犂氏の友情

久生十蘭




      一

 山川石亭先生が、あおい顔をして入って来た。
「どうも、えらいことになりました」
 急々如律令きゅうきゅうにょりつれいといったていで椅子に掛けて、ぐったりと首を投げ出している。
 スパゲティを牛酪バタいためている最中で、こちらも火急の場合だったが、石亭先生の弱りかたがあまりひどいので、肉叉フゥルシェットを持ったまま先生のほうへ近づいて行った。
「先生、どうしました。ひどく蒼い顔をしていますね」
「実にどうも、二進にっち三進さっちもゆかないことになって……」
 先生はうっすらと汗をかいて、両手の中で手巾ムウショアールをごしゃごしゃにしたり、引っ張ったりしている。
「ほうらね。だから、言わないこっちゃない。……美人局つつもたせですか?」
 先生は、今度は手巾ムウショアールの端を口にくわえて、手で引っ張る。田舎芝居の新派の女形おやまが愁嘆するような、なんとも嫌らしい真似をする。もっとも、先生は夢中になっているので、自分では気がつかない。
「いや、もっと物騒なやつなんです。……美人局のほうなら、これでも、どうにか切り抜ける自信があります」
 先生は、口から離した手巾ムウショアールを禿げ上った顔のほうへ持ってゆく。
「実は、盗っとに誘われましてねえ」
「盗っとが何を誘ったのです」
 先生は、手であおぐようにして、
「いや、そうじゃないんです。つまり、盗っとに行こうと誘われたんです」
「いらしたらいいでしょう。……巴里パリ下層社会ゾニェの人情風俗をうがつために、わざわざあんなところに住んでいらっしゃるんだから、そこまで※(「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1-89-18)ほうはくしなければイミをなさんでしょう」
 先生は、あッふ、あッふ、と泳ぎ出して、
「じょ、じょ、冗談を言っちゃいけない。そんなことはできません。……わたしは、これでも勅任官ですからね。いくらなんでも、盗みを働くというのは困ります」
 石亭先生は、ベイエの道徳社会学というしちめんどうな学問を専攻していられる。
 ひとくちに言うと、先生は、道徳は進歩するものか退歩するものかという、一見、迂遠な学問に憂身うきみやつしていられるのである。
 たとえば、一夫多妻の制度が、厳重な一夫一妻制度に発達した、こういう事実からみて、道徳は進歩するものと考えられる。ところで、これに対して、道徳はむしろ退歩するものだという学説がある。その根拠として、現代の犯罪は非常に科学的惨忍になり、犯罪数が以前より増加したという事実を挙げる。先生は、退歩するほうに味方していられるので、退っぴきならぬ退歩説の実例を得るためには、夫子ふうしそれ自身、そういう下層の日常の中で生活する必要があるという痛烈な決心をし、荷物をひきまとめて静寂閑雅なパッシイの高等下宿パンション・ド・ファミイユから、新市域の乞食部落ゾーンへ引っ越していった。
 Zone というのは、巴里市内に散らばっていた乞食や浮浪人を取締るために、ひと纏めにしておく必要から、市内と接する旧堡壁の外に新しくつくった乞食村で、そこに、よなげ、地見ぢみ、椅子直し、襤褸ぼろッ買い、屑屋なんていうてあいが海鼠板なまこいたで囲った簡素高尚なバラックを建てて住んでいる。
 山川石亭先生は、一種熱烈な人格を持っていられるが、いかになんでもトタン囲いのバラックには住みかねたとみえ、乞食部落ゾーンと巴里市とのちょうど境目のところにある「本郷バー」という、見るもいぶせき一品料理屋プラ・ド・ジュールの二階に居をかまえた。
 つまり、先生は、乞食部落ゾーンを巴里市から区切るあやうい一線の上に、どっちつかずのようすで暮していられるのであって、先生の尊厳は、際どいところであやうく食い止められているわけである。
 これについては先生には、ちゃんとした弁疏エクスキュウズがある。いかに熱意を持っていても、市の鑑札がないとあそこに住まわしてくれんのでねえ、と言われる。いかに自由主義の仏蘭西フランス政府でも、日本の勅任官に乞食の鑑札をくれることはできまい、先生は、それを見越して、そういう詭弁きべんを用いられるのである。
 先生は、こういう非常のときにも、学者らしい執着を忘れずに蒼めた顔をしながらいかにもそのひとらしく、こんな減らず口を叩く。
「なにしろ、わたしのような廉潔な老学徒を盗っとに誘おうというのですからねえ。発達的に言うと、たしかにこれは反省道徳が退歩しつつあるという顕著な実例になります」
「道徳のほうはどうでもいいが、それで、いったい、何を盗もうというんです」
 先生は、また嫌な顔色になって、
「そのへんのことは、どうも、はっきりしないんですが、……大体において、サン・トノーレ街あたりの金持の屋敷へ押込むということになっているらしいんです」
「それで、あなたは、どういう役をつとめるんです」
 先生は、臆病そうな眼ざしでチラとこちらを見上げて、
「窓を壊すほうはゴイゴロフという、わたしを誘ったやつがやるんですが、最初に[#「最初に」は底本では「最初は」]い込むほうの役は、わたしに振り当ててあるらしいのです」
 これは、たいへんなことになった。
 勅任官。文学博士。勲五等。五十七歳。身長一メートル五五。猪首ししくびで猫背で、丸まっちい、子供のような顔をしたこの小男の石亭先生が、泥棒に尻を押されて、露台の窓から、不器用な恰好で這い込んでゆくようすときたら! 劇的ドラマチックとでも言いましょうか、それこそ、まさに天下の奇趣である。
 先生の放心うっかりつとに有名なもので、のみならず、たいへん不器用である。持って出た雨傘を持って帰ったことはなく、この年齢としになって、じぶんで鶏卵たまごを割ることができない。それに、物臭ものぐさで、不精で、愚図で、内気で、どういう方面から考えても、泥棒のお先棒などには、まずもっとも不適当な人格キャラクテールである。
「でも、あなたをお先棒に使ってみたってたいして役に立ちそうもないと思われますがねえ」
 先生は、ムッとしたようすで、
「いや、そう馬鹿にしたもんではない。やらしたら、これで、案外、相当なところまでやってのけられると思うんだが、そういうことは、わたしの道徳的理想と少しばかり喰いちがうので、それで、やらないだけのことなんです。勘違いしないようにしてください」
「いったい、どんなことから、そんなに見込まれるようになったんです」
「わたしのような倫理学者を介添に連れて行くと、少しでも良心の負担が軽くなりますからねえ。むこうの目的はそこなんだと思うんです」
「はっきりお断りになれなかったんですか」
 先生は、悩ましそうな溜息ためいきをついて、
「それが、そう簡単にゆかぬわけがあるのです。……どうも、すこしばかりいい加減な相槌を打ちすぎたようです。……それに、それとなく、油を掛けたようなところもあったようで……」
「あなたともあろう方が、盗っとをおだてるなどというのは、よくないですな」
「たしかに、感興にまかせて深入りしすぎたようです。しかし、これも、研究に対するわたしの素朴な精神昂揚エフクタルザシォンによることで、それについては、みずから少々慰める点もありますが、実際問題のほうは、二進も三進もゆかないところへきているんです」
「石亭先生、あなた、まさか、承諾したんじゃないでしょうね」
 先生は、叱られた子供のように身体を縮めて、
「……じつは、……承諾したんです」
「これは、驚きました」
 先生は、しょんぼりと顔を上げて、羊のような優しい眼でこちらを見上げながら、
「わたしとしては、どうにも、止むにやまれん次第だったんです。……この辺の機微は、くわしくお話しなければご諒解を得ることができまいと思いますが、かいつまんで申しますと、だいたい、こんな具合だったんです。……今日の昼、階下した土壇テラッスで飯を食っていますと、ゴイゴロフという肺病やみの露西亜ロシア人が、わたしのそばへやって来て、オイ、二階の先生、景気はいいか、というから、いや、どうもこのごろはシケでとんと上ったりだ、と答えますと、ゴイゴロフは、そいつは気の毒だ。なア、禿頭、そういうことなら、ちょいとウマイ話があるから一口乗せてやろうか。とんでもなくウマイ話なんだぜ。そこで、わたしが、けっこうだねえ、といった。……はなはだしからんことですが、この辺のことは、ああいう社会では、いわば日常の挨拶のようなもので、こんなことをいちいち気にしていたんじゃ、ああいう区域カルチェには一日だって住んでいられない、わたしにすれば、そういうつもりだった。ところが、ゴイゴロフのほうは、ひどく乗気になって、じつは、ちょっとした経緯いきさつがあって、おまえのようなもっともらしい顔をした禿茶瓶はげちゃびん相棒コバンがひとり欲しかったんだ。おまえにその気があるんなら、いい割をくれてやる。どうだ、はっきりしたところをぬかせ。わたしは、顔に、ちょっとこう凄味すごみをつけましてねえ、ニヤッと笑ってみせたんです。だいぶむかしのことですが、高等学校で、シェークスピアの『アントニーとクレオパトラ』の英語劇をったとき、わたしはクレオパトラを演じまして全校を悩殺したことがあるんだから、そういうほうには少々心得があるのです。……さて、そういう凄い顔をして、わたしがいったい何を言ったと思います。……それはモノによるねえ。洒落しゃれや冗談で極東エクストレーム・オリヤンからはるばる流れて来たわけじゃないんだ。それを承知で持ちかけるんだろうな。……と言っておいて、ゾクッとふるえあがりました。眼がくらんで、もう少しで酒呑台コントアールのほうへよろけて行くところでした。……いや、はや、実にどうも、慨歎がいたんに堪えんことです。するとゴイゴロフは、ひどく頼母たのもしそうな顔をして、おお、そうか。見そこなってすまなかったなァ。おまえさんがそんな偉ら方マジョールとは知りませんでしたよ。……言葉つきまで急に丁寧になって、……もっともらしい顔をしてしちめんど臭い本なぞを読んでるが、どっちみちそんななァぼくよけだろうとにらんでいたんでさァ。ところで、あんたがそういうひとであれば、これゃア、いよいよもってかたじけねえんです。その辺のがらくたクレアチュールを引っ張って行くのとわけはちがうんだから、いっそ弾みがつきまさァ。……と、といったぐあいに、調子よくトントンと話が進んで、とうとう、さっき言ったような破目になってしまったんです」
 この小心な石亭先生が、どんなようすで盗っとと渡り合ったか、どんな経緯いきさつで抜き差しならないことになったか、その辺のようすが眼に見えるようだ。思うに、石亭先生は、例の向う気から、大風呂敷をひろげた手前、否応なしに盗人の先陣をうけたまわることになってしまったのらしい。
 先生の訪問の目的はこうだった。
 今になって破約をしたら、どっちみち、只ですむわけはない。向うとしては、場所まで打ち明けてしまったのだから、わたしが変心したと知ったら、たぶん生かしてはおくまい。あの気狂いじみた、殺伐な男のことだから、その危険は充分にある。大人は豹変す、の筆法で、わたしは「本郷バー」へ帰らずに、このままどこかへ蒙塵もうじんしてしまうつもりだが、なんとしても心がかりなのは、あちらへ残してきた調査資料で、長年の努力の結晶をあのままあそこへ放っておくわけにはゆかないから、田舎にいた甥がとつぜん叔父を訪ねてきたていにでもして、しばらく、わたしの部屋で寝泊りし、ゴイゴロフにさとられぬように、折を見て少しずつ持ち出してきてもらえまいか、というのだった。
 先生は、丸まっちい肩を昂然こうぜんそびやかすようにしながら、
「ねえ、そうでしょう。退歩説の実例を挙げるために、わたし自身が殺されるのでは、これぁイミないですからねえ!」
 といった。

      二

 巴里の北の町はずれ、ラ・ヴィエットの市門ポルトからプウル・ヌーヴのほうへ行く町角に、※(「木+眉」、第3水準1-85-86)なげしにニスで「洪牙利亜兵ロングロア・ヴェール」と書きつけた、安手な一品料理店プラ・ド・ジュールがある。
 これが、石亭先生いうところの「本郷バー」である。少々、舌ッ足らずの石亭先生が、「ロングロア・ヴェール」と発音すると、これが、どうしても「本郷バー」としか聞えない。先生は世事にうといほうだから、いっこう気づかれぬ模様だったが、ある時、その多少の諧謔かいぎゃく味のあるゆえんを説明すると、石亭先生は、やにわに膝をうって、
「それァ、いいですな。今度から、本郷バーと呼ぶことにしましょう」
 と、ひどく勇み立った。
 ちょうど夕食どきで、悪しつッこい玉菜キャベツ羹汁スープの臭いがムウッと流れ出してくる。
 もっさりした棉紗のカーテン越しにおずおずと内部なかのぞき込んで見ると、ジメジメした土間にじかに食卓テーブルを置いた横長の部屋で、「望郷ペペ・ル・モコ」に出てくる悪党フィルウそのままの、ゾッとするようなじだらくな恰好をしたのが二十人ばかり、何か大きな声で叫び交しながら、乱雑極まる食事をしている。
 いずれも鳥打帽の横ッかぶり。血腸詰プウダンやら、河沙魚グウジョンの空揚げやら、胎貝ムウル大蒜にんにくの塩汁、豚の軟骨のゼラチン、こうしの脳味噌をでたやつ、……市中の料理店の献立表ムニュウではあまりお眼にかかれぬような怪奇なものを恐れ気もなく食っている。なんでもない、ちょっとしたことだが、いかにも別世界へ飛び込んで来たような、なんとも言いようのない頼りない気持を感じさせる。
 いつまでも尻込みをしていてもしようがない。ありとあらゆる勇気を非常召集して、グイと硝子扉を開けて内部なかへ入った。
 ひどい臭気と温気が微妙に混り合って、もうもうと立ちめている。赭土の土間の上には、青痰やら、煙草の吸殻やら、魚の頭、豚の軟骨、その他雑多なものが参差しんし落雑していて、ほとんど足の踏み場もない。
 いかに石亭先生の依頼とはいいながら、こういう上品優雅な環境のなかでこれから四、五日暮さなければならぬかと思うと、いささか分に過ぎるようで、なんとなく心のほてりを感じる。
 海象モールスの牙のような太いダラリ髭を生やした主人パトロンらしいのが、水浅黄の油屋さんタピリエを掛けてひとを馬鹿にしたような顔で酒呑台コントアールのそばに突っ立っているから、そのそばへ行って、ゴイゴロフというのはどいつだ、とくと、ゴオルキイのような顔をした青前掛は、ニュッと大きな眼玉をむいて、
「てめえは、なんだ」
 と、叱咤した。
 オドオドしていたんじゃなめられてばかりいてしょうがないと思ったので声に力みをつけて、
「おれは、山川石亭の甥だが、ゴイゴロフといううんてれがんにちょっと言伝ことづけを頼まれてやって来たんだ。ついでだから言っておくが、叔父の身代りに四、五日ここへ泊るつもりだから、そのつもりでいるがいい」
 と、威勢よくまくしたてた。少なくとも表面はそう見えたのである。
 青前掛のゴオルキイは、鼻翼こばなをふくらませて、ふうん、といなないてから、
「おめえは、あの禿頭の甥ッ子か。なるほど変った面をしていやがる。まるっきり、河沙魚グウジョンだぜ」
 と、失礼なことを言った。
 しかし、こういうのがこの辺の気質なのだと思えば、腹も立たない。もっとも、腹を立ててみても、迂闊にそういう表現はできないのだから、煎じつめたところ、同じことのようである。
「よく皆がそう言うね。頭でっかちで骨ばっているところなんざ、セーヌ河の河沙魚グウジョンのようだってね。たいして面白くもねえ。何かもっと変ったことを言ってみたらどうだ。……そういえば、おじさん、おまえは海象モールスに似てるねえ、やっぱり、あッちのほうから流れ寄って来たのかい」
 ゴオルキイは、とつぜん、咽喉仏が見えるほど大口を開いて、ふわァと笑い出し、
「畜生め、海象モールスとは、うめえことを言うじゃねえか。ふん、こいつァいいや」
 そう言って、みなが食事をしているほうへ向って、
「おい、ピポ! この悪たれ野郎コキャンがおまえに喋言ジャボテしてえそうだ。掻喰いブウロタアジュがすんだら、こっちへやってきねえ」
 と、怒鳴った。
「おい、あんちゃん、何かひと口しめしなよ。鸚鵡ペロケでもやろうか」
 鸚鵡ペロケ、……どうせ、何か飲物の隠語だろうが、学校の悪たれどももさすがにこうは言わない。向うみずに引受けると、どんなものが飛び出してくるかわからない。やんわりと辞退した。
「まあ止めておこう」
「じゃア、石油ペトロールはどうだ」
「ガソリンや石油はなるたけ飲まないようにしているんだ」
「何を言ってやがる、このボケ茄子なすめ、おいらのところの火酒ペトロールにガソリンなんざ入ってやしねえやい。ふざけたことを言いやがるとぶッ叩くぞ」
 これはどうも、そろそろいけなくなってきた、と、薄ら寒くなっているところへ、からすきの柄のようにヒョロリと瘠せた、影のような男が、ぼんやりとそばへ寄って来た。
 頬がすッこけて、色の褪めた壁紙のような沈んだ顔色をした、二七、八の青年である。ひどい顔面神経痛で、時々、ギクシャクと頬を痙攣ひきつらせる。狂信者によく見る、おれだけが世界の真理を把んでいると確信しているような、ひどく落着き払った奇妙なようすをしている。
 ところで、その眼たるや、ちょっと形容しかねるような物凄いようすをしている。ひと口に言えば、烏眼くろめが画鋲の頭ほどの大きさしかなくて、白眼がひどく幅をきかせている。西洋ふうに言えば「凶眼ベーゼル・プリッツ」日本ふうに言えば、れいの四白眼。その代表的なやつなんだからタジタジとなった。これゃア、えらいやつが現れて来たと思って、すくなからず萎縮していると、犂の先生は、いやに指の長い、仏手柑ぶしゅかんのような、黄ばんだ瘠せた手を差しのべながら、海洞ほらあなへ潮が差し込んで来るような妙に響のない声で、
「わたくしがゴイゴロフですが、あなたは?」
 と、言いながら、いま言った、あまりゾッとしない眼でまともとこちらの顔を眺めた。
 それにしても、これがゴイゴロフなら、石亭先生の描写した人間とはだいぶ懸隔へだたりがあるようだ。先生の言われたところでは、おい、禿頭、ちょいと甘い話があるからひと口のせてやろうか、といったような横着な口吻こうふんでものを言う男だったが、見るところ、このゴイゴロフは、一種の沈鬱的人物であって、どこを叩いても、そんな陽気な調子が出てきそうもない。のみならず、こういう区域カルチェの人民とは思われないほどテニヲハがはっきりしていて、わる丁寧なほど慇懃懇切を極める。
 身装みなりも、それに準じて、スマートとはゆかないまでも、一応、さっぱりした見かけをしている。スフ入りはスフ入りだが、膝も丸くなっていないし、衣嚢ポーシュもたるんでいない。なにか一期の晴着といった改まった感じで、その後このことを思い合して、この印象が決して間違いでなかったことを、むしろ薄気味悪くさえ思った。
 おそらく、ゴイゴロフに手を差しのべさせたまま、やや長い間、薄ぼんやりと相手の顔を眺めていたのに相違ない。ゴイゴロフは、もう一度、同じことを繰り返した。
「わたしはカラスキー・ゴイゴロフですが、あなたは、どなたでしょう。どういうご用事ですか」
 こちらは肺病やみの盗っとと掛合うつもりで来たのだったが、こんなふうに開き直られたのですっかり面喰ってしまった。へどもどしながら、山川石亭先生が急病で、不本意ながらあなたとのお約束を果すことができなくなったという意味のことをはなはだ曖昧に吐露した。
 これを言い終った末、いったい、どんな波瀾が捲き起されるか。これこそは、相当、凄味スリルのある瞬間だった。
 ところで、カラスキー氏は、大して驚いたようなようすもしない。それどころか、叙景的にいえば、雨雲の間からぼんやり秋の薄陽がれて来るようなしんねりとした微笑が、色の褪めたような顔のうえに射しかけてきた。たしかにこれは意外だったので、いよいよもって度胆を抜かれた。
 カラスキーは、そういう微妙な薄笑いをしながら、れいによって、非凡な四白眼でこちらの眼の中を覗き込みながら、
「すると、ムッシュウ・ヤマカワは、だいぶ恐慌していられるのでしょうね」
 どうも、話がだいぶ喰い違ってきた。有体ありていに白状すべきかどうか、さんざ迷ったすえ、とりあえず、こんな具合に当り触りのないことを言ってみる。
「ええ、どうも、それがねえ、いっこう、とりとめがなくて」
 カラスキーは、肱をとって、ゆっくりと隅のほうへ連れて行き、そこの椅子に掛けさせると、隠したって何もかも先刻ご承知だという顔で、
「わかっています。相当念入りにやったつもりですから、おそらく、先生は慄え上っていられるでしょう。……わたくしはムッシュウ・ヤマカワが道徳社会学を専門にやっていられる篤実な学者サヴァンだということをよく知っているんです。……ところが、どういうものか、先生は、たいへんに悪党振られる。すっかり悪徒気取りで、去年の三月には、国立割引銀行デスコント・ナショナル使童グルウムを襲って三千フランばかりせしめたの、体育場イッポドロームの出札嬢をおどして有金残らず頂戴してきたことがあるのと途方もないことを言われるのですな。こいつを、見当ちがいな隠語アルゴまじりかなんかでやるんですから、聞いていると、噴き出さずにはいられないんです。……こっちがいっこう相手にしないもんだから先生焦気やっきとなりましてね、これでもか、これでもかというふうに、一日ましに法螺ほらの桁がひとつずつ上ってゆくんです。このごろは、金高のほうも相当莫大になりましてね、二十万フランばかりのところへ行っているんです。……人間ひともだいぶ殺しましたねえ。わたくしの知ってるところでは、坊さんが三人、タキシーの運転手が二人、歯医者が一人に造花屋の女工ミジネットが一人。……だいたい、こういった塩梅あんばいなんです。たいへんな虐殺です。ここへ来る連中も、とても先生にはかなわないということになってしまって、まるで腫物にでも触るようにビクビクして、うっかりそばへも寄りつけないようなありさまなんです。実際ね、先生にとっ捕まっちゃ百年目。この世に有りとあらゆる悪事の総ざらいをされるんだから、たいがいゆだってしまうのです。放っておくと手に負えないことになりそうなので、今日の昼、出鱈目なことを言って、ちょっと先生を威かしてみたんですが。……どうです、薬が効いたようでしたか? あの臆病な先生のことだから、さぞ、仰天なすったことでしょうね」
 いやはや、とんだことを聞くものだ。先生が、こんなところでそんな馬鹿の限りを尽していられようとは、さすがに知らなかった。同国人の連なる縁で、こっちもすっかり赤面し、咄嗟とっさに何と答えていいか、ただ眼玉をウロウロさせるばかり。とんと挨拶の言葉もないありさまだった。
 石亭先生のお陰で、これまでにもたびたびひどい恥を掻いたことがあるが、こういう非凡なのはこれが初めてだった。馬鹿馬鹿しくて話にならない。いかにも先生が憎らしくなって、何もかも一切カラスキーにぶちまけてしまった。
 カラスキーは、ふふ、と小刻みに笑ってから、まるで自分のことのような親切な口調で、
「先生としては、ここの空気に同化しようとして、一所懸命なすったのでしょうが、こんな場所で、あんな出鱈目をいうのは、すこし無考えすぎるようです。うまく利用されて、どんなひどい破目に陥し込まれないものでもないから」
「いちいち、ごもっともです、毎度のことながら、先生には弱らされます」
 カラスキーは、陰鬱とも言えるような物静かな口調で、
「ともかく、先生は、ここで、毎日、むやみな金づかいをしていらっしゃるんですよ。……こんなこともご存知なかったでしょうね」
「えッ、金を、どう使うんです?」
「毎日、大餐宴バンケをやったり、ここへやってくる人間に一人残らず酒振舞をしたり。……それだけなら、まだいいのですが、ねだられるとだれにでも金を呉れてやる。それも、生優しい金でないのです。……この辺では、先生のことを『中央銀行バンク・サントラール』といっています」
「これは、驚きました。馬鹿もいい加減にしておいてもらいたいもんだ」
「そうですよ。……この辺の住人ときたら、まるで鬣狗ハイエナのような貪婪どんらんなやつばかりですから、そんなことをしていたら、それこそ骨までしゃぶられてしまいます。一旦喰い下ったとなったら最後まで離しはしませんから……。先生の世間見ずをいいことにして、その一例として、ある二、三人のやつらが、『藁麺麭パン・ド・パイユ』という出鱈目なものを捏ね上げて、先生に発明権を買わせようとしているんです。……わらを摺り潰してパルプをつくり、それをフェナルチン・アドという薬品で処理すると小麦粉と同様のものができるというのですが、フェナルチン・アドなんてのがそもそも出鱈目なんで、そんな薬品はどこにもありゃしない。実際のところ、それは薬でも何でもなくて、ごく上等の小麦粉それ自身なんです。初めっから藁に小麦粉を混ぜるんですから、藁だけ除けると後に小麦粉が残るのは当り前。小麦粉が出て来なかったら、それこそ不思議なくらいです。……ところが、先生は、そんなことはごぞんじない。これは世界的な大発明だというので大乗気になっているんです」
 先生は、そんなことは指の先ほども漏らさなかった。気がよくて、お喋舌しゃべりで、ちょっと法螺も吹く石亭先生が、ピリッともそれに触れなかったというのは、それだけでも、先生が「藁麺麭パン・ド・パイユ」にどれほどの熱情を持っているか充分に察しられる。先生は発明が他に漏れるのをおそれ、ムズムズする口の蓋をガッチリ閉めて、牡蠣かきのように頑固に押し黙っていられたのである。
 カラスキーは、依然たる沈鬱な口調で、
「この『洪牙利亜兵ロングロア・ヴェール』で、先生が、どんなことになりかかっているか、これでだいたいおわかりになったことでしょうが、その他に、まだいけないことがあるんです」
 さすがに、少々空恐ろしくなってきて、うろたえた声でたずねた。
「お次は、いったい、何です」
 カラスキーは顔を深くうつむけて、囁くような声でいった。
「ポリーチカ!」
「ポリーチカって、何のことですか」
 カラスキーの小さな烏眼くろめの中で、瞬間、チラと焔のようなものが燃えた。
「あまり大きな声をしないでください。……政変ポリーチカ……この巴里に、まもなく、たいへんな政治的擾乱ブールヴェルスマン・ポリチックが起きるのです。……その結果、この地区カルチェなどは相当辛辣に検索されるにきまっていますから、先生のような方がこんなところでマゴマゴしていてはいけないのです。外国人エトランジェが好んでこんなところに住んでいるなどというのは、その目的は何であれ、充分、疑惑の眼で眺められる余地があるのだから、先生の出ようによっては、ひどく困ったことにならないものでもありません。……ところで、先生の出ようってのは、それこそ、今ここで、充分察しられるのですからねえ。れいの鼻っ張りの強さで、だれかれかまわず喰ってかかられるにちがいないのです。刑事であろうと、巡査であろうと、まるっきり見境いがないんだから。……腹を立てれば、どんな出鱈目でも言うでしょうし……」
 冗談どころではなかった。
 この瘠せこけた、沈んだ顔色をした青年は、どういうゆえんによってか、石亭先生の馬鹿げた自尊心をそこなうことのない、もっとも聡明な方法で、当然、先生にひどい厄災やくさいもたらすであろう危険な地区カルチェから、それとなく追い立ててくれたのだった。
 とてもとぼけているわけにゆかなくなり、われながら、少しばかりムキになって、
「すると、あなたは、つまり、石亭先生を……」
 と、心からなる感謝の意を述べようとすると、カラスキーは手を挙げて、
「その後はおっしゃってくださらなくてもけっこうです。格別、何をしたというわけでもないんだから。……先生に対するわたしのひそかな尊敬と友情が、陰ながら、いくぶんでも、先生のお役に立ったとしたら、それに越した喜びはありません」
 そう言って、ゆっくりと両足を踏み伸して、背凭のとれかかった古い籐椅子の中に沈み込むようにしながら、
「……わたくしもね……私もむかし、モスクヴァで、ベイエの道徳社会学を勉強していたことがあります。結局、ものにならなかったことは、この風体をごらんになればおわかりになるでしょうが。……ああ、しかし、あの頃の生活は私の生涯にとって、いちばん楽しい時代でした。……辛い勉強の間にも、私はいつも希望と理想に守護されておりましたし、また田舎には、年とった母がまだ生きていた。大試験テルムが済んで田舎へ休暇に帰って行く、その楽しさといったらありませんでした。長い野道の向うに、私の家が見えかかってくると、私は、嗚咽おえつを止める力さえなかったほどでした」
 カラスキーの頬に、ほのかな血の色がさし、その眼は、じかに何か好もしい風景にでも触れているような、一種恍惚としたかげの中に沈み込んだ。
「……わたしの田舎は、ドニエープル河のそばのザパロージェというところにあるのです。河の名前ぐらいはお聞きになったことがあるかもしれない。ウクライナの南のほうです。……夏が近くなると、野生の雑草が繁った茫漠ぼうばくとした草原の中に、数限りない花が咲乱れています。高い草を押し分けるようにして、連翹れんぎょう色のオローシカが咲いている。黄金色のえにしだが三角形の頭を突き出し、白い苜蓿うまごやしが点々と野面のづらを彩っています。……鷓鴣しゃこが飛び出す、鷹がゆるゆると輪を描く。……夕方になると、湖から飛び上った白鳥の列が、銀の鈴を振るような声で鳴きながら北のほうへ渡って行く、その羽根に薔薇色の夕陽が当って、薄暗くなった空の中を、赤いハンカチでも飛んでるように見えるのです。……アンドリュウのお祭になると、村々が湧き立つような騒ぎになる。蜜餠メウドウイチだの、罌粟餠マアコニックだの、油揚餠パンプウシキだの、ふとった牝山羊の肉や、古い蜂蜜。……大きな樺の樹の下で、古いザパロージェ人の老人としよりたちがパンドーラを弾きながら火酒ウオトカを飲んでいる。その楽しそうなようすといったら!……たしかにそんな時代もあった。……夢ではない。たしかに、むかしあったことだ。……しかし……」
 と、いいかけて、急に夢から醒めたような顔つきになって、チラとこちらへ振返ると、軽い恥の色で、高い頬骨のうえをほんのり染めながら、
「……つまらないことを。……なんのつもりで、こんなことを喋舌しゃべり出したのか。……今日は、すこし、どうかしている。私が、こんなふうに情緒的になると、その後、きまって熱を出すのです。さァ、ずいぶん喋舌くった。もう、このくらいにしておきましょう」
 と、いって、椅子の中に身体を起すと、上衣の衣嚢ポーシュから古風な時計をひき出して眺め、
「おお、もう九時だ。……実はね、今日、九時半になると、非常臨検ラッフルがあるはずなんです。そろそろお帰りにならないと、うるさいことになる」
 食堂の方を振返って見ると、なるほど、海象モールスのような顔をした主人のほか、ひとりの人影もなかった。
「ご心配には及びません。ヴィエットの市門ポルトのところまで私が送ってって差上げます」
 市門ポルトを出ると、カラスキーは、骨ばった手でこちらの手を握って、
「では、ご機嫌よう。どうぞ、ムッシュウ・ヤマカワによろしく」
 呟くような声でそう言って、軽い咳をしながら舗道の闇の中へ紛れ込んでしまった。

      三

 山川石亭先生が、けたたましくドアを叩く。どうもうるさい先生だ。ブツブツ言いながら扉を開けると、石亭先生が右手に号外を鷲掴みにして、顔じゅう眼ばかりのようにして飛び込んで来た。
「どうも、えらいことが始まりました」
「あなたのえらいことには聞き飽きましたよ」
「冗談じゃない、大事件だ。大事件だ。……ゴイゴロフがズーメ大統領を暗殺したんです。……ああ、こんな事ってあるもんだろうか。わたしは、たいへんな衝撃ショックを受けて、一時は茫然としてしまったんです」
 号外をひったくって、斜に飛び読みしてみると、だいたい、こんなことが書いてあった。

(六日午後三時大統領ポール・ズーメ氏は、ロスチャイルド会館で開催中の大戦出征作家絵画文芸展覧会を訪問中、一露西亜人の暗殺兇行の犠牲になった。兇漢はピストル三発を直射。大統領は一弾を頭部に、二弾を肩部に受け、ただちにポオジョン病院に収容されたが、なにぶんにも七十四歳の高齢なので、生死を危まれている。犯人は、カラスキー・ゴイゴロフと称する白系露人で、仏国政府に労農政府が干渉せず、ボルシェビキ排撃を決行しないことに深い不満を抱き、仏蘭西首脳者に危害を加えたものと解せられる)
 石亭先生は、頸まで真っ赤にしていきり立ちながら、
「いったい、なんの必要があって大統領なんかを殺すんです。仏蘭西の大統領なんぞは、外国のほうを向いて立っている、一種の社交の人物にすぎないんだから、そんなものを殺してみたってなんの役にも立ちゃァしない。実際あの気狂い野郎のやりそうなこってすよ。馬鹿々々しいにも程がある。……あの面相にしてからが、典型的な悖徳狂の型モーラル・インサニティ・タイプ[#「悖徳狂の型」は底本では「悸徳狂の型」]で、ああいう乖離かいり性素質のものこそ、こういう傾向的犯罪を犯しやすいんです。ああいう種類のやつの非人情、残忍性ときたら、とても常識で律するわけにはゆかんのですからねえ」
 なるほど、先生のような見方もあるだろう。カラスキーが先生に贈ったひそかな友情については、それを先生に告げる意志は毛頭なかったが、それはそれとして、少しばかり先生を困らしてでもやらなければ、虫がおさまらぬような気持になってきた。
「ねえ、先生、カラスキーがあなたをどこへ誘ったって言いましたっけね」
「サン・トノーレ街です」
「あなたは、サン・トノーレ街に大統領官邸パレエ・ド・レリゼがあることをご承知でしょうね」
「えッ」
「つまり、カラスキーは、あなたを大統領暗殺のお先棒に使うつもりだったのですね、こいつァどうも際どかったですナ。ノソノソ後を喰っついてでも行ったら、否応なしに断頭台ギヨチーヌの上から巴里にさよならを言わなければならないところでした」
 石亭先生は、咽喉の奥で、うるる、と妙な音を出すと、壁際までよろけて行って、そこで、ドスンと尻餠をついた。





底本:「現代日本のユーモア文学 6」立風書房
   1981(昭和56)年2月28日第1刷発行
底本の親本:「久生十蘭傑作選3[#「3」はローマ数字、1-13-23]」教養文庫、社会思想社
初出:「オール讀物」
   1939(昭和14)年12月
入力:佐野良二
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月20日作成
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