南極記

久生十蘭




 一九二八年(昭和三)の十二月二十九日、三発のフォッカー機で、西経百五十度の線を南極の極点に向って飛んでいるとき、南緯八十度附近の大氷原の上で、見せかけの花むらのような世にも鮮かな焔色したものがバード大佐の視覚をかすめた。
 南極大陸はあたかも盛夏の候で、空は無窮の蒼さに澄み、雲の影ひとつなく、プリンクという南極氷原特有の光暈で彩られた無住の寒帯が、百万劫の静寂のなかに茫漠とひろがっている。風房の視野に入ってくるものは、すべて氷河時代の病的な形容のみで、氷の崖か、氷の瀑布、氷卓の根もとに吹きよせた漂雪、さもなければ大きな口をあけた内陸氷の亀裂といったようなものでしかない。見るかぎり白一色に結晶し、白金プラチナよりも堅く厳めしい大氷原のただなかで、眼をくすぐるような都雅な色彩に接しようなどとは思っていなかった。高度は四百で、最初の触目では、右前方十粁ほどのところにあって、赤い二つの点としか見えなかったが、進むにつれて、川面に散りこんだ花びらのように、たえずゆらゆらとゆらめきながら右の機翼の下へ流れ寄ってきた。
 バード大佐は樹の高さを目測して、反射的に「火焔木フランボアイアンの花だ」と思った。この相会はあまりにも唐突であった。なにか愕然と人を搏つものがあって、われともなく取乱したが、しかしほどなく冷理にたちかえった。ここには「ロス海の悪魔」だの「エレブス山の妖精」だのという奇体な幽霊がたくさんいて、いろいろなあやかしをやってみせるが、この辺は、時には零下八十二度(一九三四年七月二十一日、南緯八十度〇八分における記録)まで下る、想像に絶した八寒地獄の登り路で、沼地の水垢をつくる藻類と遠いつながりのあるコレスロンという微生植物しか生棲しえないことを知っている。この大陸の内奥には、人間の智慧では解けないような、どういう不可知な現象が隠されていようとも、百万年の劫を経た不壊の氷の上に黒土で養われる植物が生きているというような奇怪な「実在プレザンス」は考えられもしなかった。プリンクの悪戯か、視覚の障害か、たぶんどっちかだろうと思ったが、それにしても、風に洗われるように、たえずゆらゆらとゆらめいているのがふしぎである……それは火焔木の花でなどなかった。二米ほどの竹竿の上でひるがえっている日本の国旗なので、その下で目まぐるしくめぐりめぐってやまぬのは、赤ペンキを塗った三角形のブリキの標識板であった。
「あの連中の仕業だ」と咄嗟のうちにバード大佐は思いついた。
 南北の両極で探検事業がひしめきあっている二十年ほどの間に、世界中の人間を唖然とさせた三つの超俗的な事件があった。
 一つは、北極の極点を通過してアメリカへ行く企図をもって、手軽な軽気球で欧羅巴ヨーロッパを飛びだしたまま、案の定、行衛不明になってしまった瑞典スウェーデンの「アンドレー教授の軽気球事件」、もう一つは、北極探検家が一度一分を争っていた一九〇二年に、フレデリック・クックというアメリカの外科医者が、北極点到達を宣言した「クック博士の北極征服虚報」、それから、世界中の人間が誰一人予期さえもしなかった「日本人の無類の南極探検」の三つがそれなので、アンドレー教授は軽妙な着想によって、クック博士は辛辣な諷刺のゆえに、日本の指南丸は比類のない無謀の点で、いずれも人の心に忘れられぬ印象を残した。
 何者とも正体の知れぬ、捕捉しがたい、意図不明瞭な日本の南極探検のことは、バード大佐も、当時、濠洲のシドニー・サン紙の記事を読んで知っていた。新聞によると、その連中は「中形端艇ピンナスよりまだお粗末な、百五十噸ばかりの漁船に乗ってやってきた、蒙昧無頼な日本人」の一団で、ホテルに泊る金もなく、ミルストホーン公園の隅で野営をし、上着の下にシャツも着ない不体裁な恰好でうろつきまわるため、大方の市民の鼻っつまみになっていたが、その乞食のような連中が、われわれは南緯七十四度十六分まで行ってきたなどと出鱈目な放言をするのでよけい評判が悪かった。
 シドニーの市民はシャクルトンの探検隊を送迎し、七百噸の「ニムロッド」号でさえどんな目に逢ったか知っているので、難破船の寄せ集めのようなみじめな船が、一年中、やむときなく暴風雨が吹き荒れている南氷洋の怒号帯ローリングホテイスや五里霧中の濃霧帯フオジヒフイテイスを越え、氷山と圧氷の間を徘徊してきたなどといってみても、誰一人、真に受けるものはなかった。
 とんでもない法螺吹きどもは、その年の十一月の中頃、ボロ船に乗ってなんということもなくシドニーを出て行ったが、翌年の三月の末、新西蘭(英国の自治領)のウエリントン港に帰ってきて、こんどは南緯八十度〇五分まで行ってきたと発表した。タカセという隊長はインタヴュウに行った土地の新聞記者に、こんな挨拶をしたというのだった。「こんどの探検で、われわれは気をよくしているんです。だが、たいした成功だとは思って居ませんよ」
 そのとき、こんな対話をしている。(新西蘭タイムス一九一二年三月二十四日、ウェラー記者)
「南極探検はこれが最初ですか」
「そう、はじめてです」
「こういう成功を見るまでには、相当な準備をされたことでしょう」
「いや、格別、どうということもしなかった。なにしろ、あてのないことだから」
「こんどの行程は、前もって計画されたのですか」
「南極については、正直なところ、われわれはなにも知らなかった。往航でここへ寄ったとき、ヤング名誉領事から南極の地図と、シャクルトンの探検記(The Heart of Antarctic, vol. ※(ローマ数字2、1-13-22), London 1909のこと)を貰ったので、それを読んで、だいたいの方針をたてた」
「食糧は」
「米と罐詰、鯛味噌、昆布(トロロ昆布)……それから金平糖。まあ、そういったようなもの」
「橇行中の炊事は」
「日本から火鉢を持ってきたので、それでやった」
 ロス海の鯨湾で日本の探検船と出逢ったことは、アムンゼンがタスマニヤ島のホバート港でデイリイ・クロニクルの記者に語って居り、その写真と消息の一部が、フランスの「世界一周」という雑誌に載ったのを、バード大佐も見ていた。一九一二年のはじめというと、あらゆる科学的な手段と方法を網羅したモーリンのオーロラ号とフィルネルのドイチェランド号が探検に従事していたが、それでさえ圧氷に追いまくられ、七十度内外の内陸の周辺を彷徨しただけで終ってしまった。
 極地の神々ともいうべきアムンゼンとスコット大佐を除けば、ただ一人シャクルトンだけが二回目の探検(スコットといっしょに南極に来ているから、実際は三回目)で、やっと八十度圏内へ犬橇を乗り入れた。というのは、言い方を変えれば、ジェームス・クックがはじめて七十一度十分の南極圏に接触した一七七三年(安永三)から一九〇九年まで、百三十六年の間に二十回以上の探検が行なわれたが、この三人のほか、かつて八十度を越えたものはなかったということなのである。
一七七三 ジェームス・クック(英) レゾリュウション号             南緯七十一度十分
一八〇三 リジョウスキー(露) イムペラトール号               同五十九度五十八分
一八二一 ベリングハウゼン(露) ウォストーク号                 同七十度〇五分
一八二四 ウェッデル(英) ジェーン号                     同七十四度十五分
一八三八 ドュルヴィル(仏) アストロレーブ号                同六十九度五十七分
一八四二 ウィルクス(米) ヴィンセネス号                   同六十九度十五分
一八四二 ジェームス・ロス(英) エリバス号                   同七十八度十分
一八九五 ボルヒグレヴィンク(諾) サウザーン・クロッス号           同七十八度五十分
一九〇三 ドリガルスキー(独) ガウス号                    同七十七度三十分
一九〇三 ノルデンショルト(瑞典) アンタークチック号             同六十八度二十分
一九〇四 ロバート・スコット(英) ディスカヴァリ号(第一次)         同八十二度十六分
一九〇四 ブルース(英) スコティア号                     同七十七度〇五分
一九〇五 シャルコー(仏) フランセェ号                    同七十度二十六分
一九〇九 シャクルトン(英) ニムロッド号(第一次)             同八十八度二十三分
 これがこれまでのギリギリの実績で、例外というようなものは一つもなかった。隊長から探検船の下級水夫まで含めれば、万という数に達する壮烈な大機動戦で、三人の世界選手――諾威ノルウェーのアムンゼン、英国のスコットとシャクルトンだけが八十度以南を征服した。アムンゼンは十四年前、ゲラヤへのベルジーカ号に乗り、南極海で十四カ月も漂流し、北氷洋で北西通路突破の苦難に充ちた体験を経たのち、一九一一年になって南極征服に成功した。スコットは一九〇一年から四年まで、南極海の圧氷の間に船をとめて執拗な攻撃を繰返し、四年がかりで八十度以南へ二度十六分だけ進み、それから八年後に「世界最悪の旅」といわれる、歌にもうたえないような橇行をつづけたすえ、辛くも極点に辿りついた。シャクルトンはスコットの第一回南極探検に同伴し、壊血病であわや死籍に入りかけるほどの苦楚をなめたうえ、六年後、再度、南極大陸に迫って、八十八度二十三分まで行った。ところで、この三人の世界選手は、もう一人も生きていない。スコットは南極点からの帰り途、(日記の日付から推すと、たぶん三月二十九日)氷原の上で凍死した。シャクルトンは第二回目の探検で、南極大陸周航の企図に失敗し、疲労困憊して南ジョージア湾の捕鯨基地で死んだ。アムンゼンはついこの年の五月末、ノビレ大佐の救援に飛行機で飛びだしたきり、消息を絶ってしまった。
 世界の初年のような南極大陸の景観に、いささか新しい意味を附与するのに、ぜひとも危険だけが必要だというのではないが、探検の道は、死もまた、事業上の秩序による当然の行為と見るような、人間の篤実さに疏通した、極めて合理的なもので、気紛れな思いつきや、出たところまかせといった、いい加減なことでやれるような仕事ではない。濠洲のシドニー・サン紙は、
新大陸の発見者なりとおめおめ吐かす酔どれ水夫どもは鉄鎖に縛して海に投げこむべきにあらずや? (ボードレール「航海」)
 という詩の一句を報道に代え、新西蘭タイムスを通じて発表した新大陸発見の囈言を体よく黙殺してしまった。
 アムンゼンは、鯨湾で日本の探検船に逢った、といっているが、間もなくタスマニヤ島へ引揚げ、内陸探検の実際を見ていないので、それ以上の事実には触れていない。シャクルトン第一回南極探検に同行したことのあるシドニー大学のデヴィス教授だけは、いくぶん好意のある意見を発表していたが、知識も用意もなしに南極の岸に行きついた、日本人の無知の熱情に驚異の念を感じるといったくらいのところで、もちろん新大陸発見のことではなかった。
 指南丸の日本人がウエリントン港で架空の宣言をしてから、十五年の歳月が流れた。アンドレー教授の軽気球はまだアメリカに着かないが、何年待っても、もういかなる土地にも着陸しないだろう。クック博士のほうは、ギッブスというデイリー・クロニクルの記者が食いさがって徹底的に糾弾をつづけ、その後、公式調査によって、まったくの虚報だったことが明白にされた。日本の南極探検のほうは、政府の主権要求もなく、占領決議のあった事実も聞かず、完全に無視され、忘れられてしまってから久しくなっていたので、南緯八十度〇五分の国旗の待伏せはいかにも唐突で、実相のあまりの意外さに、しばらくは思考の作用も営みかねるといった有様だった。
 なんの奇もない白地の布に、太陽を表徴する未開の赤丸を捺した単純無比な標識は、強悍人種ラース・フォルトの陽気さを示そうとするかのように快活に身を躍らせ、遠い時の流れの彼方から、忘れかけていた言葉で話しかけてくる。「ここまでは来ましたが、大した成功だとは思って居りませんですよ」
 バード大佐の網膜に、氷の谷間をめぐり、氷瀑を横切り、零下五十度の寒気の中を、蟻の執拗さと頑冥さで、倦むことなく前進してくる人と犬橇の一隊がうつる。前人の酸苦も死も、もろとも一と蹴りに蹴りつけ、なんの遠慮もなく、苦もなく渋滞もなく、陽気な大騒ぎをしながらやってくる……
「なんという民族なんだろう」とバード大佐は呟いた。
 極地を飛行機で飛びまわることは、かねて地理学者の間で物笑いの種になっている。やはりこのフォッカー機で北極の往復飛行をやり、アムンゼンがノルゲ号で北極横断飛行に成功したその年、大英学術協会の総会がリーズ市で開かれたとき、地理学部長のルドモア・ブラウン博士が両極地方の地理学上の諸問題という講演でこのことに触れている。
「高緯度地方の探検に、飛行機や飛行船が用いられるようになったのは、時代の流れからいっても当然な成行だが、今日までのところでは、行動が派手だというだけで、たいして研究上の成果は得られなかった。ノルゲ号の搭乗者が高速飛行の途次に瞥見したものは、氷に蔽われた海だけであり、陸上の上を飛んだときも、ここは氷海にあらずという、ありきたりの確認をしたほか、なんら重大な事実を発見しえなかった。バード大佐の北極往復飛行は、そのコースにはじめから陸地のないことがわかっていたから、学術的価値は更に低いものであった。現在、要求されている探検は、刻苦して長く天然現象を観察することと、正確な測定をすることである。高速度の飛翔の間では、そうした研究は出来ないし、予備的な探検においても、疑わしい価値を発揮するに過ぎない。基地そのものは海上運輸の便不便で多大の制限を受けねばならず、探検のための着陸点を探検することが、仕事の大きな部分になるからである、云云」
 地理学者の言い分はよくわかったが、探検というものには、気象の観測や地磁気の追及のほかにもう一つ仕事がある。一九一一年までは、誰がより深く八十度圏内に入るかということが、競争の目標になっていた。なんのために、こうまでして一度一分を争うのかという疑問も起さず、競争のほうが競争の目的よりも重大視されていたが、アムンゼンの南極到達をもって競争時代の幕が閉じ、南極に突入する南極家にとって、生命の意義は、未知の領域の征服ということにかかってきた。
 南極での領土の征服は、むかしながらの素朴な方法で行なわれる。探検者が氷原の一点に立って、「ここは俺の土地だ」と宣言すれば、その地点の四方、視野に入るだけの土地が先占されたことになる。従って、その地点が高ければ高いほど、いよいよ領域が広くなる勘定なのである。この地方はスコット隊の通ったベアドモア氷河の線からも、アムンゼン隊の通ったベアドモア・ハイベルグ氷河の線からも、はるか西の方に外れている。ここに内陸の氷原が形成されて以来、かつてただの一度も、獣類にも人間にも汚されたことのない前人未踏の土地だと思っていたので、この上を飛ぶことに、先占という斬新な喜びが感じられたが、こういうぬきさしのならぬ証拠を見せつけられると、この往復飛行は、アムンゼンやスコットが到着したところを、空から見てみるということのほか、たいして意味のないものになってしまった。
 まったく、なんという民族なんだろう。この二十年ほどの間、独逸のドリガルスキーも、諾威のボルヒグレヴィンクも、瑞典のノルデンショルトも、英国のブルースも、仏蘭西のシャルコーも、辛酸による研磨と、ひたむきな苦労を重ねながら、八十度圏を望んでひしめきあったが、七十七度からせいぜい七十八度五十分ぐらいのところで、恨みをのんで引退ってしまった。八十度〇五分へ入りこんだというのは、それだけでも世界的な事件だというのに、日本の探検隊は、照れ臭そうに眼を伏せながら、「お羞しいようなことで」などとぬかすのだ。シャクルトンは最終になった第三回(第四回)の探検に、近代装備をした七百噸のニムロッド号を捨て、わざわざ百二十噸のクェストという捕鯨船で南極大陸の周航に出かけ、とうとう悲惨な最後を遂げたが、この一見無意味な冒険は、百四噸のみじめな漁船で南極洋の氷海を乗切った、日本の探検隊の行跡に啓発されたからだと、死の直前にファー・イーストの記者に洩したということだった。信じられそうもないことなので、笑って聞き流してしまったが、氷原の上でひらめいている国旗を見ているうちに、ファー・イーストの記者が言ったことは、たぶん本当だったのだろうというような気がしてきた。
 それにしても、あれから十五年も経っている。長い年月の間、この国旗が極地の劫風にも吹き倒されず、針氷の吹雪にも傷められず、その時のままのすがたで、執念のように翻っているのは、なにか魔性の生物でも見るようで不気味だった。低緯度の土地では、一枚の布切れが十五年も風雪に曝され、なお原形を保っているようなことはありえない。いったいこれはどういうことなのだろうと考えていたが、間もなく、そのわけがわかった。
 ここでは、他の諸大陸ではありえないようなさまざまな奇異なことが起る。一例をあげると、南極の内陸は、雨量(ここでは雪だが)の少ない点で、アフリカの沙漠地帯に匹敵するという意外な事実がある。一九〇粍から五〇〇粍くらいまでしかないから、一年の間に空から降る雪は、わずかに二十糎(約七寸)の氷の厚さを加えるにすぎない。これは海岸に近い氷堤上のことだが、内陸では、いろいろな形の氷河になって運び去られるので、堆積する量はそれよりもまだ少ない。のみならず、降雪はかならず暴風中にはじまるから、雪はすべて吹雪のかたちになり、積もるより吹き飛んでしまうほうが多い、そのため南極大陸の景観は、年々歳々、いささかも変化しないという、ふしぎなことがもちあがる。一九一一年にアムンゼンやスコットが見た陸地のかたちは、百年前にロスやウェッデルが見たものとまったく同じである。ロス海の近くにある小さな湾に鯨がたくさん泳いでいたのでシャクルトンが一九〇一年に「鯨湾」という名をつけたが、そのときの沿岸のスケッチは、九年後にアムンゼンが見たものとすこしも変りはない。暴風も、雪崩も、氷山も、吹雪も、幾万年の過去から未来まで、毎年、おなじような現象が繰返されているにすぎない。南極大陸には細菌も黴菌も生棲せず、空気はものすごく乾燥しているので、ここでは、ものが腐るとか、変質するとかいうことは絶対にない。スコットが基地に置いてきた卵は、十年後もそのままの鮮度を保っていた。南緯八十度〇五分の氷原の上に、十五年の間、旗が朽ちもせずに残っていたのは、つまりは、こういった特異な風土のせいなのだと、はじめて諒解した。

 欧羅巴ヨーロッパには、西暦百年頃から、南方の海に未知の大陸が存在するという伝説があった。一五七一年版のオルテリゥスの「全世界図」(これは万暦壬寅に利瑪竇マテオリッチの「坤輿全図」となって日本にも伝えられた)には南回帰線から南極に及ぶ仮想の大陸を描いて未知の南大陸 Terra austraris nondum cognita と命名しているが、欧羅巴、亜細亜、亜弗利加を合わしたものの五倍もあり、地球の南半を蔽う広大な地域で、そこに富み栄える国があるというのが、その時代の地理学の定説になっていた。
 幸福な人類を発見するブランダンの「モント・ブランダン漂流記」も、七つの都を見る「アンチラ島譚」も、キャベェの「イカリ旅行記」もみな南方の未知の国へ理想郷を探しに行くといった趣向になっていたが、その頃は、極地に近づくと、想像もつかないような異変に遭遇すると考えられていたので、これらの南海回遊はたいへんな冒険味を発揮することになるのである。
 十六世紀のメルカトルの世界図では、南北の「極」そのものは「恐ろしく高く聳え立つ黒い岩」として表現され、大洋はすべて奔流になって極にある湾の中へ流れこみ、最後は地球の胎内へ吸いこまれてしまうように描かれて居り、トレミーによると、南の極には不可知の火の海があって、そこで船も人もみな焼けてしまうことになっている。
 南極の幻想を美事な散文で仕上げをした最初の人はE・A・ポォだが、一八三三年(天保三)頃でも、南極はまだ中世紀のままのすがたをしている。
「瓶から出た手記」では、「発見デスカヴァリー」という象徴の船に乗り、ニュウ・オランダ(濠洲の古名)の海岸に沿って、いかなる航海者が来たよりもずっと南へ下って行く。流れる黒檀のように黒い永遠の夜の海で、無限の蕩揺をつづけたのち、メルカトル式の南極の渦巻に巻きこまれ、船もろとも地球の内部へ逆落しになってしまう。
「船のそばにあるものは、永遠の夜の暗黒と、泡だたぬ波浪の混沌カオスで、左右、一リーグほどのところに、巨大な氷の城壁が、荒涼たる天空に向って、宇宙の壁のように聳え立っているのが、ときどきぼんやりと視覚にうつる。
 落下する瀑布のような早さで南方へとどろき流れる奔流――これを潮流と呼んでいいものなら、想像どおり、船はたしかに潮流に乗っているのである。われわれはいま、なにかすばらしい知識――それを知れば、身の破滅になるような、かつて一度も人間どもに啓示されたことのなかったある秘密――に向って突き進んでいる。それはもう明白なことだった。この潮流はたぶん南極そのもののところへわれわれを運びつつあるのだろう。
 おお、なんという怖しさ! 氷の壁は右に左にひらく。はるか高い天空の闇の中に頂が消えている巨大な海水の円形劇場の縁を、船はめざましい同心円を描きながらぐるぐる旋回している。自分の運命について、おもむろに思惟をめぐらすような時間は、もう残っていそうもない――円は急速に小さくなり、いま、われわれは遮二無二渦巻の真只中へ走りこんでいる。大洋と暴風が、咆哮し、怒号し、雷のように鳴りはためいている中へ――船はぶるぶるふるえている。おお神よ、そうして――沈んで行く!」
「アーサー・ゴールドン・ピム物語」では、ピムはジェーン号という船に乗って、氷に蔽われない大陸を発見するまで、大胆にどこまでも進む決心で南へ下って行く。南緯七十八度半で、氷山や、流木や、大小の海燕などを見、北極熊の一種を殺して食べ、八十二度五十分で「仙人掌の一種」や「山櫨のような赤い実の一杯ある叢」に行きあったりし、南緯八十三度二十分、西経四十三度〇五分の附近で、熱帯にも、温帯にも、北の寒帯にも、自分らが通ってきた南極地方のものとも似ないツアラルという島に到着するが、ひどい目に逢ってそれから丸木舟で逃げだし、南緯八十四度以南の無人の海を漂流したすえ、霧のような灰を降らせる、模糊たる「現象」の中へ突進して行く。
「三月五日。 風はばったりとやんでしまったが、強い潮流のお蔭で、われわれはなおも南へ流されている。
 三月九日。 灰のようなものがたえずわれわれのまわりに降りそそいでいる。南の水平線に見える霧の峯は、昨日よりいっそうはっきりした形をとりはじめた。それは無限の彼方にある城塁から、海にむかって転び落ちて行く永劫の瀑布、とでも名づけるほかはなかった。この巨大な布は、南の水平線にいっぱいに拡がっている。しかも、音ひとつ立てない」
「瓶から出た手記」は一八三三年(天保三)の作で、ポォは南緯七十四度十五分まで行ったウェッデルの探検記や、エンタビー・ランドを発見したビスコォの報告を読んでいるにもかかわらず、依然としてメルカトルの影響に支配されていたらしいことがわかる。詩情に託して、熱情的な空想の変形をやっているわけだが、ウェッデルやビスコォが行ったのは、南極のほんの入口ぐらいのところで、その向うに、地球の核へ逆落しになる大洋の極限があるという観念を捨てきれなかったのかもしれない。「ゴールドン・ピム」は氷山の漂う南極海を越えた彼方で、灰を降らす火の海に行き着いている。ここでは極という未知の地域にたいする不安と恐怖を、冥茫たる、霧のような混沌とした色と調子のニュアンスで、身に迫るほど凄涼と描きあげているが、ポォはこの小説でめずらしくいろいろな間違いをやっている。南極には、魚と海獣を除いて、動物も植物も存在しないから、北極熊の一種や流木に出逢うわけはない。また南緯七十度から南緯八十三度あたりで、さかんに船を走らせているが、七十度圏以南は、平均高度九千尺から一万尺に及ぶ高峻たる内陸氷原なので、一月五日以後、十八日まで、ジェーン号は大陸の上を航海していたことになる。三三年というと、ウィルクスがはじめて南極大陸の存在を主張した、一八四二年より九年も前で、それまでは誰一人、南極に大陸があるなどと確言したものはなかったのだから、こういう間違いは当然ありうることだったろう。というのは、欧洲全体の一倍半もあるこの広大な大陸は、一九二七年の現在ですら、ほとんどなにもわかって居らず、架空の「土地」を発見してみたり、取消してみたり、間違いつづきのなかで、ごったかえしていたからである。
「地球の南極に大陸が存在するということは、今日まだその基礎が極めて周辺的な観察に立脚して居り、全長の三割五分にあたるわずか五千哩の海岸しか知られていないので、南極大陸の存在を立証する直接の根拠を欠いている。二十世紀の初頭から今日までの成果も、要するに、一八八六年にサー・ジョン・ムレーが南極大陸の輪郭について、たぶんこれくらいだろうと予想したものを、ほんのすこしばかり改変した程度にすぎない。当時、ムレーはロス、ドュルヴィル、ウェルクスなどの探検の結果と、少数の捕鯨業者及びチャレンジャー号の報告などの乏しい材料しか持って居ず、そういった、もののついでに獲られたような間接的な証拠のみによって、南極大陸なるものを想像したのであった。従って、現在では、ムレーの地図から「ウェッデル海」と称するものの一部と、南緯八十二度の辺から北へ四度ばかりのところを削除しなければならなくなっている。
 南極で「陸地ランド」と称するものの大部分、殊に内陸の海岸線を示す重要点と考えられるものは、多少の例外を除いて、みな十九世紀中に発見されたものである。エンダビー・ランドなどというものは、蜿蜒、三千哩以上の海岸線を持つと想像されているけれども、一八三一年にビスコォが発見して以来、今日まで誰も実際に見たものはなく、真面目に探検されたこともないといった有様である。
 気象学の方面では、現在、われわれの手許にある資料は、南極沿岸の島か、近海探検の汽船、南極の短い夏の間にあわただしく七十度附近へ走りこんだ貧弱な調査隊によって蒐集されたものがその全部で、内陸の奥のことはなにもわかっていない。かつてそのあたりに固定基地が設けられたこともなく、沿岸を越えて長期の冬季観測が行なわれたこともない。犬橇を駆って集めた片々たる資料は、みな比較的に温い夏の間だけのものにすぎないのである。」(一九二七年、リーズ市におけるルドモア・ブラウン博士の講演)
 南極の風景は、太陽が熱を失って冷くなってしまった後、万物死滅して永劫の氷の墓場となり、暗黒の宇宙で空しい旋転をつづける全太陽系遊星の未来の予想図に髣髴するといわれる。厚さ四千尺の氷蓋(一九四八年、米国海軍南極探検隊による爆発試験の報告)に蔽われ、周辺に見あげるような氷の断崖や堡氷をめぐらした、平均高度九千尺という欧羅巴ヨーロッパの一倍半ほどの異様な高原が、南極の頂点を中心に南緯六十七度のあたりまでほぼ円形にひろがっている。北と南に浮氷にとじられた湾入がある。内陸の西側に、二つの大氷河を挾んだ一万尺から一万三千尺の断層山脈が極に向って連なっているが、その先はどこまで行っているものやら、現在のところでは不明である。内陸の東側、フランスの全土にあたるほどの領域は、七千尺から一万尺ぐらいの卓地になっているらしく思われるが、確かなことを言えるものは一人もいない。総体として、極点にあたるあたりが一番高く、そこから四方へ放射状に低くなっている。従って内陸の氷蓋は、氷河運動の形式で、傾斜のあるかぎりたえず緩慢な流下をつづけ、最後は海岸までずりさがってきて、氷の護岸をつくるか、海の上へ泳ぎだして氷山になる。
 宇宙から見れば、渺たる一個の遊星にすぎぬ地球というこの土塊は、二十三度半の傾斜をしながら偏奇な遊行をするので、南極では、一年が昼だけの季節と夜だけの季節に二分される。南極では、地球の回転を横から見ていることになるので、太陽は地平線の近くを横転するばかりで、三十三度半より上にはあがらず、落日はいつも斜めに沈んで行くが、これは見る眼にも印象的である。
 この地方は、北極のように暖流や暖かい気流の流入がないので、世界無比の恒寒地帯になっている。内陸の奥で、零下八十四度というところまで測ったことがあったが、欧洲全土に欧露を加えたほど広いこの大陸では、一地点におけるある一日の計測などは、なんの意味もなさない。それからまだどれほど下るものか、想像もつかないからである。
 内陸の氷原では、零下四十度は常温というところだが、五十度まで下ると、温度傾斜がはげしくなるので、かならず風が吹き起ってくる。氷原の氷も寒気で縮むかとみえ、地殻の苦痛が身に感じられるほどである。この凍風をまともに顔に受けると、十秒とたたぬ間に皮膚が剥がされてしまう。氷の上に立っていると、足の指が急速に死にはじめる。その辺を跳ねまわって生きかえそうと努力しているうちに、こんどは鼻が凍りだす。その手当をしていると、手が凍りつく。六十度となると、徐々に劇薬の中へ落ち込んでいく、異常な苦悶を経験することになる。それもしばらくのことで、間もなく、全感覚が脱落し阿片でも飲んだように、なんの苦痛も感じなくなる。
 ここでは、雪さえも並々ならぬ形相をしている。色は真白で、氷のなめらかさも、透明さもない。六稜にならずに、針ともいえないような微小な針状の結晶をする。ちょうどタンポポの冠毛のようで、息で吹いただけで飛んでしまう。手で掬おうとすると、手の起す風でふわりとよそへ行ってしまう。軽すぎるので、降ることもできず、巻雲のようになって大気のなかに浮んでいることが多い。零下六十度ぐらいになると、いよいよ微小な分解をとげ、雪の上を歩いても足跡が残らない。
 南極とは、こういった魔物だが、ここで屡々起る天候の突然異変は特に悪魔的であって、今日の気象学の知識では理解されないことが多い。低緯度地方の予測や予報の技術は、全然、この地方にあてはまらない。ある年の経験や記録で、他の年の天候を予想することは絶対に不可能である。一例をあげると、一九一二年の二月七日、ロス海に向いた氷堤上の温度は華氏の零下九度だったが、翌八日には零下七〇度に下った。こういうことがなんの前触れもなくはじまる。この気温異変はスコット探検隊を破滅させる機縁になった。日本の探検隊は、その日、船に帰っていたので、一日ちがいで助かった。
 一九二三年、スコット遭難十周年の記念講演で、英国の気象学者のシムプソン博士が、まだ世界に知られていない南極大陸の天候異変と吹雪について解説を与え、識者の注意を促したことがあったが、南極独得の大吹雪はこの地球上で最も恐るべきものの一つになっている。南極大陸の気流の動きは、大体が高気圧性で、大気は大陸から外側へ流れだすが、これに地球の自転が作用するので、風向はみな東風の分力をもっている。海岸に近い氷堤上でよく猛烈な大吹雪が起るが、これは気温の激変で、海上の気圧と内陸の気圧の差が急に大きくなったところで、移動気圧波の形式によって、唐突にはじまるのである。一九一二年はよく吹雪があり、日本の探検隊を南緯八十度〇五分のところから吹き落してしまったが、二月末から三月のはじめにかけて、約十日の間、秒速四十五米の吹雪が、一分の休みもなく吹きに吹き、スコット隊の全員五名を氷原に凍みつかせてしまった。
 南極地方で内陸の探検をするということになると、南極海の氷山と流氷と長い戦いをやったのち、氷の城のように聳えたつ四百尺の氷壁を攀じのぼって、内陸氷の台地の上に出るところからはじまる。踏破する氷原というのは、実は大陸の表面にある山嶺や谿谷を埋めつくした大氷床なので、複雑な褶曲を畳んだ峻嶮たる氷の山嶽の間を、氷河の亀裂を迂回しながら、喘ぎ喘ぎ分け登ることをいうのである。南極点を征服するということになると、その困難は想像に絶したものになる。海岸から南極の頂点までの距離は、パリ=ベルリンの一〇七〇粁よりまだ二百粁も遠い。東京と福岡ほどの距離を、犬橇について、九十日から百日ぐらいかかって徒歩で往復するのだが、八十度以南は大氷河についてのぼる無限の氷の段階で、そこで零下七十度以下の寒気に凍てつかされ、秒速三十米の吹雪にたえず吹き悩まされるのである。シャクルトンは、人間が南極の八十度圏内へ入ると、あたかも地球からほかの遊星へ投げこまれたような気がするといっている。「そこでは、行動は、すべて未完成で、幼稚で、所在にあるじたることを失い、思考作用の空虚と無為は、果てしないものになる。たとえば、歩きながらわれとわが身に話しかけ、その言葉を聞き入るような迂濶な真似をする。八十度圏の彷徨中に起ったことは、あとで思いかえすと、みな緩慢な動作の物憂い幻だったとしか思えない」
 八十度圏は、おおよそそういったところなんだろう。それはわかったが、極地点ではどんなことがはじまるんだろう。アムンゼンの南極探検の報告書には、「われわれは目的地点に到着せり、行旅は終った」とそれだけしか書いていないが、ノルゲ号の北極横断で、八十八度附近で濃霧に出逢ったとき、未知の「極」に近づく不安と恐怖を、正直に語っている。「わずか数年前まで、北極地帯には、ひょっとすると空気がないのではないかと、一部の人々に考えられていたが、そういった恐怖が心臓を強く締めつけた。もしかすると、知らないうちに北極の頂点を過ぎ、深い霧に巻かれながら、誰も知らない向う側の神秘的な北極地帯へ……二度と文明に接しえないような、恐ろしい、奇怪な旅にのぼるのではなかろうか? そしてまた、真実そんな破目になるような気がしたし、いうにいえぬ深刻な不安に喘いだ……」
 スコットの探検隊はアムンゼンより三十三日遅れて南極の極点に到着し、八十八度五十分のところでアムンゼン隊の橇の跡を見つけた。その日の日記――
「諾威の連中に先んじられた。最初に南極点に到着した栄誉は、彼等のものである! ああ、なんという失望! 忠実な同僚にすまない。明日、極点を一瞥したら、出来るだけ急いで帰ることだ。終日、いろいろと思い耽ける。帰りの旅行は、たぶん辛いものになるだろう。果して、うまくいくだろうか?」
 一月十八日、極地点に着いたところで、ただ一行、こんなふうに書いている。
「おお、神よ、実に恐ろしい土地です」
 スコット隊五名の凍死体は、八カ月後に発見された。五個の死体は氷にとじられて石塚のように固くなっていた。スコットは寝袋の垂れをはねのけ、最も信頼していたウィルソン博士の胸に片手を載せたまま死んでいた。三月二十九日の日記には、「神よ、同僚を助けたまえ」とあった。
 ケンブリッジ大学のスコット極地問題研究所の拱門の上に、つぎのような言葉が彫りつけられてある。
地の果てを索ね明さんとして
そこにて秘められたる神の面を見たり
 探検とは、そもそもどういうことをいうのだろう。「恐ろしい土地」へ身を挺して入りこみ、絶苦の艱難を凌ぎ、全世界の地理学者に知られていないようなことを、驚くべき距離の奥からひきずりだしてくる。極地探検隊の運命を、ポォが「南極洋」でうたっている。無限にひろがる大氷原、その上に、雲、風、霧、雪などの入乱れた狂おしい景色。その濃霧の幕の中へ、三人、五人、八人、十二人――それに犬や橇の列が、神秘な、なにものかに憑かれたように、苦しみ、悶えながら、やむにやまれず突入して行く――そして、永久に誰もそこから帰って来ない……
 極地の探検がはじまって以来、この百五十年の間に、さまざまな悲劇があった。北極には、フランクリン探検隊の謎のような消滅とグリーリー探検隊の惨澹たる遭難があった。フランクリンの一行は、一八四八年の夏、パフィン湾からランカスター海峡を越えたらしいところで消息が絶えてしまった。その後、十年にわたって、カナダの北岸に散布している多島海を、幾十隻かの救助船や捜査船が探してまわったが、一つも確実な消息が得られなかった。十九世紀の末になって、キング・ウィリアム島の海岸に土着しているエスキモーの言伝いによって、フランクリンの一行がこの辺まで辿り着いたことだけは、おぼろげに察しられたが、詳細は、いまなお依然として不明のままである。
 グリーリーの一行は、一八八一年にグリーン・ランドへ探検に行った。引揚船に見捨てられ、サビーン岬の近くに天幕を張って冬越しをはじめたが、寒気と饑餓でつぎつぎに倒れ、四年目の春になって救援隊が到着したときには、二十三人のうち、グリーリーと六人の隊員だけが生残り、埋葬もしていない仲間の屍の間で、人間の影にすぎない幽霊のような悽惨な姿で、やっと呼吸をしていた。
 南極では、スコットの極地探検隊とシャクルトンが死んだ。悲劇の顛末はスコットの隊員、チェリー・ジェラルドの「世界最悪の旅」と、シャクルトンの隊員、ラッセル・オーエンの「南氷洋」で見るとおりである。
 日本の国旗は、南極の風にはためきながら、漂うようにはるか視野の外に消え、機翼の下にハイベルクの大氷河を挾んだ、極地山脈の死んだような輪郭があらわれた。氷雪を突きぬけて、わずかばかりあらわれだした山頂の岩は、目眩くような氷の反射光の中で、古めかしい城壁のように立並んでいる。あるものは赤味がかった褐色をし、あるものは鉄のように黒く、たったいま地獄の中で燃え尽き、煤をかぶりながら燻っているような色をしていた。極のほうへ涯てもなくつづく山々の間は、ぞっとするような海緑色の氷床と無間むげんの闇をひそめた底知れぬ氷河の亀裂で、寂莫たる空間と、黒金のような沈黙がその上にひろがっている。それはちょうど、氷と、霧と、寒気と、岩ばかりで、雲のむこうに、まだ空さえもなかった、第四紀のはじめ頃の欧羅巴の姿を想像させた。
 快適な温度を保っている気密室のやわらかなクッションに凭れ、浮世離れのした、夢のような悠長な状態で展望している極地附近の風景は、禁慾的なカトリック教の地獄のようないかめしい様相を別にすれば、ただ荒涼としているばかりで、いかにも無味な眺めだった。しばらくの間、風房に額をつけて見おろしていたが、知りたいとねがうような珍奇なものは、なにひとつ眼に入らなかった。
 一時間ほどすると、経緯儀セオドライトに眼をあてていたジェームスが、こちらへ振返って、片手をあげてみせた。間もなく南極の頂点に着くという合図だったが、バード大佐は、なぜか愉しくなかった。
 もう何分かすると、アムンゼンやスコットの隊が、十五年前に、苦しみ、喘ぎ、息も絶え絶えになって辿りついた「約束の土地」を、悠々と空の上から見おろすことができるのだが、しかし、それがどうしたというのか。たとえ九十度圏のまわりを、百辺、旋回してみたところが、要するに極地の風景を瞥見したというだけのことにすぎない。アムンゼンが九十九日かかったところを、十時間で往復したということに、どんな意味があるというのだろう。南極大陸を一周したとでもいうなら、まだしものことだが、頂点の上に到着しても、その向うにまだ涯もない未知の広大な地表が残っている。人間は間もなく基地に飛び帰り、あとに地平線が残る……極地の苛酷な自然にたちむかって、吹雪や寒気とやりあい、星と星の間に自分らの道をたずねながら、氷裂クレヴァスを迂回するか、突貫するか、自由な判断のもとに決定し、極地の大氷原を自在に料理し去ってこそ、探検といえるのだろう。気密室の春のような気温の中におさまり、こうして漫然と空の上を飛びまわっているが、人間の行跡としては、蒙昧無頼と呼ばれた日本の探検家にすら及ばない。空寂への大機動マヌウヴル……かくいう自分は、航空術というものの可能性の上に、ふんわりと押し乗せられ、南極の頂点へ運ばれている一種の荷物のようなものにすぎない。誰かが「バードは探検家の珍品だよ」といった。苦い味が毒のように心の上にしたたる。子供のとき、将来の希望はとたずねられると「探検家」と答えた。極地探検は久しい以前からの志望だったが、足を負傷して「歩く探検家」になれなくなったので、飛行機で宿志をとげようとしていることが、そんなにも滑稽なのだろうか。この前の北極往復飛行では「空の方へ」という本を書いた。こんどは「発見」という随想をものにするはずだった。構想はもう出来あがっているが、いったいなにを発見したというのか。発見したものは、南緯八十度〇五分に立っていた日本の国旗だけだった。
 バード大佐は、目を搏つような旗の焔の色を瞼にうかべていたが、そのうちに、今度の探検で、これこそは真の意味の偉大な発見なのだと思いついた。
 一九二三年の七月、英国政府は南緯六十度以南、東経百六十度、西経百五十度に挾まる区域を新西蘭の属領となすと宣言したが、氷原上の国旗の基準によれば、その年より十一年前に、既に日本の属領となっているはずのものであった。
 英国だけのことではない。その年、諾威の政府は南極圏内の「ペーター一世」島をアムンゼン島と改名したうえ、南緯六十九度、西経九十度を諾威領とし、捕鯨船根拠地にするという公式発表をした。濠洲も、フランスも、独逸さえもが目ざましい領土先占の宣言をやっているのに、日本の探検隊は、この十五年の間、なんの意志表示をしていない。なんの当込みもなく、前触れもなく、影のように内陸へ入りこんできて、八十度圏内へ国旗を立て、たいした身振りもせずに帰って行ってしまった日本人……人知れぬところで酸苦をなめ、内陸の氷原の下に偉大な功績を埋めたまま、なんの発言もせずに悠揚としている。これはどういうことなのか、バード大佐には理解できなかった。
 昭和五年の春、第一次の南極探検を終るなり、日本の外務省に南極探検の記録を請求してやった。七月になって、米国国務省を通じて、唯一の報告書だという「南極記」と題した小冊子が届いた。探検の素人アマチュアが書いたものだとみえ、いたるところに意外な叙述があり、微笑ましいかぎりだった。バード大佐は、荘子や淮南子が生きていたむかしから、東洋人の精神のなかに、科学的直観力といえるようなものが潜んでいることを感じ、日本人の探検家が無類の冒険に成功したのも、けっしていわれのないことではなかったと納得したが、なおかつ、自分の発見だと思って「ヘレン・ワシントン」湾、「ハール・フロート」湾と命名し、華府のナショナル地理学協会から発表した南極の海湾は、既に十五年前、日本探検隊が発見して、それぞれ「指南湾」、「大熊湾」と命名しているのを知って驚いた。バード大佐は、南極の新地図から「ヘレン・ワシントン」湾と、「ハール・フロート」湾の名を抹殺し、その個所へ、日本人の命名した名をうやうやしく書き入れた。日本の探検家の隠れた功績を顕彰できるものは、この世に自分だけしかないと思いながら。





底本:「久生十蘭全集 ※(ローマ数字3、1-13-23)」三一書房
   1970(昭和45)年2月28日第1版第1刷発行
   1998(平成10)年2月28日第1版第7刷発行
入力:門田裕志
校正:時雨
2018年3月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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