「……手紙のおもむき、いかにも承知。……申し越されたように、この手紙の余白に、その旨を書きつけておいたから、これを御主人に差しあげてくれ」
「それで、御口上は?」
若いくせに、いやに皺の多い
「わからねえ奴だな。……だから、お前の持って来た手紙のはしに、かならずお伺いいたしますとちゃんと書いてあるというンだ」
へへえ、と、まだ嚥みこめぬ顔で、
「つまり、これをまた持って帰りますれば、それでよろしいので、……なんだか、妙だ」
顎十郎は癇癪を起して、
「なにも妙なことはねえ。お前のほうがよっぽど妙だ。なんでもいいから、これを持って帰って、お前の主人に渡しゃアそれでいいんだ」
「へい」
「わかったか」
「ええ、まア、……わかりました」
「わかったら、さっさと帰れ」
「では、さようなら」
「なにがさようならだ、馬鹿にした野郎だ」
本郷真砂町の裏長屋、荒物屋の二階借り。のぞきおろすといかにも貧相な露地おく。日あたりの悪い窓がまちに腰をかけて、いま受けとった手紙のことを考える。
その手紙は、
ひと口には、なんとも形容しかねるような奇抜な趣意だった。
……高位の御人命にかかわる奇異な事態につき、極秘に御智慧を拝借いたしたく、はばかりながら、今夕、五ツ刻、拙宅まで御光来をねがわれますれば幸甚のいたりでございます。御入来のせつは、なにとぞ、西側の裏木戸から。これは、押せばひらくようになっております。いささか仔細がござって、一切お出むかいはいたしませんから、泉水について、飛石づたいにどんどんお進みになると、その奥に数寄屋ふうな離れ座敷がありますから、
「……稲葉能登守といえば、
ボッテリした、顎化けの化けの
「それにしても、緋色繻珍の褥の上におさまって、横柄な声で、おいおい、というと、酒肴の
馬鹿な顔で、陽ざしを見あげているとき、すぐそばの
「いま鳴る鐘は七ツ半。……定刻には、まだ、たっぷり一刻半はある。これは、どうも、じれってえの」
四谷
顎十郎は、
「手紙には、泉水のへりについて、とあった。橋を渡れとは書いてなかったようだ。するてえと……」
「うむ、あれだ、あれだ」
と、うなずいて、そちらのほうへのそのそと入りこんで行く。
柴折戸。そのむこうが露地になり、
顎十郎は、
床柱は
なんとなく面白くなって、ニヤニヤしていたが、間もなく
「ああ、これ、これ」
と、叫んでみた。
いやまったく! これのれの字も言いおわらぬうちに、それこそ、打てば響くといったふうに、母屋へつづく渡り廊下のほうに軽い足音が聞え、
さすがの顎十郎も、いささか毒気をぬかれたかたちで、
「うへえ、こいつア凄えぞ」
と、口のなかで呟きながら、なんとなく頬の筋をゆるめてあらためて仔細に眺めると、いや、これはたしかに美しい。
早咲きの桃の花とでも言いましょうか。頬がポッと淡桃色で、文鳥のような、黒い優しげな
この家の主人の気質は、手紙の文脈からも、だいたい察しられたが、香木五十八種の中にもないような、こんな珍らしい香を惜しげもなく
さて、顎十郎は、そういう馥郁たる匂いを嗅ぎながら、ややしばらくのあいだ、文鳥のような優しい眼と睨めっこをしていた。いや、睨めっこといっては少し違うかも知れない。砕いて言えば、腰元の美しい眼ざしが、顎十郎の呆けた眼玉にしんねりと絡みついて、なかなか放さないのである。そういう工合なもんだから、顎十郎のほうも眼をそらすわけにはゆかない。いきおい、睨めっこのような工合になる。
気まずいようでもあり、また、そうとう楽しいようでもある。なんともむず
「どうして、そのように、わたくしの顔ばかり眺めておいでになります」
なんとも言えぬ
「……どうせ、こんなお
顎十郎は、照れかくしに、いやア、と額に手をやって、
「いやどうも、こりゃア大敵だ。……どうしてなかなか、お神楽どころの段じゃアない。お神楽はお神楽でも、
と、れいによってわかったようなわからないようなことを言う。腰元は、ツンと
「あら、あんなことを。……はい、たんとおなぶり遊ばしまし。そんなことばかりおっしゃるのでしたら、あたしはもうあちらへまいります」
と、
「行かれてしまっては困る。……じつは、……その、お手紙のおもむきでは、なにか、さまざま御用意があるとのことだったが、こんなところにぽつねんとしているのもおかげがねえ。そちらの段取りがよかったら、そろそろここへ運びだしてもらいましょう」
腰元は、しとやかにうなずいて、
「はい、それは心得ておりますが、殿様のお申しつけでは、なんなりと
顎十郎は、ほほう、と驚いて、
「お書状にも、だいたいそのおもむきがあったが、よもや、そこまでとは思っていなかった。では、なんですか、思召しをのべ立てると、なにによらず、ここにずらッとならぶ仕組になっているというんですか。こいつア、驚いた」
腰元は、あどけなく、
「はい、どのようなお好みの品でも即座に御意にそいますよう、江戸一といわれる
顎十郎は、
「これはどうも
「まア、……よろしくなんて、そういうなされかたでは、思召しにそうことは出来ません。どうぞ、もっと……」
「もっと、なんです」
「もっと、どんどん頭ごなしにお言いつけくださいまし。……なにを持って来い、かにを持ってこいと、鷹揚におっしゃっていただきたいのでございます。そんなふうに
「へへえ、そいつア逆ですな。丁寧に言うと、おどおどしてしまうというのはわからないねえ。しかし、そういうことでしたら、まア、出来るだけ横柄にやりましょう。つまり、……こんな工合ですかね。……おい、おい、酒を持ってまいれ……いかがです」
「
「大きに、承知。……それはいいが、オイオイではいかにもおかげがねえ。あんたの源氏名は、いったいなんてえんです」
腰元は、ほほほと笑って、
「
「
「小波と、お呼びすて願います」
「いやはや、もったいないが、
「お召しでございますか」
「こりゃアまるで掛合いだ。だいぶ愉快になって来た。じゃ、早速ですが、まず第一に……」
小波は、やさしい
「でも、それでは困ります」
「へえ、まだ、なにかいけませんか」
「お殿様のお申しつけでは、
「いや、どうも御念の入ったことで。どっちみち、いずれはくずれる膝ですが、しからば御意にしたがいましょう」
顎十郎は、燃え立つような繻珍の大褥の上に大あぐらをかいて、
「どっこいしょ、こんな工合じゃいかがです」
「結構でございますわ。ついでに、どうぞ、脇息へ肘をおもたせくださいまし」
「はは、こんな工合でよろしいか」
「お立派に見えますわ」
「ひやかしちゃいけねえ」
小波は、嬉しそうに手をうって、
「その調子。……今のようなくだけた口調でやっていただきますわ。ちっとも、御遠慮はいりませんから、なんなりとおっしゃっていただきとう存じます」
顎十郎は、へへえ、と、だらしなく笑って、
「あまり調子がいいと、
小波は、あら、と小さな声で叫ぶと、サッと顔を染めて、
「そこまでは、ちと行きすぎます」
「いやア、いまのは冗談。取消す、取消す」
小波は、それを聞き捨てて、裾さばきも美しく、しとやかに立ちあがると、床ぎわの乱れ籠のそばへ行き、定紋つきの羽織を両袖をさしそえながら持って出て、足袋の爪さきを反らせながらスラスラと顎十郎の後へまわり、
「長雨のあとで、少々、冷えますようですから、お羽織をおかけいたします」
「よく、おうつりになりますわ」
「てへへへ、馬子にも衣裳というやつ」
「その洒落は古うございます」
と、はね返しておいて、両手をつかえて、
「御用をうけたまわります」
顎十郎は、恐悦のていで長い顎のさきを撫でながら、
「そう改まれるとちと気がさすが、せっかくのことだから、遠慮なく申しますぜ。……酒のほうは、すこしねばるが、
「かしこまりました」
「……最初は、まずお吸物だが、こいつは鯛のそぼろ椀ということにいきましょう。皮を引いたらあまり
「かしこまりました。煮物はなんにいたしましょう」
「ぜんまいの
「お
「
小波は、改まった
顎十郎は呆気にとられ、
「これはどうも、まさに
小波は、愛らしくうなずいて、
「殿様は
「ほほう、時節柄、それは物騒な話。してみると、今宵のお招きは、そのへんのことにかかわったことであるやも知れん」
「そのへんのことは、もちろんあたくしどもの存じよりにないことですけど、噂によりますと、このほどから、このお金蔵を狙っているものがあるというようなこともチラチラ耳にいたしております。もっとも口さがない中間どもの噂ですから、どこまで本当のことですやら。……それにつけても、あなたさまのような、江戸一といわれる捕物のご名人が、ここでこうして控えておいでになるんでは、いかな盗賊どもも
急に気がついたように、婀娜に身体をくねらせながら、ちろりを取りあげると、
「……そんなことはともかく、ま、おひとつ。……こんな出雲舞のお酌ではどうせお気に入りますまいけど……」
と、ひどく色気のある眼つきで
「金蔵の番人には、チト行きすぎたお
大有頂天の大はしゃぎ。太平楽をならべながら
ところでこの小波、注ぎっぷりもいいが、受けっぷりもいい。どうぞ、ほんの少し、と言いながらいくつでも受ける。ひどく調子がいいもんだから、いきおい弾みがついて、だいぶ陽気な光景になる。下町からあがった腰元とみえ、酔うにつれて、小さな声で小唄なんか歌う。ところで、顎十郎のほうも、もとをただせばそうとうな道楽者なんだから、すっかりウマが合う。引きぬきになって、
「それ、ご返盃ッ」
「ちょうだいしますわ」
てなわけで、差しつおさえつやっていたが、そのうちに小波が、ちょっと、といって足もとをひょろつかせながら出て行ったが、それっきりいつまでたっても戻って来ない。
酒も切れ、肴も荒してしまった。そのうちに出て来るだろうぐらいに考えて、なすこともなくぼんやりしていたが、いっこうに帰って来るようすもない。どうにも手持無沙汰でやり切れなくなり、うるさく手をたたきながら、
「おいおい、小波さん、引っこんでしまった切りじゃしょうがねえ。化粧なおしなんざ後でもいいから、ともかく、酒を持って来てくれ。……酒がねえぞウ。おーい、酒、酒!」
大りきみに力んで、テッパイに怒鳴り散らしているところへ、渡り廊下のほうに、二三人の足音がドサドサと近づいて来た。
瓦灯口の襖をサラリと引きあけて、ヌッと顔を現したのは、思いきや、これが顎十郎の仇役。互いに一位を争う、これも捕物の名人、南町奉行所の控与力藤波友衛。後へつづく二三人は、
顎十郎は酔眼
「いよウ、藤波さん、これは、これは、珍客の御入来。やはり、あなたもポチポチの組ですか。……そんなむずかしい顔をして突っ立っていないで、まア一杯おやんなさい。間もなく座持ちのいい乙姫さまが立ち現れて来ます。まアどうか、お平らに」
藤波は、痩せた
「ねえ、仙波さん、あなたがぬすっとの用心棒をつとめていたとは、さすがのこの藤波も、きょうのきょうまで気がつかなかった」
顎十郎は、トホンとした顔つきで、
「手前がもそっと飲めばよかった、たア、いったいなんのことです」
「とぼけちゃいけねえ、なにを言ってやがる。こんなところでとぐろを巻いていて、夜番の眼をそらし、裏でこっそり金蔵を破らせるなんてえのは、たしかにうまい趣向。貴様らしい思いつきだ。今にして思いあわせると、以前ちょっと甲府で役についていたことがあるというだけで、その後、四五年、どこでなにをしていたものやら誰も知っているものがねえ。……縁につながる叔父の森川庄兵衛のところへフラリと舞いもどって、なにくわぬ顔で北町奉行所の帳面繰り。……江戸一と言われた捕物の名人が、ひと皮
顎十郎は、両手で泳ぎだし、
「じょ、じょ、冗談じゃない。……それは、なにかの間違い」
三太夫ていの老人は、御用聞をかきわけて前へ進みだし、血走った眼で顎十郎を睨みつけながら、
「そちらは間違いであろうと、わしの眼には間違いはない。ここな大泥棒めが。……殿様の褥に大あぐらをひっかき、酒を持って来いの、小鉢だのと、女賊を顎で追いつかい、しなだれるやら、色眼をつかうやら、恐れげもなく殿様の御定紋入りの羽織など着くさって、おれがここに控えておれば、金蔵破りのほうはいっさい心配はいらぬと
顎十郎は、さすがに酔いもさめてしまった顔つきで、
「なるほど、そういうわけだったのか。……藤波さん、あなたの勘違いはもっともだが、これにはこういうわけがある。そいつをひとつ聞いてもらわねば……」
藤波は、冷然たる面持で、
「言うことがあったら、出るところへ出て申しあげろ。……おい、かまわねえから繩を打ってしまえ!」
声に応じて、バラバラと走りでた下ッ引。
「神妙にいたせ」
「神妙にいたさば、御慈悲を願ってやる。悪る
四方から飛びついて、
さすがにうっそりの顎十郎も、多少の感慨があるらしい。
ものの半日あまり、
「
と、膝を打つ。ヘラヘラ笑いながら
「ふふん、これで、どうやら眼鼻がついた」
と、つぶやいた。
いつもの顎十郎らしくもなく、たったこればかりのことで意気銷沈し、いやに神妙に首を垂れていると思ったら、あにはからんや、そうじゃなかった。顎十郎は、ウマウマとはめられた
顎十郎は、揚屋格子のほうをうっそりと眺めながら、
「あの陽ざしの工合では、もう辰の刻。間もなくお調べがあるだろうが、ここまで漕ぎつけりゃア、こっちのもの、たぶんなんとかなるだろう。……せめてあのときの使いの手紙でも手もとにあったら、こんな苦境に
むっくり起きあがると大あぐらをかき、長い顎のさきを
「数寄屋で香を焚いていたものなら、茶室に入ったときにもう匂っていなければならぬはずだ。ところで、あの香りがホンノリおれの鼻に来たのは、どう考えても、あの腰元面が入って来てからのことだった。と、すると、あの匂いは、あいつの身についていた匂いだと思う他はない。おれの鼻は馬鹿じゃない。ワンワンほどには行かぬけれど、自慢じゃないが、これでそうとう、ものを嗅ぎわけるほうだから、この感じには間違いはあるまい。ところで、この件は、おれにとっちゃ天の助け。なにしろ、ああいう変った匂いだから、なんとか藤波をだまくらかして、お調べを半日ほど引きのばさせ、五十八香木を取りよせて、ここでいちいち聴きわけたら、なんとか筋道がつくかも知れない。……しかし、考えてみりゃア、こんどぐらい馬鹿な目にあったことはない。食い意地の張ってるのは生れつきだが、うっかり食い気を出したばっかりに、おれともあろうものがマンマとはめられてカラだらしのねえ有様。まア、しかし、おれの弱点をついて、洒落た手紙でおれを釣りよせるなんてえのは、敵ながら天晴れ。手ごわいおれを金蔵破りのぼくよけにして、ついでにしくじらせてしまおうという一石二鳥。じつに恐れ入ったもんだよ。まアまア、見てるがいい。たとえ骨が
と言ってるところへ、牢格子のむこうへ二三人の足音。
「噂をすれば影。ひとつ
急に坐りなおして、殊勝らしく首を垂れているところへ、海老錠をはずし、ドンと潜り格子をついて入って来たのが、お待ちかねの藤波友衛。形どおりに片身をひらきながら、
「仙波、お調べだ、出ろ」
顎十郎は、ハッ、と頭をさげ、
「ただいま、仕度いたしております。……それはそれとして、ここに、さる御高位の方の一命にかかわるような大変な急事がございます。この通り、逃げ隠れするところもない揚屋の中へとりこめられてるのですから、わたしのお調べは、いつなりとお心のまま。しかし、一刻の後にさしせまったこの危急は、いま、時を逃せばとりかえしのつかぬゆゆしい大事が
藤波は、キッと眉を寄せてなにか考えていたが、油断のない顔つきで、
「もとより、どんな奸策をめぐらそうと、おめおめ貴様を逃がすような藤波じゃないから、そのほうの懸念は少しもない。事と次第によっては殿様にお願いして、半日の猶予をいたすことも出来よう。して、御高位とは、いったいどなたのことだ」
顎十郎は、
「恐れながら」
と言いながら、藤波のそばにすり寄って、自分の手のひらへ指で丸を書いて見せた。藤波は見るより
「おッ、それは大事!」
あわただしく膝をついて、
「して、望みの品というのはどんな物だ」
「香木五十八種はもとより、市中にて売出しおります
「いかにも、承知いたした」
言いすてて、藤波は脱兎のように揚屋から飛びだして行った。
顎十郎は、その後を見おくりながらニヤリと笑い、
「こうしておけばまず大丈夫。それにしても、あの気ちがい野郎はなにを勘違いして泡をくってスッ飛んで行きやがったんだろう。おれは、お前の肝ッ玉はこんなに小さいと指で丸を書いて見せただけなんだが、あの
それからちょうど半刻。さすが五百人もの輩下をつかう藤波のすることだけあって、大広蓋に香道具やら香木、
顎十郎は、うやうやしく受けとって、
「これは、早速の御配慮、まことにかたじけのうございます。……では、これから早速に香聴きにかかりますが、これはいかようにも静思を要する仕事。一刻ほどのあいだ、この界隈で物音をお立てなさらぬよう、
「いかにも承知した。このあたりにひと気をなくしておくから、あいすんだら手を拍つように」
「かしこまりました」
それで藤波は出て行く。
後にはひとり、顎十郎。……今度こそ本式に端坐しなおすと、急にひきしまった顔で
顎十郎の眉のあたりに、なんともいえぬ静かな色が流れる。半眼にして、ひとつ聴きおわると、また次の香づつみをひらく。こんなふうにして次々と五十八種の香木を聴いて行ったが、たずねる匂いはその中にはない。さすがに、苛立ったようなようすになって、髪油のほうに移ったが、三十二三種の髪油、匂油の中にも、やはり求める匂いはない。煉香、
「おッ、これだッ」
と、大声で叫んだ。
顎十郎の濡衣は乾きました。なんでもないことだったが、このちょっとした思いつきが、抜きさしのならぬ危急から顎十郎を救ってくれた。女賊の小波がうっかり身につけていたこの匂いが動きのとれぬ証拠になったのである。
知ってか知らいでか、売りだしたばかりのこの『菊香水』を買ったのは、女ではほんの二三人。これもやはり天命か、女賊の小波は、セムシ喜左衛門のすぐ裏に住んでいて、一二年来の顔なじみのお
一日おいてそのあくる日、顎十郎は書状をもってお役御免をねがい出た。書状には……性来下司にして、口腹の欲に迷い、ウマウマ嵌められました段、まことに面目次第もこれなく、……と書いてあった。本気のようでもあり、また、恍けているようでもある。藤波は平身低頭して引きとめたが、顎十郎は袖をはらって、本郷真砂町の宿から飄々と出て行ってしまった。