喪服

久生十蘭




浜口治平
  静江  妻
  美紗  長女
  八穂  次女
秋元 博  浜口の秘書
かつ

横浜、磯子屏風ヶ浦の台地にある浜口の邸。

早春。――午前十時頃。

サン・ルームの広廊をひかえた古風な食堂。
晴れた寒い朝。蹲踞つくばいの水に薄氷が張っている。芝生の広い庭のむこうに早春の海。

静江と八穂、食卓について遅い朝食をしている。
八穂 コオフィ……(珈琲の茶碗をつきだす)
静江 三杯目よ……いいにしておきなさい……また眼がギョロギョロするでしょう。
八穂 (パアコレーターをひきよせて珈琲をつぐ)寒くて死にそうだ。脛のあたりがすうすうする。(かつに)かつや、もっと薪を入れて。
かつ はい。
八穂 じゃんじゃん燃やせ、威勢よく。
静江 そんなに寒いかしら。あなた、どうかしているのよ。
八穂 ママ、夜中に寒波が来たの知っている?……すごかったんだぜ、窓ガラスにいちめんに氷花こおりばながついて。
静江 (かつに)旦那さま、昨夜、いく時頃お帰りだった?
かつ 一時半でございました。
静江 なにか召しあがったの?
かつ 寒いとおっしゃって、ホット・ウィスキーを……
静江 調べものはなさらなかったのね。
かつ はい、すぐおやすみになりました。
静江 (八穂に)外資審議会、もうすんだのかしら。
八穂 (トースターにパンを入れながら)いままで起きてこないところを見ると、今日は休日よ……(かつに)美紗子さまは?
かつ お寝みになっていらっしゃいます。
八穂 まだ二日酔いのつづきか……ずいぶん飲んだからな。無理もないや。
静江 (たしなめるように)八穂さん。
八穂 (朗詠する)あねえさま……いかなる恋に傷ついて……うち棄てられた岸のほとりで、あなたはおてになりましたか……
(パンにバターをぬる)
静江 詩ですか。詩ならまたにしてちょうだい……まあ、そんなにバターを……
八穂 あたし肥りたいのよ、でくでくになるほど。
静江 それより肥ったら、ひとりで靴も穿けやしない。
八穂 どうせ、あたしはずんぐりむっくりよ。お姉さまのように、すらりしゃんとしちゃいませんから。バスト、九十五……いまさら減食ダイエトをしたって、追いつくような体積たいせきですか。
美紗、ピジャマにナイト・ガウンを羽織り、奥につづく扉口からブラリと食堂に入ってくる。
八穂 おめざめだ……(美紗に)ご気分はいかがですか。
美紗 (かつに)ひや(端のほうに掛けて食卓に頬杖をついている)
かつ 下部しもべ鉱泉ミネラルがございますが。
美紗 おひやといったら、お水を持ってくれぁいいのよ。
静江 (水の入ったカラフを押してやる)いいだけ召しあがれ。コップじゃ、まだるっこしいでしょう。
美紗 カラフからグイ飲みするのね。
静江 お得意でしょう? 一昨日の晩なんか、見事なもんだったわ。
美紗 お祝いのパーティだというから、お義理をしたのよ。
静江 ジン・フィーズを六杯……どうなることかと思ったわ。
美紗 とめもしなかったわね、お継母かあさま……あたしたちや秋元さんまでダシに使って、どんな魂胆であんなパーティをやったか、あたし、なにもかも見ぬいているのよ。
静江 なんだろうと一郎さんの顔が見られたんだから、あなたにしたって結構すぎるくらいだったでしょう。
美紗 どっちのことだか……あたし醜態を演じたかもしれないけど、そういうお継母かあさまだってあまりご立派じゃなかったわ……酔っぱらって、両方から一郎さんをひっぱりあっているところなんか、ちょうど、なにかみたい。
静江 両方からひっぱったら、釣合がとれていいでしょう。面白いことをおっしゃるわ。
美紗 えゝ、あなたはお利口よ。それはもうわかっているの。
静江 言いたいことがあるんだったら、おっしゃいよ。思わせぶりみたいなことばかりいっていないで……(そばへ行って美紗の肩に手をおく)ね、なにを言いたいの。
美紗 (叫ぶ)触らないで。
静江 (大きな声を出す)よしてちょうだい、気ちがいみたいに喚くのは。
美紗 一昨日のパーティだけのことじゃないのよ。あなたのなさること、なにもかも穢らわしくて、我慢ならないの。
静江 (平手で美紗の頬をピシャリとやる)……
八穂 (うんざりしたように、つぶやく)はじまった。朝のラジオ体操……
美紗 (頬に手をやりながら、冷淡に)ありがとう、頂いたわ。
静江 (笑いながら)お望みなら、いくらでもやってあげてよ。
美紗 やってごらんなさい。ひっ叩かれたくらいで黙るもんですか。
静江 黙ることはないでしょう。なんでもおっしゃいと言っているのはあたしなの……でもね、穢らわしいなんていうのは、やめたほうがいいわ。あなたのほうはどうなの……
美紗 根岸台へおしかけて行ったこと? それがどうだというのよ……お継母さまはよその方だけど、あたしと一郎さんは従兄妹同士よ。
静江 かまわないから、おっしゃいよ。
美紗 あなたは失敗なすったの……お継母さまのような悧口な方でも隠し終せなかったのよ……あなたがどんなに一郎さんを好きだか、子供のあたしに見抜かれてしまったんです。一郎さんが応召で南方へ行く前……どんなことだったか言ってあげましょうか。あなたはパパと夫婦生活をしながら、十年ものあいだ、心の中で絶えず裏切りをしていたでしょう。あなたの毎晩の夢の内容は、とっても汚ないものだと思うの。
静江 あたしのことはいいけど、あなた、どうなのよ。ほんとうに一郎さんと結婚したい気があるの。
美紗 あのコルネット吹きとあたしが?
静江 いまの怒りかた、冗談のようにはみえなかったけど……一郎さんにうちこんでいるのは嘘じゃないでしょう。
美紗 あたしの気持、あなたなんかにおわかりになるはずはないのよ……あんなシスター・ボーイ・タイプ、お継母さまにはいいお相手でしょうけど……
静江 一昨日の晩、あなたのことで、ちょっと一郎さんの気をひいてみたの。そうしたら一郎さん、煎豆にも花が咲くというが、季節って面白いもんだって。
美紗 ふ、ふ、生意気ねえ。……(フラリと食堂から出て行く)

浜口、居間につづく上手の扉口から入ってくる。
八穂 お早う、パパ。
浜口 (静江に)なにを大きな声をだしていたんだ。
静江 おはようございます……ご機嫌はいいようね。
浜口 おれはむかしから寝起きのいいほうだ。
静江 今日は?
浜口 今日は家にいる。(食卓の椅子に掛ける。海を見ながら)昨夜、夜中近くに大雨が降ったが、いい天気になった……どうだ、あの海の色。
静江 おだやかな海。
浜口 昨夜ゆうべ、よく眠れたかい。寝言をいっていたようだが。
静江 寝言なんか言ったかしら。
浜口 なにか妙なことを口走りはしないかと思って、冷々した。
静江 ずいぶん気をまわしたものね。
浜口 (スプーンをとりあげて、フルーツ・カップのオレンヂをすくって食べる。タンと舌を鳴らす)うまい。
静江 あなたは、ひとが嫌だということばかりなさるのね。
浜口 みなで朝食ちょうしょくをするのはひさしぶりだから、ちょっとハメをはずした……幸福というものも、ひとを酔わせる作用があるらしいな。
静江 そのご意見、素朴すぎるようね。
浜口 お前はどう思っているかしらないが、完全なハウス・ライフ以上の幸福は、この世にはないものだ。めったにめぐりあうことはないが。
静江 この家庭に、なにか欠けているものがあるんでしょう。
浜口 お前のことをどうこういっているわけじゃない。原理はまアそういったもんだということさ……美紗は朝食に来ないのか。
静江 どうかしら。
浜口 (かつに)美紗を呼んできなさい。
かつ かしこまりました。(行きかける)
八穂 行ったって無駄だよ。
静江 なんです、そのおっしゃりようは。
八穂 お呼びになっても、おいでになりませんでしょうと思います。
浜口 (静江の顔を見る。それから八穂に)なにかあったのか。
八穂 なにがあったと聞かれたって、ゴタゴタしているから、ひと言ではいえない。
浜口 ひと言でなくてもいい。
八穂 一郎さんがこんどバンド・マスターになって、なんとかレコードの専属になるとか、なりそうだとかいうことで、ママやあたしたちでお祝いの会をやったの。
浜口 (静江に)バンド・マスターって、なんだ?
静江 楽団の指揮者のことです。
浜口 そんなことがめでたいのか。
静江 めでたい、なんていうことじゃないでしょうけど、一応、認められたことになるんですから。
浜口 認められちゃ困るんだ……(八穂に)それで?
八穂 一郎さん、たいへんな人気だということは嘘じゃないの。コルネットを吹くプレスリーといったぐあい……
浜口 プレスリーってなんだ。
八穂 プレスリーはプレスリーよ。女の子が……女の子ばかりじゃないママくらいの齢のひとも大勢いたけど、一曲すむごとに、キャア、アレェって、えらい騒ぎになるの……パパもいちど見ておくほうがいいな。人生観がかわるよ。
浜口 話を聞くだけでたくさんだ。それから?
八穂 (チラと静江のほうを見る)……
浜口 どうした?
八穂 いま思いだしてる。
浜口 思いだしたろう? いってごらん。
八穂 お姉さま、中二階のようになったギャレリーから、さかんに声援しているのに、一郎さんたらお姉さまを無視して、階下フロアにいる女の子だけにお愛想するの……誇りの高い女性にとって、とても耐えられることじゃないから、お姉さま、癇癪をおこして、ギャレリーから、えッと階下フロアへ飛んじゃったの……酔っていたようだったから、正気じゃなかったのかもしれないけど。
浜口 階下フロア、階下って、どこの階下のことなんだ。
八穂 「カサノヴァ」というキャバレー……あとはママが知ってますから、ママに聞いてください。
浜口 (静江に)お前もいい加減なやつだな。一郎の出入でいりをとめているのを、知らないわけじゃなかろう。
静江 出入りなんかしていませんわ。
浜口 こちらから出掛けて行けァおなじことだ。次官ともあろうものの細君が、娘たちとキャバレーへ行って酒を飲むなんて、なんのざまだ。
静江 へらへらしているけど、悪いというようなひとでもないでしょう。血のつながった、たった一人の甥を、根岸台のあんなバンガローに追いあげて、いっさい構いつけないなんて……せめて、あたしが蔭にまわって庇うぐらいのことをしなくっちゃ、世間のもの笑いになります。
浜口 いつだったか、秋元がいっていた……柳さんはいい青年なんだが、女たちが寄ってたかって駄目にしてしまう、って。
静江 秋元さんはあなたの秘書だから、あたりのいいことをいうのよ。
浜口 こんなこともいっていた。妙に女好きのするタイプだから、あれじゃ、死にでもしないかぎり、苦労は絶えまい、って。
八穂 ねえ、パパ、お言葉ですけれど、死んでほっとするのは、一郎さんでなくて、まわりの女たちのほうらしいわ。
静江 八穂さん、あなた、なにをいいだすつもり?
浜口 いいじゃないか、言わせておけよ。
八穂 実感なんだけど、一族のなかに、あんなひとがいなかったら、あたしにしたって、焦々したりすることはなかったのよ。一郎さんなんか、居なくなってくれたら、どんなにサバサバするだろうと思うことがあるの……この点、パパもママも同感でしょうけど……あたし泣きたくなったから部屋へ行きます……パパ、また近いうちにお目にかかりましょう。(食堂から出て行く)
浜口 美紗だけだと思ったら、八穂まで……お前はどうなんだ?
静江 あたしは見物しているだけ。
浜口 美紗がそんなことになっているのを、面白がっているわけでもなかろう。なぜ、もっと早く始末しない。
静江 「カラマーゾフの兄弟」という小説に、幸福な結婚ができるはずの娘が、なんの理由もなく、岩から身を投げて死んでしまう話があるでしょう。
浜口 (舌打ちをする)……
静江 その娘はオフェリアの真似をしたかったので、その岩がローレライの岩のように美しくなかったら、自殺なんかしなかったろうなんて書いてあったけど、あたしの解釈じゃ、結婚して、すぐっともなくなって、美しい夢を壊してしまうより、身を投げて、愛するひとの記憶の中に永久にとどまっていたい……自分の死に同情して、思いだすたびに涙を流してもらいたい……その程度の思いつきだったろうと思うの。
浜口 真面目なときには真面目な話かたをするもんだ。
静江 だから、昨夜はちょうどそんな状況だったといってるのよ。身を投げるにしても、愛人の眼の前でやったら、これ以上、効果的なことはないわね……美紗さん、成功したのよ。大満足でしょう……ひとりでニヤニヤしているかもしれないわ。
浜口 馬鹿もいい加減にしろ。(食卓の上にナプキンを投げだす)美紗はどこにいる?
静江 部屋にいるでしょう。
浜口 (かつに)美紗に、おれが呼んでいるといいなさい。
かつ かしこまりました。
静江 (コオフィを注ぐ)またお肥りになったようね。ゴルフでもおはじめになったら?
浜口 だめだね、あんなものは。実益がないから……それよりボクシングでもやろうかと考えているところだ。嫌な奴の[#「奴の」は底本では「双の」]頭を、性のつくほど張りつけてみたいものだと思ってね。
静江 嫌な奴って、あたしのことなんですか?
浜口 誰だろうとさ。

かつ、戻ってくる。
かつ 頭痛がなさいますそうで……
浜口 なにをしていた?
かつ (チラと静江のほうを見る)さあ……
浜口 さあ、とはどういうことだ……まあいい、退っていなさい。
かつ (退場)
浜口 立派なやつだ。あれはモノになるぜ。大切に使うほうがいいな。
静江 かつはあたしの召使いですから、お差図はいりません。
浜口 この家の生活には、いぜんはいくらか秩序や規律のようなものがあった。清潔とまではいかないが、卑俗な習俗が入りこむ余地はなかったものだが、一郎が引揚げてきたとたんに、なにもかも駄目になってしまった。一郎を足踏みさせなかったのは、理由のないことではなかったんだぞ。
かつ、入ってくる。
かつ 秋元さんがお見えになりました……お差支えなかったら、奥さまにも、とおっしゃっていられますが。
静江 (不安そうなようすになって)あらたまって、どうしたというのかしら。
浜口 (これも、思いあたることがあるふうで、かつに)なんだというんだ?
かつ ご用向きはおっしゃいませんでした。
浜口 (しばらく考えてから)広廊へ。
かつ かしこまりました。(退場)
浜口、静江、広廊の籐椅子に掛ける。
浜口 変な顔をしているな。どうかしたのか。
静江 あなたこそ、どうかなすったんじゃないの……汗をかいているわ。
浜口 おれの汗のことは、放っておけ。
秋元、つづきの廊下から広廊へ入ってくる。
秋元 おはようございます。
浜口 おはよう……まあ、掛けたまえ。
静江 いらっしゃい。
秋元 (静江に)おやすみのところを、どうも……
静江 そんなに怠けているわけでもないのよ、あなたこそ、こんな朝がけから……なにかご用でしたの?
秋元 (慇懃に)今朝ほど、知らせてくれたものがありましたが、一郎さん、とんだご災難で……
浜口 (叫ぶように)一郎、死んだのか。
秋元 思いもかけないことで……
静江 交通事故だったのね?
秋元 はあ、ごぞんじでしたか。
静江 (気がついて)いま伺ったわけだけど、たぶん、そんなことじゃないかと思って……
浜口 それで、どういうことだったんだ?
秋元 根岸の七曲りでスリップして、そのまま堀へ突っこんだらしくて……
静江 ああ、あの坂で……
秋元 通りがかりに現場を見ましたが、あおのけにひっくりかえって、車輪だけ水のうえに出ていました……クレーンを持ってきて、車をひきあげるんだそうですが、あの状況では、運転席からぬけだすことはできなかったろうと思います。
浜口 あいつは車を扱い馴れているから、まちがいなんかしでかすはずはないのだがね。
秋元 災難というのは、だいたい、そういったもので。
浜口 (めざましく昂奮して)おれには承服できない……あいつはさんざんな女出入りで、男の怨みも女の怨みも、背負いきれないほど背負いこんでいるやつだから、そういうつづきで、事故にまぎらして、なにかされたような形跡はなかったのか。
秋元 警察では単純な事故だったといっております。
静江 単純というのは、どういうことなんでしょう。
秋元 根岸の七曲りのような特別な場所の事故は、どれでも判でしたようにおなじで、どこかに型にはずれた動きが一カ所でもあれば、すぐわかるものなんだそうです……警察では、追突されたようすも、接触して煽られたような形跡もなかったといっておりますがね。
静江 事故があったのは、何時ごろのことだったんです?
秋元 午前二時から三時ごろまでの間……夜半から降りだした雨が、二時ごろにあがったのですが、それが凍りかけていたというの悪い折で……坂のおりかけから調子が悪かったらしくて、切通しの土手にのしあげた形跡があります……それで、凍った坂道をズルズルと後落こうらくして、堀端で車をひっくりかえしたまま堀へ突っこんだということらしいです。
間。
浜口 (腕組みをして深くうなだれる)一郎は死んだか。
静江 あゝあゝ、こんなことになるなんて……みな、あなたのせいなのよ。
浜口 そんなことをいってみたって、しようがない。死んだものは死んだのだ……警察へ電話をかけて、死体が揚がったら、すぐ知らせてくれるように頼んできなさい。
静江 (泣く)あゝあゝ。(居間につづく扉口から奥に行く)
間。
浜口 秋元君……
秋元 はっ。
浜口 ひょんなことを言いだすが、聞いてくれたまえ。
秋元 は。
浜口 人間の好悪こうおの感情は、制御しきれんものらしい……心の重荷になって、ひとり苦しむのはやりきれないから、君にだけ、うちあけておく。
秋元 ……
浜口 一郎を殺したのは、このおれなんだ。
秋元 (おどろいて相手の顔を見る)さっき申しましたように、単純な交通事故で……
浜口 そうなるような因由いんゆうをつくったのは、おれだといっているんだ。
秋元 ……よくわかりかねますが。
浜口 この家に、一郎が住むくらいのスペースがないわけではない。家を建ててやろうと思えば、やれた……そうせずに、どちらへ降りても、あぶない坂や崖ばかりという、根岸台の家へ追いあげていたことを、君はなんだとも思わなかったのか。
秋元 一郎さんを嫌っていられることは、承知しておりました。
浜口 あいつのヌルヌルした不潔な感じが、どうにも我慢ならなかった……毎朝、新聞をあける前に、あいつの記事がデカデカと出ているのではないかと思って、いきをつめるんだ……。
秋元 お察しいたします。
浜口 あいつは戦地で自動車の運転をおぼえてきて、あっというような無茶な運転をする……危険に賭け、危機を弄ぶ、そういう気質の男は、いつかは、かならず失敗する……わざとあんなところに追いあげておいたのは、おれの心の深いところに、いつかは失敗しくじるだろう、失敗しくじってくれればいいという、願望があったわけだ。
秋元 何千人という人間が、あぶなっかしい車を運転して、毎日、根岸台を上ったり下ったりしております……次官、そこまでお考えになる必要はないように思いますが。
浜口 根岸台に住んでいるのは一郎ひとりじゃないが、あいつほどの無鉄砲な男はいないはずだ……そういう弱点を計算して、予想の中に組みこんであったのは、まぎれもない事実だ。胡麻化そうにも、胡麻化しようがない。
かつ、入ってくる。
かつ (浜口に)こういう方がお見えになりました。(名刺をわたす)
浜口 うむ?(名刺を見て、暗い顔つきになる。秋元に)ちょっと失敬。(退場)
間。
静江、入って来る。
静江 お一人?……浜口は?
秋元 応接間のほうへ行かれました。
静江 (秋元と向きあう椅子に掛ける)秋元さん、あなたにだけ、聞いていただきたいことがあるのよ。
秋元 どんなことです。
静江 一郎さんを殺したのは、あたしなの。
秋元 (笑う)これは、どうも……
静江 何年か前に手放すつもりでいた、四十五年の古いフォードがあったのよ。重心のかたよったいやな車で、右へ頭を振る癖があるの。それで坂をおりれば、かならず失敗しくじるという車……
秋元 (うつむいて煙草に火をつける)……
静江 あなたは、どんなふうに見ていらしたか知らないけれど、一郎さんみたいに薄っぺらで気障な男もないもんだわね。あまりいい気になっているから、すこしいじめてやれと思って、処分せずに、その車を根岸台のガレージに放りこんでおいたというわけ……女の悪念あくねんってどんなものか、よくおわかりになったでしょ。
秋元 一郎さんは、車のことはよく知っていられるから、そんなあぶないやつに乗るはずがないと思いますが……
静江 そうおっしゃったって、乗ったからこそ、こんなことになったんじゃありませんか。
秋元 あなたがなにを考えていらしても、それはみな意想の中の出来事で、他人に洩らすべき筋合のものじゃない……そんなたいへんなことを、なんの関係もない私に告白なさるのは、どういうわけなんですか。
静江 どういうわけって……じゃ、あなた、あのフォードのことは、ごぞんじなかったの。
秋元 私が、どうしてそんなことを知るもんですか。
静江 あなたがいらしたのは、あたしに告白させて、すこしでも良心の負担を軽くさせてやろうという心づかいなんだと思ったの……あたしの思いすごしだったのね。そんなら告白なんかするんじゃなかったわ……おゝ、馬鹿らしい。
浜口、広廊に戻ってくる。呼鈴をおす。
かつ お呼びでございますか。
浜口 警察から電話がきたら、こちらへスイッチを切換えてくれ……それから、美紗と八穂に来るように。
かつ かしこまりました。(退場)
秋元 (浜口に)応接間は誰でした。
浜口 日京新聞……
秋元 ちょっと行って逢ってきましょう。
浜口 もう追っぱらった……こんどばかりは揉み消せァしない。書きたいだけ書けァいいんだ。
かつ、入ってくる。
浜口 美紗はどうした。
かつ お着換えなすって、すぐいらっしゃいますそうです。
浜口 着換え? なにをしていた?
かつ 喪服を召して、姿見の前で……
浜口 喪服?……八穂は?
かつ 顔を洗ってから行くとおっしゃいました。
静江 かわいそうに泣いていたんだわ。
浜口 (かつに)退っていいよ。
かつ はい。(退場)
浜口 秋元君、美紗や八穂に、電話で知らせたのか? 一郎が死んだことを……
秋元 いゝえ。
浜口 ……死んだにはちがいないが、いまから喪服とは、手まわしがよすぎるようだな。
静江 お友達がくなったとき、喪服が間にあわなくて、せんだって届いたのを、こんどはじめて着るんです。楽しみにしていましたから、たぶん、そんなことなんでしょう。
美紗、入ってくる。
美紗 秋元さん、いらっしゃい。むずかしい顔をしているのね。なにかあったんですか。
静江 (美紗に)かつが行ったら、あなた喪服を着ていらしたって……一郎さんが死んだこと、ごぞんじだったの。
美紗 (呟くように)一郎さん、死んだのね。
静江 今朝の三時ごろ、七曲りの坂で事故をおこして、下の堀へ……
美紗 そうだったら、それは、あたしのせいなの。
浜口 (美紗に)お前、どうかしているんじゃないのか。
美紗 でも、そうなのよ。雨がやんで、道路が凍りかけたころを見はからって、電話で一郎さんを呼びおろしたのは、あたしなんですから。
静江 一郎さんが、電話ぐらいで、あなたのいいなりになるというの?
美紗 どうしたって飛んで来なければならないような電話だったのよ……パパが和解するつもりでいるから、すぐいらっしゃるほうがいいって……
静江 一郎さん、電話に出た?
美紗 出るもんですか。れいのとおり、どこの誰だかわからない女のひと……
秋元 (呟くように)今日はふしぎな話ばかり聞く……電話で呼びおろせば、一郎さんを殺したことになるのかねえ。
美紗 殺す、なんて、いやな言葉ね……どんな瞬間でも、あたし、殺そうなんて思ったことはなかったわ。
静江 堀へ飛びこんだから、一郎さん、死んだのよ。
美紗 お継母さま、あなたはだまっていらっしゃい……(秋元に)空想していたように事が運べば、一郎さん、どうしたって堀へ飛びこむほかなかったわけ……根岸台の家のフォードはブレーキ・ドラムのシャフトがものすごくゆるんでいるの。あたしもいちど、あぶなくやりかけたことがあるので、雨あがりの凍った坂道をおりてくれば、どの辺のカーヴでスリップして、どんなふうに堀へ飛びこむか、はっきりとわかっていたのよ。
静江 まあ、なんというひとなんだろう。
美紗 あたしは単純な女よ。お継母さまのような複雑な掛引はできません……あたしのつもりでは、足の骨でも折るか、風邪でもひいて、半年も寝こむようになってくれたらと思ったの……なんという子供らしいねがいなんでしょう。あたしなんかの思いつくのは、結局、この程度のことなのよ。
静江 死んだと思っていないひとが、なぜ喪服の用意なんかする?
美紗 お継母さま、そんなことをおっしゃってもいいんですか? 誰もあなたの部屋へ入らないからと思って……
八穂、入ってくる。
八穂 みなさまお揃いですね。家族会議ですか。
静江 そんなところで喋言しゃべっていないで、ここへ来てお掛けなさい。今日は笑ったりはしゃいだりするような日ではないのよ。
八穂 さっきママの部屋へ行ったら、喪服が出ていた……誰か死んだの。
短い間。
浜口 八穂、お前は一郎のただ一人の味方だったんだ……お前は一郎なんか軽蔑していたのだろうが、それでも骨を折って、われわれの間を調停しようとしていた……今になれば、パパにはそれがよくわかるんだ。
八穂 パパの思いすごしでしょう。あたしにそんなこと出来るわけはないし、しようと思ったこともないわ。一郎なんて、つまらねえやつだから、からかってやれと思ったことはあるけど。
浜口 そんなら、そうとしておけ……一郎は死んだよ。死体が揚がったという警察からの電話を、こうして待っているところなんだ。
八穂 とうとう……とうとう、死んだのね?……パパもママも、これで、やれやれですね。浜口の一家も、いやな評判に悩まされることがなくなった……めでたいというのはこのことだわねえ。
静江 八穂さん、あなた、泣いているの?
八穂 あたしが? 誰のために? ……(笑う)どんな不幸の中にも楽しみはあるものなのよ。なんといっても喪服はシックだからな。こんどこそ、あたしも着られるわ……誰がいちばん似合うかしら……ママかな? お姉さまかな?……お姉さまにはお気の毒だけど、やはりママのほうらしいや。
かつ、入ってくる。
かつ 警察から電話でございます。こちらへ切換えました。
秋元 (広廊の椅子から立って、電話のあるところへ行く。受話器をとって)浜口です……はあ、はあ……検証が?……それはどうも……後ほど、あらためて……(受話器をおいて、広廊に戻ってくる)検証がすんで、遺体を救急車で送ったそうです……そちらへ着くころだといってました。
浜口 じゃ、やっぱり……
秋元 ……それはもう、どうしたって助かるわけはなかったのですから。
遠くから救急車のサイレンの音が聞え、だんだん近くなり、間もなく、門のあるあたりでとまる。
秋元 ああ、来たようですね。
浜口 一郎が帰ってきた……みんなで玄関でお迎えしよう。
浜口、静江、美紗、立ちあがる。八穂だけが籐椅子に残る。
静江 八穂さん、いらっしゃい。
八穂 (動かない)……
静江 どうしたの、八穂さん。
美紗 (八穂に)あまのじゃく。
かつ、入ってくる。
かつ 市役所の埋葬課から電話で、いまそちらへ送った遺体は、行路病者の扱いになるので……
秋元 行路病者? そんな無礼な……
かつ 根岸台のガレージからフォードを盗みだした、自動車泥なんだそうでして、お引取りになるなら、手続きをしていただきたいと申しておりますが……
静江 (秋元に)秋元さん、これはどういうことなんです?
秋元 (狼狽する)いや、どうも……
八穂 おやおや。
かつ (浜口に)埋葬課の電話、どう返事いたしましょう。
浜口 (当惑して)そんなものを持ちこまれても……(かつに)さきほど引取ると申しましたが、人ちがいだったので……
秋元 重々、恐縮……私が出て説明します。
静江 秋元さん、あなたらしくもない失敗でしたね。
秋元 申しわけありません。(居間の電話のある奥のほうへ退場)
八穂 ママ、お姉さま……喪服の虫干しをするつもりだったのに、宛がはずれて残念でしたね。
美紗 なんのこと?
八穂 そのうちに、またいいチャンスがあるでしょう、って……
間。
浜口 八穂……ホテルへ電話をかけて、材料持ちで、コックとボーイをよこすように言いなさい。
八穂 すごい……今夜はなんのお祭り?
浜口 なんということはない。ひさしぶりに、みんなで会食しよう……(静江に)一郎も呼びたいなら、呼べ。
八穂 ふむ、……生きていれば、なにか当りがあるもんだ。
八穂、電話のあるところへ行く。
八穂 (受話器をとって、ダイヤルをまわす)もしもし、ホテルですか?……北さんに出てもらってちょうだい……北さん、浜口です。あたし、八穂……うんとご馳走するんだから、材料を持って、コックさんをよこしてちょだい……お通夜つや? なにを言ってんのよ……なんのお祝いだか知らないけど、ともかくお祝いなの……夕食ですから、そのつもりで……いいわね……






底本:「久生十蘭全集 ※(ローマ数字2、1-13-22)」三一書房
   1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行
   1992(平成4)年2月29日第1版第8刷発行
初出:「文學界」
   1957(昭和32)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「美紗」と「美紗子」、「?……」と「? ……」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、「定本 久生十蘭全集 9」国書刊行会、2011(平成23)年6月24日初版第1刷発行の表記にそって、あらためました。
入力:門田裕志
校正:芝裕久
2021年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード