利根川の鮎

(白雲去漁翁在より)

佐藤垢石




人生の旅


 これは、私が十八、九歳のころ考えたことである。そして今もなお、それを想っているのである。
 六十歳といえば、人生の峠の頂を過ぎた。しかし、まだ我が人生の旅は遠くいつまでもいつまでも寂しく続いてゆくであろう。こんりも尽き果てた疲れを負って歩く、灰色の路の我が人生の旅の行方を想うと、堪え難く寂しく悲しい。
 前途に希望はないのである。我が力を顧みれば、大きな望みを持てないのが当然であると思う。五十歳くらいまでは、前途に何か自分を待っているような気持ちがあった。絢爛けんらんたる花園が、未知の将来に明るく優麗な風景をひろげているような希望を抱いていたのであるけれど、この一両年このかた私の前途には、なにも待っていないのを、はっきり見きわめたのである。行けども行けども、灰色の路を歩こう。
 だが、私は生に諦めをつけてはいない。自殺も思わぬ。ただ、生きているがままに生きてゆこうと思う。働かねば餓死するのは当然であるから働こうと思うだけである。つまり、私は生ける屍と同じであるのである。
 顧みると、六十年という人生は、短いようでもあり長いようでもあった。けれど、その六十年に何をなしたのであろう。親不孝と流浪と懶惰らんだと遊酒と、そのほかに何をなしたであろう。まことに、取るに足らぬ人生であった。有害無益の人生であった。実に意味なき人生であった。思えば思うほど、悲しき寂しき人生であった。学びに勉めず、仕事に励まず、蕩兒とうじの姿が私の過去のすべてであった。世の中に対しては言うまでもないが、身近なもの、親のため、妻のため、子のため、友のために何一つなしてこなかったではないか。
 痛恨きわまりなき、我が人生であったのである。
 しかしながら、こうした悲しい想い出のうち、僅かに私を慰めてくれるものがある。それを想い出し、頭に夢を繰り返す時だけ、私の悲痛は救われるのである。というのは、過ぎし私が経てきた長い年月にわたる「水と山」の巡礼である。
 私は、私に幼いときからの「水と山」の巡礼の想い出がなかったならば、私の人生は地獄のさいなみであったであろう。私は、過ぎし水と山の旅を追想しては、貧困な人生にせめてうるおいを求めているのである。
 行末にねがっても、同じ想いである。もうあと幾年生きられようか。よし、これから二十年三十年生きられたところで、己も満足し、世の人も認めてくるような仕事が、何一つなし得る見込みもない。だが、これからもなお、水をい山をたずね、そして水も山も温かく私を抱擁してくれるであろうと思うだけが、せめて私の生へのきずなである。過ぎし日の水と山との旅の回顧、またこれからも遠く山と水が私を待っているのを想うことを許されるならば、なんで生への執着をなげうつことができよう。
 私はここで、過ぎし日の水と山の旅、六十年の想い出を、記憶するがままにひもといてゆきたいと思う。

ふるさとの水


 なんとしても、私に親しみ深いのは、ふるさとの水と山とである。
 私の故郷は上州の中央にあり、利根川の激しく流れる崖の上の村である。私の六、七歳のころであったと思う。平野から遙かに仰ぐ、遠い上州と越後の国境に聳える雪の白い山脈に源を発する利根川は、流れをなして幾十里、流れ流れて谿たにと峡を私の村まで流れてきて、それからは次第次第に流れを緩め、東南の方、下総の国を指して、悠々と流れ去るのである。そのころの利根川には、いま想いだしても、うそではないかと思えるほど、おびただしい群れの若鮎が下流の方から遡ってきた。
 それというのは、今から五十余年もの昔は、水源地方の原生林が乱伐されないこと、水力電気の堰堤が流れをさえぎらぬこと、現在と比べて白根火山から流れてくる毒水が希薄であったために、天然のままに保存された水流を慕って、いろいろの魚が、遠い遠い銚子の海口の方から遡ってきたのであろうと思う。
 なかんずく鮎とますが数多かった。盛夏の候になっても、私の村の地先で釣れる鮎は、驚くほど大きくは育たない。七寸五分、三十匁ほどが最大であった。長さ一尺、百匁以上に育つのは私の村から上流五里、渋川町地先からさらに上流の激湍げきたんであって、下流の釣り人は渋川町の方まで遠征したのである。
 鱒は、素晴らしく大きい。
 この頃の日本へは、亜米利加アメリカ系の虹鱒にじます河鱒かわます、北海道から姫鱒ひめますなどが移入されて繁殖しているが、その頃の利根川へは、古来東日本の河川に遡ってくる日本鱒である。もっとも群馬県庁の水産係が明治の初年に、琵琶びわ湖の鱒を移植したことがあるけれど、これは如何なる理由によるものか、繁殖が極めて少なく、まれに釣れるばかりである。利根川の日本鱒は、銚子の利根河口から三月中旬には、鮎と共に海の水と別れて、淡水へ遡り込むのであるらしいのである。
 鮭は、淡水へ入ると餌を口にしないけれど、鱒は盛んに餌を食う。その狙う餌は、主として若鮎の群れである。なにしろ、小さくて五、六百匁、大きいのは一貫七、八百匁もあるのであるから、随分若鮎の数を食うのであろう。であるから、必ず流れを遡る若鮎の群れには大きな鱒がつきまとい、瀬際のみ合わせに鱒が跳躍するところには必ず若鮎の大群がいた。
 この鱒は、次第に鮎と共に上流へ遡ってゆき、利根川の流れを水力電気の堰堤が中断せず、また上流地方の山林が乱伐の災いを受けないで、夏でも水量の多い時代は、沼田からさらに上流の支流薄根川、赤谷川の水源地まで遡り込み、本流は上越国境の雪橋、雪渓のあるあたりの渓間にまで遡り込んで、山や谷が錦繍きんしゅうの彩に飾られる十月中旬から産卵をはじめたのである。
 そんな次第で、私の故郷の地元の利根川へは、遅くも四月下旬には鮎の群れと鱒の群れとが姿を波間に現わした。

お国自慢


 五月の利根川の若鮎は、私が食べた鮎のうち最もおいしい一つであるというのは、それはお国自慢であろう。
 穀物、野菜、魚鳥、いずれの食べものも、幼いときから親しんだ郷土の産物は、味そのもののほかに、人生にとって切っても切れないつながりを持っている。食べものは、郷土の山川草木と共に、また己と共に、自然が産んでくれた友である。幼いときに口にした物の味わいが、一生わが想いにおいしいものとして残るのは当たり前であろう。私はお国自慢を恥じない。
 秋の大根、初夏の莢豌豆さやえんどう、盛夏の胡瓜きゅうり、寒中の冬菜。そのどれにもこれにも、幼いときからの味の記念がよみがえるのである。故郷の山川草木ほど、なつかしきものはない。四季折り折りの山の姿、水の流れ。それはすべて、我が人生記録である。私は、故郷の人々がどんなに私をあなどり貶しても、私は決してそれを意としない。それは、人間よりもっと偉大なものが私を温かく迎えてくれるからだ。いつなん時、故郷の上州へ帰っても、無言の赤城山と榛名山と、利根川がやわらかく微笑して流浪の子である私に、昔と変わらぬ愛情を注いでくれるのである。
 なんで、故郷の山川草木が忘れられよう。なんで、尊敬と親愛とを捧げないでいられよう。それは、誰でも同じであろう。
 大正の末年、流浪の果てに、私は故郷へ帰ってきた。おそい子持ちであったために、長男がまだ三歳であった。
 故郷へ帰ると直ぐ私は、利根川の崖の上に佇んだ。利根は、私の子供のときと同じような響きを立てて流れている。河原の姿にも変わりはない。対岸の松林も、昔ありしままだ。なきは父と母ばかりである。
 私は、我が父が私に想い残したように、私も倅に想い出を残そうと思いついた。三月中旬の北風の吹くある寒い日に、三歳になる子供を連れて、奥利根の沼田と岩本の中間にある曲っ滝へ山女魚やまめ釣りに行った。曲っ滝は利根川の流程八十里のうち、最も名高い激湍げきたんである。私は、子供を外套にくるんで、物置小屋ほどもある巨岩のかげに風を避けさせておいて竿を操った。
 しかし、この想い出は、私の人生にとって、かつて私が幼いころ父に伴われて村の利根川へ若鮎に行ったときの想い出に比べれば、まことに滋味に乏しいのである。親への追慕、それは自分が年をとればとるほど滋厚を加えてゆく、このごろの自分を思う。それは、いかなるわけであろう。
 私は幼いとき父に伴われて上越国境の四万しま温泉の奥の渓流へも、磯部鉱泉の碓氷うすい川へも、足尾銅山の方から流れてくる渡良瀬川へも釣りに行った。五十余年過ぎた今日でも、その想い出が、なんとありありとしていることか。

今は昔ばなし


 想い出の利根川も、いまは全く昔の俤を失った。奥上州水上温泉の下流小松に、東京電灯の発電所が設けられたのが、そもそも河床荒廃のはじめである。
 ついで大正十五年に上越線岩本駅前に、浅野総一郎の関東水電取入口の大堰堤が築造され、それと前後として支流片品川の上久屋に、大川平三郎の上毛水電の堰堤が設けられてからは、流相明媚な利根の水が、決定的に滅亡した。流れの変壊は、その川に棲む魚類の運命を支配する。この結果は、特に鮎と鱒とに災いしたと思う。
 ああ、利根の清流は今はもう想い出の川となった。鮎と鱒が盛んにれたのは、昔の話である。けれど、水源地方に聳える山々の姿は、私の少年のときと変わりはない。
 私の想いのなかに残る利根の水。鮎や鱒やハヤの姿ばかりではないのである。父の釣り姿、母の慈愛とが永く永く映っているのである。私が十一、二歳のころであったと思う。四月下旬の淡い雪代水が奥山から流れてくる時が、我が地方では春蚕のき立ての季節であった。
 蚕の飼育に備えるために、村の人々は蚕蓆を利根の清流へ洗いに行った。私の家でも母と姉と私と三人で、蚕蓆を車に積んで利根の河原へ行ったのである。相模や伊豆の暖かい地方では四月下旬といえば、水がぬるんで流れは冷たくないが、利根川の水源地方の山々は七月下旬まで雪に埋もれているために、四月上旬から六月下旬までは毎朝上流から雪代水が流れてくる。
 その雪代水の冷たいこと、つかれば足も斬られるばかりだ。母と姉は、膝上まで裾を巻くって利根の浅瀬へ浸り、足で流れに蚕蓆を踏んでいる。すると、母の白い腿も姉の腿もみるみるうちに、緋牡丹のように紅くなった。冷烈の水に、そのくれないが映って美しい。その風景が今もなお、私の眼底になつかしく残って忘れられない。
 今はもう六十歳に近い私の老妻も、私の村から利根の流れを隔てた対岸から、私の家へ嫁にきた。妻は嫁にきた当時、朝な夕な東の田んぼへ出ては利根の大きな流れを挟んで、遠く霞む自分の生まれた村の林を望んでは涙ぐんだ。私は、その妻の後ろ姿を幾度も見た。それも今は想い出である。
 子供が生まれて妻は、襁褓むつきを籠に入れて利根の河原へ洗いに行った。私の子供らは、利根の清流に洗った襁褓で育ったのである。妻は、寒中の酷烈な北風が吹く日でも襁褓を持って利根へ行った。手の甲が真っ紅に膨れて、幾筋ものヒビが深く割れ込んでいた。
 大正の終わり頃から昭和のはじめころまで、私は報知新聞の前橋支局に主任として働いていたことがある。働いていたといえば、なかなか体裁はいいが、実は模範的のなまけ主任であった。現在、『つり人社』の専務の役を担当している東明行彦君、読売新聞の整理部長を勤めている木村幹枝君、日本窒素株式会社の常務取締役である上野次郎男君など、当時大学をえたばかりで、東京から前橋の支局へ支局員として赴任してきた。それは、もう二十年以上の昔になろう。
 私は、この人々に随分そのころ苦労をかけたものである。というのは、この若いそして新聞記者という仕事には経験の浅い人達に仕事を任せ放しで、外を遊び歩いた。指導もしない、面倒も見ない。そのために、若いこの人達は一人で主任の役も、助手の役も勤めねばならないのである。不眠不休で働かなければ仕事ができて行かなかった。若い記者は涙を流したらしい。
 ところが、どうした縁か今もなおこの三君とは兄弟の交わりを続け、殊に東明君には『つり人社』において、共に趣味のために身を捧げ、そして東明君は今では私の道楽の後を襲い、鮎の友釣りの名手になってしまった。これも、なにかの因縁であろう。





底本:「垢石釣り紀行」つり人ノベルズ、つり人社
   1992(平成4)年11月20日第1刷発行
初出:「つり人」
   1948(昭和23)年4月〜5月
入力:門田裕志
校正:湖山ルル
2015年9月1日作成
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