これは、私が十八、九歳のころ考えたことである。そして今もなお、それを想っているのである。
六十歳といえば、人生の峠の頂を過ぎた。しかし、まだ我が人生の旅は遠くいつまでもいつまでも寂しく続いてゆくであろう。
前途に希望はないのである。我が力を顧みれば、大きな望みを持てないのが当然であると思う。五十歳くらいまでは、前途に何か自分を待っているような気持ちがあった。
だが、私は生に諦めをつけてはいない。自殺も思わぬ。ただ、生きているがままに生きてゆこうと思う。働かねば餓死するのは当然であるから働こうと思うだけである。つまり、私は生ける屍と同じであるのである。
顧みると、六十年という人生は、短いようでもあり長いようでもあった。けれど、その六十年に何をなしたのであろう。親不孝と流浪と
痛恨きわまりなき、我が人生であったのである。
しかしながら、こうした悲しい想い出のうち、僅かに私を慰めてくれるものがある。それを想い出し、頭に夢を繰り返す時だけ、私の悲痛は救われるのである。というのは、過ぎし私が経てきた長い年月にわたる「水と山」の巡礼である。
私は、私に幼いときからの「水と山」の巡礼の想い出がなかったならば、私の人生は地獄の
行末にねがっても、同じ想いである。もうあと幾年生きられようか。よし、これから二十年三十年生きられたところで、己も満足し、世の人も認めてくるような仕事が、何一つなし得る見込みもない。だが、これからもなお、水を
私はここで、過ぎし日の水と山の旅、六十年の想い出を、記憶するがままに
なんとしても、私に親しみ深いのは、ふるさとの水と山とである。
私の故郷は上州の中央にあり、利根川の激しく流れる崖の上の村である。私の六、七歳のころであったと思う。平野から遙かに仰ぐ、遠い上州と越後の国境に聳える雪の白い山脈に源を発する利根川は、流れをなして幾十里、流れ流れて
それというのは、今から五十余年もの昔は、水源地方の原生林が乱伐されないこと、水力電気の堰堤が流れを
なかんずく鮎と
鱒は、素晴らしく大きい。
この頃の日本へは、
鮭は、淡水へ入ると餌を口にしないけれど、鱒は盛んに餌を食う。その狙う餌は、主として若鮎の群れである。なにしろ、小さくて五、六百匁、大きいのは一貫七、八百匁もあるのであるから、随分若鮎の数を食うのであろう。であるから、必ず流れを遡る若鮎の群れには大きな鱒がつきまとい、瀬際の
この鱒は、次第に鮎と共に上流へ遡ってゆき、利根川の流れを水力電気の堰堤が中断せず、また上流地方の山林が乱伐の災いを受けないで、夏でも水量の多い時代は、沼田からさらに上流の支流薄根川、赤谷川の水源地まで遡り込み、本流は上越国境の雪橋、雪渓のあるあたりの渓間にまで遡り込んで、山や谷が
そんな次第で、私の故郷の地元の利根川へは、遅くも四月下旬には鮎の群れと鱒の群れとが姿を波間に現わした。
五月の利根川の若鮎は、私が食べた鮎のうち最もおいしい一つであるというのは、それはお国自慢であろう。
穀物、野菜、魚鳥、いずれの食べものも、幼いときから親しんだ郷土の産物は、味そのもののほかに、人生にとって切っても切れないつながりを持っている。食べものは、郷土の山川草木と共に、また己と共に、自然が産んでくれた友である。幼いときに口にした物の味わいが、一生わが想いにおいしいものとして残るのは当たり前であろう。私はお国自慢を恥じない。
秋の大根、初夏の
なんで、故郷の山川草木が忘れられよう。なんで、尊敬と親愛とを捧げないでいられよう。それは、誰でも同じであろう。
大正の末年、流浪の果てに、私は故郷へ帰ってきた。おそい子持ちであったために、長男がまだ三歳であった。
故郷へ帰ると直ぐ私は、利根川の崖の上に佇んだ。利根は、私の子供のときと同じような響きを立てて流れている。河原の姿にも変わりはない。対岸の松林も、昔ありしままだ。なきは父と母ばかりである。
私は、我が父が私に想い残したように、私も倅に想い出を残そうと思いついた。三月中旬の北風の吹くある寒い日に、三歳になる子供を連れて、奥利根の沼田と岩本の中間にある曲っ滝へ
しかし、この想い出は、私の人生にとって、かつて私が幼いころ父に伴われて村の利根川へ若鮎に行ったときの想い出に比べれば、まことに滋味に乏しいのである。親への追慕、それは自分が年をとればとるほど滋厚を加えてゆく、このごろの自分を思う。それは、いかなるわけであろう。
私は幼いとき父に伴われて上越国境の
想い出の利根川も、いまは全く昔の俤を失った。奥上州水上温泉の下流小松に、東京電灯の発電所が設けられたのが、そもそも河床荒廃のはじめである。
ついで大正十五年に上越線岩本駅前に、浅野総一郎の関東水電取入口の大堰堤が築造され、それと前後として支流片品川の上久屋に、大川平三郎の上毛水電の堰堤が設けられてからは、流相明媚な利根の水が、決定的に滅亡した。流れの変壊は、その川に棲む魚類の運命を支配する。この結果は、特に鮎と鱒とに災いしたと思う。
ああ、利根の清流は今はもう想い出の川となった。鮎と鱒が盛んに
私の想いのなかに残る利根の水。鮎や鱒やハヤの姿ばかりではないのである。父の釣り姿、母の慈愛とが永く永く映っているのである。私が十一、二歳のころであったと思う。四月下旬の淡い雪代水が奥山から流れてくる時が、我が地方では春蚕の
蚕の飼育に備えるために、村の人々は蚕蓆を利根の清流へ洗いに行った。私の家でも母と姉と私と三人で、蚕蓆を車に積んで利根の河原へ行ったのである。相模や伊豆の暖かい地方では四月下旬といえば、水が
その雪代水の冷たいこと、つかれば足も斬られるばかりだ。母と姉は、膝上まで裾を巻くって利根の浅瀬へ浸り、足で流れに蚕蓆を踏んでいる。すると、母の白い腿も姉の腿もみるみるうちに、緋牡丹のように紅くなった。冷烈の水に、その
今はもう六十歳に近い私の老妻も、私の村から利根の流れを隔てた対岸から、私の家へ嫁にきた。妻は嫁にきた当時、朝な夕な東の田んぼへ出ては利根の大きな流れを挟んで、遠く霞む自分の生まれた村の林を望んでは涙ぐんだ。私は、その妻の後ろ姿を幾度も見た。それも今は想い出である。
子供が生まれて妻は、
大正の終わり頃から昭和のはじめころまで、私は報知新聞の前橋支局に主任として働いていたことがある。働いていたといえば、なかなか体裁はいいが、実は模範的のなまけ主任であった。現在、『つり人社』の専務の役を担当している東明行彦君、読売新聞の整理部長を勤めている木村幹枝君、日本窒素株式会社の常務取締役である上野次郎男君など、当時大学を
私は、この人々に随分そのころ苦労をかけたものである。というのは、この若いそして新聞記者という仕事には経験の浅い人達に仕事を任せ放しで、外を遊び歩いた。指導もしない、面倒も見ない。そのために、若いこの人達は一人で主任の役も、助手の役も勤めねばならないのである。不眠不休で働かなければ仕事ができて行かなかった。若い記者は涙を流したらしい。
ところが、どうした縁か今もなおこの三君とは兄弟の交わりを続け、殊に東明君には『つり人社』において、共に趣味のために身を捧げ、そして東明君は今では私の道楽の後を襲い、鮎の友釣りの名手になってしまった。これも、なにかの因縁であろう。