革命の研究

ピョートル・アレクセーヴィチ・クロポトキン Pyotr Alkseevich Kropotkin

大杉栄訳





 革命といふ言葉は、今では、被壓制者の唇にも、また所有者の唇にすらも、屡々上る。既にもう、時々、近い將來の變動の最初の顫えが感ぜられる。そして、大なる變動や變化の近づいて來る時にはいつもさうであるが、現制度の不平者は――その不平がどんなに小さくてもいゝ――嘗ては實に危險であつた革命家といふ肩書を爭つて自分につける。彼等は現制度を見限つて、何等かの新制度を試みようとする。それで彼等には十分なのだ。
 あらゆる色合の不平家の群が、かうして活動家の列の中に流れこむことは、勿論革命的形勢の力を創り、革命を不可避にする。多少でもいはゆる輿論に支持されてゐれば、宮殿や議會の中でのちよつとした陰謀でも政權を變へ、また時としては政府の形式をすらも變へることが出來る。
 しかし革命は、それが經濟組織にもある變化を及ぼさうといふには、多數の意思の協力が要る。幾百萬の人の多少活溌な支持と協力とがなければ、革命は到底不可能である。到る所に、どこの村にも、過去の取壞しに從事する人がゐなければ駄目だ。そして他の幾百萬の人は何かもつといゝことが起るといふ望みの下に默つてやらしてゐなければ駄目だ。
 大きな事變の前夜に起つて來る、ぼんやりした、曖昧な、そして多くは無意識的なこの不平があり、現制度に對する不信用があつて、それで始めて本當の革命家が廣大無邊の勤め、即ち幾世紀かの存在によつて神聖なものとされて來た諸制度を數年間にもつくりかへる勤めを成就することが出來るのである。
 しかし又、これが多くの革命が、その上に乘り上げて、そして倒れた暗礁なのである。
 革命が來て日常生活のきまつた順序がひつくりかへされた時。一切の善惡の情熱が自由に爆發して眞畫間にさらけ出された時。失神のそばに非常な熱誠を見、臆病のそばに勇敢を見、つまらぬ反感や個人的陰謀のそばに非常な自己犧牲を見る時。過去の諸制度が倒れて、新しい制度が相續く變化の中にぼんやりと描き出された時。その時に、さきに自ら革命家と名のつたものの大多數は、秩序の守護者の列の中に急いで走つて行く。
 街の騷ぎや、試みられる諸制度の不安定や、明日の不安やは、もう彼等を疲らせたのだ。彼等は、一方に既に成就された些細な變化が暴風の中に滅んでしまふのを恐れる。そしてまた彼等は、經濟制度のごく小さな變化も、既にその社會の一切の政治的概念の深い變化を必要とし、そしてごく小さな政治上の變革も、經濟界でのもつと大きな變化を經なければ行はれない、といふことが分らない。
 そして彼等は、反革命の來るのを見て、急いでそれと一致しようとする。民衆の情熱や、また時としては無遠慮なその表現は、彼等に厭がられる。やがて彼等はもう革命にあきる。そして休息や緩和を促すものの中に走つて行く。

 過去がその最も熱心な守護者を集めるのは彼等の間である。彼等はその過去の一部分、勿論それは何んでもないものであるが、それを犧牲にしただけ、それだけ熱心な過去の守護者になる。彼等は[#「彼等は」は底本では「役等は」]もつと遠くへ引きずつて行かうとするものを憎む。
 そして彼等は、革命的のいろんな手段をその手に握つてゐるところから、それを過去のお役に立てようとするので、愈々危險になる。彼等は斷行する。反革命も彼等がゐなければ敢てすることが出來ないほどに斷行する。そして彼等は、舊い制度をもつと根深く覆へさうとする者や、將來の中にもつと根深く進んで行かうとする者を捕まへる。彼等は革命を救ふといふ口實の下に、實はそれに轡をはめるために、『狂犬共』を死刑にしたロベスピエルやセン・ジユストの輩の眞似をする。

 で、革命の騷ぎの間は、その革命の味方と敵との區別がつかない。そして又、これは殊に云つておかなければならないことだが、過去の革命の歴史家等は、この點についての考へに混雜を來たさせるやう、その全力を盡して來た。[#「盡して來た。」は底本では「盡して來た」]
 今、フランス大革命だけを例にとつて見る。ある歴史家の理想は、ルイ十六世の立憲内閣に一椅子を占めてすつかり滿足したミラボオであつた。またある歴史家の理想は、ドイツ人に對しては勇敢な愛國者であるが、しかし經濟問題には少しも大膽でないダントンであつた。彼は實に、外寇を斥けるためには、立憲君主とも妥協し、ブルジユワ地主に壓迫されてゐる農民とも妥協し、また不動産の投機師とも妥協した執政官であつた。さういつたいろんなものが不思議にも彼の革命的精神と調和してゐたのだ。
 また他のある歴史家にとつては、その理想は、財産の平等や無神論を主張した革命家等を死刑にした『義人』ロベスピエルであつた。彼は一七九三年の夏、パリ市民が饑饉に苦しんでゐる時、イギリス憲法の特長を議論することをジヤコビン黨に迫つた男だ。
 最後にまた、他のある歴史家にとつてはマラが理想であつた。ある時彼は、二十萬の貴族の首を要求した。しかし彼はフランス國民の三分の二を熱中させた問題、殊に農民によつて耕作されて來た土地が何人に所有さるべきかの問題の代辨者となることを敢てしなかつた。
 そして更にまた最後に、ある道化者にとつては、その理想は、公爵夫人等やその腰元共の首を熱心に要求した――それも公爵夫人等はコブランツに行つてゐたので、實は腰元共の首にすぎなかつたのだ――檢事であつた。そしてその間に、ブルジユワの泥棒共はフランスを掠奪し勞働者を飢餓に陷らしめて、その莫大な財産を作つたのである。
 そして今日の革命家等の大多數は、過去の諸革命については、不幸にして、歴史家等が一生懸命になつて語つたその戲曲的方面しか知らない。彼等は一七八九―一七九三年間に幾百萬の無名の民衆がフランスでやり遂げた大事業、一七九四年のフランスをして五年以前のフランスと全く違つた國にしてしまつた大事業を殆んど知らない。
 私が今この研究を企てたのは、この混雜の中を多少迷はずに辿つて行かうとする今日の革命家の手助けにしたいためである。
 私は先づ、本當の革命家と、今は吾々の味方だと云つてゐるがやがて吾々の敵になるだらう者共とを、豫めよく區別しておく必要を力説しておきたいと思ふ。それから私は、革命家等にそのなし遂げなければならないだらう廣大な勤めを説いて、もし彼等が、歴史家等が過去の革命について我々に語つたことをモデルにして次ぎの革命を想像してゐるならば、そのなめなければならないだらう悔恨を、彼等に豫告しておきたいと思ふ。
 そして最後に又、どれほどの精力の發揮、どれほどの猛烈な激しい仕事を、革命がその子等に要求するかを彼等に説きたいと思ふ。これは革命の成功のためには、危機の際の相交換される銃丸と等しく、或はそれ以上に肝要なことである。


 思想の大膽と、その考へてゐることを實行させるやうに民衆を引き入れて行く自發力と――これが、いつでも今までの革命に、革命家等が缺いたところのものである。そしてこれが、また次ぎの革命にもやはり缺けさうなのだ。誰か、過去の諸革命を研究して、次ぎのやうな痛恨の言葉を發しなかつたものがあらう。『あれほどの努力があり、あれほどの崇高い熱誠があり、あれほどの血を流し、あれほどの家族に喪服を着せ、あれほどの顛覆をして、そしてこんなちつぽけな[#「ちつぽけな」は底本では「ちつぼけな」]結果しか得られなかつたのか』――この言葉は文書の中にも、對話の中にも、また革命の宣傳の中にも絶えず繰り返されてゐる。
 これは、一部分は、革命が盲目的な或は無意識的な過去のともがらの間に出會ふ大きな障礙について、一般に人はよく知らないからである。彼等が後もどりしてその過去の特權を救はふとする、彼等の力と頑固さとを、とかく人は輕く見すぎようとする。そして、彼等がもう正々堂々として戰ひが出來なくなつた時、なほ彼等にその過去の特權を救はふとする陰謀や蔭での仕事があることを忘れるからだ。

 そしてまた人は、革命家等は一般にその行爲では非常な勇氣と大膽とを現はすが、その思想やその目的や、その將來についての考へには、いつも大膽を缺いてゐることを忘れる。この將來を革命家等は、彼等がそれに對して叛逆して起つた過去の形の下に夢みてゐる。過去は將來への彼らの飛躍にまでも彼等をゆはいつけてゐるのだ。
 彼等は舊制度に對してその本當の力を作つてゐるもの、即ちその宗教とか、法律とか、國家とか、國王に對する服從心とか、宮殿とか、監獄とかに決定的打撃を與へて、それを殺してしまふことを敢てしなかつた。新しい生活に大きな門を開くために十分破壞することを敢てしなかつた。そしてこの新しい生活についての彼等の考へはごく漠然としたもので、從つて遠慮深くそして範圍が[#「範圍が」は底本では「範園が」]狹くて、その夢に於てすらも、彼等がその奴隸の過去に崇め祭つてゐた禮拜物に觸れることを敢てしなかつた。
 勇敢な心臟を臆病な腦髓の用に立てようとしたところで、それで大きな結果が得られるだらうか。

 實際、フランス大革命の諸事業を考へて見ると、我々の祖父の行爲の大膽なのと、その思想の臆病なのとに驚かされないわけにゆかない。極端な革命的方法と臆病で保守的な思想とだ。自分の生命も享樂も投げ棄てた豪膽と果斷との浪費と、ごく近い將來についての考へには信ずることの出來ないほどの臆病とだ。
 民衆がその嘗つて尊敬を以てめぐらしてゐた操り人形の一つに觸れることを敢てするまでには、そしてまた民衆がその尊敬し服從する首領等に過去の制度のただ一つを犧牲にすることを餘儀なくさせるまでには、幾月も幾年もかかつた。
 これがフランス大革命の特徴なのだ。ちようどこれは敵の砲臺を取るには非常な勇氣と大膽とを示す兵隊が、その砲臺の向ふを見ようともせず、またその戰爭の原因とか目的とかについての全體の觀察をしようともしないのと同じやうなものだ。
 武器を持たない民衆がバステイユの厚い城壁と大砲とに向つて進んで行く。女共がヴエルサイユへ走つて行つて王を捕虜にして連れて來る。到るところに、各々の小都市に、丸太棒を持つた若干の男が、あしたは自分等が『秩序に復した』市會によつて死刑に處せられることなぞは少しも思はずに市役所を占領する。武器もない民衆がテユイルリイ宮殿に侵入して、赤い帽子をかぶつた王を捕まへる。そして更に二ヶ月たつて、彼等はスヰツルの雇兵やブルジユワの國防軍に不信を抱いて、このテユイルリイを襲ひ取る。無名の者等は政府を輕んじて、自ら九月の虐殺に責任を負ふ。軍隊を持たない共和政府が、内に王黨と鬪ひながら聯合諸王と對立する。ダントンは革命を救ふための至上の方法として大膽不敵を要求する。革命議會の斷頭臺もヴアンデの溺死も、車裂きの刑も、何物もこの革命家等がその革命的方法を取ることを止めることは出來ない。そしてしかも、この雄大なドラマに伴ふものは、思想の臆病、一切のものの上に天翔ける思想に大膽のないことであつた。思想の臆病なことは、高貴なる努力をも非常なる情熱をも、無邊の熱誠をも、一切殺してしまふものである。

 八月十日近くなつて王室が倒れかかつた時、ダントンやロベスピエルやコルドリエの輩は、彼等が王を恐れたよりも以上に共和政治を恐れた。そしてテユイルリイ宮殿の奧から呼び寄せられ指揮されてゐた外國軍の侵入によつて、始めて彼等は、フランスは王冠を戴いた操り人形がなくなつても濟むといふことを考へるやうになつたのだ。
 坊主共が新制度に對するその廣大な陰謀によつて全フランスを蔽ふてゐた時、そしてこの陰謀がフランスの三分の二をその掌中に握つてゐた時、革命家等は恭々しく教會を取り圍んで、それを革命の保護の下に置き、そして舊教を侮辱する『無政府主義者』等を斷頭臺に上ぼせた。
 經濟問題では、彼等の臆病はもつともつと大きく、そしてもつと醜劣なものだつた。封建制度はもう事實上存在しない。領主は百姓共に逐はれて國外に走つた。領主の森は荒されて、そこの鳥獸は退治された。封建の課税はもう拂はない。然るに革命の指導者等は國民議會の時まで封建制度の最後の遺物を保存して、それを次ぎの世紀にまで殘さうと努めた。そして、名聲嚇々たるジロンド黨の徒や謹嚴なロベスピエルは、財産の平等などといふ言葉を聞くと、民衆がもう私有財産を尊敬しないのかといふ考へだけで慄えてゐた。何故なら、彼等はそれを過去から傳へて來た。國家はこの私有財産の上に基づくものだからである。
 實際彼等指導者はこれ等のあらゆる點に於て遲れてゐた。そして民衆は彼等よりも過去からの解放に進んでゐて彼等よりももつと遠くを見てゐた。が、この將來の幻が實に漠然とした曖昧なふらふらしたものだつたのだ。そして民衆それ自身の中にも、この曖昧と愚圖々々とが革命全體に傳はつて、その思想がいろいろと分れてゐた。六月二十日に民衆をテユイルリイ宮殿に走らした肉屋のレジヤンドルも、王を廢するといふことは夢にも考へなかつた。王はその槍の下に押へてゐる民衆が皆なさうであるやうに、更にその槍の先きを打ちこんで王權をおしまひにしてしまふことが出來なかつた。そしてその後、バブウフの共産的陰謀が起つた時には、山岳黨ですらもびつくり仰天してしまつた。彼等は民衆の漠然とした社會主義的平等の憧憬をよく知つてゐた。しかし彼等はそれがはつきりした綱領になつて現はれると、びつくりしてしまつたのだ。

 一八四八年でも同じことだ。それまでの十五年間のあらゆる社會主義的宣傳の後に、フウリエやカベの後に、共産主義について幾千の演説會で話され、また幾多の小册子で説かれた後に――生存の權利とかいふことが既にそれ等のものの中に論ぜられてゐた――これら一切の宣傳の後に『民主的』革命家等は、即ち自ら革命家であると信じ、また世間でもそれで通り、彼等の間の最も進歩したものとすらいはれてゐた者等が、共産主義を主張するものは總て銃殺しようとした。彼等が思ひ切つて考へてゐることは漸く民主的共和制であつたのだ。國家が保護金を下付する組合であつたのだ。そして彼等は、ボナパルトの輩に、自ら王位に就くべく民衆の漠然とした共産的憧憬を利用させたのだ。

 一八七一年のパリ・コムユンの時にでも、やはり同じことだ。彼等が鬪はなければならない反動の恐るべき力の前にはその膝を曲げない猛烈な革命家たちも、革命思想は持たなかつた。革命については、彼等はただその方法しか知らなかつた。しかもその方法といふのも、彼等によれば、政府が今日までのその敵に對して使つた武器を、こんどはその政府に向けるだけのことだ。
 彼等は、彼等が倒した國家を小さくして再現したコムユンを夢みてゐるのだ。そして彼等は經濟的革命といふ考へがぼんやりと民衆の頭の中に出來かかつてゐる間に、經濟上の改革はその後でのことだといひながら、コムユンの政治的獨裁を建てることしか考へないのだ。
 コムユンの旗印の下に勞働者の大衆を集める唯一の方法は、經濟的革命を始めることだ、などといふことは夢にも思はない。またもし一八七一年のコムユンが失敗したら、少なくともそれは、他日再びその事業を始めるだらう人々に、金持に對する貧乏人の、なまけ者に對す[#「對す」はママ]勞働者の、民衆的革命といふ考へを傳へなければならない、とも考へなかつた。
 何等の新しい思想も、舊い世界を革命するといふやうな何等の思想も、この人々にはなかつたのだ。その行爲に於ては實に革命的であつたこの人々も、その欲するところには實に臆病であり、そして彼等自身がそれに戰ひを宣言してゐる過去のモデルそのものの上に錬えられてゐたのだつた。

 然らば今日吾々は、來らんとする革命の前日にあつて、それよりももつと進んでゐるかどうか。革命をやる大膽な思想と自發力とを持つてゐるか。
 吾々が憤慨するこの過去に對して、その從順に對して、その僞善に對して、その瞞着に對して、果して吾々は、この過去をその總體に於てのみでなく、更にその毎日のあらゆる表現に於ても否認するところの、革命的思想を持つてゐるか。現在の制度の上のみでなく、更にそれ等のものの發達を導く思想そのものの上にも、斧を加へることが出來るか。
 これを一言すれば、果して吾々は、吾々の行爲や方法に於けると同じく、吾々の思想に於ても革命的であるか。吾々の精力が革命的思想のために使はれてゐるだらうか。


 吾々の父祖の持たなかつた思想の大膽さを今日の人々に與へたのには、いろんなことが與かつて力あつたことは確かだ。
 吾々の時代の人がそれに與かり加はつた自然科學の非常な目ざめは、思想に前例のない大膽さを與へた。きのふ出來たばかりの全科學が、吾々の父祖の夢にも思ふことの出來なかつた廣大な地平線を、吾々の前に開いた。
 物質上いろんな力が一つのものとされて、動物や人間の精神生活をも含む自然現象の總體が説明され、吾々はこの自然現象の總體についてのごく大膽な考へを持つことが出來るやうになつた。宗教の批評は、深刻に、未曾有のそしてまた不可能だつた大膽さで行はれた。人間社會のいろんな制度の起原を神に歸するやうなことや、また奴隸制度を説明し永續させて行くことに使はれたゐはゆる『攝理の法則』についての、神聖な迷信の一切の土臺は、科學的批評の下に打ち倒された。そしてこの批評は既に民衆の奧深くにまで浸みこんだ。
 人間は自然に於けるその地位を知ることが出來た。彼自身がその制度をつくつたものでありそして彼のみが又それを造り直すことの出來ることを知つた。

 一方には又、人が自然の中に見る一切のものに嘗つて結びつけてゐた不變といふ考へが、ぐらつかされ毀されて無にされてしまつた。自然の中の一切のものは變化する。絶えず變化する。太陽系も、遊星も、氣候も、動植物も、人種も。人間社會の諸制度がどうして不朽のものであり得よう。
 何ものもそのまゝ繼續するものはない。一切のものは變化する。動かないやうに見える岩も大陸も、又そこに住んでゐるものも、その習俗も、その習慣も、その考へも、吾々が吾々のまはりに見るところのものは、直ちに變つて行かなければならない一時的現象に過ぎない。不動は死だ。かういつた考へに近代科學は吾々を馴らした。
 が、この考へはまだほんの昨日からのことだ。アラゴは吾々と殆んど同時代の人だ。それでも、或日彼が大陸のことについて話して、それが或時には海の中から浮び出し、或時には波の底に沈んでゐたともいふと、やはり學者の一友人が彼にいつた。『するとその大陸はやはりきのこのやうにして生えるんですか。』それほどまでに、當時ではまだ、自然の不變といふ考へが人心に深く根をはつてゐたのだ。今日では、大陸の變化とかいふことはもう極く通俗な言葉の一つとなつた。
 そして人は、革命は進化の主要な一部分に過ぎないものだといふことを、朧氣ながらも分り始めた。自然の中のどんな進化でも、變革なしに行はれることはないのだ。ごく緩かな變化の時期のあとに加速度的の急激な變化の時期が來る。されば革命は、それを準備する緩かな變化やまたその後に來る急激な變化と同じやうに、進化のために必要なものである。
 生命は不斷の發達だ。植物も動物も個人も社會も、同じ状態に長くゐれば、枯れて死ぬ。これが進化哲學の根本思想なのだ。そしてこの思想が、一切の變化のために必要な大膽さをどれほど勵ますであらうかは、直ぐに分ることだ。

 猶この外でも、この世紀の間の人知の侵略の迅速さを見よ。またその大膽さを見よ。
『思ひ切つてやつて見ろ』といふのが近代の機械術の合言葉だ。高さ百メートルの海の入江に架けた長さ六百メートルの橋を考へて見ろ。やつて見れば、實際はフオス灣でそれが成功したやうに出來るのだ。三百メートルの塔を考へて見ろ。やつて見れば出來るのだ。スエズやパナマの海峽を掘つて見ろ。やれば、二つの大洋がつながるのだ。アルプス山に穴をあけて見ろ。やれば、中央ヨーロツパの平野を地中海の岸に結びつけるのだ。
 近代機械術の歴史は、『大膽に、そしてまた大膽に!』といふダントンの言葉の一連の變遷に過ぎない。
 そしてこの大膽さは既に文學や美術や戲曲や音樂にも及んだ。心が諸君に言ふまゝに、大膽に話せ、書け、描け、作曲しろ。
 諸君が思想を持ち知識を持ち才能を持つてゐるならば、諸君はその形式の新しさにも拘らず聽かれ、また了解されるだらう。


 これらの一切のことは、吾々の時代に、又その革命に、莫大な利益を與へる。これら一切のことは革命家の思想の大膽さを刺戟する。然るに不幸にしてこの同じ大膽さが、今日までのところ政治や社會經濟の方面に缺けてゐた。そこでは、思想に於ても、またその適用に於ても、まだ臆病が支配してゐる。
 尤も、前世紀の間は、政治史は敗北のことしか書くことが出來なかつた。あちこちで勝利は得られてゐても、その勝利はやはり全く敗北の性質を持つてゐた。
 一八四八年の革命前に、イタリイや、ハンガリイや、ポーランドや、アイルランドの愛國者等が、その民族的獨立を得ようとして示した壯烈な行爲を思ひ出して見ても、それが失敗に終つたことを思へば、そこに何等の元氣づけさへも見出すことは出來ない。そして、イタリイやハンガリイの獨立が遂にどうして得られたかといふことを思ふと、その理想がそれによつて實現せられるに至つたその帝國主義に對する讓歩や、その後戻りについて、彼等愛國者のために赤面せざるを得ないのだ。
 四八年六月や七一年五月の犧牲者等の殺戮や、ドイツの軍國主義や、帝國主義時代のフランスの侵略や、ロシヤの青年の無駄な努力や、ロシアの革命の失敗や、又ロシアの反動主義がその勝利を歌つた虐殺、これら一切のことは、社會事實の表面しか見ることの出來ないものには大膽な心を呼び起すやうにも、また養ふやうにも出來てゐなかつた。
 また、國際勞働者同盟(インタナシヨナル)が、その最初にやつた大きな約束、勞働者の心に呼び起した希望について考へて見ても、その後繼者であると自負してゐる諸勞働黨の墮落を思へば(これはサンデイカリズムの勃興以前に書いたものだ)、勞働者がその約束について信仰を失つて、その心に絶望を抱くやうになるのも尤もなことだ。
 しかし、政治の落膽者共によつて擴げられ養はれたこの見解ほど、間違つたことはないのだ。何故なら、前世紀の失敗や敗北の原因を考へると、何にがその敗北を持ち來たしたかは、直ぐ分るのだ。それは前に進むことを十分敢てしなかつたからだ。いつでも目を後ろの方へ向けてゐたからだ。

 いろんな個人や國民が、荒れ狂ふやうな革命黨となつた時、彼等はその理想を將來の中に求めず、それを過去の中に求めた。新しい革命を夢みるかはりに昔の革命にあこがれてゐた。
 一七九三年には、ローマか或は古代スパルタをさへ再建しようと夢みてゐた。一八四八年にはこの一七九三年のやり直しをしようとした。一八七一年にも、一七九三年のジヤコビン黨をひそかに崇めてゐた。ドイツ革命もやはりこの一八四八年を再現しようとした。一八四八年にはペテルスブルグの執行委員會はブランキイやバルベスをそのお手本とした。そして一九〇五年には、ロシアの社會主義革命家は、ロシアの新聞でいつも一つの革命として彼等に教へられてゐたところの、ベルリンの一八四八年三月十八日を想像してゐた。

 技師や科學者や藝術家が過去を投げ捨ててゐる時、政治家と經濟學者とはその靈感を過去に求めてゐる。實際、もし技師がその材料を古代技術に求めるとしたなら、その技術はどんなものになるだらうか。その新しい考へを得るのに、その手許にある新しい材料を使はなかつたらローマの橋や堀割以上のものが出來たらうか。フオルス橋の技師等は、この新しい材料を使はなかつたら、海の入江を遮つて橋弧を積み重ねるのにシクロペアンの技術しか考へることが出來なかつたらう。もし彼等に大膽さがなかつたら、彼等はその建築の新時代を開くことは出來なかつたらう。
 又、もしウオレスやダアヰンが古い書物の中に事實と思想とを探すことに固執してゐたとしたら、植物や動物の進化といふ學問はどんなになつたらうか。この先驅者等は新しい學問には新しい觀察が要るといふことが分つてゐた。そして彼等は大自然を訪ねて、熱帶のほとりにその秘密を探りに行つた。その新しい歸納的結論を得るために新しい基礎を求めに行つた。
 然るに、政治や經濟の方面ではかふいふことがないのだ。そしてこれがその考への臆病なわけなのだ。十九世紀の一揆叛亂の敗北したわけなのだ。
 その目を後ろの方へ見はつて新しい社會を建設するなどといふことが出來るものでない。プルードンが既に勸告していつたやうに、今日の社會の傾向を研究して、それによつて明日の社會を推斷するほかは、新しい社會の建設に達することは出來ない。人心に芽ぐんでゐる新しい思想、これが根本だ。そしてこの唯一の根本によつて、プルードンが勸告したやうに、今日の社會の傾向を研究して、そこから革命の成功に必要な革命的狂熱と思想の大膽さを引き出して來ることが出來るのだ。


 今、マルクシストや、ポシビリストや、ブランキストや、又ブルジユワの革命家等を一瞥して見ると――何故なら今日芽ぐんでゐる革命にはこれらの總てのものが顏を出すであらうから――そして同じやうな政黨が名は違つても同じ特徴を持つてどこの國にもあることを考へて見ると、そして又、その根本思想や目的や方法を解剖して見ると、驚くことには、彼等はみんな過去に目をつけてゐて、誰れ一人將來を見ようともしないで、そしてその政黨がみんな次ぎのやうな一つの思想しか持つてゐないのだ。即ち、その思想といふのは、政府の力としては甚だ強い、しかし世界を革命することの出來る唯一の思想を生みだすには甚だ無力な、ルイブランかブランキイか、或はロベスピエルかマラを復活させることなのだ。
 みな獨裁を夢みてゐる。『無産階級の獨裁』とマルクスはいつた。詳しくいへば、その執政官共の獨裁だ。ほかの政黨の參謀等は、社會黨以外の我黨の獨裁だといふだらう。が、それはみな歸するところは同じだ。
 みなその敵の合法的虐殺による革命を夢みてゐる。革命裁判、檢察官、ギロテイン、及びその雇人即ち死刑執行人と獄吏とを夢みてゐる。
 みな國民をその臣下として、國家の叙任を受けた幾千幾萬の官吏によつてその臣下を支配しようとする、全知全能の國家の政權獲得を夢みてゐる。ルイ十四世もロベスピエルも、又ナポレオンもガンベタも、要するにかういつた政府以外のものを夢みてはゐなかつたのだ。
 みなこの獨裁時代の後に革命から生れ出る『建物の冠』として、代議政治を夢みてゐる。
 みな獨裁者の造つた法律に對する絶對的服從を教へてゐる。
 みなその權力の首領等と違つたことを考へてゐるものは總て虐殺するといふ、公安委員會の夢ばかり見てゐるのだ。自分自身の意志するまゝに思索し行爲することを敢てする革命家等は殺されなければならない。もつと遠くへ行かうといふものは、猶さら殺されなければならない。もしマラがまだ許されるとすれば、マラ以上の共産主義者や、また『氣違ひ』だと呼ばれてゐるものは殺されなければならない。
 みな何等かの形式の下に、或は私有か或は國有かの所有權の維持を欲してゐる。財産を使用し濫用する權利の維持を欲してゐる。仕事による報酬、國家によつて組織された慈善を欲してゐる。
 みな個人や民衆の發意心を殺すことを夢みてゐる。考へるといふことは、と彼等はいふ、それは科學であり技術であつて、民衆には不向のものである。そしてやがて、民衆に發言することが許されても、それは彼等のために考へ彼等のために法律をつくる首領を選ぶために過ぎないだらう。そして思想の指導者によつて論ぜられない解決を、自ら求め、自ら試みるためではないだらう。マルクスやブランキイは、ルソオが十九世紀のために十分考へたやうに、今日の世紀のために十分考へた。そして、首領が先見しなかつたことは存在の理由がないことになるのだ。
 これが革命家といふ名を僭稱してゐる百人中九十九人の夢なのだ。


 さればもし諸君が、いはゆる革命的だといふ、しかし無政府主義的宣傳には染つてゐない、教育を受けた勞働者の集會へ行つて、そして革命の時にはどうするかと聞いてみるなら、富豪の家へ坐りこむとか、食料を分配するとか、銀行や倉庫に鋤や鐵鎚を打ちこむとか、監獄をぶち毀すとか答へるものがどれだけゐることだらう。そして一言でいへば、勞働者が搾取者にその勞力を賣つて、その金で又ほかの搾取者の家主や食料品屋や銀行屋などに支拂ふ、といふやうなことのもうない新世界を始める企てをするといふものがどれだけあることだらう。いはゆる革命家の中に、先づその首領等にそれを謀るといふことをせずに、みづからその思想を發表することの出來るものが、どれだけゐることだらう。みんなが異口同音に答へることはたつた一つだけである。それは『革命の敵』を虐殺するといふことだ。そして、それを最も多く虐殺すると約束するものは、それが革命をやるごく小さな手段について語るのに赤ん坊のやうに臆病であつても、直ちに本當の革命家だと見做される。
 きのふは機關銃の餌食となり、あすは機關銃の主人となる。民衆はそれ以上に出てはいけないのだ。そのほかのことはいと高いところで考へてくれるのだ。
 私はほかのところで既にこのことを云つた。民衆が長い間そのために壓迫されて來たものどもに復讐する場合には、何人にもそれを非難する權利はない。ただ民衆の苦しんだ一切のことを彼れ自身も苦しんだものだけが、さうした場合にその中へ立ち入る權利がある。その子供等が飢えに泣くのを聞き、餓え疲れて死ぬのを見たものだけが、橋の下に寢ね、貧窮のあらゆる危惧とあらゆる屈辱とを受けたものだけが、紳士共がホテルで寢てゐる間に、家もなくパンもなくして大道にぶらつき、又は將軍共のやすやすと退却する間に雪の中に餓え凍えてうろついたものだけが、立ち入る權利があるのだ。民衆の復讐を審いて、きのふは穢多非人であつた彼が、その壓制者のためにそこへ立ち入る權利があるのだ。それにそれだけではない。民衆は幾千年以來、この復讐を教へられてゐるんぢやないか。この復讐といふことは、宗教によつて神聖にされ祝福され、そしてまた加害者のからだを傷つけることによつてその加害者が亂した正義を恢復する法律といふ女神の手で強ひられてゐるんぢやないか。誰も彼も合法の殺人によつて復讐を贊同してゐるんぢやないか。
 又、今日の制度の下に、死刑執行人や裁判官に反抗する勇氣のあり、そして事實の上で反抗した人だけが、それについて論ずる十分な權利があるのだ。それをすることの出來なかつたものは默つてゐるほかはない。その復讐は彼等が授けた結果なのだ。合法的復讐といふ彼等が教へた主義の結果なのだ。彼等が人命を輕んじた結果なのだ。この復讐の語るところのものは、キリスト教やローマ教の幾千年間の教育、貧窮の幾千年、一切の歴史なのだ。一切の歴史に對する叛逆だけがこの復讐に反對して立つ權利があるのだ。
 しかし、この復讐といふ性質を否認して、國家の原則として立つて、そして革命の原則のやうな顏をして威張つてゐる暴力は、これとは全くわけが違ふ。それはジヤコビン黨(中央集權派の典型)お得意の暴力だ。なぜなら、彼等は、民衆の狂熱がその最初の犧牲とともに消えて直ぐそれが後悔に變つてしまふことを知つてゐるからだ。そして彼等はまたその革命的思想の空虚を補ふために、革命の具體化としての合法的暴力を行はなければならないのだ。
 彼等は、革命に反對することに利益を持つ人間共のごく少部分でも殺すことの出來ないことを知つてゐるブルジユワが、國民の大多數であることを知つてゐる。少數ブルジユワによつて支配されてゐる無産者の大衆しか、もうその想像の中に殘らないほど、資本の集中といふことを信ずる馬鹿者共にはお氣の毒であるが、これは事實なのだ。現に、フランスに今、ブルジユワと賃金勞働者とがどの位ゐるか。一切の賃金勞働者をかぞへて、それには官吏だの、從僕だの、大商店や大銀行の香水の香のぷん/\する雇人だの、鐵道の金ボタンをつけた雇人だの、その他最も惡いブルジユワよりももつとブルジユワである一切の賃金勞働者を入れて、一八八一年の國勢調査では、フランスの三千七百萬の全人口の中に、一切で七百萬しかゐなかつた。それにその家族を加へても二千萬足らずにしかならない。そしてそしてその殘りの一千七百萬は農民と地主とブルジユワとその家族とだ。そこから、地主といふよりも寧ろ無産者である農民の五百萬を引くと、他人の勞働で食つてゐる千二百萬のブルジユワ――その從僕どもは入れずに――が殘る。フランスは千二百萬のブルジユワだ。そしてイギリスには千五百萬のブルジユワだ。

 今日のジヤコビンもやはりブルジユワの虐殺のことは敢ていひ得ない。『その一切のものを默らして了ふには』と彼等は云ふ。『數千の頭を切るだけで十分だ。その恐怖でみんな地の下にもぐつてしまふ。』
 さて、この理屈は或る一事を證據だてることになる。それは、フランス革命の時にジヤコビン黨のブルジユワがいひふらしたこのお伽噺のために、民衆は彼れ自身の歴史から何んにも學ばずにゐるといふことだ。[#「ゐるといふことだ。」は底本では「ゐるといふことだ」]
 先づジヤコビン黨の革命が、もつと遠くへ即ち民衆の押して行くところへ行くことを敢てしなかつた間違ひから、既に死につゝある時に、いはゆる恐怖時代が始まつたのだ。そしてハイカラ共や遊野郎共が隊を作つて民衆を侮辱し、赤い拍車の生活に戻つて、既にフランスの四分の三を支配してゐた反革命を叫ぶやうになつたのも、正にこの恐怖時代の下のことだ。
 エドガー・キネエはそれをかう説明した。それは民主政治が恐怖政治を使ひこなすことが出來ないからだ。カトリツクの教會や封建諸王がそれをやつたのと同じ結果を以て、それを使ひこなさうとするには、民主政治はルイ十一世や暴王ジヤンやロシアの諸皇帝について學ばなければ駄目だ。民主政治はそれを大騷ぎしてやる。が、民衆は槍の先きに突き刺さつた頭のまはりでカルマニヨル(共和黨の歌舞)を踊つてゐる時にでも、實に頑是ない好い兒である。
 封建諸王やロシアの皇帝はそんな騷ぎをしない。彼等はただ一人を打ち倒して他の者共をそれと同じ運命に陷る恐れで戰慄させる。彼等はその犧牲者を街の中に引きずり廻すやうなことをしない。牢屋の中で締め殺してしまふ。ロシアのアレキサンダー三世は、王位に即くと直ぐ五人――しかもその一人は女――の犧牲者を選んで、それを締め殺した。それでも彼はまだそれを公共の場所の廣場でやつたことを後悔した。そんなことをしたので、ヴエレスチヤギンはそれを畫布の上に不朽のものにしたのだ。その後はすべてシユルツセンブルグの牢獄に鎖づけにして、十年間もその囚人等の一語をも聞えなくし、生きてゐるのか死んでゐるのかも分らないやうにして置いた。彼は、廣場だの眞晝間の死よりも、どうしたのか分らない恐怖の方がもつと人心に強く響くといふことを知つてゐたのだ。
 そしてキネエが猶、この恐怖政治はとても民衆には使ひきれないといつたのは實にその通りだ。恐怖政治といふやうなことは民衆は嫌ひなのだ。民衆は却つてそれを恐れてゐるのだ。民衆自身は直ぐそれにいやになる。パリ・コムユンの檢事や、犧牲者等の滿載された車や、斷頭臺などは、直ぐ民衆におぞ氣を立たせる。そして民衆は又、直ぐ、この恐怖政治が獨裁を準備することを知り、そしてその斷頭臺をぶち毀しに行く。民衆は恐怖政治によつて統治はしない。恐怖政治は鎖を鑄るために發明されたもので、殊にそれで合法の皮をかぶつた時には、民衆を結へるための鎖を鑄るものである。


 敵に打ち勝つためには、斷頭臺よりももつと以上のもの、恐怖政治よりももつと以上のものが要る。革命的思想が要る。本當に革命的な、廣大な、敵が今までそれによつて支配して來たあらゆる道具を麻痺させて無能のものにしてしまふほどの、思想が要る。
 もし、敵に打ち勝つためには恐怖政治しかないといふことであつたら、革命の將來はどんなに悲しいことであらう。が、幸ひに、革命には、それと違つた有力な他の方法があるのだ。そしてこの方法は既に、どんな方法が彼等に勝利を確かめるかといふことを求めてゐる革命家等の新しい世代の中に芽ざしてゐるのだ。彼等は、それがためには何によりも先づ、舊制度の代表者からその壓制の武器を奪ひ取らねばならないことを知つてゐる。あらゆる都市、あらゆる農村に於て、あらゆる壓制の主要機關をたちどころに廢止しなければならぬことを知つてゐる。殊には又、かくして解放された都會や農村に、住宅や生産機關や運輸の方法や、また食料その他生活に必要な一切のものの交換を社會化して、社會生活の新しい型を始めなければならないことを知つてゐる。





底本:「革命の研究」コスモス書店
   1946(昭和21)年4月20日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:クロポトキン・プロジェクト
校正:浜坂邦彦
2014年7月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード