兄の帰朝

小金井喜美子




 兄が洋行から帰られたのは、明治二十一年九月八日のことでした。家内中が幾年かの間待暮してゐたのですから、その年も春が過ぎてからは、その噂ばかりしてゐました。少し前に帰朝された人に、「年寄達に様子を話して下さい」とお頼みでしたので、その方が訪ねて下すつて、親切にいろいろ話して下さいました。日常生活から、部屋の様子、器具の置場などまでして話して下さるので、どんなだらうか、あんなだらうかと想像をも加へて、果がありません。
「夜帰つて来て、幾階もある階段を昇るのに、長い蝋マッチに火を附けて持ちます。それが消える頃には部屋の前に著きます」と聞いた弟は、細長い棒を持つて来て、「これくらゐですか」などと尋ねます。
「いゝえ、そんなに長くはありません。箱をポケットに入れて、消えれば次のを擦ります。どこでも擦れば附きますから、五分マッチともいひます。」
 さうした話を、何んでも珍しく聞くのでした。
 祖母は夫が旅で終つた遠い昔を忘れないので、「旅に出た人は、その顔を見るまでは安心が出来ませんよ」といはれます。母は、「そんな縁起でもないことを仰しやつて」と、嫌な顔をなさいますが、心の中では一層心配してゐられるのです。親戚西氏の近親の林氏は人に知られた方でしたが、洋行された留守宅で、商人を呼寄せて何か拡げさせて興じてゐた最中に、不幸の電報が届いたとのことで、その話には誰も心を打たれました。ですから、「慎んで待受けねば」といふ気持が強いのでした。
 かねて父の往診用の人力車はあつたのですが、兄の帰朝のためにとまた一台新調して、出入の車夫には新しい法被を作つて与へました。帰朝の日には新橋まで迎ひに出すといふ心組でした。
 ところが兄は、同行の上官石黒氏を始め、その外にも連があつて、陸軍省から差廻しの馬車ですぐにお役所へ行かれましたので、出迎へは不用になりました。
 私は早くから千住の家へ行つて待つてゐました。兄はあちこち廻つて帰られたので大分後れましたけれども、どこかで連絡があつたと見えて、橘井堂医院の招牌のあるところから曲つて見えた時は、大勢に囲まれてお出でした。土地がらでせう、法被を著た人なども後から大勢附いて来ました。そして揃つて今日の悦びをいふのでした。父がその人達に挨拶をします。気の利いた仲働が、印ばかりの酒を出したやうです。家の中では、旧い書生達まで集つて来て悦びをいひます。祖母は気丈な人でしたけれど、お辞儀をしただけで、涙ばかり拭いて、物はいはれませんかつた。私はそれを見て、同じ様に涙が止りませんでした。父はにこにこして煙草を吸はれるだけ、盛に話すのは次兄一人です。
 やがて私は、家の車で送つて貰つて帰りました。その頃小金井は東片町に住んでゐました。始めは弓町でしたが、家主が、「明地があるから」といつて建てゝくれたのです。弓町では二棟借りてゐました。国許から母と妹とが来たので狭くなつたからです。東片町は畠の中の粗末な普請です。庭先に大工の普請場があつて、終日物音が絶えません。新築がつぎつぎに出来るためでせう。向ひ側には緒方正規氏が前から住んでゐられましたが、そこはお広いやうでした。その頃郵便局のあつた横町から這入るので、左へ曲ると行止りになる袋小路でした。小金井はアイヌ研究のために北海道へ二箇月の旅行をして、この月六日に帰つたばかり、それで十日からは授業を始めますし、卒業試問もあるといふのです。その頃はそんな時に試験があつたのでした。その備準もせねばならず、北海道からは発掘した荷物が来るのですから、繁忙を極めてゐました。
 その頃の東片町は、夜になると寂しいところでした。私の部屋のある四畳半は客間の続きですが、雨戸なしの硝子戸だけでした。いつか雨続きの頃、主人は会があつて不在の晩、静かに本を読んでゐる内に夜が更けました。ふと気が附くと、窓の前でペタッ、ペタッといふ音がします。何かしら、と首を傾けても分りません。暫くすると、また音がします。高いところから物の落ちる音ですが、それが柔かに響くのです。気味が悪いけれど、思切つて硝子戸を少し開けて、手ランプを出して見ましたら、やつと分りました。それは大きな蝦蟇が窓の灯を慕つて飛上り、体が重いのでまたしても地面に落る音なのでした。蹲つてこちらを見る目が光つてゐます。翌日早速厚い窓掛を拵へました。その家は、私共が引移つた後には長岡半太郎氏が長く住んでゐられました。
 話が脇路へ反れました。兄は帰朝後、新調の車で毎日役所へ通はれます。私は閑があれば兄を訪ひました。私への土産は、駝鳥の羽を赤と黒とに染めたのを、幾本か細いブリキの筒へ入れたのです。御出発なさる時に湖月抄と本間ほんけんの琴とを買つていたゞきましたから、「もう十分ですのに」とは申しましたが、若い時ですからやはり喜びました。その羽を覚つかない手附で帽子に綴ぢつけなどしました。
 さうして九月もいつか二十日ほど過ぎた或日、独逸の婦人が兄の後を追つて来て、築地の精養軒にゐるといふ話を聞いた時は、どんなに驚いたでせうか。婦人の名はエリスといふのです。次兄がそのことを大学へ知らせに来たので、主人は授業が終るとすぐ様子を聞くために千住へ行つたといふ知らせがありました。さあ心配でたまりません。無事に帰朝されて、やつと安心したばかりですのに、どんな人なのだらう。まさか詰らない人と知合になどとは思ひますけれど、それまで主人の知己の誰彼が外国から女を連れて帰られて、その扱ひに難儀をしてゐられるのもあるし、残して来た先方への送金に、ひどくお困りなさる方のあることなども聞いてゐたものですから、それだけ心配になるのでした。
 夜更けて帰つた主人に、どんな様子かと聞いて見ても、簡単に分る筈がありません。たゞ好人物だといふのに安心しました。事情も分つたらそれほど無理もいふまいとの話に頼みを懸けたのです。
 それから主人は、日毎といふやうに精養軒通ひを始めました。非常に忙しい中を繰合せて行くのです。次兄はまだ学生ですし、語学も不十分です。兄は厳しい人目があります。軍服を著て、役所の帰りに女に逢ひには行かれません。それに較べると主人は気楽ですから、千住では頼りにして、頻りに縋られます。父は性質として齷齪なさいません。どうにかなるだらうくらゐの様子でしたが、母は痩せるほどの苦労をなさいました。何しろ日本の事情や森家の様子を、納得の行くやうに、ゆつくり話さねばなりません。かれこれする内に月も変りました。
 その頃の主人の日記に、「今日は模様宜し」とか、「今日はむつかし」などと書いてありますのは、エリスとのことでせう。前にもいつたやうに、北海道で発掘した人骨を詰めた荷物がつぎつぎと著きますので、それらは決して人任せにはせられません。どんな破片でも大切なのですから。但しそれで忙しいのは楽しみらしいのですが、今度のことは、私としては、兄のためといふばかりでなく、父母のためにも、いひかへれば家の名誉のためにも尽力して貰ひたいと思ふのですから、主人の日々の食事にも気を附け、そろそろ寒くなるにつけて、夜は暖かにしてなどと気を配ります。もともと主人は洋行中から名代の病人だつたので、たゞ養生一つで持ちこたへてゐたのでした。私が小金井へ来ました時、「よく評判の病人のところへよこしたなあ」と笑つたくらゐです。今度のことは、すらすら運ぶ用事とは違ひますから、主人も千住へ行くと、夜更けに車で送つて貰ふのです。用談も手間取りますが、さうした中でも未開な北海道の旅行中に幾度も落馬したこと、アイヌ小屋で蚤袋といふ大きな袋に這入つて寝て睡りかねたこと、前日乗つた馬が綱を切つて逃げたために、土人と共に遠路をとぼとぼ歩いたことなどを話して、心配中の人々を暫時でも笑はせなどしました。
 日記にはなほ賀古氏と相談したともしてあります。賀古氏も定めし案じて下すつたのでせう。でも直接その話には関係なさらなかつたやうです。
 十月十七日になつて、エリスは帰国することになりました。だんだん周囲の様子も分り、自分の思違へしてゐたことにも気が附いてあきらめたのでせう。もともと好人物なのでしたから。その出発に就いては、出来るだけのことをして、土産も持たせ、費用その外の雑事はすべて次兄が奔走しました。前晩から兄と次兄と主人とがエリスと共に横浜に一泊し、翌朝は五時に起き、七時半に艀舟で本船ジェネラル、ウェルダーの出帆するのを見送りました。在京は一月足らずでした。
 思へばエリスも気の毒な人でした。留学生達が富豪だなどといふのに欺かれて、単身はるばる尋ねて来て、得るところもなくて帰るのは、智慧が足りないといへばそれまでながら、哀れなことと思はれます。
 後、兄の部屋の棚の上には、緑の繻子で作つた立派なハンケチ入れに、MとRとのモノグラムを金糸で鮮やかに縫取りしたのが置いてありました。それを見た時、噂にのみ聞いて一目も見なかつた、人のよいエリスの面影が私の目に浮びました。





底本:「日本の名随筆 別巻31 留学」作品社
   1993(平成5)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「鴎外の思ひ出」八木書店
   1956(昭和31)年1月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月17日作成
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