一
市ヶ谷加賀町から砂土原町のほうへおりる左内坂の途中に、木造建ての小さな
西洋美術骨董、と読ませるつもりなのだろう、はげちょろになった白ペンキ塗りの看板に、"FOREIGN ART OBJECTS" と書いてある。
一
天気のいい日は、家の正面にまともに
キャラコさんは、
飾窓のなかには、
いつか、なにげなくその中を
どれもこれも、古び、傷つき、こんなものを買うひともあるまいと思われるようながらくたばかりだが、たとえば、脚のとれた
そればかりではない。セエブル焼きの置時計の細かい唐草模様のなかに隠されている貴婦人や農夫や、フランダースの飾り皿の
キャラコさんは、夢中になって、つい、こんなふうに叫んでしまう。
「あら、あそこに、あんな花が隠れていたわ。……まあ、なんてかあいらしいこと!」
キャラコさんは、この楽しみを自分ひとりだけのものにして、そっとしまっておいた。独逸語の先生のところへの
ちょうど、ボクさんの両親の和解が成り立ってから十日ほど経った朝、
それは、二十五号ほどの、一見、平凡な絵だった。
うす暗い部屋の隅の、
長椅子の向う側に、紫の
長椅子の横に、
部屋のなかは、濃い
一体にクラシックな画風で、
だいたい、こんなふうな絵である。格別、どこといって奇抜なところもなければ、目をそばだたせるようなところもない。狭い画面のなかに、いろいろなものが押し並んでいるので、むしろわずらわしくさえ感じられる。
キャラコさんは、飾窓に鼻をおっつけながら、ゆっくりとその絵を鑑賞する。
芸術的な価値はともかく、なにしろ、そんなふうに手のこんだ絵なので、飾り皿の
「おや!」
と、眼を見はった。
まったく、ふしぎなほどだった。ここから見ると、あの雑然とした絵が、とつぜん、
そればかりではない。この奇妙な、深い奥行きは、いったいなにから来る感じなのであろう。どういう不思議な遠近法によるのか、その気になれば、わけもなくスラスラと、その中へはいってゆけそうな気だった。
キャラコさんは、
二
この絵のおかげで、ドイツ語の先生のところへ行く
その絵の前に立つと、魔法の世界でも眺めているような、なんともいえぬ奇妙な感じがひき起こされ、催眠術にでもかけられたように、ぼんやりした
それにしても、少女の横顔をながめている青年の眼差しの、なんと深いこと。春の海のようにゆったりとしていて、優しさと単純さに満ちている。二人の
長椅子のうしろに立っている青年は、この絵をかいた画家の自画像なのに違いない。しっとりとしたこの部屋のなかで繰り返される兄と妹のやさしげな日常が、
この画面にあらわれているのは、二人の生活のほんの一部分でしかないが、ただこれだけで、この二人が、互いにどんな信頼し合い、愛し合っているかよくわかる。この二つの顔のなかには、意地悪や、憎しみのかげなどは露ほどもなく、正直と、愛情と、親切だけが輝いているように見える。
キャラコさんは、いい友達を沢山持っている。イヴォンヌさんにしろ、
みな、心のやさしい、親切な人たちばかりだが、どうしてかしら、この絵の青年にたいするような、溺れるようなふしぎな愛情や
「ほんとうに妙だわね。……いったい、どうしたというのかしら」
ともかく、その絵の前に立つと、理窟なしに心が
「こんにちは、ごきげんいかが?」
と、われともなく、つぶやいてしまう。
「お静かでお
奇妙なことには、キャラコさんが話しかけるのは、長椅子の後ろに立っている青年のほうにかぎるのである。
おっとりと坐っている妹らしいひとには、まだ一度も言葉をかけたことがない。なんだか気ぶっせいで、
家へ帰ってからも、この絵のことが心について離れない。あまり寝苦しいなどと思ったことのないキャラコさんなのだが、このごろはなんとなく寝つきがわるい。頭の下で、いくども熱い枕を廻す。ときどき、そっと溜息をついている自分に気がついてびっくりする。
「おやおや、なんだか、困ったことになったわ」
三晩ほどそんなことをくりかえしたすえ、とうとうもて余して、イヴォンヌさんにそれをうちあけた。
イヴォンヌさんは、
「それは、たいへんね。きっと、なにか、始まりかけているんだわ」
キャラコさんは、すこし、
「ええ、あたしも、そう思うの。……あの絵のことを考えると、胸んところが、熱くなったり冷たくなったりして、なんだか妙に落ち着かなくて困るのよ」
「ふうん、熱くなるって、どんなふうなの」
「つまり、ドキドキするのよ。身体じゅうの血が、そこへ集まって来るようなの」
イヴォンヌさんは、むずかしい顔をする。
「あまり、いい徴候じゃありませんな」
キャラコさんは、聞こえない振りをした。
イヴォンヌさんは、すかさない。
「ほら、ね。聞こえない振りなんかする。……いよいよもっていけないな。要するに、あなたは、あの絵の青年が好きになってしまったのよ」
キャラコさんが、あわてて立て直す。
「イヴォンヌさん、あなたすこし過敏よ。……あたしが、あの絵にひきつけられるのは、そんな意味じゃないと思うわ」
「じゃ、いったいどうなの?」
キャラコさんが、大きな声を、だす。
「あれはなんという
イヴォンヌさんは、頑固に首を振る。
「信じられないわね。あなたがあの絵にひきつけられているのは、そんな高尚なことじゃなくて、あの絵の中の生活を愛しているのよ。あたしには、それが、はっきりわかるの」
キャラコさんは、聞きとれないような声を、だす。
「よく、わからないけど……」
イヴォンヌさんは、ニヤリと笑う。
「わかるようにいってあげましょうか。……あなたはね、絵のなかのお嬢さんのように、あの青年にあんな深い眼付きで
キャラコさんは、横を向いて、またきこえないふりをした。
なんだか、ぼんやりとわかりかけてきた。もっとも、キャラコさん自身も、心のどこかで
ただ、油絵の中の青年が好きになったなどというのはあまりにも奇抜すぎるので、キャラコさんの心が、それを承認することを拒みつづけていたのである。
しかし、それも、よく考えてみると、かくべつ、不思議だというようなことでもない。じぶんは、この青年に、いつかいちど逢ったことがあって、その時、強い印象を受けたまま忘れていたが、偶然、飾窓の絵の中でその青年に再会して、古い記憶が急に
そういえば、これとよく似た配景を、いつか一度見たような記憶がある。
最初、あの絵を見たとき、その中へスルスルと入ってゆけそうに思ったのは、絵の表現によることではなくて、それが、むかし、非常に親しかった風景だったからかも知れない。
しかし、ひょっとすると、それは、夢のなかで見た景色だったようにも思われる。
遠い丘の上で、夕陽を浴びて立っている城のような白い建物や、陰影もなく、
また、それが事実だったとしても、そこで、どんなことが起きたのか、この青年をどんなふうに好きだったのか、まるっきり記憶に残っていないのである。
それにしても、イヴォンヌさんは、確かにいい当てた。
どうかすると、どうしても飾窓の前から離れられないような気がすることがある。左内坂の近くへくると、ひどく胸が
「おやおや、たいへんだ」
なんとかして笑ってみようとする。ところが、思うように、うまく笑えないのである。
じっさい、こんな感情に襲われたのは、生まれてから、これが最初の経験だった。
キャラコさんは、寝台のうえにそっと身体を起こす。窓に月の光が射し、
キャラコさんは、溜息をつく。
「これはたしかに厄介な感情ね。こんなものがあたしのところまで押し寄せて来ようとは思わなかったわ」
閉口して、両手でゴシャゴシャと髪を
イヴォンヌさん。あたしは、たしかに、あの油絵の青年に心をひかれています。
あたしがこんな感情をもった以上、放って置くわけにはゆきませんから、あすの朝、あのひとのところへ行って、きっぱりとカタをつけて来るつもりなの。どうぞ、賛成して、ちょうだい。あのひとが、あたしを嫌いだったらしようがないけど、もし、好いてくれたら万歳ね!
この結果は、あすの晩、電話でお知らせしますわ。
三
次の日の
両側は雑木林をのせた低い岡で、そこで
気が向くと、底の平ったい靴をはいて、ひとりで気ままにあちらこちらとあるきまわるので、キャラコさんは武蔵野の岡や小径をよく知っている。
油絵の遠景のような丸味のある台地は、武蔵野の西南のほうに多いのだから、根気よくこの辺を歩き廻っているうちに、それらしいのに行き当るだろうとかんがえて、あてもなしにのんびりと歩きつづけていた。
はっきりとはわからないが、心をひそませてじっくりと記憶をたどると、
赤土の崖道をしばらく歩いて行くと、そのうちに、小さな流れに行きあたる。……その土橋をわたると、
キャラコさんは、切通しの途中に立ちどまって、右左を見廻す。……どうも、この道もいちど通ったことがあるような気がする。雑木林のようすも、赤土の崖のいろも、ぼんやりと心の網膜にしみついている。
「……もしか、この道だとすると、ここを降り切ると、小川の小さな土橋のそばへ出るはずなんだけど……」
十分ほど歩くと、道が大きくカーヴして、とつぜん、向うに小川が見え出した。
「川がある!」
なぜか、不思議な気持も、恐ろしい感じも起きない。
キャラコさんは、頓着しないでズンズン歩いて行った。この道にさえついて行けば、間もなく油絵の中の家に着くはずだった。
……そして、あの青年が絵のままのようすでそこに住んでいる……。キャラコさんは、それを少しも疑わない。境遇としてはずいぶん奇抜なのだが、それが一向
ただ、現実と非現実の境目ぐらいのところを歩いているような、妙にたよりのない気持がする。ひょっとすると、油絵の風景の中へ紛れ込んで来たのではなかろうか。自分がいま歩いているのは現実の世界ではなくて、額椽の中の幻想の世界なのではないかといったような、とりとめのない不安を感じる。
ところで、土橋を渡ると、果して、
それから、雑木林を抜ける。……真向いの、なだらかな丘の斜面に、バンガロオふうの建物が側面に夕陽を浴びて、一種、
キャラコさんは、満足そうな声を、だす。
「ほら、ちゃんとあったわ!」
心がはずんで、唄でもうたい出したいような気持になってきた。早く門のところまで行き着きたくなって、口を結んで、せっせと歩きだす。
下で見たよりも、しっかりした建物で、
ところが、どうしたわけか、この石の門にはすこしも見覚えがない。門のそばから、灌木の植込みについた砂利の小径が、ひっそりと玄関のほうへ続いている。……この小径も、すこしも記憶に残っていなかった。
キャラコさんは、すこし
キャラコさんは、気持を落ちつけるつもりで深呼吸してみる。案外、効果があった。なにはともあれ、わざわざここまでやって来て、こんなことくらいにへこたれて、このままひき返すわけにはゆかない。
キャラコさんは、玄関のところまで歩いて行って、呼鈴を押した。ベルが思いがけなく近いところでえらい音を立てて鳴ったので、びっくりして逃げ足になった。元気を出しているつもりなのだけれど、なんとなく魂がしっかりとすわらない。勢い、自信のない顔つきになる。負けまいと思って、例の、すこし大きすぎる口を結んで頑張りつづける。
玄関の
油絵の青年だった!
絵のなかの顔とすこしも違っていない。落ち着いた深いまなざしも、きっぱりとした顎の線も、
そのひとは、ほのかに眼もとを
キャラコさんは、さっきからぼんやりとそのひとの顔を見上げていたのだった。ハッと気がついて、思わず真っ赤になってしまった。
そのひとは、格別不思議そうな顔もしないで、扉口に立ったままになっている。
キャラコさんは、へどもどしながらお辞儀をすると、死んだ気になって、切り出した。
「……突然ですが、すこし、お
そのひとは、ああ、と、
どんな冷たい心でも溶かしてしまうような、ひろい、おおまかな微笑である。
キャラコさんは、やれやれ、と思う。ようやく、楽に口がきけるようになる。
「あなたは、もしかして、あたくしを知っていらっしゃるのではないでしょうか」
そのひとは、元気のいい声で笑い出した。
「どうして、知らない訳があるもんですか。……君はね、むかし、僕をひどく手こずらしたことがあるんだよ。……覚ていないかも知れないが……」
よく響く声でこういうと、無造作にキャラコさんの手をとって、
「それにしても、ずいぶん、綺麗になったもんだ! それに、立派な顔をしている」
キャラコさんは、楽しすぎて、すこし
いいたいことが、あれもこれもと沢山あって、なにからいい出していいかわからない。大あわてに
「あなた、あたしがどうしてここへ来たか、ごぞんじ?」
そのひとは、また笑った。
「知りませんね」
キャラコさんは、ふうん、と鼻を鳴らす。
西洋骨董店の飾窓で絵を見てから、ここへ
「あたし、これでも、ちょっと敏感なところがありますの。自分の記憶だけで、ここまでやって来ましたのよ。……むかし、一度ここへ来たことがあったってことは、あたしも薄々知っていましたの。でも、それがいつだったのか、ここで何をしたのか、まるっきり記憶に残っていませんの」
そのひとは、玄関の石段にしゃがみながら、
「それは、とても大変だったんだよ。……もう、何年になるか、よく覚えていないけど、君が叔父さんというひとと、この辺へ遠足に来て、とつぜん、えらい熱を出して、わけがわからなくなってしまったんだ。……なにげなく、アトリエの窓から見おろすと、君の叔父さんが、あそこの
美しい音楽でも聞いているようで、キャラコさんは、思わず、うっとりとなる。あの絵を見た瞬間、自分の心になんともつかぬ不思議な感じがひき起こされたのは、決して理由のないことではなかった。
「……そのうちに、ようやく医者がやって来たが、君は、どうしても僕の腕から離れようとしないんだ。……寝台へ寝かそうとすると、えらい声で泣き出す、しようがないから、ずッと抱きつづけていて、朝になってから、テクテクと一里ちかくも歩いて病院まで連れて行った。……なにしろ、ひどく手こずらしたもんだよ。僕の胸へぎゅッと顔をおッつけて、なんといっても離れないんだからね……」
そのひとは、ひやかすように、キャラコさんの顔をのぞき込んでから、
「この胸ンとこに、いまでも、君の
このひとの深い心が、その時も、自分をうったのにちがいない。今の自分の感情にひきくらべて、それが、よくわかるのである。自分は、それと気がつかずに、長い間、このひとの親切に感謝しつづけていたのだと思った。