようすなので、狂気のように麾をあげたが、風が変って船が南へ流れ、見る見るうちに岸から離れてしまった。島山の影は一波ごとに後へ退って行き、二月七日の正午頃には点ほどになって見えていたが、間もなく雲にまぎれてそれさえわからなくなってしまった。後で聞くと、それは南部カリフォルニア州の沖にある無人島だということであった。さすがの重吉も落胆し、もう海など眺めるのはやめようと一旦は決心したが、これで陸地のある方角がわかったわけだから、油断なく見張っていれば、そのあたりを通る船に行逢うかもしれないと思いなおし、舳の三角になったところに日除のとまを掛け、日の出から日没まで、東北のほうばかりを眺め暮していた。

 二月十四日のことであった。
 いつものように早く起きて苫の下へ入っていると、夜のひきあけ頃、二本帆柱におどろくような帆数を掛けた大船が一隻、三里ばかりの沖合を東北のほうへゆるやかに航行して行くのが見えた。
 重吉は舳の麾をひき抜いて、うつつなく左右に大きく振りながら、
「その船、待て、助けてくれ」
 と夢中になって叫んでいると、むこうの船の姿がかわって、舳がすこしずつこちらへ向いてくるように見えた。重吉は頼むはこの時と、舳の房飾の上にあがって、「おうい、おうい」と呼びかけた。
 沖の大船は上手に間切りながら、督乗丸のまわりを三度ばかり廻り、五町ほどの沖で帆をおろして船をとめた。
 見ていると、キビキビしたようすで端舟をくりだし、遠目にも逞しく見える筒袖姿の異人が六人ばかり乗組み、櫂の調子を揃えてこちらへ漕ぎ寄ってきた。重吉は、助かった助かったと、小躍りをしながら艫ノ間へ駆けこみ、
「音七ぬし、おうい半兵衛ぬし、助け船が来た。寝てはいられまい、早く起きて仕度をしないか」
 と、うろたえまわると、二人は寝框の端まで這いだして、
「助け船だと。重吉ぬし、それは本当か、夢ではないのか」
 とおろおろ声で問い返した。
「夢どころであるかい。迎いの端舟がついそこまで来ている。黄粉でも食って、腹ごしらえをしておけ」
 と言い捨て、表ノ間へ走っていって晴着の袖の着物に着換えた。御判物と御船手形を首にかけて甲板へ上がり、梯子をおろして待っていると、そこへ端舟が着いて、上背のある赤毛の異国人が身軽なようすで上がってきた。
 異人にめんと向うのはこれがはじめてだったが、勇気を出して傍へ行き、
「わたくしは尾張知多郡の生まれにて、重吉と申す船頭でございますが、時化に逢って難船いたし、長の年月、こうして漂い流れて居りました。船はこの体裁になり、食うものもなく、まことに難儀をして居りまする。お慈悲をもって、なにとぞお助けくだされとうございます」
 と念を入れて挨拶したが、いっこうに通じない。詮方せんかたなく、もと十四人の人間が乗っていたが、つぎつぎに死んだので海に捨て、いまこの船に三人だけが生残っていると、手真似で仕方話しかたばなしをしてみせると、異人は毛深い大きな手で重吉の手を握り、なんの心かポンと肩をつよく叩いた。
 間もなく音七と半兵衛が甲板に上がってきた。思いもよらぬ異国船の形相を見るなり、二人は震えあがって逃げだしそうにしたが、重吉は宥めて端舟に移らせておき、船の中をひと巡りして名残を惜しんでから、手廻りのものを持って船を離れた。
 一町ほど行ってから振返ると、この二年の間、命を託してきたその船があわれなようすで波の上に浮んでいる。いつかは乗捨てにするほかはないのだけれども、親兄弟にでも別れるようで情けなくてならない。振返って泣き、涙を拭いては振返っているうちに、端舟はいつか大船の下に着いていた。
 梯子を伝って広々とした甲板へ上がると、案内の異人は音七と半兵衛を舳のほうへやり、重吉一人だけを艫の大きな部屋へ連れて行った。
 部屋の真中に大きな卓があって、そのむこうに羅紗の服をいかめしく着こなした船頭とも見えるひとが掛けている。さっきの異人に負けず劣らずの大兵で、肩などはいわおのように盛りあがり、首筋はあくまでも赤く、まるで蘇芳すおうを塗ったようであった。モジャモジャした毛虫眉の下にいかつい眼があって、とんと睨みつけているよう。身体のこなしはいったいに武張っていて、こちらにたいする構えはひどく威丈高に感じられた。このひとはベケットという船頭で、さきほどのひとはエベットという書役であった。
 いっこうに勝手がわからないので、重吉は両手を膝へさげてかしこまっていると、船長は存外な優しさで床几に掛けさせたうえ、卓の上に大袈裟な地図をひろげてなにか問いだした。気を落着けて聞いてみると、そこ此処と指で地図を指しながら、「ミヤコ」とか「キュウシュウ」とか、「エド」とか、あるいは「スルガ」とか言っている。お前はどこの国のものかとたずねているのだと思ったので、尾張の国を示して「ナゴヤ」とこたえ、遠州の海岸のあたりを指でおさえて、口で風の吹く音をたて、ここから南へ流されたという仕方をしてみせると、わかったというしるしに、よしよし、とうなずいてみせた。
 こちらの言うことは通じたようだが、そんならこの異国人はどこの国のひとか聞いておきたい。重吉は自分の胸を指して「ナゴヤ」といい、すぐ指で三人の胸を指して首をかしげてみせると、すぐ理解して「ロンドン」と答えた。
 いくど聞きなおしてもロンドンとしか聞えないが、オランダといっているのが自分の耳にそう伝わるのにちがいない。この船は東北のほうへ走っていたが、たぶん長崎へ行く途中なので、日本船と見て船を停めたのは、救いあげて長崎まで送り帰そうためなのだろうと思うと、それでいくらか気持が落着いた。
 なにやかや話があってから、エベットは重吉を舳のほうの小さな部屋へ連れて行き、ここがお前の居るところだと手真似してみせた。なるほど身の廻りのものが置いてある。さっきの二人はどこにいるのかとたずねると、部屋の隅の切穴のようなところを指して、この下にいるという。
 のぞいて見ると、その下がまた部屋で、二段になった寝棚のようなものがあり、音七と半兵衛が落着かぬような顔で坐っていた。どういうわけで離れ離れにしてしまうのかといぶかったが、異国の船でも、船頭と水夫の扱いは別になっているのだろうと思い、おしてたずねるようなことはしないでおいた。
 重吉はエベットが出て行くのを待ちかねて、切穴の口からのぞきおろし、
「音七ぬし、半兵衛ぬし、この船は長崎へ行く。国へ帰る日も近づいた」
 というと、二人は浮かぬ顔で、
「そうだったらうれしいが、あまりうますぎて、真正しょうのこととは思えない」とつぶやいた。
 朝から気を揉んだせいか、咽喉が渇いてたまらない。水でも飲みたいと思っていると、昼刻になって、黒々として眼鼻もわからないような黒坊の子供が、小麦を蒸した切餅を一切れに鯨の脂身のようなものを添え、砂糖を入れた茶を持って来た。見る間にそれを飲み食いし、菓子はもう結構だから、早く粥でも出してくれと催促して[#「催促して」は底本では「催足して」]みたが、皿茶碗をとり集めただけで行ってしまい、いつまで待っても音沙汰がない。船頭がこういう扱いでは、下の二人はどうだろうと案じていると、半兵衛と音七が切穴から上ってきて、そなたはお船頭だから十分に食べたのだろうが、われわれは腹が減って、いまにも死ぬばかりだ。たとえ飢えて死ぬにしても、この世の思い出に思うさま腹をふくらしてから死にたい。飯焚場かしぎへ行って、おひつの洗い流しでも貰ってきてくだされとねだりかけた。
 昼はあたらなかったのかというと、そうではないので、
「食べるには食べたが、切餅一つに、茶が一杯。鼠の糞ほどで、どこへ入ったのやらわからない」と不服らしくいう。
 そんならわしの食べたものとおなじだから、饑じくとも耐えるほかはないと、宥めると、とても耐えられぬ。なんぞ、盗んでなりと食べさせてくだされと、二人してうるさくせがみだした。かわいそうな、盗めるものなら盗んでも食わしてやりたいが、船の中の勝手もわからぬことで、どうすることもできなかった。
 翌日、昼頃になって、エベットが重吉を迎いに来た。後について行くと、大きな部屋の真中に細長い飯台を据え、ギヤマンのコップやら匙やら賑かなほどに並べたて、小麦粉の切餅を大皿に山盛りに積みあげてある。
 そこへ坐れというので、五人ばかりの間に入って掛けると、船頭がとうもろこしの煮抜きのようなものを皿にとりわけてくれた。これはありがたしと、匙をとって端から大急ぎでさらえこむ。見ていると、めいめい自在に皿から切餅をとって食べているが、こちらにはとりもちしてくれない。どうかと思ったが、手を伸して一切れとって食った。一座の人々は話をしながらもの静かに食べているが、重吉は飢えきっているのですぐおしまいになる。つぎに豌豆えんどうに青味を入れて水煮にしたものが出た。みな塩を入れて食うようすなので、自分も塩を入れ、これもたちまち食いおわる。誰も切餅へ手を出さぬのに、自分だけが取るのは心苦しいが、思いきって二切れとり、そのあとでまた一切れ取った。
 まだなにかくれるのかと待っていると、精白した米の飯を皿に山盛りにして持ちだしてきた。久し振りの米の飯を、こうも山ほど食えるかと涙のでるほどよろこんでいると、船頭がそれに太白たいはくの砂糖を振りかけ、人数だけに盛り分けてしまったのには力を落した。つぎに豚の頭をいぶし焼きにしたのが耳鼻をつけた姿であらわれた。船頭が庖丁で薄身うすみいでみなに渡す。昨日、鯨の脂身だと思ったのはこれだったのかと、気色が悪くなって寒気が出た。部屋へ帰ってから下の二人に、昼はどうだったとたずねると、今日はお十五日だったせいか、たくさんにくれた。わけても鯨の脂身はうまかったといった。
 船は六日ばかり東北のほうへ走り、その日の昼近く、うしろにゆるやかな山を背負ったものしずかな港へ入った。
 いよいよ長崎の港に着いたかと、重吉は舷に凭れて酔ったように港の岸を眺めていると、エベットがきて、陸へ上がる仕度をせよという。おおかた奉行所へ連れて行かれるのであろうと思い、急いで部屋へ帰って御船印と御判物を首にかけ、下の二人に訳をいって、匆々、端舟に乗り移った。
 岸に耳の長い見馴れぬ小馬が端舟の人数ほど出ている。奉行所は馬で行くほど遠いところにあるのかといぶかりながら、言われたようにエベットの尻馬に乗り、行列はそうして町のあるほうへ歩きだした。
 道々、広い砂地のようなところを通る。長い棘の生えた異様な植物がそこ此処にむれ立っている。エベットにきくと、シャボテンという草だとおしえてくれた。そこを行くと、青々とした麦畑にいきあった。まだ二月だというのに、長崎は早く穂の出るところだと思っていると、行く手に白壁づくりの大きな家が見えだした。あれがかねて話に聞いていた和蘭陀屋敷なのだろうが、早速のお取調べがあるようでは、重いことにちがいない。うっかりしたことは言えぬと、心をひき締めながらついて行く。
 門の内は広々とした石畳みの庭で、そのまわりに縁日の屋台店のような体裁で、八百物や牛豚の切身を並べた店があるばかり。役所らしいかまえは見当らない。男はどれも煤黒い顔をして鍔の広い帽子をかぶり、女は裾の開いた袴のようなものを穿き、耳に小さな金輪をつけている。いくら和蘭陀屋敷の地内でも、日本の土地のうちだから、一人や二人は日本人がいてもよさそうに思うが、どこを見てもそれらしいものも居ない。ふしぎでならないが、馬鹿かと思われそうで、ここが長崎かとも聞けない。そのうちに片側の日除の下で宴会がはじまり、手踊のようなものがあって、それが終ると、また馬で帰ることになった。
 船では二人が待ちかねていて、切穴から顔をだし、御奉行所の首尾はどうだったとたずねる。馬で行って、手踊を見てきたともいえず、
「今日は和蘭陀屋敷の恰好を見てきたばかりで、なんのこともなかった。役所のほうのことはエベットが引受けてやってくれたかもしれぬ。いずれ明日またお呼びだしがあるのだろう」
 と長崎の町の景色を話してきかせると、半兵衛は、
「おぬしはいい見物をなされた。一と目でいいから、おれも麦の穂を見たかった」と嫌味めかしたことをいった。
 翌朝、早く起き、お呼びだしのあるのを待っていたが、端舟が舟と岸の間をいそがしそうに往来し、薪炭、生牛などを積み取る騒ぎが見えるばかりで、迎いらしいものも来ない。せわしさにまぎれて忘れているのではなかろうかと、エベットのいる部屋へ行って、
「長崎の御役所のお呼びだしはまだでございますか。わたくしのほうは、先程から仕度が出来ております」
 と催促すると、エベットは片言の日本語で、
「ナガサキのオヤクショ」
 と鸚鵡がえしに聞きかえし、眉根に皺をよせて考えているふうだったが、やがて、
「ナガサキは五千里、波の上」
 と、あわれむように重吉の顔を見ながら、いま居るところは、北アメリカと南アメリカの間にあるノヴァ・イスパニヤ(メキシコ)という国の港で、長崎から五千里ほど東になっているといい、ここがナガサキ、ここがここの港と壁に貼ってある地図を指で押してみせた。
 この国は、大海原を間において、日本と足合あしあわせになっていることがこれでわかったが、地図に書かれた海原の広さは只事ではなく、よくもよくも、こんなところまで流れ着いたものだと呆れるばかりで、ものを言う元気もなくなった。
 聞けば、これはイギリスのロンドンから来た船で、ここで薪水を積み込み、七十日ばかり北へ航海し、ロシアのシトカというところへ交易に行く。帰りはたぶん来年の夏頃になるだろうという。三人を長崎へ届けてくれるものとばかり思っていたが、こういう成行では、いつ日本へ帰れるかそれさえ覚束ない。こちらの独り合点で、誰を怨もう筋もないが、こんな東の果てに流れついたところで、さらに七十日も北へ連れて行かれる。こういう運の詰りかたでは、とても日本の土を踏むことはできまいと、悲しくなって、それからは寝てばかりいた。
 ほどなく船は港を出て、北西に向って走りだしたが、十一日目の夜半頃、にわかに波風がたって未曽有の大時化になった。ベケットは船の高いところに上り、おどろくような大声をあげて矢継早に指図をしていたが、波風の力には及ばず、明け方、大舵を折って流れ舟になってしまった。
 重吉は、助けたまえ神々と心の中で念じながら、舳へ行き、艫へ行き、ひとりでうろたえまわっていたが、いよいよ流れ船になって、大波のまにまにあてどもなく漂いだしたのを見届けると、
「ああ、なんということだ」
 と叫びながら自分の部屋へ走りこみ、頭を抱えて寝棚に倒れた。
 船頭の長右衛門が病いついたおかげで、思いもかけぬ仮船頭をうけたまわることになったが、わずか五日ほどで舵を折ってしまった。それから七百余日、話にも聞いたことのないような難船をつづけ、それで死にでもするどころか、最後まで生残り、辛苦のありたけを※(「舌+低のつくり」、第3水準1-90-58)めつくした末、頼母しいかぎりの大船に救われ、やれやれと思う間もなく、頼みに思うその大船がまたぞろ舵を折って流れだすという。前世でどんな悪業を積み、こうまでの咎を受けるのかと、やるせない思いに沈んでいると、半兵衛と音七が這いあがってきて、上のほうでえらい騒ぎをしているが、なにか変ったことでも起きたのではないかとたずねた。
 この二人は、揃いも揃って、もっての外の臆病もので、そのうえ年月の難儀が骨身に沁みているところだから、舵を折ったなどというと、どんな騒ぎを起すか知れぬと思い、
「これほどの大時化になれば、舟子は寝転がってもいられまい。大騒ぎはあたりまえのことだ」
 と笑い流しにかかったが、寝た間も、命ばかり案じている二人のことだから、そんなことで欺されはしない。
「いやいや、そんな軽いことではあるまい。見れば、涙をだしていられるが、胆のすわったお船頭が泣くというのはよくよくのこと。わたしらにも覚悟があるから、隠さずに本当のことを言ってもらいたい」
「隠しだてするところがあやしい。さあ、なにがあったのか言ってくれ。言わさずにはおかぬ」
 と双方から問い詰める。
 これほどの椿事になれば、いずれは自然に知れる。いつまでも隠しとおすことはできまいと思いかえし、ありようを話すと半兵衛は、
「波乗りのぐあいといい、偏揺かたゆれのぐあいといい、大方、それと察していたが、するとこの船も舵を折ってしまったのか。情けない、情けない」
 と手放しで泣きだした。音七は調子をはずした薄笑いをしながら、
「重吉ぬしのような厄病神が乗り移ってきたからには、どうせ、こんなことになるのだろう。それにしてもおぬしは、何艘船を沈めれば気がすむのか。殊更、この船にケチをつけ、大恩ある衆を海に沈めようというのは、あまりといえば横着すぎる」
 と、つかぬことをいいだした。重吉は相手にならずにいると、音七は眼を吊りあげて、
「わからなければ、いって聞かせてやる。尾張の半可はんかどものことは知らないが、伊豆の舟子の掟では、舟を沈めたおぼえのある船頭は、身を慎んで二度と船に上らぬことになっている。いちど悪因縁を背負いこむと、かならず後をひくものだから、二度と他人に迷惑をかけまいためだ。おぬしが本当の船頭なら、他人の迷惑を思い、あの時、われら二人だけをこの船に移し、自分は督乗丸に残らねばならぬところだ。それが船頭の義理というものだ」
 半兵衛はうなずいて、
「音七ぬしの言うことも理窟がある。かねておれもそれを気にしていた。そなたはお船頭の扱いで、栄耀をしているから気がつかなかったろうが、この船の水夫どもは、わしらが乗ったのを縁起悪がり、ちょっと甲板に出れば、後から蹴る、棒切を投げつける、突っころばすやら水をかけるやら、この間などは、控綱に触ったというばかりに、猫吊しにして海へ投げそうにした。そういうわけだから、難船ともなれば、このままにはしておくまい。こうして一度は助けられたが、今夜あたりがこの世の終り。こんな東のはずれの、異国の海へ投げ込まれるくらいなら、伊豆の衆といっしょに死んでいればよかった」
 音七は焦立って、
「半兵衛ぬし、その愁嘆面はいらぬことだ。いったいこの難船は、お船頭の横着から起ったことゆえ、重吉ぬしが死ねばとて、わしらが死なねばならぬわけはない。なんと、そうではないか」
 というなり、重吉のほうへ向きなおって胡坐をかいた。
「さてお船頭、さっき事をわけて話をしたが、今こそ、船頭の義理をしてもらわねばならぬ。わしら二人の命はともかくとして、大恩あるこの船の衆を、海の藻屑にしていいものだろうか。おぬしだからとて、そうまで没義道もぎどなことは得しまい」
「話はきいた。すると、それはわしに死ねということなのか」
「死ねとは言わぬ。なんなりとして、この船から離れてもらえばいいのだ」
 半兵衛は上眼で重吉の顔を見あげながら、
「重吉ぬし、そなたがこの船から離れてくれれば、わしら二人が海へ投げ込まれずにすむ。聞きにくいところだろうが、あわれと思って聞いて下され、このとおり拝みます」
 といって手を合せた。
 気先きさきうとくて察しられなかった。ベケットもエベットも顔にこそは出さないが、そういうことならどんなにか迷惑したこったろう。今日の難船に出逢い、ああいう者どもを救わなかったらと、後悔の臍を噛んでいるのにちがいない。おのれの悪因縁でこの船までが沈むとも思わないが、命を救われた恩義にたいしてもこのままではすまされないと、二人に御判物と御船印を渡して国へ帰った後のことを頼み、そうしておいてベケットのいる高いところへ上って行った。
 闇夜の暗い海に、眼を射るような稲妻がきらめき、山のような大波が狭戸せと渦海うずうみのように荒れ狂っているのが、はるばると見えた。
 重吉はベケットに、
「今日の難船は、わたくしから起ったことゆえ、せめての念ばらしに、わたくしを海へ投げてくだされ」
 と手真似で心を通わせると、ベケットはエベットと顔を見あわせながらなにか言っていたが、腹をゆすって、はっはっと笑いだした。
 難破した人間を救ったために、舵が折れるなどということはこの世にありえない。そんなことは信じられない。また信じたくもない。よけいな心配をしないで、安気あんきに部屋で寝転がっているがよかろうというようなことをいい、有合うギヤマンの盃に酒を注ぎ、
「これを飲め」
 という仕方で重吉の口もとにさしつけた。
 それはオーカというめっぽうに気の強い酒で、一杯飲むとたちまちのうちに酔い、二杯飲むと気が軽くなった。見ると、ベケットはエベットを相手にしてさかんに盃のやりとりをし、その暇に鼻唄をうたっている。こういう大時化の海に漂いながら、鼻唄が出るというのは、異国船の船頭はなるほど大気たいきなものだと感心した。
 夜が明けると、いくらか風もやみ、船大工が大勢出てなんのこともなく舵をなおし、船は満帆に大風を孕ませながらまたもや北に向って走りだした。

 砂地の渚ばかり長々とつづく人気ひとけのない浜で二度ほど船を停め、六十日あまりのあいだ東北に船を走らせた後、後に高い雪の山をひきめぐらした大きな港に入った。
 このあたりはよほどの北国とみえ、陸地はどこを見ても雪ばかり。それでも足らずに、五月の末だというのに雪が降っている。昼刻にいながら太陽のすがたは見えず、黄昏のようなおぼろな色が漂い、見るからに異様な風景であった。
 六十日といえば、ノヴァ・イスパニヤの港から六千里も北へ上ったわけだが、こんな賑やかなところがあろうとは思わなかった。港には二千石積、三本帆柱の大船が五艘ももやいあい、向うの岸には足場を高く組んでさかんに船作りをし、山の中腹には天主閣のついた城のようなものがあって矢狭間にはずらりと大砲の口が並んでいる。エベットの話では、ここは北の極七十度のところに跨がる、ロシア領アラスカのシトカという港だということであった。
 船が港へ入ると間もなく、あちらの船こちらの船の船長が挨拶に来て酒を飲み、ベケットとエベットが折返して答礼に行くという忙しい一日を送った。
 翌朝、バラノフという奉行から、至急役所まで罷出ろと重吉に差紙が届いた。船のおもだった者が十人ばかり着船の挨拶に出かけるということで、それといっしょに行くことにしたが、差紙のおもてには、羽織袴で来いと書いてあるというので、大急ぎで月代をし、草履がないので、ありあう苧をほどいて草履をつくり、迎いの端舟に乗って陸にあがった。
 桟橋の袂の船屋敷で待っていると、黒毛の筒帽に革の背負い嚢を肩に掛け、鉄砲を担いだ雲をつくような大男が二人やって来て、重吉の左右に附添って雪の坂道をのぼりだした。これはコザクといって、鉄砲方の足軽というような身分のものだということであった。
 うねうねの雪の坂道をしばらく行くと、大きな石の門がある。道の両側にコザクが十二人ずつ道路を挾んで向きあって立っている。そのうちの十人は鉄砲を担ぎ、二人は抜き身の剣を逆手に持っていた。重吉がその間を通りかけると、コザクが声を合せて、
「ヨイヨイ、ヨーイ」
 と囃した。
 そこからまたすこし上ると、二つ目の門がある。ここでも囃された。あとで聞くと、身分のある人を迎えるときにかぎってするということであった。
 邸の門の内は石畳の広い中庭になり、三段ばかり石段をあがって役所の中に入った。コザクの見送りはそこでひきとり、奥から三十二、三の大小姓おおこしょうとも思われるようなひとが迎えに出て、こちらへというこなしで奥まった広い座敷へ連れて行った。
 しばらくすると、横手の大扉が開き、見る眼にも眩しい金銀飾りのついた服を着たひとが、書役のような男を連れて入って来て、にこやかに笑いながら日本語で、
「七百日の難船は、たいへんなこと」
 と挨拶した。
 七十を一つ二つ越えたかと思われる年恰好で、頭は禿げあがって毛が一本もなく、大寺おおでらの和尚といった見かけであった。しかし年ほどの老けは見えず、頬などもいたって血色がよく、声はやわらかく滑らかで、鶯が鳴いているのを聞くような心持がした。これが奉行のバラノフというひとであった。
 難船の顛末を語れということで、これもお取調べのうちだと思い、あとの難儀にならぬように言葉を慎しみながら話した。奉行は逐一聞いていて、わからない言葉に出逢うと、日本とロシアの言葉を並べた言葉の節用せつようといった本をだし、指で字を押しながら、
「お前の言おうとする言葉は、この字か、それとも、この字か」と聞きかえした。
 取調べが終ると、次の間で酒と料理が出た。ベケットをはじめ船の者どもが、むこうの大座敷で酒をいただいているのが見えた。四ツ過ぎになってやっと膳を引き、それからまた一段と奥まった部屋へ連れて行った。
 座敷の床几に、十六、七から二十一、二ぐらいまでの眼のさめるような美しい娘が六人、とりどりの服を着けて掛けていたが、奉行がなにかいうと、その中の一人がまず立って来て、重吉の顔を両手で挾み、口を※(「舌+低のつくり」、第3水準1-90-58)めてむこうへ行った。これはとおどろく間もなく、また次のが来ておなじようにして口を※(「舌+低のつくり」、第3水準1-90-58)めた。六人ともみな口を※(「舌+低のつくり」、第3水準1-90-58)め、もとの床几へおさまったところで奉行が、
「さて、お前はあの中でどれがいちばん美しいと思うか」とたずねた。
 重吉は三人目に来た十六、七の娘の美しさが眼についてはなれず、胸がときめいてしようがなかったが、そうも言えず、美しい人ばかりで見分けがつかぬとこたえると、奉行は笑って、
「隠してもだめなこと。そなたの眼が遊びに行くのは、あそこのあの床几に掛けている女」
 といい、あの娘を女房にもって、シトカで暮す気はないかとすすめだした。
 ベケットは世にも親切な異人だが、一度も日本のことを口に出さないのは、所詮、日本へ送り届けてくれる気がないからである。交易をすませると、イギリスへ帰るというが、日本とは交通のない国柄だから、日本人などはいずれどこかの島へ追い降ろしてしまうつもりなのにちがいない。せっかく奉行が親切にいってくれるのだから、あの娘とここで世帯を持って交易の仕方でも習い、自分の船を持つところまで成上がったところで、晴れて国へ帰るのも悪くない、など迷いを起しかけたが、それでは音七と半兵衛を見捨てることになる。そういう不人情なこともしかねるので、せっかくのご親切だが、この土地にはとどまりかねると辞退した。
 翌日、書役のエベットにこの話をすると、それは昨日奉行から聞いた。あの六人の女はみなバラノフの娘だが、バラノフはカムサッカで高田屋嘉兵衛という男に逢って人物に惚れこみ、娘の一人に日本人の養子を取りたいと思っている。つまりお前は※(「馬+付」、第4水準2-92-84)つけうまになるわけだったが、断わられてバラノフも落胆したことだろう。お前もあんな美しい娘を女房にもらって、シトカの城持しろもちになるところだったが、断わったとは惜しいことをしたものだなどといった。
 シトカの港に四十日ばかりいて交易をすませ、丈二十尺、幅四尺ばかりの丸木舟を一艘積込み、八月のはじめに船を出した。奉行は娘達を連れて船まで見送りに来て息子にでも別れるような愁嘆をみせた。
 風の都合がよく、船は日に百里ほどずつも走ったが、真南に下るものかと思いのほか、西寄りのほうへばかり行く。ある日、重吉がたずねるとベケットは、
「いかにも、この船は西南西に向って走っている。一日ごとに日本に近くなるのは、お前らにとってもさぞ嬉しいことであろう」
 と、いかつい笑顔でいたわるようにうなずいてみせた。
 これから西へ五千里のところにあるロシア領カムサッカという国は、日本との交通がひらけているから、そこまで送ってやれば本土に帰りつく便宜もあろう。いけなければ船はエベットを仮船頭にして広東カントンへやり、おれはお前らといっしょにカムサッカで越冬し、翌春、奥蝦夷(千島)へ下るロシア船をみつけ、なんとしても帰国の本願を貫かしてやるつもり。シトカで買い入れた丸木舟はつまりはお前らが奥蝦夷の岸まで漕ぎ寄せるためのものであるといい、
「難船の人を救いとった上は、その者らが、本国の土を踏むところまで見届けるのが、われらの義務である」といい添えた。
 いずれは破船して、南海の藻屑と消える命を救われたことさえかたじけないのに、なんのゆかりもない三人の日本人を国へ送るため、雪の深いところで越年するつもりでいる。どういう因縁でこうまで心の深いひとにめぐりあったものかと、呆気にとられるばかりであった。部屋へ帰って二人にこの話をすると、半兵衛は、
「ベケットの親切はありがたいが、奥蝦夷の果てなどへ押しあげられては、凍え死にするか、熊に食われるか、いずれ、とてものことはあるまい。そこまでしてくれる親切があるなら、ついでのことに、長崎まで送ってくれるように頼んでくだされ」といった。
 五十日ばかりも西南に走って、カムサッカのカワンという港に着いたが、一月ほど前に下り船が出、あとは来春でなければ便船がない。ベケットはいっそこの船で奥蝦夷まで送ってやるといい、翌朝、奥蝦夷の近海へ下ったが、季節は早や八月の末で、海いちめんに濃霧がたちこめ、どこが島やら地方やらで船をやることも出来ない。四日ばかりそのあたりをむなしく上り下りしたが、こんなことをしていると、海に氷が張りつめて行くも帰るもならなくなるから、カワンへ戻って、来春の便船を待つ[#「待つ」は底本では「持つ」]ほかはないということになった。それで船はエベットをつけて広東へ発たしてやり、ベケットはカムサッカにとまって、三人といっしょに越年することをきめ、港に向いた川尻の丸太小屋を借りてそこを春までの住居にした。
 九月のはじめ、薩摩の漂流人が三人、カワンに送られて来た。船頭は喜三左衛門というひとで、薩摩の御廻米を積んで江戸に上る途中、大風にあって吹き流され、蝦夷の沖を半年ほど漂流しているうちに乗組の十三人が死に、船頭の弟の角次郎と水夫の左助三人だけが助けられたというような話だった。
 その年も暮れ、翌、文化十三年の五月末にようやく港の氷が解けた。ベケットはロシア船を雇い入れて丸木舟を積み、ベケット、薩摩尾張の六人、水夫八人、奥蝦夷へ行く便船の者など合せて六十一人が乗組み、二十八日にカムサッカのカワンを出帆した。
 六月十七日、越冬中、かねて脚気を患っていた半兵衛が死んだ。陸に埋めてやりたいにも寄せる港がない。船長のスレズニに頼んで死骸の足に石を括りつけ、ロシアの式で水葬してもらった。
 六月二十八日、海上一里ばかりのむこうに地方が見えた。クナシリという島で港もあり、松前へも近いというのでそこへ上ることになった。昼七ツ刻、丸太舟を降し、鍋釜、鉄砲、当座の粮米、豚肉などを積み、重吉、音七、薩摩の衆、合せて五人が乗移った。ベケットは舷に出て手を振って見送っていたが、ロシア船は帆をあげて岸から遠ざかり、潮路の果てに帆影を没し去った。
 五人が力を合せて漕ぎ進んで行くうちに、地方も間近いところで逆風が吹きおこった。櫓も櫂もきかばこそ、二十里ばかり吹き流され、夜の八ツ時、辛うじてウルップという小島の北側の砂浜に漕ぎつけた。ここに二日いて、七月の七日、日本領エトロフ島へ渡った。
 舟を着けたところは、岩山のなぞえにつづく砂地の浜で、小一里ほどむこうに、那智山の滝ほどもあろうかと思われる滝が落ちている。熊の足跡ばかりが見える無人の渚だけれども、ここが日本の領土だと思うと、なつかしさ嬉しさの情が胸元にこみあげ、誰も彼も砂浜に坐りこんだまましばらくは涙にくれていた。
 音七は重吉の手をとって、
「さてお船頭、おれは気が狂って首縊りの輪索をつくり、人にもすすめ、自分もその気になって、いくどか縊れ死のうとした。おぬしがとめてくれなんだら、あのとき死んでいたはずだから、この喜びにあうことはなかったろう。今日から、おぬしを命の恩人だと思います」
 などといっているうちに、急に目付きが変ってきて、
「やい重吉、この三年三月の間、来る日も来る日も、よくもおれを虐げたな。今日こそ怨みをはらしてやる、これでもくらえ」
 と鉄砲をとりあげて重吉を射ちかけた。
 喜三左衛門はとっさに鉄砲をもぎとり、この気狂いめと、さんざん音七を叩きのめした。
 重吉は喜三左衛門の手にすがって、ご承知の通り気の弱い男で、このながの年月、ひとすじにこがれわたっていた日本の土を踏み、嬉しさのあまり逆上したのであろう、勘弁してやってくれと頼んだがきかず、細苧の綱で蓑虫のように縛りあげ、弟の角次郎に繩尻をとらせて番所のあるほうへ追いたてて行った。
 滝の下をまわって、そこからまた小一里ほど行くと、話に聞いた番所の小屋があった。調役下役村上貞助、同心木村十平などという役人が詰合っていて、一通り事情を聞きとると、衣服を着換えさせ、大椀に粥を盛りつけて食わせた。半刻ほど休息させてまたお調べがあり、それがすんだところで夜が明けた。
 湯に入り、月代を剃ったりして心が落着くと、気がゆるんで身体のこたえがなくなり、昼となく夜となく、うつらうつらと眠ってばかりいた。村上貞助は、腑甲斐ないようすに腹をたて、五人のいる控小屋へ入ってきて、
「この有様はいったいなにごとか。ここは日本といっても、はるかの北のはずれの辺土である。せめて松前まで行ったら甲斐もあろうが、こんなところで気をゆるめて死んでしまったら、ロシアの土になったのも同然であろう。心得ちがいなやつらだ」
 と立ち身のままさんざんに叱りつけた。
 みなみな、それで人心地がつき、ここで眠りとおしたら、生きて故郷の山川の姿を見ることができぬと、たがいに励ましあった。
 九月二日、松前へ送られ、函館奉行のお取調べがあった。十一月四日、松前から船に乗せられ、十二月四日、江戸に着いた。蝦夷会所でお調べがあり、翌十四年四月一日、尾州家へ引渡された。五月二日、勘定奉行からお取調べがあり、翌三日、五年ぶりで重吉は故郷に帰った。





底本:「久生十蘭全集 ※(ローマ数字2、1-13-22)」三一書房
   1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行
   1992(平成4)年2月29日第1版第8刷発行
初出:「小説公園」
   1952(昭和27)年1月号
※「波の」と「浪の」、「浪風」と「波風」、「大浪」と「大波」の混在は、底本通りです。
※初出時の表題は「重吉漂流記」です。
※誤植を疑った箇所を、「定本 久生十蘭全集 8」国書刊行会、2010(平成22)年11月24日初版第1刷発行の表記にそって、あらためました。
入力:門田裕志
校正:芝裕久
2021年6月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「舟+夾」、U+26A40    337-上-13、337-上-15、345-下-13


●図書カード