平賀源内捕物帳

長崎ものがたり

久生十蘭




          朱房銀※(「木+霸」、第3水準1-86-28)しゅぶさぎんづか匕首あいくち

 源内先生は旅姿である。
 旅支度と言っても、しゃらくな先生のことだから道中合羽に三度笠などという物々しいことにはならない。薄茶紬うすちゃつむぎ道行みちゆきに短い道中差、絹の股引に結付草履ゆいつけぞうりという、まるで摘草にでも行くような手軽ないでたち。茶筅ちゃせんの先を妙にへし折って、儒者じゅしゃともつかず俳諧師はいかいしともつかぬ奇妙な髪。知らぬ人が見たら医者が失敗しくじって夜逃よにげをする途中だと思うかも知れない。
 源内先生は高端折たかはしょり。紺の絹パッチをニュッと二本突ン出し、笠は着ず、手拭を米屋こめやかぶりにして、余り利口には見えないトホンとした顔で四辺あたりの景色を眺めながらノソノソと歩いて行かれる。雨でも降ったらどうするつもりだろう、それが心配である。
 尤も、先生一人ではない。しもべを伴に連れている。
 先生は世話好きとでもいうのか、親に棄てられた寄辺よるべのない子供や、身寄のない気の毒な老人を、眼につき次第誰彼かまわず世話をする。福介ふくすけもその一人で、今から五年前、出羽の秋田から江戸へ出て来て、かかるつもりの忰や娘に先立たれ、知らぬ他国で如何どうしようもなくなって、下谷したや御門前ごもんぜんで行倒れになりかけているのを気の毒に思って連れ帰って下僕しもべにした。この世の実直を一人占めしたような老僕の福介。こちらは足拵あしごしらえもまめまめしく、大きな荷を振分にして、如何にも晴れがましそうに、また愉しげにイソイソと先生のうしろに引添って来る。
 竹藪続きの山科やましな街道。
 竹藪の向うの農家からときどき長閑のどか※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)にわとりの声が聞える。
 江戸を七月二十日に発ち、先年江戸へ上るとき世話になった駿河本町するがほんまち二丁目、旅籠屋はたごや菱屋与右衛門ひしやよえもん方へ先度せんどの礼かたがた三日程泊り、八月二十四日に京都へ着いて山科やましな三井八郎右衛門みついはちろうえもん四季庵しきあんでまた三日ばかり、引止められるのを振切ってこれから大阪へ下ろうという都合つもり
 大阪には、先年長逗留の間、先生の創見にかかわる太白砂糖たいはくざとうの製法を伝授して大いに徳とされ、富裕ふゆう物持ものもちの商人に数々の昵懇がある。
 先生が江戸へとうとする時、生涯衣食のご心配はかけませんからどうぞ大阪にお止まりを、と言って皆々袖を引止めた程だったから、今度また先生が大阪へ下ったと知ったら、誰も彼もと押寄せて下にも置かぬ款待もてなしをするにちがいない。先生にしたってそれは嬉しくない筈はないので、本来ならばもう少し浮々うきうきしてもよかるべきところを、見受けるところ先生のおもてには一抹の憂色があって、トホンとした中にも何処どこか屈託あり気な様子が見える。
 源内先生の憂悶ゆうもんの種はこんなことだった。
 宝暦ほうれき二年、二十一歳で長崎に勉強をしに行った時、長々寄泊きはくして親よりましな親身な世話を受けた本籠町もとかごまち海産問屋、長崎屋藤十郎ながさきやとうじゅうろうの妹娘のとりというのが、江戸日本橋小網町こあみちょうの廻船問屋港屋太蔵みなとやたぞう方へ嫁に来ていて、夫婦仲もたいへんにむつましかったのだが、このお盆の十五日、ひわという下女を連れて永代へ川施餓鬼かわせがきに行った帰途かえりみち、長崎で世話になった唐人あちゃさんが、今、江戸へ上って来ているから、一寸、挨拶をして来ると言って、新堀町しんぼりちょうで女中を返し、自分ひとりで神田和泉町いずみちょう陳東海ちんとうかい仮宅かりたくへ訪ねて行ったところ、どういういきさつがあったのか、陳に殺されてしまった。
 六ツ半といっても、夏のことだからまだ明るい。
 陳東海の仮宅の垣根の隣が伊草乙平いくさおつへいといううたいの先生の家で、向うにも二十坪ばかりの庭があり、向うの梅の枝が垣根を越してこちらへ張り出し、隣の渋柿がこちらの庭に落ちるといったぐあい。垣根とは名ばかりで一つ庭のようなもの。
 乙平は気骨の折れる士勤さむらいづとめをして肩を凝らすより、いっそ謡でも唱って気楽に、と自分から進んで浪人したくらいの芯からの江戸人。箱根を越えたことがないのが自慢なくらいなのだから、仮宅にもせよ垣根の隣へ唐人が越して来たのを気味悪がって、生来の潔癖から垣根の方へも寄らないようにしていた。
 丁度六ツ半頃、庭にたらいを出させてはぎあいだ行水ぎょうずいを使っていると、とつぜん隣の家で、きゃッという魂消たまぎえるような女の叫び声が聞え、続いて、
「あ痛っッ、……陳さん、あなた、何で、あたしを、こんな目に……。あれえッ、どなたか、どうぞ……」
 ともえになって争っているような激しい足音がして、
「……どなたかッ、……どなたかッ……」
 と、言っているうちに、女の声は段々かすかになる。
 乙平は捨てて置けなくなったので、手早く身体を拭いて帷子かたびらを引掛け、刀を掴み取る暇もなく素跣足すはだしのまま庭へ飛び下り、黒部の柴折戸しおりど蹴放けはなすようにして隣の庭へ飛び込んで行った。
 沓脱石くつぬぎいしから一足飛びに座敷の中へ入って見ると、眼も当てられぬ光景になっていた。
 落してまだ間があるまい。眉の跡が若葉の匂うよう。薩摩上布さつまじょうふに秋草の刺縫ぬいのある紫紺しこんの帯を町家まちや風にきちんと結んだ、二十二、三の下町の若御寮わかごりょう
 余り見馴れない、朱房のついた銀※(「木+霸」、第3水準1-86-28)の匕首で左の肩胛骨かいがらぼねの下のあたりを深く突刺されたまま、左脇を下にして鬢を畳に擦りつけ、
「あッ……、たれか、助けて、ちょうだい……たれか、はやく。……死にたくないから。……あなた、あなた……」
 それでも膝を乱すまいとして両膝を縮め無心に裾をかばっている。哀れなので。
 乙平は一目見て、これは、もういけないと思った。気儘から謡の先生などをして暮しているが一廉ひとかどの心得のある武士だから、なまじい生命をかばおうと狼狽うろたえまわるより、今のうちに聞くだけのことを聞いて置く方がいいと思ったので、左腕を背へ廻して女の上身を引立て、膝でそっと支えてやって、
「お内儀ないぎ、お内儀、何をこれしきの傷。死にはしないから、気を確かに持ちなさい」
「は、はい……」
 薄ッすらと眼を開けたが、すぐまた、がッくりとなるのを引起すようにして、乙平、
「弱ッちまッちゃいけない。それじゃ亭主に逢えんぞ。ッかりしなさい」
 亭主という声が届いたのか、起上ろうと両手を泳がせながら、
「だい、じょうぶ……」
「おう、元気が出たな、物が言えるか」
 うなずいて、
「い、言えます」
「殺したのは誰だ」
「……陳東海……」
「この家の主人だな」
 また、こッくりと頷いて、
「……ふすまの向うから、あたしが挨拶しますとね、襖を明けてお入りッて言いますから、何の気もなく、襖を明けますと、どうしたというのでしょう。陳さんが朱房のついた匕首を振上げて、喰いつくような顔付で襖のすぐ傍に仁王立ちになッているンです。……あたし、あッと驚いて、逃げ出そうとすると、追かけて来て、いきなりうしろからこんなひどいことを……」
「何か恨みを受ける覚えでもあるのか」
 もう精が尽き果てたのか、見る見るうちに顔が真ッ白になって、小網町、廻船問屋、港屋太蔵の妻、鳥と答えるのがようよう。後は何を訊いても頷くばかりだった。そのうちに手足に痙攣ふるいが来て、吃逆しゃっくりをするような真似をひとつすると、それでことぎれてしまった。
 乙平が番屋へ訴え出、番屋から北番所きたへ。
 時を移さず、与力小泉忠蔵こいずみちゅうぞう以下、控同心神田権太夫かんだごんだゆう。それからお馴染のお手付御用聞、土州屋伝兵衛、引連れて出役。
 手を尽して調べて見たが、格別乙平の訴えより変ったところもない。陳東海はお鳥を突刺して置いて自分は勝手口から飛出して行ったものらしい。その形跡ははッきりと残っている。もう一つは手口が少しちがう。日本人なら突ッ通すかえぐるか、この二つのうちだが、傷口を見ると、遠くからでも匕首を打込んだような、しゃくッたようなようすになっている。
 殺された当人がはッきりと陳東海だと言ったのだから、これ程確かなことはないわけで、その日の夜遅く、同じく唐通詞とうつうじ八官町はっかんちょうに住んでいる林明斎りんめいさいの宅へ立廻ったところを難なく捕縛された。
 陳東海は、宝暦の初めごろから唐船の財副ざいふくになって交易のため幾度となく長崎に来、宝暦十一年から明和二年迄の四年の間、長崎の唐人屋敷に住んでいた。その年の春、急に故郷の浙江県せっこうけんへ帰り、二年置いた明和五年の春、また長崎へやって来たが、たいへんに日本語がたくみなので長崎奉行から唐通詞を依頼され、古川町ふるかわちょう闕所屋敷けっしょやしきを貰ってそこに住んでいた。
 陳東海は浙江県寧波ニンパオの大金満家の次男で、学士の試験に落第してから志を変えて交易に身を入れるようになった。尤も、それとても半分道楽のようなもので、日本の景物に親しむのが主な目的だった。たいへん日本の風儀を好んで、寧波ニンパオにある自分の家は日本風の二階造りにして畳を敷き、日本の膳椀食具ぜんわんしょくぐを使い、烹調料理ほうちょうりょうりの品味もすべて日本の儘にやっていた。
 家柄のある家に生れたので眉目秀麗びもくしゅうれいで、如何いかにも貴公子然としており、立居振舞も鷹揚で、また品がよく奥床おくゆかしかったから、己惚面うぬぼれづらをした美男の評判のある長崎の小小姓こごしょうなどは足元にも寄れぬくらいだった。
 何と言っても、通詞という官位を持っているのだから番屋調べをするというわけには行かない。伝馬町の揚屋あがりやに入れて手酷てきびしく調べ詰めたが、どうしても自分が殺したとは言わない。
 丁度その時刻には、自分は市村座いちむらざで芝居を観ていたという。芝居茶屋へ訊いただして見ると、来た時刻も帰った時刻もちゃんとウマが合っている。
 茶屋へ入って桟敷さじきへ通ったのが正午ひる過ぎの八ツで、茶屋を出たのが終演はねる少し前の五ツ半。如何にも眼立つ服装なりをしているのだし、多分に祝儀をはずんだので、茶屋でははッきりと覚えていた。
 しかし、桟敷で身装みなりを変えて小屋抜けをするぐらいは造作もなく出来ることなのだから、これだけでは嫌疑が晴れようわけはなく、揚屋あがりやにそのまま留められたが、陳東海は、誰か自分によく似た男が自分に成澄なりすましてこんなことをしたのに違いないと言張って、どうしても承服しないのだった。
 源内先生の気を沈ませるのはこのことなのである。
 お鳥の姉婿あねむこ、つまりお鳥の義兄が商用で長崎から大阪へ上り、いま川口の宿にいる。お鳥が陳東海に殺されたことはもう早文はやぶみで届いている筈だが、又もや出尻伝兵衛に引張り出されてこの事件に立合った関係上、義兄あにの唐木屋利七にお鳥の無残な最期の様子さまを物語らなければならないことが情けない。利七は義妹のお鳥を自分の血を分けた妹のように可愛がっていたのだから、どんなにか悲しむかと思うと、気が滅入って思わず足の歩みものろくなる。日頃軽快洒脱な源内先生が山科街道の砂埃を浴びながらトホンとした顔で歩いていられるのは、こういう次第に依ることだった。


          唐館蘇州庵とうやかたそしゅうあん竹倚チョイ

 大阪、川口の賑い。
 菱垣番船ひしがきばんせん伏見ふしみ過所船かしょぶね、七村の上荷船うわにぶね、茶船、柏原船、千石、剣先けんさき麩粕船ふかすぶね
 ともを擦り、ふなべりを並べる、その数は幾百艘。ほばしらは押並び押重なって遠くから見ると林のよう。出る船、入る船、積荷、荷揚げ。沖仲仕がわたり板を渡っておさのように船と陸とを往来ゆききする。
 岸には大八車にべか車、荷駄にだの馬、負子おいこなどが身動きもならぬ程に押合いへし合い、川の岸には山と積上げられた灘の酒、堺の酢、岸和田の新綿、米、ぬか藍玉あいだま灘目素麺なだめそうめん、阿波蝋燭、干鰯。問屋の帳場が揚荷の帳付ちょうつけ。小買人が駆廻る、仲買が声をらす。一方では競売せりが始まっていると思うと、こちらでは荷主と問屋が手をめる。雑然、紛然、見る眼を驚かす殷賑いんしん
 源内先生と福介はこの大混雑にあッちから押されこッちから突かれ、揉みくちゃになりながらようやく通り抜け、利七の常宿になっている津国屋喜藤次つのくにやきとうじかどへ辿りつく。
 源内先生、さすがに魂消たまげたような顔で、
「福介や、どうもえらい騒ぎだな。ここまで辿りつくのが命がけだった。まご/\すると踏みつぶされてしまう」
「初めて見る大阪の繁昌。上方の人は悠長だと聞きましたが、それは真赤な嘘。わたくしは頭を三つばかりも叩かれました」
「いやはや、どうも」
 道行の皺を引伸ばしながら土間へ入り、長崎の唐木屋利七が泊っている筈というと、女中は怪訝な顔して内所へ入って行ったが、間もなく主人の喜藤次きとうじが出て来た。
 上框あがりがまちに膝をついて、
「ようお越しやす。……へえ、唐木屋さんは如何にもわたくしどもへ泊っておいででござりますが、先月の十五日に庭窪にわくぼの蘇州庵たらいうところへ行くといやはりましてお出掛けになッた切り、かれこれもう四十日近くにもなるのだすが、今以いまもってお帰りなさりまへんので、わたくしどもでもご案じ申上げておるのでござります。お荷物は一切そのままになっておりますによって、どうでもそのうちにお帰りになるものと存じます。尤もな、おちになる時、ひょっとしたら大津の方へ廻るやも知れんと、そう仰言ってでござりましたゆえ、多分、そッちゃの方へでもお廻りになったのかと存じますが……」
 と言って、帳場の状差をゆびさし、
「ごらんの通り、長崎やお江戸から赤紙付やら早文はやぶみやらあの通り仰山ぎょうさんに届いておりますんだすが、当の唐木屋さんの行先がわからんことだすさかえ、どうしようもござりませんで、ああしてわたくしどもでお預りしてあるのでござります。……あなたさまも、あの、やッぱり長崎の方から、……」
「いや、わしは江戸から来たのだが、一寸ちょっと利七さんに所用があってお寄りしたようなわけだッたんだが、居ないというんじゃどうしようもない。先月の十五日に出たッ切り帰らない人をここで何時いつまでも待っているわけにもいくまいから、ちょっと一と筆書残して行くことにしよう」
 源内先生は、矢立と懐紙を取出して筆を走らせているうちに何を思ったか筆を止め、自分の額を睨め上げるようにしながら何事か熟思する体だッたが、急に唸るような声で、
「うむ、こりゃいかん。よもやとは思うが、ことによればことによる。ひょっとすると……」
 わけの判らぬことをひとりでグズグズ言っていたが、主人の方に膝を向け変え、
「唐木屋が出て行くとき何か変ったことでもありませんでしたかな」
 主人は、みこめぬ顔で、
「へえ、格別、変ったこともござりませなんだが。……朝の四ツごろ使屋つかいやが封じ文を持って来まして、唐木屋はんはそれを読むと、急にこうつウい顔付にならはりまして、間もなくそそくさとお出かけになられましたが……」
 源内先生は、セカセカと立ち上って、
「ご亭主、わしはな、急な用事でちょっと出かけて来るから、わしの荷物とこの供を預って貰います。では、ちょっと」
 挨拶をするのももどかしそうに前のめりになって津国屋の門を飛出して行った。
 それから二刻ふたときばかり後、源内先生は淀川堤に沿った京街道を枚方ひらかたの方へセッセと歩いて行く。何か余程気にかかることがあると見えて、時々思い出したようにブツブツと独言ひとりごとをいうかと思うと、急に立止って腕組をする。見るさえ気の重くなるようなようすである。
 一面の萱葦原かやあしはらで長雨の後のことだからところどころ水浸しになり、葦の間でむぐっちょが鳴いている。
 川の向うにはゆるい丘の起伏がつづき、吹田すいた味生みしょうの村々を指呼しこすることが出来る。
 源内先生は、堤の高みへ上り手庇てびさしをして、広い萱原かやはらをあちらこちらと眺めながら、
先刻さっき、聞いたところでは、もうそろそろ蘇州庵というのが見えねばならぬ筈だが、ただ一面、茫々の萱葦原。一筋道だから道に迷う筈もないのだが」
 と、呟いていたが、それからまた一丁ばかり堤の上を歩いて行くと、赤松林の向うに緑青色ろくしょういろ唐瓦とうがを置いた棟のった支那風の建物が見えて来た。のき風鐸ふうたくをつるし、丹塗にぬりの唐格子のはまった丸窓があり、舗石の道が丸くッた石門の中へずッと続いている。源内先生は、
「おッ、あれだな」
 と呟きながら、呆気あっけに取られてその方を眺めていたが、
杭州こうしゅうから福県ふくけんのあたりを荒し廻った海賊の五島我馬造ごとうがまぞうが隠居所に建てた唐館だそうだが、それにしても酔狂にも程がある。どちらを見ても葦ばかり、一向眺めとてもないこんな湿地に何のつもりであんなものを押ッ建てたのだろう。海賊なんてえものは変ったことをするものだ」
 と、独言をいっていたが、急に首を振り、
「いやいや、そうじゃない。堤を越えるとすぐ淀川。まわりに人家とてもないのだから、どんな芸当でも出来そうだ。夜にまぎれて上荷あげに船で密貿易の品を運び上げ、よくないことでもしていたのに違いない。……それはそれとしても、唐木屋利七は、一体、何のためにこんなところに用があッたンだろう。そんな男とは見えなかったが、何と言ってもあいつの商売は支那物なのだから、あんな顔をしてこッそり抜買をしていたのかも知れん。して見ると、おれの見込はまるッきり大外れになるわけだが。まア、しかし、こんなことを言ッてたってしようがない。……間違いなら間違いでもよろしい。折角ここまでやって来たんだから、兎も角、内部なかへ入って見ることにしよう」
 口措くちおかずにぶツくさ言いながら堤を下りて赤松の林を通抜け、舗石道について丸い石門の中へ入って行く。
 人が住まなくなってからもう余程になると見え、舗石の間からは雑草が萌え出し、屋根から墜ちて砕けた緑色の唐瓦が、草の間に堆高うずたかく積んでいる。石の階段きざはしは雨風に打たれて弓状ゆみなりに沈み、石の高麗狗こまいぬは二つながらごろりと横倒しになっている。
 蔓草は壁に沿ってのきまで這上り、唐館は蜻蛉とんぼ羽蟻はありの巣になっていると見えて、支那窓からばったや蜻蛉がいくつも出たり入ったりしている。どこもかしこもおどろおどろしいばかりに荒れ果てゝいるうちに、唐櫺子とうれんじの朱の色だけが妙にあざやかで、如何にも不気味である。
 源内先生は格別気にもならない風で、今迄の急込せきこみ方と反対に、今度はいかにものんびりと石の階段を踏上ふみのぼって行く。
 喜字格子きじごうしの戸を押して中へ入ると、館が厚い石造のところへもって来て窓が小さいから部屋の隅々が澱んだように暗い。
 入ったところは玄関の間といった体裁で、床一面に蓆籘シットが敷詰めてある。次の押扉おしどを押すと部屋かと思いのほか長い廊下になっていて、その両側に交互たがいちがいに部屋の扉がついている。
 たぶん隠し天窓でもあるのだろう、何処から来る光か知らぬが、暗い筈の廊下が遠くまでぼんやりと薄明るくなっている。
 源内先生は、克明に一つずつ扉を引開ひきひらいては部屋を覗いて歩く。寝室のような部屋があるかと思うと、化粧の間とでもいったような、玻璃はりの大鏡が無残にこわれた床に墜ち散っている部屋もある。朱と金でいろどった一抱ひとかかえほどもある大木魚もくぎょが転がッているかと思うと、支那美人を描いた六角の彩燈が投げ出してある。
 段々進んで行くと、これで最後かと思われる手広い部屋があって、壁に「蘊藉詩情水雪椀おんしゃしじょうすいせつのわん高間画本水雲郷こうかんのがほんすいうんのきょう」と書いた聯が二つ懸かっている。
 源内先生は、うッそりと聯の文字を読んでいたが、何気なくヒョイと闇溜やみだまりになった部屋の隅の方へ眼をやると、何か余程怖いものを見たとみえ、日頃そう狼狽うろたえたところを見せない源内先生が、
「おッ、これは!」
 と叫んで、三、四歩入口の方へ逃出した。
 葬儀でもした後と見え、祭壇をこしらえた一段高いところに作付つくりつけの燭台に蝋燭が燃え残り、床の上には棺に供えた団子トワンツーや供養の金箔紙ターキン白蓮花びゃくれんげの仏花などが落ち散って無残に踏躪ふみにじられている。
 祭壇から三間程離れた部屋の隅に一脚の竹倚チョイが置いてあって、その上に一人の男が朱房のついた匕首あいくち深く背中に突立てられたまま胸の上にがッくりと頭を落している。
 唐館の中は夏でも膚寒いほどの涼しさだが、殺されてから余程時日が経つと見え、肉はすッかり腐り切って、触ったらズルズルと崩れ落ちそう。左側のびんの毛が※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみから離れて皮膚をつけたまままげもろとも右の横顔へベッタリと蔽いかぶさっている。
 源内先生は、入口に近いところで中腰になったまま、怯々おずおずとこの物凄い光景を眺めていたが、間もなく何時ものような落付いた顔付になり、ノソノソと死骸の方へ戻って来て、
「案の定だッた。江戸でお鳥の殺されたのが七月の十五日。……津国屋の主人おやじから利七が同じ七月の十五日に手紙で誘い出されたまま帰って来ないということを聞いた時、利七はもうこの世のものでなかろうと予察したが、矢張りおれが見込んだ通りだった。……どうも、気の毒なことをした。こんな破寺やれでらのようなところで、こんな姿態ざまで殺されたんでは利七だって浮ばれない。……おれがやって来なかったら、この先、幾年こんな惨めな恰好で放ッて置かれるか知れたもんじゃない。これも矢ッ張り縁のある証拠。……南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。町人にしては濶達ないい気性の男だッたが、惜しい男を死なせてしまった。お前がこんなざまで死んだと聞いたら、お種さんは涙の壺を涸らすこッたろう。江戸ではお鳥さんが陳東海に殺されるし、その同じ日に、お前がこんなところで殺されている。唐商売からあきないなんぞに手を出すからこんな目に逢うのだ。……なア、利七さん、一体、お前を殺したのは誰なんだね、などと訊ねたって、お前に返事の出来るわけはないが、お前だッて生きている間は性のある男だッたから、幽霊にでもなって出て来てどうかおれに教えてくれ。むかし世話になった恩返し、きッとおれがかたきを取ッてやるから、なア、利七さん」
 さすがの源内先生も、余り無残な有様に哀れを催したと見え、死骸の肩に手を掛けんばかりにして諄々くどくどと説いていたが、そうしようという気もなく、利七の死骸を眺め廻しているうちに、ちょっと不思議なことに気が附いた。
 左手は、だらりと床の方へ垂れ下っているのに、竹倚チョイの腕木にのせた右手の人差指が何事かを指示すように三尺ばかり向うの床の一点をゆびさしている。
 指されたあたりを源内先生が眼で辿って行くと、床に敷いた油団ゆとんの端が少しめくれ、その下から紙片のような白いものが覗出のぞきだしている。源内先生は、頷いて、
「さすがは、利七さん、つまり、あれをおれに読めと言うんだね。よしよし、待っていなさい。いま読んでやるから」
 生きている人間に言いかけるようにそう言って置いて、油団の上に膝をつき、その下から四つに折った小さな紙片を引出した。
 懐帳面ふところちょうめんの紙を引裂いたのらしく、丈夫な三椏紙みつまたがみで、たぶん血であろう、端の方にべッとりと赤黝あかぐろ汚点しみがついている。

わたしを殺した者は、長崎、古川町に住む、唐通詞とうつうじ陳東海と申す者にて候、七月十五日手前家内お種との古き因縁事に就き、是非共談合、らちを明け度き事有之これあるにつき庭窪にわくぼの蘇州庵迄出向くようとの書状を受け、捨置き難き事に候間申越せし儘其処へ出向き候、蘇州庵に着き候頃は早や五ツ半にて、月の光を頼りに唐館の奥へ進み行き候処、此部屋より燈火が漏るるに依り、戸を引開け候に如何なる次第なるや、戸口のところに陳東海が朱房の附きたる匕首を振翳ふりかざして立ちはだかり居るなれば、余りの理不尽に手前も嚇怒かくど致し、何をすると叫びながら組付行くに、そのあおりにて蝋燭の火は吹消え、真の闇となり、皆目見当も附かぬ事なれば壁際に難を避けんとする処、陳は手前の背後より抱付だきつきて匕首を突刺し其まま何処いずくへか逃去申候にげさりもうしそうろう、たいへんなる痛手にて最早余命幾許いくばく無之これなく存候ぞんじそうろう、この様なる所にて犬畜生同様名も知れぬかばねさらすこと如何にも口惜しく候まま、息のあるうちに月の光を頼りに一筆書残し申候、右にしたためし條々実証也
長崎本籠町もとかごまち 唐木屋利七

 源内先生は、窓の傍で繰返し巻返しそれを読んでいたが、また利七のそばへ戻って来て、
「確かに拝見しました。……でもね、利七さん、あなたの見違いではなかッたのかね。陳東海は確かに江戸にいるのみならず、同じ日の同じ頃、江戸でお鳥さんを殺している。江戸から大阪迄は百五十里の道程みちのり。江戸で人を殺している人間が同じ日の同じ頃に大阪で人を殺せるわけのものではない。どうもあなたの見違いだッたと思うほかはない。さもなければ、陳東海に双生児ふたごの兄弟でもあって、二人で諜合しめしあわせてッたことかも知れない。しかし、何であるにせよ、必ずわたしが追詰めてあなたとお鳥さんの敵を取ッてあげますから、それが供養だと思ってどうか成仏してください。ねえ、利七さん、あなたのこつはあたしが長崎迄抱いて行ってあげますから」


          盂蘭盆うらぼんの夜の出来事

 検屍やら骨上こつあげやら葬式やらと、福介と二人で何から何迄仕切ってやってのけ、大阪で初七日を済まし、奉行所の手続きもすっかりえてから、詳しく事情を認めて江戸の伝兵衛のところへ早飛脚はやびきゃくを立てた。
 江戸と大阪で同じ日の同じ刻に同じ唐人がそれぞれ二人の人間を殺したというので、これがたいへんな評判になり、何処へ行ってもこの噂ばかりだッた。
 どう考えても有りようもないことだが、江戸ではお鳥がはッきりと陳東海だったと言い、利七の方も、紛れもなく陳東海だときッぱりと書残している。死ぬ間際に益もない作りごとをする筈もないのだから、二人の申立は事実だと信ずるほかはない。
 理窟から言うと、そんな馬鹿なことが、と頭からけなしつけることも出来るが、そうとばかり簡単に片附けられぬ節もある。えらそうには言って見るが宇宙の輪廻の中では人間の智慧などはどの道多寡たかの知れたもので、世の中には理外の理というものがあって、一見、どうしても不可能としか見えぬことも、方法を以てすれば実に造作なくやって退けられるのかも知れぬ。
 あの日以来、七日の間、先生は暇さえあれば津国屋の離座敷はなれざしきで腕組をして考えていたが、今度ばかりはどうしても事件の核心をくことが出来ない。こんなところで何時までも首を捻っていたッてどうにもならないことなので、長崎迄の船の中でとッくり考えようと肚を決め、未解決のまま利七の骨箱を抱いて九月四日に津港つみなとから長崎行の便船に乗込んだ。
 冬とちがって風待かざまち凪待なぎまちもなく、二百里の海上を十一日で乗切り、九月十七日の朝、長崎に到着した。
 船は神崎の端をかわして長崎の港へ入る。
 長崎の山々は深緑を畳み、その間に唐風からふう堂寺台閣どうじだいかくがチラホラと隠見いんけんする。右手の丘山おかやま斜面なぞえには聖福寺せいふくじ崇徳寺すうとくじの唐瓦。中でも崇福寺すうふくじの丹朱の一峰門が山々の濃緑からぬきん出て、さながら福建ふくけん浙江せっこうの港でも見るよう。
 出島でじまに近い船繋場ふなつきばには、和船に混って黒塗三本マスト阿蘭陀オランダ船や、ともの上った寧波ニンパオ船が幾艘となく碇泊し、赤白青の阿蘭陀オランダの国旗や黄龍旗こうりゅうき飜々ひらひらと微風になびいている。
 山々のたたずまいも港の繁昌も、十七年前と少しも変らない。何もかもみな思い出の種で、源内先生は、深い感慨を催しながら舷側にって街や海岸を眺めていたが、そのうちにくびに下げた骨箱に向って、
「さあ、利七さん、長崎へ帰りました。ここはあなたの生れ故郷。さぞ懐かしいこったろう。いや、口惜しく思いなさるだろう。生きて帰れる身が唐人づれの手にかかってこんな姿になってしまったんじゃ、あんたも口惜しかろう。間もなくお種さんに逢わせてあげますが、こういうあなたの姿をお種さんが見たらどのように歎くかと思い、それがつらくてなりません」
 福介も、悲しそうな顔をして、
「また愚痴になりますが、わたくしめらもせがれや娘に先立たれ、その辛さは骨の髄まで知っております。いきなりこんな姿をごらんになったら、まあ、どのような思いをなさることやら」
「役にも立たぬ繰言を繰返していたってしようがない。どうやら船繋ふながかりも済んだようだから、そろそろ上陸の支度をしなさい」
 迎いの小艀サンパンに乗移って陸へ上り、そこから真直に本籠町もとかごまちへ行く。
 長崎屋藤十郎の門まで行くと、十二間間口のなかばまで大戸をおろし、出入りする人の顔付もひどく沈み切って、家の様子も何となく陰気である。
 源内先生は、福介をうしろに従えて土間へ入り、名を告げて案内を乞うと、間もなく奥から蹌踉よろけ出して来た、長崎屋藤十郎。
 昔は藤十郎の恵比須顔えびすがおと言われたくらいの肉附のいい福々しい顔が、こうまで変るかと思われるようなやつれ方。額には悲しみの皺を畳み、頬は痛苦のかんな削取けずりとられ、薄くなッた白髪の鬢をほうけ立たせ、眼は真ッ赤に泣き腫れている。腰を曲げ、おこりにかかったようにブルブルと両手を震わせながら、よろぼけよろぼけ、見る影もないようすで上框あがりがまちまで出て来て、そこへべッたりとへたり込むと、
貴君あんた、平賀さまですと。ああ、夢のごたる。ほんとのこツと思われんと」
 と言って、両手を顔にあてて泣き出した。
 源内先生は、平素の無造作に似ず、叮嚀ていねいに頭を下げて、
「早いようでも、数えればもう十七年。わたくしもまるで夢のような気持がいたします。四季のお便りに、いつもお元気の体を拝察してよろこばしく存じておりましたが、いつもご健勝で何より。その節はいろいろとお世話に相成りまして有難うございました。この度はご縁あってまた当地へまかり下りましたが、なにとぞよろしく」
 藤十郎は、はいはい、と頷くきりで泣くのを止めない。
 思うに、江戸からお鳥の変死の報知が届き、それで一家中が悲嘆の涙に沈んでいるのであろう。そういう折にまた娘婿のこの哀れなさまを見せ、その無残な死にざまを話さねばならぬと思うと、先生もいささか辛すぎて身を切られるような心持がする。我ともなく首に掛けている骨箱を道行の袖で蔽い隠すようにしながら、
「お見受けするところ、何か非常なご不幸でもあッたようす。お支障さしつかえなければ、どうかこの源内に……」
 藤十郎は、片手で涙を抑えながら、
「はいはい、申上ぎょうですが、こぎゃんとこではお話も出来ませんけん、さあ、どうかあッちへ……」
 福介を土間の床几ばんこに残して、見世庭みせにわから中戸なかどを通って奥座敷へ導かれてゆく。
 のきには尾垂おだれと竹の雨樋が取付けてあり、広い庭に巴旦杏はたんきょうやジャボン、仏手柑ぶしゅかんなどの異木が植えられ、袖垣そでがきの傍には茉莉花まつりか薔薇花いけのはななどが見事な花を咲かせている。
 座に着くと、藤十郎は膝の上へ顔を俯向けながら、
「わたしのような、こぎゃん不幸者はから天竺てんじくまで捜したッてまたとあろうたア思われまッせん。同じ日の同じ刻に江戸と長崎で姉娘と妹娘が唐人あちゃめらの手にかかってあやめられるなンて、そぎゃんことが、この世にあり得ることでッしょうか」
 源内先生は、ひえッと息を引いて、
「まあ、ちょッとお待ちください。いま伺っていますと江戸と長崎で同じ日の同じころに姉娘と妹娘が、と仰言いましたが、すると、何んですか、お種さんの方にも何か間違いが……」
 藤十郎は、頷いて、
「そン通りでございます。姉娘のお種も同じ七月十五日の盂蘭盆うらぼんの夜、古川町闕所けっしょ屋敷で唐通詞の陳東海に匕首で脊骨の下を突ッぽがされて死んでしまいました」
 先生は思わず膝を乗出して、
「それは、ほ、ほんとうのことですか」
「わたしが何ンの虚言そらごとを言いまッしょうか。本当しょうのことでござります」
「陳東海が殺したと誰が言いました」
「お種がじぶんの口から申しました」
くどいようですが、確かに、陳東海だと言いましたか」
「そン通りでございます」
「それを聞いたのは誰でしたか」
「このわたしでござります」
 同じ七月の十五日、江戸と大阪と長崎で三人の男女が同じ人間に同じ方法で殺害された。
 庭窪の蘇州庵で無残な利七の死にざまを見たとき、何等かの方法でやれぬこともないと思い、また、ひょッとしたら陳東海の双生児ふたごの兄弟が諜合しめしあわせてやったことかとも考えていたが、ここに到っては源内先生も唖然となるほかはない。
 源内先生は究理学者だから魔法の妖術のということは絶対に信じない。この世の万事はすべて物理に依って支配されているのであって、それを無視した超自然の事などはあり得よう筈がないが、しかし、何と言っても、不思議は不思議。歴史始まって以来、このような奇異な殺人が行われたことはまだ聞かない。
 源内先生は、吐息をついて、
「いや、どうも驚き入ったことです。この世にそんなことが現実に行われようとも思われませんが、しかし、何と言っても事実は事実。わたくしにも少々考えがありますから、どうか一切の次第をお包み隠しなく仰言っていただきとうございます」
「とうてい公然けんたいに申されんはずかしかことですばッてん、今迄は誰にも申したことがござりませんでしたけンが、かくなる上は何事も明瞭ささくりと申上げまッしょう。……今から八年前のことでございました。お種が十七の時、お諏訪さまの踊子にいたしましたが、その年の九月、ちょうど夏船が二十九艘一時に着き、桜町の箔屋はくやが例年の通り桟敷さじきを造って船頭や財副ざいふく客唐人きゃくとうじんを招いて神事踊ば見せたのでござりました。……その中に陳東海がまじッておッたのですけんが、そン節お種を見染め、手紙に添えて指輪ゆびがねやらビードロの笄簪かみさしやら金入緞子きんいりどんすやら南京繻子なんきんじゅすやら、さまざまの物ば一生懸命せいだして送ってまいります。申すまでもなく唐人あちゃさんと堅気きんとうの娘が会合さしあうことは法度でござりますばッてん、お種も最初はなのうちは恐ろしかと思い、わたしに隠して一々送り返していたとですが、お種はちっと早熟者はやろうのところへ、向うは美しか唐人あちゃですけん、何時いつの間にかほだされて悪戯わるごとばするようになりました。間もなく船発ふなだちになり陳は寧波ニンパオへ帰ってしまいました。お種のつもりではほんの遊びごとのつもりで、それなり忘れてしもうておったとでござりますばッてんが、陳は翌年の夏船でまたもややって来まして、お種と以前の情交なかになろうとさまざまに辛労する体でござりましたが、そン時はもう利七と婚約やくそくが出来ておりましたけんに、お種の方では見返る気もなく、素気素法すげすっぽうな返事をしましたので、そるけんで陳は悄々しゅんしゅん帰って行きました。これで断念あきらめるかと思いのほか、また翌年の夏船でやって来て、ひちくどく纏いつきますけん、お種も腹を立て、云分いいぶんつくる気なら勝手にしなされ、あんたごたるひとはもうええらしかとも何ンとも思っておりまッせん。もうあッちのとこへ来らッしゃんな、ときッぱりと拒絶けんつきいたしました。その秋にお種は利七のところへ輿入こしいれいたしましたが、陳はそれでも断念あきらめ兼ねたと見えまして、それから足掛三年唐人屋敷かんない居住いすんでおりましたが、さすがに気落らくたんして、何時の間にやら音沙汰なしに帰ってしまいました。……それからまた二年おいた一昨年おととしの秋、ひょッくりやって参りまして、そン節の詫言かねごとをさまざまにいたし、お種さんの婿殿むこどん唐木からき商売あきないをしておるというのであッたら、寧波ニンパオの自分の山に仰山ぎょうさん唐木があるによって、欲しいだけ元価もとねで積出させまッしょう、と申します。利七もッと喜んで以来陳と友達同士のようになって暮しておりました。以前のことはわたしと陳とお種の三人の腹におさめ、生涯無かったことにすると約束をいたしました。何もかも済んだこととばっかり思うておりましたところ、思いもかけないこぎゃんむごたらしい始末になったとでござります。それにしても、お種だけならいざ知らず、とがもゆかりもないお鳥まであやめてしまうとは、何たる非道か奴でござりまッしょうか。鬼というてもこうまで残忍むごかことはいたしますまい」
「いや、よく解りました。それで、お種さんは一体どんな風にして殺されたのですか」
「最初に見つけましたのは古川町の火の番なのでござりますげな。通詞は江戸へ上ってい、留守居もおらぬ筈の闕所屋敷からチラチラと灯が見えますけん、悪漢いたろうでも入込んでいるのかと思うて調べに入りますと、お種が脊中に朱房のついた唐匕首からあいくちを突刺されて俯伏せに倒れております。吃驚びっくりして乙名おつなの宅へ馳付はせつけ、乙名からわたしどもへ知らせがありましたけん、動顛して駈付けて見ましたれば、お種はまだ虫の息で、あッちを殺したのは陳ですけんで、是非しゃッちかたきば取っておくんなしゃい、と申しました。細かしく訊ねますと、陳が江戸へ上る日、お種に申すには、あんたから貰うた手紙がわたしの居間の箪笥の中にひとくくりにしてあるけん、盂蘭盆の夜の五ツ半頃、みなが焔口供えんくぐ法会ほうえに唐寺へ行った頃を見澄ましてそっと取りに来い、ということで、お種もかねがねそればッかり気に病んでおッたのでしたけんに、約束通り、唐人あちゃがみな寺へ上った頃出かけて行って陳の居間へ入り、燭台の蝋燭に火を点して見ると、誰もいないと思った闇の中に、陳が朱房のついた匕首を振上げて物凄い顔で突ッ立っております。そるけんで、お種は仰天してバタバタと廊下まで走出したところ、陳が背後うしろから追付いて無残に匕首で突刺したのだと申しました」
 源内先生は、口を挟まずに聴いていたが、藤十郎が語りおわると、今迄自分のうしろに差置いてあった骨箱を藤十郎の膝の前に据え、
「さぞ、お驚きのことと思いますが、し隠して置くわけにはいきません。利七さんは、大阪でこんなことになッてしまいました。月も日も刻も同じ七月の十五日の夜、庭窪の蘇州庵というれ唐館で同じように朱房の匕首で背中を後から突かれて死んでおりました」
 聞くより、わッと泣き出すかと思いのほか、藤十郎は、眼を繁叩しばたたきながら、頷いて、
「案の定、やッぱり利七も。……江戸と長崎で二人があやめられた以上、どッち道、利七も助かる筈はないと、ッくに覚悟を決めておりました。……これが利七でございますか。可愛いや可愛いや、何ンの罪科つみとがもないお前までこんな姿になってしもうた。何ンでわたしも殺さんのでッしょう。そうしたら、いっそ楽しかるべきを」
 ホロホロと、膝へ涙を落した。


          銀燭台の蝋燭の灯

 翌日の九月の十二日は諸聖祭トドロス・サントスの日で、蘭人は死蘭人しらんじん墓詣はかまいりをし、天守堂に集まって礼拝する。
 十五日は阿蘭陀八朔オランダはっさくの日で、甲必丹カピタンは奉行所を訪問して賀詞がしを述べ、それから代官、町年寄などの家を廻って歩く。蘭館では饗宴の席を設け、奉行並に奉行所役人、通詞つうじ出島乙名でじまおつな、その他友人、蘭館出入りの者を招いて盛な酒宴を催してこの日を祝う。
 甲必丹カピタンもヘトル役も外科医も、皆、江戸で懇意にしておったので源内先生も招かれてその祝宴に連ることになった。
 先年いろいろ世話になった大通詞の吉雄幸左衛門よしおこうざえもんや通詞の西善三郎なども招かれて来ていて、参府の折の本草会の話なども出たが、先生の胸中には悲哀の情と佶屈きっくつの思いがあるので、どうしても気が浮立たない。
 そのうちに食卓開始の合図の鐘が鳴って、一同の後につづいて食堂に入ると、食卓ターブルの上には銀の肉刺ハーカレーブルが美しく置かれ、花を盛った瓶をところどころに配置し、麺麭ブロートを入れたかご牛酪容ホートルいれなどが据えられてある。
 最初にすっぽん肉羹スープが出、つづいて牛脇腹うしわきはら油揚コツレツ野鴨全焼ローチという工合に次から次に珍味佳肴かこうが運び出される。阿蘭陀オランダ料理は源内先生の最も好むところで、このような珍味を食い葡萄酒を飲みながら植物学者ヤコブスの如き高足こうそくと談笑することは、この世での最上の愉快とするのだが、思うまいとしても蘇州庵の竹倚チョイで殺されていた利七の無残な姿やお鳥の哀れな死顔、また藤十郎の悲歎にやつれたようすなどがチラチラと眼に泛び、何を喰べても何を飲んでも一向に味がわからない。気がついて見ると何時の間には肉刺ハーカを置いて我ともなく愁然と腕組をしている。
 隣の吉雄幸左衛門よしおこうざえもんが見兼ねたものか、どうなすった、だいぶお顔の色が悪いようだが、と囁いたが、それにもちょっと頭を動かして頷いたばかり、返事をする気にもなれない。
 源内先生は、じぶんが目睹もくとしたところと藤十郎から聴いた事実をあれこれと照し合せ比べ合せ、頭の中でしきりに結んだり解いたりしていたが、そのうちに、冬の夜明けのような極く漠然とした希望の光が頭の中へ射込さしこんで来た。
 源内先生は、思わず膝を叩いて、
しめたッ、これでどうやらようすが判って来た」
 と、頓狂な声で叫び立てると、急に談笑を止めてびッくりしたような顔で、こちらを眺めている一同に会釈しながら、
「甚だご無礼ですが、実以じつもっんどころない急用を思い出しましたから、中座をさせていただきます。その代り、このお詫びとして、後日ある場所へご案内いたし、不思議なものをごらんに入れて各位の心魂をお驚かせ申すつもりでございます。……それにつきまして甚だ申訳がありませんが、提灯がありましたら借用ねがいたい」
 と言って、提灯を借受けると、スタコラと出島の蘭館を出て行った。
 福介は、先生が余り物事に凝り過ぎて、とうとう気がれてしまったのだと思った。昼は芭蕉扇を腹の上にのっけて夕方まで眠りつづけ、とッぷりと日が暮れると、蝋燭やら物差やら縄梯子やら、何に使うのか得体の知れぬ雑多なものをひと抱えにして長崎屋を飛出して行き、夜がほのぼのと明けるころ、着物に鈎裂をこしらえ身体中蜘蛛の巣だらけになってがッかりとつかれて帰って来る。
 こんなことが五日程つづいた後の朝、何時になく大元気大満悦の体で帰って来て、
「福介や、とうとう鬼唐人きとうじんのからくりを看破みやぶってくれた。ひとを馬鹿にしやがッて、実にどうも飛んでもない野郎だ。こういう風にぎゅッと尻尾を押えた以上は、いくらジタバタしたってもう逃しっこはない。伝馬町の獄門台へ豚尾とんびのついた梟首さらしくび押載おしのせてやるから待っておれ……何を魂消たまげたような顔でおれの面を見ている。今夜はお前にも面白いものを見せてやるから、今のうちに昼寝でもしておいたらよかろう」
 そう言って、机に向って忙しそうに短い手紙を幾つも書き出した。
 長崎奉行宛に一通、与力同心衆一同として一通、甲必丹カピタンオルフェルト・エリアス殿並に館員御一同として一通、吉雄幸左衛門宛に一通、西善三郎へ一通、手早くしたためて使者つかいに持たせて出してやり、朝食をおわると下帯一つになって芭蕉扇で胸のあたりを煽ぎながらぐっすりと寝込んでしまった。
 とっぷりと日が暮れてから悠々と起出して衣服を替え、藤十郎と福介を連れて長崎屋を出る。
 福介は心配して、
「先生、これからどちらへ」
 先生は、うるさそうに首を振って、
「煩くいうな、来て見りゃアわかるさ」
 と、にべもない。
 行着いたところが古川町の闕所屋敷、唐通詞陳東海の宅だった。
 まるで自分の家ででもあるように横柄な顔で玄関からズカズカと奥へまかり通る。
 そこは陳東海の居間とおぼしく、三十畳程の広々とした部屋で、床には油団ゆとんを敷詰め、壁には扁額へんがくや聯を掛け、一方の壁に寄せて物々しいまでに唐書とうしょを積上げてある。書箱のかたわらに紫檀の書卓と椅子があって、その下に見事な豹の皮が敷いてある。
 机の上には銀の燭台が造付けになっていて三分の一ばかり燃え尽した支那蝋燭が差込まれている。
 部屋の中には奉行始め出島乙名、甲必丹カピタンオルフェルト・エリアスと館員一同、与力と同心が五人ずつ、吉雄幸左衛門、西善三郎、案内を出した人は一人も洩れなく先着していて、何事が始まるのかといった顔付で思い思いのところへ控えている。
 源内先生は、藤十郎と福介を下座の席へ置き、一同の前に進んで一礼してから、
今夕こんせき、ここへお集まり願ったのは、他のことでもありません。既にお聴き及びのことでございましょうが、同じ七月の十五日に、江戸、大阪、長崎とこの三つの場所でそれぞれ三人の人が殺され、その三人はじぶんの加害者が陳東海だと申立ております。諸兄のご思惟しいにありますように、人間として江戸と大阪と長崎で同日同刻にそれぞれ三人の人間を殺すなどということが出来得べき筈のものではない。これには何か必ず手段がなくてはならぬのであります。思うに、陳東海は何のためにこのようなことを企てたかと申しますと、恐らくこういうことではなかったかと思うのであります。つまり、絶対に不可能と思われる一連の殺人を行い、相相殺あいそうさいせしめて、証拠が不充分の故を以て己の無罪を飽迄も主張しようとする意図に出たものでありましょう。くだいて申しますと、仮に江戸の殺人を認めたとすれば、大阪と長崎の殺人は陳東海の所為ではないということになる。また仮に、長崎の殺人は認めたとすると、江戸と大阪の殺人に対しては陳東海は無罪であります。この三つの事件を相殺させると、結局、陳東海はこの事件の下手人としての確実さが失われるわけで、証拠不充分の故を以て陳東海を釈放するほか道はないのであります。実にどうも綿密なことを考え出したもので、然らば陳東海なる者は極めて警抜けいばつな才を持った人間だという他はありません。……では、どんな方法で陳東海がかような奇ッ怪超自然の殺人を行ッたのかと申しますと、からくりをあばいて見れば、実にもう子供騙こどもだまし同然の仕掛。わたくしが冗々くだくだと申しますより、実地についてお眼にかけた方が早道と思いますから、それをごらんくだすって、適当なご判断をお下しねがいましょう」
 そう言って、たずさえて来た支那蝋燭を入念に物差で測り、適当な長さに切縮めると、それを机の上に造作つくりつけた燭台の上に立て、まわりの灯火あかりことごとく吹消してから、支那蝋燭にゆっくりと火を点した。
 一同、固唾かたずを呑むうちに、忽然と一方の壁の面に現出してきた人の姿!
 朱房のついた匕首を振上げ、今にも襲いかからんとするように凄まじい形相でこちらを睨んでいる陳東海の姿だった。
 そのうちに微々とろとろと蝋燭が燃え縮まり、掻消すように壁の姿はなくなって、また暗黒の部屋に返った。
 源内先生は、蝋燭を吹消して以前のように灯火を点け、
「ご説明申上げるまでもなく、あれなる壁の面にレンズが一つ嵌込はめこまれてありますが、蝋燭の火があのレンズの中心を通過する高さにまで燃え縮まってきますと、蝋燭の火はレンズを透してその後にある鏡に焦点を結び、その光はそれと相対の位置に据付けてある幻燈フロ種板たねいたとレンズを透して反対側の壁に像を結ぶという他愛のない仕掛なのであります。蝋燭の火がレンズの中心を通りまする時間はほんの六、七秒の間のことで、それより蝋燭が燃え縮みますと絶対に壁の上には像は結びません。この仕掛と蝋燭の火の関係がわからなければ、永久にこの秘密を看破ることは出来なかったのであります。しかし、幻燈の像は人間を殺害することは出来ませんから、利七とお種に直接の兇刃きょうじんを加えた者は、あらかじめ暗闇に潜んで待っていた二人の共犯者であって、壁の像が消えるのを待構え、それがあたかも陳東海が飛掛かったように思わせながら背後から突刺したものに相違ありません。申すまでもなく大阪庭窪、蘇州庵の場合も、この長崎の場合と同じ仕掛がしてあったと申上げるのは蛇足に過ぎるうらみがありましょう」
 源内先生は、そう言うと、満面に得意の微笑を泛べながら一座の人々に軽く一揖いちゆうした。





底本:「日本探偵小説全集8 久生十蘭集」創元推理文庫、東京創元社
   1986(昭和61)年10月31日第1刷発行
   1989(平成元)年3月31日4版
入力:川山隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について