淪落の皇女の覚書

久生十蘭




第一部 皇帝の死刑


 沼の多い雪の平原のむこうにペテルブルグの円屋根や尖塔が輝き、空のはてはフィンランドのほうへ低く垂れている。
 一九一七年十一月、顔まで泥をはねあげた赤衛軍の一団が金色の象形文字や帝室の鷲のついたツァルスコイエ・セロの灰色の拱門をぬけ、降り積んだ雪を踏みながら重苦しそうに大通のほうへ行進して行く。弾薬車をつけた砲車や武装した労働者を満載したトラックがめまぐるしく行きちがい、大通の両側の畑で塹壕を掘っている。
 ペテルブルグではメンシェヴィキがボルシェヴィキと戦っていたが、どの劇場も満員で、伊達な軍服を着た士官がホテルの撞球室で玉を撞き、貴婦人達はサロンに集ってツァーに復位して貰いたいとか、早く独逸の軍隊がやってくればいいなどと上品な声で話しあっていた。
 三月に退位したニコラス二世はアレクサンドラ皇后、アレクシス皇太子、オリガ、タチアナ、マリーヤ、アナスタジアの四人の皇女といっしょにシベリヤのトボルスクの配所にいる。ほのかな消息がいろいろな方法でそれとなくつたわってくる。皇帝の一族は健在で、ツァーなどはトボルスクへ移されてから却って元気になったということだった。
 その月の末、ボルシェヴィキがケレンスキー内閣を倒して政権を樹立し、チェカ(反革命取締委員会)の組織ができるころになると、ペテルブルグの様相が一変し、皇帝一族の動静などはまるっきりわからなくなってしまった。その年が暮れ、十八年の五月の中頃、ツァーがトボルスクからウラル山中のエカテリネンブルグへ転送されたとか、されるはずだとか、そんな噂がぼんやりとひろがった。百五十哩ほど文明のほうへ近くなったわけで、悪い兆候でないように思われるが、それも臆測だけで、どういう生活をしているのか、はたして生きているのか、殺されてしまったのか、その辺のところは雲をつかむようだった。
 ところでこちらはたいへんな騒ぎだった。ウィリッキーがチェカの委員長になって、「旧ブゥルジョアジィの男女を下層民の墓掘りに任命す。この労働を拒否するものは銃殺」という布告が出た日から、貴族、旧大官、帝政主義者の集団屠殺がはじまり、ペテルブルグとモスクワの貴族社会は墓場に一変してしまいそうな形勢だった。頭の中にツァーの回想を忍ばせていたりすると、チェカの密偵が眼の色だけで見ぬいてしまう危ない加減の日々になり、退位した皇帝一族の思い出なぞにかかずらっていられなくなってしまった。
 七月十七日、労農ソヴエトはペテルブルグ・イズヴェスチャー紙に、先帝ニコライ・アレクサンドロウィッチとその家族がエカテリネンブルグで処刑されたという公報を出した。公表されたのはそれだけで、補足も説明もなにもない。チェカの追いまわしに疲弊した皇族や貴族大官の心には漠然とした嫌悪の念をおこさせただけだったが、この公報はロシア以外の国々にはかりしれぬ衝動をあたえた。外国新聞のリポオタアは裾から火がついたように詳報の蒐集にかかったが、ウラルの周辺ではチェッコ軍とウラル軍団が切れ目のないゲリラ戦をくりかえしているため、外国人の旅行は一切禁止され、世界歴史にかつてなかったような政治的惨劇の場に飛びこんで行くことができず、憶測をまぜた想像的な記事や悲劇的なニコラス二世の小伝をつづるくらいのところでお茶を濁すしかなかった。
 そのうちに九月のドーラ・カプランのレニン暗殺事件をモーメントにしてチェカの仕事は文字通りのギロチンになり、真赤に血に染んだ革の手袋は乾くひまもなく、二十年の末までに二百万人以上も屠殺してしまった。さすがのチェカも参ってしまい、チェカの側から死刑停止の提議がもちだされたほどだったが、そこへウランゲル軍とポーランド軍の進撃がはじまるというごったかえしの連続で、ニコラス二世一族虐殺などは、風が出て霧が流れるようにいつとはなく人々の記憶から薄れてしまった。
 二十二年の春、「ニコラス二世並びにその家族に加えられたる惨虐の真相」というタイトルのもとに、皇帝の一族がエカテリネンブルグに到着した日から最後の時までの精細な記録がジェネラル・デュデリックという署名でジュウルナール紙に発表され、両大陸を驚倒させた。大要は次のようなものだった。

 エカテリネンブルグはトボルスクの西南百五十哩、ウラル山脈の東側にある小都会で、ウラル・コムミュニスト委員会の本部が置かれ、「赤色エカテリネンブルグ」ともいわれる革命的な空気にみちた町である。ボルシェヴィキの前衛をもって任じているウラル軍団・労働者・農民の代表者達はエカテリネンブルグを無視して廃帝をトボルスクへ移したことに不満を感じ、モスクワの中央委員会の議長、エカテリネンブルグ出身のスヴェルドロフに手紙や電報で再々引渡しの要求をしたがなんの応答もなかった。それでトボルスクへ調査員を送って事情を調べさせると、返答のないはず、中央執行委員会は廃帝と家族を南方のウハへ移すことにきめ、命令書を持ったヤコヴリエフという実行委員がすでにトボルスクに到着していることがわかった。
 廃帝救出の陰謀はこれまでもいくどかあり、グサヴィエという希臘出の貴族が偽の転出命令を持ってやってきた事例もあるので、エカテリネンブルグ委員会のピェール・ボトロフ、ジドコウスキー、アブディエフの三人は命令書に疑惑の念を抱き、分岐線の各接続駅に監視員を配置し、逃亡援助の形跡があったら暴力をもって阻止し、場合によっては廃帝の一行をここへ留置しようと申し合せ、特別列車の監視をはじめた。
 ヤコヴリエフのほうは廃帝の一行を乗せた五台の軽馬車を三十五人の赤衛兵に警護させ、未明、トボルスクを出発し、午後、チューメンに着いた。チューメン駅には一行を転送する特別封緘列車が待っていた。エカテリネンブルグに廃帝のウハ行を阻止しようとする計画があるという情報を受けたので、エカテリネンブルグを避けてオムスク経由にするほうがいいと思い、モスクワへ電報で意嚮をただしたが、その必要なしという返電だったのでやむなく予定の経路によることにした。
 エカテリネンブルグに到着したのは夜も更けた十二時近くだったが、エカテリネンブルグ市委員会の代表はポイントを切換えて封緘列車を待避線へ入れ、行動不審の理由で皇帝一行の引渡しを要求した。ヤコヴリエフが拒否するや、ホームで待機していた群集がいきなりヤコヴリエフに暴力をふるい、その隙にジドコウスキーとボトロフが皇帝、皇后、マリーヤの三人をひきおろして自動車へおしこみ、もう一台の車にはアブディエフが乗り、首尾を接して深夜の町を走り去ってしまった。
 ヤコヴリエフは命令書を提示して市委員会に抗議したが、護送の赤衛共は一人残らず武装解除して監獄へ投げこみ、侍従のドルゴルゥキー大公は取調べと称して便宜的にアレパフスクへ分離したうえ殺害してしまうという乱暴ぶりで、てんで話にもなにもならず、中央委員会にその旨を急電したが、モスクワからは抗議すら来ず、そのままうやむやになってしまった。
 廃帝と家族の流寓には市中のイパチエフという地主の邸の二階の五室が宛てられた。翌々日になって侍医と召使の同居が許可されたが、露台にも廊下にも三交代の監視員がつき、二階の一郭から一歩も出さないばかりか、外側の窓の窓枠に白ペンキを塗ってほかの窓と区別し、自動小銃を持った監視員が見張に立つという念の入れかただった。
 アレクシスとオリガ、タチアナ、アナスタジアの三人の皇女がトボルスクから移ってきたのは三週間後の五月の末だったが、この頃になると家のまわりに丸太の柵が出来、暑さにあえいでいるアレクシスのために風を入れようとアナスタジアが知らずに窓をあけると、いきなりすごい一点射を食い、一弾はアナスタジアの頬をかすめて聖像イコンタを粉々に砕き、きっぱりとした見せしめを受けた。
 食事は朝と夕方の二度。それも虫の湧いたユーコラ(乾鮭)やシエッチ(塩肉とキャベツの汁)という口にするも耐えないようなひどいものだった。近くのカルメリート派の修道院からときどき牛乳や鶏卵などを送ってくれた。それだけが人間並みの食餌だったが、監視員はひどく狷介で、そのたびに泥靴のまま食堂へ踏みこみ、「貴さまらは贅沢なものを食っている」と皿の中へ手を突っこんでこねまわし、どう工夫しても食べられないようにしてしまうのが常だった。
 はじめのうち監視員は附近の工場から交代で出る気のいい労働者だったが、間もなく市の革命委員会からルトミンという男が専任になってやってくると、いままでいくらか保持されていた礼儀も規律も一挙に消えうせ、廃帝の私物を平気で攫って行ったり、意味なき苛酷な規定をつくって皇女たちの編物まで禁じてしまった。一族は五つの部屋をたがいに訪ねあうほか気のまぎらしようもない無味単調な生活の中にとじこめられ、夕食後、廃帝の部屋へ集って低い声で讃美歌やケルビンの歌を合唱することだけがただひとつの慰安になった。
 ニコラスは下級の兵隊にも謙虚な態度で接し、平静な日常を送っていたが、アレクサンドラ皇后のほうは日ましに沈鬱になり、部屋の壁に卍を描きちらしてこれは幸運の表象だなどと口走り、気がむくと一日じゅう机に向って回想録のようなものを書いていたが、宗教的な回想に属するものばかりで、あまり神秘的すぎて誰にも理解できないような事柄が多かった。
 アレクシスは自分の病気と闘うのがいそがしく、不幸な境涯の意味を理解する暇もなく、その点では七人のなかでいちばん幸福だといえたが、四人の若い皇女たちのほうは前途を洞察してひどい絶望におちいり、発狂しないために殊更快活に振舞っていると、労働者あがりの赤衛兵はなにか感ちがいをし、卑穢な冗談をいいかけ、春画を突きつけて追いまわしたりするようなひどいことになった。
 七月に入ると急に暑くなった。なにより苦痛なのは風呂に入れぬことで、洗濯はもちろん身体を拭く水も呉れないので、下着も寝具も垢と汗にまみれ、密閉した部屋のなかにいいようのない臭気がたちこめ、湿度の高い日などは窒息するかと思われるほどだった。アレクシスは暑気と悪い空気に疲労してほとんど眠らず、廃帝はアレクシスを抱いて部屋から部屋へ朝まで歩きまわっているようなこともあった。蚤と虱が猛烈に殖え、廃帝は二十何年たくわえていた髯を短く刈ってしまった。皇女たちも毛虱に悩まされ、金色の捲毛を根元からぷっつりと切ってしまった。(惨殺された後、ストーヴのなかからその髪がひとまとめになって発見された)
 一族が眼に見えて弱ってきたので、さすがのアブディエフもいささか道理に眼ざめ、丸太の柵で囲った中庭を一日一時間だけ散歩することを許したが、それもわずかの間のことで、エカテリネンブルグの時計商コルビンスキーが代って監視長になると、すぐさま禁止してしまった。
 その年の三月、中央委員会がモスクワに移ると、間もなくチェカ(反革命取締非常委員会)が本格に活動しだした。これはソヴエト政権の危機を示すものであったが、サボタージュが反革命から武力蹶起となり、サヴィンコフの反ソヴェト陰謀事件から外国の干渉と発展し、三十万のチェッコ・スロヴァキヤの軍隊がシベリヤの各地で赤衛軍の叩き潰しにかかり、ウラル・コムミュニストの旗色が悪くなっていつ廃帝を奪還されるか知れぬ危険を感じるようになった。
 コルビンスキーはニコラス一族の処置をあせり、たびたび中央委員会へ実行を迫ったが、いっこう埓が明かないので業を煮やし、六月中旬、全ウラル会議を召集してニコラス一族の処刑を決議し、ペトロ・ザバロウィッチという労働者を実行委員に指名した。
 ザバロウィッチの意見では、虐殺の形跡を残さぬようにする必要がある、死骸を焼却し、猶、残った部分は硫酸で溶解してしまうという手のこんだ方法を考えだし、さっそく鉄筒ピドン入の硫酸と燈用石油の蒐集にかかってこのほうは七月のはじめまでに完了した。
 七月十五日、皇太子の遊びの相手をしていたワシリエフ少年はその日にかぎって二度と来るなと叱りつけられ、玄関で追い帰された。十六日の夜(ソヴエトの時間では真夜中。七月十七日の払暁)、四人の委員が一族が居住している二階の翼部へあがってきた。四人とも酒気をおび、手に重いロシア拳銃を握っていた。コルビンスキーがまず寝室へ入って廃帝を揺り起した。
「夜明前、チェッコの軍隊が襲撃するという情報があった。外れ弾丸がくると危いから地下室へ降りていてくれ」
 廃帝はコルビンスキーに礼をいい、皇后のそばに立って身支度が終るのを待っていた。デミドヴァが、「所有品を持って行ったほうがいいでしょうか」とたずねると、「マトラだけでいいだろう」とコルビンスキーは素気なくいって隣の食堂へ行った。
 間もなくロマノフの一族と侍者たち、合せて十一人が廃帝を先頭に列をつくって食堂へ出てきた。廃帝は騎兵ズボンに踵のとれた長靴を穿き、色のさめたカーキ色の将校外套を着ていた。皇太子の手をひいたアレクサンドラ皇后、三人の皇女、タチアナは愛犬を抱え、侍女のデミドヴァは皇太子の枕を持っていた。そのあとに侍医のポチョムキン博士、侍従ケムドルフ、給仕のシドニーという順序だった。
 角燈カンテラを持った兵士が先に立ち、四人の委員がまず地下室へ降りて行った。タチアナは脚の不自由なアレクシスを支え、廃帝は皇后に腕を貸していた。一行のうしろに小銃を持った十人の赤衛兵がつづいた。カンテラの灯に照らされた地下室は、横十七呎、縦十六呎の石室のような陰気な物置で、上のほうに三日月形の小さな窓がひとつあり、壁にはアレクサンドラ皇后とラスプーチンが交媾している戯画を大きく落書してあった。コルビンスキー、ムラチオフスキー、メトヴィチフの三人と十人の兵は地下室の中ほどのところにごたごたと並び、一族は壁際におしかたまっていた。
 なんともつかぬ一瞬の沈黙の後、コルビンスキーが無感動な顔つきで中央執行委員会の宣告書(コルビンスキーとゴロショゥキンとが勝手に作成したもの)を取りだすと、兵隊の掲げるカンテラの灯でそれを読みあげた。「ロマノフ一族を死刑に処す。特別裁判にたいする助命の請願は存しない。受刑あるのみ」これだけだった。
 アレクサンドラ皇后は両手で顔を蔽い、皇女たちはそこへ崩折れていそがしく十字を切った。廃帝は、「われわれはウハへやられる約束だったじゃないか」といい、その言葉が終らないうちにコルビンスキーが衝動的に拳銃の撃鉄をひいた。廃帝は左の胸郭のまんなかを射ちぬかれ、枯葉のようにゆらめいて前へ倒れた。皇太子以下九人はつぎつぎに小銃の連射をうけ、宣告書を読みあげてから五分とたたないうちにみな死骸になった。侍女のデミドヴァは枕で胸をふせぎながら大声をあげて階段の下まで逃げだしたが、あえなくそこで射ちすくめられ、末の皇女のアナスタジアはあまり泣き叫ぶので銃把で頭蓋を一撃され、それで永遠に沈黙した。
 赤衛軍の兵隊は血の海のなかに倒れている十一人の犠牲者の衣服を剥ぎとり、皇女たちが非常の用に裾に縫いこんであった宝石をさがして仲よくわけ取りした。みな泥酔したようによろよろしていた。
 この目ざましい分配が終ると、血みどろの兵隊たちはそれに劣らぬ赤ラック仕上げの死骸を一体ずつ古毛布に包みこみ、近くの森へ自動車で運びこんだ。森の入口に見張りをつけ、死骸は積みかさねて石油をかけて焼いた。夕方、作業がすみ、焼ききれないものには硫酸をかけ、硫酸でも消えないものは穴を掘って灰といっしょに埋めた。
 三日後、チェッコ・スロヴァキヤの軍隊がエカテリネンブルグへ入った。廃帝の最後の場所を探していると、森の竪穴から勲章のかたちをした焼金が出てきた。緑色の宝石を鏤めたマルタ十字章の残骸だった。ほかにバックル、コルセットの鉄骨などがあった。

 独逸の史家ペールマンは異常な運命で死んだ八百七十二人の帝王の最後を調べあげ、「帝王の名簿」というしゃれた本で統計をだしている。それによると、廃位三六四(四一%)、暗殺三五〇(二八・六)、戦死一五三(一七・五)、狂死五四(六・二)、虐殺二五(二・九)、自殺二一(二・四)、死刑(〇・六)という内訳になるが、最後の態様は千差万別。おなじ非命の死にも、運不運によってさまざまなニュアンスがあることがわかる。
 わずか一票の差で死刑ときまり、断頭台上でがっくり行ったルイ十六世の最後も意外だが、徳行敦かった東ゴートの老王、ヘルマンリックが百十歳で自刃して果てなければならなかったのはいかにも無常を感じさせる。ヒリオガパラス皇帝は蛮族が迫ると知ると、高塔の階段に真珠をちりばめた黄金の延板を張り、いざ落城という折には塔の窓から飛び降りて自殺するつもりで、毎夜、塔の頂上の部屋で寝ていたが、かんじんのときに飛び降りそこね、あわれ蛮刀の錆になってしまった。アンテコオス三世はシリアの大王ともいわれる身で、酒興に乗じて寺院の宝物を盗みだそうとし、盗賊とまちがえられて夜番に殺された。サルディニアのエンツォイ王は刺客に追いつめられ、路上の酒樽の中で殺されたが、バッカス一世と異名のあった酒好きの王にとって、いかにもふさわしい最後というべきであった。
「人の血、人の罪、宿世の夢の結晶」とうたったひとがあるように、ロンドン塔の刑場で首を斬られたヘンリー八世の皇后カザリンやエドワード五世兄弟の死は無窮のあわれさを感じさせるが、ウラル山中の流寓の地下室で一族もろとも虐殺されたニコラス二世の最後におけるごとき滅入るような痛々しさはない。
 ニコラス二世のわびしくも美しい容貌を写真で見ると、そのひとの異常な境遇も悲惨な最後も、さして異とするに足りぬ、天性の不幸の影といったものが、色濃く纒いついているかのように思いなされる。
 アレクサンダア三世の後をついで王座にのぼったのは、栗色の髪と灰緑ヴェル・グリのメランコリックな眼をもった脾弱そうな皇帝で、貴族の特権ともいうべき遊蕩に際しては、道徳堅固といわざるも、心から享楽に沈湎し得ないやつらしいと一般がすぐ見てとった。重大な会談でも阿呆のような緩怠さで聞き流すか、眼を伏せて黙りこんでいる小心らしい陰気な人物で、教養はあるが聡明というほうではなく、見かけになにか滑稽なところがあり、威厳というものがまるでない。ときにはしゃべることもあるが、言葉が舌の端でもつれ、面白くはあったが聞きとれないことが多かった。
 ニコラス二世(ニコライ・アレクサンドロウィッチ)の幼年時代は厳格な教育の中で終った。勉強の監視人は丁抹デンマーク王シャルル九世の皇女ドグマール(ヴィクトリア女王の孫)だった母のマリア・フェオドロオウナそれ自身で、四六時中、ひとときも眼を離さぬような手きびしい躾を受けたうえ、父の武断的な練成が加わるというわけで、疲労困憊のすえ、脅えきってオドオドし、なにかやればかならずみじめな失策をした。
「なんという道化者なんだ、こいつは」
 失策を叱責するときのこれがアレクサンダア三世のきまり文句だった。
 二十歳の年、この臆病なロシアの皇太子は生涯にただ一度の恋愛をした。マリンスキー劇場のクシンスカヤという首席舞踊手バレリーナに陶酔しているうちに男の子供が生れた。これはたいへんな悶着をまきおこす椿事だったが、平生の臆病にも似ず、魔に憑かれたようになって一切のいきさつを父帝に告白し、英国式の貴賤相婚 Marganatic marriage(妻または子は、夫または父の身分財産を相続し得ない結婚)をほのめかして結婚の許可を乞うたが、アレクサンダア三世がそんなたわけた申出に耳を藉すはずはなく、従弟のゲオルグ希臘皇子と二人、軍艦に乗せられて東洋旅行に出されてしまった。
 軍艦での生活は監禁も同様で、上陸すればゲオルグは離れずにどこへでもついてくる。つまるところゲオルグはアレクサンダア三世の意をうけた事実上の監視人なのであった。それにもかかわらず、ニコラスはマルセーユでクシンスカヤからの電報を受けとることができた。予期していたようにそれは永遠の別離を告げる涙に濡れた挨拶で「鳥は飛び去り、花は散りぬ」というのがその電文であった。クシンスカヤとその子は英国へ行ったとも南米へ行ったともいわれるが、その後の消息は知られていない。
 ニコラスの生涯での真摯な事業は、こうして不幸な破局を結んだが、日本にはもうひとつべつな不幸が待ちうけていた。京都から大津へ小旅行をしたとき、半狂セミ・マドネスの警衛の巡査にだしぬけに斬りつけられ、前頭部に二十九糎と七糎の二カ所の傷を受けたのである。
 祖父アレクサンダア二世をダイナマイトで倒してから、露国社会革命党のテロは、ウハの知事ボグタノウィッチ、内務大臣プレーヴェと執念深く継続され、ニコラスの心に和ぎえない暗い恐怖の影を落していたが、こんな極東の涯に来てまで、刀杖の難を受ける自分の運命のあまりにも窮屈なのに呆れ、卒然たる思いが心について離れなかった。
 少年時代を暗殺と陰謀の間で送った英国のジェームス一世は、武装した人間のテラーを絶えず警戒し、匕首で刺されるのをふせぐために毛藁を詰めた胴着を離さなかったということだが、即位後、ニコラスは暗殺の妄想につかれてめったに宮殿から出ず、ペテルホフの庭を横切るのさえ死ぬような苦しみを味わった。刺客が宮殿に侵入したときのことを考え、「書斎と居間の壁に秘密の出入口をつくり、迷路のような廊下を伝って皇居警衛大隊の兵営まで行けるようにしてあった。危急の際はそこから宮廷用のヨット“スタンダート”号でネヴァ河へ出るように確実に手配されていた」(コンスタンチン大公「ニコラス二世時代の宮廷」)
 ニコラスはカイゼル=ビスマルクの推薦で、もと普魯西プロシヤ連邦ヘッセン王国のダルムスタット家のアリスと結婚して四人の皇女が生れた。ロシアの国民は皇太子がなくて終るのかと思っていたところ、十年目にようやくのことで男子が出生した。ロシア中の寺院が鐘を鳴らし、テ・デイウムを歌って皇太子の誕生を祝ったが、その子供は血友病 H※(アキュートアクセント付きE小文字)mophilie という不治の悪疾をもって生れてきた。
 この病気の特徴は普通の人間なら自然に止血するような小さな傷でも血がとまらず、抜歯後などは瀕死の大出血をするようなこともある。原因はまだよくわかっていないが、先天的に毛細管壁が破れやすいのと血液の凝固性が薄弱なためだといわれる。傷からばかりでなく、関節、筋肉、鼻粘膜、胃粘膜からも出血し、はげしいときはそのまま急性貧血に陥って死んでしまうか、全身貧血のため、倦怠、頭痛、眩暈、耳鳴などを起す。アレクシスの場合は膝から出血するもので、過去にすでに二度、全身の血を失いかけて危篤に陥ったことがあった。
 この悪疾は遺伝関係を証明され、男女によって遺伝の方法がちがうので遺伝学のほうでもめずらしがられるものだが、色盲とおなじく女性を通過して男子にだけ遺伝発病する。生理出血のある女性にこんな厄介な病気が遺伝しないのは有難いことで、そうでなかったら女性は年頃になるとみな生存不能に陥ってしまわなくてはならないが、女性が罹病しないのは特有のX染色体を持っているためで、血友病の保因者でも当人は自覚がないのが普通である。
 血清学の泰斗ミショオ博士がキールでヘンリー親王の長男の血友病の危機を救った事実がある。カイゼルの兄弟、ヘンリー大公と結婚した普魯西のイレーヌから生れたヘッセン家の皇女ロシア皇后の姉妹はすべて血友病の保因者で、アレクサンドラ皇后とイレーヌ内親王の間で交わされた手紙(イレーヌから妹に宛てたもの。革命後多数押収された)の中には、母として子供を苦しめる悪疾の保因者である嘆きを涙とともに書きつづっている。またニコラス二世は結婚前、アリスの家系に血友病の保因者があるのを知っていたかどうか。それはともかくアリスはもちろん、アリスを推薦したカイゼルもビスマルクもこの事実を知っていたはずである。
「予期したより早く父が死んだので、ニコラスは未熟のまま帝位についたが、生来の不決断な性情を残りなくさらけだし、朝、命令して、夕方、文書で撤回するようなこともしばしばだった。純情で敬虔な本性なのに一種陰鬱な片意地なところもあって、相手の態度が気にさわるとものもいわなくなる。彼の信任を得たと確信できるものは一人もなく、大臣だって心をゆるせない。いっこう聴かれない進言に倦んじて、皇族さえ日に日に彼をうとんじるようになった」(クールロフ「ニコラス二世の回想」)
 一九〇五年五月十四日、対馬沖でバルチック艦隊が全滅した。これは敗北以上で、ロシアにとってはまさに災厄ともいうべきものだった。ニコラスはラケットを持ってその報告を聞いていたが、「なんというひどい敗北だろう」と一言いってまたゲームをつづけた。その日のニコラス二世の日記。
「ツシマ沖の不運な海戦。メランコリックな気分。矛盾だらけの報告。三つのちがう報告を聞いた。ママと二人で散歩。快晴。バルコンでお茶と夕食」
 この日記には世襲制のために天分もなく帝位につき、現実を逃避して家族だけが幸福であればいいとねがっている優柔不断な人間がむきだしに出ている。当のニコラスはそのくせ危険なほど自己の優越を誇り、皇帝は支配し、臣民は服従すべく神によって定められているという帝王神権説を信奉してい、レセプション付の晩餐会などでわけのわからぬ演説をして廷臣や官僚を面白がらせた。ニコラスは雄弁と博学が臣下に賞讃されたのだと思っていたが、いずくんぞ知らん、ニコラスが相手にしている連中は、生憎、敬意をもって相手の愚談を傾聴する雅量を持ちあわせていなかったので、呆れられて見離されてしまった。
 皇太子はとんだ失敗作だったが、それを生んだ皇后のほうもまたたいへんなミスだった。ニコラスはツァルスコイエ・セロの離宮へひっこんでプロシヤ生れの皇后を愛撫することに専念しだしたが、皇后のほうは単調な生活に嫌気がさし、やるせない倦怠をまぎらわすために国政をいじりまわすことをはじめた。
 アレクサンドラは皇后職の娘のアンナ・ウィルゥボヴァという女官に恋愛もただならぬ病的な恋情を注ぎ、「後生だからあたしを“皇后ツァーリナさま”などと呼ばないでちょうだい。あたしがどれだけあなたに夢中だか、おしえてあげられないのが残念だわ」などという手紙を書いているが、ウィルゥボヴァのほうは、それに関係なく、アレクサンドラに冷静な批評を加えている。
「皇后はバカだというもっぱらの評判ですが、あたしの見るところでは、むしろ偏屈といったほうが当っているように思います。話がこみいってくると、それがどんな問題だろうと、結果も考えずに大きな声で我鳴りたて、相手が恐れをなして黙ってしまうと、やはり自分の意見のほうが正しかったと思うので、思考力や想像力などは露ほども示されたことがありませんでした」
 アレクサンドラは政治の面白さがいくらかわかりかけてくると、毎夜、遅くまで政務に精励し、勅令の草稿を書き、大臣の任免をやり、戦線の伸縮にまで口をだし、参謀本部の作戦計画を根底から混乱させるようなこともしばしばだったが、皇帝にたいしても無限の勢力を持つようになり、アレクサンドラがなにかいうと、ニコラスはあらゆる事態を無言のまま承認するという習慣が出来てしまった。皇太后のマリア・フェオドロオウナは息子を嫁の制圧から救いだそうと、長い間、陰気な抗争をつづけていたが、息子と不和になるに及んで、あきらめて手をひいてしまった。
 それはそれとしてニコラスのほうはかならずしもアレクサンドラに雌伏したのではなく、国政の雑用は妻に委せ、自分はもっぱら世界政策の立案に専念しているつもりだった。摂理によって偉大な運命に召されていると信じこみ、満洲と朝鮮の蚕食に失敗して以来は、南へ国境を拡大し、西蔵、印度、ペルシャ、ダーダネルス海峽を併合しようという壮大な夢を見ていた。この雄大な世界政策の起案に参与する権利があるのは、為政者や官僚ではなく崇高な使命の意義を感じる能力のある心霊者だけなので、自分のまわりに意識してそういった人物を集めだした。はじめは見神師フィリップが会議のお相手をしていたが、間もなく投機業者や陰謀家といったてあいがニコラスの嬖臣として宮廷で幅をきかせるようになった。重大な案件の討議は、夜食の後、撞球室でやることになっていたが、誰であれ、いくらかでも霊的な感受性を持っているかぎり撞球室会議に連なる資格があり、ラスプーチンの席はその当人がまだペテルブルクに現われない前からすでに用意されていたというわけなのであった。

 一九一七年、ケレンスキーの臨時政府はロマノフ一族の審判委員会を執行したが、マナセヴィッチ・マヌイロフは「七人の貴婦人」というタイトルで知られている有名な陳述をした。「ラスプーチンは次のようなことを語りました。わしがまだシベリヤにいるころ、女の信徒がたくさんやってきたが、そのなかに宮廷に勢力をもっている名門の七人の貴婦人がいた。その連中はぜひとも神さまのおちかづきを得たいという。ところで神さまのおちかづきを得られるのは、できるだけ自らを卑しめたときにかぎるのだ。そこでわしはそいつらを立派な服のまま風呂場へ連れて行き、一人のこらず裸にひん剥いてわしの身体を洗わせ、存分に卑しめてやった。おかげで女どもは神さまとおちかづきになれたよ」
 グレゴリイ・エフモウィッチ・ラスプーチンはシベリヤの馬車追いの伜で、若いころから飲酒に耽り、窃盗を働き、婦女を姦し、悪党の面目を落ちなくそなえた具体的な無頼漢だったが、二十一歳のとき聖地巡礼の名目でコンスタンチノープルからスミルナの辺までうろつきまわり、農夫達の無智と迷信につけこんでたぶらかすことをおぼえた。
 ラスプーチンの容貌は精神分裂症の一典型で、額も鼻も異状に肥大し、髪も髯も伸び放題にして手入れもしないので陰性なけだものを思わせた。特徴的なのは照りのある豹のような青い眼で、眼差は無心のようでもあり狡猾そうにも見え、なにかを見つめているようだが、そのくせ全然空虚で、見るものになんともいえぬ戸迷いを感じさせた。
 ラスプーチンは聖地巡礼中に修得した信仰療法でとてつもない奇蹟をやりだした。ひとの心をとらえることが巧妙で、天真爛漫なようすをしたり、尊大ぶったり、聖人ぶったり、思いつくかぎりの駆引をして金を集め、教会や僧院を建てて大衆を眩惑し、「千里眼の聖グリーシャ」という勿体ない聖者になりあがった。
 前年の夏、ウクライナ、コーカサスの労働者のストライキがきっかけになってロシア全土に赤い汚点がつき、革命歌が潮騒のように冬宮のあたりまでひろがってきたが、貴族やブゥルジョアジィは革命より戦争のほうがましだといって、とうとうロシアを日露戦争へひきずりこんでしまった。
 いまこそ大きく乗りだすときだ。ラスプーチンは都入りの準備にかかり、浦塩艦隊が旅順港で撃沈された十二月五日の朝、予定どおりにペテルブルグへ乗りこんだ。二千人以上の市民が熱狂してホームまで出迎え、婦人達はラスプーチンの法衣の裾に接吻しようと何人も踏みつぶされた。
 ラスプーチンは気がむけば一握りの土に息をふっかけて花をつけた薔薇の木にして見せ、ネヴスキー街ではいざり車でうろついていた跛の女を立って歩かせた。
「民衆は彼に近づこうとひしめき合っている。誰も彼の予言の才能と奇蹟を認めている」(一九〇五年四月十二日のオフラーナ紙)
 間もなくラスプーチンはアレクサンドラ皇后の親友アンナ・ウィルゥボヴァ夫人の紹介で宮廷へ入りこみ、皇后の醜聞スキャンダルをまきおこしながら帝政ロシアの崩壊を助けるめざましい働きをすることになる。シャルル・オメッサの有名な「ラスプーチン伝」にこの間の事情が残りなく叙述されている。
 フランスの文人大使ジョセフ・メェストルが一八一五年にペテルブルグに赴任したとき巴里の友人に有名な手紙を書いている。
「一八一五年と書いてしまったが、これはまったくの誤り。ロシアでは一五一五年とすべきなんだね。なぜなら僕はいま十六世紀にいるんだから」
 ニコラスの祖父アレクサンダア二世は世界的な降神術師ダニエル・ホームの親友だったが、ロシアの宮廷は代々迷信家の巣で、まじないや交神会や霊媒遊びが流行した。ニコラス二世はドクター・フィリップという前述のフランス人の見神者を側近に置き、アレクサンドラ皇后は心霊現象や降霊の報告を蒐集することに熱中していた。ラスプーチンが皇后の信用を得るようになったのは、皇太子アレクシスの悪疾を軽癒させたからだというが、そんなことがなくとも、ラスプーチンにとっては迷信深い夫妻をたぶらかすぐらいはわけのないことだったろう。皇后とラスプーチンの醜聞スキャンダルはもう古典になっているが、それは事実だったのだろうか。そういう詮策はともかくとして、皇后からラスプーチンに宛てた相当な数の手紙を労農ソヴエトが押収している。(これは一時モスクワの革命博物館に陳展されていた)

 愛するグリーシャ。あるがままあなたのすべて、また私のすべてであるあなた。私の頭をあなたの胸に凭せ、しずかにあなたにかしずくよろこび。一切の愁いも煩いも消し飛んでしまうあのひと時。これより偉大で神聖な幸福がこの世に存在するでしょうか。永久にあなたのそばを離れないですむように。あなたを尊敬し、あなただけを信じていることをお忘れくださいますな。あなたを抱きしめ、あなたの祝福をねがっています。あなたの娘A

 昨夜は朝まで眠れませんでした。あなたがお見えになりませんので悲しみで死ぬ思いです。すぐおいでくださいまし。空気よりもあなたのほうが必要なの。それなのにどうしてあなたはこんなに私をお苦しめになるのでしょう。私はあなた以外のなにものも愛していないことはよくご存知のはずです。あなたの娘A

 愛するご主人さま。あなたがお帰りになってから、私はたいへん悲しみました。グリーシャよ、二人の間に立ち迷っていたいざこざがかたづきましたので、これでもう二人は永遠に離れなくともすむことと思います。神さまがあなたといっしょに死ねとおっしゃるなら、そうしてあなたが準備しておいてくだすった天国へ迎いとってくださるのだったら、どんなにうれしいでしょう。A

 一九一四年の八月、世界大戦がはじまった。皇叔ニコライ・ニコライッチ大公が総司令官でルーデンドルフにたちむかうことになったが、そもそもの辷りだしからトチリどおしで、最初の四カ月のうちに大束に二十万の兵力を耗ってしまった。ところでその頃からラスプーチンに霊感が訪れるようになった。ラスプーチンは「天上からの声」といっていたが、戦闘諸局面の運命をはっきり予言し、陣地操作に関する技術的な面から会戦の経過落着にいたるまで、言うところがみな的中する。ニコラスは天上の声にはげまされ、予言に導かれて戦線を調整しようという野望をおこし、とりあえずラスプーチンを宮中参事官にひきあげ、N※(ローマ数字2、1-13-22)とニコラス二世の頭文字を彫った純金の十字架を贈った。
「それはほんとうに霊感だったのだろうか。ヘッセンの王女がロシアへ嫁入するとき、自分の国からドイツ人の臣下を連れてこなかったかわり、ベルリンと密接な結びつきがあり、たえずベルリンとペテルブルグの間を往復している婦人帽子商マダム・クェルネルと称する私設のクリヤー(公用飛脚)を持っていて、独逸の全軍作戦の経過を誰よりも早く把握できる立場にあった。さして重要でない戦線の一部の動向をそれとなくラスプーチンに吹きこんでおくのは雑作のないことだったろう」(グレーデル「皇后の裏切」)
 宣示はめまぐるしく降って土砂降りのようになり、ニコラスはラスプーチンをノビ(救世主)という尊称で呼ぶようになった。ラスプーチンのほうでは、皇帝をパパ、またはニキ、皇后をママまたはサンニイと呼び捨てにし、冬宮のそばのグロホワヤ街に邸宅をかまえ、霊感の訪れがあると夜中でも夜明けでも勝手に宮中へ参入するという破格の待遇を受けるようになった。
「マヌイロフの陳述」(“Interrogation de Maneilof 1917)
「ラスプーチンはまたこんなことを申しました。ママはおれのことをゼジュ・クリ(キリスト)と呼ぶんだ。このルバシカの刺繍はママが自分でやったんだ。ニキは気の小さなお人好し。アレクシャ(皇太子のこと)は生ける屍。カイゼルの世界制覇の犠牲者というところか。オリガは気取屋。ターチャ(タチアナのこと)はママ似で美人。マーシャはしとやかで味がいい。アナスチャは子供だよ」
 シベリヤの奇蹟施行者は宮中参事官、皇后の愛人、皇太子の侍講者という押しも押されもしない大人物に成りあがり、あらゆる政機に介入するようになった。ラスプーチンの客間は官僚や将軍の古手、インチキ企業家や山師、破門された司教などでごったかえし、プロトポポフは内務大臣に、バルクは大蔵大臣に、トブロヴォリスキーは司法大臣に、ココツェフ、ゴムレエキン、スチュルメルと、一九一一年から帝政ロシアの最後の首相ゴリツィンにいたるそれらの閣僚は、ほとんど一人残らずラスプーチンの尻押しで大臣の椅子に這いあがった。
 一五年の五月、ニコラスは大公をトルコの正面へ追いやり、総司令官を買って出てモギレヨフの大本営へ坐りこむと、待ちかまえていたように神意が次々にそこを訪れた。

 皇后の書簡。九月三日付。
 当分の間、南部であまり戦果をあげないようにと彼がいって居ります。南部であまり成功すると、北部のドイツ軍は当然大きな反攻に出るでしょう。われわれが南部を叩くことは友軍の北部戦線の出血を意味するというのです。あなたがこの勧告を受け入れることを彼は望んで居ります。

 同。十月一日付。
 Sの軍団がリバウから二百ヴェスターも進出したというのは事実ですか。なぜその方面の攻撃を急ぐのか了解できないと彼がいっています。

 ニコラスは自信たっぷりでやりだしたが、どういう神意の手ちがいか、八月、リガ前方の十二軍団が大きく袋の中へ捕捉され、半個師団がわずかに殲滅をまぬかれてルーマニアの国境へ転げこむという意外な局面を見せた。天上の声の洪水はロシア軍の大敗という結果になってあらわれた。リガ会戦以後、露軍がどういう惨憺たる運命を辿ったか、大戦史が示すとおりである。
 オボローモフ式のロシア人の中にも、贋救世主の人もなげな愚行を見すごしていられない真面目な連中がいた。ボォル大公、ドミトーリ大公、ユゥスポフ公、プリシュケウィッチ侯などが集ったとき、ドミトーリ大公が ИЗ одног※(グレーブアクセント付きO小文字) т※(アキュートアクセント付きE小文字)ста(あいつだっておなじ捏粉で出来ているんだ)と決意のほどを示したので、直接行動でやっつけてしまおうという黙会が出来、露暦の十二月十五日、カラリという舞妓をおとりにしてユゥスポフ公の邸へおびきだし、シアン加里を盛ったうえさんざんに射ちまくり、二封度プードの分銅をつけてネフカ河の氷の穴へ投げこんだ。落ちていた上靴ガローシュが手がかりになって死体があがり、査問の結果、プリシュケウィッチが主犯ということになって、勅命によってペルシャへ流刑された。
 ラスプーチンの死体はツァルスコイエ・セロのロマノフ家の墓地へ葬られた。アレクサンドラ皇后は皇女やウィルウボヴァ夫人と埋葬式に立会い、棺の中へ聖像イコンを入れ、死体の胸にペンキで自分の名を書き、懇ろな祈文メモアールを捧げた。
「親愛なる殉教者。私はあなたの足跡にしたがいます。あなたの歩いた悲しい恐しい道……私もその上を行くでしょう。あなたのために心からの祈りを。アレクサンドラ」

 ロシアはものすごい飢饉で、十月以降、麺麭屋に一塊のパンもなく、難民は餓死の一歩手前でペテルブルグの街をよろめき歩いていた。各地区に暴動が起き、三月十日には賃金労働者が一斉に罷業して市街戦をはじめた。ニコラスは近衛師団に騒擾鎮圧の命令をだしたが、軍隊は勅令を棄却して公然と皇帝に背反した。いたるところで皇帝を呪咀する声がきこえ、間もなく合唱から大叫喚になり、食糧暴動は全国的な政治的動乱に発展する兆候が見えてきた。
 ニコラスはルヴォフ公を首相とする会議制の臨時政府プロヴィゾアールをつくって一時を糊塗しようとしたが、その甲斐もなくアレクシェフ公とルゥスキイ公から退位を迫られる破目になった。ロシア皇帝は国民の神で、貴族でも大官でも行政命令一つでシベリヤの涯まで追いやることができ、ときたま建言をしたり、苦情をいったりすることはあっても、拒否権を行使するようなことはただの一度もなかった。ニコラスは時局のあまりの斬新さに圧倒され、皇太子アレクシスに皇位を継承させる留保条件つきで呆然と退位を承認したが、膝関節の悪性出血で、満足に歩くことも出来ない看護婦付の皇帝などどうなるものでもなく、あっさり否定されてしまった。ニコラスは曠欠を恐れて叔父のニコライ大公に譲位しようとしたが、大公は議会の承認を経ない皇位などは受けられぬとはねつけたので、露国皇帝の指定席を明けたまま退位承認書に署名しなければならなくなった。
 ロマノフ一族はツァルスコイエ・セロの離宮に移され、五月十五日、ピーター・パウル要塞内で執行されたペテルブルグ労兵代表会議の査問会にひきだされて人民裁判の審判を受けた。ソヴエトはニコラス・ロマノフが無残酷烈な専制政治デスポチスムによってロシアの国民に加えた殺戮と苛逆の事実を数えあげ、ニコラス一族にたいして終身懲治制を要求した。司法大臣のケレンスキーはロシアの憲法に皇帝に準用すべき刑の規定のないことを指摘して辛うじて暴発を回避することができたが、半月ほどの後、守衛長が脱出の方法を示唆した皇后宛の通信を適当に処分してしまったことが洩れ、ペテルブルグ・ソヴエトが激昂して政府にロマノフ一族の身柄引渡しを迫った。ケレンスキーは臨時閣議で、当面、ソヴエトの怒りを緩和し、将来の紛擾を未然に阻止するためにも、ロマノフをペテルブルグから疎乖するに如かずという意見を述べ、臨時政府は提案に従ってロマノフの一族をウラル州トボルスクへ移すことにし、七月廿九日のデイン紙で発表した。ニコラスはシベリヤの生活を懸念し、出来るならクリミヤ半島へ行きたいといったが聴かれず、皇太后に訣別したいと申出たがこれもまた拒絶された。
 八月一日の深夜、離宮の門からツァルスコイエ・セロ駅までの道の両側に近衛師団の騎兵が整列し、アレクサンダア宮の鉄柵のまわりにはロマノフ家と最後の皇帝の配流の光景を見物しようとする群集が幾重にも人垣をつくっていた。午前二時、ニコラスは大玄関のテラスから近衛師団の将兵に感動的な告別の辞を述べ、一族といっしょにオープンの自動車で停車場に向った。
 午前三時、喫煙室、食堂車、寝台を含む七両編成の特別列車は、数カ月前まで世界の最強国に最高の権力をもって君臨する皇帝だったその人と家族をシベリヤへ運ぶために歩廊から辷りだした。猶、豪奢な特別列車の前部に連結された貨車には、皇帝が仮借も憐憫もなく投獄し追放に処したかつての露国社会革命党の連中が、特に臨時政府から一行の監視を任命されてそこに乗っていた。ニコラスは戦争が終ったらまたここへ帰ってくると近衛の将兵に約束したが、大戦が終結してもロシアの皇帝はとうとう帰って来なかった。

第二部 皇女の告白


 巴里のオウスマン通りの小さな本屋で働きながら、寝る眼も寝ずに高等中学教員の資格試験の準備をしているジュリアン・レミュという青年は、貧乏と孤独の葛藤から生じる重い憂鬱症にかかり、医者のすすめで、一時、勉強を中止し、本屋からも暇をもらい、毎日、おつとめのように近くのリュクサンブゥル公園へ出かけて行き、ものしずかな小径のベンチに掛けて空や花を眺めていた。
 公園は敗残者の休憩室というごとく、春の長い一日をそこで暮している悲しげな喪服の寡婦や、人生に疲れた寄辺ない老人など、おなじ貧窮の列に並ぶ顔々に馴染みができたが、そのなかで特にレミュの心を惹いた若い青年があった。
 十九歳か廿歳。それ以上ではあるまい。病身らしい、見るからに弱々しそうな感じで、顔色などはすき透るように白く、足が悪いのか、姉らしい二十四、五の娘に手をとられながら、毎朝きまった時間にボナパルト街のほうからレミュの隣のベンチへ掛けにくる。姉は勤めを持っているらしく、弟をただならぬ愛情で抱擁すると、急ぎ足で公園から出て行き、夕方、ほとんどおなじ時間に早足で入ってきて、朝のように弟を抱きしめ、手をひきながらゆっくり帰って行く。日曜と雨の日以外はこの情景が機械のようにくりかえされた。
 姉のほうも思いに残るような器量よしだが、青年のほうは、レミュが今まで、見も、感じも、想像もしたことがなかったような、いうにいえぬ美しさと優しさを身につけたボオ・ブランメェルだった。レミュを驚かせたのはそのことだけではなく、陽の光を仰ぐか、足もとの矢車草の花に眼を移すか、その程度の動きを見せるほか、朝、掛けたときの恰好のまま夕方まで身動きひとつしないことだった。植物さながらの閑寂さで、はじめの二、三日は呆気にとられて脇から眺めていたが、どうしたって幸福だとは思えないこの青年と、思うさま打明け話をしてみたいと思うと、それが気にかかってまわりの景色が眼に入らなくなってしまった。
 それから三日ばかりの後、レミュがとうとう話しかける機を掴んだ。その青年はジョルジュ・ドオルセェというベルギー生れの医者の息子で、両親が死んだ後、姉のジャンヌと二人で巴里へ出てきて、ボナパルト街のアパルトマンの地下の一と間に住んでいるが、脚が悪いので働けず、リュウ・ド・リヴォリの婦人帽子商の売子をしている姉の厄介になっているということを、いかにもまずい言いまわしでたどたど話してきかせてから、「ねえ、あなた」と人懐っこくレミュの腕に手をかけながら、「それであなたはどういうわけでここへやってくるんですか」とやさしくたずねかえした。
 他人の愛情に飢えきっている都会馴れない田舎ものの常で、レミュは嬉しさのあまりしどろもどろになり、自分が毎日どんなひどい食べものに耐え、友もなく、慰めもなく、見捨てられた貝殻のような、どんな辛い、孤独な日々を送っているかと涙をうかべながら語った。
 その日は姉のジャンヌがいつもより早く迎いに来たので、残り惜しくも別れたが、索寞たる巴里のまん中で、めぐり逢うとも思っていなかったやさしげな情性に触れたよろこびでレミュは酔ったようになり、非現実の姿のまま心の中に残っているジョルジュの悌に話しかけ、独り笑いをし、まんじりともせずに夜を明かしてしまった。その朝は早くからベンチへ行って待っていると、いつものようにジョルジュが姉に手をひかれながらやってきたが、レミュに美しい微笑を送りながら、「昨夜、話した方はこの方」と姉に紹介した。ジャンヌはレミュの手を握りながら、いいお友達が出来てジョルジュも退屈せずにすみ、私も安心して勤めができるとお愛想をいった。
 話はまた、人生にはどうしてこうも不幸が多いのかという昨日のつづきになったが、そんなことをいっているうちに、この弱々しい、病身の青年を力のかぎり劬ってやりたいといううれしい感動が胸に満ちてきて、熱情の迸るままに、それが神経痛であろうとリュマチスムであろうと、僕の友情できっと癒して見せると言い切った。ジョルジュは顔を赧らめ、苦しそうに口籠りながら、これはエモフィリーという遺伝病なので、たとえあなたがどんなにしてくれても癒る見込みはないのだと絶望的なことをいった。
 レミュはその夜、ひとりで苦しみ、あてどなく祈り、ジョルジュの不幸の原因になっているエモフィリーという病気はどんな性質のものかと、あらん限りの状態を思いだして想像してみた。次の日は日曜でジョルジュの公園行は休みなので、さっそくアルスナル図書館へ行って遺伝学の本を借りだし、エモフィリーがなにものなるかを調べているうちに、独逸のヘッセン王家から出てニコラス二世の妃になったアリスを媒体とする、露国皇室とヘッセン王家の遺伝の混淆を詳説したうえ、両家の一族の写真をそこに※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入してあった。驚いたことにはそれによって見ると、毎日、公園で逢っているジョルジュとは皇太子のアレクシスのことで、姉のジャンヌは第二皇女タチアナであるということが、なんの困難もなくレミュに理解されたのである。
 レミュの専門は実証歴史学で、とりわけ政治思想史の研究をテーマにしているため、必然にロシア帝政史を経てロマノフ・ニコラスの一族がどういう最後を遂げたかよく知っている。すなわち、皇太子、オリガ、タチアナ、アナスタジアの三人の皇女は、皇帝、皇后、第三皇女マリーヤの一行から三週間遅れてエカテリネンブルグへ移り、七月十五日の夜半、両親、姉弟、枕を並べて残虐なテロリズムの犠牲になっている。これについては当時ペテルブルグ・ソヴエトの公表があり、詳報はジュデリック将軍が発表し、「事実上イン・ファクト」もはやこの世に存在しないはずの人格なのである。
 ところでレミュは歴史と政治が結ぶ切点には、事実と正反対な幾多の「事実」があることを知ってい、このため歴史の公証より稗史の裏に隠れた事実のほうをより信用する修錬が出来ている男なので、すぐさま記録を調べ、四人の皇族がトボルスクを出発してエカテリネンブルグへ着く三週間という日時の間になにかのズレがあるのだと判断し、それで調査をうち切ってしまった。
 レミュはブルターニュの信仰深い家に生れていつとなく徳性の陶冶を受け、おのれの好奇心で他人が包み隠そうとしている過去を摘発するようなことをなにより恥ずべき行為だと信じていたからである。
 レミュはなにもかも自分の胸の中におさめ、そ知らぬ顔で毎日ジョルジュに逢っていたが、自分のわずかばかりの給料も、時として不幸な二人の不時の用に立つこともあるかと思い、元気をだして働きだしたが、そういうある夕方、オペラ座の地下鉄の入口で偶然に勤めから帰るジャンヌと一緒になり、同じ線の車に乗ってサンミッシェルまで帰った。それ以来、レミュとジャンヌの間に地下鉄の入口で待ち合せる習慣が出来、それが秋の末頃までつづいた。
 その年の十二月十日の夕方、巴里に初雪が降った。ジャンヌはその日はいつになく急ぎに急ぎ、レミュを置き去りにしてあわただしく一人で帰って行ったが、レミュがアルコール・ランプで乏しく夕食の支度をしていると、見知らぬ女の子がジャンヌの手紙を持ってきた。不幸なことが起きたからすぐ来て欲しいという文面であった。
 ボナパルト街の古めかしい一郭にある袋小路アンパッスの行きどまりの拱門を入り、教えられたように石内庭クールの端にある穴から地下へ降りると、むかし葡萄酒置場だったらしい暗い湿った石壁の部屋の机の上に裸蝋燭を一本立て、ジャンヌが両手で顔を蔽って椅子の上にうずくまっていた。奥の壁に寄せて大ぶりな寝台があり、その後部にあたる天井の折釘に繩をかけ、ジョルジュが見事に縊死を遂げていた。
 レミュは寝台の端に掛けて無言のままひかえていると、やがてジャンヌが顔をあげていった。
「ジョルジュは巴里に初雪が降ると、ひどく弱って寝こんでしまい、短いときで半月、長ければ二月以上も起きあがれないのです。メランコリックの原因は私によくわかっているのですけど、心の病気なので、傍にいて手を握っていてやるほかどうすることも出来ませんのです。いつかはこんなことになるのではないかと心配していましたが、私の予感があたりました。弟にとって、生きて行くにはすこし辛すぎる人生だったのでしょうけど」
 そのとき三人ばかりの酔漢が石段の踏面で乱れた靴音をたてながら降りて来、ジャンヌの名を呼びながらはげしく扉を叩いた。ジャンヌは扉のほうへ立って行くと、「夜は客をとらないことをよく知ってるでしょう。なぜこんな時間においでになるのですか。なんとおっしゃったってお入れしませんから、うるさくなさらないでお帰りになってくださいましね」と扉越しに断りをいった。酔漢はわけのわからないことをわめきたて、足踏をしたり扉を蹴ったりして暴れていたが、駄目だとさとったのか、あきらめて帰って行った。
 レミュはいよいよ深まる不幸の淵をのぞきみ、いうにいえぬ苦悶に胸も張り裂ける思いをしていると、ジャンヌは椅子に戻ってきて、枯れきってかえって明るさを感じさせるといった淀みのない調子で、レミュにいった。
「おかしいと思うわ。こんな穢れた肉体を通ってくるくせに、ひとを愛するというこの気持が、汚れもせずに清らかなままで迸りでるというのは、いったいどういうわけなのでしょうか。あなたと待ち合せるために、大急ぎに醜業ブゾオニュを片づけ、息せききってオペラまで駆けつける純真さには、私も自分でときどき感動したものでした。お別れしましょうね。弟が死んだので、今日まで私に負わされていた務めから解放されることになり、巴里に居ることもいらないのですから」
 翌日、レミュが勤めから帰ると、机の上に紙包みとジャンヌの手紙が載っていた。
「これはつまらぬ私の覚書ですが、こんなものが一字一スウぐらいにも売れるものなら売って、それでなにか要用のものでも買ってください。ジョルジュにしてくだすったご親切に、なにかお返しをしたいのですが、差上げるようなものはなにもありません。これだけが私に出来るたったひとつのことです」
パリ 七・十二・二四
タチアナ・アレクサンドロゥチ・ニコロゥナ

 父はどなたもがおっしゃるように意志の弱いひとでしたが、人間として憎悪されるようなところはなかったと思います。平易なおだやかな心もち、ロシアの政治を改革することにも冷淡ではなかったのですが、周囲の旧勢力に自由な意志の発動をおさえられ、それが度重ったので、隠忍することに独特な生き方を見いだす消極的なひとになってしまいました。
 十九世紀以後の歴代のロシア皇帝はみな不幸でしたが、そのうちでも父の運命は希臘悲劇にも似た、眼もあてられぬような惨憺たるものでした。父の悲運のはじまりは、資質も力もないうちに望んでもいない皇位につかなければならなかったことと、心の冷やかな、手に負えないほど我意の強い、国民性も血の系統もちがう外国の女性と結び合わされたことだったように思います。
 母はご承知のようにヘッセンのアリスですが、それを推薦したのはカイザアとビスマルクで、ペテルブルグへ呼んだのはアリスの姉、ゲオルグ大公妃のエリザベトです。祖父(アレクサンダア三世)はたいへん気に入って大乗気だったのですが、父がどうしても承知しないので、せっかくのアリスの顔見せレセプシオンも意味のないことになってしまいました。
 アリスはヘッセンへ帰ることになり、送別の夜会があった晩、アリスは祖母(マリア・フェオドロオウナ)のそばへ行って、婚約不成立のみじめな結果を諷刺して、こういったそうです。「ロシアであったことはみな面白うございましたわ。帰ったらロシアで学んだことを早速やってみるつもりです」すると祖母は気の毒がって、「なにをなさるつもりか知らないけど、お国へ帰ってなさることなんかないのよ。なさりたいことがあるならロシアをいいようにお使いになればいいのです」といったそうですが、これはうまく言いあてた偉大な予言になりました。なぜかといえば、祖父は転地先のクリミヤ半島のリヴァディヤの離宮で、いまにも息をひきとるかといった大芝居をして見せ、臨終のたのみだと気の弱い父をおしつけて力ずくでアリスと結びつけ、アリスは「ロシアを思い通りに使うために」ロシアへ乗りこんで来たからです。
 祖母も後ではたいへんに後悔して、「あれ(ニコラス)は弱虫のくせに感受性が足りません」などと、母にひきまわされる父まで憎むようになり、父や母にたいする面当てに叔父のミシェル大公(皇弟)を可愛がりだし、お蔭で叔父の大公妃は祖母からたいへんな頂きものをしたりして驚いていました。
 祖母と父の感情がこんなふうに擦れあっているところへ、同族や親族の中には先帝を追慕する回想派といわれる一派があり、更に露仏同盟を中心にする祖母を含めた親仏派と、同盟に不満を感じている母を含む親独派の二派に分れているというたいへんな騒ぎなのです。同族は一人残らず互いに皇位をめざす競争者ですが、そのくせ腹の底まで臆病者どもで、叔父のアレクシス大公は第一次革命の前々日、一千万留の全財産を外国銀行へ逃避させ、セルゲー大公などは夜も昼も旅行馬車に馬を繋ぎっぱなしにし、一カ月の間、着たままで寝床に入っていたというありさまで、騒動の日は誰一人宮廷へ出て来ず、議員に逢うのは父だけ。あらゆる動乱は父の肩の上に雪崩れ落ちるのでした。
 お世辞をいって父に近づくのは、そうすることで利権を握ろうとするものばかり。真実の味方もなく、一人の友も与えられず、官僚は信じられず、露国社会党のテロリズムはたえず心霊をおびやかしつづける。父は恐怖と懐疑に悩み、なにか大きな奇蹟をのぞんで得態の知れない霊感にたよりだしたのも、またやむを得ないことだったと思います。
 ラスプーチンがアレクシスの病気を癒したというのは嘘です。あのひとが来る日にはアンナ(ウィルゥボヴァ)が前もってアレクシスの食べものへこっそりクロール・カルシュームを入れて置いたのにすぎません。
 それにしてもラスプーチンのデビュウは滑稽なものでした。
「ここにマッチの小箱がございます。私はアレクサンドラ皇后が、それを持ちあげることが出来ないと申します。なぜなれば、それは一噸以上の重みがございますから」
 母はおずおず手を伸してマッチの箱に触れた拍子に、手が硬直して動かなくなりました。あのひとは図に乗って、「どうか皇帝も」といいましたが、もちろん父は手もだしませんでした。場末のサーカスか市場の魔術師でもやりそうなことを大真面目でやるので、あたしたちは思わず笑いだしてしまいました。
 母が我意が強いこと、自分のことのほかはなににたいしてもすこしの感情も動かさないことは前に書きました。母の偏狭な性質には父は死ぬまで悩まされつづけましたが、それでも仲はいいほうでした。それもそのはず、父は一切母に逆らわず、言いたいように言わせ、したいとおりにさせておいたからです。そういう父でも、たった一度、ほんとうに怒ったことがありました。
 十六年の九月のことでした。冬宮附属の博物館に保管してあったロマノフ家の宝物のうち、大カザリン女帝の王冠の柘榴石とイワン雷帝の王冠の真珠とアレクサンダア二世の王冠の青ダイヤと、そのほか壁掛のゴブランなどが、いつの間にか模造品と上手にすりかえられているのを式部次官のトルストイ伯爵が発見し、専門家の確認書を添えて父に報告しました。その金庫は父と母と式部次官の三人しか知らない暗号の組合せで開けるので、父でなければ式部官、二人でなければ母なのです。父は母にたいする痛ましい疑惑で三日ほど懊悩していましたが、その午後、確認書を持って母の居間へ行き、刺繍をしている母のそばに立ってだまって確認書を読みあげてから、「私はこの結論を掴んでいるんだが」といつになく強い調子でいって正面から母の顔を凝視しました。母は手も休めず、ひとのことのような無関心な顔をしていましたが、「宝石がどうだとおっしゃるんですか。あたしたちにはアレクシスさえあれば、そんなものはどうだっていいじゃありませんか」といいかえしました。父は額ぎわまで赤くなって、「あまりいろいろなことが隠されすぎているようだ。私は真実を知りたいのだ。どうだね、言ってくれないか」と今日ばかりはたやすく許しそうもない語気なので、母は、「なにをおっしゃるんですか」と突っ張りだしたものの、声が震えてよく聞きとれませんでした。こういう場合、いつも母の危急を救うのはアンナにきまっているのですが、そのときも、いきなり飛びこんできて、「ツアレヴィッチ(皇太子)がまた血をだしていられます」と大きな声で叫びました。
 これでごったかえされ、母はなにかひどく辛そうな立場を救われました。父は二度と宝石のことは口にしませんでしたが、このことがあってから、母にたいする父の態度は、慇懃なばかりで心の籠らない形式的なものになりました。
 父と母の関係はこういう状態でくすぶったまま、ペテルホフにいる間じゅう、ツァルスコイエ・セロのアレクサンダア宮の監禁を経てトボルスクからエカテリネンブルグの最後の日までつづいています。その頃、父や母といっしょに先にエカテリネンブルグへ行った妹のマリーヤからこんな手紙を受取りました。
「ママは一日中不機嫌で、口をひらけばパパを非難することばかり。そういうひどい生活をパパは力強く耐え、家族を自分のまわりに置いて世話してやれるというのはなんという大きな恵みだろう、この生活が永久につづけばいいなどとおっしゃるのよ。なんという同化力! パパは宮殿の生活にもシベリヤの生活にも同じように調和できるのです。
 うれしい話をします。エカテリネンブルグの停車場の暗闇で、誰か知らないひとが通りすがりにあたしの手の中へそっとなにか握らせてくれました。なんだと思います? お金を十七留と五十哥……これがあたしの生涯でのただ一つの宝で、そうして全財産です。今日は寒かったのでストーヴを焚きました。薪がパチパチ燃えだすと、トボルスクのこじんまりした家のことを思いだしました。白粉をすこし送ってください。あたしのはみなになったのよ。この手紙が着くころはあなた方はこちらへ出掛けるくらいのところでしょう。マーシャ」
 トボルスクは町の東側にある陰気な沼地からあがる水蒸気のため、冬は寒く、夏は暑いという不愉快な土地でした。町の建物は半分以上森の中にあるのですが、私たちの家は赤煉瓦の地下室付の二階建で、露台と外廓がつき、高い塀で囲まれた広い中庭がありました。窓から見えるのはいかにもシベリヤ的な陰気な風景ですが、そのうちの二つだけは町のほうへ向いていて、あたしたちはそこから町の人の生活を眺めました。部屋は全部で十二室あって、二階があたしたちの住居になり、地下室は衛兵の居住区になっていました。比較的住みよく出来ていましたが、水道も瓦斯も電気も浴室も洗濯場もなく、部屋付の小間使いが隣の井戸まで水汲みの役です。
 外出は寺院と修道院と一週に二度、特に許されて町の公設浴場へ行くだけ。それも衛兵を引率した士官の監視つきです。あたしたちやアレクシスはそれでもまあ自由に遊んでいられました。アレクシスは外へ出ることも町の公園で好きなことをして遊ぶこともできましたが、逃亡の計画があるというので家中捜査され、ドルゴルゥキー大公の部屋からそれらしい手紙と、母の部屋から一万金ルーブリのお金が発見され、トボルスク、オムスク、トムスクの同情者が多数逮捕されてから、急に警備が厳重になってそんなことも出来なくなりました。
 父は昼食後は長椅子に長くなって煙草を吸いながら新聞を読むのがきまりになっていました。ちょうどいい折だから回想録をお書きになればいいとすすめてみましたが、父は絶対に自己を語らない主義なので実現しませんでした。
 ときどき父の眼が赤くなっていることがありました。寝不足のせいか、泣いたのか、それはあたしにもわかりません。父の顔はいつも平静で、冷たいくらいに見えるのですけれども、一人で部屋に閉じこもっているときは、背中を丸く曲げ、両手で顔を蔽って長い間もの思いに沈みこんでいました。唇の端が痙攣するときは心の中にたいへんな嵐が吹き荒れているのですが、そんなときでも顔はいつものとおり静かでした。
 父はあるときフレデリック伯にいいました。
「自由のないいまの生活を辛いと思わない。私の過去の日常はすべて囚人の生活だったからね。だがこの土地の寒さと孤独にはまったくやられる。陽の光と花の色……それもほんのすこし。家族といっしょにクリミヤで住むことを許してくれるなら、ロシア共和国の善良な一市民として、幸福に、静かに暮すのだが」
 母は部屋にとじこもってツァルスコイエ・セロから持ってきた宗教書を読み、何時間も何時間も法悦に浸っていました。そのくせ心には平和もなく、忍従ということもなく、すべてが怒りの種、傷つけられる鋭い刺なので、母のいうことといえば、いつもよかったむかしの思い出ばかり。それでも自分のあやまちにすこしは気がつくのだとみえ、
「あのとき気がついていたら。知っていたら」と独語をいっていることもありました。母の愚痴の種は父が無気力で闘争心のないこと。とりわけ退位のとき父がとった態度のことです。
「もっと争うべきだったのよ。争う力がなかったら、せめてうんと条件をつけるべきだったんです。なにひとつ条件をつけずに、革命屋どもに鷹揚に皇位をやってしまうなんて気ちがい沙汰よ。ニコラスはあまりお人好しで弱すぎるんです。ああ、あたしがその席にいたら……ほんとうにそこにいたら」
 そうかと思うと、急に元気をなくして、近侍のナリーシュキン伯爵夫人に、「あたしたちはもうなにもしてもらえないのね。ロシアにはもう友達というものがなくなったんだとみえるわね」などといい、そのくせペテルブルグへ帰れるという希望はもっていて、「なにもかもそのうちによくなるでしょう」と落着きはらった顔でいったりしました。
 私達、姉のオリガ、妹のアナスタジア、弟、私の四人はエカテリネンブルグへは行きませんでした。五月二十二日の朝、馬車に乗せられ、はじめ父たちが行くはずだったウハへ送られました。父たちが殺されたことはウハにいるとき公報を見て知りましたが、事実、ニコラス・ロマノフとその家族とあるだけで、あたしたちの名などは記載されていませんでした。あたしたちがエカテリネンブルグへ行き、みなと一緒に殺されたというのは、そもそもは誰がいいだしたことなのでしょうか。ジュデリックというひとの記録は私も読みましたが、ソヴエト政府がなぜ取消しをしないのか私にはわかりません。そんなことはどうでもいいほど私たちに無関心になっているのか、そうして置くほうが都合がいいのか、たぶんどちらかなのでしょう。
 一九二二年の春、ウハで転出の許可が出たとき、あたしたち三人で相談して、二人は修道院へ入り、一人は死ぬまでアレクシスの世話することにきめましたが、その籤は私にあたりました。巴里には叔父のパウル大公や帝政時代のチノブニク(高官)が大勢住んでいますが、私が巴里へ来たのはそのひとたちの庇護を受けるためではなくて、私が心にきめた贖罪がすこしでも早くすまされる条件のためでしかありません。父や母の死にかたは無惨でしたが、それでロマノフの罪業が終ったとは私には思われません。ロマノフが一人でも生き残っているかぎり、その一人はなにかのかたちで死ぬまで報償しつづけなくてはならないのです。私が選んだのはカルメリート派の「醜業」による贖罪、出来るだけ多くの人に穢され、辱かしめられることでした。ただ遺憾なのは、そういう間、逸楽を感じずにはすまされなかったこと、そうして得た金を生きてゆく糧を購うために使ったことのこの二つですが、やむをえないことだったと思っています。
 この覚書は誰のために書いているのでしょう。私としては、このようなものを書残して置こうなどと一度だって考えたことはありませんでした。J・Rよ、どう考えてもそれはあなたのためらしいのです。こんな血を持った私たちが結婚すれば、アレクシスとおなじ悩みを子供に伝えなくてはならないことはみな早くから知っていましたので、末の妹のアナスタジアさえ、ほんの子供のときから生涯結婚しないことにきめていました。私たちがなにより恐れていたのは、どこかであなたのような淳朴なひとに出逢って、愛情を感じだすかというそのことでした。でも私が恐れていた事態が、贖罪の前に来ず、終りに近いころにやってきたのはありがたいことでした。
 なぜかといいますと、愛情の甘さと優しさが身に沁みて感じられる頃だったら、課業もアレクシスのことも忘れ、絶えず口実をつくりだして身を焼きつくすまであなたを追い求めたろうと思われるからです。父がそうであったように、私にもアレクシスにも、メロドラマ的な空想を熱情的にかきたてる虚無的なロシア人の血が通っているからです。
 ドストエフスキーの「悪霊」の中の随想。「ロシア人は虚無的な思想がどこから来るのか諒解するのに疲れている。だがそれはどこから来るのでもない。虚無主義がわれわれのところで結実しているのは、ロシア人は誰もが魂の底で虚無主義者だからである」
 これは事実です。あのときは言いませんでしたが、アレクシスの自殺は、私をより緊密にあなたに結びつけようというアレクシスの思いやりだったのです。これがロシア人のやりかたです。なんというあわれなことでしょう。アレクシスの遺骸はダリュ街のソポール(露国寺院)の附属墓地へ葬りました。ところで私はエカテリネンブルグへ出発しようとしています。両親とマリーヤがそこで殺されたなどと信じているわけではありません。私が父たちと過すはずであった過去の〈時を求めに〉行くのです。叔父のコンスタンチン大公は〈K・R〉という匿名で幾冊か詩集を世に出し、豊かな資質を認められていた詩人で、ロマノフのただ一人の真の自由人ですが、一九一七年に死ぬまで、三十年の間、宮廷の見聞を書きためた手記がイエナ街十番地のボォル大公の手元にあります。お望みならこの覚書といっしょにお売りくだすって結構です。T

 この手記はコンスタンチン大公の回想録と合せて「覚書」M※(アキュートアクセント付きE小文字)moires というタイトルで一九二五年にパイヨットから出版された。ニコラスの死後、エカテリネンブルグの居間の机から発見された断想が序文についている。
「誰も彼もボルシェヴィキのことしか考えない。ところがそれを操っているのは外国なんだ。なんという困難な時! 独裁主義が終るときはロシアの力と栄光が滅びるときだ。この窓の上にもそうした面影がある。そうしたツララ(氷柱)が形づくられている」





底本:「久生十蘭全集 ※(ローマ数字3、1-13-23)」三一書房
   1970(昭和45)年2月28日第1版第1刷発行
   1998(平成10)年2月28日第1版第7刷発行
※「ソヴエト」と「ソヴェト」、「ウィルウボヴァ」と「ウィルゥボヴァ」の混在は、底本通りです。
※キリール文字列中の「グレーブアクセント付きO小文字」「アキュートアクセント付きE小文字」のように見える文字を、それらで代用し、アクセント分解で表現しました。
※「(“Interrogation de Maneilof 1917)」が「”」で閉じられていないのは、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:まつもこ
2019年4月26日作成
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