顎十郎捕物帳

捨公方

久生十蘭




   不知森しらずのもり

 もう秋も深い十月の中旬なかば
 年代記ものの黒羽二重くろはぶたえ素袷すあわせに剥げちょろ鞘の両刀をこじりさがりに落しこみ、冷飯ひやめし草履で街道の土を舞いあげながら、まるで風呂屋へでも行くような暢気な恰好で通りかかった浪人体。船橋街道、八幡の不知森のほど近く。
 生得しょうとく、いっこう纒まりのつかぬ風来坊。二十八にもなるというのに、なんら、なすこともなく方々の中間部屋でとぐろを巻いて陸尺ろくしゃく馬丁べっとうなどというてあいとばかり交際つきあっているので、叔父の庄兵衛がもてあまし、甲府勤番の株を買ってやったが、なにしろ、甲府というところは山ばかり。勤番衆といえば名だけはいかめしいが、徳川もそろそろ末世で、いずれも江戸を喰いつめた旗本の次男三男。端唄や河東節かとうぶし玄人跣足くろうとはだしだが、刀の裏表も知らぬようなやくざ侍ばかり。
 やくざのほうではひけは取らないが、その連中、気障きざで薄っぺらで鼻持ちがならない。すっかり嫌気がさして甲府を飛びだし、笹子峠を越えて江戸へ帰ろうとする途中、不意に気が変って上総のほうへひン曲り、半年ばかりの間、木更津や富岡の顔役の家でごろごろしていたが、急に江戸が恋しくなり、富岡を発ったのがつい一昨日おととい。今度はどうやら無事に江戸まで辿りつけそう。
 諸懐手もろふところで。袂を風にゆすらせながら、不知森のそばをノソノソと通りかかると、薄暗い森の中から、
「……お武家、お武家……」
 たいして深い森ではないが、むかしから、この中へ入ると祟りがあると言いつたえて、村人はもちろん、旅の者も避けるようにして通る。
 絶えて人が踏みこまぬものだから、森の中には落葉がうず高く積み、日暮れ前からふくろうがホウホウと鳴く。
 仙波阿古十郎せんばあこじゅうろう、自分では、もう侍などとはすっぱり縁を切ったつもり。いわんや、古袷に冷飯草履、どうしたってお武家などという柄じゃない。そのまま行きすぎようとすると、
「……そこへおいでのお武家、しばらく、おとどまり下さい、チトお願いが……」
 こうなれば、どうでも自分のことだと思うほかはない。呼ばれたところで踏みとどまって、無精ッたらしく、
「あん?」
 と、首だけをそっちへ振りむける。……いや、どうも、振るった顔で。
 どういう始末で、こんな妙な顔が出来あがったものか。
 諸葛孔明の顔は一尺二寸あったというが、これは、ゆめゆめそれに劣るまい。
 眼も鼻も口もみな額際ひたいぎわへはねあがって、そこでいっしょくたにごたごたとかたまり、厖大な顎が夕顔棚の夕顔のように、ぶらんとぶらさがっている。唇の下からほぼ四寸がらみはあろう、顔の面積の半分以上が悠々と顎の分になっている。末すぼまりにでもなっているどころか、下へゆくほどいよいよぽってりとしているというのだから、手がつけられない。
 この長大な顎で、風を切って横行濶歩するのだから、衆人の眼をそば立たせずには置かない。甲府勤番中は、陰では誰ひとり、阿古十郎などと呼ぶものはなく、『顎』とか『顎十』とか呼んでいた。
 もっとも、面とむかってそれを口にする勇気のあるものは一人もいない。同役の一人が阿古十郎の前で、なにげなく自分の顎を掻いたばかりに、抜打ちに斬りかけられ、あやうく命をおとすところだった。
 またもう一人は、顎に膏薬を貼ったまま阿古十郎の前へ出たので、襟首をとって曳きずり廻されたうえ、大溝おおどぶに叩きこまれて散々な目に逢った。阿古十郎の前では、顎という言葉はもちろん、およそ顎を連想させるしぐさは一さい禁物なのである。
 そういう異相を振りむけて、森の木立の間を覗きこんで見ると、『八幡の座』と呼ばれている苔のむした石の祠のそばに、払子ほっすのような白い長い顎鬚をはやした、もう八十に手がとどこうという、枯木のように痩せた雲水の僧が、半眼を閉じながら寂然じゃくねんと落葉の上で座禅を組んでいる。
 阿古十郎は、枯葉を踏みながら、森の中へ入って行くと、突っ立ったままで、懐中から手の先だけだして、ぽってりした顎の先をつまみながら、
「お坊さん、いま、手前をお呼びとめになったのは、あなたでしたか」
「はい、いかにも、さよう……」
「えへん、あなたも、だいぶお人が悪いですな、わたしがお武家のように見えますか」
「なんと言われる」
「手前は、お武家なんという柄じゃない、お武家からにごりを取って、せいぜい御普化おふけぐらいのところです」
「いや、どうして、どうして」
「行というのは、まあ、たいていこうしたものなんでしょうが、でも、こんなところに坐っていると冷えこんで疝気せんきが起きますぜ。……いったい、どういう心願でこんなところにへたりこんでいるんですか」
「わしはな、ここであなたをお待ちしておったのじゃ」
「手前を?……こりゃ驚いた。手前は生れつきの風癲ふうてんでね、気がむきゃ、その日の風しだいで西にも行きゃあ東にも行く。……今日は自分の足がどっちへむくのか、自分でもはっきりわからないくらいなのに、その手前がここを通りかかると、どうしてあなたにわかりました」
 老僧は、長い鬚をまさぐりながら、
「この月の今日、申の刻に、あなたがここを通りあわすことは、未生みしょう前からの約束でな、この宿縁をまぬかれることは出来申さぬのじゃ」
「おやおや」
「わしは、前の月の十七日から、断食をしながらここであなたが通るのを待っておった。……わしがここへ坐りこんでから、今日がちょうど二十一日目の満願の日。……これもみな仏縁、軽いことではござない」
 老僧は、クヮッと眼を見ひらくと、まじろぎもせずに阿古十郎の顔を凝視みつめていたが、呟くような声で、
「はあ、いかさま、な!」
 慈眼ともいうべき穏かな眼なのだが、瞳の中からはげしい光がかがやき出して、顎十郎の目玉をさしつらぬく。総体、ものに驚いたことがない顎十郎だが、どうも眩しくて、まともに見返していられない。思わず首をすくめて、
「お坊さん、あなたの眼はえらい目ですな。……まぶしくていけないから、もうそっちをむいて下さい」
 老僧は、会心の体でいくども頷いてから、
「……なるほど、見れば見るほど賢達理才の相。……睡鳳ずいほうにして眼底に白光びゃっこうあるは遇変不※(「目+毛」、第3水準1-88-78)ぐうへんふぼうといって万人に一人というめずらしい眼相。……天庭に清色あって、地府に敦厚とんこうの気促がある。これこそは、稀有けうの異才。……さればこそ、こうして待ちおった甲斐があったというものじゃ」
 顎十郎は、すっかり照れて、首筋を撫でながら、
「こりゃどうも……。せっかくのお褒めですが、それほどのことはない。……生れつき、ぽんつくでしてね、いつも失敗ばかりやりおります。……今度もね、甲府金を宰領して江戸へ送るとちゅう、何だか急に嫌気がさし、笹子峠へ金をつけた馬を放りだしたまま、上総まで遊びに行って来たという次第。……とても、賢達の理才のというだんじゃありません」
 のっそりとかがんで、
「まあ、しかし、褒められて腹の立つやつはない。おだてられるのを承知で乗りだすわけですが、二十一日も飲まず喰わずで手前を待っていたとおっしゃるのは、いったいどういう次第によることなんで」
「じつは、少々、難儀なことをお願いしたいのじゃ」
「いいですとも。……金はないが、これでも暇はありあまる男。……せいぜい褒めてくだすったお礼に、手前の力に及ぶことなら、どんなことでもお引きうけしましょう。これで、いくらか酔興なところもあるのです。……それで、手前に頼みとおっしゃるのは?」
「あなたがこの仕事をやりおうせて下されば、国の乱れを未然に救うことが出来る」
「これは、だいぶ大きな話ですな。……手前が国の乱れを?……へ、へ、へ、こいつァいいや。よござんす、たしかにお引きうけしました。……では、早速ですが、ひとつその筋道を承わりましょうか」
「早速のご承知でかたじけない。これで、わしも安心して眼をつぶることが出来ますのじゃ」
「お礼にゃ及びません。……出家を救うは凡夫の役、これも仏縁でしょうからな」
「は、は、は、面白いことを言われる。……では、お話し申すことにいたす。……しかし、これは々しい国の秘事でござるによって、人に聞かれてはならぬ。近くに人がおらぬか、ちょっと見て下され」
「おやすいご用」
 顎十郎は、森を出て街道をずっと見渡したが、薄い夕靄がおりているばかり、上にも下にも人の影はない。念のために森の中も充分すかしてから戻ってきて、
「誰もおりません」
「では、どうかもうすこしそばへ……この世で四人しか知らぬ国の秘事を解きあかし申す」
「はあ、はあ」
「……十二代将軍家慶いえよし公の御世子よつぎ幼名ようみょう政之助さま……いまの右大将家定公は、本寿院さまのお腹で文政七年四月十四日に江戸城本丸にお生れになったが、それから四半刻ばかりおいて、また一人生れた。……つまり双生児ふたご
「えッ」
「驚かれるのも無理はない、いまの公方に双生児の兄弟があることを知っているのは、本寿院さまと家慶公と取りあげ婆のお沢、それにこのわしの四人。……もっとも、産室には三人の召使いがおったが、この秘事を伏せるため、気の毒ながら病死の体になってしまった」
「それで、あとのほうの公方さまはどうなりました」
「その話はこれから。……国の世子よつぎに双生児は乱の基。……なぜと言えば、いずれを兄にし、いずれを弟にと定めにくいのじゃから、成長した暁、一人を世子と定めれば、他の方はかならず不平不満を抱く。……自分こそ嫡男であると言いたて、追々に味方をつくり、大藩にって謀叛でも企てるようなことになれば、それこそ国の大事、乱の基。……前例のないことではないのだから、根を絶つならば、今のうち。……家慶公はひと思いに斬ってしまおうとなさったが、本寿院さまの愁訴にさえぎられて殺すことだけは思いとまられ、十歳になったら僧にして、草深い山里の破寺やれでらでなにも知らさずに朽ちさせてしまうという約束で、その子をお沢にたまわった。……お沢は篤実な女で、この役にはまず打ってつけ」
「へへえ」
「そこでお子をふところに押し隠し、吹上ふきあげの庭伝い、そっと坂下御門から出て神田紺屋町こうやまちのじぶんの家へ帰り、捨蔵と名をつけて丹精し、八歳の春、遠縁にあたる草津小野村万年寺の祐堂という和尚に、実を明かして捨蔵を托した」
「その祐堂が、つまり、あなた」
「……いかにも。やがて十歳になったので、剃髪させようとすると、僧になるのを嫌って寺から出奔してしまった。……それからちょうど十四年。……わしは雲水になって津々浦々、草の根をわけて捜しまわったが、どうしても捜しだすことが出来申さぬ。……この春、一度寺を見るつもりで草津へ帰ると、お沢の家主の久五郎というひとから赤紙つきの手紙が届いておった……」
「ははあ、いよいよ事件ですな」
「手紙のおもむきは、五月の二日の夕方、お沢の家から唸り声がきこえるから入って見ると、お沢が斬られて倒れている。……あわてて介抱にかかると、あたしのことはどうでもいい、この封書の中に三字の漢字が書いてあるが、これへ赤紙をつけてこの名宛のところへ送ってくれと言って、息が絶えてしまった。……そこで家主が状屋へ行こうとその封書を手に持って露路を出かかると、いきなり右左から同時に二人の曲者が飛びだして封書に手をかけるから、なにをするといって振りはらうはずみに封書は三つに千切れ、二つは曲者に奪われ、ようやくこれだけじぶんの手に残った……」
「いや、それは困った」
「せっかく臨終の頼みもこんな始末になって、なんとも面目ないが、暗闇の出逢いで曲者どもの顔もよく見えず、取返すあてもないのだから、せめてなにかの足しに自分の手に残ったぶんだけを送るという文意……」
「なんとありました」
「……開いて見ると、短冊形の紙の後が切れ、『五』という一字だけが残っている。……お沢がわしに書き越すからは、言うまでもなく捨蔵さまのいられる所の名にちがいない。……漢字で三字ということだから、滋賀の五箇庄は言うまでもなく、五峰山から五郎潟、武蔵の五日市といたるところを訊ねて廻ったすえ、この下総しもおさの真間の奥に、五十槻いそつきという小さな村があるということを聞いたので、先の月の十五日にそこへ出かけて行って見たが、やはりそこにもおられない」
「ふむ、ふむ」
「わしの寿命は、この十月の戌の日の戌の刻につきることがわかっておるのじゃから、わしの力としては、もはや如何いかんとも成しがたい。……幸いわしの命はまだ二十一日だけ残っているから、街道のほとりに坐って通りがかりの旅人の相貌を眺め、これと思う人間に後事を托そうと、それで、ここで断食をしていたというわけじゃ」
「うむ……それにしても、そのような曲者がお沢を襲うようでは、何者かがその双生児の秘事を洩れ知り、捨蔵さまとやらを訊ね出して、何事か企てようとしているのにちがいありませんな」
 祐堂和尚は、うなずいて、
いぶかしいのは、前の大老水野越前、あれほどの失政をしてお役御免になったにかかわらず、十カ月と経たぬそのうちに、将軍家じきじきのお声がかりで、またその職に復したという事実。その理由は家慶さまのほか誰一人知らぬ。まことに以て訝しい次第。……この見当はあたらぬかも知れぬが、ひょっとすると、あの佞奸ねいかんの水野が、最近に至って双生児の秘事を聞き知り、それを種に、上様に復職を強請したというようなことだったのではあるまいか。……果してわしがかんがえるようなことであって、捨蔵さまを水野に捜し出され、その腕の中に抱えこまれるようなことになったら、水野はどのような思い切ったことをやり出そうも測られぬ。……頼みとはこのことじゃが、どうか水野より先に捨蔵さまの居所を捜し出して、この書状をお渡しくだされ。……この書状には、そなわらぬ大望たいもうにこころを焦すはしょせん身の仇。浮雲の塵欲に惑わされず、一日も早く仏門に入って悠々と天寿をまっとうなされと書いてある。……ここに捨蔵さまの絵姿もあるから、なにとぞ、よろしくおたのみもうす」
「よくわかりました。……つまり、捨蔵さまの居所を捜しだしてこの手紙を渡し、早く坊主になれと言やいいんですね、たしかに承知しました。……それであなたはこれからどうなさる」
「わしは間もなくここで死ぬ。……わしのことにはおかまいなく」
「そうですか、せめて眼をおつぶりになるまでここにいて念仏のひとつも唱えてあげたいというところでしょうが、お覚悟のあるあなたのような方に向ってそんなことを言うのさえ余計。……では、和尚さん、どうぞ大往生なすってください」
「ご縁があったら、またあの世で……」
「冗談おっしゃっちゃいけない……。あなたは否でも応でも極楽へ行く方。手前のほうはてんで当なし。……あの世もこの世も、これがギリギリのお別れです。……では、さようなら」
 ピョコリとひとつ頭をさげると、冷飯草履をペタつかせながら、街道の夕靄の中へ紛れこむ。

   宙吊女

 今夜のうちに千住までのす気で、暗い夜道を国府台へかかる。
 右は総寧寺の境内で、左は名代の国府台の断崖。崖の下には利根川の水が渦を巻いて流れている。
 鐘ガ淵の近くまでノソノソやってくると、一丁ほど向うで、五人ばかりの人間が淵へ身を乗り出すようにして、忍び声で代るがわる崖の下へなにか言いかけると、崖の下からおうむがえしに、よく透る落着いた女の声がきこえてくる。
 なにをしているのだろうと思って、断崖の端へ手をついて女の声のするほうを斜めに見おろした途端、顎十郎は思わず、ほう、と声をあげた。
 川霧がたてこめて月影は薄いが、ちょうど月の出で、蒼白い月光が断崖の面へ斜めにさしかけているので、そこだけがはっきりと見える。
 蓑虫のようにグルグル巻きにされた一人の女が、六十尺ばかりも切立った断崖へ、一本の綱で吊りさげられてブラブラと揺れている。
 さっきから落着いた声でものを言っているのは、一本の綱で宙ぶらりんになっているその女なのだった。こんなことを言っている。
「……殺すというなら、お殺しなさい。……わけはないでしょう、この綱をスッパリと切りさえすればいいんですからね。どうせ、あたしはこんなふうにがんじがらめになっているのですし、こんなはげしい流れなんだから、あたしは溺れて死ぬほかはない」
 上のほうでは、押し殺したような含み声で、
「誰も、殺すとは申しておらぬ。……一言、言いさえすれば、助けてやると言っているのだ」
 低い声だが、深いはざまに反響して、言葉の端々まではっきりと聞きとれる。
 下のほうでは、ほ、ほ、ほ、と笑って、
「……なんですって? 白状するなら助けてやるって?……冗談ばっかし!……あたしが、そんな甘口に乗ると思って?」
 上のほうでは、また、別な声で、
「いや、かならず助けてやる。……たったひと声でいいのだ……早く言いなさい」
「そう言う声は、お庭番の村垣さんですね。……お庭番といえば将軍さま御直配の隠密。……吹上御殿の御駕籠台おかごだいの縁先につくばって、えへん、とひとつ咳払いをすると、将軍さまがひとりで縁先まで出ていらして、人払いの上で密々に話をお聴きになる。……目安箱めやすばこの密訴状の実否やら遠国の外様とざま大名の政治の模様。……そうかと思うとお家騒動の報告もあります。天下の動静はお庭番の働きひとつで、どんな細かいことでも手にとるようにわかるというわけ。……ねえ、そうでしょう? ちょっと土佐を調べてこいと言われると、家へも寄らずにその場からすぐ土佐へ乗りこんで行く。……あなたの父上の村垣淡路守が薩摩を調べにいらしたときは、お庭先から出かけて行って二十五年目にやっと帰って来た。……御用のため、秘密を守るためなら、親兄弟じぶんの子供でも殺す。都合によってはじぶんでじぶんの片手片脚を斬り捨て、てんぼうに化けたり、いざりに化けたりするようなことさえするんです。そういう怖い人が、そうやって崖の上に六人も腕組みをして突っ立っている。……たとえ、あたしがほんとうのことを言ったって、これほどの大事を知っているこのあたしを、生かしておこう道理はない。……ねえ、村垣さん、そう言ったようなもんでしょう?……言っても殺される、言わなくても殺されるじゃ、あたしは言わない。この秘密はこのままわたしの胸に抱いて、死んでゆきます。……どのみち殺すつもりなのなら、早く綱をお切りなさいな。こんなところで宙ぶらりんになっているのはかったるくてしょうがないから。……ねえ、村垣さんてば……」
 上のほうでは、六人が崖っぷちに跼みこんで、なにか相談をしあっているふうだったが、間もなく一人だけが立上ると、ズイと崖のギリギリのところまで進み出て、
「おい、お八重、お前、どうでも死にたいか」
 崖の下では、また、ほ、ほ、と笑って、
「ええ、死にたいのよ。……どうぞ、殺してちょうだい。……あなたたちだけが忠義づらをすることはない……そちらが、将軍さまなら、こちらは本性院ほんじょういん様よ。命を捨ててかかっている腰元が五十や百といるんです。……殺したかったら、お殺しなさい。……あたしが死ねば、すぐお後が引継ぐ。……それでいけなければ、またお代り。……いくらだっているんだから、いっそ、気の毒みたいなもんだわ」
「それだけ聞いておけば結構だ。……お前がこのへんをうろつくからは、これで、だいたい方角もついた。……では気の毒だが綱を切る」
「くどいわねえ。……方角がついたなんて偉そうなことを言うけど、あなた方にあの方のいどころなんかわかってたまるものですか。せいぜいやってごらんなさいまし、お手並拝見いたし……」
 言葉尻が、あッという叫び声に変ったと思うと、女の身体からだは長い綱の尾を曳きながら、石のように落ちてゆく。
 顎十郎は、うへえ、と顎をひいて、
「お庭番というだけあって、なかなか思い切ったことをする。……ひどく切っぱなれのいいこった。……それはそうと、いろいろ聞くところ、どうやら、だいぶ気障なセリフがまじっていたようだ。……祐堂和尚の言い草じゃないが、なるほど仏縁は争われねえ、こんなに早くご利益があろうとは思わなかった。……ひとつ、川下であの女を引きあげて、うまく泥を吐かしてやる」
 古袷の裾をジンジンばしょりにすると、空脛をむき出して、崖っぷちに沿ってスタコラと川下のほうへ駈けだす。
 このへんは足利時代の太田の城のあったあとで、そのころの殿守でんしゅ台や古墳がところどころに残っている。古い城址の間を走りぬけて行くと、断崖に岩をそのまま刻んだ百五十段の石段が水際までつづいていて、その下に羅漢の井戸という古井戸がある。
 飛ぶように急な石段を駈けおり、井戸のそばの岩のうえに跼んで、薄月の光をたよりに川上の水面を睨んでいると、先程の女がはげしい川波に揉まれながら、浮きつ沈みつ流れてくる。

   女の頼み

 水際に倒れていたひと抱えほどある欅の朽木を流れの中へ押し落すと、身軽にヒョイとその上に飛び乗り、押し流されてくる女の襟くびを掴んで川岸へ引きよせる。波よけの杭にもたせておき、石子詰いしこづめ蛇籠じゃかごに腰をかけてゆっくりと一服やり、
「これで一段落。……あとは水を吐かせるだけ」
 暢気なことを言いながら、薄月に顔むけて眼を閉じている女の顔をつくづくと眺める。
 二十歳といっても、まだ二十一にはならない。目鼻立ちのきっぱりした瓜実顔。縮緬の着物に紫繻子の帯を立矢の字に締め、島田に白い丈長たけながをかけ、裾をきりりと短く端折って白の脚絆に草鞋を穿いている。
「これは大したもんだ。甲府じゃこんな鼻筋の通った女に、お目にかかったことがなかった。……齢はまだ二十歳になったぐらいのところだが、崖に吊りさげられながらあんな悪態をつくなんてえのは、この齢の小娘にはちょっと出来ない芸当だ。……波切りの観音さまのようなおっとりした顔をしているくせに、よくまあ、あんな憎まれ口がきけたものだ、これだから女はおっかねえ。……しかし、いつまでもこうしておくわけにはゆくまい、どれ、水を吐かせてやるか」
 吸殻を叩いて煙草入れを袂へ落すと、やっこらさと起ちあがり、まるでごんどう鯨でも扱うように襟を掴んでズルズルとかわらへ引きあげる。衿をおしあけて胸のほうへ手を差し入れ、
「おう、まだぬくみがある。このぶんなら大丈夫。……落ちる途中で気を失ったとみえて、いいあんばいにあまり水も飲んでいない」
 がんじがらめになっている繩を手早く解いて俯向けにして水を吐かせ、磧の枯枝やよしを集めて焚火を焚き、いろいろやっているうちに、どうやら気がついたらしく微かに手足を動かし始めた。
「へえ、お生き返りあそばしたか」
 女の肩に手をかけて、手荒く揺すぶりながら、
「姐さん姐さん、気がつきなすったか」
 女は、長い溜息をひとつ吐くと、ぼんやりと眼をあいて怪訝けげんそうにあたりを見まわし、
「……いま、なにか仰有おっしゃったのはあなたでしたか。……あたしはいったい、どうしたのでしょう」
「どうしたもこうしたも、ありゃしない、お前さんが鐘ガ淵へ落しこまれて土左衛門になりかかっているのを、手前がやっとの思いで助けてあげたんで」
 女は、あら、と眼を見張って、
「あなたが、あたしをお助けくださいましたの」
「どうも話がくどくていけねえ。助けたらこそ、こうしているんです。さもなけりゃあ、今ごろは行徳の沖あたりまでつん流れて行って、鰯にお尻を突つかれているころだ」
「まあ、面白い方。……普通なら、ひとを助けておいて、なかなかそんな冗談はいえないものですわ。そんなところに突っ立っていないで、まあ、焚火にでもおあたりなさいませ」
 顎十郎は、毒気をぬかれて、うすぼんやりと焚火のそばへ跼みこむと、女は裾を直し、改めてなまめかしく横坐りして焚火に手を翳しながら、
「ほんとうのことを言いましょうか。……じつはね、あたし、もうすこし先から気がついていたんですけれど、あなたがどんなことをするのかと思って、ようすを窺っていましたの」
「じゃ、あんたは、手前があんたの足や胸を温めてやったのを知っていたんで」
「ええ、知っていましたわ。どうもご親切さま」
「こいつは驚いた。……江戸の人はひとが悪いというが、へえ、ほんとうだね」
「でも、こんな磧に男一人女一人。……なにをされるかわからないとしたら、やはり怖いでしょう」
「ぷッ、冗談いっちゃいけねえ。……六十尺もある崖に宙吊りになって、あんな後生楽ごしょうらくを並べていたお前さんでも、怖いものがありますのか」
「まあ、いやだ。……あなた、あれを聴いていたの。そんなら、今更、猫をかぶっても手おくれね」
「いい加減にからかっておきなさい、手前は先を急ぐから、あんたなんかに、かまっちゃいられねい」
 わざと身振りをして立ちかかると、女は手で引きとめ、
「あたしをこんなところへ一人おいて行って、狼にでも喰われたらどうします。……それこそ仏をつくって魂を入れずというもんだわ。……それに、少々折入ってお願いがありますの」
 顎十郎は、頭を掻いて、
「やあ、どうもこいつは弱った。……お願いというのはいったいどんなことけえ。……気がくからね、手ッ取り早くやってくだせい」
「どうやらあんたは甲府訛。……あちらのほうからいらした方なの」
「わしゃあ甲府の郷士の伜でね、江戸へ出るのはこんどが始めてだ。……それはそうと、いってえ、どんなとがであんなえれえ目にあっていなすったけえ」
「あたしは本性院様というお局の側仕えで八重というものですが、あたしがさるお大老の悪事を知っているばかりに、いろいろなやつが寄ってたかって、あたしを殺してしまおうとしますの。……あなたは見たから知っているでしょう、こんな脆弱かよわい女一人を、大勢の男であんなひどい目に逢わせるんです。……ねえ、あなた、あたしを気の毒だと思わない?」
「それは、まあ、気の毒だと思う」
「あたしに力を貸して、助けてくれる気はなくって」
「事柄によっちゃ力を貸してもいいだが、それは、いったいどんなこと」
 お八重は、顎十郎の膝に手をかけて、
「ほんのちょっとしたことなの。……江戸、たつノ口の評定所ひょうじょうしょというところの腰掛場に、目安箱という箱がさがっていますから、それを持って来ていただきたいの」
 目安箱というのは、歴代の将軍が民情を知る具にした訴状箱で、老中の褒貶ほうへん、町奉行、目付、遠国の奉行の非義失政などの忌憚のない密告書が出てくる。これを本丸へ差しだすときは、老中の用部屋まで六人の目付が附添い、老中から用部屋坊主、時計の間坊主、側用取次というふうに順々に手渡しされ、将軍は人払いの上、首に掛けている守袋から目安箱の鍵を取りだして、手ずから箱をひらくという厳重なもの。みだりにこの箱をあけたりすると、その罪、死にあたる。
 それを、ちょいと持って来いという。
 顎十郎、あまり物怖ものおじしないほうだが、これには、いくらかおどろいた。
 世の中には、えらい女もいるものだと舌を巻きながら、トホンとお八重の顔を眺め、
「それを持って来りゃあいいんだね。……そんなことなら、わけはなさそうだ。……よっぽど重いかね」
「まあ、いやだ。箱なんかどうだっていいのよ。……箱の中にある手紙だけがほしいの」
「よし、わかった。……それで、その手紙をどこへ持って行くかね」
「あさっての六ツに、湯島天神の鐘撞堂の下まで持って行って下さい」
「心得申した」
「ほんとうにご親切ね」
「いや、それほどでもねえが……」

   目安箱

 二年ぶりで帰る江戸。
 懐手のままで、ぬうと脇阪の中間部屋へ入って行く。
 上りがまちで足を拭いていたのが、フト顔をあげて顎十郎を見ると、うわあ、と躍りあがった。
「先生……いつお帰りになりました」
「いま帰って来たところだ。……甲府は風が荒いでな、おれのような優男やさおとこは住み切れねえ。……おい、またしばらく厄介になるぞ」
「あっしらあ、先生に行かれてしまってから、すっかり気落ちして、とんと甲府のほうばかり眺めて焦れわたっておりました。……おい、みんな、先生が帰って来なすった。……早く、来い来い……」
 奥からバタバタと駈けだして来た陸尺に中間。
「いよう、先生、ようこそお帰り」
 と大はしゃぎ。担ぐようにして奥へ持って行く。
 その翌朝、七ツ頃、顎十郎は岩槻染、女衒ぜげん立縞の木綿の着物に茶無地の木綿羽織。長い顎を白羽二重の襟巻でしっかりとくるんでブラリと脇阪の部屋を出る。亀の子草履に剥げっちょろの革の煙草入を腰にさげているところなどは、どう見ても田舎の公事師くじし
「どういういきさつなのか知らないが、いずれ曰くは目安箱の中にある。……ところもあろうに評定所から目安箱を盗み出すなどというのは、少々、申訳がないが、国の乱れを防ぐというのでありゃあ、それも止むを得んさ。……まあまあ、やって見ることだ」
 ブツブツ言いながら、お濠ばたへ出、和田倉門を入ると突当りが町奉行御役宅。その右が評定所。老中と三奉行が天下の大事を評定する重い役所で、公事裁判もする。
 寄合場大玄関の左の潜り門のそばに門番が三人立っている。ジロリと顎十郎の服装を見て、
「遠国公事だな」
「へえ、さようでございます」
「公事書はあがっているか」
「へえ、さようでございます」
「寄合公事か金公事か」
「寄合公事でございます」
「そんならば西の腰掛へ行け」
「ありがとうございます」
 玉砂利を敷いた道をしばらく行くと、腰掛場があって床几に大勢の公事師が呼出しを待っている。突当りが公事場へ行く入口で、式台の隅のほうに、壁に寄せて目安箱がおいてある。
 黒鉄くろがねの金物を打ちかけた檜の頑丈な箱で、ちょうど五重の重箱ほどの大きさがある。
 顎十郎は床几にいる人たちに丁寧に挨拶しながら式台のほうへ歩いて行くと、式台へ継ぎはぎだらけの木綿の風呂敷を敷いて、悠々と目安箱を包みはじめた。
 まさか天下の目安箱を持ってゆく馬鹿もない。なにをするのだろうと四五人の公事師がぼんやり眺めているうちに、顎十郎は目安箱を包むとそれを右手にさげ、はい、ごめんくらっせえ、と挨拶をして腰掛場を出てゆく。
 よっぽど行ってから、ようやく気がつき、二三人、床几から飛びあがって、
「やッ、泥棒!」
「飛んでもねえことをしやがる。やい、待てッ……」
 砂利を蹴って後先になってバラバラと追いかけて来る。
「糞でも喰え、だれが待つか」
 じぶんも大きな声で、泥棒、泥棒と叫びながら潜り門のほうへ駈けだし、
「お門番、お門番、いまそこへ盗人が走って行きます」
 詰所で将棋を差していた門番が、驚いて駒を握ったまま飛びだして来る。
「やいやい、なにを騒いでいやがるんだ」
 顎十郎は、息せき切って、
「ど、泥棒。……いま、ぬすっとが逃げて行きました」
「馬鹿をいえ、そんなはずはない」
「はずにもなにも……あれあれ、あそこへ……」
 待て待て、そのぬすっと待て、と叫びながら潜り門を飛びだす。
 和田倉門のほうへ行かずに、町奉行の役宅の塀についてトットと坂下門のほうへ駈けながら、うしろを振りかえって見ると、番衆や同心に公事師もまじって、一団になってワアワアいいながら追いかけて来る。……どっちへ逃げてもお濠のうち。
 紅葉山の下を半歳門のほうへ走りだして見たが、このぶんでは半蔵門で捕るにきまっている。
「ままよ、どうなるものか、西の丸の中に逃げこんでしまえ」
 幸いあたりに人がない。
 躑躅つつじを植えた紅葉山の土手に取っついて盲滅法に掻きあがる。
 飛びこんだところが、ちょうど廟所のあるところ。築山をへだてて向うにお文庫の屋根が見える。顎十郎は、楓の古木の根元へドッカリと胡坐あぐらをかき、
「ここまで来りゃあ大丈夫。……いま、西の丸へ怪しきやつが入りこみましたから、なにとぞ、ご支配までお通じください。……支配から添奉行、添奉行から吹上奉行と手続きを踏んでいるうちにとっぷりと日が暮れる。……まあ、そう言ったようなわけだ……では、ひとつ箱を壊しにかかるか」
 懐中から五寸ばかりの細目鋸ほそめのこを取りだして、状入口からゴシゴシと挽き切りはじめる。
 りあけた穴から手を入れて見ると、五通の訴状が入っている。
 丁寧に封じ目を解いてひとつずつ読んでいたが、五通目の最後の訴状に眼を走らせると、
「うへえ!」
 といって、首をすくめた。

 女々しいことですが、わたくしは前の本性院様の側仕えの八重と申す女に捨てられた男でございます。
 その怨みを忘れることが出来ませんので、意趣を晴らすため、八重の一派が企ておる謀叛の事実をここに密訴いたします。
 一味と申しますのは大老水野越前守、町奉行勘定奉行鳥居甲斐守、松平美作守みまさかのかみ支配、天文方見習御書物奉行兼帯渋川六蔵、甲斐守家来本庄茂平次、金座お金あらため役後藤三右衛門、並びに中山法華経寺事件にて病死の体でおいとまを賜わった本性院伊佐野のつぼね、御側役八重、それらの者で家定公御双生の御兄君捨蔵様の御居所を存じおる如くに見せかけ、それを以て水野は上様を圧しつけて復職を強請したわけですが、実のところそのようなことはなく、昨年九月、八重が神田紺屋町なるお沢と申す者を襲って奪った捨蔵様の御居所を示す『大』という一字をしたためたものが、手にあるだけでございます。
 現にお八重は昨日国府台のあたりへ所在を探索に行っているほどで、これを以っても彼等の一味は、まだ捨蔵様の居所を知っていないという証拠になるのでございます。鳥居甲斐守は組下の目明し下っ引を追いまわして昨年暮からひそかに大探索を続けておりまするが、まだ確かな手掛りはない様子でございます。
 実情はこの通りでございますが、なお洩れ聞くところでは水野の一派は捨蔵様の御居所を捜しだし、これを擁立して御分家を強請し、己等一味の勢力を扶殖し、同時に阿部伊勢守を打倒する具に使おうとする意志のよしでございます。以上

   将軍

「悧巧なようでもやっぱり女。……田舎ものだと、てんから嘗めてかかったのが向うのぬかり。袖にした情夫が、いずれそれくらいなことはするだろうと見こんで、女には寄りつけない評定所のことだから、風来坊のおれにこんな仕事をやらせたのだろうが、おれのほうとすれば、思いもかけないいい仕合せ。明日、湯島天神の境内であの女に逢ったら、よくお礼を言ってやる。……それはそうと、坊さんも祐堂和尚ほどになれば大したもんだ。今頃は不知森で大往生をしたのだろうが、いながらにしてちゃんと水野のことを見抜いていた。……これでおれの手に『五』と『大』の二字が手に入ったから、残るところは僅か一字。……いったい、どんなやつの手にあるのかしらん。しかし、あせってもしょうがねえ、そのうちにかならずあたりをつけて見せる。……こうして、下人が足を踏みこんだことがない吹上御殿へ飛びこんだのだから、どんなふうになっているものか、ついでのことに見物して行ってやろう」
 五つの訴状を胴巻の中に入れ、楓の木の間づたいにブラブラと築山のほうへ歩きだす。
 築山の裾の林をぬけると、広々とした芝生になり、その向うは水田で、水田の北と南に小さな小山が向きあっている。
「なるほど、あれが音に聞く木賊とくさ山と地主山か。……このようすを見ると、まるで山村。……おわこいうちにこんなところがあるとは思われない、いや、大したもんだ」
 広芝の縁をまわって木賊山の裾のほうへ入って行くと、そこには見上げるような奇巌怪壁が聳えたって二丈あまりの滝が岩にかかり、流れは林や竹藪の間をゆるゆるとうねりうねって、末は広々とした沼に注ぎこんでいる。
 沼をかこむ丘の斜面のところどころに四阿あずまやや茶室が樹々のあいだに見え隠れし、沼の西側は広々としたお花畑で、色とりどりの秋草が目もあやに咲き乱れている。
 顎十郎は、呆気に取られて眺めていると、花畑と反対の並木路のほうに人のあし音がする。
「おッ、こいつあいけない。こんなところで捕ったら、首がいくつあったって足りはしない、どこか身を隠すところがないかしら」
 どこもここも見透しで、これぞといって身を隠す場所がない。そのうちに、すぐそばの数寄屋の庭先に二抱えほどもある大きな古松が聳えているのに眼をつけ、
「こうなりゃあ、しょうがない、あの松の枝のあいだにでも隠れるほかはない」
 走り寄って幹に手をかけ、スルスルとよじのぼり、中段ほどの葉茂みの中に身を隠してホッと息をついていると、枝折戸をあけて静かに入って来た、三十五六の、精悍な眼つきをした一人の男。
 松坂木綿の着物を着流しにして茶無地木綿の羽織を着ている。身体つきは侍だが、服装は下町の小商人こあきうど。妙なやつがやってきたと思って眺めていると、その男は数寄屋の濡縁に近い庭先へ三つ指をつき、右手を口にあてて、えへん、えへんと二度ばかり軽く咳払いをした。
 しばらくすると、数寄屋の障子がサラリとあいて、縁先へ出てきたのは五十一二の寛濶なようすをしたひと。
 これも着流しで縁先まで出てくると、懐手をしたまま、
「おお、村垣か。……あれは、その後どうなっておる。……所在はわからぬか」
 村垣と呼ばれた男は、ハッとうやうやしく頭をさげ、
「今しばらく、御容赦を願います。……じつは、いつぞやお話し申しあげました伊佐野の局の召使い八重と申す者を国府台で追いつめ、及ぶかぎり糺明いたしましたが、なんとしても白状いたしませんので、後々のためを思いまして鐘ガ淵へ沈めてしまいました」
「それでは、手蔓がなくなる」
「ご心配には及びません。八重は、間もなく郷士体の者に救いあげられ、つつがなく江戸へ帰っております」
「ほう」
「八重のほうでは、われわれが、八重はもう死んだと思っているものとかんがえ、今までよりも自由に働くことでございましょうから、八重をさえ見張っておりますれば、かならず御在所が判明いたすことと存じます。……われわれの見こみでは、八重が国府台あたりを徘徊いたすによっても、御在所は、まず、あのへんの見こみ。……北は川口、東は市川、南は千住、この三角の以内と察しております」
「その中に『鹿』という字のついた地名があるか」
「……残念ながらございません。……手前のかんがえでは、これは鹿ではなく平仮名の『か』あるいは『しし』と読ませるつもりと心得ます。……『か』は申すまでもなく鹿の子の『か』……。『しし』は鹿谷ししがたにの『しし』。……まず、かようなわけと愚考いたします」
「いかさま、な。……なにはともあれ、一日も早く居所を捜しだし、不愍だが手筈通りにいたせ。そうなくては佞奸の水野を圧えることが出来ぬ。……水野の復職の理由が不明だによって、閣内はいうまでもない、市中でもさまざま取沙汰するそうな。……わしとしては、この上、一日も水野の圧迫を忍びとうない、不快じゃ」
「おこころは充分お察し申しあげております。……かならず……かならず……」
「たのむ」
 寛濶なひとは、それで数寄屋の中へはいってしまった。村垣は庭土に三つ指をついて首を垂れたまま、いつまでもじっとしている。
 顎十郎は、松の上で、
「……早く行かねえか! これじゃ降りられやしねえ、泣くならどこかへ行って泣け」
 と、ボヤいていると、村垣はようやく膝の土を払って立ちあがり、顔を俯向けるようにして並木路のほうへ行ってしまった。
 顎十郎は、そろそろと松の木からおりて沼のへりを廻り、竹藪の中へ逃げこむと、またしても大胡坐をかき、
「……あなたまかせの春の風。……もうひとつの漢字がわかって、その上、読み方まで教わりゃあ世話はない。……すると、お沢婆さんの書いた三字の漢字というのは『五』と『大』と『鹿』だ。……鹿は鹿の子の『か』と読ませるつもりだそうだから、すると『五』は五月さつきの『さ』。こりゃあ、わけはない。すると『大』はこの筆法で、大臣おとどの『お』かな、それとも大人うしの『う』かな。……『さおか』。でははなしにならないから、するとやはり大人のほうで『さうか』。……さうか……、さうか……、草加!……ふ、ふ、なるほど!」

   よだれくり

 湯島の古梅庵という料亭の奥座敷。
 柱掛に紅梅が一と枝※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)けてあって、その下で顎十郎が口の端から涎を垂らして、ぼんやりと眼を見ひらいている。
 これと向きあって、紫檀の食卓に腰をかけ、ニヤニヤ笑っているのは、鐘ガ淵のれいのお八重。
 高く組んだ膝の上へ肱をついて掌で顎を支え、ひどくひとを馬鹿にした顔つきで、
「ほほほ、ちょいと顎さん……。仙の字。……なにもかも承知のくせに、すッとぼけてあたしをなぶろうとしたって、そううまくはゆきませんのさ。……お前さんが、風呂へ行っている隙に、祐堂和尚の手紙を読んで、あんたが知っている字も、和尚のおせっかいも、なにもかもみんなわかってしまったの。……『五』という字が手に入ればもうこっちのもの、捨蔵様のいどころはこれでちゃんとわかりましたから、あたしはひと足先にまいりますよ。……始めて江戸へ出て来たひとを、こんな目に逢わせてお気の毒さまみたいなもんだけど、これに懲りて、もう柄にないことはおよしなさい、わかりましたか。……ご縁があったら、またいずれ。……あとで手足の痺れが直ったら、ちゃんと涎を拭いておきなさい。……くどいようだが、あたしはこれから行きますよ、よござんすね。……では、さようなら」
「ち、ち、ち……」
「畜生と言いたいのでしょう、急がずに、あとでゆっくりおっしゃい、ね」
 言いたいだけのことを言って赤い舌を出すと、お八重はツイと小座敷から出て行ってしまった。
 痺れ薬のせいで手足はきかないが、頭は働く。口惜しくて腹の中が煮えくり返りそうだが、顎の筋まで痺れたとみえて、歯軋りすることさえ出来やしない。
 それからひと刻。
 ようやく手足がすこしずつ動くようになった。半分這うようにして帳場まで行き、曳綱後押附の三枚駕籠を雇ってもらい、その中へ転がりこむと、レロレロと舌を縺らせながら、
「そ、う、か……そ、う、か……」
「おい、お客さまが、そうかそうか、とおっしゃっていられるぜ」
「なにがそうかなんですえ」
「そうか……そうか」
「草加までいらっしゃろうというんで」
「ああ、そ、そだ。……飛ばして……くれ。金は……いくらでも……や、る」
「おう、相棒、酒手はたんまりくださるとよ……早乗りだ」
「おう、合ッ点だ」
 一人が綱を曳き、三人の肩代り。後棒へまた二人取りついて、
「アリャアリャ」
 一団の黒雲になって飛ばして行く。
 北千住から新井と、ひきつぎひきつぎ駈けて行くうちに、後棒につかまっているのが、頓狂な声で、
「……ねえ旦那、妙なことがありますぜ。……あっしらのあとへ、さっきから早駕籠がくっついて来るんです。……あれもやっぱりお仲間ですかい」
 顎十郎は、えッと驚いて、
「そ、そんなことはない。……いってえ、その早駕籠は、どのへんからついて来た」
「古梅庵の角でこっちの駕籠があがると、それから、ずっとくっついて来ているんです」
「その駕籠に乗ったやつの顔は見えなかったか」
「ええ、見ましたとも! 高島田に立矢の帯の、てえした別嬪ですぜ」
「畜生ッ、お八重のやつだ。……なるほど、かんがえてみると、村垣が持っている一字をお八重が知っているわけはない。……おれに痺れ薬を嚥ませてその間に早駕籠の用意をし、痺れがとれたらおれが闇雲に飛び出すのを見越して、古梅庵の角で待っていやがったんだ。……こうまで馬鹿にされりゃ世話はねえ」
「……ねえ旦那、もうひとつ妙なことがあるんです。……女の早駕籠のあとを、もうひとつ早駕籠が来るんで……」
「えッ、その駕籠はどこからついて来た」
「それも、やっぱり古梅庵の角からなんで……」
「どんなやつが乗っていた」
「頬のこけた、侍のような、手代のような……」
「ちぇッ、村垣の野郎だ。……おれは草加までお八重をひっ張ってゆき、お八重は草加まで村垣を案内するというわけか。……してみると、一番の馬鹿はこのおれか。畜生ッ、そんなら、おれにもかんがえがある」
 大声で駕籠かきどもに、
「おい、おい、少々わけがあって、おれは向うの土手のあたりで駕籠から転げだすから、お前たちはここから脇道へ入って、上総のほうまで出まかせに飛ばしてくれ。どうでもあいつらを巻かなくちゃならねえのだ。……駕籠代と祝儀あわせて十両、この座蒲団の上へおくからな、たのんだぞ」
「よござんす、合ッ点だ」
 西新井の土手へ差しかかると、顎十郎は、はずみをつけて駕籠から飛びだし、土手の斜面を田圃のほうへゴロゴロと転がり落ちて行った。

 捨蔵さまは草加の村外れで、寺小屋をひらいていた。
 万年寺を逃げ出したのには、深いわけがあったのではない。話にきく江戸の繁昌を見たかっただけのことだった。二十歳のとき、お君という呉服屋の娘と想いあい、この草加へ駈落ちして来て貧しいながら平和な暮しをつづけていた。
 捨蔵さまは、なかなか剃髪する決心がつかなかったが、それから二月ののち、上野の輪王寺へはいった。
 それから間もなく水野が失脚し、再び立つことが出来なくなった。





底本:「久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1-13-24]」三一書房
   1970(昭和45)年3月31日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について