「これ、押すな、押すな。……押すな、と申すに」
「どうか、お氷を……」
「あなただけが貰いたいのじゃない、みな、こうして待っている」
「……ほんの、ひとかけでも……」
「いま、順にくださる、お待ちなさい……」
「じつは……」
「おい、お武家さん、おれたちは、こうして炎天に照らされながら
「……まことに、申訳けないが、じつは……」
本郷、向ガ岡。
加賀さまの
本郷から下谷の根津わきまで
北どなり、水戸さまの中屋敷にむいた
加賀さまの
賜氷の節、また
六月朔日の氷室のお祝に、加州侯からお雪をさしあげることは、加賀さまの氷献上といって、これも古い行事のひとつ。
そのまわりを数万坪の雪でかこい、雪の上に筵を厚くかけて高く土盛りをする。こうして春を過し、六月朔日、土用のさなかに穴をひらき、まわりの雪をのけて桐箱入りの氷を駕籠にのせ、一ツ橋御門から入ってすぐ
車寄についたお雪の桐箱は、
さて、加賀さまのお氷が西の丸へあがったと聞くと、本郷、下谷一帯の町家のものはもちろん、はるばる下町からも、遠近貴賤の別なく容器を持っておあまりの氷をもらいに集ってくる。
暑いさなか、ようやくお氷は頂戴したが、日本橋まで駕籠を飛ばすうちに丼の雪が溶けて水になる。ずいぶん
江戸は、ことに水の悪いところで、町人は夏のあいだに雪や氷を口にするなどということは思いもおよばなかったので、加賀さまのお雪はたいへんに珍重された。
……そういうぐあいに、丼や
眼鼻立ちの大がまえな一文字眉。底のすわった立派な顔貌だが、いわゆる長々の浪々。貧苦がガックリと頬を落しこみ、鬢の毛はほうけ立って、不精たらしく耳の上へおおいかぶさっている。
女手がないのか、ぶざまに
顔色は
「あの……どうか、お氷……」
番衆も業を煮やし、つい、剣つき声になって、
「こいつ、また来た……わからねえにもほどがある、順にやると言ってるんだ……列につきなさい、列に」
浪人ていの男は、あふッと喘いで、
「申訳けもござらぬ……勝手を申すようですが、じつは……」
「じつはも、提灯もありゃしねえ、騒いでいるのは、あなたひとりだ……みな、あの通り静かにしているじゃないか」
「……じつは、たったひとりの伜が、このほどからの
番衆はうるさがって、
「お雪がほしいのは誰もおなじこと。……子供の時疫どころか、親の死目にたったひと口なめさせたいと、きょうの明けがたから来て、待っているひともある。……親の死目の、子供の時疫のと、いちいち事情を聞いていたんじゃ、おさまりがつきやしない。……まあ、まあ、順にあげますから、列についてください」
浪人者は、みすぼらしいほどに頭をさげ、
「……まことにもって、勝手次第、お詫びのいたしようもござらぬが、大熱の伜をたった一人にしてまいりまして、こうしておりましても、万一を思われて、気もそぞろになります」
血走った眼で、列についている人びとを見まわし、
「お並びのご一統には、この通り……」
丼を持ったまま、地面に片膝をつき、
「……この通り、お詫びをもうす。……なにとぞ、手前勝手を……」
番衆は顔をしかめて、
「そんなところに膝をつかれては困る。……順々ときまったことだから、順のくるまでお待ちなさい」
「では、これほど、お願いをしても……」
「あんたも、くどい」
「どうでもお聞き入れくださらぬとあれば、やむをえぬ、……列にもどります。……ご無礼もうした」
うっすらと涙ぐんで、うなだれがちにトボトボと根津上のほうまでもどって行く。
そうするうちに、ようやく氷があがり、先頭のほうから順に氷室のほうへ動きだす。
氷室の前では、
「さあ、お次お次……」
貰ったものは喜んで、
「どうもお手かずさま、ありがとうございました」
と、礼を言い、丼を袖や袂でおおいながらいそいそと小走りにもどって行く。
くだんの浪人者は、気もそぞろのふうで、のびあがり、肩で息をしながら、雪をいただいて帰る人びとを
門からあふれだし、弥生町の通りを根津までギッシリと四列につづいている人数だから、たいへん。なかなか順番がやって来ない。
それから四半刻、冷汗をかき、焦立つ胸をおさえながらジリジリと進んで行くうちに、どうやら氷室の近く。……あと四人で自分の順番がくる……。
前のひとりが去り、またひとり。……ようやく、待ちこがれた自分の番。
帷子の袖で汗をぬぐいながら、
「どうか、手前にも……」
氷見役は、金杓子をふって、
「お雪は……もう、ない」
「な、なんと言われる」
「お雪は、いまで、みなになった」
浪人者はクヮッと眼を見ひらいて、
「……では、もう……」
「気の毒だった」
「……ほんのひとかけらでも……」
「いや、ひとかけらもない。……今年は、特別に暑気がはげしく、おかこい氷が半分がた溶けてしまったところへ、例になくお貰いの人数が多く、氷室は、ごらんの通り土ばかり。……来年は、もうすこし早目にお出かけなさい」
「そ、それは、あんまり、むごいおあつかい……」
「腹を立てられても困る。……なにしろ、相手は氷のことだでな、溶けてしまったものは、いかな氷見役でも、どう扱いようもない。……さあさあ、もうお引きとりなさい」
とりのぼせて、手をのばして氷見役の腕をつかみ、
「……では、お土でも……」
氷見役人は癇を立てて、
「なにをする、手を離せッ」
「お願い……お願い……」
「これ、手を離せと申すに!」
手づよく押しのけたはずみに、丼がケシ飛んで、地べたの小石にあたって二つに割れる。
「これは、ご
「無体とは、こちらの申すことだ、マゴマゴしないで、早く帰れ」
浪人者は地面にかがんで、もそもそと丼のかけらを拾いあつめていたが、なにを思ったか、スックリと立ちあがると、手に持った丼のかけらを力まかせに地面にたたきつけ、
「……よし、どうでもくれぬというなら、取るようにして取って見せる。……まだ、水道橋へはかかるまい。……これから追いかけて……」
眼に血をそそぎ、すさまじい
本郷三丁目の『
六月三日が、
れいによって、番所をなまけ、手拭いを肩にひっかけて汗をながしに行く。
ちょうど七ツさがり、暑いさかりで、
小桶を枕にして、流し場に長くなっているのは、いつも間のびのした歯ぬけ謡をうなる裏の隠居。顔は見えないが、
顎十郎が、小杓子でかかり湯をつかっていると、唄がやんで、
顎十郎の顔を見ると、ひゃッ、と頓狂な声をあげておいて、
「いよう、これは仙波先生、きょうは、もうお役あがりですか」
顎十郎はふ、ふ、と笑って、
「この暑気では、役所づめもおかげがねえでな、休みにした」
寅吉は、並んでかかり湯をつかいながら、
「先生は、相変らず、のんびりしていらっしゃる。……御用がなかったら、あっしどもの部屋へ遊びにおいでなさいませんか。この節は、ちっとも顔をお見せにならねえので、いつも、みなとお噂をしておりやす」
「いいな、ひと風呂あびたら、いっしょに行って、久し振りにみなと馬鹿ッぱなしでもするか」
寅吉はよろこんで、
「じゃ、背中でもお流ししましょう」
と言って、膝をうち、
「……それはそうと、あけて前の朔日、ひょんな騒ぎがあったことをご存じですか」
「いや、聞いていない」
「じゃ、お聞かせしましょうか」
「聞かせてくれるのはありがたいが、暑苦しい話なら願いさげだ」
「暑苦しいどころか、とほうもなく涼しい話なんで……。なんと言っても、お氷の件なんだから」
「お氷が、どうした」
「世の中には、ずいぶん変ったこともあるもんですが、こんどなんかも、その、なかんずく。……お屋敷からあがった献上のお氷を桐箱ぐるみそっくり持って行ったやつがいるんです」
「ほほう、それは、いかにも涼しい話だの」
寅吉は乗りだして、
「なんと申しやしてもね、古くからの重い慣例。……あまり物欲しそうにはしねえ
「この節は、いろいろと変った盗っとが出る。……それで、どんなやつの仕業だったんだろう」
寅吉は、顎十郎の肩につかまって背中を流しながら、
「……話はあとさきになりますが、じつは、お雪献上の駕籠をかついで行ったのは、あっしと為のふたりなんでね、ですから……」
顎十郎は、肩越しに寅のほうへ振りかえって、
「じゃ、お前が、お氷がさらわれる現場を見たわけだな」
寅吉は、照れくさそうに頭へ手をやって、
「見たか、とたずねられりゃ、見たと返事をするよりしょうがねえわけなんですが、それが、どうもなんとも、ざまのねえ話なんで……」
「どうした?」
「いま、くわしくお話します……。たぶん、ご存じじゃなかろうと思いますが、なにしろ相手は溶けりゃ形なしになる厄介なしろもの。……毎年の例で、こいつが西の丸の御車寄へかっきり四ツ半(午前十一時)につくのがきまりなんで。……と、言いますのは、お
「いやはや、たいへんな威勢のもんだな」
「まったく……軍談よみの『戦記』を聞くと、武者押しというのは、
「おもしろいの」
「……ところで、その日、お氷が氷室を出たのは、お添役の袂時計で十
「どうした」
「……いま、一ツ橋御門へ入ろうとすると、いきなり門内からむさんに飛びだして来たやつがあって、
「ほほう」
「……人間ひとりが乗っているなら、ひとの重さがありますから体あたりぐらいでひっくり返るなんてえこたあねえんですが、なにしろ、中身はごく軽いんだから駕籠は宙に浮いている。……そこへ、いきなり、えらい勢いで突っかけられたんで、あっしと為は、はずみを喰って棒ばなで
「さまはねえの」
「いや、どうも……。どういうはずみか知らないが、ひっくり返ったところへ、まるでご注文みたいに駕籠がおっかぶさって来て、あっしは眉間を、為は鼻づらを火の出るほど棒ばなでどやしつけられ、まったくの、かんかんのう、きゅうれんす。……痛えの
「なるほど」
「……話しゃあ長いが、体あたりをくれておいて、お雪の箱をひっかかえの、門の中へ飛びこむまでは、ほんのアッという間。……これは、と言ったときには、もう影もかたちも見えない。……添役人は十人もくっついているんですが、どれもこれも
顎十郎は、のんびりと顔を振りあげ、
「しかし、それだと言って、盗っとの顔ぐらいは見たろうから、こりゃ、まあ、すぐ知れる」
寅吉は首をふって、
「……ところが、そうじゃねえんで。……顔なんざ、だれも見ちゃいねえ」
「ほほう、それは、また、なぜ」
「なぜにもなにも、袖をひきちぎって、すっかり顔をつつんでおりまして、
「ふむ、……でも
「……ですから、見たかと言われりゃ、見たという。……古帷子をきて、二本さした浪人ふう……と、まあ、言うんですが、これも、チラと見かけたばかり。……あんまり、きっぱりしたことも言われねえ。……まったく、
「……それで、お雪盗びとはわからずじまい……」
「いや、そうじゃねえんで……。青……青……、名前は忘れましたが、なんとかいう浪人者が、南番所の藤波の手でつかまって、これがその、だいたい、そいつだろうということにきまりかけているんだそうで、へえ」
「藤波が……。それは、素早いの」
ふたりが話あっていると、眠っていると思っていた謡の隠居がモゾモゾと起きだして、
「……ええ、そのことなんでございますが……」
顎十郎は振りむいて、
「これは、ご隠居さん、眠っていらっしゃるのだと思って声もかけませんでしたが……」
六十ばかりの品のいい老人で、ひとつまみほどの白髪の髷を頭にのせている。
「眠るどころのだんじゃございません、さきほどから、お話をうかがっておりました」
と言って、眼をしょぼつかせ、
「……お話のようすでは、まだご存じなかったようですが、南番所へ引きあげられた浪人者というのは、あなたもご存じでしょう、いつも肩だすきで傘張に精だしている、すぐ裏の浪人者……
「知らないわけはない……
「へえ、そうでございます」
「話はしたことはありませんが、手前の二階の窓からちょうど眼の下で、なにしろ、ひと間きりの家だから、いやでも胴中まで見とおし。……四五日前に、子供が熱を出したとかで、だいぶと心配らしく見えましたが……。あれが、お雪盗びと……」
「盗んだのか、盗まぬのか、それは、あたしどもには、きっぱりしたことは申されませんですが、ありようは……、と言っても、源右衛門さんの
「はて、……お氷の箱があがり口に……」
「……加賀さまへお雪をもらいに行き、貰いそこねてぼんやり帰ってくると、あがり口に見なれない桐箱がおいてあるので、なんだろうと思って蓋をはらって見ますと、それが、胸も焦げるほどに欲しいお氷……」
「ほほう」
「……と申しますのは、ご承知のように、伜がずっとひどい大熱で、囈言のあいだにも、雪をくれ、雪をくれとせがみます。……親の身としては、息のあるうちにせめてひと口なりとすすらせてやりたい。間もなくお雪があがるということで、丼をひっつかんで駈けつけたが、ちょっと遅かったばっかりに貰いそこね、ガッカリと
「そりゃ、そうありましょう」
「……さわって見ると、これが冷たい。……たしかに、夢じゃない……すぐ届けりゃよかったんですが……」
「子のかわいさにひかされて、お雪に手をつけた」
「その通り……。いくら逆上したといっても、そこはお侍。それをしたら大変なことになると、いったんは、すぐ訴えでようと思ったそうですが、眼の前で、せがれが熱に苦しんで、虫のような細い声で、お雪を、お雪を、と囈言をいっている……」
「ふむ」
「……ほうっておけば、どうせ、溶けてなくなるもの、ひとかけらぐらはいいだろう。……さあ、雪だぞ、と言って、子供の口にさしつけると、ひと心地のないながらに、ああ冷たい、うまいねえ、と子供は夢中になって喜びます。……なにしろひどい熱ですから、ものの五分もたたぬうちに、また喉をかわかして、雪をおくれという……。こうなるとたまらない、
顎十郎はいつになく、しおっとして、
「いやどうも、気の毒な話ですな。……それで、どうしました」
「しまったと思ったが、もう遅い。……桐箱をかかえてボンヤリあたしのところへやって来て、ありようをくわしく話し、これから
顎十郎は首をふって、
「ああ、そいつは、いかんな」
隠居はうなずいて、
「……いけないというのには、こういうことがあります。……氷を貰いそこねてクヮッと逆上し、氷見役人の前で、どうでもくれぬというなら、これからお氷の駕籠を追いかけて、かならず奪って見せるからと、丼をたたきつけ、えらい形相でその場から駈けだした……」
「いやはや」
「……じつのところは、どうでもとる気で水道橋へんまで追いかけたのだそうです。……しかし、かんがえて見れば、お献上の品に手をかければ、軽くて
顎十郎も、思わず歎息して、
「……うむ、着つけがおんなじで、お雪をつかってしまったんじゃ、あの藤波でなくとも、手前の知らぬことではすまさせない。……ちょっと、抜きさしなりませんな」
隠居はうなずいて、
「しかし、それにしても、源右衛門さんが嘘をいっているとは思われない。こんなあたしなどが力んで見たところが、なんのたそくにもなりますまいが、せめて頼まれがいに、夜っぴて伜の看護をし、いまさっき裏の糊売ばばにかわってもらい、ひと風呂あびて、これから家へ帰ってふた刻ばかり眠るつもり……」
と言って、あらためて膝を進め、
「……うかがうところじゃ、あなたは北番所でお役につき、また、さまざま捕物で功名をなすった方なのだそうで、これも、なにかの
顎十郎は、腕を組んでうつむいていたが、急に顔をあげて、
「たしかにあかしを立てるとはお引きうけできませんが、おなじ長屋の住人が、そういう羽目になっているというのを、だまって見すごしてもいられない。……ようございます、なんとか、ひとつ、やって見ましょう」
手拭いを肩にかけ、寅吉とつれだって有馬の湯を出る。無駄ッ話をしながら本郷三丁目を左へ曲って加賀さまの赤門。
役割部屋へ入って行くと、みな
顎十郎はあがり框に近いところへあぐらをかいて陸尺がくんでだす茶をのんびりと啜りながら、ぐるりとまわりを取りまいているつまらぬ顔を見まわし、
「こんどは、なにか、妙な騒ぎがあったそうだの」
部屋頭が、
「いや、どうも、馬鹿な騒ぎで……。為と寅のおかげであっしら一同えらいお叱りで。……これがほんとうのそば杖……。いってえ、こいつらは間ぬけなんで、駕籠に押しあてられたぐれえでひっくり返るなんてえのはざまのねえ話。……恥ずかしくてなりません」
「まあ、そう言ったものでもない。……ものには、はずみというものがある。畳の上でころんでも、間が悪けりゃ、足をくじく。……いま、有馬の湯できいたばかりなんだが、氷を盗んだとか盗まないとかいう浪人者は、じつは、おなじ割長屋にすんでいる男での……」
……家には、ことし十歳になる伜が時疫で熱をだして寝たっきりになっていることから、青地が氷をもらいそこねて逆上し、つまらないことを口走ったてんまつを話してきかせると、部屋じゅうは、急に湿りかえり、なかには
部屋頭は、手拭いで鼻の頭をこすりながら、
「そんな
「聞く通り、いかにもあわれな話だでの、なんとかして助けてやりたいと思っているんだが……」
「へい、へい」
「それについて、どうでも手を借りなけりゃならねえことがあるのだが、どうだ、貸してくれるか」
部屋頭は、
「貸すも貸さねえもありゃしません。……陸尺といや駕籠の虫、見かけはけちな野郎だが、水道の水を飲んだおかげで気が強い。弱い者なら腰をおし、強いやつなら向うっつら。韋駄天が
顎十郎は、長い顎のさきを撫でながら、
「まあまあ、そう意気ごまんでもいい。……おれが頼みたいというのは、そんな大したことじゃない。すまないが、為と寅に駕籠を
部屋頭は、
「へい、為と寅に駕籠を……。それで、どうなさろうというんで」
「……おととい、氷をのせて行ったときと同じように、氷室から一ツ橋まできっちり四十ミニュートで行きつくように歩いてもらいたい」
「四十ミニュートで……。ですから、どういう……」
顎十郎はトホンとした顔で、
「……氷献上の駕籠が氷室を出てから、どう氷見役人が小手まわしがきいても、それだけの氷を分けおわるには、すくなくとも四半刻(三十分)はかかる。……駕籠が氷室を出てから四十ミニュートで一ツ橋につくとして、ものの四半刻も遅れてから追いかけて果して駕籠に追いつけるものかどうか……」
部屋頭は膝をうって、
「なるほど、わかりました。……駕籠を舁きだしておいて、四半刻ほどたってから追いかけ、ほんとうに追いつけるものかどうか試してみようとおっしゃる……」
「……まず、その辺のところだ。……どうでも追いつけないなら、こりゃ、青地のやったことじゃない。……追いつけるか追いつけないか、これが、青地が罪になるか罪にならないかの境いだ」
と言って、言葉を切り、
「すまないが、だれか氷見役人のところへ行って、だいたい、なん刻ごろにお振舞の氷がおしまいになったかたずねて来てくれ。……おれは、これから金助町の叔父のところへ行って袂時計を借りだして来るから。……もどって来たら、すぐ吊りだせるように、氷室のそばへ駕籠を持って行っておいてくれ」
「へい、ようございます。……おい、為、寅、駕籠部屋から駕籠をひきだして、お氷の箱ぐらい
「合ッ点」
つい、眼と鼻の金助町。
叔父から袂時計を借りだして氷室のそばまで行くと、部屋じゅう総出になって顎十郎を待っている。
「これは、えらい人数だ」
「どうせ、尻おしついでに、みんなで威勢よく押しだそうというんで……」
顎十郎は手をふって、
「いけねえ、いけねえ、そんなことをしたら目立ってしょうがない。……為と寅、部屋頭、この三人だけでたくさんだ。……ときに、氷見役人はなんと言った、なん刻に氷振舞がおわったと言った」
「……氷室をしまって詰所へひきあげたら、ちょうどお時計が十字半を打ったと申しておりました」
「十字半……よし、わかった」
袂時計を出して見ながら、
「この袂時計で、いま、ちょうど三字五分前。……いいか、キッチリ三字になったら駕籠を吊りだしてくれ。おれは三十分おくれてここから駈けだすから……」
「よろしゅうございます」
「一分ちがっても青地の生死のわかれ目。しっかりやってくれ」
と言って、部屋頭に、
「お前に、この袂時計をあずけておくから、キッチリ四十ミニュートで一ツ橋にかかるように頼むぞ」
「合点でございます」
「こう見えても、駈けるほうじゃめったに人にはひけは取らねえ。……いわんや、喰うや喰わずの青地の駈けるのとはわけがちがう」
そう言っているうちに、三字。
それ舁きだせというので、為と寅がグイと腰をあげる。部屋頭がつきそって、
「じゃ、まいります」
「さあ、行ってくれ」
みなががやがや言いながら、正門のほうへ送って行く。
顎十郎は、氷室の腰掛へかけて時間のくるのを待っていると、そのうちにお時計のあるほうからドーンと
ちょうど、三字半。
裾をジンジンばしょりにし、草履をぬいで跣足になると、
「さあ、行くぞ!」
いきなり闇雲に駈けだす。
空地をまわってお長屋わき、正門から本郷の通りへ飛びだすと、本郷一丁目を右へ壱岐殿坂。
水道橋をわたって水野の大屋敷を左に見、
顎十郎は大息をつきながら、
「ど、どうだった……ここで何分ぐらい待った」
部屋頭は首を振って、
「とても、いけません。……ここへ駕籠をおろしたのはちょうど三字と四十ミニュート。……いまがちょうど三字五十五ミニュート。あなたは十五ミニュートも遅れています」
顎十郎は汗を拭いながら、
「口から
駕龍を吊って加賀の屋敷までひきかえし、またはじめからやり直す。
なんとも顎の長い異様なのが、ひと刻もおかずにまたぞろ本郷の通りを大駈けに駈けて行くもんだから、町並では、みな店さきへ飛びだして、ワイワイいいながら見おくっている。
今度は十分早めに追いかけたが、それでも、やはりいけない。顎十郎が駈けつける五分前に、駕籠は、ちゃんと橋詰へとどいている。
後口
三千五百坪の地内に
お
揚座敷のほうは、いわゆる独房で、
揚屋のほうは、大牢や無宿牢のような雑居房ではなく、これも独房だが格式はぐっとさがって畳は坊主畳になり、揚座敷のように食事に給仕人がつかないから、したがって給仕盆などの備えつけはなく、雪隠も湯殿も
四畳に足りない六・七という妙な寸法で、いっぽうは高窓。いっぽうは牢格子。片側廊下で、中格子のわきに鍵役、改役当番の控所がある。
その一間。
この二日のうちに、いよいよもって
かくべつ陽気にかまえるつもりはないのだろうが、顔のこしらえがなんとなくのんびりと出来ているので、こういう陰気な場所がらにはいかにも不釣りあい。
ちょうど話がとぎれたところと見え、青地は膝に手をついてうつむき、顎十郎のほうは、例によって長い顎の先をつまみながら、トホンと天井を見あげていたが、鼻の先にとまりかけた蠅を手ではらうといつもの不得要領な調子で、
「いやどうも、それは、それは……」
と、わからぬことを言っておいて、あらためて青地の顔を眺め、
「とかく、番所の人間というものは、わかりきったことをしちくどく念を入れるが、これが、つまり役儀がら。……馬鹿なことをうかがうようですが、加賀の屋敷を出て、どういう道すじで一ツ橋へおいでなすった」
「どの道と申して、道はひとすじ。……壱岐殿坂から水道橋。大屋敷を左に見て、榊原式部のかどから四番原、三番原。……それから一ツ橋……」
「まず、そのへんが道順ですな。……あなたは、駕籠を一ツ橋門内で待伏せなすっていらしったそうだが、どのへんで氷の駕龍を追いぬかれましたか」
青地はチラと眼をあげて、
「はて、どのへん、と申して……」
「お忘れですか」
「いや、思い出しました。……駕籠を追いぬいたのは、ちょうど、大屋敷のあたり……」
「……あたり、と言いますと……」
「……ちょうど、大屋敷の角で……」
「ははあ、そこで追いぬかれた。……なぜ、そこでおやりにならなかった」
「……なにか御祝儀でもありましたろう、おりあしく、榊原のお
「それは、悪い都合。……それにしても、一ツ橋の御門内で待伏せられたのはどういうわけですか。……いったいの空地で、あの三番原なら、門内で待伏せするよりやりやすかったのではなかったかと思いますが」
「いったんは、手前も、そうかんがえましたが、逃げるには便利なようでも、なんといっても四方みとおしの原」
しおっ、と首をたれて、
「……じつは、その日は、二日ほど前から、水のほかなにものも食しておらんような始末。……この弱あしで原のほうへ逃げましたら、すぐ追いつかれる。……ご門内のほうならば、屋敷も建てこんでいることでござるから、そのあいだを縫い歩いたら、なんとか逃げおわせるかと……」
顎十郎は、ほう、とうなずいて、
「二日も、なにもあがらんで、本郷から一ツ橋まで駈けるのは、なかなか大変でしたろう」
「お恥ずかしいことですが、息切れがいたして、今にも眼がくらむかと思うばかり。……どうして追いつきましたやら、不思議なくらいで……」
「それも、子がかわいさの一心。
青地は、はッと顔をあげ、
「なんと言われる」
顎十郎は笑って、
「あなたも、じょうずに嘘がつけない方だ、そんな頼りないことで、よく藤波がだませましたな」
「これはしたり!」
「などと驚いたような顔が、また嘘」
青地は荒らげた声で、
「嘘とは、そもそもなにをもって。……なんと言われようと手前が盗んだに相違ない」
顎十郎は手でおさえ、
「まあまあ、そんな大きな声をなすってもしょうがない。……それほどに言われるなら申しますが、いま、榊原から釣台が出たとおっしゃったようだが、榊原式部は前の月の
「おッ、それは!」
「藤波はうっかり見のがしたろうが、あたしはそんなことじゃだまされない。……いかに江戸が繁昌でも、
チョロリと相手の顔を見て、
「……いいですか、あの日、お雪が氷室を出たのは、お添役の時計で十字五分。……一ツ橋へかかったのが十字四十五分。……ところで、あなたが氷室を飛びだしたのは、駕籠が出てから四半刻おくれた十字三十五分。……あなたがどんな韋駄天でも、本郷から一ツ橋までたった十ミニュートで駈けられるわけはない。……えらそうに言うようでお耳ざわりでしょうから、打ちあけて話しますが、じつは昨日、あの日の時刻に駕籠を出し、それから四半刻おくれて死物狂いに追いかけて見ましたが、駕籠が一ツ橋の門内へ入りかけるころには、あたしは、ようやく
ふ、ふ、と笑って、
「失礼なことを申すようだが、さっき伺っていると、二日ばかりなにも喰べず水ばかり飲んでいらしたということだが、その足では、まずまずどんなことがあっても駕籠を追いぬくの、先まわりして待伏せるなどということは出来ない。……いかがです」
「………」
「……ねえ、青地さん、あなたの家のあがり口へ氷の箱をおいて行ったのは、だれなんです。たとえ相手は氷でも、献上物へ手をかければ打首、獄門の大罪。……おまけに、時疫で大熱をだして苦しんでいる子息の命にかえてまで
青地は頭をたれ、長いあいだ
「恐れ入ったご活眼。……なにもかもつつまず申しあげます。……じつは、手前が盗んだのではありません」
あらためて、畳に手をついて、
「
顎十郎は、組んでいた腕をといて、
「お話はよくわかりましたが、それは、チト妙ですな」
「はて」
「……古帷子で顔をつつんで一ツ橋の門から駈けだし、お氷の駕籠につきあたって、あわててまた門内に駈けこんだその男は、酒井の大部屋で手遊びをしていた石田清右衛門という
青地は、思わず膝をのりだして、
「そ、それは、事実で……」
「事実もなにも、酒井の部屋には、これが嘘でないという証人が十人、二十人とおります。……もっとも、石田清右衛門のほうは、自分が駕籠をひっくり返したために、こんなえらい騒ぎになっているなんてことは知らない」
顎十郎は、長い顎のさきを撫でながら、うそぶいて、
「……ところで、手前には、だれがお氷の箱をあなたの家へ投げこんだか、だいたいあたりがついている。……が、それは、こっちの話。……ところで、氷の箱ですが、これは盗まれたのではなくて駕籠からころげだし、あのへんの草むらの中へ落ちていた。それを誰かが、なにか金目なものと思いこみ、拾ってかかえて来たが、さて、あけて見たところが、ただの空箱。……なんだ、つまらねえ、で、行きずりに垣根越しにあなたの家のなかへ投げこんだ。……
それから一刻ほど後、顎十郎はブラリと加賀の大部屋へあらわれる。為と寅を空地へ呼びだして、
「……寅に為……よくやったな」
二人は、あっけに取られて、
「よくやった……だしぬけに、なんです」
顎十郎は、へへら笑って、
「駕籠がひっくり返ったはずみに、氷の箱が駕籠から飛びだして、土手下の草の中へころがりこんだ。……青地のせがれが大熱で、たいへんに氷をほしがっていることを知っている。こいつぁ、いい、で、互いに眼顔で知らせ、わッ、あの侍、お氷の箱をかかえて逃げて行きやがる、と騒いだな。氷見役人などはみな
キョロリと二人の顔を見て、
「青地が馬鹿正直で、箱をかかえて自身番へ訴えでたには驚いたろう」
為は、息をのんで、
「ど、どうしてそれを……」
「見そこなっちゃいけない、おれの耳はお前たちのとはチト出来がちがうのだ。……氷盗っとが箱をかかえたのを見とどける暇があるのに、衣類のなりがわからないというはずはない。わざと曖昧な申立てをしてるところに、なにかいわくがある。有馬の湯で話をきいたときから、ことによったら、お前たちの仕業だとチャンと睨んでいたんだ」
「先生も、おひとが悪い」
「ひとが悪いのは、そっちのほうだ。……お前たちがチョイチョイ青地の家へくることはおれは知っている。それを、まるで他人のようなことを言うから、これは、こう、と、見こみをつけた」
為と寅はふるえ出して、
「こりゃあ、えれいことになった。……それで、あっしたちのほうはどうなりましょう」
「どうなるものか。……氷は溶けてあとかたなし。水から出て水にかえる。……まず、なにごともなかったことにすればいい」