カストリ侯実録

久生十蘭




 全十二巻の厖大な艶笑自叙伝「回想録」M※(アキュートアクセント付きE小文字)moires を書くことに生涯を費した色情的好事家ジォウァンニ・ヤコポ・カサノヴァと霊媒術をもってルイ十六世の宮廷で華々しい成功をし、「マリイ・アントアネットの首飾事件」に連坐してバスチーユに繋がれ、後、ローマで獄死した天才詐欺師バルサモ・ディオ・カリオストロ伯爵とルイ・シャルル・ド・カストリ侯爵の三人をある小史作者は十八世紀末から十九世紀中頃までの三大変種オリジナルといっている。
 三人ながら姓がCではじまっているところに作者の特別な配慮があるわけなのであろうが、カストリ家(Maison de Castries)は南仏エロ県カストリに広大な荘園と城館を持つ中世紀以来の旧家で、城館はいまもそこに残っている。カストリ家の先祖はマルセーユの太守でありながらケイル・エド・デインなどに伍して地中海を荒しまわった海賊で、スタンダールが「赤と黒」でピラール師をして、「君は大貴族の邸に住んでいるくせに、カストリ侯爵がダランベールやルソオについていった言葉を知らないのか。(あいつらはなんにでも理窟をつける。そのくせ千エキュの年収もないんだ)」といわせている。ルイ十五世代の海軍元帥、ルイ十六世の代には海軍相だったこともあるそのカストリ侯爵である。
 その子、ノオンドルフという独逸名もあるルイ・シャルル・ド・カストリ侯爵は全欧州に話題を捲き起した奇異な人物だったが、色情狂や詐欺師の同列に置くような人間でないことは、種々な事情によって今はもう明らかになっている。

 当時の計算好きな男の報告によれば、一七九二年の四月五日にはじめて活動を開始した断頭台が最もよく稼いだ日には、四十五分間に六十二個の首を転がしたということである。フランス革命には、弑逆、屠殺、反噬、裏切、暗殺、欺騙、賄賂、恐喝、その他、人間のあらゆる卑怯な振舞いと残虐行為の最高の模範が示されているが、タンプルの古塔の中で行なわれた幼児虐待はその尤たるものであった。
 ルイ十六世の嗣子、わずか八歳のルイ・シャルルは、母からも姉からも引離され、賤民でさえ恐れ入って近づかない蒼古たる廃塔のてっぺんに幽閉され、残忍酷薄な監視人のいたらざるところなき虐待を受け、一七九四年以後は、陽の目もささぬ暗室へ投げこまれ、虱や南京虫に責められ、全身、垢と吹出物に蔽われて虫のように蠢いていたが、ついに消耗し尽し、九十五年の六月八日、眼もあてられぬ汚穢と屈辱の中で死んだ。
 一七九二年八月十日、巴里市民はルイ十六世に退位を迫ってチュイルリー宮を襲撃したので、王族十一人は王宮をぬけだし、庭づたいに翼屋の国民公会へ落ちのびた。
 ルイ十六世の第三子、ノルマンディ公ルイ・シャルルは一七八五年にヴェルサイユ宮で生れ、兄(ナヴァール公)が死んだので皇太子になり、そのときちょうど八歳だった。ルブラン夫人の絵で見るとおり、母に似たいかにも美しい面差で、ブロンドの髪が波をうって肩のあたりへ落ちかかっているところなどはさながら少年天使セリュバンのようだった。
 太子は襞飾のある薄紗のシャツに空色天鵞絨の服を着、幅の広い朱鷺色の絹の飾帯を結んでその端を腰のところで垂らし、前の海軍相ド・カストリ侯爵に手をひかれ、母のマリイ・アントアネットと並んでなんの苦もない顔で歩いていた。
 巴里の夏は短いが、とりわけその年は秋が早く、八月十日だというのにもう葉が落ち、そんな騒動の中で園丁がひっそりと落葉を掃いていた。ルイ十六世は太子のほうへ振返っていった。
「見てごらん。もうこんなに葉が落ちた」
 ある新聞の論説はフランスの王位は今年の秋まで保たないだろうと予言していた。この日をもって王権は停止され、同十三日、ルイ十六世、マリイ・アントアネット、太子、王女マリイ・テレーズ・シャルロット、王妹マダム・エリザベト、侍従クレリー、それに僕婢五人、以上の十三人が、十二世紀のはじめごろ七百年も前に建てられた聖堂派騎士団タンプリエの修院で、久しく住むものもなかったル・タンプルの古塔へ幽閉された。それは二百尺の塔の頂上、十七米四方もある陰気な広い部屋で、石の壁には苔が蒸し、矢を射だす矢口だった鉄格子の窓から雲や霧が自在にはいりこみ、いかにも天国の近いことを思わせた。
 翌一七九三年の一月廿一日、ルイ十六世は断頭台の餌食になり、王党派の承認によって太子が名ばかりのフランス王、ルイ十七世になった。六月二日、過激ジャコブ党のクウ・デタでジロンド党の代議士十二名が追放され、いわゆる「恐怖政治」がはじまった。十日、ヴァンデー地方の反革命軍は太子をルイ十七世と宣言し、騎士レニエ・ド・ジャルジャエー、ジャン・ド・バッツ男爵、アトキンス夫人などの救出陰謀のほかに、デイヨン将軍の一党が母后の摂政によってルイ十七世を擁立しようとしているという噂で、コルドリエール党(ジャコブ党に属する労働者の極端過激派)のピエール・ショオメットが太子を母后から分離して専任の監視人を置くことを提議し、党員の靴工アントアンヌ・シモンを推薦した。
 シモンは靴の底革を貼り合わせる締金付のマショアールという二枚板で先妻の子の頭をジワジワと締めつけ、のし餅のように平らにへし潰して殺したという評判があり、残忍のゆえに人に恐れられている男で、陰鬱な眼付をした、猫背の、顔色の悪い、いつも口元に冷笑を漂わせた、見るからにげたような不快な人相をしていた。
 七月三日、シモンは細君のマリイ・ジャンヌと一緒にル・タンプルの東塔の最上階へ移り、母后から太子をひき離しておのれの新居へ連れてくると、天鵞絨の服を剥ぎ、薄紗のシャツを剥ぎ、靴をぬがせて素足にさせ、泥の中をひきずりまわしたようなひどい襤褸ぼろを着せ、三角のフリージャン(革命の赤帽)をかぶせ、「さてお前は今日からおれ達を父上さま母上さまと呼ぶようにしろ。気をつけて口をきけよ。おれはお前の頭を壁にぶっつけて殺すことも出来るってことを忘れるな」と訓戒した。
 満八歳になったばかりの太子は、なにひとつ心を慰めるものとてない古塔の廃室で、靴直しの夫婦の抜目のない監視の眼に見張られ、寝るにも起きるにもいちいち口汚く罵られながら、いつかまた母や姉に逢う日のあることを信じ、逆いもせずに耐えていた。この塔は母のいる南塔と向き合っていて、遠い窓の中に、時には母の姿が見えるのがせめてもの心やりであったが、間もなくシモンに気づかれてその窓は塞がれてしまった。
 シモンは朝から酒びたりになっていた。無聊に若しむと[#「若しむと」はママ]、ルイ十六世が断頭台に上るところから首を斬り落されるまでの光景を、手真似足真似で演じて見せ、太子に下等なラムを飲ませて卑穢な流行歌をうたわせようとし、onanie を強い、「私はお母さんと通じましたと言え」と迫った。いうとおりにしないと木底の雨靴で撲りつけて意に従わせようとしたが、太子は毅然として最後まで屈しなかった。
 シモンはロベスピェールの熱狂的な信者で、マインツの陥落やツーロン占領の報知があった日には、太子の髪を掴んで力まかせに壁へ投げつけ、母后が斬首された日には、その血をハンカチに浸してきて太子に見せ、「お前のおッ母は、貧乏人から物ばかりくすねていたやつだったが、血だけは惜し気もなくフンダンにふり撒きやがった」といった。
 また十二月のある日、夜半、太子がこっそり起きだし、床に跪いて祈っていると、シモンがその声を聞きつけて眼をさまし、「その祈祷をやめさせてくれよう」と息も凍るような寒夜、頭から五ビドン(二斗あまり)の水を浴びせ、「さぞ寝心地がよかろうよ」と太子の尻を蹴り蹴り、薄氷の張りかけた水だらけの寝台へ追いあげた。太子はだまって涙を流すばかりであった。自分の泣き声がどこかの塔にいる姉のマリイ・テレーズが聞きつけ、もしや悲しませるかと、それを恐れたのである。(A・ボオシュネエ「ルイ十七世、生・苦悩・死」)
 翌九十四年の一月、太子は影のように衰え、どう叩かれようが蹴られようが、動くことも声をあげることも出来なくなってしまった。ちょうどその頃、シモンの妻がタンプルの湿気に冒されてリュマチスムをひきおこし、居住に耐えなくなったので解職願いを出し、一月十九日、「暗牢カショオ」というむかし騎士団が監室に使っていた太い鉄格子の扉のある陽の目もささぬ暗黒の部屋へ、寝台もなしに太子を投げこんでタンプル付の下僚三名に引継がせ、形式通り受領書を書かせて引上げて行った。
 太子はこの日から三人の雑役に生命を托すことになったが、悪意もなければ責任も感じない怠惰なやつらで、一日一回、鉄格子の間から麺麭と水を差し入れ、時たま思いついたように格子を叩いて太子の実在をたしかめるくらいが精々だったので、その後六カ月の間、衣服を変えることもなく、洗面もせず、大小便もそのまま、何百年とも知れぬ堆高いクラシックな塵埃の上にじかに寝、一筋、陽の光の差しこまぬ暗黒世界の中で、虫のようになって生きていた。
 七月二十七日、ロベスピェールが倒れてここに恐怖政治が終った。その日、議員ポオル・ド・バラッス子爵が太子を見にタンプルへ出かけて行った。鉄格子を開けさせて「暗牢カショオ」の中へ入ると、一種言うにいえぬ悪臭がたちこめ、鼠の巣のように襤褸屑を寄せ集めた異様な堆積の中に、なにものか蠢いているのがおぼろげに見えた。
 提燈ランテルヌを持って来させて眺めてみると、それはまごう方なく、フランス王ルイ十七世の無残にも衰頽した姿であった。眼ばかりあやし気に光る小動物そのままの行態で、容貌はさながら死人のよう。手足は※(「毬」の「求」に代えて「鞠のつくり」、第4水準2-78-13)のように膨れ、背中は曲り、頭はぞっとするような吹出物と瘡蓋クルートに蔽われ、指の股には壁蝨だにが食いこみ、腹のあたりにわずかに纒いついている衣服の名残には、虱と南京虫が布目も見えぬほどに這いまわっていた。
 こういう惨憺たる境界で、半年以上も生きながらえていたというのは奇蹟であった。バラッス子爵が、「こんなところでよく生きていなさいました」と慰めると、太子は虫の鳴くような声で、「Je veux mourir(死にたい)」とつぶやいた。
 翌廿八日、ロベスピェール外九十三人、靴工アントアンヌ・シモンも含め、断頭台へおのれらの血を報償した。
 バラッス子爵はルイ・カペエ(ルイ十六世の卑称)の息子に身体を洗わせ、医師の診察を受けしめ、猶、居住を移し、衣服と寝台を与える請願を国会へ提出した。当時としては甚だ勇気の要る行為だったが、許可された。但し暗室から出すことだけは拒絶された。
 バラッス子爵は、翌日医師ジュウル・デゾールを連れてタンプルへ行き、雑役に命じて太子の身体を洗わせ、能うかぎり暗牢を清潔にさせた後、マルチニック島生れのジャン・ローランという殖民地白人にゴオマンという下役をつけ、二人を専任の附添人に任命した。
 この頃から太子は頑固な沈黙を持続するようになった。十二月十九日、ミショウ、ラチュウ、ルベルションの三人の議員が暗牢を訪問したが、太子は一言も口をきかず、唖になったか聾になったかと思わせた。
 その年も終り、翌四十五年三月末、ローランとゴオマンが辞任し、エチアンヌ・ラーヌという男が附添になった。五月の末、太子は過度の衰弱のため重態に陥ったので、六月一日、前年、太子を加養した医師のデゾールがタンプルへ行くことになっていたところ、その前夜、突然急死し、ペルタン、デュマニャンの二医師が代って太子を診察し、瘰癧の増殖による衰弱と診断した。
「太子は母のことでも思いだすのか、これまでになく時々泣いていたが、革命暦第三年、一七九五年六月八日の午前八時頃、天来の音楽と母の声を聞きつつ暗黒陰湿の意外なる環境で静かに息をひきとった」
 ブゥルボン家の正統。ルイ十六世の嫡男。カルヴァドス、オルヌ、セーヌ下流、ユゥール、マンシュの五県を含む広大なノルマンディ州の領主。三百万の領民と百四十万リーヴルの年収を持つ王位継承者ルイ・シャルルは、臨終の祈祷も終油も受けず、暗牢の粗木の臥牀の上で満十歳と三カ月の短い生を終え、アウレリアス王以来、異常な運命に死んだ八百七十二人の史上の不幸な王の群の中へその名を列ねることになった。
 検屍はシャルル・ゴレエ、レオポルド・ミショオ、シャルル・ポオリュウ三議員の立会いの下にペルタン、デュマニャンの医師によって行なわれ、王女マリイ・テレーズの認証があった。
 検屍に立会った議員シャルル・ゴレエの「余の証言」によると、太子は大体五日の夜あたりに死んだのらしいが、誰一人知らず、八日の朝、食事を差し入れに行った使丁が発見したときには、死体は大部分鼠に食われていたというのが真相らしい。
「死体というよりは、鼠が食い残した肉の塊りといったようなもので、二た目と見られないすごいようすをしていた。ミショオは室外へ逃げだしてしまい、予とポオリュウが手巾で鼻を蔽って辛うじて立っていた。大方、慎みと仁慈のせいであったろう、医師達は死体をひっくりかえして見るような面倒をしようとせず、肉塊に手も触れずに簡単にすませてしまった。認証もほんの形式で、マリイ・テレーズを木牀の傍へ立たせてチラと一瞥させただけですぐ連れ戻してしまった。いかなる認識も疑問もさし挾む余地のないほど短い時間で、合法的とはいいかねるそそくさしたやり方だったが、マリイは冷然とかまえて一言も抗議しなかった」
 九日、前フランス王ルイ・カペエの息子ルイ・シャルル・カペエの死亡が国会の名において公示され、太子の遺骸は翌十日の午後十時、「聖堂ル・タンプル」拘置所付使丁ミッシェル、同ル・サンルウの二人によって裏門からこっそり運びだされ、サントマルグリート街の共同墓地へ埋葬された。それから二日後、ミショオ議員がこっそり花を置きに行ったが、その地点を示すべき石さえないという始末だった。
 埋葬仕様書には「墓穴第三十六号」と記してあるが、サントマルグリートは行路病者や救貧院の引取人のない死体を投込みにする第三級墓地で、断頭台が活躍した時代には、ところかまわず大きな塚穴を掘って始末していたので、墓穴も区劃もごったまぜになり、実際上、墓穴三十六号などというものは存在しない。この墓地は一八一一年、タンプルが取壊されたときいっしょに取払われてしまったが、記録や文献を精査考較してたしかに此処と決定された地点には、誰のものともわからぬ白骨が積重なっていて、どれが太子のものやら選別することが出来なかった。
 ルイ十七世に関する追想、覚書、伝記、実録、小史の類いは、ナポレオンがエルバ島に配流され、帝政没落の見通しがついた一八一四年の末頃から堰を切ったように出版され、汗牛充棟もただならぬ盛観で、それらの文献、資料、出版物の書目を集大成したサンフォードの「ルイ十七世ブックス」(紐育・一八〇九年)という厖大な図書目録まであるが、いずれもルイ十七世の死に深い懐疑を持っている。
 ブリタニカ百科辞典は、Louis ※[#ローマ数字17、256-上-19](1785-1795?)と明白に疑問を表示し、「タンプルで死んだとも脱出したとも結局のところはわからない neither died in Temple nor escaped therefrom」といい、フランスのラルウス百科辞典は、「太子はたしかに監獄で死んだというのが一般の定説 conviction g※(アキュートアクセント付きE小文字)n※(アキュートアクセント付きE小文字)rale で」となにやらむずかしい言いまわしをしている。
 革命という大動乱の中では、波瀾は矢継早やに次々と群がり出、人間の思考などに斟酌なく、恐ろしい勢いで押しまくるので、昨日の出来事さえ覚えていられない。五十万人以上の血を振り撒いた後では、一人の少年の運命などに心を動かすものはない。民衆のあらしに吹き落された不幸な太子の死は、わずかのあいだ人の注意にとまっていたが、間もなく忘れられてしまった。
 ところがその年の終り頃、太子の検屍に立会った二人の議員、シャルル・ポオリュウとレオポルド・ミショオが、「国民に与える覚書」と「一仏蘭西人の抗議」というパンフレットで、太子がタンプルでいうべからざる虐待を受けていた事実を、なに一つ隠さず一切合財ぶちまけ、人道の名においてフランス国民を告発した。ルイ十七世の迫害にたいする論告は、一八四一年、ナポレン[#「ナポレン」はママ]失墜後無数にあらわれたが、これは最初の、そうして最も勇敢な抗議書だった。
「保安委員会の人でなしどもは、十歳になったばかりのひ弱い子供を総掛りで嬲り殺しにしたうえ、死体までくすねて返してよこさない。革命で流した無益な血の価は、長い時をかけて決済することも出来ようが、この卑劣な行為の記憶だけは、永久に拭い去ることが出来ない」
 一般のフランス人は、この時までなに一つ聞かず、ルイ・シャルルにそういう無慈悲な呵責を加えられていようなどと思いもしなかったが、実況を知るに及んで、その惨状に胸をうたれぬものはなかった。
 恐怖政治が終って革命の狂夢から醒めると、耳にするのは償い得ざるものに対する報告ばかり。頑固な共和主義者も今更のように革命の惨害の大きさに驚き、いい知れぬ悔恨にうち沈んでいた折だったのでこれまた人為的秩序の一犠牲者などと、澄ましてばかりもいられない。「あまりにも不幸すぎた」太子にたいする哀傷と愛惜の念はロマンチックなまでに昂って、太子に関することならどんな詰まらぬ噂でも聞きたがり、誰も彼もサントマルグリートの共同墓地へ押しかけて行ったが、太子の墓らしいものもないのに飽気にとられ、太子が死んだのは事実だろうかと飛んでもないことをいいだすものが出てきた。
 そういえば太子の取扱いにも、死亡の前後の状況にも、いかにも納得しにくい、あやしげなところが多い。太子の顔や身体を知っているただ一人の医師デゾールの急死。九十四年の十一月ごろから太子の性情に「突然異変」のようなものが起き、なにを聞いても絶対に返事をしない頑固な沈黙を持続するようになったといわれるが、それはどういう訳柄なのか。ベルタン、デュマニャンの両医師が、国会の質問にたいして、「三人の委員がわれわれに、これがルイ・シャルル・カペエだと示したその子供は、“外観上アンナバランス”たしかに十歳ぐらいに見えた」とだけ答え、力めて詳細な印象を述べることを回避しようとしている点。また認証がいかにも不手際にそそくさと行なわれ、太子の死にたいしてマリイ・テレーズがすこしも心を動かされず、悲しそうなようすを見せなかったこと。
 なにより不審なのは、シモン夫婦がタンプルを去るに際して、太子を暗牢に入れたことである。
「その暗さは、容易に太子の正体を見定めることが出来ない程度だった」とバラッス子爵が証言しているが、太子の救出を危惧したとしても、防ぐ方法はいくらもあるはずで、野獣でも馴らすわけでもあるまいし、何故にそんなところへ押し込める必要があるのか。シモンが人並みはずれて残忍な嗜好を持っているとしても、あまり度外れなやり方で、姉のマリイ・テレーズが厚遇されているのに比較して、なにかしら承服しにくいものがある。
 太子はほんとうにタンプルで死んだのだろうか。事実だとしてもそれは太子ではなく、ほかの子供だったのだろうという意見は、右のような点から割りだされたわけだったが、間もなくこの臆測に証明を与えられることになった。シモンの妻のジャンヌは痛風と肺水腫症でセエヴル街の市民病院に入院していたが、その頃重態になり、懺悔のつもりか、太子は安全にタンプルを抜けだしたと幾度も確言し、身代りの子供を置いて自分が連れだしたらしいことをほのめかした。
 死ぬものと思いこんでいたらしいジャンヌは死にもせず、間もなく本復して退院したが、早速、第十五区の警察へ呼びだされて訊問を受けた。残忍な亭主にくらべてひどく気が弱く、取調べがはじまるやいなやメソメソ泣きだしてしまった。係の警部がすこし嚇かしすぎたので、ジャンヌを恐怖させて沈黙に追いこみ、とうとう事実を自白させることが出来なかったが、ジャンヌの告解は非常に示唆に富んでいて、シモンがなんのために顔も見えないような暗牢へ太子を入れたのか、太子の性格の突然異変、マリイ・テレーズがすこしも悲しそうなようすをしなかったことなど、いままで腑に落ちなかったいろいろな疑問が残りなく解け、正統王朝派の王政復古組の議員や旧貴族はいずれもどこかでルイ十七世の登位宣言マニフェストがあるものと期待していた。
 間もなくナポレオンが皇帝になったが、盛代久しからず、ほどなく権威失墜してエルバ島へ流されることになった。いまこそルイ十七世が現れてもいい頃だと待ち望んでいたが、一向そういうこともなく、フランスの恥さらし、亡命貴族の代表、ルイ十六世の王弟プロヴァンス伯がブゥルボンの正統を主張して王位についた。これで大方の期待は裏切られ、タンプルから脱出したというのは結局のところ虚妄の説で、ルイ十七世は国会の公示通り、一七九五年にタンプルの悲惨な環境で薄倖な最期をとげたのだろうという意見に傾き、ルイ十八世の死後、アルトア伯が兄の後を継いでシャルル十世になると、誰一人ルイ十七世の噂をするものがなくなった。

 ルイ十七世がタンプルで死んだといわれた年から数えて三十三年目の一八二八年の四月、ルイ十七世なりと名乗るアンリ・ルイ・ヴィクトアール・エベール・リシュモンという男が、厖大な書類入れを携えて巴里にあらわれ、ノルマンディ及びナヴァール王領地の所有者たることを認知してほしいという請願状を仏蘭西政府に提出した。
 リシュモンが巴里王室裁判所へ提示したのは、出生証書、受洗証明書、爵位勅許状、土地領有権の証拠になる認承済の大きな玉璽で飾られた書類の写し、その他、形式は完璧で適法の所有者たることを示していたが、猶、ルイ・シャルルがタンプルへ送られたとき着ていた空色天鵞絨の服の飾帯も持っていて、この方も間然するところがなかった。
 リシュモンの語るところによると、リシュモンのルイ十七世を救いだしたのはシモンの妻のジャンヌで、一七九四年の十二月七日の夜、洗濯物を入れる大型のバスケットに忍ばせてタンプルの外へ運びだし、身代りにブレアールという聾唖の孤児を入れて置いたというのである。
 リシュモンは弁護士ソンブリュウを代訴人にして、土地所有権返還を要求すると同時に、不在中の土地収益金及び地方税金の決済と補償の交渉を開始した。一七九三年の国民公会の決議によって王族の財産は没収され、その既に一部は競売に附せられたが、ルイ十八世の大革命災厄報償令によって、王族の不動産並びに土地収益は所有権者に返還されることになっていたので、リシュモンの所有権が認承されれば、国庫に保管してあるものと、アングレーム公爵(シャルル十世の長男)と結婚したマリイ・テレーズに譲渡した分と合せ、フランの値上りによる計算で、約六億フランばかりのものを返還することになる。ノルマンディ州だけでも五つの県を含む広大な地幅で、王領地内にある鉱山、港湾、農園、鉄道、工場、その他の三十三年の収益の決済をするとなると、フランスの国庫は破産してしまわなければならない。
 尤もルイ十七世が名乗って出たのはこれが最初ではない。一八二五年にはジャン・マリイ・エルヴァゴオ、マチュラン・ブリュノオという二人の人物が出てきた。これらはとりとめのない幻想家ヴィジオネールというような種類のもので、造作なく退治して懲治監へ送りこんでしまったが、こんどの人格は相当奥行が深く、風格を害わぬ程度の怪弁をふるい、掛引も上手、判決例が法律ほどにも重きをおかれていることまでよく心得ていて、条件の不断の変化に応じて巧みに要求の細部デテールを修正して行くところなど、なかなか天晴れな手腕であった。
 司法当局は法曹界を総動員し、血眼になって遺漏の発見に努力しているうちに、リシュモンなるルイ十七世は、キャプシイヌ街のグランド・ホテルの貴賓室を貸切り、贅沢なサロンを開いて毎日のようにレセプションをやり、ブゥルボン家の紋章をつけた四頭立の馬車を乗り廻して巴里人士を驚倒させた。
 派手な襞飾の薄紗のシャツに強烈な色彩の青繻子のチョッキ、純金の釦のついたロシア天鵞絨の上着、襟飾にはダイヤモンドの襟留玉、ズボンは白の鹿革で、宝石の止金のついた先細の靴という伊達さ加減で、書類も服装も申分ないコム・イル・フォ上出来だが、容貌と記憶力に少々難点があった。
 ルイ十六世は眼も鼻も口もすべて道具立ての大きな寛濶な容貌で、それがまたそのひとの特質になっていたが、リシュモンのルイ十七世の顔は、眼も口も小さく、とりわけ唇はいつも引結ばれているいかにも卑し気なあるかなしかの薄手な唇で、顔の筋肉に波動が多く、中東の血が混っているのではないかと思わせた。身振りや態度の中にも王族とはこんなものと心得ているような尤もらしいところがあり、言葉づかいも粗雑で宮廷礼式の感覚を欠き、対坐するものに意外な感じを抱かせた。リシュモンのサロンに集まる旧貴族は、いわゆる三流どころで、先方に面識がなくとも文句はいえないが、その頃、ルイ・シャルルの手をとって遊ばせた父や叔母の思い出話をしても通じないことが多かった。新聞の論調は本物らしいというところに一致していて、この際、政府は財政協定を申込んで危機を回避するほかあるまいと書きたてた。
 訴訟がグズグズ長びいているうちに七月のクウ・デタが起き、シャルル十世は英国へ蒙塵してブゥルボンの公然の敵だったオルレアン家のルイ・フィリップ一世が王位に登った。ルイ・フィリップは一八三三年の夏になってから、虫の好かないシャルル十世の長男の嫁をすこし貧乏にさせてやってもいいと思ったらしく、司法大臣にアングレーム公爵夫人に譲渡したルイ十六世の遺留分を返還させ、リシュモンには伯爵ぐらい授けて一時を糊塗してはどうかと相談をしかけた。
 するとその年の九月十六日、もう一人のルイ十七世が巴里へやってきて、同じように王領地所有認証の訴願をした。それは現在北独逸のクロッセンに住んでいるルイ・シャルル・カストリ侯爵、独逸名をカアル・ウイルヘルム・ノオンドルフという時計職人で、自ら語るところによると、タンプルの脱出はこんな風にして行なわれたのだった。
 一七九四年の一月十八日、つまりシモン夫婦が太子の専任看護人を辞任した日の夜の十二時頃、こっそり寝床からひきだされ、塔をつなぐ頂上の石畳の通路を通り、久しく無住のままになっていた北塔の四階へ移された。結局のところ太子は一度も暗牢へは入っていないのである。最初の第一日から暗牢へ入れられたのは、ジャヴェル(第十五区)に住んでいたシモンの先妻の子、ガブリエルという十歳の少年で、よく事情をいいきかせ、充分納得させた後、身代りにそこへ入れた。それはシモンの細君の全然知らないことで、七月二十七日、恐怖政治が終った日、タンプルへ訪ねてきたバラッス子爵に、「死にたい」といったのはその子供だったのである。
 ルイ・シャルルはサンルウという使丁長と雑役ミシュウの庇護のもとに、西塔の四階で満二年の間、静かに暮していた。隔日にフィルマンという家庭教師がやって来、夜半、こっそり姉のいる西塔へ遊びに行くことも出来、不自由だがさほど不足もない生活をつづけた後、一七九六年の七月十四日、連盟祭の当日、遊びにきていた雑役の子供たちにまじってなんのこともなくフラリとタンプルを出てしまった。
 この瓢逸な脱出を計画したのは、そのとき六十歳だった前海軍相シャルル・ド・カストリ侯爵だった。奇異な運命を辿った八七二人の皇帝の最後を調べあげた奇書、「皇帝の行方」という著述もある一風変った剛腹な老貴族だが、シモンが太子の専任監視人になると、硬貨百万法で買い落し、ル・サンルウと雑役のミシュウは、家作、牛舎付の農地二百アルパンと一万五千リーヴルの年収のある国庫証券で買い潰した。
 使丁長と雑役は、生涯を安楽に暮すだけのものを貰い、あぶなくなったら身体一つで落ちて行くつもりで家族は貰った土地へ片付けておくという抜目のなさであったが、シモンの細君は細君でシモンを裏切り、かねて人知れず単独の活動をしていたらしく、シモンが断頭台に上った後、ジロンド党の議員七十二名が国会へ復帰した十二月八日の前夜、余命いくばくもない聾唖の浮浪児を身代りに置き、シモンの子供とも知らずにバスケットに入れて運びだした。その月の十九日、ミショウ、ラチュウ、ルベルションの三人の議員がタンプルを訪問して見た太子というのはこの子供だったのである。
 太子はル・サンルウに連れられて英国へ行き、そこで侯爵と落ちあった。海賊の裔である長身の貴族は、房のような白い眉の下から猛々しい眼付で太子の顔を見据えながら、「やあ、ご機嫌よう。王様には懲りごりなすったでしょう。どんなことがあっても王様になろうなどと考えてはいけません。王様というのはどれほど不幸なものか、これから時間をかけてお教えしましょう。ときに私はあなたを時計屋へ見習いに住みこませようと思って居ります。生計を後援するに足るだけのものを残してあげたかったが、あの馬鹿げた塔からあなたをひきだすのに意外に金がかかって、差しあげられる金といえばこれが全部です」といって机の上へ一ルイドールの金貨を十枚置いた。
 太子はカストリ侯爵の養嗣子になり、ロンドンにいる亡命貴族の幾人かを呼んで養子縁組披露のお祝いをしたが、誰一人それが太子だと気づくものはなかった。
 太子はベンハム街の時計屋へ見習いに入ったが、一八〇一年に老侯が死んで、天涯孤独の身になった。フランスの貴族の国外逃避は、ルイ十六世がヴァランヌの逃走に失敗した直後にはじまり、その後もひきつづいて行なわれていたが、どの国でもあまり尊敬されず、スペインなどでは王家を見捨てた卑怯者だと、市中で刺殺されたものもあった。英国へ亡命した貴族はほとんどみな持金を使いはたし、ウエスト・エンドの細民街のひどいところに住み、衣食に窮して紐売やヴァイオリンの流し弾きをしているようなのさえあった。
 太子は時計の渡職人になって、「唄にもうたえないような」ひどい貧乏をしながら英国を放浪しているうちに夢のように十五年の月日が経ってしまった。一八一四年に叔父のプロヴァンス伯がルイ十八世となって王位にのぼり、亡命貴族はみな手を額にして喜び勇んでフランスへ帰ったが、太子には帰るべき国がないのであった。叔父なるプロヴァンス伯は母后マリイ・アントアネットの敵で、バッツ男爵やジャルジャエーが太子の救出に失敗したのは、プロヴァンス伯が一々妨害したからだと後で老侯から聞いた。
 ダントンは六十万磅くれるならルイ十六世を英国へ逃がそうと宰相のピットに内密の申入れをし、ピットにあっさり拒絶されたということだが、ルイ十八世なる叔父は、太子の首に十万法の賞金をかけ、国境の憲兵達は熊鷹のような眼で「カペエの似顔」を見張っているということである。もう一人の叔父、アルトア伯の長男は姉のマリイ・テレーズと結婚し、ノルマンディの土地収益の大部分を掠めとっている。叔母のアデライドは大革命災害報償令で返還されたナヴァールの太子領を横領して娘の持参金にふりかえ、ルイ十八世自身はフランス全体を五人の親族で分け取りしてしまった。フランスと叔父の一族にとって、ルイ・シャルルは要するに邪魔なやつなのであった。
 太子は二十五歳ぐらいからだんだんルイ十六世に似てきて、即位時代に宮廷にいた古い貴族に逢ったら一と眼で素姓を見破られてしまう危険があり、英国はフランス人の往来がはげしいので、身を置くのに適当な場所ではなくなった。一八一六年二月、太子はリヴァプールから船でナポリへ行き、そこから南独逸へ入ったが、ウルテンベルヒ、バーデン、バヴァリヤなどの国境には、依然として、「浮浪人、亡命貴族の入国を禁ず」という立札があり、カストリ侯爵の身分証明書では宿屋に泊ることさえ出来ないので、救貧院で死にかけていたウイリアム・ノオンドルフという乞食から身分証明書を買い、ベルリンの近傍のスパンドオという町で小さな時計屋を開業し、三十五歳になってやっとのことで独逸の片隅で安住の地を見いだした。一八二二年(三十七歳)ヨハン・アイネルスという娘と結婚し、翌年、カールが生れた。
 一八二五年、贋造紙幣行使の嫌疑で二年の刑を申渡されて獄へ入り、二十八年出獄。その土地にも居憎くなってフランクフルトの近くのクロッセンという町へ移った。以上がカストリ侯爵の昔語りだった。(ノオンドルフ・ド・カストリ自著「薄倖なる太子の生涯に対する摘要」ロンドン・一八三六年)
 二人のルイ十七世の登場は、背景が巴里であるだけに大きな舞台になり、どちらも役者がいいので感興もまたひとしお。新聞社は競争で花を贈るので、巴里の話題はこの一事に焦げつき、どちらが本物かという評論でごったかえした。
 ド・リシュモンのほうは相変らずたいへんな威勢だったが、ド・カストリのほうは従者も馬車もなく、フォーブゥル・聖タントアンヌ街の安ホテルに居をかまえ、身につけているものも雲泥の相違、畝織の手堅い長上着にはそれとなき布地のほつれが見え、襟飾もいくどか洗いざらして黄味がつき、貧苦の霜に傷んだしおたれた風姿だったが、いささかも恥ずるところも挑むようなところもなく、淡白で、高雅で、そのくせ驚くほど謙譲で、人の好意には心から感謝するといった王族の寛大な風を身につけていた。容貌も骨柄もそのままルイ・カペエの直写しで、ド・リシュモンにはあきたらなかった十六世時代の古い廷臣も、これこそルイ・シャルルなりとみな争って承認簿に署名した。
 リシュモンのほうはごたごたと書類を持っていたが、ド・カストリのほうは出生証明書の写しを持っているだけであった。判事長がなにかほかに身分を証明するものはないかといったのにたいして、ド・カストリは、「フランスでは私の顔がよく知られています」と答えた。ド・リシュモンが身分の証明をするときは、かならず大きな身振りが入り、千言万句を流露させるのが常だったが、これはまた飽気ないほど慎ましい言いかたで、かえって強く心をうつなにものかがあった。
 君が正当な権利を有するとするなら、王政復古の最初の年、すなわち一八一四年に請願すべきはずである。二十四年も経ってから請求権を行使するのはなぜかという訊問にたいして、ド・カストリは、
「私自身においては、即に過去の因縁となったものを取戻そうなどと一度も考えたことはなかった。しかしながら私は長らく貧苦の中に居り、齢もはや五十歳で、私の力では不幸の淵から這いあがることは覚束ないように思うから、伜を幸福にしてやる程度の遺留分、又は爵位維持のための限定世襲財産の中のほんの少々を」といった。
 それくらいのことなら、訴訟に及ぶまでもなく、アングレーム公爵夫人と談合しては如何といったのにたいして、ド・カストリは、即に十年以来、度々救助を求めたが、ただの一度も返事さえ得ることが出来なかったものであると答えた。
 ド・リシュモンとの対決では、カストリは二時間にわたる彼の罵詈讒謗ばりざんぼうを泰然と聞き流していたが、最後にたった一言いった。「シモンの伜、ガブリエルだな、お前は」
 ド・リシュモンは対決で惨敗を喫した。役者がまずいのでいい幕切れにならなかった。窃盗罪で七年の刑を受けてミラノの監獄に居り、最近出獄したばかりだったという碌でもないことまで露見し、伊太利へ追い戻され、十二年の刑を受けて投獄されたが、ド・カストリのほうも巴里市検事局によって詐欺、国法紊乱の廉で起訴された。ド・カストリは「ルイ・シャルル、ノルマンディ公爵並にカストリ侯爵」という名刺をつくり、旧貴族と巴里名士トウ・パリの邸を戸別訪問をして助力を乞うたが、もう相手にするものもなかった。ジュウル・ファーブルという弁護士はルイ十七世の境界に惻隠の情を催し、無代で代訴人をひき受け、巴里王室控訴院に上訴して争っているうち、一八三六年、ド・カストリは永代追放の申渡しを受けて和蘭へ放逐された。ルイ十七世の血統には永劫フランスの土を踏ませぬというわけなのであった。
 それからまた十年の年月が流れた。和蘭デルフトの小さな公園で日向のベンチのまわりに子供を集め、上手でもないヴァイオリンを奏いてダンスをさせて遊ばせている白髪の老人の姿を見かけるようになった。子供達にあの老人は誰かとたずねると、「むかし偉かった人。名前はない」と答えるのが常であった。
 ルイ十七世のカストリ侯爵は一八四五年八月十日、六十歳でデルフトの救貧院で死んだ。墓碑には、「ルイ十七世、フランス王及びナヴァール王(シャルル・ルイ・ノルマンディ公)」と刻まれた。和蘭政府は死亡証明書に進んで「シャルル・ルイ・ブゥルボン、ノルマンディ公爵並にカストリ侯爵(ルイ十七世)」と記入し、その後、和蘭へ移ってきたルイ・シャルルの家族にブゥルボンの称号を用いることを認可した。リシュモンはその後間もなく脱獄して独逸へ逃げ、カストリが死んだ年から九年後の一八五三年、月も日も同じ八月十日にグライスというところで死んだ。アングレーム公爵夫人はその翌年巴里で死んだ。
 弁護士ジュウル・ファーブルは一八五〇年、ルイ十七世の遺族のために、ナポレオン大統領に第二回目の請願をしたが却下され、一八七四年、マクマオンが大統領になったとき第三回目の請願をし、これも却下されると、その夜、マドレーヌ街の事務所で拳銃で頭蓋に孔をあけて憤死した。「巴里控訴院に於てジュウル・ファーブルが故シャルル・ギュイヨーム・ノオンドルフの相続者のためになしたる弁論」(フリイドリッヒ)は、この訴訟が如何なるものであったかをよく説明してくれる。
 ラルウス百科辞典の「ルイ十七世」の項を見ると、「あるいくらかの歴史家は、何者かが病気の子供を身代りに置いて、ルイ太子をタンプルから逃がしたと主張する。ナポレオン一世の失墜後、こういう風説に便乗して、何人かの詐欺師が太子だと名乗って出た。その中で有名なのは時計職人ノオンドルフとリシュモンであるが、ルイ十七世がタンプルで死んだという一般的な定説を覆すに足るだけの証拠を示すことが出来なかった」と冷静な結論を述べている。





底本:「久生十蘭全集 ※(ローマ数字3、1-13-23)」三一書房
   1970(昭和45)年2月28日第1版第1刷発行
   1998(平成10)年2月28日第1版第7刷発行
※「ペルタン」と「ベルタン」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:skyward
2018年9月30日作成
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●表記について

ローマ数字17    256-上-19


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