一
……それは、三十四五の、たいへんおおまかな感じの夫人で、大きな蘭の花の模様のついたタフタを和服に仕立て、黄土色の
眼も、鼻も、口も、りっぱで、大きくて、ゴヤの絵にある
ところで、この新しい隣人は、たいへんに横暴なの。こういっていけなければ、たいへんに我ままです。越してきてからまだ十日にもならないのに、葉書で、(それが、いつも速達なの!)いろいろな苦情を申し込んで来ます。
最初は、ブリキを引っかくような音が耳についてしようがないからなんとかしてくれ、と書いてよこしました。
ブリキを引っかくような音! ……お父さまが
でも、ああいうお父さまのことですから、葉書をごらんになると、その日のうちに、
お兄さま。
あなたが、戦地から帰っていらしても、あんなに可愛がっていらした
これですむのかと思ったら、こんどは
ブラヴォ! すこし、お驚きになって? ところで、
きのうの朝、あたしがお部屋で本を読んでいますと、花壇のほうで草でも
こんなことって、あるもんでしょうか!
お夕食の時、あたし、思い切っておたずねして見ましたの。
すると、お父さまは、
「お隣りのかたが、塀の上からチラチラ花がのぞいて
と、おっしゃいますの。
お父さまのなすったことですから、だれも異議は唱えませんでしたが、勇夫兄さまだけは、黙っていたくなかったと見えて、
「外国には
と、いいました。隆男兄さまが、
「くだらん、放っておけ」
と、いわれなかったら、もっとひどいことをいい出しかねないようなようすでしたの。
お兄さまたちはお兄さまたちとして、あたしにはあたしのやり方ってのがあるわけなの。隆男兄さまのご意見には関係なく、あたしは、これからお隣りの
この始末については、今晩またくわしく御報告いたしますわ。
二
いくども
しばらくポーチにたたずんでいましたが、いつまでたっても、なんの音沙汰もないので、留守なのだろうと思って、あきらめて帰りかけると、うしろで、カチッと掛け金がはずれる音がして、二寸ばかりあけた
皮膚の薄い、すき透るように色の白い、上品な
あたしが、おどけた顔で失敬をして見せますと、少年はつり込まれてニッコリと笑いましたが、すぐまた、悲しげにさえ見える真面目な顔つきになって、じっとあたしを瞶めています。
もう一度、笑わせて見たくなって、両手を耳の上にあててヒョコヒョコうごかしながら『兎さん』をやりますと、少年は、だまってあたしの道化を眺めていましたが、自分もこんなことをしていいのかといったような臆病なようすで、そろそろと両手を耳のところへ持って行って『兎さん』の真似をしました。
あたしが、のんきな声で、
「お母さま、おるす?」
と、たずねますと、少年は、扉口にもたれて、靴の
「ママ、
「おやおや、ねえやさんもいないの」
「誰れもおりませんの。ボク、ひとり」
そういうと、急に顔を伏せて、泣くまいとでもするように、ギュッと唇を噛むんです。
「あなた、おいそがしいのでしょうか」
と、あたしに、たずねますの。あまり大人くさいいいかただったので、あたしは
「いいえ、いそがしいってほどでもありませんわ。……どうして? お坊っちゃん」
すると、少年は、女の子のような、小さい美しい手をおずおずとあたしの腕に
「……おいそがしく……ありませんでしたら、……どうぞ、遊んでいらして、ちょうだい。……でも、……あなた、ボクのような子供と遊ぶの、つまらないかしら」
「まるっきり、反対よ、お坊っちゃん。……でも、だまってお邪魔したりして、お母さまに、叱られはしないかしら」
少年は、腕にかけた手に、せい一杯に力をいれて、
「だいじょうぶ! ママは『リラ・ブランさん』といっしょですから、あすでなければ帰って来ないの。……リラ・ブランさんというのはね、ママのお友達で、ヴァイオリンを奏くひとなの。……お酒に酔うと、いつも、『リラ・ブラン』という歌をうたうの。そして、お前なんか見たくない。あっちへ行け、小僧! っていうの。……パパも、むかし、そうだったけど……」
少年は、熱にうかされたように、口をおかずにしゃべりつづけながら、グイグイと手をひいてピアノが置いてある大きな部屋につれ込むと、あたしを長椅子の上に押しつけ、じぶんもチョコンと並んで坐って、
「ぼく、ほんとうに、うれしいの!……ボク、これで、まる三日もひとりきりでしたから」
おどろいて、あたしが、たずねました。
「ひとり、って、
「ええ、誰れもいませんの。ボクひとり。……ママは
「ねえやさんもいないとしたら、あなた、御飯なんか、どうなさるの」
少年は、なんだそんなこと、というふうに、
「ママが、
なるほど! たいしたもんですわね!
こういうのが
あたしは、胸の底から
「もう、お帰りになりますの?……ボクの話、たいくつなのね?……ボク、面白い話をしますから、もうすこしいてちょうだい。きっと、面白い話をしますから……」
急いで話を探し出そうと、あわてふためきながら、しどろもどろな声で、
「……あのね、……それは、ええと、……油絵の
あたしの鼻の奥を、なにか、えがらっぽいものがツンと刺します。あたしは、あわてて手を
「ほんとに、楽じゃない、そんなふうなら!
少年は、大きなためいきをついて、
「よかった、ボク。……では、まだ、遊んでいってくれますね」
「ええ、いつまででも!」
少年は、うれしそうにコックリすると、急に、
「お嬢さん、ボク、お願いがあるんですけど」
「ええ、どんなこと?」
「ボクに、お菓子のつくりかたを教えて、ちょうだい。ボク、絵だけはたくさん切り抜いてあるんですけど、どんなふうにしてこしらえるんだかわからないの」
といいながら、ポケットから小さな
少年は、うっとりと、それを眺めながら、
「ボク、じぶんで、こんなお菓子がつくれたらどんなにいいかと思いますの。時間がつぶせますし、それに、衛生的ですものね。……ボク、いちどお砂糖とメリケン粉を交ぜて喰べて見たの。でもどうしても、お菓子のようではないの」
あたしは、この少年がかわいそうでたまらなくなって、やるせなくなって、思わず、大きな声で怒鳴ってしまいました。
「そんなことなら、わけはありませんわ、お坊ちゃん!」
「あなた、ごじぶんで、お菓子、おつくりになれますの?」
「ええ、どんなものでも!……なにがいいかしら?」
「ボクが、じぶんでつくれるような、やさしくて、
「では、
少年は、椅子から
「あの、
「ええ、そうよ!」
「ああ、思い出した! パパがいたとき、ボク、一度食べたことがある!」
「
「ああ、乾葡萄まで!」
「よろしかったら、
「それ、ボク、食べるのね!」
「ええ、そうよ、お坊ちゃん。あなたが召しあがるのよ」
「ああ、ボク、ボク……」
少年は、もう、どうしていいかわからないといったふうに、長椅子の上をコロコロと転げ廻るのです。
「さあ、すぐ始めましょう。お料理場へ連れて行ってちょうだい。それから、あなたもお手伝いなさいね。あとで、ごじぶんでつくれるように」
料理場は長い廊下の端にありました。ひと目見ただけでこの
あたしは、テンピの中と調理台の上を手早く掃除すると、少年に白い
あたしが、
「コックさん、メリケン粉をください」
すると、少年は、えッちらおッちら食器棚へよじのぼってメリケン粉の鑵をとりおろし、
「はい、メリケン粉」
「その次は、お砂糖」
「はい、これがお砂糖」
「
「はい、
「……がまんしましょう。おつぎは、卵です」
どうしたのか、返事がありません。ふり向いて見ますと、少年は、向うむきになって、壁に額をおっつけて、じっと立っています。
「おやおや、どうしたんですの、コックさん」
肩へ両手をかけて、こちらへ振り向けて見ますと、少年は、長い
「……卵、ありませんの。……お菓子、できませんね。……ボク、もう、いいの、あきらめました」
あたしは大きな声で笑い出しました。……おやおや! ところで、どうやらあたしも泣いているようなんです。
「お坊ちゃん、だいじょうぶよ。
人差し指の先で、涙の玉をすくってやって、あたしが、そういいますと、少年は、急に元気になって、
「ああ、ボク、助かった。……じゃ、すぐ帰って来てね。どうぞ、一分で帰って来て、ちょうだい」
「すぐ帰ってきますわ。……きっちり、一分でね!」
料理場を飛び出すと、まるで
粉を
テンピの
「
と、大きな声で、別れを告げるのでした。
ジュウジュウと
ところで、もう、間もなくできあがるというころになって、とつぜん、門のところで自動車の停まるような音がしました。
少年は、ビクッとして、きき耳を立てていましたが、転がるように窓のところへ行って
「ママ、……ママが帰って来た!……早く、ここに隠れて、ください」
お兄さまも、そうお考えになるでしょう? あたしには、べつに隠れなければならないようなわけはありません。あたしはきょう傍若夫人に逢いに来たのですから、帰ってきたというなら、ちょうど幸いです。ボクさんのことも
それで、あたしは、そういいました。
「あたしたち、べつに悪いことをしていたわけではないでしょう。あたくしから、よくお話しますわ」
少年は、泣き出しそうな顔になって、
「いいえ、いけないの。あなたは何もごぞんじないんです。そんなことをしたら、あとで、ボクほんとに困るんですから。……ほらほら、こっちへやってくる……」
少年は、気がちがったようになって、すぐそばの
「どんなことがあっても、ボクを助けに来ないって、約束してちょうだい」
腹が立ってたまらないけど、しょうことなしに、渋々、こたえました。
「ええ、お約束してよ。つらいけど、あなたのおっしゃるようにしますわ、お坊ちゃん」
「つらくとも、どうか、そうしてね。……ボク、うまくママを向うへ連れてゆきますから、そうしたら、あの勝手口から逃げていって、ちょうだい。ボク、あすの朝早く、そっと
あたしがその小部屋の
息をつめながら、暗闇の中で耳をすましていますと、こんな会話がきこえます。
――ボクちゃん、ここで何してた?
――ボク、遊んでた。
――おや、たいへん、いい匂いがすること!
――ママ、ボクお菓子をつくってたの。ママをびっくりさせてあげようと思って。
――これは、
――ええ、ママ。
――嘘おっしゃい。……誰れが来たの?……この家へ誰れもいれてはならないはずだったでしょう。もう、忘れたの?
――つねっちゃ、痛い!……ああ、そんなにひどくすると痛いから……。
――早くおっしゃいね。
――
――ほんとうですね。
――ええ、ほんとうです。
――そんなら、『誓約』をしたらゆるしてあげます。……やってごらんなさい。
――「ボク、ママ、だいすきです。パパはいけないひとで、ボクを……」
――立って『誓約』するひとがありますか、ちゃんと、床の上へ膝をおつきなさい。
――はい、ママ。……「いけないひとで、ボク、パパのところへ一生帰りません。もし、パパが来たら……」
――どうしたの、そのあとは?
――「ボク、パパ嫌いだと大きな声で、……いって……いってやります」
――忘れないようになさい。パパが来たら、きっと、そういってやるのよ、いいわね。
――ええ、きっといいます。……ママ、ボク、
――いけません。あなたには、ちゃんと黒パンが買ってあります。
――では、半分だけ……。
――うるさくいうと、いつかのように、口の中へお雑布を詰め込んであげてよ。いいから、もう、こっちへいらっしゃい。
お兄さま。あなた、あたしをほめてくだすっていいはずよ。あたしは、我慢して、とうとう飛び出さなかったのですからね。そのかわり、夢中になって、じぶんの腕をつねっていたので、そこんところに大きな
二人が料理場を出て行きますと、あたしは、泥棒猫のように、地べたに腹を
三
お隣り寄りの、
ほの暗いうちに起きだして、そっとお台所へおりて行って、しきりにゴトゴトやります。ゆうべのうちに
それができ上ると、ナプキンに包んで膝の上に置き、お台所の椅子に腰をかけて、時間になるのをじっと待っています。
窓がほの白くなり、小鳥がチチと鳴きだす。やっと四時半。まだ、三十分もあります。この三十分が経つのを、あたしは、痩せるような思いで待っています。……
お兄さま。これは、鎮子姉さまからうかがったのですけど、世間では、たしかに、利江子夫人のほうがすこしひどすぎるといっているそうです。
ボクさんのお父さまは、学者肌の緻密な頭を持ったひとで、光学の精密器械をつくる大きな製作所を持っていらっしゃるんですって。
鎮子姉さまのいい方を借りますと、やはり、機縁とでもいうのでしょうか。音楽などで、じぶんの頭をうっとりさせる必要のない
ところが、もうそのころ、利江子さんの身辺によくない噂が霧のように立ち迷っていたので、そのお友達は責任を感じて、加勢を
波動力学の計算ならば、だれよりも正確にやってのけるという久世氏なんですが、家庭設計の基礎算出のほうはあまりお上手ではなかったと見えます。
それこそ、ちょうど火と水ほども性格のちがうご夫婦だったのです。久世氏のほうは、すこし一徹なところのある、ちょっと例のないほど几帳面な、腹の底からの
ひる近くまで、ぐったりと寝台の中に沈んでいて、夕方になると、急に
久世氏は事務所から帰ると、女中の給仕で、ひとりで味気のない食事をなさらなければなりません。でも、沈着なかたですし、その時、もうボクさんも生まれていたので、こんな
利江子夫人は、侮辱を感じて離婚の訴訟を起こし、たいへんな
利江子夫人は、かんしゃくを起こして、そのしかえしに
お兄さま。あなたはどうお考えになりますか。こういう醜い大人の争いのために、人なつこい、温順な魂がムザムザ犠牲にされていいものなのでしょうか。
ボクさんは、じぶんが、どんなひどい事情の中に生きているのか、ちゃんと知っています。小さな心では、とても処理し切れないようないろいろな悲しさに、じっと耐えてゆこうとする
ここまで書いたところで、
……そんなふうにして、ジリジリしながら待っているうちに、ようやく時計が
間もなく、
穴から這い込んでくると、あたしの胸に、山羊のように、むやみに頭をおっつけたり、草の上にあおのけに寝ころんで足をバタバタさせたり、さんざんにあばれるのです。あたしも負けず劣らずにその辺をころげ廻ります。言葉では、とても二人のよろこびを表現することできないようなんです。
ぞんぶんに暴れると、ようやく落ち着いて、できるだけより添って坐ります。
「キャラコさん、ボク四時ごろから目を覚ましていましたの。いくども時計を見たか知れないの」
「ボクさん、そうなのよ、あたしもそうなの」
そういいながら、手早く草の上にナプキンをひろげます。サンドイッチが、白と朱肉色の切り口を見せて坐っています。赤い
ボクさんは、あまりうれしくて、すぐ手をつけるわけにはゆかないのです。塀のずっと向うまで駆けて行って、また駆け戻って来ます。それから食べるんですが、あわてふためいて、何もかもいっぺんに
ボクさんは、可愛くってたまらないというふうに、それを胸に抱きしめて、
「林檎さん、林檎さん」
と、いいながら、頬ずりをします。
あたしが、さいそくします。
「はやくお
困ったことには、利江子夫人は、毎朝、かならず六時ごろ一度眼をさましますが、この時、ボクさんの部屋からヴァイオリンの練習をする音がきこえていなくてはならないんです。
五時半までには、あと四十分ぐらいしかないのですから、ゆっくり喰べさせて置くわけにはゆきません。しなければならないことが沢山あるんですもの。
ようやく、林檎が無くなります。二人は兎小屋へ駆けて行って五分ほど兎と遊びます。シーソーを二三べん。
あたしは、急いで絵本をひろげる。『ベカッスさんの宝島探険』というお
きのうは、ベカッスさんが
ボクさんは、草の上に猫みたいに丸くなって、酔ったようになって聞いています。
……どうも、工合の悪いことには、ベカッスさんの船がだんだんゆれ出す。ひどい風だ。山のような大きな波がやってきて
難船だ! 難船だ!
悪い時は悪いもので、こんどは向うから妙な恰好をした船がやってくる。一
……ちょうどここで六時十分前になる。
四
こんなふうに、あわただしい土塀のそばでの待ち合わせが、一週間ほどつづいたある日の午後、あたしが花壇のそばの
どちらも、ひどく激昂して、なにかしきりにいい合っていましたが、そのうちに、門の
あたしは、ボクさんの身の上に、なにか困ったことが起こるような気がして、気が気ではありませんでした。
次の朝、いつもの通り
その日は、半日ぼんやりして、なにも手につきませんでした。
夜になってから、塀のそばへ行って、お隣りの二階のほうを見上げますと、どこもここもすっかり
ふだんなら、すぐ、しっかりした考えが浮んでくるのに、今度は気がうわずるばかりで、なにひとつ考えをまとめることができませんの。
(
そんなふうに、じぶんを慰めながら、しおしおと帰って来ました。
でも、その次の日も、とうとう、ボクさんはやって来ませんでした。
その次の日も、次の日も……。
(きっと、病気なのにちがいないわ。もし、そうだったら……)
淋しがっているだろうと、お隣りの門のところまで駆けて行くのですが、そんなことをしたら、ボクさんが困るだろうと思って、ようやくの思いで、がまんするのです。その辛さといったらありませんでしたわ。
五日目の朝、とうとうたまりかねて、
真向いの張り出しになったサン・ルームの窓を二十分ほども瞶めていますと、そのうちに窓の中にチラと白い顔がのぞきました。
ボクさんでした。
あたしは、夢中になって、せい一杯に手をあげて、小さな声で叫びました。
「ボクさん!」
ボクさんは、窓に顔をあてて、じっとこちらを眺めながら、悲しそうに首をふりました。
(いったい、何が起こったというのかしら)
思いつくかぎりのことを、あれこれと
ボクさんは、手真似で、しきりになにかやっていますが、あたしには、どうしてもその意味がわかりません。ボクさんは、困ったような顔をして、考え込んでいましたが、なにを思いついたのか、ツイと窓のそばを離れると、ヴァイオリンを持ち出してきて、ゆるい調子の曲を奏き出しました。
きいていると、それは、ベートーヴェンの『
「……今晩、月が出たら……」
その午後、あたしは
ようやく月が出かかったので、土塀のところへ出かけてゆきました。
月の光の中で、
そのうちに向うの草の中で、小さな足音がきこえ出してきました。あたしは、息苦しくなって、両手でギュッと自分の胸をしめつけました。
「ボクさん、あたし、毎朝、ここで待っていたのよ」
ボクさんは、沈んだ眼つきで、じぶんの胸のへんを眺めながら、
「……でも、ボク、出られませんでしたの」
「まあ、どうして?」
「……パパの
「そんなことでしたの? ちっとも知りませんでしたよ。では、ずいぶん、困ったでしょうね、ボクさん」
「ボク、いろんなことをして見たの。でも、どうしても出られませんでしたの」
「その間、ひとりでなにをして遊んでいた?」
「ボク、することないから詩をつくって遊んでいたの」
「そう、どんな詩?」
「なんでもない詩。……ここにひとつ持っています」
月の光で読んで見ました。
ところで、ボクは、しゃがみます、
ピチピチしてる川のそば。
ボクは、ながす
ちょうちょうのような笹舟。
なみよ、ゆすってゆけ
パパのところまで。
ピチピチしてる川のそば。
ボクは、ながす
ちょうちょうのような笹舟。
なみよ、ゆすってゆけ
パパのところまで。
この詩情の中に、なんというあわれなねがいがしみ透っていることでしょう。あたしは、胸がいっぱいになって、どうしていいかわからなくなってしまいました。
せめて、こうとでもいうほかは。
「あなた、パパが好きなのね、ボクさん」
「ええ。……でも、パパは、ボクが嫌いなの。ボクを見たくないんだって、ママがそういいました」
「おかしいわね。じゃ、なぜ、パパのお使いがボクさんを連れにくるのかしら」
「それはね、ボクを連れて行って、もっと
(なんという、ひどい嘘をつくのだろう!)
あたしは、
ボクさん、あわれなようすで、しょんぼりと両膝を抱きながら、
「そんな話、よしましょう。……ボク、もう、ひとりでいることは平気です。ボク、淋しくなると、星の世界へ遊びにゆきますからなんでもないの」
「星の世界へ……」
なんのことだかわからないので、あたしが、たずねかえしました。
「星の世界、って、なんのこと?」
すると、ボクさんは、あたしの手をとって、眼をつぶりながら、
「……ほら、こんなふうに、ギュッと眼をつぶって、息をいっぱいに吸い込むの。……そして、ボクの身体が、空気より軽くなったんだと思うの。……すると、ボクの身体がフワリと窓からぬけ出して、ズンズン空へあがってゆくの。……ボクのすぐそばで、風が冷たくなったり、星がランプのように大きくなったりするから、ボクがいま空へのぼっているんだということがよくわかるの。……やって見ましょうか。……キャラコさん、眼をつぶっててください」
「こうするのね」
「息をいっぱい吸ってちょうだい」
「吸いました」
「二人は空気より軽くなったんだとかんがえてください」
「かんがえました」
「ほら、ズンズンあがってゆくでしょう。……ズンズン、ね」
「ほんとね」
「……そろそろ、風が冷たくなりましたね」
「いい気持よ」
「ここは、
「ええ、……ヒュウヒュウいうわ」
「もっと上へゆきましょうね。……もっと高く……もっと高く……」
「……もっと高く、……もっと高く……」
ボクさんの声が、だんだんおぼろ
間もなく、寝息がきこえてきました。ボクさんが星の世界から帰ってきたのは、それから一時間ほど経ったのちのことでした。
五
あたしは、次の日の午後、久世氏の事務所の応接間の、大きな皮張りの椅子にキチンと掛けていました。
なんともいえぬ奇妙な感情が、
ひと口にいいますと、ボクさんの星の世界への
ボクさんが、星の世界へゆくというのは、想像の中の遊戯でなしに、なにかの比喩なのではないのかしら。……ボクさんが
こんなふうにかんがえて来ますと、あたしは不安になって、その晩は、とうとうマンジリともしないで明かしてしまいました。
あたしは、午前中、じぶんの部屋の椅子に坐って、どうしたらこの手に負えない奇妙な不安から逃れることができるかと、いろいろにかんがえていましたが、結局、あたしの力ではどうすることもできないことに気がつきました。最初は利江子夫人にこの不安を打ち明けようかと思いましたが、なにしろあんなヒステリックなかたですから、そのために、ボクさんに、どんなひどいことをするかわかったものではありません。そうすると、これをうちあけるひとは久世氏よりほかはないのです。
一方からいうと、これはたしかに
でも、たとえ、あたしが、どんな
十分ほどののち、部屋つづきの
色が浅黒くて
久世氏は、あたしのような若い娘の訪問客を、ちょっと驚いたような顔で眺めていましたが、椅子に掛けると、社交的な、その実、たいへん事務的な口調で、
「
と、たずねました。つまらない話なら、簡単に切り上げたいものだ、というようなようすがアリアリと見えすいていました。
あたしは、胸を張って、しっかりした声でやりだしました。
「いいえ、
久世氏は、ちょっと顔をひきしめましたが、あたしはそんなことには頓着なく、ボクさんと始めて逢った時のことからくわしく話はじめました。
こんな多忙な事務家にたいして、あたしの話し方はすこし
あたしは、閉口して、こんなふうにいいわけをしました。
「こんなことを申しあげるためにおうかがいしたのではありませんけれど、順序よくお話をしなければお判りにならないだろうと思って、それで……。申しあげなければならないのは、これからあとのほうなのです」
久世氏は、無感動ともいえるような冷静な面持ちで、
「いや、そのつづきをうかがってもしようがありますまい。……
久世氏のいい廻しは、たいへんに上手でしたが、やはり、よけいなことをいいに来たもんだという、
あたしは、すこし
「さっきも、申し上げましたが、あたくしは、そんなむずかしいことでおうかがいしたのではありませんでしたの。ただ、これをお届けしたいと思って……。ボクさんも、たぶん、そうありたいとねがっているのだと思いましたから」
そういいながら、ボクさんが詩を書きつけた
久世氏は、それを取りあげて、だまって読んでいましたが、間もなく投げ出すようにそれを
「ちょっと、失礼します」
と、いいました。
立ってゆくのかと見ていると、そうではなく、ゆっくりと眼鏡をはずして、両手を顔にあてたと思うと、調子はずれな大きな声ではげしく
ちょうど海綿でも絞ったように、涙が両手の指の股からあふれ出し、筋をひいてカフスの中へ流れ込みます。まるで、
お兄さま。
久世氏は危ないところで間に合ったのですよ。あのまま役にも立たない意地っ張りをしていたら、それこそ、ボクさんは今ごろだいすきな星の世界へ行って、ひとりで遊んでいるようなことになっていたでしょう。考えただけでも、身体がちぢむような気がします。
あたしが、星の世界の話をしたときの久世氏の顔といったらありませんでした。赤くなったり蒼くなったり、まるで
ボクさんが何を考えているか、久世氏も、すぐ察してしまったのです。
久世氏があたしを引っ立てるようにして、お隣りへついたときは、もう夕方で、門がしまっていて、いくど
久世氏は顔色を変えて、門を乗り越えかねないような
ようやくのことでなだめて、二人で土塀の穴のそばに坐って根気よく待っていました。
ほんとうのことをいいますと、ボクさんと約束などはしなかったのですから、今晩もまたやってくるかどうか、まるっきり自信がありませんでしたの。でも、あたしは、今晩もたしかに来るはずだと、きっぱりといいきりました。そうでもいわなければ、どんなことをやりだすかわからないようすでしたから。
月が出るころになって、ほんとうに奇蹟のように、ボクさんがピョンと穴からはね出してきました。
久世氏は、どんな身軽な猟師だって、こうまでうまくはやれまいと思われるほど、す早くボクさんをつかまえて腕の中へ抱きしめてしまいました。
どちらも何もいうことは要らなかったのです。ボクさんは泣きましたが、久世氏は、とうとう我慢し通したようです。二人の上に月の光がさしかけて、まるで、ジェンナの親子の、あの有名な
久世氏は、最初は、このままだまってボクさんを連れてゆくつもりだったらしいのですけれど、落ちつくにつれて、それは、あまりほめた仕方でないと思ったのでしょう。ボクさんに、
そのうちに、利江子夫人が帰る時刻になりました。あたしは、気が気ではありませんでしたの。こんなところを見られたら、夫人がまたつむじをまげて、せっかくの和解もだめになってしまうだろうと思って。
あたしが、そういいますと、久世氏も、ようやくなっとくして、渋々、ボクさんを離しました。ボクさんは、駆けて行っては、また戻って来て、
「
と、同じことを、いくどもいくどもくりかえしてから、あきらめたように、しおしおと歩いて行ってしまいました。
久世氏は、とりのぼせたようになって、穴から首をつき入れて、小さな声で、
「ボクや、ボクや」
と、いつまでも呼びつづけていました。……
お兄さま。
ボクさんは、あまり悲しいので、二階の穴から飛び出して、ほんとうに星の世界へゆくつもりだったのですって。お別れに、楽しかったこの土塀のまわりをひと目見に来たのだそうです。
久世氏は、利江子夫人と和解なすったそうです。どんなふうな和解だったか、まだ聞いてはおりませんが、あたしには、それは、どうだっていいことですわ。ボクさんさえしあわせになってくれれば、それで、いうところはないのですから。