春の落葉

辻村もと子




 翌日は明るくはれた初夏らしい日であつた。
 ごたごたと敷かれた寢床をあげてしまふと、柩のなくなつた家の中は、急に廣々として何となく物足りなかつた。
 早起きの伯父は老人らしいきちようめんな調子で若い者を起して歩いた。
 一ばん年下の恭介叔父は、頭からふとんを被つたまま、眠つてゐるのか醒めてゐるのか、いくら起されても起きようとしなかつた。みんなの蒲團をかたづけながら、私はそつと聲をかけた。
「叔父さん――叔父さん? お起きなさいな、もう八時よ――」
 聞えたのか聞えないのか、叔父は身動きもしなかつた。襖をはづした次の間から、意地の惡い靜岡の伯父が、くぼんだ眼を光らせてゐた。
「叔父さん――ねえ、お骨揚げに行かなくつちやいけないぢやありませんか」
 私は一つとり殘された叔父の寢床に近よつて夜着の上からゆすぶつた。
「うん――」
 叔父は夜着の中でひくく答へた。叔父を殘して井戸端に顏を洗ひに出ると、ねぶそくな眼に祖母の愛した躑躅の花が赤くうつつた。
 昨日の朝、白木の棺に納めたときの、あの冷たく重い祖母の體の埋まるほど入れた赤い花が、今ごろはその體と一緒に灰になつてゐるのだと思ふと、何となく不氣味な感じがした。
 皆の仕度が出來て出かけたのはもう九時少しまはつてゐた。靜岡の伯父は、皆の出ようが遲いと云つて一人でぶつぶつ憤つてゐた。誰も知らん顏をしてゐるので、一ばん年上の東京の伯母が傍によつて何やかやと御機嫌をとつてゐた。
 死んだ祖母も生さぬ仲の靜岡の伯父にがみがみ言はれながら骨をあげてもらふのでは、いい氣持はしないだらうにと、私は苦々しく考へながら小さな從弟に下駄をはかせた。
 頼りにしてゐた二番息子に、震災の時に急にその妻と一緒に死なれてからといふもの、三十の時から後家で通した氣丈者の祖母もぐつと弱つてしまつてゐた。それにその伯父の殘した二人の孤兒をひきとつてくれた三番目の伯父が、同じ宮崎を名のらないで、名義だけではあつたが、高村の養子分になつてゐたので、祖母の苦勞は一通りではなかつた。
 孤兒の後見人になつてゐる恭介叔父もまだ妻帶してゐないので、祖母や子供たちと一緒にごたごたと高村の伯父の家で暮してゐたから、祖母は叔父のこと子供たちのことで此の五年間といふもの頭の休むひまもなかつた。二番目の伯父が死んでも靜岡の伯父は一向に平氣な顏をしてゐた。
 生前から腹違ひの二番目の伯父とは犬と猿ではあつたが、何といつても本家分家の間柄であるのに、と若い私さへふしぎなことに思つてゐた。その伯父が、今度は何と思つてか祖母の死を報せると矢のやうにとんできて、何から何まで一人で世話を燒いてゐた。
 妙なものだ――。私は死んだ祖母と大して年の違はないらしい靜岡の伯父の丈夫さうな老體を見ながら考へた。電車は涼しい朝風の中をガタゴトと古びた城下町のはづれにかかつてゐた。
「おめでたがあつても親類中こんなに集まるものぢやないけれど、――やつぱりたまに肉親の寄るのはいいものですねえ」母が力のぬけたやうな聲で東京の伯母に話しかけてゐた。
 小さな電車には家の一族だけで誰も乘つてゐなかつた。子供たちは若い從兄弟たちとうれしさうにふざけてゐた。町はづれの停留所で、留さんといふ出入りの仕事師が汗をふきふき入つて來た。留さんは白い布で包んだ四角な骨壺の入つた箱をもつてゐた。皆は一寸緊張した顏つきをしてその四角な包みに目を集めた。
「分骨するんだが――」と靜岡の伯父が言つた。
「へい。用意いたして參りました」留さんは小腰をかがめて靜かに答へた。
 電車を降りると、すぐだらだら坂にかかつたが、道は細くほこりつぽかつた。靜岡の伯父は高村の伯父にならんで老人とは思はれない速さでぐんぐんのぼつて行つた。母と高村の伯母にたすけられた東京の伯母は、從兄のこしらへた青竹の杖にすがつて、どうやらこうやら足をはこんでゐた。その先になつたり後になつたりして小さな子供たちがおそろひの木綿の紋着を着て、從兄弟たちにおだてられながら登つて行つた。
 恭介叔父は、小説家の從兄とならんで一ばん後から何か話しながら歩いてゐた。
「おい久子――これが北村恒春の家だつたんだねえ?」伯父は坂の中途の竹藪の中の藁ぶき屋根をゆびさして、從兄に示しながら前を歩いてゐた私に聲をかけた。
「ええ――。いいところですわね。空家にしておくのは惜しいやうね」と私は答へた。無口な從兄はだまつて笑つてゐた。
 それから伯父と從兄とは、近ごろ少女雜誌や何かにセンチメンタルな詩劇を書いたりして名を賣つてゐる伯父の中學時代の友達の上山秀雄に就て話しだした。
「おい、久子――上山が金が入つたから正衞に奢るつて、富士見町にさそつたんだつてさ。あの上山が――さんざ正衞を先生先生と云つておきながら。奢る? だとさ」伯父はいつになく揶揄[#「揶揄」は底本では「揶喩」]するやうな調子で言つた。
 坂を登りつめると少しばかり平地がつづいて、ひらけた眼界には靜かな相模灘の紺青がほのかな伊豆の嶋を浮かべて、初夏の空と圓く連なつてゐた。老人も若い人々もしばらく一樣に立ち止つてはればれとその風景に見とれてゐた。
「お祖母さんのおかげで小田原の海も久しぶりに見ましたよ――」と東京の伯母が眞底からうれしさうに言つて腰をのばした。
「いい景色だよ――」一ばん小さい高村の從兄が大人のやうな口をきいたので、一同は他愛もなく笑ひこけた。
「さあもう一息だ――」高村の伯父が肥つた體を動かしだしたのをきつかけに、一行は又ガヤガヤとさわぎながら平地の麥畑を通りぬけて坂にかかつた。
 急な勾配を登り終へたところに細い青竹を組んだ木戸があつた。それを入ると大きな椎の木のかげに粗末なあづま屋がたつてゐた。一行はそこに入つて汗を落ちつけながら一休みした。
「お煙草召しあがる方はようござんすね、こんなときは――すぐに一服」と母が靜岡の伯父に話しかけてゐた。靜岡の伯父は何とも答へずに腰から拔いた煙草を口にもつていつて火をつけた。小説家の從兄は用意してゐた小刀で傍の藪から小さなしの竹を切つて手頃な杖をこしらへてゐた。それを孤兒になつた從兄がもうはうとして待ちかまへてゐるのが何となくいぢらしかつた。
「よく燒けてゐるよ――」弟や從兄がいつの間に行つたのか眞面目な顏をして歸つて來てみんなに報告した。青葉のかげに黒い大きな煙突の見えるのがそれらしかつた。私はそれを聞くとぎくりとした。そして今更の樣に何をしに來たのだつたかを考へた。
「きれいなものだよ――」と從兄が言つた、
「見て來たの、ほんとに?」と高村の伯母、
「ああ、よく燒けてゐるつて留さんが言つてた」と弟。
 私はきくともなしにその會話をきいてゐた。そして不思議に安堵に似た靜かなこころに歸つて行つた。
「ではどうぞ――、御仕度が出來ました」留さんが繁みの中から出て來て告げた。
 青い空を背景に石でたたんだ三つの竈があつた。一つ一つに丈夫な錠がかけられてゐて、鐵の扉のまはりの白煉瓦は煙で黒くすすけてゐた。
 一ばん左のはじの扉の前には、素燒の線香立てと、しきみの葉が飾られてあつた。高村の伯父が火をつけた線香を一本づつみんなに配つた。そして一同は妙にひきつつた樣な緊張した面持で、それを一本一本かたくなつた灰の上につきさしては扉にむかつて手を合せた。
 それがすむと、どこからか二人の隱坊が出て來て扉の錠をガチャリと廻した。物も言はないその二人の人物は、全く違つた世界に住む人々の樣に、だまつて觀音開きの扉をあけた。
 何かおしやべりをしてゐた子供達まで急におびえたやうに靜まりかへつた。
 暗がりの中からガラガラと音をたててひき出された厚い鐵板の上にはふわふわと吹けば飛びさうな白い灰が小高く積つてゐた。ただそれと解る位黒くなつた頭部と、骨盤から下肢の骨とがその灰の中にうづまつてゐた。そして足の方らしい所には納棺の時に入れた鞋がそのままの形で灰になつてゐた。
 東京の伯母と母とが同時に手を合せて、
「ああ、おばあさん――」と言つた。
 他の者はみな一樣にひきつつた樣な沈默の中にはたらく隱坊たちの指圖をまつてゐた。隱坊たちは「どうぞ――」と言つて、すぐ影のやうにどこかにかくれてしまつた。臺の上に、鐵板のままのせられた灰の中から、一同は青竹の箸で小さな骨片を拾ひあげた。
「この黒い所が病氣だ」と高村の伯父が頭部の黒いふかふかした腦細胞らしいものを箸の先で拾ひあげて壺の中に入れた。
 目の惡い東京の伯母が、母に示された小さな骨をおぼつかない手つきで拾ひあげてゐるのがたまらなかつた。
 恭介伯父が、一かけらをも見のがすまいとして細い箸の先で、木の燒け殘りと骨とをえり分けてゐるのもいたましかつた。
 骨はかなり大きな素燒の壺と小さな曲物とに分けて納められた。白い布に包まれた壺を私の弟と從兄とが代り代りに持つて、一同は來た道とは反對の山道を通つて町はづれの長寺にむかつた。
 雜木林の山をぬけると、その中腹にたつた中學の大きな校舍のそばに出た。
 道は細くてやや急な勾配であつた。落葉がみんなの足の下でガサゴソと鳴つた。
「春だのに――何の葉かしら」と私がひとりごとのやうに言つた。
「櫟ぢやありませんか――ツルゲネーフの小説によく出て來る。櫟の葉は春、若葉が出ると一緒に散ります」と小説家の從兄が説明した。
 春の落葉をふんで私たちは山を下りた。

 夕方、靜岡の伯父は分骨の小さな包をもつて歸つて行つた。
 東京の伯母と母と恭介伯父と私とがそれを送つてから、たそがれの町を家に歸つた。
「伯父さんもこの次は自分の番だと思つてゐるのね――。今度はずゐぶん親切によくなすつた」と母が誰に言ふともなしに言つた。
 私は今別れた大きなしかしどこか老人の弱弱しさをかくしきれない伯父の姿を思ひ浮べて暗い氣持になつた。そしてそつと私の前に歩いて行く東京の伯母の、白い髮とこころもち前に曲つた腰のあたりに目をやつた。
 それから、母の聲のまだ若若しい餘韻を耳にして、はかないなぐさめのこころを味はひながら、だまつてうす暗い町を曲つた。





底本:「現代文學代表作全集 第三卷」萬里閣
   1948(昭和23)年11月30日発行
初出:「春の落葉」東京詩學協會
   1928(昭和3)年4月
※「妙なものだ――。」の「。」は、判読困難に付き、推定です。
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2009年3月25日作成
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