海難記

久生十蘭




 ルイ十八世復古政府の第三年、仏領西亜弗利加の海岸で、過去にもなく、将来にもあろうとも思えぬ惨澹たる海難事件が起った。
 半世紀の間見捨てられていた植民地を再建するため、セネガル河口の[#「セネガル河口の」は底本では「セガル河口の」]サン=ルイ島に行く新任の総督、総督府の官吏、書記、植民地附属の司祭、土木技師、主計、酒保係、地方人の入植団、細君と子供達、植民地警備の歩兵約二個中隊を乗せたラ・メデュウズという三檣戦艦フレガートは、海事にも運用にも、なにひとつ心得のない疎漏愚昧な艦隊司令官の指揮にしたがい、当然の帰結として、天気晴朗の昼のさなか、どんな初心な水夫でも知っているアルグゥイーンの浮洲 banc d'Arguin に乗りあげてしまったのである。
 これも無智と怯懦な畏怖心から起ったことだが、乗員は一人残らず、なぜか軍艦は間もなく沈んでしまうのだろうと判断した。全員三百三十七名は離脱を肯んじない十七名を軍艦に残し、六隻の端艇と長さ八トアーズ(約七十尺)幅四トアーズ(三十五尺)という馬鹿げ切った巨大な筏――その後長く「ラ・メデュウズの筏」という名で記憶されるようになった有名な筏に分乗して、漠然と南大西洋の未知の海域に漂いだす。六隻の端艇のうちの二隻は、思いもかけぬ僥倖によってサン=ルイ島に辿りついたが、あとの四隻に乗った百八十八名は、海が恐いというだけの理由で端艇を捨て、流賊レスウの出没する、水も草も一点の日蔭もないサハラ沙漠の中で、それぞれが生けるなりの姿であらゆる愚行を演じ、自分から悪運をひきだしていよいよ不幸を深めて行く。「君主ル・セナルク」を書いたピェール・ミルはこういっている。
「どいつもこいつも、未練で、卑怯で、大嘘つきばかりだ。この百八十何人かのなかで、いくらか人間らしいやつは、豹に食いちぎられた細君の首のミイラを最後まで離さなかったゲランという軍曹だけだ。それも、どこまで真実なのかわかったものではない。好んで二人だけで独行していたので、誰も見たものはない。吐こうと思えば、どんな嘘だってつけるのだから」
 筏に乗った百四十九名の境遇もまた比類のないものであった。それほどの人間を乗せた、砲艦の一隻分ほどもある木材の巨大な結束が、うやむやのうちに自分らをサン=ルイ島まで運んで行ってくれるかも知れないという、放埓な夢想に耽りだしたところから悪運がはじまった。乗合のうちの百二十二名は、掠奪と放火をこの世の生甲斐にしている無智兇暴な外国人の傭兵の寄せ集めで、なおまた、わずか百人あまりの人間が瑞西、バヴァリヤ、伊太利、西班牙、プロシャ、リュクサンブルグ、セネガル黒人国と、十二以上のちがう国籍を持っていたというのも不幸なめぐりあわせであった。そういう雑多な素質が一つの筏の上に集約され、否応なく異常な現実に直面させられると、いったいどういうことが起るか、察しるに難くないのだが、漂流の第一日目の夜から、果して予期どおりの事態が惹きおこり、陰謀、裏切り、掠奪、争闘、殺し合い、その他、人間と獣がなし得るかぎりの見事な行為が、活社会の縮図といったぐあいに、巨大な筏の上で、十二日の間、休むまもなく繰返される。悽惨そのもののような情景で、想像するだに溟濛たる感じが身に迫るような思いがするが、ドラマの本態は悽惨でもなんでもないので、その百何十人かが、そういう境界に置かれたら、万人がかならずやりだすようにしか動いていないところに、言うにいえぬ恐しさがあるのである。
 ファーレルからブノアまで、千八百年代の作家はみな一度はこの事件を手がけているが、その後、アルマン・プラヴィエールが「亜弗利加沖難破事件の真相」で仕遂げたほどのことは誰もやっていない。ダングレェ夫人などは、とめどもない人間の愚行に呆れはて、何年かにわたる調査の結果を三行足らずの文章に要約レジュメし、執筆のほうは思いきりよく断念してしまった。
「百四十九名の人間が筏に乗って漂流した。発見されたときは十五名だけが生残っていた。あとの百三十四名は、海の底に沈むか、生残った連中に啖われるかしてしまったというのである。それだけのことだ…… ou avaient ※(アキュートアクセント付きE小文字)t※(アキュートアクセント付きE小文字) d※(アキュートアクセント付きE小文字)vors※(アキュートアクセント付きE小文字)s par Les survivants. C'est tout.」
 ルゥヴル博物館の第三室といっている画廊に、漂流中の筏をテーマにしたジェリコォの大画グラン・タブロオがある。人啖いの十五人のうちのクゥルタードという砲術長が、救いにきたラルギュスの帆影を見て布を振っているところを、事ありげなロマン派の筆法で描きあげている。この絵は事変後二年目の千八百十九年のサロンに出されたものだが、二つの大陸の国民がラ・メデュウズ難破事件の審判の結果を医しがたい不満と嫌悪の情をもって追懐していた折だったので、それゆえに猛烈な批難を受けた。社会一般は、こういう非道の実態を殊更テーマに選ぶのは人間倫理にたいする公然の挑戦だというので、あらゆる方法をもって撤回させようとしたが、「ラ・メデュウズの筏」に描かれているのは、事実とは似てもつかぬアトリエ出来の浮きあがったような情景にすぎない。習作エスキスのほうは画面の調子が沈鬱で、人物の心理的な陰影がほどよく滲みだし、いくらか実相に近づいているが、それとてもさほどに騒がれるほどのものではないのである。ジェリコォはそれから間もなく馬から落ちて大怪我をし、以来、癲狂院へ行って狂人の肖像ばかりを描いていたが、五年もたたぬうちに三十二歳で死んでしまった。世間では神の罰を受けたのだといった。
 ラ・メデュウズ難破にたいする文献と記録は二つに大別され、難破前後の航海記事、漂流中の覚書、報告、公文書、警備隊の駐留日誌の類は「セネガル文庫」に、ロシュフォール軍港で行なわれた軍法会議と海事審判の公判記録、訊問調書の一切は「ロシュフォール記録集」にそれぞれ収輯され、難船から関係者の帰国までの顛末が微細な点にわたって洩れなく解析されているようにみえる。海難から救助までの事変の梗概は、いかにも首尾一貫していて、誰でも容易に納得するのだが、いざ調べる気になって精読しだすと、随所にモヤモヤした不分明なところが出てくる。よく晴れているくせに、どこかはっきりしない四月頃の空模様とでもいうように、すべては明白に解説されているにもかかわらず、記録の紙面の上に、眼に見えぬ靄のようなものが立迷っていて、なんとなく率直な理解を妨げるため、一向に事相の核心に行きつくことができない。どう骨を折ってみても、相変らず漠然としているところが、この事変の特色だとでも説明するほか、言いようのないものである。
「月が沈んだ。もうなにをする気力もない、たえず高波にうたれながら、私はうとうととしていたらしい。アルプスの山々――すばらしい絶景が眼に浮ぶ。木蔭の涼しさといったら、たとえようがない。印象がそのときのままの状態で、感覚に蘇ってくる。いまやカイゼルラウテルンの森の中に私は妹といっしょに分け入ろうとしている……ところが、実際は海の中へ上体を突き入れたまま昏睡していたのだ。舷にあたる波のひびきが、断崖を駆けくだる急湍の音のように感じられる。たぶん私の身体は一二度波の下にもぐったのだろう。いくらか頭がはっきりしたとき、やっとのことで身体を起し、唇を舌で舐めてみたが、苦い海の塩の味が残っているだけで、たったいま見た泉のすがたなどはどこにもなかった。恐ろしい時だった。絶望の極みであった」
 これは漂流中の入植団の嘱託技師(ブレディフ氏)が(正確にいえば、七月八日、短艇が浮洲に擱坐したとき)記憶の薄れないうちにと書きとめた日記の一節で、その後、総督府に提出されたものだが、同行の連中は、ブレディフ氏が字を書いているところも、手帖を持っているところも、誰一人見ていないのである。文章がうますぎるということには、問題はあるまい。そういう困難な状況にあると、誰でもいちどは幻覚をみるものだから、そのほうにも異存はないが、この日記はかならずしも素朴な事実だけを書きとめているのでないことが、いろいろな点から察しがつく。
 ブレディフ氏は沙漠の行進中、なにか卑劣な行為、たとえば残忍な殺し合いだとか、息のある仲間を遺棄して前進するとか、あるいはもっとひどいことが行なわれたらしいとき、かならず一種の失神状態におちいり、山の雲だとか、虹だとか、木蔭の泉だとか、そういう詩的な幻想にひたってすごすようになっている。何日かの陸行の間、結局のところブレディフ氏はなにひとつ仲間の非人道的な行為を自覚していないなどというのがその例である。
 これも陸行組のアングラス中尉の手記。
 アングラス中尉は地方人を含めた六十人ばかりの一隊の指揮をとることになったが、出発前、こういう訓示を与えたといっている。
「ひどい不運がわれわれをつけまわしている。一つすましたと思うと、こんな風にすぐつぎのがやってくる。溺死することだけはまぬかれたが、こういう沙漠のありかたでは、食物も水も期待できないかもしれない。だが、すべてを天命にまかせ、勇気をふるって前進しよう。神のゆるしたまわぬ罪業だけは、おかさぬように。フランス人は、同胞の血を啜ったの、肉を喰ったなどと言われないように戒心しよう。生涯、暗い罪の思い出に苦しむより、潔白のまま笑って死ぬ方がどんなにいいか知れない」
 この訓示の趣旨からおすと、指揮者のアングラス中尉は、フランス人というものは、食うものがなくなるとすぐ Cannibalisme(人肉啖食)をやりだす種属だと思っていたのかもしれない。そうだとすれば、あまりに気をまわしすぎたというほかはない。フランスという旧教国では、中世の暗愚の時代でさえ、公然たるカンニバリスムということはなかった。だからこそ、この難破事件は一世の人心を衝動させ、何百万人かの食慾を奪ってしまったわけだが、実際にそういう先覚があったのなら、アングラス中尉はおどろくべき哲人だが、そんなことは信じられない。雑多な国籍をもった筏組の傭兵部隊にくらべると、アングラス中尉のひきいた一隊は比較にならないほど質がよく、フランスの正規兵、分管区の屯所長、書記官、医師、入植団の学術指導者たるクンメルという理学博士さえいたばかりでなく、セネガルの海岸地帯にはトラルザスのいろいろな種属や遊牧民の天幕があることが予想されていたから、最悪の場合を想像しても、出発の当初に、そんな行きすぎた訓示をする必要があろうとは思えない。これは後の話だが、アングラス中尉とクンメル博士の対質になったとき、「訓示らしいことは言ったが、Cannibalisme のことなどは全然触れなかった。かりにもそういう発言をしたら、それほどの侮辱にたいして、われわれが黙っているはずはない」と博士は述べている。
 アングラス中尉は、十個、少なくとも六個の死体を沙漠に遺棄している。アングラスの陳述によれば、それにはいちいち至当な弁明がなされているので、そう言われれば、なるほどそういうわけだったのかと納得できるのだが、後から考えたらしい訓示の一件があるばかりに、十人乃至六人の人間だって、実のところは、どんなことをされたかわかったものではないという疑問が起きるのである。
 対質者のクンメル博士のほうは、では正直な告白をしているのかといえば、これのほうにもあやしいところがある。クンメルはなぜか一隊と分かれて沙漠を独行し、モール人の酋長の天幕で優遇された顛末をユーモラスな筆で綴っているが、なんのために、皆と分れ自分から困難な旅を選んだのか諒解できない。邪推すれば、蛮行を見るに耐えないとか、悪行の責任が自分にかかるのを回避したのかとも想像されぬことはない。殊更な分離の真の理由については、六十七歳で死ぬまで、ついに一言も洩らさなかった。博士は「トラルザスの古蹟をしらべて見たかったから」と書いているが、一片のパンも一滴の水もなく、一歩一歩が生命の源泉を疲弊させる絶苦の徒歩を何日かつづけた後、なお且つそういう意慾が湧き起るものであろうか。事実だとするなら、偉大な熱情だというほかはない。
 擱坐したラ・メデュウズに残った十七人の情況も、究極になればわかったようなわからないようなところがいろいろと出てくる。五十日の後、救助船が行ったとき、三人だけが檣楼の上に残っていた。あとの十四人のうち、十二人は擱坐後二十日後の朝、小さな筏をつくって船から離れ、一人は、その後、檣の破片に跨ってこれも海に出て行き、あとの一人は病死し、そうして、三人だけが残ったという。
 ラ・メデュウズは相当浸水していたが、安全確実に浮洲の上に坐りこんで居り、差当っての危険はなにもないはずであった。ショオマレェ艦隊司令官の期待にかかわらず、この三檣戦艦はいっこうに沈没する模様もなく、その後四カ月の間、堅固な形態を保ちつづけ、十月の末、船腹の銅板を剥ぎとったり、船材を挽きだしたりする公然たる掠奪がはじまったところで、ようやく横倒しになって沈没してしまった。
 軍艦に残った十七人は、みな海事の老練者であり、全員四百余人のなかで最も利口な連中で、ラ・メデュウズは絶対に沈まないという確信があったればこそ、進んで残留したのだったが、その後になって、なんのために安全な立場を捨てたのか、その点、永久の謎である。軍艦の中には、麦粉、肉の塩漬、食用油、脂肉、ブランディ、飲用水代りの淡味の葡萄酒の樽などが、船艙への昇降も出来かねるほどに積みあげられ、十七人の人間では一年や二年で喰い尽されないだけのものが残っていたのだから、そのほうの理由だとも思われない。生残った三人は、「あいつらはなにを考えていたのかわからない」とだけいい、強いて訊問しようとすると、発狂を装って、あらぬことを口走りだすという始末で、どうしようもなかった。
 だが、それらの出来事は、全体からいえば幕間劇ぐらいのところで、このドラマの主要な部分はすべて筏の上で展開される。サヴィニという軍医試補と、コレアールという技師と、シャルルという八等勤務の黒人輸卒の三人の主要俳優が登場し、サヴィニは王様役を、コレアールは侍従役を、シャルルは首斬人の役を受持ち、自然らしいといえばいかにも自然らしいペロットの発展に尽瘁するのである。南大西洋の波に浮ぶ巨大な筏の上でどういう事態がひき起ったか。その一部は生存者の陳述や手記である程度まで明らかにされるが、神秘めかした海洋劇の性格を説明するために、最初に筏を発見したレーノォ捜査隊指揮官の手記を抜萃してみよう。
「ラ・メデュウズの筏を発見したのは、僥倖中の僥倖というようなものであった。われわれはマリゴ(セネガルの支流)河口の北からミリク岬までの間、快走艇と艀を含む四隻の舟艇の乗員を救助し、使命の大半を果したので、翌朝※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々帰還することにきめていた。ラ・メデュウズから食糧や金貨を取りだすという任務が残っていたが、出発以来もう七日で水の貯えも乏しくなり、毎日、逆風が吹きつづくのに、アルグゥイーンの浮洲まで四十リュウもあるというのでは、そこまでの仕事を仕終すことは、とうてい不可能だと思われたからである。」
 風が変らず、ラルギュスの艦長が気紛れな考えをおこさなかったら、十七日の早朝、基地にひきかえしていたであろうから、永久に筏を発見することは出来なかった。ところで、十七日の朝になって急に風が南西に変り、まっすぐに浮洲のほうへ吹きだした。艦長は「いい風向きになった。行けるだけ行ってみよう。たいしたことも出来まいが」といって、アルグゥイーンのほうへ船を進めた。
 十五人の生存者にとって、救われたことが幸福だったか不幸だったか、簡単にも言い解くことはできないが、しかし、こういう事情で、ともかく筏は発見されたのである。
 最初に望遠鏡に、うつったのは、メデュウズの砲術長のクゥルタードが、檣材に縋りついて狂気のように布切れを振っている姿であった。四人ばかりが砲術長の身体を支え、べつの一団は酔ったように踊り狂っていた。
 筏の端に端艇をつけると、サヴィニ軍医補とコレアール技師が走りだしてきた。どちらも黒々と陽に灼け、頬が削げて別人のような人相になっていたが、食糧もなく、十日以上も漂流していた割にしては、どちらもひどく元気だった。軍医補は私に、「助けに来てくださって、ありがとう。食うものはないが、五日ぐらいならばまだ頑張れますよ」といった。
 サヴィニ軍医補は嬉しさのあまり失言したのだと思う。尤も、この言葉の裏に隠された真の意味を了解したのは、それからずっと後のことだったが。
「筏に移るなり、私は言うにいえぬ沈鬱の気にうたれて思わず足をとめた。ほかの十三人は、あるものは帆柱の下にうずくまり、あるものは俯伏せになり、救助の船が来たことが、この世の最大の不幸でもあるかのように、手で顔を蔽い、痛ましいかぎりの呻き声をあげていた。ついさっき望遠鏡のレンズにうつった歓喜に満ちた姿は、錯覚だったのか夢だったのかと、ふと思い迷ったほどであった。
 サヴィニ軍医補を先頭にして、一人ずつ短艇に移乗を開始したが、そのうちにロザーシュ少尉が、「おねがいだ。ぼくを筏に残しておいてくれ」と言いながらはげしく泣きだした。すると、それにつれて、木工長のラヴィエット、クレーレ少尉、シャルロォ兵曹長、クゥルタード砲術長、シャルル黒人兵の五人がめざましい昂揚状態をしめしながら筏の上に這い戻りはじめた。ロザーシュ少尉を含めたこの六人は、その後、サン=ルイ島の英国病院で頑強に拒食をつづけ、六人が六人とも餓死してしまったが、この一瞬の動作は、終生忘れられぬほどの感動的な観物で、私の気持を掻きみだし、なんともつかぬ思いに沈ませた。
 この筏の上でなにがあったのだろう。八等勤務の黒人輸卒を除き、ここにいる十四人だけが武器を持っていた。武装した組だけが生き残り、なにひとつ装備を持たなかった百何十人が一人も助からなかったのはなぜだろう? 発程の事後、主計部員の一人が、食糧らしい食糧を筏に積まなかったと後悔していたが、十二日の漂流の後、なお普通に近い健康を保っているのはなぜだろう? 檣材の控綱に見馴れない肉片がいくつもぶらさがっている。それとおなじようなものが軍医補の衣嚢からもはみだしていた。「これはなんだ」とたずねると、軍医補は、「ええ、これは飛魚の肉です」と笑いながらこたえた。」
 それは飛魚の肉だったのか、それ以外になにかの肉だったのか、セネガルの分管区では、ついに明白にされずにしまった。
 サヴィニという軍医補は、肉体的にも精神的にも、フーシエ的とでもいうようなふしぎな存在だったといわれるが、フランスの本土へ脱走同様の帰還をし、海軍省と「デバ」紙に長文の事由書を送ってショオマレェ艦隊司令官を告発した。というのは、海難事件とそれにつづいてひき起ったいろいろな出来事を、サヴィニが告発するまでは、フランスの本土では全然知られていなかったということなので、従って、ラ・メデュウズの筏の一件も、生存者に告解をうながすどころか、サン=ルイ島一帯にひろがった醜聞を揉み消して、闇に葬り去ろうとする政略のほうが強力に行なわれたのである。
 筏の十五人は救助されて帰った日、レコォの艦長室で総督とクーダン少尉とこんな会話をしている。
「司令官、漂流中のある事態について、ぜひとも申しあげておかなくてはならぬことがあります」
「クーダン少尉、報告はさっき聞いた。まだなにかあるのかね」
「報告ではありません。告解コンフェッションを」
「告解なら聴問僧コンフェッスウルのところへ行きたまえ、なにを言いだすつもりか知らないが、われわれの食慾を減退させるようなことなら、言わずにおいてもらいたい。筏の上で、なにがあったかなどということを聞きたくもなし、知りたいとも思わない。君たちにしても、助かったことを神に感謝するだけで十分だ。どういう方法で生きのびたなどということは、生命の価値にくらべると、たいした問題じゃないのだからね。これがわれわれの忠告でもあり、意見の総和でもあるのだ」
 それからこんな手紙。
「本土へ帰航する運送船の端艇が桟橋を離れようとしている。手紙を書く時間は五分しかない。くわしいことは後便にゆずる。
 いま亜弗利加にいる。ところで、われわれはブランコ岬南方の海岸で難破した。服も襯衣も、書類も、金も、書物も、武器も、なにもかも失ってしまった。残っているのは、はげしい疲労と喉の渇きだけだ。だが水はすこしもない。みなひどい下痢に悩んでいる。
 われわれはまだいいほうだ。仲間のあるものは沙漠で死に、また、いまなおそこで奴隷になっているのもいる。悲惨なのは、傭兵たちの運命だ。半ばは溺死し、残りは……」
 一八一六年にサン=ルイから出された手紙は、すべて適法の削除を受けている。「ラ・メデュウズ一件」の記録は、このように故意に描かれなかった部分が残っていて、人の想像を薄暗い迷路の中へ誘い込み、結局はなにがなんだかわからないようにこんぐらからしてしまう。千八百年代の作家が、この事件の暗黒の部分と、変更の訳合いを究明しようと努力したが、たいして成功はしなかった。今世紀の中頃になって、何人かの歴史物語作家が、文献や手記の微細な陰影をとらえ、陳述の「言い違い」や無意識な発言を追究し、この事件の真相に近いところへ肉迫した。二世紀の間、闇の中に眠っていた事件の全貌が、はじめて明白にされたのである。

 亜弗利加西海岸のセネガルといわれる広大な地方は、ルイ十五世の代にリシュリュウの送った探検隊が先占し、セネガル河口のサン=ルイ島とヴェルデ岬のダカールに拠点をおいて植民地を統治していたが、その後、先占の実効を喪失し、英国の支配を受けていたが、ナポレオンの没落後、一六一五年の平和会議の結果、セネガル地方にたいするフランスの先取権が認められ、六十年ぶりにその地に三色旗をあげることになった。
 その頃、ダカールに駐留していたフランス人が本土に書き送った手紙がある。
「この灼けつくような土地。ここに生棲するものはといえば、得態の知れない怪物と毒気と、奴隷だけだ。だが、近くに人間らしいものがいるので、まだしも助かる。この辺の黒人は、なにしてやっても喜ばない憂鬱なやつらで、悪気はないが、愚鈍で、不潔で、二た目と見られないような様子をしている。われわれにくれるものといえば、腐敗した駱駝の乳、塩分のある水、腐臭をたてるぞっとするような肉だけだ。ここに来てから、ただの一度も晴れた日に逢わない。太陽はいつも黒い雲の層(これは砂の竜巻なんだ)で蔽われ、食物の中に砂の粒が入っていないことは稀れである。イギリスなどで見る、どんな異様な天候よりまた奇異で、息もできないほど乾きあがっている。
 昨日、近くを歩きまわってみた。いろいろなやつがヴェルデ岬の風景をほめて書いているが、みな大嘘だ。五十里四方、川も溝もなく、ひとしずくの真水も存在しない。一年のうち、八カ月以上は絶対に緑の色が見られない。この土地で元気なのは、昆虫と猛獣と爬虫類、そのほかについては、いちいち書く気もしない……」
 サン=ルイはダカールの北、セネガルの河口と、象の鼻のように垂れさがったバルバリーの砂嘴の間に挾った洲島の小さな町で、島の東側に広い泊地があり、英国のセネガル総督以下、官吏、警備隊、開発会社の社員とその家族など、英国人を主にした約五百人の欧羅巴ヨーロッパ人がセネガルの黒人といっしょに住んでいた。この地方はサハラ沙漠の入口にあたるので、一年の平均温度は摂氏の六十五度に達し、泡まじりの溜水のほか、飲料水もないひどいところで、薄濁った河には、人を喰う鰐と、人に喰われる鰐がうようよしているが、吃水八トアーズ以上の艦船が通過困難な狭い水道の奥に位置しているので、戦略的には重要な地点になっていた。
 フランスの拓殖省では、一八一六年のはじめから植民地再建の準備にかかり、五月の終りまでに植民地政庁の機構と入植団の編成を完了し、新総督にはジュリアン・シュマルツ大佐を、三個中隊三百人の植民地警備軍の指揮をポアン・シニョン少佐に任命した。開発隊の輸送には三隻の軍艦とル・ロァールという運送船をやることにし、艦隊司令官をデュロア・ド・ショオマレェに、各艦の責任者の配属をつぎのようにきめた。
 三檣戦艦「ラ・メデュウズ」(司令官乗艦長シュマルツ大佐)、三檣砲艦「レコォ」(艦長ブナンクゥル中佐)、二檣砲艦「ラルギュス」(艦長パルナジョン大尉)
 ラ・メデュウズを旗艦とするセネガル遠征艦隊は、フランスの西海岸ロシュフォールの要港部たるエークス島に集結し、六月十七日の午前八時、西亜弗利加に向って出帆したが、ショオマレェ司令官は港口の簡単な水道を通過するのにその日一日をついやし、夜半近く吹き出した北風に助けられてやっとのことで瀬戸を乗り切るという徹底的な無能ぶりを暴露した。
 そうして大西洋に乗りだしたが、ショオマレェの統率ぶりはいよいよ奇怪なものになり、後続の三艦を見捨てて勝手な航行を開始した。三檣砲艦のレコォだけは辛うじて追尾して行ったが、翌々日くらいにはとうとう追いつけなくなり、はるか後に残されてしまった。
 こういう愚昧な人物を艦隊司令官に任命したというのは、信じられないようなことだが、理由のないことではない。フランスの貴族の国外逃避は、ルイ十六世がヴァランヌの逃走に失敗した直後にはじまったが、どの国でもあまり尊敬されず、スペインなどでは王家を見捨てた卑怯者だと、市中で刺殺されたようなものもあった。英国に亡命した組は、ほとんどがみな持金を使いはたし、ウェスト・エンドの細民街のひどいところに住み、衣食に窮して紐売やヴァイオリンの流し弾きをしているようなものさえあった。一八一四年にナポレオンはエルバ島に流され、ルイ十六世の弟のプロヴァンス伯がルイ十八世となって王位にのぼり、亡命貴族はみな国外から呼び返され、人物払底の折柄で、思いもかけぬ高位高官に成上った。
 ショオマレェもそういう亡命貴族で、フランスを逃げだしたときは二十五歳、ようやく見習士官になったばかりのときだったが、それから二十五年の歳月が流れて五十歳の坂を越していた。長い亡命生活の間、ショオマレェは時計直しの渡り職人になり、ひどい貧乏をしながら放浪していたわけだったので、海上勤務の常識すら記憶にとまっていなかったのである。このような人間に重大な任務を委託するのは、寛典に失する復古政府の軽率な態度に由来するものだが、ルイ十八世の世代はいわゆる「屑」の時代で、素質のいいフランス人はみな戦死するか追放されるかし、物の役に立つほどの人間は存在しなかったのである。
 十九日の夕方、ラ・メデュウズはカナリー群島のテネリフ島で気紛れに沖がかりをしたので、やっとのことでレコォが追いついて来たが、ショオマレェはなんの連絡もとらずにまたもや単艦で出帆し、危険な接岸航路をとりながら亜弗利加に向って航行して行った。
 三十日の払暁、左舷に亜弗利加の沿岸が見えた。
 これは危険な兆候だった。亜弗利加の西海岸、北緯十九度五十四分、西経十九度二十四分附近、ブランコ岬からミリク岬の中央ほどのところにアルグゥイーンという浮洲がある。低位の小岩礁のまじった、岩よりも堅い広大な砂洲が海岸から四十リュウほど沖合まで発達している。英国のハル港に近いドッカー浮洲バンク、印度の東北岸、イラワジ河口のイラワジ浮洲バンク、それとこのアルグゥイーンの浮洲は西半球における有名な三大浮洲で、艦隊司令官ともあろうものが知らぬはずはなかろうと思われるのに、依然として三十里も西方に寄った航路を行くので、水兵たちは危険を感じてぶつぶつ言いだした。航海士の一人は、思いきって意見具申をしたが、ショオマレェ司令官は傲然と肩をそびやかしたきりで、耳を藉そうともしなかった。
 一日の午後、ブランコ岬の沖を通過し、その辺からいよいよ危険区域に入りこんだ。
 テネリフ島を出帆してからレコォはラ・メデュウズの三十リュウほどの航路をとりながら追尾してきたが、二日の夜半になっても、なお浮洲地帯を航行して行くので、火箭をうちあげて危険信号をしたが、ラ・メデュウズからはなんの応答もないので、やむなくそのまま航行をつづけた。
 二日の正午頃、ラ・メデュウズは浮洲の縁辺にさしかかった。一帯の形相が変って、海の色が異様に白濁し、波がしらに海藻がまじるようになった。
 航海士は顔色を変えて、航路を変更するように注意したが、ショオマレェはそれにさえも答えず、水兵に測鉛を入れるように命令した。
 水深はなぜかそのとき八十トアーズもあり、測鉛の脂肪に砂まじりの泥がついて上ってきた。そこは浮洲が断層をつくった深い間隙だったのである。
「なんだ。八十トアーズもあるじゃないか」
 ショオマレェはそのまま軍艦を進めようとした。航海士はそういう水深はありえない、もう一度測ってみる必要があると言い張るので、ショオマレェは渋々測鉛を入れさせた。こんどは十八尋、そして間もなくわずか十尋になった。ショオマレェは狂気のように叫んだ。
「帆をおろせ。早く、船を風上へ」
 このときはもう六尋のところを走っていた。船舳に猛烈な衝動を感じたと思った瞬間、ラ・メデュウズは船底を砂岩に摩りつけながら、鳥黐とりもちのような浮洲に完全に乗りあげてしまった。午後三時十五分、吹くほどの風もない天気晴朗の昼さなか、西亜弗利加の沿岸からわずか四十リュウのところで、愚昧な艦長は三檣戦艦を擱坐させてしまったのである。
 ラ・メデュウズは二十度ぐらいの傾斜で右舷に傾いたまま、湧きたつような浅瀬の波の中にしずまっていた。なにひとつ眼を遮るものもない※(「水/(水+水)」、第3水準1-86-86)々たる海の面に、雲が影を落しながらしずかに動いていた。聞えるものは波の音ばかりで、いい知れぬ孤独を感じさせる情景だった。
 ショオマレェは茫失状態から醒めると、さっそく海難の状況をしらべさせた。さいわいラ・メデュウズはたいした損傷を受けていず、満潮を利用して離洲することができたら、このままサン=ルイまで行き着けるかのような楽観的な考えを起させた。とりあえず総帆おろしを行い、出来るだけ遠くへ錨を入れて、キャプスタンをかけさせたが、船は動かずに、あっけなく錨のほうがひき寄せられてくる。いくどやっても定着力が悪く、錨はそのたびに砂の海底をむしっては帰ってきた。不幸なことに、海難は最高潮時に起ったので、そういう間にも潮がひいて、吃水が十エスパン以上もあらわれ、それでもなおどんどん水準が下って行く。満潮を利用する離洲はこれでとうてい望みがないということになった。
 総督、司令官、警備隊司令、レーノォ大尉以下の首脳部が艦長室に集って会議をはじめた。ショオマレェは鉛筆で簡単な筏の図を書いてみせた。
「大体、こんなかたちの筏をつくる。四隻の端艇と快走艇と艀とがあるから、そのほうへ二百七十八名の人員と兵器食糧を分載し、あとの百五十名は筏に乗せて曳いて行こう」
 みながその案を支持した。
「それはいい。いけるでしょう」
 どういうところから割りだしたのか、二百人近くの人間を載せた厖大な筏を、四隻の端艇で曳いて行けると考えた。帆と櫂の力だけでするそういう操作は、平穏な海上でも困難なものだが、みな船から逃げだすことばかり考え、誰一人綿密な計算をするものはなかったのである。それで、さっそく舟艇の配分と責任の分担がきめられた。それはこんなぐあいになった。
一、端艇十四櫂パヴィヨン・キャトース(総督用) 総督、同夫人、同令嬢、副官、属官、高級役員。指揮レーノォ大尉。(全員三十五名)
二、同 十二櫂ドウス(海軍用) 海軍士官及び下士官。指揮ラペレェル中尉。(全員四十二名)
三、同 十四櫂(艦隊司令官用) 司令官、総督府役員の一部、指揮ラン少尉。(全員二十八名)
四、同  八櫂ユイット(総督府用) 上級役員、ピカール書記官、同夫人令嬢、家族及四人の幼児。指揮モーデ中尉。(全員二十五名)
五、快走艇コトル(入植団用) シャストリュス技師長、入植団上級者。(全員十三名)
六、大艇バルカッス(海軍用) 水兵、海員。傭兵の一部。指揮エスピオ少尉。(全員四十五名)
七、筏(傭兵用) 砲歩三個中隊の大部分。下級水兵の一部、及び下級地方人。指揮クゥダン少尉。(全員百四十九名)
 配乗の編成に見るとおり、安全堅固な四隻の端艇と二隻の舟艇は総督、司令官、指揮官、総督府関係の上級者とその家族達に、十分の余裕をとって優先的に割当てられ、警備隊の全隊と入植団の下級者は、ひと纒めして架空の筏におし乗せることになっていた。つまりこの配分が決定した瞬間から、約百五十名の人間の生命は、すでにないものとされてしまった。首脳部の連中は、邪魔物を片附けるときだけ、相手のことを思い出すという剛腹な人間ばかりだったので、百五十人もの人間を乗せる筏があり得るかとか、そういう筏に乗せられた人間の運命はどうなるだろうというような女々しいことは考えなかった。どうせ物事は公平にいくものではないと大きく構え、大人物に特有の健忘症と棄却の精神を発揮して、あっさり片付けてしまったのである。
 細目の協定が夕方までつづけられ、各個の安全が確実に保証される見込みのついたところで主計主任を呼び、六艘の舟艇に乾麺麭、飲料水、海図、磁石、綱具、その他、サン=ルイまでの航行に必要な物資を今夜のうちにこっそりと積み込むようにいいつけ、猶、配乗の機微は離船の直前まで厳秘することに申合せをした。
 二日は会議に暮れ、翌三日は朝からまた離礁作業にかかった。ショオマレェは麦粉や火薬の樽をほどほど海に捨てさせ、遠くへ錨を入れてキャプスタンを巻かせた。植民団も傭兵も出て轆轤ろくろの把手にとりつき、力をあわせて巻いているうちにメデュウズがすこしずつ動きはじめた。一時間ほどすると、坐洲点から三百パ(約二百米)ほどずりだし、そこで水に浮いた。艫の一部が浮洲に触れているだけなので、一同は歓声をあげながら巻きに巻いたが、曳綱が錨のそばまで緊縮したところで、ハタと停まってしまった。間もなく干潮になり、ラ・メデュウズは右舷に傾きながら浮洲の上に残された。
「これ以上のことは出来ない」
 ショオマレェはそういって、作業を中止させてしまった。あとになってから理解されたのだが、この見せかけの作業は、軍艦を放棄することにたいするエクスキュウズのようなものだったらしい。ラ・メデュウズには二十四斤砲が十四門も搭載されていたが、それさえ捨てていたら、離礁していたかも知れないからである。軍法会議の海事審判廷で、判士長がこの点を鋭く衝いている。
 三日の昼頃まで静穏だった海が急に夕方から荒れだし、浅瀬の高波が中甲板までうちあがるようになった。夕食後、また会議になったが、ショオマレェの意見に従ってともかく軍艦を捨てることにし、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々に筏をつくらせることにきめた。
 ロシュフォール港を出航した日以来、底ぬけの無能ぶりを発揮してきた司令官の意見が、この際になってもなお重用されたというのは奇怪な話だが、これだけの人間がいながら、軍艦を捨てるよりもサン=ルイに快走艇コトルをやって、僚艦の救援を求めるほうが早道だという単純な理窟が誰の頭にも浮ばなかったというのは、ふしぎなことであった。ラ・メデュウズは執念深い浮洲にしっかりとつかまえられたが、なんの損傷もなく、浸水さえしていないのだから、そうまでして軍艦を放棄しなければならない理由はどこにもなかった。ラ・メデュウズが擱坐した瞬間から、軍艦が沈むという考えがみなの頭に凝りかたまり、当面の状況に圧倒されて、理非の判断をする能力を失ってしまったのだと思うほか、解釈のしようがない。
 その日までは凪つづきだったので、さすがにそうとは言いだせなかったのだろうが、追々、海が荒れだしたので立派な口実が出来、四日の午前から公然と筏づくりにかからせた。ショオマレェは、役に立つものなら、なんでも切りだせと放埓な命令を下したので、水兵達は檣に上って、遠慮会釈もなく帆桁ヴェルグを切って投げ落し、斜帆桁の帆杠ボームをやっつけ、最後に舳の斜檣まで切り落してしまった。こういう次第で、なんの損傷もない三檣戦艦は、帆装の基本を失って丸裸になり、万一、離洲しても一寸も動けぬということになった。
 筏のほうは、夕方までに結束を終った。二本ずつ束にした四組の帆桁を主舳にし、その両側に思いつきに、材木を継ぎ足していき、縁辺にあたるところには二アンパン(約一尺三寸)ほどの手摺をつけた。船首には舳めかした突出部をつくり、帆走する場合を予想して、檣材まで用意した。こうして出来あがったものは、長さ八トアーズ(約七十尺)幅四トアーズ(約三十五尺)千七百平方ピエ(五十畳敷の座敷ほどの広さ)もある巨大なものであった。
 夜半近く、風が変って高波がうち、繋留してあった筏が綱を切って流れだした。それで騒ぎになり、端艇をおろしてひき戻しに行くことになった。こんな些細なことがなぜみなを昂奮させたのかわからないが、誰も彼もむやみにあわて怒鳴ったり叫んだりした。傭兵どもは下艙で寝ていたが、そのうちの三人ばかりが騒ぎを聞きつけて甲板にあがってきた。誰もろくな返事をしないので、船が沈没しかけ、乗員が自分らだけ逃げかけているのだと速断した。
「船が沈む。おれらをおいて、逃げて行くぞ」
 一人の兵隊が下艙に向って叫んだ。
「みな出て来い。ってしまうから」
 傭兵達は銃をとって甲板に駆けあがり、出口をふさいで、船から出て行くやつは射ち殺すと口々に怒号した。当直士官が説得し、ようやく誤解はとけたが、兵隊の一部は銃を抱えて甲板に居坐り、夜の明けるまでそこから動かなかった。
 舵の縺が切れ、夜どおし船腹にうちあたっては跳ねかえっていたが、その部分からすこしずつ浸水してきた。ご注文どおりの事態になったわけである。
「嵐がひどくなれば、真っ二つになってしまうだろう、しょうがない。軍艦を捨てよう」
 ショオマレェは艦橋にあがって離船の告示をし、警備隊の兵隊に筏では装備を濡らすおそれがあるから、兵器は甲板に置けと命令した。前夜の騒動を参酌し、将来の危険を予想してこんな措置をとったわけだが、兵隊達は行末どんな不幸に逢うかとも考えず、身軽になりたい一心で、我勝ちに装備を捨てた。
 移乗の命令が出ると、兵隊達は一斉に舷側に走り、ロープや繩梯子に縋って喊声をあげながら筏へ飛び移ったが、規律も秩序もあったものではなく、眼もあてられない混乱ぶりで、ほとんど大半が海に落ち、浮き沈みしながら押し合ったり蹴合ったりした。
 艦長室の決議では、筏にはせめて食糧と水だけは及ぶかぎり、積み込むということになっていたが、主計係の怠慢から、必要のない帆布や綱具のようなものばかり投げおろした。やっと気がついて、水と、葡萄酒の樽と、二十五斤入りの乾麺麭の袋を一つ投げてよこしたが、乾麺麭の袋は見当がちがって海に落ち、引揚げたときは大きなねり粉の塊りになっていた。筏の上は身動きも出来ぬほどだったが、兵隊達はこんな不当な扱いを受けても腹もたてず、妙に従順な態度を見せ、いかめしく武装した将校と下士官に監視されながら、総督や役員の乗った舟艇がつぎつぎに艦側を離れるのを茫然とながめていた。
 間もなく、ショオマレェが船首のロープを伝って端艇に移った。ラ・メデュウズには、筏に乗ることを拒否した六十人ばかりの人員がいて、葡萄酒を飲みながら騒いでいたが、ショオマレェが端艇に移ったのを見ると、舷側から、罵声を浴びせかけた。ショオマレェは立ちあがって、
「諸君は、自由意志によって、そこに残ったはずだ」
 といい、ラ・メデュウズに向ってうやうやしく訣別の敬礼をした。
 エスピオ少尉の指揮するバルカッスはとりわけひどい古船で、方々から水漏りのするところへ四十五名も人間を積みこんだため、動きもできないほど船足を重くしていたが、ラ・メデュウズに残った連中を見捨てておくわけにはいかず、説得して、四十三名だけは艀に乗せた。これで筏の乗員は八十名になった。ラ・メデュウズにはまだ十七人の人員が残り、甲板に葡萄酒の大樽を持ちだして大騒ぎをしていた。
 午前七時だった。風がおさまって雲切れがし、その間から赤道直下の強い陽の光がさしかけてきた。
 発進の命令が出、四隻の端艇が一列に並んで筏を曳きだしたが、調整するものもなく、曳綱の長さもまちまちなので、筏の前部がたえず水に浸った。兵隊達は狼狽して、麦粉や葡萄酒の樽を海へ投げこんだ。アングラス中尉は、こんな筏は駄目だといい、海へ飛びこんでエスピオ少尉の艀へ泳いで行った。
 筏の曳行はそれでも一時間ぐらいはつづけられたが、曳くよりもひきずられるほうが多く、端艇で筏を曳行するなどというのは、およそ愚劣な思いつきだということがわかった。そこへ横合から艀が割りこんできた。モーデ中尉は衝突されるのを恐れて曳綱を解き、五分ほどしてまた曳行にかかろうとすると、なぜか総督の端艇もショオマレェの端艇も曳綱を解いていた。モーデ中尉のちょっとした行動がエクスキュウズに利用されたわけだったが、うやむやのうちに四隻ともみな曳綱を捨ててしまった。
「綱が切れた、筏を捨てよう」
 どこかの端艇で、誰かのそういう声が聞えた。
 四隻の端艇はわれ勝ちに帆をあげ、一斉に東の方へ帆走しだした。百四十九名の人員を乗せた巨大な筏はこうして見捨てられたのである。

 七月六日の正午にレコォが、翌七日の午前にラルギュスが、それぞれサン=ルイ島に到着し、英国植民地総督の指定によって、河口に近い水深八トアーズほどの錨地に碇泊した。
 レコォの艦長もラルギュスの艦長も、ラ・メデュウズが先着しているものとばかり思っていたが、その姿がない。翌八日、一日待ったが、やはりやって来ない。ラ・メデュウズの航路が危険なほど接岸していた事実を思いあわせ、それとなき不安を感じていると、その夜の十一時近くになって、総督、艦隊司令官以下六十三名の乗った二隻の端艇が河口に上ってきた。筏を見捨て、逸早く帆走をはじめたこの二隻の端艇も、しかし安全無事にはいかなかった。砂洲に乗りあげ、逆風に吹きまくられ、さんざんな目にあい、メリク岬の沖を通るあたりまでは僚艇が見えていたが、間もなくそれらからも離れ、四日の間、荒天の海を漂流していたのである。
 レコォはバルバリーの砂嘴の突端まで下り、後続の端艇のために一晩中、火箭をうちあげていたが、九日の朝になっても、なお一隻も帰って来ない。ともかく応急の措置をとらなければというので、レコォの艦長室で首脳会議を開いているところへ、運送船のル・ロァールがほうほうの態で砂嘴の突角に辿りついた。
 ル・ロァールの船長が情況報告をした。ラ・メデュウズは浮洲に擱坐したまま、艦体を保全しているのが見えたが、附近の海上には端艇も筏もいなかったから、逆風に吹き戻されてラ・メデュウズに帰ったのではないかというようなことをいった。さしたる根拠のない、いい加減な想像説だったが、総督と艦隊司令官は、深くも考えずに、そういうことなら、早速、救助にやろうということになった。
 なにより総督が遺憾としていたのは、厖大な食糧と開発基金の九方法の[#「九方法の」はママ]金貨を遺棄してきたことだった。ラ・メデュウズの艦体がまだ完全のままでいるという情報は、なににもまして有難いものだったので、ラルギュスにレーノォ大尉を乗せて出してやり、猶、ブリヤトン総督に、陸行の捜査隊を出してもらうように懇請した。英国側でも救援のほうはひきうけてくれた。カァネットという中尉が指揮をとり、食糧と飲料水を駱駝に積み、モール人を連れてその日サン=ルイを出発した。前後の事情から察しられるように、レコォの艦長室で練られた救助案は、ラ・メデュウズに残した物資と四隻の端艇の乗員の救出だけが対象になっていた。筏はもう当然沈没したものと思われていたので、そのほうははじめから問題にされていなかったのである。
 ラルギュスはバルバリー砂嘴の外側へ接岸しながら北行して行ったが、翌十日の午前七時頃、マリゴ河に近い砂丘の下に、黒人と白人の一団が集まって、なにやら大騒ぎをしているのが望遠鏡で見えた。メデュウズの難破者らしくもあるので、船を岸に寄せて号砲を射つと、陸地の一団はさかんに布切れを振っていたが、間もなくレポートをよこした。黒人は一浬ほど海を泳いでそれをラルギュスに届けた。砂丘の一団は、予想どおり、エスピオ少尉の艀に乗った八十八名の一部で、徒歩でサン=ルイに向っている途中なのであった。
 あの朝、エスピオ少尉は筏を曳いている端艇群のほうへ寄って行き、乗員を何人かひきとってもらうつもりだったが、端艇はみな帆をあげて逃げだしてしまう、エスピオは古船に八十八人も乗せたまま、難儀な航行をつづけなければならぬことになった。古船の底から絶えず水が入り、つぎの瞬間には沈むかという危険な状態でメリク岬の鼻をかわしたが、翌六日の朝、アングラス中尉がだしぬけに陸行するといいだし、それについて六十人ほどの陸兵が上陸した。クンメル博士もその一行に加わった。艀にはエスピオ少尉と二十五名の人員が残った。岸と船で別れの合図をかわし、艀はまた湯気のような熱い靄のたちこめる赤道の海に漂いだした。
 一時間ほどすると、うしろから三艘の舟艇が追いついてきた。ラペレェル中尉の端艇、モーデ中尉の小艇、それにシャストリュス技師長の快走艇コトルだった。快走艇は浅瀬に乗りあげたのだとみえて舷を壊し、放っておけば目前で沈没するかというようなひどいようすをしているので、エスピオは二十五名の乗員をひきとって快走艇を遺棄し、二艘の端艇と同行して、絶望的な難航をつづけた。
 艀組の漂泊の実況はエスピオの「回想録」とプレディフ技師の日記に書かれているが、この日から八日までの記述はとりとめのない幻想にみちていて、実相を捕捉することができない。太陽の直射と極度の渇きのせいでみな耗弱状態になり、昼も夜も幻ばかり見ていたふうで、幻影のことばかり書きつけているが、さいわいピカール氏(セネガル分管区の屯所長)の手記があって、この間の事情をそれとなく説明してくる。
 六隻の舟艇が筏を見捨てて帆走しだすと、乗員は満足して、ゆったりと海をながめていた。うねりひとつない穏やかな海の上を辷るように端艇が走っている。明後日の朝ぐらいには、セネガルの河口に辿り着けるものと楽観していたのである。ところが、夜になると急に事情が変ってきた。海が荒れ、逆のほうから強い風が吹きだして端艇をおし戻した。楽しいくらいだった舟行はいまや直接に生命を脅やかす危険極まるものになった。夜半近くになると、風は勢いを増し、低い舷からたえず波がうちこむので、乗員は一分ごとに絶望の叫び声をあげた。ラ・メデュウズの舷側を離れるとき、小さな端艇にこんなに人間を詰めこむことに不安を感じたが、それが新たな恐怖になって人々の心を脅かしはじめた。舷が沈みすぎている。乗員が現在の三分の一ぐらいだったら、こんなに波をかぶらなくてもすむだろうと思うと、自分以外の存在が呪わしくなってきた。夜が明けると、いくらか海も穏やかになり、端艇は調子をとり戻して、昨日のように走りだしたが、この気持だけは消えずに、みなの心に淀み残った。
 夜になるとまた逆風になった。あらしが来るらしく、遠い水平線のあたりで稲妻が閃いた。こんな状態であらしに逢ったら、ひとたまりもなかろうという病的な恐怖に襲われ、誰も彼も物凄い発揚状態になった。あらしの来る前に、出来るだけ端艇を軽くしておかなくてはならない。それで肥ったのや重そうなのが、まず狙われた。女でも容赦しなかった。近くにいるのが気をそろえて唐突に襲いかかり、捻り倒し、首を締めて海に投げた。なかには環境を理解して自分から海へ飛び込むものもあった。嵐のなかで陰気な水音がひびいた。端艇の指揮者は制止もせずに黙って見ていた。夜が明けるとどの端艇も乗員が半分になっていた。端艇の指揮者は、それでも朝の点呼をし、なに気ない顔で舟を走らせた。
 エスピオ少尉が快走艇の乗員をひきとった途端、艀のなかに不穏な気勢がみなぎった。ようやく六十人ばかりの人間を厄介払いをしたところへ、こんな人数を背負いこむのは馬鹿気ているというのであった。どちらも二十五人で同数なのもいけなかった。エスピオの艀が端艇と同行して走りだすと間もなく、陰険な睨みあいが、争闘に発展し、舵も帆の控綱もやりぱなし、総立ちになって掴み合いをはじめた。艀はそれで方向を失い、あッというまに浅瀬に乗りあげてしまった。
 エスピオ少尉としては、陸行することは不本意だったが、こういう状態では、このまま航行をつづけることは不可能だと察しをつけ、艀を捨ててサン=ルイまで歩いて行くことにした。
 二隻の端艇のほうでもおなじようなことが起っていた。そちらの組の乗員は海上の難行に飽き飽きし、死んでもいいから安全な大地に足をつけたいと熱望していた。エスピオの組が陸行しはじめたのを見てとると、指揮者を脅迫して端艇を擱坐させ、それらの組も陸にあがって来た。
 三つの組が一隊になり、苛酷な太陽に焙りつけられ、強慾なモール人に身の皮まで剥がれ、やっとのことでマリゴ川の近くの砂丘まで辿りついたところで、またしてもモール人に取りまかれた。ラルギュスが沖に来たときには、一人一人の身代金の額をきめ、サン=ルイまで送らせようという重大な商議の最中だった。
 七月六日の朝、メリク岬の附近に上陸したアングラス隊の難行のうちでも、ゲラン伍長と細君のクロチルドの運命はこの上もない不幸なものであった。ゲラン伍長は七月六日の朝、アングラス中尉について上陸し、五十八名の一隊の後衛になって沙漠を行進して行ったが、クロチルドはメデュウズの難破以来の恐怖と不安で神経をすりへらし、歩くことも出来ないような半病人になっていて、ゲランの肩につかまりながらそれでも二日の間頑張っていたが、三日の夕方、みんなが出発しても、坐りこんだところから立ちあがらなかった。
 一隊の宿営したところは、丈の低い灌木が繁りあうオアシスだったが、クロチルドはこの涼しいところで静かに死にたいから、かまわずここへ置いて行ってくれというのである。ゲランは前後の状況を判断して、精神に刺激を与えて発奮させるほかに手はないと思い、
「ここで死にたいというなら置いて行ってやる。だが、猛獣に喰われたり、モール人に掴まって奴隷にされるのはみじめだから、いっそ、おれが殺してやろう。サーベルで心臓を突いてやる」
 そういうと、クロチルドは、
「どうか、そうしてください。それで苦しみも終りになるから」
 と胸をさしだした。
 どう言いすかしても歩かせる方法がないと悟るとゲランはクロチルドを背におぶって歩きだした。行く手を見ると、仲間の一行は、沙漠の涯の夕闇にまぎれこもうとしていた。
 妻はひっきりなしにしゃっくりしながら、しきりに渇きを訴えた。ゲランは水溜を捜してそこへ連れて行ったが、それは塩気のある苦い水だった。ゲランは溜り水に手を浸して茫然としている妻の姿を眺めていたが、進行することをあきらめて、さっきのオアシスへ戻った。
 灌木の繁みがむこうに影のように見えだしてきたとき、背中のクロチルドの身体が急に重くなった。
「おいどうした」
 クロチルドは死んでいた。
 ゲランはオアシスの水溜りのそばに妻の死体を置き、心をこめて臨終の祈祷をした。
「お前は死んだのだな。これで苦しみは終ったろう」
 そういって涙を流した。二十年の間いっしょにやってきた老妻を、こんな環境のなかに残して行くのかと思うと、胸のなかのどこかがひき千切れるような気がした。
 夜になった。星明りをたよりに、サーベルで墓穴を掘っていると、すぐそばの灌木の中で猛獣の咆吼する声が聞えた。ゲランは反射的に渚のほうへ駆け、勢いあまって浅瀬の海に倒れこんだ。なにか丸いものが流れ寄ってきた。それは樽だった。ゲランがそれにしがみついたとき、高い岸波がうちあげてきて、人と樽を沖へ引いて行った。ゲランは樽を抱えて波と戦った。この争いは夜明けまでつづいた。朝になったところで、波の方向を見定めてすこしずつ岸のほうへ泳ぎ、やっとのことで渚に這いあがった。
 妻の死体を置いたところへ行ってみると、クロチルドの身体は残りなく猛獣に啖いつくされ、血に染んだ白髪の頭だけが残っていた。
 この世で出逢うとも思わない無残な光景を眼にして、ゲランはひと時気を失って倒れていたが、間もなく意識をとりもどすと、妻の首を膝に抱きあげて呟いた。
「おれは、この長い時間、大洋の波と戦って命を守りとおしたほどの男だから、この世で誰よりも愛していた妻の遺物を、見捨てないだけの勇気だって持てるはずだ」
 ゲランは襯衣を裂いて情けない遺物を包み、ひと休みしてから、一人で沙漠を歩きだした。
 ゲランはアラビヤ人に捕まって、奴隷にされ、種属から他の種属へつぎつぎに売り渡されてはげしい労働を強いられたすえ、三月目にやっとのことでサン=ルイに辿り着いた。その腰には襤褸布に包んだ異様なものがぶらさがっていた。ゲランは間もなくサン=ルイの病院で死に、妻の頭といっしょに墓の下に入った。

 海軍省に提出したショオマレェ中佐の「海難報告書」によれば、離船完了の七月五日、午前七時現在で、筏には百四十五名(アルマン・グラヴィエルの「亜弗利加沖難破の真相」では百四十七名)の人員が乗っていた。筏の責任者ジャン・クゥダン海軍少尉、サヴィニ海軍軍医試補、四名の陸軍将校(デュポン大尉、ルルウ中尉、ロザージュ少尉、クレーレ少尉)、クゥルタード砲術長、シャルロォ兵曹長、ラヴィエット海軍木工長、ベレエ海軍経理士外十一名の海兵、黒人輸卒を含む百二十名の陸兵、技師(コレアール)、水先案内人(トーマ)以下、酒保婦を加えた八名の地方人というのがその内訳であった。
 七月五日から十六日まで、十二日間の漂流中の記録には、サヴィニ軍医補が巴里の新聞に発表して一世の人心を恐悚させた「アルグゥイーンに於ける難破事件」(一八一六年九月十三日、「デバ」紙)、コレアール技師の「海難記」、ほかに筏の責任者クゥダン少尉の公文の報告書があるが、このほうはできるだけ責任を回避しようとして簡略な記述にとどめている。
 ショオマレェの端艇が最後の曳綱を切ったとき、筏の上の百四十五名の人員は、誰一人公然たる棄却が行なわれようとしているとは考えず、六隻の舟艇がつぎつぎに帆をあげて東方に遠ざかって行くのを、なんの気もなくぼんやりと見すごしていた。益のない作業をつづけるより、僚艦を探して救助を求めるほうがいいことはわかっているので、ショオマレェが新たな措置をとりだしたことを喜んでいるものさえあった。舟艇の姿は次第に小さくなり、やがて水平線の下に沈んでしまった。五リュウほどのところに、ラ・メデュウズが白い波頭に巻かれながら寂然としずまっているのが見えた。
 筏の上は平和なようすをしていた。いずれ助けにくるにきまっている。近くの海岸に舟艇の乗員を揚げたら、すぐ収容にやってくるのだろう。こうして何時間か凌いでいればいいのだと考えていた。それにしても、いくらかでも海岸に近いほうへ筏を持って行こうというので、いろいろやりだした。檣を立てて帆を張ると、いくらかは動くようになったが、厖大な図体をしているところへ舵もないので、反対のほうへ寄って行っても引返させることができない。ちょうど都合のいい風でも吹きださぬかぎり、自力で陸岸に近づくことは不可能だということがわかった。
 食糧としては、小麦粉十箱、淡水二樽、葡萄酒六樽、ほかに海水に濡れた乾麺麭が一袋あったが、それは最初の昼食でなくなってしまった。すぐ収容に来ると信じきっていたので、食糧を倹約することなど考えになく、四樽の葡萄酒までみなに分配してしまったのである。
 漂流の第一夜は平穏ではなかった。夜になると強い風が吹きだし、暗い海の上でしきりに稲妻が閃いた。蒼白い稲妻に照しだされる海面は、見るかぎり白く泡だち、ぞっとするようなすさまじい形相をしていた。うねりの長い激浪が、波頭をそろえて息つくひまもなくおしよせ、筏を木の葉のように翻弄した。高波がうちあげてくると、兵隊達は波を恐れて右往左往し、そのたびに筏は平衡を失って転覆しかけた。後部にいた十二人ばかりの兵隊が波にさらわれた。ほかにも海に落ちるものが出てきたので、筏の上に帆綱を張りわたし、みなでそれにしがみついていた。夜半近く、海兵の一人が「海の上に火箭があがった」と叫んだ。僚艦が救助にやって来た。砲兵は急いで火薬を燃やし、将校は狂気のように空にむかって短銃を射ちあげたが、稲妻が閃きかえすほか、なんの応答もなかった。
 六日(漂流第二日目)、狂気のようなものが筏を支配しかけていた。朝の十時頃、鼓笛手の二人の少年兵と中年の製麺麭業者が、
「ちょっと行って、端艇パヴィヨンをさがしてきます。すぐ帰るから」
 そういって海へ飛びこむと、東のほうへ泳いで行った。間もなくどの頭も水に沈んでしまった。
 スイス人の老兵は、麺麭をよこせ、鶏のロチィを持って来いと甲高い声で何時間も絶叫した。ある兵はメデュウズにいるのだと思っているらしく、おれの寝床はどこだと探しまわった。自殺するものも出てきた。後部で十二名、前部で八名、合せて二十名の兵が大西洋の荒海のなかに消えたが、筏の上にはまだ百名以上の人間が居り、わずかな食糧にたいしてこの人数は多すぎた。こういう状態で漂流がつづくとすれば、弱いものは強いものの犠牲にされるだろうという考えが誰の頭にも浮かんだ。
 筏には二十名の将校と下士官が乗っていた。漂流の第一日目から自分らだけのブロックをつくり、武器を擁して無言の威圧をしめしていたが、陸兵や下級の海兵のある者は、当然起りうる事態を予想して、将校や下士官の動静を監視するようになった。
 夜半からまた海が荒れだした。筏の上の人員はたえず後部から前部へ投げだされ、何人かがあッという間に波に持って行かれた。兵隊達は筏の縁辺を忌避して中央へ逃げて来、そこで、息のつけないほどにひしめきあった。そういう混乱の最中、絶望した十人ばかりの兵隊が、運命にけりをつけるために、筏の破壊を企てた。モール人の黒人兵はとめようとする人々を薙倒し、斧で筏材の結束を切りだした。将校の一人が発見して、剣で一撃を食わした。
 恐ろしいことがはじまった。将校下士官のブロックは、筏の中央部で方陣をつくり、近くにいる兵隊を誰彼なしに殺戮した。兵隊達は雪崩をうって筏の後部へ退却し、「死ぬなら、あいつらもいっしょに」と、大がかりに筏を壊わしはじめた。無手の兵隊は筏材の上に俯伏せになり、歯や爪で綱を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)り切ろうとした。それを見るなり、一人の将校は刀を振りあげてそちらへ突進した。兵隊の一人は下士官から奪った刀で将校に斬りつけたが、将校は服を裂かれただけですみ、その兵を筏の縁へ追いつめ海に斬りこんだ。
 闘争は全面的になった。暗黒のなかで惨澹たる殺し合いが展開された。兵隊のほうは数は多いがほとんどがみな無手なので、追々負け色になって後部に追いつめられ、防禦物でもなければ海に追い落されそうな状況になった。そこで誰かが、
「檣を倒せ」
 と叫んだ。控綱を切ると、檣は将校団の上に倒れかかり、デュポン大尉がその下敷になった。兵隊達は腿を挫いて呻いている大尉を円材の下からひきだして海に投げこんだ。将校達が短銃で威嚇して兵隊を追いはらい、筏の縁綱に縋りついている大尉を救いあげた。兵隊達は肋材の切れっ端やボールトを持って殺到して来、筏の端に俯伏せになっている大尉を撲り殺しにかかった。将校はサーベルをふるって辛うじてその一団を退却させた。
「みな集れ」
「ここへ来い、バラバラになっていると、殺られるぞ」
 兵隊達は声々に叫びかわしながら筏の後部に集結した。
 将校下士官のブロックは筏の前部に退って一と息入れると、飽くまで攻勢に出ることにきめ下士官達に強圧手段をとるように命令した。下士官達は中央部に残っていた三十名ばかりの兵隊を包囲し刺してはつぎつぎに海に投げこみ、這いあがろうとするものは短銃で射ち、筏に縋りつくものは指を断ちきって海に突きやった。
 こんな騒ぎが午前三時ごろまでつづいた。兵隊達は数で圧倒しようとかかったが、武器がなくては勝目がないとさとったので、機会をみてやるにしかじと思い、代表をやって謝罪させた。
 将校団のほうは企図の裏を察し、再度の暴発を未然に制圧するため申合せて、唐突に兵隊の居住区に斬りこんだ。兵隊達は将校の足をすくって押倒し、咽喉をしめ、組みついて行って野獣のように噛みついた。サヴィニ軍医補はサーベルで兵隊を斬り倒しながら、
「ゆるすな徹底的にやれ」
 と下士官達を督励して歩いた。
 夜が明けると、さすがに疲労して闘争はおさまった。将校下士官のほうにはただの一人も死傷はなかったが、兵隊のほうは六十名しか生き残っていなかった。筏は軽くなったが、それとともに八箱の小麦粉と二つの水樽……食糧の全部が筏の上から消え、檣に縛りつけてあった葡萄酒の樽が残っていた。自暴自棄になった兵隊が憎悪の念で理性を失い、あいつらを餓死させてやるといって海に投げこんでしまったのである。この実情は間もなくみなに知れわたったが、身から出た錆といってもあまりに覿面で、兵隊達は絶望してものをいうものもなかった。
 無情な太陽がじりじりと筏の上に直射していた。食うべきものも飲むべき水もなかった。筏はたえず波に洗われているので、飢えをまぎらわすに足るものはなにひとつ残っていなかったが、それでもときどき思いがけないものが発見された。大蒜にんにくの入った小さな袋が帆布の間に挾まっていた。兵隊達は血みどろになってひとかけらの大蒜を奪いあった。
 ある兵は釣竿の鈎で鱶を釣ることを思いついたが、鱶が噛みつくといっぺんに伸びて鈎の役をしなかった。兵隊達はみな黙りこみ、筏の後部に蹲まって食べられるものはないかと熱心に考えた。
 八日(第四日目)の夕方、飛魚の群がやってきて筏の下へ入りこんだ。兵隊達は大騒ぎをして二百尾ばかりつかまえた。取るより早く腹を裂いて白子をすすり、魚肉は鱗もとらずに端から鵜のみにした。
 そういう僥倖は二度とは訪れず、将校も兵隊も胃の緊縮に苦しんで帯革や靴の敷皮を噛み、尿をとって飲んだ。ある兵のは薄くて飲みやすかったが、ある兵のは濃くて辛辣な味がし、どうしても飲めなかった。飲める尿は小鉢で受け、早くさめるように海水に漬けておいたが、番をしていないと盗まれるので油断がならなかった。
 九日(第五日目)とうとう死体を食いだした。コレアールの「海難記」によれば、最初に誘惑に負けたのはシャルルという黒人兵の輸卒だったことになっている。
 シャルルは筏の上に残っていた前夜の犠牲者の体から、こっそりと肉を切りとったのである。何人かがすぐ真似をしてやりだした。
 よく晴れた朝、筏の人員は肉屋の仕事に没頭した。筏の上は爼のように真っ赤に光った。将校達は黙って見ていた。その夜は嵐もなく闘争もなくて過ぎた。みな妙に弱りきっていた。眠ってみたが力が恢復することができなかった。
 十日(第六日目)の午後、衰弱して長く生きられそうもないものは、筏から厄介払いをするという規定をサヴィニがつくり、それを全員に公示した。十人ばかりの負傷兵が眼をあいているままで捨てられた。
 弱れば捨てられるという恐怖が筏の上にひろがり、それが将校下士官ブロックにたいする猛烈な憎悪に変った。兵隊達は生きのびるためには先に相手を倒すしかないと、ひそかに決意していた。
 十一日(第七日目)筏の上には沈鬱な気分が漂っていた。正午頃、スペイン兵が突然に発狂して、大声にわめきながら海に飛びこんだ。
 この夜、またもや猛烈な殺し合いがはじまった。二人の下級兵を死刑に処したことがその原因になった。ベドウィン黒人の一下級兵が檣の頂につるしてある金貨や宝石の入った袋に目をつけ、イタリー人やスペイン人の下級兵をそそのかして、将校団を鏖殺する陰謀を企てたので、未然に制止しただけだとサヴィニは言っている。どこまで本当かわからないが、反乱を誘発するほどの惨酷な処刑が行なわれたのは事実だったらしい。クゥダン少尉の報告によると、それはこんな風にしてはじまった。
 その日の正午頃、ベドウィン黒人兵と仲間のイタリー兵が葡萄酒の盗み飲みをしたという理由で死刑に処せられた。サヴィニ軍医補が刑の宣告をし、巌のような巨大な体躯をもった人啖いのセネガル黒人兵が、一人ずつ抱いて行って投げこんだ。
 冷酷な処刑ぶりを見るなり、兵隊達は精神錯乱をおこした。絶望したスペイン人従卒は、マントにくるまったまま海に飛びこんだ。中年のスペイン兵は将校のナイフを盗みとると、檣材に十字架を彫りつけ、そのナイフをふるって将校団へ斬りこんで行った。五人ばかりの海兵がおさえつけナイフをとりかえし、胴上げにして海に投げこんだ。夕闇の中でまたもや殺し合いがはじまった。兵隊達は喚声をあげながら幾度となく突撃を敢行し、払暁まで奮然と戦った。
 十二日(第八日目)朝になると、血だらけの筏の上に三十名近くの兵隊しか生残っていなかった。その三十名も、半数は瀕死の重傷を負い、あとの半数は息をしているというだけの状態になっていた。
 木工長のラヴィエットがサン=ルイの病院で書いた覚書によると、この日、前夜の闘争にひきつづいて一層猛烈な惨劇が行なわれたのである。サヴィニ軍医補と一部の陸軍将校は、かねて冗員の整理を計画していたが、サヴィニの発議で実行にとりかかった。
「今日の現在で、食糧は十二尾の飛魚と四日分の葡萄酒だけだ。あれらの十五人は助かるわけはないのだから、あれらを整理すれば食糧の配分が二倍になる。思いきってやってしまおう」
 シャルルという黒人兵の輸卒と三人の海兵がその仕事を引受けた。二人の海兵が木工長を始末しに来た。ラヴィエットは先頭の一人をおさえつけ、頭を水の中に突っこんで窒息させ、もう一人の海兵から銃剣を奪って脳天を叩き割った。サヴィニ軍医補はラヴィエットの意外に決然とした態度にけおされ、君は助けてやるから冗員整理の手伝いしてくれといった。覚書には「勿論、私は拒絶したが、しかし」と苦しそうな弁解を試みている。
 刑手達は、予定の方針に従って、整然と冗員を始末していた。その中には、二十年も軍隊といっしょに戦場を経めぐり、兵隊達に慰安を与えてきた心の優しい酒保婦もいた。亭主のほうは頭に重傷を負って居り、自分のほうは筏材に挾まれて足を挫いていた。この夫婦は、海兵の斧の一撃によって拘き合ったまま生命の根を断たれた。
 コレアール技師の手記。
「犠牲者はみな瀕死の状態にあったので、彼等の苦痛を何時間か縮めてやったと考えることは、かならずしも不当ではない。のみならず、それによって何人かの人間が生還のチャンスを掴むことができるのである。われわれは一人を殺害するたびに、海の上の地獄から脱れ得る希望が一つ加わったことを、神に感謝した。最後の一人の始末をした後、われわれは筏の上にあるすべての武器を海中に投じ、二度とこういう行為を繰返さぬことを誓った」
 最初百四十五名だった筏の乗員は漂流の第八日目に十分の一になった。クゥダン海軍少尉、デュポン陸軍大尉、ルルウ陸軍中尉、ロザージュ陸軍少尉、クレーレ陸軍少尉、サヴィニ軍医補、クゥルタード砲術長、シャルロォ兵曹長、ラヴィエット木工長、フランソア看護卒、ベレエ海軍経理官、トーマ水先案内、コスト水兵、コレアール技師、シャルル黒人輸卒――以上の十五名が残った。
 革命は終った。生き残った人員はたがいに宥和し、環境を整備してできるだけ快適な生活をすることにした。木工長のラヴィエットは筏の舳部に張床のようなものをつくり、死体から剥ぎとった衣類を敷きつめてそこに横になった。屠殺の凄惨な印象のお蔭でみな異様な痴鈍状態におちいり、あおのけに寝たまま、一日中、うつらうつらしていた。波の音ばかり高く、変ったことといえば、ときたま鱶が跳ねるぐらいのもので、藍一色の無慈悲な風景の中で、茫々と時が経っていった。
 十七日(第十三日目)の朝、最後の葡萄酒を分け、なんの感動もなく咽喉の奥に送りこんでいるとき、デュポン大尉がああ、船が来ると沖のほうを指した。
 遠い水平線に帆影に似たものが漂うように動いていた。コストという水兵がさまざまな色の布を万国旗のように棒に結びつけ、それを持って檣によじのぼった。灼けつくような凝視を一点に集めてながめているうちに、その船は無関心なようすで西南方へ帆走をして行き、間もなく水平線の下に沈んでしまった。
 誰一人ものを言うものはなかった。罪の穢れの深さを考えても、そういう幸運にめぐりあうはずはないと諦めているようなようすだった。そうして、いつものように点々と日除の下に這いこみ、長くなって眼をつぶった。
 八時頃、砲術長のクゥルタードが日除から出ると、十浬ほどのところへラルギュスが航行して来るのを見た。
 三十分ほどの後、ラルギュスの端艇が筏の右舷に着いた。レーノォ大尉が見た光景はどんなものだったか、それは前に書いた。生き残りの十五名は、翌日、サン=ルイの英国病院へ入れられ、そこで六名が死に、九名が生き残った。
 一八一七年一月二十日、返還条約書の調印を終り、二十一発の号砲が鳴りひびくうちに、サン=ルイ要塞の国旗掲揚柱から英国の赤い国旗が引きおろされ、代ってフランスの白い国旗が揚った。フランスの国旗の下に十八人の将兵が整列していた。これがセネガルに遠征して来た三個中隊の警備隊の最後の生残りだった。
 筏組の九名のうち二名は本国へ帰り、あとの七名はセネガルに残留し、過去の罪の影におびえながら、つまらぬ生涯を終った。ショオマレェ中佐は軍法会議によって勲章を剥奪され、禁錮三年の刑に処せられた。





底本:「久生十蘭全集 ※(ローマ数字3、1-13-23)」三一書房
   1970(昭和45)年2月28日第1版第1刷発行
   1998(平成10)年2月28日第1版第7刷発行
※「アルマン・プラヴィエール」と「アルマン・グラヴィエル」、「ブレディフ」と「プレディフ」、「ロザーシュ」と「ロザージュ」、「クーダン」と「クゥダン」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った「セガル河口の」を、本文中の他の箇所の表記にそって、あらためました。
入力:門田裕志
校正:芝裕久
2020年11月27日作成
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