呉清源

佐藤垢石




 呉清源は今や棋聖といつてよからう。
 昭和二十六年四月初旬に於て対本因坊昭宇、橋本宇太郎八段との読売十番碁に、六勝二敗二持碁の成績であるが、吾々素人が見てもこの十番碁は、呉清源の勝に帰するであらうことが予想でき、世間一般の評も呉清源の方が大きな分を持つてゐるといつてゐた。それはそれとして、まだ一つ残された問題が他にある。それは藤沢庫之助九段との対局である。呉と藤沢の両九段がいつ対局の機会を得るか、それは予測できないけれど、この二人は、いづれが嫌であつても対局せねばならぬ運命を持つてゐる。米国とソ連のやうな身の上だ。
 呉と藤沢が、運命をかけた日に、いづれが勝つか。広く棋界一般の声をきいてみよう。日本棋院あたりの多くの人々も呉九段六分藤沢九段四分といふところが間違ひのない賭であらうといつてゐる。してみると、対橋本、対藤沢との結果は現在現実には示してゐないけれど、世評といふものは出鱈目ではなく、最後に呉清源が日本の棋界を征服することになるのであらうと思ふ。
 この結果は、偶然ではない。呉は、若いときから日本の棋界征服を心に期してゐたのである。
 それについて、私は想ひ出す話がある。この話は、いままで私は誰にも口にしなかつた。しかし、呉清源が日本の棋界征服の緒についた今日この話を説いて、世の人に呉清源の念力の在りどころを知つて貰ふのも無駄ではなからうと思ふのである。

 昭和十二年初夏から、呉は胸を軽く患つて信州富士見の高原療養所へ入院した。院長は医博正木不如丘である。私は、その年の九月下旬の秋晴れの一日、富士見の病室に呉清源を見舞つたのである。もう、この高原には穂の出た芒が半ば枯れて風になびき、榛の木が落葉してゐた。
 三四ヶ月の療養で、大いに体力を回復してゐた。昼は日光浴に努めて皮膚を灼き、夜は病室の窓を開け放して山の冷風を容れ、体力の抵抗を増すのに励げんでゐたのである。
 この日、私が呉清源を訪ねたのは、病気を見舞ふのを第一の目的としてゐたけれど、ほかに一つの目的があつたのである。それはその当時、七月の中旬に日華事変がはじまつたばかりで中国軍は連戦連敗、蒋介石は奥へ奥へと逃げ込んで行く、哀れな折柄であつた。この祖国の苦難に際して、呉清源はどんな感想を抱いてゐるか、私はそれを知りたいと思つたのである。さうして、彼の感想の持ちやうによつては、深く慰めてやりたいと考へてゐた。
 最初は、病気の経過のことから棋友の消息、遷り行く秋の眺めのことなど話してゐたが話題は次第にこのごろ大きな見だしで報ぜられてゐる日華事変のことに移つて行つた。私は、この事変に対する呉清源の感想を誘ふやうに仕向けて行つた。すると彼は言葉少なに、また遠慮するやうにぽつ/\とこんなことをいつた。
 ――末は、どうなることかと人並に心配が起らないでもない。戦争といふやうなことは結構な話ではないと思ふ。結構な話だと思ふ人は一人もあるまいが、とりわけ私のやうに中国に生れて、いまでは日本人となつてゐる者とすれば、日支が争ふなどとはまことに以て、ありがたくない。ならうことなら一日も早く、平和に帰つて欲しいのが山々である。
 かう述懐して、しみ/″\とするのである。私は、これをきいて切なる言葉であると思つた。そこで私は、問うてみた。
「とはいふけれど、現在日本に帰化したとはいひながら、中国がかうも日本に苛められてゐる場合、君は日本に敵愾心は起らないものか」
 と、言つて私は呉の顔を見たのである。
「…………」
 彼はこの問をきいて、しばし瞑目して唇を開かなかつた。しかし、やがて眼を開いて静かに語りはじめた。
「――御説の通りである。私は、帰化して日本人となつてゐるが、この腕のなかには中国の血が流れてゐますよ」
 かういひ終ると彼は袖から左腕を出して、前膊の白い皮膚を右の掌で二三度叩いてみせた。
「――而かも、蒋介石は私と故郷を同じくしてゐます。中支浙江です。私は蒋介石の心事を想ふと、胸が一杯になります」
 と、いつて彼はまたうちしほれた。やがてまた言葉に力を入れて、
「私は、一つの信念を持つてゐます。たとへ蒋介石が日本に征服されたとて、私が日本を征服してその仇を取つてやるといふ信念を持つてゐます。私は、この痩せ腕で武器を執つて血を見る戦争の術は知らないけれど、私は碁の闘ひを持つてゐます。遠からず私が、日本の棋界を征服して凱歌を揚げて故郷中国へ帰つて行く、その確信です。蒋介石よ、その日がくるまで隠忍自重してさうして最後に溜飲を下げて貰ひ度い。といふ念願です」
 かう語りながら、呉清源は面を紅潮させ、清純な眼底を輝かせた。
 私は、これをきいて、ひとりでに頭が下つた。眼頭に熱いものを感じた。
 しかしながら私はこの話を誰にも語らなかつた。殊に、戦争中血を見て吾れを忘れてゐる日本人がこの話をきいたならば、どんな不祥事が起らぬとも限らないと思つたからである。
 呉清源が今は、日本棋界征服の緒についたこと、私が今から十三、四年前彼を訪ねて、この話を交したことを想ひ合せて、読者諸兄にこの一文を読んで戴きたいと思ふ。
 そのとき、呉は二十二歳の若年であつたのである。旺也其念力。

 呉清源は、屡々「天授の一石」といふ言葉を唱へる。
 碁の盤面は縦と横と各十九区劃宛に割られてゐる。総計僅かに三百六十一劃であるが、その変化をかぞへるときは何百億、何千億といふやうな天文学的数字となつて打つ手の変化は到底人知の及ぶところではない。難局の際、勝敗を決する一手の打着に遭遇した場合、どの点を撰んで処理するかは、人間が百年考へても、千年考へても、考へ及ぶものではないのである。そこに「天授の一石」が生れてきたと呉清源はいふ。
 囲碁は、もと奕と謂ひ太古尭帝が山中に於て仙人から伝授されたもので、その理は深幽遠大、天地融合の相を示して太極を究むるは宇宙と共に悠遥たるべしと称されるのであるから、難局に際しての一石は天の命ずるところに従ふよりほか術はあるまい。
 この思想は、元来東洋哲学から生れてゐるのである。老子の哲学である。老子の哲学は、仙人の哲学である。呉清源は少年のころから老子の哲学を好んで学んできた。今日でも同じである。さうして仙人の道を求めてきた。であるから呉の風格は、仙人に似て測り知れないところがある。そんな次第で、彼の一生を普通人から見れば、奇行の一生といへるであらう。
 昭和十年ごろの夏の一日であつた。瀬越、小野田、橋本、篠原、呉清源などの日本棋界の強豪と、報知新聞の生駒※(「皐+羽」、第3水準1-90-35)翔並に私など、木更津の海へ簀巻の漁に行つたことがある。その日、漁が終つて潮が上げはじめると南の風が伴つて海が荒れ、浪に弱い生駒※(「皐+羽」、第3水準1-90-35)翔は船酔ひを起して顔色蒼白となり、いかにも苦しさうであつた。その姿を見た呉清源は、なんと思つたか、ひよいと立つて※(「皐+羽」、第3水準1-90-35)翔のうしろへ廻り、黙つてその肩へ飛びつき、指先しなやかに揉みはじめたのである。
 舟中の一同は、興味あることであると思つて、ほゝゑんだ。
 その夜のことである。夕方、舟から上つて一同木更津の大きな旅館へ泊ることにした。晩酌とめしが終つて、いづれも陶然としてゐると、そこへ宿の老女中が入つてきて、女はいらぬかといふ。早く予約して頂かないと、今夜は他よりも泊り客が多いから品ぎれになるから、いかがですと交渉をはじめた。木更津といふところは、どこの旅館でも宿の女中が夜伽を稼ぐ慣はしがある。そこで橋本、篠原、小野田などの若い健啖の連中、忽ち予約を申し込んだ。
 次に老女中は最も年少で美男子である呉清源のところへ行つて「あなたは、いかがです」と勧誘した。諸先輩が三人も揃つて予約したのに、自分もその例に習はねばならぬかと考へて、ひどく当惑した。
「先生、どうしたらいゝでせう」
 師匠である瀬越八段の前へ畏つて坐り、かう呉清源は伺ひを立てて指揮を待つたのである。すると瀬越八段は、
「なあに、あんな狼連をまねないでもよろしい」
 と答へた。それで呉は、ほつと安堵の胸を撫でおろした。そのときの、彼の顔は今も忘れない。

 呉清源は、日本へ来てからも、仙道を求めてやまなかつた。しかし、日本には仙人はゐない。老子の哲学を学ぶ同好の士もゐない。そこで彼は、日本の邪教や拝み屋のうちから、仙人の姿と仙の思想を発見しようとした。
 彼は日本へきたのは十三歳であつたがその翌々年の十五歳の春、だしぬけに師匠瀬越八段の家から抜けだして姿を隠した。さあ、瀬越家では大混乱である。わざ/\中国から預つた秘蔵の愛弟子に万一のことがあつては申しわけが立たないと、百方手を尽して彼の行衛を探したけれど皆目分らない。それでも、たうとう彼が丹波亀岡の大本教の本山に、参籠してゐるのを発見したのである。師匠瀬越は直ぐ亀岡へ馳けつけ、いやがる呉清源を二日も三日も口説いて、漸く東京へ連れ帰つたことがある。
 その後も彼は、邪教や拝み屋などに仙の思想を探してやまぬ。今から十年ばかり前である。彼は、西両国のあるところに一人の拝み屋を発見した。そして、これにぞつこん凝つてしまつた。日参り、夜参りである。師匠の瀬越や、中国から吾が子の保育に行を共にしてきた母堂舒文もこれには呆れて、拝み屋などに凝つたところで、なんのためにもならないから、やめてくれといくら頼んでも彼はいつかな耳を藉さない。
 両国の拝み屋には、一人の美しい姪があつた。拝み屋は、この姪と呉清源とを結婚させようと考へた。そのころ、呉は二十七、八歳、姪は二十一、二歳であつた。拝み屋は、呉清源を口説いた。彼は拝み屋から口説かれるといやとはいへない。結婚を承諾した。
 これには、母舒文も瀬越も、生駒※(「皐+羽」、第3水準1-90-35)翔も真剣になつて反対した。彼はこの反対にも従はない。つひに、結婚式をあげてしまつたのである。
 母舒文にとつて呉清源は可愛い末の男の子である。子供が年頃になつたならば、故郷の中国から嫁を迎へ、中国の習慣のなかに家庭生活を営んで、余生を送らうと考へてゐたのに、子供が日本人と結婚したのでは日本に住む楽しみを失つたといつて、そのころ南京に住んでゐた長男の、呉浣の許へ帰つて行つた。
 さて、話はそれからである。呉が凝つてゐる両国の拝み屋は、いろ/\策略は持つてゐるけれども、神様がかつたところがない。つまり、それは下手な拝み屋といふことである。従つて、呉清源のほかに狂信者がまことに少い。それでは、拝み屋としてはしやうばいにならない。御賽銭や献金も少いから、生活にも影響してくる。なんとか考へねばならぬ。
 一体、新興宗教といふものは教祖が男であつては役柄にはまつてゐないのである。天理教でも、大本教でも、なんとか教でも、すべて新興宗教の祖は女であつた。女ならでは夜のあけぬ新興宗教界である。さればといつて両国の拝み屋は女に変装して世に出るわけには参らないのだ。
 当時、神戸に奇言奇行を巧にする年増女がゐるといふことを伝へきいた。これを東京へ連れてきて、吾が家の教祖に仕立てたならば当るかも知れないと考へた。直ぐ拝み屋は神戸へ走つて行つて交渉してみると、年増女は、ぢやの道は蛇であるから、東京行を二つ返事で承諾した。両国へ伴つてくると、拝み屋は我が家の教祖に祭り上げ、且つ又内儀といふ境遇をも与へ、熱心に奇言奇行に研きをかけさせると、一つぱしの教祖姿に出来上つたから、世の中にデヴユーさせた。これが、即ち璽光尊の本体である。
 璽光尊の本体を解剖して細叙すれば際限がないからこの位にして止めて置くが、拝み屋さんが年増女を教育して、あらぬことを口走らせると、これが大いに当つた。そこに拝み屋の伯父さんが璽光尊の内閣総理大臣、呉清源が幹事長、呉の嫁さんが巫女の取締役といふ役割を作つて各地に出開帳を行ふと、図に当つて素晴しい人気を集めた。角力の双葉山が旗将となつていてきた。
 以上の経過で、呉清源は璽光尊を妄信したわけではない。たゞ単に、妻の伯父に義理を立てて日本各地を歩き廻つただけである。しかし呉清源は、今後どこに新興宗教を求めて歩きだすか、それはほんたうに分らない。彼は若いときから道教を学んで、どこかで仙人にめぐり会ひたいと日ごろ念願してゐるからである。

 四谷信濃町に在る犬養木堂の邸を、ひよつこり日本棋院の重鎮瀬越憲作が、同じ七段の岩佐※(「金+圭」、第3水準1-93-14)と共に訪れた。爽凉の気、外苑あたりの叢園に漂ふ昭和二年の秋の一日である。
「諸君ひさ/″\ぢやの」
「大分御無沙汰でございました」
「時になんぢや、重鎮が二人顔を揃へてやつてくるちふのは――」
「実は突然ですが、先生に一骨折つて頂きたいことができましたので――」
「ふん、さうか。わしは、七段二人腕を揃へて都合十四段のおいでからに、強豪犬養をとつちめに来よつたかと思つた。あつは……」
 木堂は、政界に於ける有名な棋家であつたのは誰も知つてゐる。
「はゝゝゝ。ところで、その御骨折願ひたいといふのは、このたび支那で棋道の天才少年を見つけましたのです」
 かう、いつたのは瀬越七段である。
「ふん」
「それは呉清源といつて、いま北京に住んでゐる今年十四歳の少年ですが、棋聖秀策の少年時代に似たやうな天稟の棋力を持つてゐます。このほどこの少年が打つた棋譜を三局ばかり調べてみましたがその天分の豊かなのに、吾々専門棋士仲間でも驚いてゐるやうな次第でございます」
「なるほど、それは耳寄りぢやな」
「そこで、その少年を日本へ呼び寄せてみつちり仕込んで物にしてみたいと思ふのです。ですが当方に有力な背景がないといふと向ふの親達が安心して、遠い日本へ旅はさせまいと思ふのですが――」
「それも、さうぢやの」
「ところで、先生に一筆、北京の芳沢大使の許へお願ひ申して、芳沢大使から少年の親御に修業を勧誘して頂いたら、どんなものかと存じますが――」
「それはたやすいことぢや、ぢやがの、連れてきて果してものになるかな」
 芳沢大使は、木堂の女婿である。
「ものになるどころぢやありません。このまゝすく/\と伸びて行けば、どこまで行くものか見当がつきません。世の中に所謂天才少年といふのはいくらもありますが、こんなのはちよつと類がないといへませう」
「ふん、なるほど、するとぢやな、その少年が貴公らの予想通りに伸びて行くとすれば、将来は名人になれるかも知れんちふのぢやな」
「ほんたうに、なれるかも知れません」
「よし、それはよく分つた。しかし、そこでぢやな、もしその少年がめき/\と育ちよつたら、結局将来は貴公等がやられる時代がくるのぢやないか。日本の棋界が中国の少年に抑へられたとあつてはどんなものかな。貴公等はどう思ふ」
「いゝえ、芸道に国境はございません。世界のどの国の人が名人上手になつたところで、私らは大いに歓迎したいと思つてゐます。」
「えゝ覚悟ぢや。技芸に携る人は常にその精神を持つちよらにやいかん。それでこそ、芸の道は発達するのぢや」
 かういつて、木堂は莞爾とした。
「はい」
「たやすいことぢや、一骨折る。ぢやがな、外国から人を呼んでそれを面倒みるちうことになると、相当に費用がかゝるものぢや。その方のことは、どうするつもりぢや」
「それは、私らに心当りもございます」
 話がこゝまで進んで、瀬越憲作はやうやく安堵したのであつた。
 この会見が、呉清源日本渡来の橋掛けであつたのである。
 さて呉清源はどこへ行くであらうか。終戦と同時に、彼の国籍は中国へ帰つた。と同時に、彼自身も生れ故郷の中国へ帰り住むつもりであつたらしい。また一昨年頃まで、彼はいよ/\中国へ帰るといふ噂も伝はつてきた。
 しかし、中国は終戦と共に共産党がはびこり、蒋介石の天下でなくなつた。北京も、上海も地獄図である。呉清源の帰る故郷ではない。人民はラヂオも、マージヤンも取り上げられてしまつてゐる。碁盤などに向つて閑日月を貪つてゐれば殺されてしまふかも知れぬ。呉が十五歳にして、当時の名人本因坊秀哉に二目を置いて勝つたとき、北京の一新聞は大いに喜んで、
 呉清源到東以来、与日本三四段名手対局輒勝、布置謹厳、守堅攻鋭、且才思敏捷、落子甚遠、対方名手往々沈吟低徊、呉則信手招来、少仮思索、以故天才之名、轟動三島。
 かういふ記事を掲げてはやしたてたことがある。今は北京に、そんな和やかな空気はあるまい。強ひて、呉が帰らうと思へば一ついま蒋介石がゐる台湾だけであらうけれど、台湾は蒋介石に取つても安住の地ではないと思ふ。台湾はむかし、蓬莱島といつた。だが、現在は蓬莱の俤はないのである。
 呉は、これをよく知つてゐると思ふ。
 呉清源は、いつまでもいつまでも日本に仙境を求めねばならぬであらう。呉清源よ、君は何処へ行く。





底本:「日本の名随筆 別巻11 囲碁2[#「2」はローマ数字、1-13-22]」作品社
   1992(平成4)年1月25日第1刷発行
   2000(平成12)年1月30日第7刷発行
底本の親本:「垢石傑作選集 人物篇」日本出版共同株式会社
   1953(昭和28)年5月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月18日作成
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