昆虫図

久生十蘭




 伴団六は、青木と同じく、大して才能のなさそうな貧乏画かきで、地続きの古ぼけたアトリエに、年増くさい女と二人で住んでいた。
 青木がその裏へ越して以来の、極く最近のつきあいで、もと薬剤師だったというほか、くわしいことは一切いっさい知らなかった。
 職人か寄席芸人かといったように髪を角刈かくがりにし、額を叩いたり眼をいて見せたり、ひとを小馬鹿にした、どうにも手に負えないようなところがあって、これが、最初、青木の興味をひいたのである。
 細君のほうは、ひどく面長な、明治時代の女官のような時代おくれな顔をした、日蔭の花のような陰気くさい女で、蒼ざめたこめかみに紅梅色の頭痛膏を貼り、しょっちゅう額をおさえてうつ向いていた。吉原にいたことがあるという噂だった。
 どういういきさつがあるのか、思い切ってない夫婦で、ときどき、夜半よなかごろになって、すさまじい団六の怒号がきこえてくるようなこともあったが、青木の前では、互いに猫撫で声でものを言い合っていた。
 十一月のはじめ、青木は東北の旅から帰り、その足で団六のアトリエへ訪ねて行くと、団六はめずらしくせっせと仕事をしていた。
 日本間のほうを見ると、いつもそこの机にうしろ向きになって、牡蠣かきのようにへばりついている細君の姿が見えないので、どうしたのかとたずねると、病気で郷里くにへ帰っているのだといって、細君の郷里の、船饅頭という船頭相手の売笑婦の生活を、卑しい口調で話しだした。
 十日ほどののち、いつものようにブラリとやって行くと、団六は畳のうえにひっくりかえって、しきりに手で顔をあおぐような真似をしている。青木が入って来たのを見ると、
「てへ、こりゃ、どうです。どだいひどい蠅で、仕事もなにも出来やしねえ。人間も、馬のように尻尾があると助かるがな」
 といって、妙なふうに尻を振って見せた。
 なるほど、ひどい蠅だ。
 壁の上にも硝子天井にも、小指の頭ほどもある大きな銀蠅がベタいちめんにはりついていて、なにか物音がするたびに、ワーンとすさまじい翅音はおとをたてて飛び立つのだった。どこからこんなに蠅が来たのだろう。季節は、もう十一月だし、すぐ地続きの青木のアトリエには、蠅などは一匹もいなかった。
「天井裏で、鼠でも死んでるんじゃないか」
 というと、団六は、
「ああ、そうか。そんな事かも知れねえな」
 と、呟きながら、キョロリと天井を見上げた。
 一週間ほどしてから、また出かけて行くと、アトリエの周りには、乳剤のむせっかえるような辛辣しんらつな匂いが立ちこめていた。
 蠅は一匹もいなかった。しかし、今度は蝶々だった。
 紋白や薄羽や白い山蛾が、硝子天井から来る乏しい残陽に翅を光らせながら、幾百千となくチラチラ飛びちがっている。そこに坐っていると、吹雪の中にでもいるような奇妙な錯覚に襲われるのだった。
 青木は、家へ帰ると、女にいった。
「団六のところへ、こんどはたいへんに蝶々が来ている。行って見ろ、壮観だぞ」
 女は、暢気のんきな顔で見物に出かけて行ったがしばらくすると、青い顔をして帰って来て、
「嫌だ。あんな大きな蛾って見たことがない……脂ぎって、ドキドキしていた」
 と、気味悪そうに眉をひそめた。その夜半やはん、身近になにか人の気配がするので、ハッとして頭をあげて見ると、女が、大きな眼をして青木の枕元に坐っていた。
「……あたしの郷里くにでは、人が死ぬとお洗骨さらしということをするン。あッさりと埋めといて、早く骨になるのを待つの。……埋めるとすぐ銀蠅が来て、それから蝶や蛾が来て、それが行ってしまうとこんどは甲虫がやってくるン」
 二、三日、はげしい野分が吹きつづけ、庭の菊はみな倒れてしまった。落栗が雨戸にあたる音で、夜ふけにたびたび眼をさまされた。
 ある夜、青木はかわやに立ち、その帰りに雨戸を開けると、その隙間から大きな甲虫が飛び込んで来て、バサリと畳の上に落ちた。青木はギョッとして思わず、縁側に立ちすくんでしまった。
 五日ほどののち、団六のところで将棋をさしながら、青木が、フト畳の上を見ると、乾酪チーズの中で見かけるあの小さな虫が、花粉でもこぼしたように、そこらいちめんウジョウジョと這い廻っていた。
 いま二人が坐っている真下あたりの縁の下で、何かの死体蛋白たんぱく乾酪チーズのように醗酵しかけていることを、はっきりと、覚った。
(〈ユーモアクラブ〉昭和十四年八月号発表)





底本:「日本探偵小説全集8 久生十蘭集」創元推理文庫、東京創元社
   1986(昭和61)年10月31日初版
   1989(平成元)年3月31日4版
初出:「ユーモアクラブ」
   1939(昭和14)年8月号
入力:川山隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月12日作成
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