家のあるじとして気になること

DIE SORGE DES HAUSVATERS

フランツ・カフカ Franz Kafka

大久保ゆう訳




 第一の説。オドラデクという言葉はスラブ語が起源で、それは語形からも明らかだとされている。第二の説。ドイツ語こそが起源であり、スラブ語はその影響を受けたにすぎない。いずれにせよ、どちらの説も頼りない。とりあえずもっともらしく考えるとすれば、どちらも的はずれで、そもそもそんなことをしても、この言葉の意味がわかるわけではない、となる。
 むろん、そんなことをつぶさに調べてどうなるのか、という話だが、実際、オドラデクという名で、やつが存在しているのだからしかたがない。やつは見た感じ、ぺちゃっとした星形の糸巻きみたいだ。しかも本当に糸が巻き付いているように見える。ただ、その糸はちぎれてぼろぼろで、結ばれ合うというよりはぐちゃぐちゃともつれ合っていて、なおかつその糸くずはそれぞれ違う色と材質であるようなんである。それでもって、やつはただの糸巻きにあらず、星の真ん中には短い棒が突き出ていて、さらにその棒から垂直にもうひとつの棒がぴたっとくっついている。平面に対して、一点にその垂直の棒、もう一点に星のとんがりをひとつ支えにして、まるで二本足みたく全体をまっすぐ立てることができる。
 そうなれば、このオブジェがかつてはもっともらしい形をしていて、今は壊れてしまっただけなのだ、そんなふうに考えたくなるのも人情というものだ。だが、どうやらそうでもなさそうなのである。少なくとも、それらしいところはひとつもない。そうではないかと思わせるだけの手がかりもなければ壊れた跡もない。どこからどう見てもがらくたなのだが、それでいてひとつのものとして出来上がっている。もうちょっと言わせてもらうと、オドラデクはめちゃくちゃすばしっこいやつなので、どうにもつかまえられなくて、だからそういうことをどうとも言えんのである。
 やつはかわるがわる、屋根裏部屋に、階段室に、廊下に、玄関にあらわれてはじっとしている。たまに何ヶ月も姿を消すことがある。おそらく別の家にうつっているのだ。だがそのあと、かならず私たちの家に出戻ってくる。たまにひとがうちへ帰ってみると、やつが階段の手すりの下で、ぴたっともたれかかっていることもある。そんなとき、ひとは声をかけてみようかなと思う。むろん、ややこしいことを問いかけたりはせずに、(まあ、ちっぽけなことしかしないやつだからそれ相応に)子どもあつかいしてやる。「あのさ、ぼく、なんて名前?」とかたずねてみる。すると「オドラデク」とやつはいう。「じゃあ、どこに住んでるの?」すると「住所不定」といって、やつは笑う。だが笑うも何も、肺を使わずに笑う人の声に聞こえてならない。落ち葉がかさかさいう音のように耳障りだ。きまってそういう笑いで、会話が終わる。そもそも、そういった言葉だって、いつも返ってくるとはかぎらない。ずっとだまっていることも、よくある話だ。木のように無口。たしかにやつは木材っぽいんであるが。
 どうでもいいことだが、わたしはこう考えてみるのだ。これから先、やつはどうなるのだろう。死ぬことがあるのだろうか? 死ぬものはみな、あらかじめ何らかの目標を持ち、何らかのやることをかかえている。そして、そのためにあくせくする。だがオドラデクの場合、こういったことが当てはまらない。もしかすると、やつはこれからも先、わたしの子どもや孫の足下で、糸をだらりとひきずりながら、かさかさ鳴くというのだろうか? そりゃむろん、やつが誰にも害をなさないということはわかっている。だが、ぼんやりと、やつがわたしの死んだあともやっぱり生きているにちがいない、などと思うと、わたしはどうも悩ましくてしかたがない。





翻訳の底本:Kafka, Franz (1919) "Die Sorge des Hausvaters"
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   2007(平成19)年4月10日初訳
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翻訳者:大久保ゆう
2014年3月24日作成
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