巴里の山の手に、ペール・ラシェーズという広い墓地があって、そのうしろの小高い岡の上に、≪
訳すと、「
当時、私は物理学校の勤勉な一学生で、行末、役にも立たぬ小説書きになろうなどとは夢想だにしなかったので、未来の物理学者を夢みながら、実直に学業をはげんでいた。
私が、
そういう目的のためには、「墓地展望亭」はまず申し分のない場所だった。この店の客は、いずれも黒ずんだ服を着けた、物静かなひとたちばかりで、いま、花束を置いてきたばかりの墓に、もう一度名残りを惜しむためにここへやってくるのである。
悲しげな眼ざしを、絶えずそのほうへそよがせながら、しめやかに語り合う老人夫婦。
万事、そういう調子で、ほかの喫茶店のような喧騒さは、ここにはほとんどなく、いつも、ひっそりとしめりかえっていた。
ここの常連の中で、特別に私の心をひいた一組の若い夫婦づれがあった。男性のほうは、三十五六の、端麗な顔をした日本人で、女性のほうは、スラブ人とも見える、二十歳をやっと越えたばかりの、この世のものとも思われぬような美しい面ざしの婦人である。
二人は、毎月、八日の午後四時頃になるとやって来て、第二通路の角の大理石の墓碑に花束を置き、一ときほどここの
ある夏の夕方、私は墓地の中を気ままに散歩していたが、ふと、あの二人がどういう人の墓に詣でるのかと思い、廻り道をしてその墓のあるところへ行って見た。
それは、カルラロの上質の大理石に、白百合の花を彫った都雅な墓碑でその面には、次のような碑銘が刻まれていた。
リストリア国の女王たるべかりしエレアーナ皇女殿下の墓。――一九三四年三月八日、巴里市外サント・ドミニック修道院に於て逝去あらせらる。
神よ、皇女殿下の魂の上に特別の御恩寵を給わらんことを、切に願いまつる。
一
もう、そろそろ冬の「
志村竜太郎は、海に向いた窓のそばの食卓に坐って、ぽつねんとひとりで贅沢な夕食を
地中海の青い水の上に、松をいただいた赤い岩がうかんでいる。いま長い黄昏が終り、夕陽の最後の余映が金朱色にそれを染めあげる。
竜太郎は、沈んだ眼ざしでそれを眺めながら、口の中で、こんなふうに呟く。
「おれは、明日、あそこで、死ぬ」
ホテルの
青い水をしずかにひらいて、いのちのない
「明日、おれは……」
なぜ、明日でなくてはいけないのか。
それは、こんなにも自分を困惑させ、こんなところへ押しつめてしまった人生に対して、最後にこちらで存分に愚弄し、焦らしてやりたいと思うからである。
死が待ちかねて、海から手をあげて催促する。……そんなに急ぐにはあたらない。もうしばらく、そこで待っていろ。どっちみち、長い時間ではない。明日まで、明日まで……。
竜太郎はソルベットを
岩が蒼黝い影をおとす海。……拳銃の上にチカチカとはねかえる明るい陽の光。……煙のように空に噴きつける血しぶき。……それから……。
竜太郎は孤児だった。父は巨額の財産を残して早く死に、竜太郎は幼いうちに慈悲も憐憫もない冷淡な金の中に、たったひとり取り残されることになった。
窮極のところ、金の圏囲内で行われることは、何によらず、そう大して面白味のあるものではなく、放蕩にしろ濫費にしろ、やるだけやって見ると、あとには手のつけられない虚無感と倦怠が残るだけのことである。
愛情……は、人間の愛情も厚意も、竜太郎のような境遇の人間にとっては、そのまま通用しない。煤色をした懐疑を深めるのに役立つだけのことである。今迄のさまざまな経験で竜太郎は、はっきりとそれを是認した。
竜太郎は、無味索漠たる空々しい人生の中で、誰れからも愛されるあてもなく、誰れを愛する自信もなく、長い間ひとりぼっちで生きて来た。
だいたいに於て、こういうのを不幸な魂と言って差支えないのであろう。こういう境遇は竜太郎自身がつくり出したのではなく、知らぬ間に、
竜太郎は人生に対して何の興味もなければ、何の期待もない。今となっては、生きている一日一日が、それ自体耐えられない重荷になって来た。もう、これ以上辛抱してやる必要はないと覚悟をきめたのである。……
竜太郎は、いつもの自分の
それは、海沿いの長い
竜太郎が食堂を出て、広間の入口まで来ると、ふと、何とも言えぬほのかな香がその辺に漂っているのを感じた。
広間の窓はみな閉じられているから、風が運んで来た花の香ではない。
そんな単純な匂いではなかった。なにか、微妙に複合した、高貴なそのくせ、からみつくようなところもある、たとえば、蒸溜器の中で調合された媚薬の香とでもいったような、言いあらわしようもないふくよかな香気で、それが、水脈のようにあとをひきながら、ほのぼのと広間の出口のほうへ流れている。
竜太郎は、われともなく心をときめかして、かぐわしいその水脈に乗って、吸い寄せられるようにそのほうへ歩いて行った。
竜太郎は長い間、
そのうちに、竜太郎は、どうにも辛抱が出来かねる気持になってきたので、思い切ってそのそばに進みよると、こんふうに[#「こんふうに」はママ]、声をかけた。
「たいへん、失礼ですが……」
婦人は、ビクッと神経的に肩をふるわせて急にこちらへふりかえると、まだ夢から醒めきらぬひとのようなぼんやりした表情で、竜太郎の顔を見あげた。その頬に、涙の痕が光っていた。ようやく二十歳になったくらいの若い娘だった。
なんという、

ブロンドの柔毛のような髪が、すき透るような蒼白い顔のあたりに
なににもまして、驚かれるのは、たとえようもない貴族的な美しい鼻と、均勢のとれた

竜太郎は、ほのかな星の光の下で、このようなたぐいない美しい少女の顔を眺めながら、心の中で、呟いた。
(たしかに、今まで見たどの女性より美しい)
しかし、そのために格別心を乱されるようなことはなかったので、沈み切った声で、もう一度繰り返した。
「失礼ですが、お嬢さん、それは、私の椅子です」
ちょうど、そこに赤い
竜太郎は、丁寧に、もう一度くりかえした。
「あなたは、私の席に坐っていらっしゃるんです、お嬢さん」
少女はようやく身動きした。夢のつづきをふり払おうとでもするように軽く頭をふると、
「なんとおっしゃいましたのですかしら」
その声の中には、この世で最も清純なもののひびきがあった。
「その椅子は、私がひとりでいるために、とってあるのだともうしあげているんです」
少女は、ゆっくりと顔をふせて、
「あら、そうでしたの。ちっともぞんじませんでしたわ、あたし」
それで、立上るかと思いのほか、ずれ落ちていた
「あたくしも、そうなの。……あたしも、ひとりでいるほうが好きなの」
そして、また、海のほうへ向くと、それなり動かなくなってしまった。竜太郎は、腹が立ってきた。それで、また、ひと足進み寄ると、すこし厳しい声で、いった。
「明日からは、ご自由にお使いくださって差支えないのです。でも、今晩は……」
少女は、こちらに背中を向けたまま、
「今晩はいけなくて、どうして、明日になれば使ってよろしいの」
「明日、私はいなくなります」
「お発ちになりますの」
竜太郎は、低い声で、いう。
「明日、私は死ぬのです。ここの海で」
また沈黙がつづいて、それから少女がこういう。
「じぶんで死ぬのは、なかなか勇気がいりますわ。……あたくしも、それは知っています」
二
アンチーブの灯台の蒼白い光芒が、海の上を手さぐりはじめる。瞬間、
(うるさい。……何を、どう知ってるというんだ。なんでも、いいから、早くどこかへ行ってしまえ)
竜太郎は、不機嫌な声で、
「死ぬよりも、生きて行くほうが、もっと勇気の要る場合だってありそうですね」
「それも、ぞんじていますわ」
聞きとりにくいような低い声でそう言うと、少女は、竜太郎のほうへ白い顔をふり向けた。頬のうえにまた、涙がすじをひいていた。
(勝手に泣いていろ)
竜太郎は、大きな声を出したくなるのを我慢しながら、ゆっくりと煙草に火をつける。
少女は、あわれにも見えるような、ともしい笑顔をつくって、
「あなた、悲しいことがおありなの」
少女は、チラと眼をあげて、怒ったような顔で突っ立っている竜太郎のようすを見ると、ケープに顎を埋めて萎れかえってしまったが、ちょっとの間沈黙したのち、おずおずと、おなじことを問いかけた。
「悲しいことが、おありなの」
竜太郎は、やり切れなくなって、軽く舌打ちした。
「たいへんに、ね」
「愛情のことで?」
竜太郎は、すこし大きな声をだす。
「死ぬことにきめたから、それで、死のうと思うだけのことです。……それはそうと、あなたはずいぶん変った香水をつかっていますね、お嬢さん」
(おやおや、おれは、いったい何を言い出す気なんだ)
少女は、急に元気になって、得意らしくうなずいてから、
「そうお思いになって?」
「なんという名の香水ですか」
「名前なぞありませんのよ。あたくしだけが持っている香水なの」
(香水屋の娘なのか、こいつは)
どんな素性の娘なのか、訊ねて見たくなった。
「お嬢さん、あなたのお名は、なんとおっしゃるの」
少女は、かすかに眉のあたりを皺ませると、まるで聞えなかったように、海のほうへ向いてしまった。
「私はね、志村竜太郎というんです。……日本人。……あなたは? お嬢さん」
こちらへ、白い頸を見せたまま、消え入るような声でこたえた。
「ただ、『女』……」
(なにを、くだらない)
竜太郎は、かすかに軽蔑の調子を含めて、
「それだって、結構ですとも」
少女は吸いとるような眼つきで竜太郎の眼を瞶めながら、
「あなた、さっき、そうおっしゃいましたね。……明日になったら……」
「死ぬ。……そう言いました」
「ほんとうに、お死にになるおつもり?……あたくしに、誓うことがお出来になって?」
「あなたに、それを誓うと、どうなるというんです」
「たった、ひと言。……ね、お誓いになれて?」
「そんなことは、ごめんです。……誓おうと、誓うまいと、志村竜太郎。……三十四歳。……
少女が、ためいきをつく。
「あたくしも、あなたほど勇敢だったら……」
竜太郎は、返事をしなかった。
少女は、いままで
「竜太郎さん……」
少女は、胸の上に顎をつけながら、ほのかな声で、叫んだ。
「……竜太郎さん」
暖かな、小さな手がしずかに這いよって来て、細い、
竜太郎は、眼を外らして、薄光りのするくろい海の面を眺めていた。
(さて、これから、どうしようというんです、お嬢さん)
明日、必ず自殺するつもりだと言い切ると、いきなりこの指が絡みついて来た。このちっぽけな頭の中で、いったい、どんな陰謀をたくらんでいるのか。……何にしても、解しかねる次第だった。
揺椅子の中で、劇しく呟きこむような声がする。振りかえって見ると、小女が声を忍ばせながら啜り泣いているのだった。
「どうしたんです」
少女は、劇しい勢いで椅子の背に頭を投げかけると、よく響く声で、笑いはじめた。
「なんでもありませんの。……竜太郎さん、あたくし、しあわせよ。……ああ、いま、どんなに、しあわせだか!」
そういうと、また、沁みるような細い声で泣き出した。
湿った海風が、二人の上を吹いて通る。
竜太郎は、なんとなく、しみじみとした気持になって、土壇に膝をつくと、少女の手頸にそっと唇を触れた。竜太郎の耳に、少女のはげしい息づかいの音がきこえた。
「この椅子に、……あたくしのそばへ坐って、ちょうだい。……しっかりとあたくしの手を握って、……なにか、お話をして、ください。……あたくし、こうして眼をつぶって伺っていますわ」
竜太郎は、少女と並んで掛けた。柳の枝のようによく
「……そこで、あなたの名は?」
少女は返事をしなかった。
「では、苗字だけ」
少女は、悲しそうに、首を振った。
「あなたのことは、何もきいてはいけないのですか」
「えっ、何も!……どうしても、それは、もうしあげられませんの」
そういうと、気がちがったように、竜太郎の手を自分の胸に引きよせながら、
「どうぞ、あたくしを、好きだと言って、ちょうだい」
(どの女も、どの女も、みな同じようなことを言う。……あたしを好きだっと言ってちょうだい)
「ね、……どうぞ、たったひと言でいいから……」
竜太郎は、そっと、ため息をつく。
「お嬢さん、あなた、だいすきです。……私は、あなたがどんな方なのか知らないし、お目にかかるのも今日がはじめてですが、あなたを好きになるのに、それでは不充分だということはない。……あっ、このまま、あなたと離れないですむなら……」
どんな出鱈目でも、平気で言えそうだった。
(どうせ、明日までのいのちだ。言いたいだけたわごとを吐いて見ろ)
明日までのいのち……。
もう、馴れ切ったはずのこの考えが、石のように重く心の上に
(あすになれば、この娘とも……)
なにか抵抗し難い、劇しい感情が、火のように血管の中を駆け廻る。
竜太郎は、われともなくそぞろな気持になって、少女の背に腕を廻すと、力任せに抱きよせた。
「ああ」
少女は、

三
薄眼をあけて見ると、夜明けの色が、ほの青く窓を染めかけていた。
重苦しい睡気が頭のうしろに絡みつき、まだ半ば夢の中にいるような気持だった。
とつぜん昨夜の記憶が鮮やかに心の上に甦って来た。昨夜ここで……。
竜太郎は、小さな声で呼びかけた。
「眠っているの」
部屋の中は、ひっそりとしずまりかえっていて、時計の音だけが、浮き上るように響いている。
竜太郎は、そっと腕をのばして見たが、自分のとなりに誰も居なかった。
「どこにいる?」
家具が
竜太郎は、もう一度くりかえした。
「どこにいるんだ?」
返事がない。
竜太郎は寝台からはね降りると、窓のところへ駆けて行って
(行ってしまった!)
竜太郎が眠っているうちに、小鳥は飛び立って行ってしまった。
竜太郎は部屋着をひっかけると、大急ぎで階段を駆け降りた。
広間で、三人の掃除男がせっせと大理石の床を洗っていた。
「
三人が、ほとんど同時に答えた。
「見かけませんでした」
竜太郎は広間を横切って
「……鼬鼠のケープね?……いや、見かけませんでした。四時ごろひめじ釣りに行く英吉利人が二人出て行っただけでした」
少女がこのホテルに泊っているのでないらしいことは、竜太郎はうすうす知っている。だまって行ってしまったとすれば、ほとんど探し出すあてはないのだった。サン・ラファエルからモンテ・キャルロまでの、この
(一分毎に、あの娘は遠くなる)
気が焦ら立って来て、じっと立っていられなかった。
竜太郎は、せわしく足を踏みかえながら、
「
不寝番は、ゆっくりとニッケルの懐中時計をひき出しながら、
「まず、大体……」
とても、待っていられなかった。
「よしよし、自分で行って見る」
竜太郎は長い廊下を帳場のほうへ駆けながら大きな声で叫んだ。
「なんて馬鹿なことをしたんだ。……このくらいのことは、もっと早く気がついていなくてはならなかったんだ。……だが、どんなことがあっても、もう一度逢って見せる。……どんなことがあっても!」
帳場では、番頭がちょうどやって来たばかりのところだった。
「昨日着いた客の中に、もしか二十歳ばかりのブロンドの娘が……」
冷淡な声で、番頭が遮った。
「昨日は、お発ちになるお客さまばかりで、お着きの客はございませんでした」
「でも、昨夜、
「ご旅行の方が、ご自由にお立ち寄りになりますから」
ご旅行の方! この、ちょっとした言葉が、針のように鋭く竜太郎の耳を
「今朝早く、鼬鼠のケーブを[#「ケーブを」はママ]着た」
番頭は、手で遮った。
「なにしろ、手前は、たったいまここへまいったばかりでございますから、何分にも……」
(昨夜、十二時半が鳴るのをたしかに聞いた)
「では、昨夜おそく……たぶん……」
「なにしろ、大勢のお客さまのことでございますから」
竜太郎はしおしおと、自分の部屋のほうへ帰りかけた。
何とも言い表し難い、はげしい孤独の感じが、鋭く胸を噛んだ。竜太郎は、この長い間、いつでもひとりで暮らしていた。しかし、こんな寂しさを感じたのは、これが最初だった。世界中から自分ひとりだけが見捨てられたような佗びしさだった。自分の部屋の前へ帰って来て、ふと見ると、部屋の扉が半開きになっている。感動して、思わずそこで立ち止った。息苦しくなってギュッと拳を胸におしあてた。
(帰って来たんだ!)
竜太郎は喜悦の情に耐えられなくなって、勢よく扉を押して部屋の中へ走り込んだ。
空色の大きな絨氈の上に、朝日が陽だまりをつくっている。部屋の中には誰れもいなかった。
竜太郎は唇を噛んだ。そうしようとも思っていないのに、ひとりでに身体が動いて、絨氈の上にどっかりと胡坐をかいて腕組みをした。
(なるほど、こうすると、たしかに落ちつく)
ふと日本から遠く離れていることを思って、うっすらと涙ぐんだ。この、十何年にまだ一度も無かったことだった。
時計が八時をうつ。
竜太郎は、低く、つぶやく。
「今日は、いよいよ死ぬ日だ」
この部屋の窓からも、真向いに、南画のような松をのせた赤い岩が見える。地中海の青い水がはるばるとひろがっている。
「間もなく、おれは、あそこで死ぬ」
そのほうは、もう何の感じもひき起さなかった。ただ……。
(もう一度、あの娘に逢ってから死にたい)
そう思うと、矢も楯もたまらなくなってくるのだった。……
思いがけもなく、こんなことをおもい出した。
(あの匂いは、たしかに、食堂の入口にも漂っていたようだったが、あの娘がひょっとしてあそこで食事をしたとすると、その間、鼬鼠のケープは……よし。なんとかなる!)
ひとッ飛びに床から跳ね上ると、また段階を[#「段階を」はママ]駆け降りて食堂へ走り込んだ。
「昨夜、ここで、黒い服を着た二十歳ばかりの娘がひとりで食事をしなかったかね」
「なさいました」
「鼬鼠のケープをつけていたろう」
「それは存じませんです。どうか、
「有難う、それでいいんだ」
竜太郎は食堂を飛び出した。
外套置場の女は、たいへんに明快だった。
「はい、たしかにお預りしました。『グリュナアル』の店でつくった、鼬鼠の立派なケープでございました」
「たしかに、『グリュナアル』だったね」
「はい、たしかに」
雲の間から薄い陽ざしが洩れて来た。そんな感じだった。
(
ところで、きょう自殺するほうはどうなるのか。これは、たしかに手痛い詰問だった。
(貴様は、あの娘にも、今日死ぬと誓った)
竜太郎は広間の入口に突っ立ったまま、言いようのない屈辱感に襲われて、赤面した。
この長い間、さまざまに放蕩もし、浮薄な生活もつづけて来たが、卑怯でだけはなかったつもりだ。これだけは、せめてもの日本人の手形だと思って大切にかけて来たのだった。
自殺することは、いまの自分の生活にとっては、いわば真善美の要求で、虚偽だらけの自分の半生の最後に、ただ一度だけ真実な行動をして死にたいと思ったためである。自分のような人間にとっては、自殺は
竜太郎は呟いた。
(今は、たいして死にたいと思っていないようだ)
それから、あわててこんな風に訂正した。
(おれはもう死ぬのがいやになった! このほうが、正直だ)
伊太利人の
「旦那、あなたは鼬鼠のケープを着た娘さんのことをお尋ねになっているッて夜番が言いましたが……」
「そうだ」
「あッし、知ってるんです」
竜太郎は呻き声をあげた。
「早く言え! 金は、やる」
「これをやるから、早く言え」
使小僧は顫え上った。
「昨夜、一時ごろ、あッしが扉番をして居りますと、大きなね……それは、大きな自動車がめえりましたんです。
「それから?」
「それから、運転手が車に乗って、行ってしまいました」
「どっちの方角へ行った」
「サン・ラファエルの方でさァ」
「車の番号は?」
「見ませんでした」
「車の色?」
「黒だったか、それとも、濃い青だったか」
「それで、もう話してくれることはないか」
「へえ、これですっかりです」
竜太郎は
サン・ラファエルまで、道々
(どんなことがあっても、探しあてて見せる! どうか、もう一度だけ。……せめて、もう一度だけ!)
四
巴里には、冷たい雨が降っていた。
低く垂れさがった灰色の空から、絶え間なく霧のような氷雨が落ち、丸石の舗石をしっとりと濡らしていた。
竜太郎の熱意にかかわらず、「銀の
キャンヌ――ジャン・レ・パン――アンチーブ、とその辺まではどうやら追蹤することが出来たが、その先は皆目手がかりがなかった。一分間に二百台は自動車が通るという、この幹線国道では、「喇叭が三つついた、濃青か黒の自動車」だけでは、どうにもなるものではなかった。アンチーブまで蹤けたと思っているそれさえほんとうに、少女が乗っていた自動車なのかどうか、甚だ不確かな話だった。
それでも、竜太郎は希望を捨てなかった。
「
自動車のほうは、どう考えても、もう、これ以上、手のつくしようがなかった。最後の希望は「グリュナアル」の「
竜太郎は、その夜、ニースから汽車に乗った。
「グリュナアル」の支配人のクンケルというのは、いかにも独逸人らしい率直簡明な感じのする男で、竜太郎の説明を聞くと、すっかり剃り上げた丸い顱頂を聳やかすようにしながら、
「お引受けしました。やれるだけやって見ましょう。お役に立てば倖いです」
と、いって、すぐ立って行って、原色版の分厚な絵入りのカタログを抱えて来て、
「鼬鼠のケープと申しましても、いろいろな型がございますのですから、あなたがお見覚えのあるのをこの中から選び出していただきます」
探すケープは、すぐ見つかった。
No. 27――と、カタログ番号が打ってあって、その下に、十五万法と定価がついていた。
「これです」
クンケルは、うなずいて、二十七番の
「発音は?」
「正確でした」
「よろしい。では。では、始めます」
竜太郎の心臓は、はげしく動悸を打ちはじめた。
「どうぞ」
「巴里市内、七〇。地方、十。外国、三十二。……巴里市内の内訳は、上流、四。――
「すると、巴里市内ではないようです。地方のほうをどうぞ」
「未婚の婦人は二人。……ジャンヌ・バレスキ嬢、マルセイユ市メエラン街。……ミッシュリーヌ・ド・サンジャン嬢、サン・ラファエル町……」
(サン・ラファエル!)
クンケルは名簿箱の上にかがみ込みながら、
「では、外国の部をやります」
竜太郎は、大きな声で叫んだ。
「もう、お探し下さらなくとも結構です。たしかに、サン・ラファエルのミッシュリーヌというのが、それです」
クンケルは頭をふって、
「ミッシュリーヌ嬢のほうは、私が知っていますが、ブロンドではありません。
と、いって、何を思いついたのか、眉に皺をよせて、
「……ひょっとすると……」
「ひょっとすると?」
「……それは、エルマンスではなかったでしょうか」
「それは?」
「エルマンスというのは、私どもの店のマネキンですが、毎年、『
竜太郎は、思わず卓の上に乗り出した。
「そのひとは、ブロンドですか」
「さよう。美しいブロンドです」
「美しい娘さんですか」
「私共では、いちばん美しい娘です。年齢は今年二十歳。……まだ独身です。愛人がいるという話もききませんから、どちらかと言えば、気立はいい方なのですが、何しろ、気まぐれで……」
「その娘さんは……」
「昨日、南仏から帰ってまいりました。奥に居りますが、なんなら……」
(あの夜の少女は、気紛れなマネキン!……)
竜太郎は、激情をおさえるために、眼を閉じた。
(たとえ、なんであろうと!)
ささやくような声で、いった。
「どうぞ、そのひとを、ここへ」
クンケルは、電話で何か命じた。……
間もなく、
扉が開いて、軽々とした足音がこちらへ近ずいて来る。竜太郎は、どうしても眼を開けてそちらを見ることが出来なかった。クンケルが、いった。
「まいりました」
竜太郎が、おそるおそる眼をひらく、卓の向う側に、どこか険のある、美しい顔だちの娘が立っていた。
竜太郎は、力の抜けたような声で、いった。
「このひとではありません」
五
竜太郎は、モンマルトルの丘の
「巴里」は灰色の雨雲の下に甍々を並べ、はるかその涯は、薄い靄の中に溶け込んでいる。まるで背くらべをしているような屋根・屋根・屋根。ぬき出し、隠れ、押し重なり、眼の届く限りはるばるとひろがっている。
右手の地平に、水墨のようにうっすらと滲み出しているのはムウドンの丘。左手に黝く見えるのはヴァンセイヌの森であろう。
竜太郎は、巴里をこんなに広く感じたことは、今迄にただの一度もなかった。この大都市には、三百万の人が住み、七十五万の所帯がある。その中から、どんな方法でたった一人の少女を探し出そうというのか。
ところで、この大都会の市域の向うには、広い
竜太郎は、朝から晩まで、錯乱したように巴里中を駆け廻る。博物館、劇場、喫茶店、映画館、
二人の鼬鼠の持ち主のところへも、もちろん、出かけて行った。オデオン座の女優のほうは、まるで似ても似つかぬかますのように痩せた娘だった。
竜太郎の衣嚢の中の手帳には、グリュナアルの「
あの次の朝から、竜太郎は、一人ずつ克明に訪問して歩いた。どれもみな「あの夜の少女」ではなかった。あとには、ただ一人だけ残っている。
マラコウイッチ伯爵夫人 ド・ラ・クール街二二六(二十区)
もし、それもあてはずれなら、全世界に散らばっているあとの十五人を探すために、長い旅に出かけなくてはならない。――ロンドン、ベルリン、リスボン、マドリッド、ブリュッセル、ニュウヨルク……etc.
それは、ほとんど不可能に近いことだ。もう、このくらいで、捜すことはあきらめなくてはならないのではないか。
竜太郎の心の上に、あの少女の俤が、影と光を伴って、また生々と甦ってくる。
あんなにも美しく、あんなにも優しく、あんなにも心の深かったあの娘。……はじめて女の叫び声をあげたあの唇。ひとの心を吸いとるようなあのふしぎな黒い眼。
竜太郎は、両手で顔を蔽うと、喰いしばった歯の間で呻く。
(あきらめない! どんなことがあっても、かならず探し出して見せる。たとえ、世界の涯まで行ってでも……せめて、もう一度だけ! たった、一度だけでいいから!)
心が激してきて、われともなく立ち上って、巴里の上に両腕を差しのばしながら、叫んだ。
「どこにいるんだ? 君は、いったい、どこにいる?……言ってくれ、よゥ、言ってくれ」
切ない哀痛の涙が、泉のように眼からあふれ出す。もう、なりもふりもかまっていられなくなって、人通りのはげしい、そこの石段の上にしゃがみ込むと、腕で顔を隠して、大声で泣いた。
マラコウイッチ伯爵夫人の邸は、ペール・ラシェーズの墓地の裏側にあった。
大きな鉄門のついた宏壮な邸宅で、城壁のような高い塀が、その周りを取り巻いていた。
門を入ると、そこは広々とした前庭になっていて、小径のところどころに、ベニス風の小さな
竜太郎は玄関の大扉のそばに垂れ下っている呼鈴の綱を[#「綱を」は底本では「綱をを」]引いて案内を乞うたが、いつまでたっても誰れもやって来ない。邸の内部には人の気配もなく森閑としずまりかえっている。
本邸の右手の方を見ると、玄関番の小舎が見えるのでその方へ歩いて行って扉を叩くと、内部から八歳ばかりの女の児が出て来た。
「ちょっと、おたずねしたいことがあってお伺いしたのですが、どなたもいらっしゃらないの」
子供は、すぐ、うなずいて、小舎の裏手のほうへ駆け込んで行った。
玄関番の小舎は、内部も外部も白塗りの、異国風な建物で、床が磨き込まれて鏡のように光っていた。部屋の央ほどのところに小さな丸い卓があって、その上に、世界中のあらゆる新聞、……ベルグラードやサラエボの夕刊新聞までが帯封をしたまま、堆高く積まれてあった。
どうしたのか、子供はなかなか帰って来ない。竜太郎は、窓のほうへ行って庭を眺めて見たが、人の影さえなかった。
さっきの椅子に帰ろうとしながら煖炉のそばを通るとき、ふと、その上の、銀の額縁にした写真に注意をひかれた。
近づいて、ひと眼見るなり、竜太郎は真青になってしまった。狂人のような眼つきでいつまでもその写真を眺めている。
そのうちに、急に手を伸してそれを取りおろし、素早く裏板をあけて写真を外し、それを衣嚢に押し込むと、その代りに千
まるで、空巣
「
と、命じた。
自動車が走り出すと、竜太郎は、むしろ、
それは、「あの夜の少女」の写真だった。
どうして竜太郎が、それを見誤るはずがあろう!
この、あえかにも美しい面ざし。すこし悲しげな黒い大きな眼。また、均勢のとれたすんなりとした身体つきにしてからが、まぎれもない、あの夜の娘だった。
たとえようのない深い喜悦の情で顔を輝かせながら、竜太郎は飽かず写真を眺める。これが、現実のこととはどうも思われない。何か夢の中のあわただしい出来事に似ていた。
竜太郎は、そのひとにいうように写真に話しかける。
「ほら、とうとうつかまえたぞ! もう、けっして離さないから。いいかい、もう決して離さない!……それにしても、この巴里で出会うなんて! ほんとうに夢のようだね」
少女は大きな石の階段の第一階に、純白な夏服を着て立っている。その下のほうに重厚な筆蹟で献辞らしいものが二三行ばかり書きつけてあるのだが、竜太郎には一字も読むことが出来ない。どんなことが書いてあるか知りたくなった。
ソルボンヌ大学にダンピエールという東洋語の先生がいる。その先生に読んで貰おうと思いついた。
教授室へ入って行くと、折よくダンピエール先生がそこに居た。
先生は写真を受け取ってその文字を眺めていたが、眼鏡を額のほうへ押しあげながら、竜太郎のほうへふりかえると、
「これは、リストリア語だね。……残念だが、ぼくには読めませんよ。……しかし、大したことはない。リストリアからヤロスラフという若い留学生が一人来ているから、それを呼んで読んで貰おう」
間もなく扉を開いて、十九歳ばかりの痩せた、敏感そうな少年が入って来た。
ヤロスラフは写真を受け取ってチラとその主を一瞥すると、たちまち硬直したようになって、やや長い間、眼を伏せて粛然としていたが、やがて、物静かに、口を切った。
「ここには、こんなふうに書いてあります」
神の御思召あらば、
リストリア王国を統べ給うべき
エレアーナ王女殿下
リストリア王国を統べ給うべき
エレアーナ王女殿下
竜太郎の耳のそばで、何かがえらい音で破裂したような気がした。いま、自分の耳が聴いた言葉が、いったい、どういう意味をなすのか、咄嗟に了解することが出来なかった。
「なんです?……どうか、もう、一度」
ヤロスラフは、敬虔なようすで眼を閉じると、祷るような口調で繰りかえした。
「神の御思召あらば、リストリア王国を統べたもうべき、エレアーナ王女殿下……」
「するとあの方が……」
竜太郎の眼を見かえすと、ヤロスラフは一種凛然たる音調で、こたえた。
「王女殿下であられます」
こんどは、はっきりとわかった。
六
(あの夜の少女が
身体中の血が、スーッと脚のほうへ下ってゆくのがわかった。生理的な不快に似たものがムカムカ胸元に突っかけ、ひどい船酔でもしたあとのように、頭の奥のほうが、ぼんやりと霞んで来た。
(おれは、ここで卒倒するかも知れないぞ)
机の端を両手でギュッと掴んで、いっしんに心を鎮めた。
すこし気持が落ちつくと、最初に鋭く頭に来たのは、これアいけない、という感じだった。
(もう、二度とあの小さな手を執ることは出来ない。声をきくことも抱くことも……)
この想いが、たったいま、自分をとりとめなくさせたのだった。
竜太郎は、あの娘に逢ったら、いきなり胸の囲みの中へとりこみ、今迄の、うらみつらみ、うれしさも悲しさも、何もかもいっしょくたに叩きつけ、人形のような、あの
あの嫋やかな手を執り、あの優しい声を聴き、あの夜のようにしっかりと抱き合いながら、その耳へ、
(結婚しようね。死ぬまで、離れなくともすむように)
と、囁やくつもりだった。
ひと言それを言いたいばかり、この長い間、身も痩せるような奔走をつづけて来たのだったが……。しかし……
しかし、もう、諦めなくてはならないのであろう。


ところで、こちらは、放蕩と世俗の垢にまみれた、何ひとつ取り得のない一介の国際的ルンペン。愚にもつかぬ
これでは、あまり種属がちがいすぎるようだ。いくらあがいたって、どうにもなるものではない。抱くどころか、傍にだってよれやしない。
とつぜん、思いがけないある思念が電光のように心の隅を
竜太郎は、度を失って、もうすこしで叫び出すところだった。
あの夜、少女がなぜ名を名乗らなかったか、あす自殺するつもりだというと、なぜ、急にあの細い指が絡みついて来たのか、迂濶にも、今になって、竜太郎は初めてその意味を了解した。
明日はもうこの世にいない男だから、それで、ひと夜の気紛れの相手に撰んだのだった。なにしろ、死人に口はないのだから、あと腐れもなかろうし。――なんという抜目のなさ!
(なるほど、そういうわけだったのか)
竜太郎の胸の裏側を、何か冷たいものが吹いて通る。佗びしいとも、やるせないとも言いようのない寒々とした気持だった。
しょせん、戯れにすぎなかったのだ。あの夜の離れて行きかたが、よくそれを表明している。たとえ、わずかばかりでも真実らしい思いがあったら、けして、あんな別れかたはしまい。揺り起して、別れの言葉のひとつぐらいは言うであろう。それを、眠っているのを見すまして、逃げるように行ってしまった。
あの愛らしい唇から、あんなにも優しく呼びかけあんなにもいくども誓った、あのかずかずの言葉は、みな、その場かぎりのざれごとだったのだ。
竜太郎は、胸の中で、苦々しく、呟く。
(なにしろ、うまく遊ばれたもんだ)
それはいいが、……それはいいが、これほどの自分のひたむきな熱情や真実が、こんな無残な方法で虐殺されたと思うと、つらかった。
たぶん、魂が痛むというのは、こんな感じをいうのであろう。胸のどこかに孔があき、その創口から、すこしずつ血が流れ出しているような、そんな辛さだった。
ふと、気がついて顔をあげると、ダンピエール先生が、半身をこちらへ捻じ向け、ペンを持ったままで、気遣わしそうな面持でこちらを眺めていた。ヤロスラフ少年は先生のそばで、何かせっせと紙に書きつけていた。
竜太郎が顔をあげたのを見ると、先生は、いつものように屈托のない調子で、
「……すこし、顔色が悪い。気分でも悪いのではないかね。……それとも」
チラと皮肉な微笑をうかべ、
「バルカン半島のような
と、いって、大声で笑い出した。
竜太郎はハンカチで額を拭う。ひどい冷汗だった。出来るだけ快活なようすをつくりながら、
「いや、そういうわけではありません。ええと、……大急ぎで、リストリア語とルウマニア語の
何を言うのか、しどろもどろのていだった。
先生は、すぐ真にうけて、
「それは、たいへんだ。何か要る本があったら遠慮なく持って行きたまえ。……もし、そういう必要があるなら、ヤロスラフ君を貸してあげてもいいよ」
竜太郎は、あわてて手を振った。
「いいえ、それほどのことでもないのです。……すこしばかり参考書を貸していただければ……」
そう言いながら、何気なく先生のとなりへ視線を移すと、瞬きもせずに、竜太郎を瞶めているヤロスラフの眼と出会った。なにか、劇しい敵意を含んだ眼つきだった。
竜太郎は、自分でも何とも判らぬ不快を感じて、ジッとその眼を見返すと、ヤロスラフは、急に眼を伏せて額際まで真赤になり、「どうも失礼しました。……わたくし、日本の方にお眼にかかるのはこれが初めてなんです……」
と、いって、近東人種特有の陰険な微笑を浮べた。どうもそのまま信用しにくいようなところがあった。
「それに、もうひとつ。……どうしてその写真があなたのお手に入ったか、さっきからそれを不審にしていたものですから……」
来るな、と思っていたら、果してそうだった。竜太郎は顔を引き緊めて、
「これは、あるひとから托されたのですが、そのひとの名を申しあげなくてはならないのですか、ヤロスラフさん」
ヤロスラフは、依然として曖昧な微笑を浮べたまま、
「お気にさわったら、ごめんなさい。……どうしてもというわけではありません。おっしゃりたくなかったらおっしゃって下さらなくとも結構ですよ。べつに、大したことではないのですから……」
竜太郎は、返事をしなかった。
どうしたというのか、ヤロスラフは急に眼覚ましいほど快活な口調になって、
「リストリア語とルウマニア語の
「即位?……どなたが、即位なさるのです」
「エレアーナ王女殿下」
思わず乗り出して、
「この写真の、エレアーナ王女殿下が?」
たしかに、これは愚問だった。
ヤロスラフは、それには答えずに、
「……ステファン五世王が二月二十五日にお薨れになったので、エレアーナ王女殿下が御登位なさるのです」
(二月二十五日!)
竜太郎が、この日を忘れるはずはない。二月二十五日というのは、土壇であの少女に逢った日のことだった。
竜太郎は、夕暮れの窓のそばに坐って、カルヴィンの「リストリア王国史」を読んでいた。
沈みかけようとする夕陽が団々の雨雲を
……一四一二年、スタンコイッチ一世が登位して以来、この王系は、一九一四―一八の世界大戦によって惹き起されたバルカン半島における政治的乃至領土的紛擾の際にも、王位の干犯を受けることなく、連綿、五世紀に亙ってこの国を統治している。……一八八九年、アレクサンドル・オベノイッチ五世は露国皇后の女官ナジーヤ・スコロフを妃として、二女を挙げた。一九〇九年、エレアーナ女王殿下。ナターシャ女王殿下は三年後に生誕した。その年、九月一七日、アンナ女王が狩猟中落馬をして葩去されたが、エレアーナ女王殿下がまだ幼少だったのでステファン家のウラジミール・ポポノフが登位してステファン五世となり現在に及んでいる。エレアーナ女王殿下は……
「エレアーナ女王殿下……」
竜太郎は、手荒く本を閉じる。
あの小さな娘と、いまリストリア王国の女王の位にのぼろうとしている
しかし、ちょっと例のないような美しさも気品も、あの寛濶さも、今にして思いかえすと、たしかに卑俗の所産ではなかった。
竜太郎は、椅子の背に頭を凭らせて、軽く眼を閉じる。……あの夜の記憶が、忘れていたような細かいところまで、おどろくほどはっきりと心に甦ってくる。
なんとも言えぬ厚味のある鷹揚な態度。どんな時でも悪びれないあの落着きかた。……ちょっとした眼づかいの端々にも、
と、すると、あの夜の少女は、やはり、リストリアの王女だったと思うよりほかはないのであろう。
竜太郎は、悒然とした顔つきで椅子から立ち上ると、部屋の端のほうまで歩いて行き、壁に貼りつけられた地図をしみじみと眺める。
リストリア王国は、ルウマニヤとチェッコ・スロヴァキヤに挾まれた群小国の間にぽっちりと介在している。
不等辺三角形をしたその国の
青いダニューブの河! その岸に、マナイールが、首府の標の二重丸をつけてたたずんでいる。
マナイール!
竜太郎は、その上へ、そっと人差指を置きながら、こんなふうに弦く。
「ここに、おれの薄情な恋人が住んでいる。……あの悲し気な眼つきで、ダニューブの水でも眺めているのだろうか」
地図の上を強く磨すると、指先にダニューブの青い色がついて来た。
眼に指先を近づけて、それをじっと眺めているうちに、むしょうに、あの少女に逢いたくなって来た。なんでもいい、たった、ひと眼でいい、一旦、そう思い出したら、もう方図がなかった。
がむしゃらな、一途の激情が
竜太郎は、両手で顔を蔽って、長い間激情と戦っていたが、そのうちにどうにも耐えられなくなって、錯乱したように叫び出した。
「……行こう。……あの薄情な恋人の戴冠式の行列を見に、マナイールへ行こう!……街路樹の蔭からでも、よそながら、ひと眼見てこよう。たぶん、それで思いが晴れるだろうからな」
竜太郎は書机のところへ駈けて行って汽車の時間表を探し出し、あわただしく頁をひるがえして「
「……ヴァルローブ……ロオザンヌ……ドモドツノラ……ミラノ……トリエスト……ソフィア……マナイール……」と、指で辿りはじめた。
そして、窓のほうへ立って行って、夕暮の巴里の屋根屋根を眺めていた。何も見ているわけではなかった。竜太郎は泣いていた。
20, 35――Simpron-Orien-Expresse.
発車の間ぎわになって、ダンピエール先生が、リストリアの文部次官宛の紹介状を持って駆けつけて来てくれた。ひどく息を切らしながら、竜太郎の手を握ると、青年のような若々しい声で、叫んだ。
「自白したまえ、自白したまえ。君は、リストリア語でなく、あの女王の調査に行くのではないのかね。……しかし、ま、どっちだってかまわない。いずれにしろ、この紹介状はたぶん役に立つだろう」
竜太郎は、心の深いこの老人に無言のまま頭をさげて、感謝の意を表した。
汽車が出て行った。
いつかのあの敏感そうな少年が昇降場の柱の蔭から、それをジッと眺めていたことを、竜太郎は知っていたろうか。
七
車室には、うす暗い電灯がひとつだけ点り、ムッとするように粗悪な煙草が濠々とたちこめていた。
床の上には腸詰の皮や、果物の芯や、唾や、煙草の吸殻などが、いたるところに飛び散ってい、汽車が揺れるたびに、そこからひどい匂いがきた。
入口に近い座席で、剽悍な顔つきをした三人の青年がブダ語らしい言葉で激論を闘わしている。いずれも血相を変え、今にも射ち合いにでもなりそうなけしきだった。荒々しいバルカンの気質の中へはるばるとやってきたことをつくづくと感じた。
空は低く、重苦しく、物悲し気だった。
乳白色の濃い霧の間から、冷涼たるコンスタンツァの原野の景色が、時々、ぼんやりとよろめき出してはまた、漠々とその中へ沈んでゆく。――うち挫がれたような泥楊の低い列。霧に濡れながら身を寄せ合っているわずかばかりの羊の群。赤土の裸の丘と、
陽が暮れかけてきて、天地の間の沈鬱なようすは一層ひどくなった。うち沈み、歎き、悼み、一瞥にさえ心の傷む風景だった。
竜太郎は、車窓の窓掛をひき、固い隔壁に凭れて眼をとじる。
バルカンの沈鬱な風景も、荒々しい気質も、猥雑な乗客の群も、竜太郎になんの感じもひき起こし得なかった。巴里の里昂停車場を発ってから、この三日の長い旅の間、竜太郎の思いは、たったひとつのことに凝集されていた。それは、(戴冠式の馬車に向って、真直ぐに歩いて行こう)ということである。
……白い鳥毛の扁帽を冠った前駆の侍僮が、銀の
……一人の若い東洋人が、群集と警衛の憲兵の人垣の間から飛び出し、ゆっくりと馬車に向って歩いてゆく。……たぶん、五六歩。おそらく、それより多くはあるまい。……一発の銃声がひびきわたり、儀仗兵の拳銃の弾丸が、その胸の真ん中を射ぬく。……若い東洋人は、なんともつかぬ微笑をうかべながら、一瞬馬車の中の王女の顔を見つめ、ゆるゆると舗石の上に崩れ落ちると、それっきり動かなくなってしまう……五色の切紙が背の上におびただしく降り積み、テープの切れっぱしが、ヒラヒラといくつも首のあたりにまつわりつく。ちょうど祝宴の席で酔いつぶれてしまった、幸福な花婿のようにも見えるのである。……
巴里を発つ時は、街路樹の蔭からなりと、ひと眼見てこようと思っていた。ところで、汽車が動き出すと、とつぜん、思いがけない心の作用が、その決心を変えてしまった。
(あの少女は、おれのものだ。……たとえ王女であろうと、なんであろうと……)
あの夜、竜太郎の胸の中で、少女が、叫んだ。
「あたしは、もう、あなたのものよ。……あなただけのもの。……どうぞ、いつまでもかわらないと、誓って、ちょうだい」
絶え入るように、いくども、いくども、くりかえす。
しかし、明日になれば、地中海の碧い水のうえに、脳漿を撒きちらして自殺するじぶんなのだから、どのような誓いも無益である。黙らせるために、自分の唇で少女の口をふさいでしまった。やはり、どこか、心がしらじらとしていて、調子を合せるほど無邪気にはなれなかった。そんなことは、どうでもよかった。
自殺するはずの、じぶんが、それを実行し得なかったのは、思いがけない
ところが、ソルボンヌ大学の教授室で、あの夜の少女がリストリアの王女だとわかると、持ちまえのへなへな心は、一夜の気まぐれに弄ばれたのだと頭からきめ込んでしまった。それならそれで諦めでもすることか、不甲斐ない恋情で身をやつらせ、未練がましく悶えたり恨んだりしていた。
(あたしは、あなただけのものよ)
たとえ、それが恍惚のときの狂熱の叫びであろうと有頂天の間の
日本にいた頃の竜太郎は、蕩児は蕩児なりに、多少ずばぬけたところを持っていた。気概も気魄もある男だった。
欧羅巴を放浪し始めてから十五年、軽佻浅膚な社交界を泳ぎまわっているうちに、いつのまにかその習俗に
ちょうど、天の啓示でも受けたように、薄目をあけていた昔の心が、いっぺんに覚醒する。
竜太郎は、うめくように、呟いた。
「しみったれた真似はよせ! なによりも、じぶんらしく、日本人らしく、多少、気概のある行動をして見せろ。ひと目見たら死ぬにしても、そうでなくては、浮ばれないぞ」
じぶんにとっては、あの少女は、ひと夜さ同じ夢をみたひとりの女にすぎない。むこうが王女なら、こちらも、日本の男いっぴき、なにもコソコソするにはあたらない。正面きって、大威張りで会いに行こうじゃないか。
(どうぞ、いつまでも、変らないで、ちょうだい)
有頂天な囈言だなどとは思うまい。心情の美しく高い飛躍にとって、こういうケチな反省ぐらい邪魔なものはない。そのままに信じて、会いに行こう。
気概はどうあろうと、こちらは一介の国際的ルンペン。一国の王女と結婚しようなどという無邪気なことは考えまい。もっと高く、もっと美しく、断末魔の間一髪に、この恋愛を完成させよう。
「よし、戴冠式の行列を擁してやろう!」
舗石をおれの胸の血で染めて、日本人はどんな恋愛の仕方をするものか見物させてやろう。少女の足下で胸を射貫かれて死んだら、明日死ぬと誓ったこともはたされるわけだし、虚偽だらけなじぶんの半生の最後に、ただ一度、真実の朱点を打って死にたいという望みもかなうわけである。そして、そこに高く美しい心情の完成がある。じぶんの人生に於ける最後の大祝宴。心の戴冠式だ。
「戴冠式の馬車に向って、まっ直ぐに歩いて行こう。二つの戴冠式の合歓。……習俗の弾丸がおれの胸を射貫き、おそらく、五歩とは進ませまいが、しかし、おれの精神の飛躍は阻むことは出来ない。おれの肉体はぬかるみの舗石の上へ叩きつけられても、おれの精神は、一挙に無辺際の光明世界へ飛翔する。おれは、完成されて、死ぬ」
八
汽車が停って、僅かばかりの人が降りて行った。
窓をおし開けて見ると、昇降場の磨硝子の
昇降場の電灯は、なぜか、ほとんど全部消灯され、ところどころに、一つ二つ点っているのが、霧の中でぼんやりした

跨橋の上を、鉄兜をつけた一隊の兵士が行進し、そのあとに、砲車の弾薬車がつづいた。昇降場に向いた待合室の扉は全部開けはなされ、その奥で、休止している兵士と機関銃が見えた。どっしりとした三梃のチェッコ機関銃はチカチカと鋼鉄の肌を光らせ、列車の方へ黒い銃口をむけていた。
手提ランプをさげた、若い駅員がひとり車室に入ってきて、竜太郎に、なにか言いかける。なにを言ってるのか、一言もわからない。
駅員は、手真似でやりだす。鞄を持って、じぶんについてこいと言ってるらしかった。
鞄をさげて待合室の中へはいって行くと、
構内食堂の中には、ただならぬ緊迫した空気がただよっていた。奥の丸卓では、電信兵がせわしそうに電信機の鍵をうちつづけ、重い靴音を響かせながら、伝令の兵士が絶えまなく出たり入ったりしていた。廊下の壁ぎわには、鉄兜に顎緒をかけた一小隊ばかりの兵士が、横列になって並んでいた。誰か身動きするたびごとに、銃剣がドキッと光った。竜太郎は、ここで、なにが起ろうとしているのか、理解することができなかった。国境駅の検閲にしては、いささか、物々しすぎるおもむきだった。
竜太郎は、
「どういう、用件で?」
竜太郎は答えなかった。今度は、仏蘭西語でたずねた。
「リストリアへ、……どういう、用向きで」
鋭い眼が、まともに竜太郎の眼を瞶めていた。質問というより、訊問というのにちかかった。
「語学の勉強に」
この返答は、たしかに士官の度胆を抜いたらしかった。が、依然として辛辣な表情をかえずに、
「語学の勉強?
「
「語学の勉強には、少々、不適当な時期ですな」
士官の表情に、露骨に、不審をあらわしていた。
「マナイールまでおいでですか」
竜太郎の背筋を、小さな戦慄が走った。
この国境の近くで、何か重大なことが起りかけている。じぶんの返答ひとつで、予測し難い危険が身に迫るらしかった。咄嗟に、どう答えていいのか、判断がつかなかった。
ふと思いついて、ダンピエール先生からもらった紹介状をとり出して、食卓の上へおいた。「今度の主要な用件は、リストリアの文部次官に会うことなのですが……」
士官は、紹介状を手にとって、仔細に眺めはじめた。紹介状には、学士院会員ギュスタフ・ダンピエールと文部参事官ポール・ジャルウの二人の名前になっていた。
士官の表情のなかから、ふと、辛辣な色が消えた。
「よろしい。滞在日数は?」
「いまのところ、まだ未定です」
「毎朝陸軍司令部へ出頭して
竜太郎は、車室へかえった。汽車はゆるゆると動き出した。
陸軍司令部……。ただならぬ感情が、じかに、胸にせまった。
(いったい何が起ったんだろう? )

列車は、短い隧道をいくつもくぐりぬけ、大きな停車場に走り込んだ。
マナイール!
立ち上りかけて、竜太郎は、よろめいた。気の遠くなるような一瞬だった。
停車場の前の広場は、雨気をおびた雲の下で、黒々としずまりかえっていた。一人の人影もなかった。
ぼんやりとした
運河をへだてた、やや近い森のうしろから、サーチライトの蒼白い光芒が、三条ばかり横ざまに走り出し、雨雲の腹を撫でながら、中空で交叉したり、離れたりしている。
フォードの古いタキシーが横づけになった。
「ホテル・ガリッツィヤ」
と、叫んだ。運転手の隣りに鉄兜をかぶった兵士が一人、銃剣のついた銃を股の間にはさんで、石像のように坐っていた。自動車は、停車場の前のひろい通りをのろのろと走り出した。道路の向うから、遠雷の轟くような音が近づいてくる。自動車は急停車すると、あわてふためいたように
竜太郎の自動車のそばを、小山のようなタンクが、耳も痴いるような地響きをたてながら、まるで、天からでも繰り出してくるように、いくつも、いくつも、通りすぎて行った。――タンクと装甲自動車の長い列。それを、騎兵の一隊が追い抜いて行った。ホテル・ガリッツィヤは、
廿日鼠のような顔をした支配人らしいのへ、竜太郎は、低い声で、たずねた。
「この国で、いったい、何が始まってるんです」
廿日鼠は、すばやい眼差しで、ぐるりとロビイの中を見廻してから、ルーマニヤ語で、囁くように答えた。
「
竜太郎の血管の中で、熱い血が、動悸をうつ。騒擾か革命か? 現実に竜太郎が目賭した範囲だけでも、それは容易ならぬ風貌を示していた。先王ステファン五世の薨去の間もなく起こりうる政変といえば、いうまでもなくエレアーナ王女の登位を
竜太郎は、たずねた。
「……それで、……エレアーナ王女殿下は?」どうしても、ひと息では言えなかった。声が慄えていることが、じぶんでも、わかった。廿日鼠は、たまげたような眼付で、瞬間、竜太郎の顔をながめたのち、あわてて書記台の上に顔をふせると、呻くような声で、いった。
「存じませんですよ。……どうして、手前などが、そんなことを」
竜太郎の部屋は、運河に臨んだ二階の端にあった。天井の壁に、漆喰細工のキューピッドがついていて、愚鈍な顔をして下を見おろしていた。翼の金箔が剥げ、その上に点々と蠅の糞がついていた。
竜太郎は、ネクタイも解かずに、長い間、じっと寝台に腰をおろしていた。それから、上衣の内懐からそろそろと一葉の写真を取り出して、つくづく眺め入る。
エレアーナ王女は、白い夏の装いで、大理石の広い階段の第一階に、寛濶な面もちで立っている。
竜太郎は、指の先で、転くそこここと写真にさわりながら、こんなふうに、呟く。
「君は、王女などでなければよかったんだ。……あの夜、ホテルの土壇で、海に向って泣いていたわけが、今こそ、うすうすわかるような気がする。……何か、さまざまと苦しいことがあるのにちがいない。……僕はこうして、君の写真を眺めてためいきをついているだけで、どうしてあげることも出来ないが、どうか、あまり不幸にならないように、どんなに不幸になっても、せめて、生きてだけはいてくれたまえ」
どんなふうに祈るのか、その術を知らないのが情けなかった。そのくせ、いつの間にか、絨氈の上に膝をついて、
「南無観世音、南無観世音……」
と、ただそれだけのことを、いつまでも繰り返していた。
九
夜明けに近いころ、遠くで、さかんな機関銃の音がしていた。単音符を打つような、鋭い、そのくせ陰性な音を、竜太郎は、浅い夢のなかで聞いていた。
もう、十時を過ぎていたが、窓の外は、払暁前のような曖昧なようすをしていた。運河の河岸に片寄せられた
澱んだような鉛色の水が、小波ひとつ立てずにのたりと流れ、サロニカ風の奇妙な破風を持った、古びた家々がしずかに影をおとしている。そのなかに、息づまる擾乱を孕んだような不気味な静寂さだった。
竜太郎は、いま、この首府に起こりかかっている騒擾の真相を読みとろうとでもするかのように、鋭い眼差しで、この陰険な風景を眺めていた。
どんな手段をつくしても、エレアーナ王女の消息を尋ねなければならない。その他のことは、どうでもよかった。ただ、王女の安否だけを……。
急いで、服に着替えた。バンドを締める手に、ミリミリと力がはいった。
「廻りっくどいことはいらない。査証を受けに行ったついでに、軍司令部へじかにぶつかってみてやれ。それでいけなければ、文部次官のところで……」
部屋を出ようとして、習慣的に、左の手が胸の衣嚢のところへいった。
(そうそう、昨夜枕もとの
また、寝台の側までもどって来た。夜卓の上に、写真はなかった。
(窓を閉めて寝たのだから、風で吹き飛ぶはずもないが……)
夜卓の下を覗いてみた。が、なかった。
竜太郎は、部屋の真中で棒立ちになった。昨夜たしかに枕もとにおいたものがないとすれば、盗まれたと思うよりほかはない。
どうしても、その真意が掴めなかった。
「いったい、これは、どういう意味なんだ」
旅行免状もある。文部次官への紹介状もある。やはり、夜卓の上に投げ出しておいた、かなり多額の
のしかかるような圧力が、ジリジリ心を圧しつける。こうしている、この瞬間も、何者かの執拗な眼で、じっと看視されているのではないかというような気がする。
竜太郎は、嶮しい眼付で、ぐるりと部屋のなかを見まわした。運河に臨んだ窓が三つ。扉は、浴室につづくのと、廊下に向った二つだけ。
竜太郎は、急に身をひるがえすと、ひと跨ぎに廊下の扉のところまで飛んで行き、力いっぱいにそれを蹴開けた。
一人の人影もなかった。長い廊下の端で、窓掛が風にゆれているだけだった。息苦しいほどの緊張が全身をひきしめる。遠い昔に忘れていた、一種決然たる闘志が発刺と胸に甦ってきた。われともなく、拳を握った。
「そういうわけなら、こちらにも覚悟があるぞ!」
それにしても、この長い間、じぶんの懐で温めていた、あの、かけ替えのない写真を盗まれたことは、どうにも諦めかねた。じぶんの身体の中の一番大事な部分が、そのままそっくり抜きとられたような遣る瀬なさを感じた。
竜太郎は、腹の底から怒りがこみ上げてきて、調子はずれな声で、叫んだ。
「畜生! どんな汚い手で浚っていきやがったんだ。……どんなことがあったって、取りかえさずにおくものか」
じぶん自身、その写真を、マラコウィッチ伯爵夫人の門番の家から、盗み出してきたことを、竜太郎は、すっかり忘れていた……。
陸軍司令部の大きな鉄門の前には、物々しく土嚢が積まれ、そこでもチェッコ機関銃が蒼黝い銃身をのぞかせていた。
竜太郎は、下士官の控室のような、粗末な部屋の床几で長い間待たされた。査証を受ける外国人が、雨天体操場のようなこの広い部屋にあふれ、四五人ずつかたまりあっては、緊張した顔で何かひそひそと語り合っていた。
竜太郎は、じぶんの隣りに掛けている赭ら顔の英吉利人らしい男に、たずねてみた。
「いったい、何が始まってるんですか」
英吉利人は、肩を揺ったきり、返事をしなかった。
正午近くなってようやく呼び込まれた。査証だけではすまなくて、ここでも、様々と手のこんだ訊問を行ったのち、こんな達示をした。明日以後は、ホテルに宿泊している外国人は、ホテルから一括して査証を受けさせるが、その代り、市中通行を禁止する。それによって、何等かの被害を受けても、当局は、その責めに応じない、ということだった。
「つまり、ホテルから一歩も出てはならないというのですね」
胸に綬をつけた白髯の老士官は、慇懃に微笑しながら、
「万全を願うならば、そうなさるに越したことはありませんな」
竜太郎は、執拗に押しかえした。
「つまり、絶対に外出してはならぬと……」
「そう申してはおりません。そのほうが御安全だろうというのです。これは御忠告です」
あくまで丁寧だったが、
「その理由は? じつは、私は昨夕おそく着いたばかりなので、何がなにやら、どうも、途方に暮れておるのです……」
鋭い声が、遮った。
「戒厳令実施中ですから」
「だから、その理由を……」
「それは、お答えする限りではありません」
さすがに、それ以上押し返すわけにはゆかなかった。
竜太郎は司令部を出ると、地図をたよりに、王宮のある『
文部省は、
竜太郎は運河の並木道を、すごすごとホテルの方へ帰りかけた。ふと、思いついて、新聞売台でロンドン・タイムスやニューヨーク・ヘラルドを買って、街路樹の蔭のベンチに腰をおろした。
あわただしく頁をかえして、近東版のある場所を探し出すと、七八種もあるその新聞のいずれもが、一箇所ずつ丁寧に切り抜かれていた。まさに、手も足も出ない感じだった。不吉な想念がひしひしと胸に迫って、いても立ってもいられぬような焦躁を感じる。といって、どうすることも出来ない。味気なく煙草をくゆらして、わずかに紛らわすほかはなかった。
ちょうど、その時、真向いの家の二階の窓にチラと人影がさしたと思うと、窓硝子の割れるけたたましい音がし、絹を裂くような叫び声と共に、破れた窓硝子の穴から、白い細い手が、空をかい探るように、ニュッと二本突き出された。が、それも瞬時のことで、幻のように白い手は消え、そのかわりに、今度は、荒々しい四五人の男の怒声が聞えてきた。
竜太郎は、ベンチから跳ね上ると、加勢でも求めるというふうに、反射的にすばやく道路の右左を眺めた。河沿いの長い道路には、ただひとつの人影もなかった。
怒声と鋭い女の叫び声は、それから暫くつづいていたが、突然、劈くような一発の銃声が響きわたり、それなりどちらの声も聞えなくなってしまった。
竜太郎が、息をつめながら、瞬きもせずに二階の窓を見上げていると、間もなく、入口の扉が手荒に内側から押し開けられ、空色の服を着た年若い娘が灰色の外套を着た三人の男に手をとられながら、低く首を垂れてよろめき出した。服の衿元は無残にひき裂かれ、じかに白い肩があらわれていた。垂れさがった右手の肘のところから手の甲へ、生々しい血が縦に筋をひき、指の股までいって、そこからポタポタと舗石の上に滴り落ちた。
灰色の男たちは、一斉に竜太郎のほうへ振りかえったのち、左右からその娘を抱き上げるようにしながら、歩き出した。若い娘は、すっかり血の気をなくし、雲を踏むような足どりで二三歩歩いたが、舗道の端で石に躓いて、仰向けざまに倒れかかった。
その顔!
あの夜の少女……、エレアーナ王女の、その、面差だった!
何を思慮する暇もなかった。ひと飛びに車道をはね越え、手近の男の肩を掴むと、右手の拳が、したたかその顎を突き上げていた。その男は後さがりに二三歩よろめいてゆき、そこで踏み止まると、ほかの二人と鋭い断節音で、叫びかわしながら、猛然と竜太郎の方へ殺到してきた。
竜太郎は、真先に来たのを体当りで押しころがしておいて、二番目の、見上げるような大男の剣帯をギュッとひっ掴んだ。跳腰が見事にきまって、靴底を空へ向け、両足で孤をかきながら、車道の方へ落ちていった。
竜太郎は、精悍な表情で、ピッタリと石壁に背をつけ、ゆっくりとペン・ナイフの刃を起していた。
十
竜太郎は、悪臭のする、じとじとと湿った敷藁のうえで、ボンヤリと眼を開いた。灰色の
ガランとした部屋の中には二十人ばかりの人がいる。穹窿の太い柱に背をもたせて撫然としているものもあれば、リズミカルな歩調で壁にそって歩きまわっているものもある。円座になった七八人の一団。腕を組合せて立っている二人。その奥の人影は朦朧と影のようにゆらめいていた。しめやかとも言えるような空気がこの広い場所を領し、廊下を振子のように往復する重い靴音だけが、浮き上るように響いていた。天井が陰気な谺をかえした。
竜太郎は、藁の上に片肘を立てようとしたが、右腕も左腕も全然用をなさなくなっているのに気がついた。両腕ばかりではない、肘を起そうとした途端に、骨を刻むような鋭い疼痛がきた。頭が割れるように痛み、咽喉はひりつくような激しい渇きをおぼえた。
思わず、呻き声をあげた。
六十ばかりの寛容な面持をした白髪の老人が、寄って来て、無言のまま竜太郎の枕もとに坐った。こうして、坐っていてやりさえすれば、相手を慰めることができると思っているふうだった。竜太郎には、すぐ、その心が通じた。
「どうぞ、水を」
老人は、無言のまま首を振った。
竜太郎は、たずねた。
「ここは、どこです」
老人は美しい抑揚のある仏蘭西語でこたえた。
「マリッツァ砲台監獄の地下牢です」
ぼんやりと、記憶が甦ってきた。
じぶんのペン・ナイフが浅黒い顔をした男の頬を斜めに斬り裂き、おさえた指の股からあふれるように血が噴き出し、ゆるゆると袖口の方へ流れ込んでいたことが妙に鮮かに残っていた。ひと跳躍して、街路樹に背をもたせて喘いでいるやつへ飛びかかろうとしたとき、突然、後頭部に眼の眩むようなひどい衝動を受け、それっきり、何もわからなくなってしまった。
頭の痛みは、いまも、そこからくるらしかった。突き刺すような疼痛をこらえながら、そろそろと手を上げて、指で後頭部にさわると、指先にヌルッとしたものが触った。藁が何かじめじめしているのは、じぶんの頭から流れ出した血で濡れているのだった。
(頭の傷など、どうだっていいが)
何か大きな手で、心臓をひと掴みにされたような衝動がきた。身体じゅうの血が一斉に心臓へ向って逆流した。
(それにしても、エレアーナ王女はどうなったろう)
肘から血を滴らし、紙のように白くなった王女の顔が、悪夢のように網膜にまつわりつく。映画の大写しのように、突然、顔だけになったり、石鹸玉のようによろめいたりする。竜太郎と、ふと顔を合したときの、あのたとえようのない悲しげな眼差。そのくせ、どこか諦めきったような静謐な色を浮べながら、目礼でもするかのような、ほのかな眼使いをした。
(王女も、この地下牢のどこかにいるのではなかろうか)
思いもかけなかった愉悦の感情が、春の水のように、暖かく心をひたし始めた。
(じぶんのすぐ側に、あの夜の少女がいる)
ゆくりなく、かりそめの契りをしてから、どのような思いで、そのひとの姿を追い求めていたことであったろう。巴里での、あの、身も細るような奔走と感傷。はるばるとこの荒々しいバルカンの風土の中にやって来る途中の灼けつくような物思い。……そして、いま、冷湿な砲台監獄の壁をへだてて、その人と隣り合せている。――なんという運命の無邪気な厚意。
しかし、これも、瞬時のときだった。
竜太郎は、すぐこの感情を恥じ、心の中で、赤面した。
竜太郎は、口早に老人に、たずねた。
「あなたは、仏蘭西人ですか」
老人は、誇らしげに答えた。
「いや、リストリア人です」
「あなたは、ご存じでないでしょうか。王女エレアーナは、いま、どうしていらっしゃいますか」
老人は、心の痛苦に耐えるといったふうに、眼を閉じた。
「ここにいるわれわれの皆が、
柔和にたれ下っていた瞼を急におし上げ、肚の底まで見とおすような鋭い眼差で、竜太郎の眼を見かえした。
「あなたの国籍は?」
この半生に、まだ一度も感じなかったような、たとえようもない誇らしさと、矜持と、優越を感じながら、竜太郎が、こたえた。
「私は日本人です!」
老人は、口の中で、ほう、というような短い驚嘆の叫びを上げてから、
「その、日本人のあなたが、どうして、こんなところへ……」
竜太郎は、エレアーナ姫と偶然に南仏の海岸で知り合いになったことを話し、たいへん思い出の深いお交際だったので、戴冠式の晴れの行列を見物しようとしてやって来たこと。今日、河沿いの街で、王女が灰色の外套を着た男たちに引き立てられてゆくところを見て、われを忘れて、その男たちを打倒したまでのことを語った。
ふと、眼を上げて見ると、いつの間にか、じぶんの周囲に人垣ができていた。杞憂と不安と混ぜ合せたような幾つかの眼が、瞬きもせずに竜太郎を見おろしていた。やがて、そこここに口早やな囁きが起った。いまの竜太郎の話を相手に通訳してやっているのだった。圧しつけたような呻き声や嗟歎の声が、波のようにその人垣を揺り動かした。
穹窿の柱のあたりで、啜り泣くような祈祷の声が起った。
「
五人ばかりの人が跪いて祈っていた。
ほかの人たちが次ぎつぎにそのほうへ歩いて行って、祈りの度に加わった。そして、その後で、深い静寂が来た。虚無のように深い沈黙だった。
老人は、額に手をあてて黙然と俯向いていたが、ややしばらくののち、静かに顔をあげた。
「われわれは、失敗しました。主要な原因は、われわれが信念を欠いていたという一言につきると思う。われわれの同志のなかに、一種の自己満足からくる、眼に見えぬ微妙な対立があった。最もいけないのはわれわれ自身、それに気がついて居なかったということです。われわれ、つまり、
「この国は一四一二年以来、五世紀にわたってスタンコウィッチ家が統治していますが、この家にはいつも男児がないので女帝が登位して、しかるべき家系から女婿を迎えることになっています。ところで、一九一七年の十七日に、アン女王殿下が落馬の負傷で薨去されましたが、当時エレアーナ王女殿下はわずか、五歳でしかあられなかったので、やむなく、父系のステファン家から、ウラジミール・ポポノフを迎えて、ステファン五世といたしました。……昨年の末、ステファン五世は、過度の飲酒からくる心臓弁膜症で、病床につかれるようになり、追々、険悪な状態に向いました」
十一
老人は、眼に見えぬほど頬を紅潮させて、
「今年の一月末、とつぜん、王党派の陸軍大臣イゴール・アウレスキーが枢密顧問官に推薦され、大臣には、陸軍次官のイッシャ・ポチョムキンが転補されることになりました。……これらの者は長い間、ステファン家と王党派の緩衝をつとめ、どちらの側からも比較的好意を持たれていた男なのですが、就任早々、定時の春季機動演習を一カ月繰り上げて二月二十日に行うむねを発表して、近衛師団の大部分をポラーニヤの北部に移動させてしまいました。われわれは早くも此のからくりを看破して了った。……つまり、王党派から軍隊を引き放して孤立させ、機動演習が終了して軍隊が帰還する日、この首府において、突如、
心の中の痛恨をおし鎮めようとでもするかのように、やや長い間瞑目したのち、突然、若々しい、熱情的な口調になって、
「そこで、われわれは、機先を制した。……ステファン五世の不例を口実にして、機動演習の延期を命令し同時に軍司令部と参謀本部の方略的乖離を計画して、これに成功しました。敵側にとってこれは、非常な打撃だったのです。……われわれは、第一撃に成功した。しかし、当然あるべき第二撃を行わなかった。紛擾をある程度でとどめて置きたい、微温的な感情が、それを躊躇させたのです。われわれが二度目の攻撃的攻撃に移ろうかどうかと気迷いしているうちに、敵は新たな“
そう言って、おだやかな諦観の微笑を浮べながら、
「そして、これが、われわれの、哀れな姿です」
と呟いた。
竜太郎は、一語もさし挾まずに聞いていた。バルカンの国民的性格のなかに、どんな小さな事柄でも、陰謀と闘争のかたちで表現せずにいられない運命的なものがあることを、つくづくと感ぜずにはいられなかった。老人の、寛容な態度や率直な熱情にかかわらず、気質的な弱さには同情する気持になれなかった。
竜太郎が、たずねた。
「それで、エレアーナ王女殿下は?」
竜太郎には、もうその返事が、わかっていた。心の中には、もう、一種、自若としたものが出来ていた。
老人は、やるせないまでに衰えた声で、ひくくこたえた。
「おいたわしいことです」
長い沈黙が[#「沈黙が」は底本では「沈駄が」]、つづいた。
薄光りのする夜の海を眺めながら、ただひとり、わびしげに、涙で頬をぬらしていた少女の俤が竜太郎の心のうえにほのぼのと浮びあがってきた。
エレアーナ王女はあの時すでに、今日のこの悲劇的結末をはっきりと知っていたにちがいない。その遣る瀬ない涙の意味を、竜太郎は察しることが出来なかった。
今迄飽き飽きするほど見馴れた、女性の生理的な感傷だと、頭からきめてかかって、ふりかえって見ようとはしなかった。
(せめて、優しい言葉でもかけることか、まるで、平手打ちでも喰わせるような真似をした)
どんなに悔んでも悔み足りないような気持だった。思いがけない偶然で、今日、河沿いの街で、あの夜の純情と誠実に、いささかながら酬いることが出来たことがせめてもの心やりだった。老人が、急に、口を切った。
「とつぜんですが、私を紹介させていただきます」
苦味のある微笑を唇のはしに浮べながら、
「じつは、かくいう私が前の陸軍大臣イゴール・アウレスキーなのです」
竜太郎は、うすうす察していた。仰向けに寝たまま、慇懃に目礼をかえした。
「私は、志村竜太郎。……仏国文学士」
「短い御交際でした」
アウレスキーが、右手を差し出した。竜太郎は、しっかりと、それを握った。
「ほんとに、短い御交際でした」
長い廊下の端のほうに、ぼんやりとした払暁の乳白色が流れこんできた。どこか遠いところで、急調子に
廊下の反対の側から、大勢の重々しい跫音が歩調をとりながら近づいてきた。
監房の扉がひき開けられ、二十四五の、美少年とでもいうべき、林檎のような赤い頬をした若い士官を先頭にして、一隊の兵士が入って来た。
監房の中の二十人は、二列縦隊に並ばされ、八人の兵士がその両側に附き添った。
この陰気な行列は、ところどころに水溜りのある
一同が引き出されたところは、広々とした砲台の営庭だった。正面に
夜はまだすっかり明け切らず、薄い朝霧が、煙のように営庭の中に流れていた。灰白色と黒だけの風景。独逸表現派の陰気な画材に似ていた。
二十人は、角面堡の
宣告文はわずかに二行ぐらいですんだ。竜太郎も、他の十九人のリストリア人と同じように、反逆罪人のなかに加えられた。異存はなかった。
若い士官が、爽やかな声で叫んだ。
「
兵士が一斉に銃を取りあげる。レヴュウの練習のようにキチンと揃っていた。
「
ズズン、と、下腹に響くような鋭い銃声が起り、暫くしてから、ゆっくりと銃口から白い煙が湧きだした。
最初の青年は、瞬間、背伸びするような恰好をし、それから、身体を斜にして、右の肩からのろのろと前に倒れた。
竜太郎は、その方へ顔を向けて、仔細に眺めていた。……ちょうど、ゴヤの『銃殺』の絵とそっくりだった。ただ、鳥毛のついた軍帽と赤縞のズボンのかわりに、ここでは、鉄兜と灰色の外套であるだけのちがいだった。
小太鼓の続け打ち。……遊挺のガチャガチャ動く音。……「狙ッ、撃ッ」……銃声。……それから、白い煙。……
これだけの簡単な操作を、単調に繰り返すだけだった。何か途方に暮れるような、あっ気なさだった。
竜太郎の左隣りの老人が、赤児の泣くような叫び声を上げながら崩れるように横倒れになった。竜太郎の耳には、はっきりと、おぎゃアと聞えた。
いよいよ、竜太郎の番になった。小太鼓が鳴り出した。竜太郎の身体のどこかがキュッと
(王女万歳! と叫んでやろう。ひとつ、日本語でやるかな)
心の中で、こんな陽気なことを考えていた。
その瞬間、思いがけないひとつの想念が、隕石のように心のうえに落ちかかった。……じぶんの厭世的な感情も、自棄的な態度も、絶え間ない自殺への憧憬も、それらは、みな、じぶんの母国へのやるせない郷愁のせいであったということを! 母国!……この最後の時になって、はじめて、はっきりと、それを了解した。
(祖国!)
はるかな日本の山川のただずまいを、灼きつくような思いで、心のうえに、思い浮べた。ぼんやりと、眼が霞んできた……。
兵士が銃を取り上げた。
ずらりと並んだ黒い銃口の後に、鈍重な顔、無心な顔、快活な顔、生真面目な顔……。いろいろな顔が、そのくせ、何とも説明のつかぬ相似で貫かれながら、じっと、竜太郎を眺めていた。
(いよいよ、これで、最後か)と、心の中で、呟いて見た。しかし、何の感じも起きなかった。たとえようもなく、ほのぼのとした気持だった。竜太郎は、祖国とただひと夜の愛人に、心から訣別のことばを送った。(さよなら……、さよなら……)
突然、やや遠くで、轟くような大砲の音がし、それを追いかけるように、あちらこちらの寺院の鐘が、一斉に鳴りはじめ、無数の人の歓声が怒濤のように湧き起った。殷々たる砲声と、寺院の鐘と、人のどよめきが、入り乱れ、混り合い、空をどよもして響きわった。
十二
「万歳!」
「リストリア王国万歳!」
「エレアーナ王女万歳!」
高低さまざまに、微妙な階調をつくりながら、渾然たる歓喜の総量となって空に立ちのぼる。
竜太郎の乗った自動車は、熱狂した歓呼と歓声の間を、ゆるゆると王宮のほうへ進んで行った。
ちょうど、芝居の急転換のような、目まぐるしい一週間だった。
あの、息づまるような刹那に、竜太郎が聞いた、大砲と鐘とどよめきの声は、反乱軍の突然の
反乱軍のこの唐突な背反の動機は、ポチョムキンが、王党の、参謀本部附武官を威迫して、王女の自動車を狙撃させた陰険なからくりが士官の遺書から暴露したためだった。形勢は、一変した。残るところは長年にわたる両家の軋轢緩和に対する問題だが、国民の意見の帰趨はだいたいにおいて、両家の和合を希望するほうに傾いていたので、枢密院と政府の機構の中から反王党派の現勢力を逓減させることと、ステファン五世の王甥イヴァン・チェルトクーツキイをエレアーナ王女の女婿に迎えることの、この交換条件によって、両家の和議は、急速に結ばれることになったのである。
竜太郎は、一種惘然たる気持で、この急変な推移を眺めていた。
翌日、ガリッツァ・ホテルから王立病院に移され、ここで鄭重な看護を受ける身になった。寸暇もない多忙な時間をさいて、イゴール・アウレスキーが、例の温容を湛えながら、毎日一度、見舞いにきた。
最初の日、老枢密顧問官は、竜太郎の問いかけを待たずに、限りない喜色を浮べながらいった。
「
竜太郎は、
「有難う……」
老枢密顧問官の心尽しへではなく、何か、ある高いただ一人のものへの、心からの謝辞だった。
両腕と両膝関節の負傷は、思ったほどひどいものではなかった。どちらにも骨折はなく、男たちに強打された時に脱臼しただけだった。ただ後頭部の裂傷だけは、相当ひどくて、手術後の化膿を気づかわれていたが、それも杞憂ですんだ。
三月八日、エレアーナ女王の登極が公布され二日おいて、リストリア王国の女王としての、外国使節に対する最初の謁見式が行われることになった。竜太郎は、日本留学生の代表として謁見式に招待されることになった。竜太郎が欲したのではなく、老枢密顧問官の自発的厚意によるものだった。
竜太郎の自動車は、車寄せの正面へすべり込んだ。
竜太郎は予想だもしなかったこの
戴冠式の馬車のそばで、舗石を血で染め、色紙の吹雪の中へあわれな骸を横たえるはずであったじぶんが、リストリアの王女に公式に招待されて、晴れがましく謁見を許されるなどと、ただの一度でも想像したことがあったろうか。
竜太郎は感動して昨夜はとうとうまんじりともすることも出来なかった。たとい、これで一期の別れになるにもせよ、あの心の優しい少女を荘重な玉座の上で再び見ることは、限りない嬉しさだった。
(どんなに、立派な様子をしていることだろう!)
何ともいえぬ親身な愛情が、心をうきうきさせ、どうしても寝つかせなかった。
自分の隣りに、端麗な面もちをした、年の若い式部官が一人乗っている。いままで、まるで作りつけの人形のように、身動きもせずに前のほうばかり眺めていたのが、車寄せへ自動車がとまると、突然、竜太郎の方へ上身をかたむけ、「女王殿下は、修道院へお入りになるご意志がおありなのです。……ご存じでしたか?」
と、早口に、囁くように言うと、それっきり、また以前のように、口を噤んでしまった。
金モールの制服を着た、
眼もあやなゴブラン織の壁掛が掛け連ねられてある広い待合室には、燕尾服や、勲章や、文官服や、
謁見室につづく、見上げるように大きな楡の扉の両脇に、白い長い鳥毛のついた、金色の兜をかぶった竜騎兵が、抜剣を捧げて直立していた。
竜太郎は、何気なく、向って右側の竜騎兵の顔を見ると、思わず驚異の叫びを上げた。それは、いつかの日、写真の献辞を読んでくれたヤロスラフ少年だった!
竜太郎は、われともなく、その方へ進んで行って、
「ヤロスラフ君」
と、声をかけた。
ヤロスラフ少年は、何事も聞かなかったように、空間の一点に視線をすえて、凝然と直立している。
瞬きひとつしなかった。
竜太郎は。じぶんのはしたなさが悔まれた。いかにも参ったような気持になって、もとの場所まですごすごと引き退った。
一見、身すぼらしいほどのあの少年が、近衛の竜騎兵であったとは!……またしても、何か、得体の知れぬ不安が、ムラムラと湧き起るのをどうすることも出来なかった。突然、ある想いが頭にひらめいた。
(写真を盗んだのは、ヤロスラフ少年ではなかったろうか)
じぶんが王女の写真を持っていることを知ってるのは、このマナイールでは、ヤロスラフ少年の他にはいない。そういえば、いかにもありそうなことだった。……しかし、いったい、何のために? この謎はどうしても解けなかった。
謁見式の時間がきた。
出御を知らせる、杖で床を打つ音が重々しく響きわたった。謁見者の群は、水でも引くように、等分に左右に別れて整列した。
謁見式の大扉は、しずかに引き開けられた。燃えるような真紅の絨氈のはるか向う端に、天蓋をつけた王座も見え、そこには黒い差毛をした、白色の大マントをゆたかに羽織ったひとの姿が見えていた。
竜太郎の胸の鼓動が、遽に劇しくなった。
式部長官が、朗詠するような調子で、次ぎつぎに謁見者の名を読みあげる。
「ルドルノ・ロータル……。ミカエル・ストロエウィッチ……。イヴァン・ヴィニェット……。サア・ダグラス・バンドレー……」
そして突然に、
「
前へ進むつもりなのが、どうしたはずみか、二三歩後によろけた。それから、改めてやり直した。
竜太郎は、慇懃に頭を下げ、じぶんの靴の爪先を眺めながら、しずかに王座に向って歩きだした。
毛の長い絨氈のなかへ、一歩ずつ足がすいとられる。まるで、雲にでも乗ってるような心地だった。この燃えるような赤い通路の両側には、ここにも、政府の高官らしい人たちが威儀を正して整列していた。
王座までの道のりは、長かった。行けども行けどもの感じだった。知らぬ野道で日が暮れかかったようなたった一人ぼっちになったような、何ともいえぬ頼りない気持だった。間もなく、じぶんの正眼で、あの夜の

ようやく、王座の大理石の階の第一階が視野の中に入ってきた。つづいて第二階、……第三階。竜太郎は、そこで立ち停って、低く頭をさげ、それから、さらに、一歩前へ進む。
竜太郎は、ゆるやかに、ゆるやかに、頭を上げる。長い裳裾の下から覗き出した金色の靴の爪先が見える。気が遠くなるような一瞬だった。
竜太郎の胸は、大きく波打ち、心臓はいまにも肋骨の間から飛び出そうとでもするように、激しく躍り立つ。
(この一瞬のために!)
この一瞬のために、このバルカンの国へ、はるばる巴里からやって来たのだった。この長い間の狂熱、やるせない嗟嘆、感傷も、憧憬も身もほそる恋情も、何もかもひっくるめて、一瞬の後に、酬いられようとしている。
じぶんの腕の包囲のなかにとり込めて、睦言し、涙を流し、愛撫し、幾度も誓ったあの夜の少女は、いま、じぶんと咫尺を隔てて坐っている。
竜太郎は、恍惚たる情感に身も心も溺らせながら、また、ゆるゆると顔をあげてゆく。
膝が見える。それから、白い、小さな手が見える。デコルテの胸に金剛石を鏤めた大星章が煌めいている。美の資源ともいうべき、楕円形のかたちのいい顎が、見える……「あの夜の少女」だった!
心を吸いとるような、深い黒い瞳。……しずかに、涙あふらした、あの眼だった。早咲の真紅の薔薇が、そこに落ち散っているような、美しい唇。……それは、あの夜、いつまでも、かわらないと誓ってちょうだい、と叫んだ、あの唇だった。寛濶な新月の眉も、清純な頬の色も、何もかも、あの夜のままだった。
(ああ、とうとう……どんなに、逢いたかったか!)
胸もとに激情がこみ上げてきて、あやうく、そう、叫び出すところだった。
ところで、どうしたというのだろう。女王は、遠いところを眺めるような、ぼんやりとした眼付きで、ほのぼのと竜太郎の顔を見返している。どういう感情の動きも、心理の反射も、そこには見られなかった。
(女王は、おれを、忘れている)
あのようなこまやかな「時」のあとで、その相手を見忘れるなどということがあるべきはずはない。……しかし女王の顔は、初見の人を眺める、あの冷淡な「他人の顔」だった。
(女王は、まるっきり、じぶんを知らないのだ!)
竜太郎の心は、この突然の混乱で、支離滅裂になってしまった。じぶんがいま、何を考えているのか、てんでわからなかった。
謁見室の入口で[#「入口で」は底本では「人口で」]、式部長官が、次の謁見者の名を披露している。
「ニコラス・ウォロスキー。……カルニヤ・ブレビッグ……」
もう御前を退出しなくてはならない。
しかし、どうしても、これでは、諦めかねた。竜太郎は、軽く、半歩前へ歩み出ると、女王の眼を瞶めながら、必死のいきおいで、囁いた。
「女王殿下、もう、お忘れですか? 私は、あの夜、サヴォイ・ホテルの
女王の表情は、風のない日の沼のように静まりかえっていて、小波ひとつ立たなかった。どのような、感情の翳も……。
はじめて、了解した。
(忘れたふりをしているのだ!)突っ放されてしまった。……この、感じは、すこし、つらすぎた。(やはり謁見式なんかにやってくるんじゃなかった。……はじめから、わかりきっていることを……)
次ぎの謁見者の跫音が、すぐじぶんの後に迫って来た。もうどうすることも出来ない!
竜太郎は、最敬礼をすると、低く頭をたれたまま後退りに三歩あるき、それから、耐えがたい憂愁を心に抱きながら、しおしおと、炎の道を戻り始めた。
「ムッシュ・シムラ。……三月二五日の、戴冠式の前日のレセプションのこともありますから、ご注意までに申し上げるのですが、女王殿下に言葉をお掛けするようなことは、絶対に、慎んでいただかなければ……」
竜太郎は、遣る瀬ない憤懣の情から、思わず鋭い声で訊きかえした。
「お祝いの言葉を言上することも、慎まなければならないのですか」
文部次官は、うなずいた。
「たとえ、どんなことがらでも!」
「それは、なぜ?」
文部次官は、竜太郎の耳に口をあてて、囁いた。
「女王殿下は、唖者であられるのです」
それから、三時間ほどののち、竜太郎は、ガリッツィヤ・ホテルの長い廊下を歩いていた。黄昏の色が濃くなって、廊下の隅々が、おんどりと闇をたたえていた。
ソルボンヌ大学のダンペール先生のところで、写真の主がリストリア国の王女だと知ってから今日まで竜太郎の胸のうちに育まれていた夢想も、希望も憧憬も、一挙にして跡形もなく、消え失せてしまった。……竜太郎の夢は、死んだ。
今日まで、ひとすじに憧れわたったその人は、縁もゆかりもない、まったくの別人だった!
竜太郎は、自嘲の色をうかべながら、こんなふうに、つぶやく。
「おれは、いったい、何という、夢をみたんだ」
片腹いたくもあり、滑稽でもあった。竜太郎は、ためいきをつく。
「また、始めからやり直さなくてはならない」
竜太郎は、悒然とした面持でじぶんの部屋の扉の前に帰りついた。
ふと、妙なことを発見して、厳しく、眉をひそめた。どうしたというのだろう。たしかに鍵をかけて出たはずだのに、扉が二寸ほど開いている。
竜太郎は、急に顔をひき緊めると、扉の隙間に耳を当てて、内部のようすを窺った。誰か、部屋の中にいる! 跫音を忍ばせながら、微妙に動きまわっている。
竜太郎は、一挙に扉を押し開けると、部屋の中におどり込んで、机の抽斗に跼み込んでいる男の肩の上へ襲いかかった。竜太郎の逞ましい膝頭の下で、闖入者が鋭い悲鳴をあげた。しなしなした小さな身体だった。
襟髪をつかんで、力まかせに窓ぎわまで引きずって行き、あいた片手で、窓掛を押し開けた。
ヤロスラフ少年だった!
乱れた髪を、眉のうえに垂らし、首をさげて、しょんぼりと立っている。
竜太郎は、ヤロスラフの顔を眺めていた。意外なようでもあり、また、当然のような気もした。王女の写真を盗んだのは、やはり、ヤロスラフ少年だった。
「写真を盗んでいったのは、君だったんだね、ヤロスラフ君」
ヤロスラフ少年は、かすかに、うなずいた。
「いったい、何のために?」
返事は、なかった。
「言いたまえ!」
「……」
勃然とした怒りがこみ上げてきた。ヤロスラフの肩を掴んで、
「言え! 言わないと、殺すぞ」
ヤロスラフ少年は、顔をあげた。自若とした色があった。
「それは、申し上げられません。たとい、殺されても」
みなまで、聞いていなかった。服の襟のところを引ッつかむと、跳腰で力任せに壁へたたきつけた。
ヤロスラフ少年は、激しい勢いで壁に身体をうちつけ、夜卓の上のものと一緒くたになって床のうえに落ちた。竜太郎は大股で、その方へ近づいて行った。ヤロスラフ少年は、仰向けに床のうえに長くなって、大きな眼を開けていた。竜太郎は、両手で、ヤロスラフの咽喉を攻めた。
「言え!」
ヤロスラフの顔から、スーッと血の気がひいてゆく。それでも、眉ひとつ動かそうとしなかった。
竜太郎は、根まけがして、咽喉から手を放した。何だか、急に情けない気持になって、ヤロスラフ少年をひき起して、椅子にかけさせた。竜太郎は、微笑してみせた。
「もういい。言いたくなかったら、言うな。……その方は、それでいいが、いったい、今日は、何しにやって来たんだね?」
ヤロスラフ少年が、きっぱりした口調で、こたえた。
「写真を、お返しに上りました」
意外な返事だった。呆気にとられて、何と言っていいのか、咄嗟に考えが浮ばなかった。ヤロスラフ少年は机のそばまで歩いて行き、そこの床のうえに落ちていた、白い大きな角封筒をとり上げて、無言のままで、竜太郎のほうへ差し出した。
竜太郎は、懐しいものに廻り会ったように、急いで、封筒から写真を引き出した。
同じ写真にちがいない。……が、どこか微妙に、ちがっていた。長い間肌につけていたので、竜太郎の持っていた写真は、すっかり角が丸くなっていたのに、この写真はそこへ指を当てると、ちくりと針のように刺した。写真の下の献辞の文字もよく似ているが、どことなく丸味があって、たしかに別な人の筆蹟だった。写真を横にして、薄光にてらしてみると、そのインクは、いま書いたばかりのように生々しかった。
そればかりではない。写真を目に近づけた途端、何ともいえぬふくよかな匂いが、竜太郎の嗅覚にまつわりついた。
あの匂いだ!
あの少女が、身にしめていた、高貴な、そのくせ絡みつくようなところのある、言い表わしようもない、ほのぼのとした、あの香水の匂いだった。
竜太郎は、卒然たる感情に襲われて思わず眼を閉じた。
さまざまなことを、何もかにも、いっぺんに了解した。王女は、やはり、あの夜の少女だった。
(あの古びた写真のかわりに、新しい写真を、わざわざヤロスラフ少年に持たして寄越したのだ)
たとえようのない愉悦の感情が、あたたかく心をひたし始めた。じぶんが願っていたのは、こういう、ちょっとした厚意……それだけでよかったのだ。これで、もう、思い残すことはなかった。明るい太陽の光が、心の隅々まで射しかけ、歌いだしたいような快活な気持になった。
そして、これを、自分にくれたわけは?……竜太郎には、その意味がはっきりとわかっていた。
(それで、いいのだ)
竜太郎が、たずねた。
「……つまり、これを持って、あきらめて帰ってくれとおっしゃるんだね」
ヤロスラフは、答えなかった。眼に見えぬほど、その頬が、紅潮した。
竜太郎はつづけた。
「よくわかりました。僕は今晩マナイールを発ちます。……王女の御厚意は終生忘れませんと言っていたと、お伝えしてください。御幸福を祈っていますと……」
ヤロスラフ少年が、いった。
「お送りします。自動車が、もう、参っております」
竜太郎は、頭をさげた。
十三
嶢※[#「山+角」、145-下-8]たる岩山に沿った泥濘の道を、自動車は、どこまでも走って行く。夜は暗く、深かった。宵のうちに、ちらと月影がさしたが、間もなく、また暗澹たる黒雲におおわれてしまった。ただ見る赭土の丘と、岩とわずかばかりの泥楊だけの、荒涼たる風景だった。風が吹いているとみえ、楊がゆるやかに体をゆすっていた。
どこへ連れてゆかれるのか、竜太郎は、まるっきり知らなかった。停車場へ行くのかと思っていると、そこを右に折れて、人家のまばらな郊外の方へ出て行く。これで、もう、一時間も、走りつづけているのだった。
岩山の裾を廻ると、はてしもない黒い原野が、眼の前に展けてきた。
とつぜん、自動車が停った。
肩幅の広い、武骨なようすをした運転手が、自動車の扉を開けると、竜太郎の旅行鞄を車からひき出し、それを、泥濘の上へおいた。
「
竜太郎は、呆気にとられて、その顔を眺めていた。
運転手は、もう一度繰り返した。
「ここでお降り願います」
その声の調子のなかに、抵抗しがたい、強圧するような調子があった。竜太郎は、車から降りた。
竜太郎を車から降ろすと、自動車は、赤い
竜太郎は、鞄の上に腰をかけて、改めてこの荒漠たる風景を眺めわたした。月もなく星もなく、ただ一面に黒々とした、空寂な世界だった。こんな暗い荒野に、ひとり、ぽつんと投げ出されては、どうしよう術もなかった。この道は、たぶん国境のほうへ通じてるとすれば、いずれ、自動車ぐらいは通るだろう。そのうちに夜も明けるだろうし……。
竜太郎は、ここで、腰を据える気になって、ゆっくりと、煙草をくゆらしはじめた。
遠くのほうから、早駆する馬の蹄の音と、轢轆とした轍の音が聞えてきた。何か殺気をおびた、襲いかかって来るような気勢があった。
竜太郎の脳裏を、チラと、切迫した感情が掠めた。
(ひょっとすると、おれを、ここで、殺るつもりなのかも知れないぞ!)
その理由を考える間もなく手は反射的に、ズボンのポケットへゆき、拳銃をとり出して、安全器をはずしていた。
馬車が近づいて来た。竜太郎から、一間ほど隔ったところで停った。竜太郎は、思わず、身をひいた。
馬車の中で、何か、短かい、甲高い声で、切れぎれに叫んでいる。竜太郎は、じぶんの耳を疑った。
「……あなた、……あなた。……竜太郎さん、……竜太郎さん」
跳ね上げた、大きな黒マントの下から、白い細い手が二本、抱き寄せようとでもするように、竜太郎の方に、突き出されている。
「……竜太郎さん、……竜太郎さん。早く、早く。……どうぞ、この馬車へ! 追手が来ますから……」
声の主は、エレアーナ王女だった。白い美しい面輪の中に、不安と恐怖の色をうかべながら、息も絶えだえに叫んでいる。
「早くして、ちょうだい。どうぞ、早く」
竜太郎は、ひと跳びに馬車の方へ跳んで行って、その中へ転げ込んだ。
「エレアーナ!」
「あなた……あなた。……死ぬまでかわらないと誓ったでしょう。どうぞ、わたしといっしょに、死んで、ちょうだい」
返事の代りに、竜太郎は王女の身体を、精いっぱい抱き締めた。力のあらん限り。
馬車は、国境に向って、走り出した。馬を御しているのは、敏感そうな顔をした、あの、ヤロスラフ少年だった。
「墓地展望亭」の窓が暮れかけて、二人の顔が、薄闇のなかに、ぼんやりと白く浮いていた。窓から射し込む桃色の余映が、王女の頬の上にたゆたって、ちょうど、そこに、薔薇の花でも咲き出したように見えるのだった。
志村氏が、つづけた。
「……二人は、もちろん、助かろうとは思っていなかった。追手がかかるくらいだから国境の
そう言いかけて、愛しくてたまらないというようなふうに、思いの深い眼差で王女の顔を眺めて、
「それで、あの時、あなた、なんと言ったんだっけね」
王女は、この世のものとは思われないような、たおやかな微笑を浮べて、
「撃ち殺されるまでも、国境を突破しましょうって……」
そして、あどけなく首をかしげて、考えるようなふうをしながら、
「ええ、そうでしたわ」と、優しく、つけ加えた。
ほんとうに、不思議な
二人の話によると、エレアーナ王女は、大叔母のマラコウィッチ大公妃のとりなしで、巴里の市外にある、サント・ドミニック修道院に入って、そこで死んだ形式になり、一平民として、仏蘭西に帰化して、志村氏と結婚したのだそうだった。
毎月の八日に、じぶんの墓に花を置きに来るのは、つまり、激しい日の追憶を新たにして、現在の幸福に、いっそう深く酔おうとするためなのである。