猿ヶ京

佐藤垢石




 このほど、元代議士生方大吉君の案内で東京火災保険の久米平三郎君と共に、上州と越後の国境にある三国峠の法師温泉の風景を探ったのである。途中、猿ヶ京の部落を過ぎたが、車中で生方君から人間の真情について、まことに珍しい、そしてほんとうに羨ましい話をきいた。
 猿ヶ京には、幕府の関趾があった。徳川時代、越後や出羽方面の諸大名が、江戸へ参観さんきん交代に罷り出るには、越後路から三国峠を越えて必ず猿ヶ京の関所を通ったものである。だから、この部落には今でも昔の宿場風の建物が残っており、ここから二里奥の峠のすぐ麓の法師温泉は本陣という格で、そこには湯女もあまたいたらしく、今から八、九十年昔は、大分賑やかな街道筋であったらしいのである。
 しかし、今では僻陬へきすうの寒村になってしまった。維新後、上野から碓氷峠を越え、長野、直江津と鉄道が敷かれては、この三国峠など越える人はいない。殊に、この二十年ばかり、上越線が開通してからは、南越後の人も、上州の人も、すべて鉄道を利用して、三国峠を見捨ててしまったらしい。通行の人は、法師温泉へ行く人か、この村の人々が出入りするばかりだ。
 群馬県利根郡新治村の最も奥の部落が猿ヶ京で、法師温泉まで二里の間、僅かに数戸の小屋が峡間に、一、二点在しているのである。だが、昔は関所があっただけに、なかなか大きな部落で、山の村としてはどの家も構えが大きい。
 だから、村には何軒かの名門があった。そのうちでも、某というのは一頭地を抜いた名家で今は退職しているが、この家の長男は大審院の判事まで栄達した人である。その人の妹に素晴らしい美人があった。
 兄が東京へ伴って教育したのであるから、学問のことは勿論、行儀作法から女の芸事にかけては、何一つ欠くるところがないまでに育て、そしてしつけたのである。そして天稟てんぴんの麗質の持ち主であった。
 縁があって、この美人は熊本県の千万長者の長男のところへ嫁いで行った。二十一歳であったという。
 兄も、故郷猿ヶ京の親達も良縁であると喜んだ、がほんとうは良縁ではなかった。婿さんというのは学校出ではあるけれど、商才に長じた人物で、ちょうど支那事変がはじまった景気の動きに乗り、大資本を利用して、大いに儲けた。
 千万長者が、さらに儲けたのであるから婿さんから見れば、金は湯や水にひとしい。呑み、買う、幾人かの妾は置く。今日は博多、明日は大阪といった具合に、殆ど熊本の家へは寄りつかないのである。
 夫婦の愛情など、生まれてくるものではない。ただ在るものは虚偽と虚栄と、冷たい空気ばかりである。来る日も、来る月も、来る年も、空閨の連続である。それでも、婦道を守り姑に仕えて、五、六年は過ぎた。
 だが、本人は深く考えた。こうして、自分だけ人間の道を護っても、相手に反応がなければそれは無意味である。なおかつ、良人の家にあるとすれば、五十年、六十年の後には、枯木の倒れるように、空しく骸となって失せねばならぬと思う。
 ある夜、思い切って熊本の千万長者の家を去った。そして、東京の兄の家へは立ち寄らず、直接猿ヶ京の母の膝下へ帰った。兄は、この結婚は失敗であったということを深く理解していた。妹が婚家を去ったというしらせをきいて、猿ヶ京へ飛び帰り、厚く妹を慰めそして謝した。
 母は、一言もいわなかった。ただ哀れなわが娘を抱きしめ、潜然せんぜんと涙の皺の頬に、流し伝えるばかりであった。
 そのころ、この名門へ出入りする炭焼男があった。名門では日ごろ、この男に薪をきらせ、炭を焼かせて、一年の料としたのである。猿ヶ京の村から眺むれば、南は利根郡と吾妻郡の境をなす子持や小蜀子の連山に続いて、三国峠の山裾が伸びた重畳たる岳と谷、北六の背となるところは、初根郡と越後国南魚沼郡の国境をなす茂倉、谷川、万太郎、三国山など八千尺級の雪の峻嶺が奥へ奥へを続いている。
 この炭焼男は、越後の南魚沼の浅貝方面の山中から来たらしい。年は三十二、三、頑丈な律気な青年である。日ごろは、猿ヶ京から五、六里隔たった万太郎山に近い山奥にこもり、炭が焼けると、これを背負って里へ下り、帰りには食い物を背負って行った。
 男の素性はよく分からないが、だが、正直で純で、素直で力持ちで、浮世の塵とか垢とかはこの男に毛ほどもからまりついていないのである。ほんとうの山男、人間そのもので煩悩邪悪の色は、一点も染まっていない。
 兄も心配し、母も心配し、妹にそろそろ再縁の話がはじまった。まだ三十歳には間のある娘を、一生寡婦として捨て置くわけにはゆかぬ。母も兄も、気をんだ。
 二、三、話があってそれを娘に相談したけれど、娘はそれを一笑に付して相手にならない。その後ぜひほしいという軍人さんがあって人を介して真剣に申し込んできた。母は今度こそ良縁であると見極めをつけ娘に最後の返答を迫ったのである。ところが、娘は相変わらずの態度である。母は怒った。お前をこのままの姿で置いては、母は死んでも成仏できないと、泣いて迫った。
 しからば、お前の好きな人があれば誰とでも結婚してくれと、最後の話となった。このとき娘は座を整えて、母に向かっていった。私は、世間の人と結婚するのは、もう真っ平です。ですが、私の理想の男となら結婚いたしましょうと答えたのである。母は喜んで、そうかお前にもし理想の人があるなら、誰とでもよい結婚しておくれ――ほんとうにお前、理想の人があるのかえ。
 娘は、黙している。
 あるのなら、この母にだけいってご覧、遠慮はいらないよ、お前の望むところも、母の望むところも同じですもの。
 娘はついに唇を開いた。あります。
 どんな立派な人。
 あの越後から来た炭焼男です。
 あっ!
 母は絶倒してしまった。
 娘は、男の純情に渇していたのである。富貴、安楽、それがなに物であろう。虚偽、虚栄。それは、鬼畜よりも怖ろしい。自分は人間の純真と純情の生活のなかに、自分の姿を見出したい。それは、熊本を去ったときからの、念願であったのである。
 それから間もなく、娘は唐草の風呂敷包みを一つ背負って、万太郎山の南向きの山襞に猟小屋ほどもない小さな炭焼小屋へ嫁に行った。浮世の掟通り、娘は生まれた家へ出入不叶という条件の許に、理想の人と共に暮らす人となった。
 小屋の傍らには、清冽な湧き水が、岩の裂け目から走っている。美人は、そこで麦や粟や稗をといでいるであろう。
 この頃、世間では食糧不足のため、来春は一万人も餓死者が出るかも知れぬといって、真剣に騒いでいる。もちろん耕地のない山奥の炭焼小屋も、世間並みの食糧配給を受けているに違いない。してみれば飢餓という浮世の風は、その山奥まで吹いて行こう[#「行こう」は底本では「行かう」]
 だが、私はこの炭焼夫婦だけは飢え死にさせず、末永く夢を実現した美しい人として生かして置きたいと思う。





底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
   1993(平成5)年8月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
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