わが童心

佐藤垢石




 二、三日前、紀州熊野の山奥に住む旧友から、久し振りに手紙がきた。
 ――拝啓、承り候えば、貴下も今回、故郷上州へ転住帰農遊ばされ候由、時節柄よき才覚と存じ上申候。
 小生もここ熊野なる故郷の山中へ疎開転居致し候てより、はや一年の歳月を過ごし申候。永き年月、都会に住み馴れたる者が、故山の杜邑に移りきては、水当たりもありやせん、人の心の激しさに触れもせん、とはじめのほどはいろいろの危惧を催し候処、それは、ほんとうの杞憂に過ぎざりしを感じ居り申候。
 妻も子も、裏山の峡間より導く清水にて炊く飯に食べしみ、日に日に健康を増進し来り候、このごろ初夏が訪れ候てよりは、食膳を飾る莢碗豆、春蒔白菜、亀戸大根などの鮮漿に舌鼓をうち申し、殊に時たま珍肴として、十津川と北山川と合流して熊野川となるあたりの渓谷に釣り糸を垂れ、獲たる山女魚やまめやはやに味覚を驚かせ候が、まれに美禄の配給にめぐり合い申せば僅かなる一盞に陶然として、わが身の生き甲斐を、しみじみと思い入り申侯。
 対岸は伊勢の山々、こちらは紀伊の縣崖。その間に散在する水田や山畠は掌の如く小さく候えども、これが小生の農園に御座候、既に鍬執る小生の腕には肉瘤の盛り上がるを見申し、嶺や麓の新緑を眺めながら、これからは一層増産に励まんかと、覚悟致し居り候。
 末筆ながら御報告申上げたきは、山菜と青果の栄養に育つ、わが子等の姿に御座候、未だ九歳と十一歳の幼年に候え共、男の児はやはり男の児に御座候、小生に似て、はや膚肉逞しく朝夕学校の余暇には、親に従い棧道に薪を背負い、段畠に耕土を掘り返し居り申候。この子等に腹の底まで故郷の素朴なる自然に親しませ、育ち上ぐるが小生の生涯の楽しみに有之候。
 わが村は、二千六百有余年前、神武天皇大和国御討伐のみぎりの、御征路に候、一日も早く子供等を成人させ、神武天皇の御心に、従軍いたさせたく、大切にいつくしみ居り候、それに引き換え、小生は月日と共に老境を辿り、昔の俤は消え去り、まことに心細き態に候。阿阿。
 まずは御無沙汰の御わびまで。敬具。

 私はこの旧友の久し振りの手紙を、二度三度目誦した。友は南紀熊野の故郷に帰り住み、大自然の懐ろに抱かれ、心豊かに幸福に暮らしているらしい。
 人間にとって、故郷ほど肌ざわりの滑らかな里はないのである。しかも友は、二人の子供の育成に、眼も鼻もなき喜びに耽っている状が書翰の文字の間に、彷彿として現われている。
 子供と故郷のうるわしき野山、子供と鮮やかな草樹を着た大自然。
 読み終えて、巻くともなしに手紙を掌に持ったまま、私の冥想はおもむろに、さまざまの方へ向かっていった。
 そして最後に、なぜ日本人は純情であろう、かということが頭にうかんだ。窓外に、五月の緑風が、輝く若葉を繙いていく。
 日本人の、純情を培ったものには、数多い素因があるであろう。
 しかし、私が最も有力なる素因として感じているものに、国土の美しき風景、山川草木がある。つまり、潤麗にして、豊艶なるわが国の風景が、人々を純情に育てきたったのであろう。さらにそこへ一つ、郷党の親愛こまやかなる情合いをも、素因として加えたい。
 この美しき国土を愛すればこそ、我々日本人は清いのである。晴温なる空の色、かぐわしき野の匂い、清楚な水の流れ、情味の芳醇な山の姿。どうして、こんないい国を亡ぼすことができよう。人々の抱くその感懐が伝統の強き情操に育まれきたったであろうと思う。
 わが国土の「美」を決して他人に、蹂躙じゅうりんさせまい。これなのだ。これが、日本人の力の泉であった。
 人は、誰でも故郷を持つ、誰でも故郷に対する愛着の強さは、言葉ではいい現わせぬものがある。日本の国土全体を愛する執念と共に、我々は醇美なる故郷の自然に陶酔しているのである。されば、我々は故郷の山川草木にも、強く育てられてきた。
 山国に生まれ育った人も、平野に生まれ育った人も、都会に生まれ育った人も、そこは各々の故郷である。私は、江戸時代から先祖代々七、八代も続き、田舎に故郷を持たぬ幾人かの友を持っている。その一人に、将棋の名人木村義雄君があるが、日ごろ彼がいうに、自分は草原山川に囲まれた故郷を持たぬ。
 だから、田舎の生活の情味は知らない。そこで、どこが故郷かといえば、やはり東京が故郷である。自分は、本所の割下水で生まれた。つまり、割下水が故郷だ。引き潮時に、掘割の真っ黒い水の底から、ぶつぶつと沸き立つ、あの溝の臭みが故郷の匂いである。
 ときどき散歩に行く、丸の内のお堀端の柳が水に映る姿も、故郷の彩である。そんなわけでほんとうに自分は東京の朝な、夕なに愛着を感ずる。いや、愛着どころではない。自分は、東京と切っても切れぬのだ。だから、親戚や友人があちこちへ疎開転住をするけれど、自分は東京から草鞋わらじをはく気持ちになれない。
 いつぞや、木村君はこう私に述懐したことがあった。
 木村君としてみれば、千代田城の遠霞、水郷である本所あたりの下町情調は、臍の緒切ってからの環境であろう。ちょうど我々が、春風が訪れても、木枯こがらしが吹きすさんでも、朝起きれば赤城、榛名の姿に接し、大利根の瀬音に耳を傾けつつ育ったのと同じであろう。
 我々からみれば、東京はまことに殺風景のところだ。私も永い年月東京住まいをしたけど、なんとなく潤いある情味に乏しい。でも、木村君に取ってはそこが唯一無二の故郷なのだ。そして、無上の愛着を感じているという。
 木村名人の気持ちは、よく分かる。
 それを想うと、木村君に比べて、なんと我々は恵まれた土地に生を享けたことであろう。眼をやれば、千々に重なる山の容。青き野原。一歩すれば、足下に流るる清冽な水。花弁重たき菜穀の田畑。さらに接するにわが生まれた里人の醇朴な温情。
 国破れて、山河ありとは支那の言葉だ。わが日本では、飽くまで国栄え、山河朗々である。万一、国亡ぶれば、山河もない。
 死に徹するまで、郷土の清婉せいえんなる風景を護るわが国民である。それが、日本の伝統だ。わが伝統は、国民を清からしめた。我々は、無言の間に、天命かけてわが美しき風景を護っているのである。山、河、野は我々の心である。
 ああ上州よ、上州よ、赤城よ、榛名よ、利根川よ、われは汝と生死を共にして、行くところまで行くであろう。
 私は少年の頃、東京へ転学した。顧みれば、明治三十八年五月十四日の真昼のことである。我々四年生が主謀者となって、前橋中学の生徒控室で全校生徒の同盟休校を決行した。折りしも三十有余年前の五月半ばの校庭には、葉桜とけやきの若葉に、初夏には早い青嵐が吹いていた。
 結果は、諭旨退学である。前貴族院議員本間千代吉、高橋ドリコノ博士、元アルゼンチン公使内山岩太郎らをはじめとして、四十三名の若き主謀者たちは、おいを負うて東京の私立中学の補欠募集に応ずるため、ぽつぽつと上京した。私も、その一人である。
 閑話休題。ちょっと筆が横路にそれるが、同盟休校決行の趣旨のうちに、お笑い草があるから、お聴きしていただきたい。
 当時の校長は丘さんといって、鹿児島県出身の厳格な教育家であった。その頃、我々学生は昼の弁当を教室内で食べる規則となっていたのであるが正午の時間がくると学生らは、その規則を守らないで弁当箱を校庭へ提げ出し、さらに校庭を囲んだ土手を越えて利根の河原へ繰り出したものだ。
 そして、玉石の上へ腰を下ろし、激流の白い泡を前にし右に赤城、左に榛名を、七分三分に眺めながら、悠々と箸を運んだのであった。学校当局は、それを見てしからんという思し召しであった。
 いつの間にか校庭の土手の上は、木の柵で囲まれてしまった。ところで同盟休校の決議文のうちに、校長の反省を求める趣旨で「我々学生は牛に非ず」という一項があったと記憶する。
 そんな稚い学生であるが、東京へ出るよりほかに途はない。だが、同盟休校をたくらんだ主謀者の腹の奥には、日ごろ田舎の中学にいるのは時代遅れだ。東京の空気が吸いたい。けれどそんな希望を父兄に申し込んだところで、一喝を喰うだけであるのは分かりきっている。だから、同盟休校をやれば退学処分にあう。退学処分にあえば、父兄もしょうことなしに我々を東京の学校へ送るであろう。
 こんな三段飛びの秘策が密にたくらまれてあったのは否まれない。そこで、うまうまと目的を達したわけになった。
 上京二、三ヵ月は、私立学校補欠募集を目ざし、己が面目かけて勉強していたために故郷のことなど、てんで頭になかったけれど、入学試験に及第して、ほっとして下宿屋の四畳半に胡座あぐらをかくと、故郷の空がそろそろと頭にうかぶ。
 私は、勉強の方は甚だ不得手で、神田にある東京中学校と、大成中学校を受けたが二つとも落第。最後に、本郷駒込の郁文中学を受けて辛うじて四年の二学期に入学を許された。その試験は、八月の末か九月の初旬で、飛白かすり単衣ひとえに、朝夕の秋風が忍び寄る頃であった。
 田端の高台にある下宿屋に移り、駒込の学校へ通う路すがらの田の畦に蟋蟀こおろぎが唄う秋の詩をきくともなしに耳にする候になると、少年のわが胸に、淡い望郷の念が動いてきた。それが、日をへるに随って、恋々となったのである。
 そのころ本郷の高台と田端道観山を隔てる谷には、黄色く稔った稲田が遠く長く続いていて南方を眺めると根津の権現さままで、見通せたのである。私は、夕方早く学校から帰ってくると、田端の高台の一番高いところにある大根畑の傍らに佇んで、西北の遠い空を望み凝した。
 それは、赤城と榛名の姿を探し求めたのである。しかしながら、わが求むる赤城と榛名は、いつも秋霞の奥の奥に低く塗りこめられて、つれなくも私の視界に映らない。ただ近く秩父の山々が重畳と紫紺の色に連なり、山脈が尽きるあたりの野の果てに頂をちょんぼり白く染めた富士山が立っていた。
 大根畑の傍らへ、朝も夕も通ったが、とうとう故郷の山を望み得なかった。もう堪らない。
 一度、父母の顔を見に帰ることにきめた。ごとごとと汽車が走った。桶川駅を過ぎたあたりまでくると、汽車の窓から一心に西北の空を眺める私の眼に、赤城と榛名の低く淡く地平線に横たわる容が映るのであった。私は、瞳を凝した。頭がうっとりした。
 あたかも、冬の夜に、甘酒を一杯頂戴して、からだにぬくもりを覚えたほどの、想いを催したのである。私は、利根川の西岸上野国東村大字上新田に生まれ育った。よちよち歩く頃から東の田圃へ出れば赤城山、西の田圃へ出れば榛名山、北方の空に春がきても夏がきても四季の朝夕楽しき折りも、悲しき折りも、この二つの山の温容を眺めながら育ってきた。
 二つの山は、私に取って豊艶な母の乳房にも譬うのである。赤城は右の乳房。榛名は左の乳房。いま、私のまぶたの裏に、故郷の乳房が映ったのだ、なみだが漂う。
 身も心も、大自然に溶け込んでしまいたい想いだ。山の懐ろへ抱かれて、すやすや眠りたい想いだ。汽車の窓にうっとりとしているわが胸に幼き腕に笊を抱えて、田圃の小川に小鮒を漁った頃から、ついこの初夏に同盟休校をやって、校門を突き出されるまでの、さまざまの想い出が風景映画のように、区切りもなく影を描いてゆく。
 それからもう、四十幾年を過ぎ、私は老境を迎えて、白髪の親爺となった。しかし故郷を恋う心は一層こまやかになってきた。殊に、両親を亡くしてからというものは、一入ひとしお、山の姿がなつかしい。
 私はこのたび、幾十年振りかで、父母のいない生まれ故郷の上新田へ帰ってきた。住まいは昔のままの草ぶきの朽ちた百姓家である。裏の籔にも、昔のままの竹が伸びていた。村の、あの家この家も趣を変えない。かつて青年であった村人は、皺の数を増し、髪を白くしているけれど、当時の俤を失わぬ。
 野路に遊ぶ子供らを見ても亡き何兵衛、何蔵に瓜二つの子や孫である。四十年前菱形であった麦田は、いまもなお昔のままの菱形であった。
 なきは、わが父母だけである。
 だが、藍青の裾を長くひいた山々は、過ぎし日の温容そのままで、わが亡き父母に代わって在りし日の想い出を、私に物語るのではないか。
 なんでこんなよい日本を人手に渡せよう。なんで、こんなやさしい上州へ、他人の侵入を許せよう。
 その想いは、私一人ばかりが持っているのではない。大和民族として生をうけたものならば誰でも同じである。
 慈母の如く、豊情豊彩のわが山川草木に、他人の一指も触れさせないために、決死斬込隊も出た。特攻肉弾の勇士も出た。つまり言い換えれば、決死隊も特攻隊も、わが山川草木が生んだことになるであろう。
 我々がわが上州に、尽きぬ愛敬と慕情を捧げると同じに越後の人は越後に、信州の人は信州に、紀州の人は紀州に、それぞれの土に血の脈を感じているのである。母国という言葉は、誰が作ったのか、さればこそ、大和民族のすべてが清いのだ。
 さりながら私は、わが上毛の国を佳国中の佳国であると思っている。私は若い時から旅行が好きで、釣り竿一条を携えて、日本のあちこちを北へ南へ歩き回ってきた。昨年は夏から晩秋へかけて満州の東西南北を釣りめぐり、外蒙古境まで魚影を慕って旅したほどである。
 釣りはさることながら、私は旅先でそこの風景に親しむのが好きである。旅先の雲のたたずまい、山の姿、草木の彩水の趣。それぞれの特色を見のがすまいとしてきた。
 いずれの土地も、それぞれ秀でた風景に恵まれて、自然は温かく豊かに里人を抱いていた。そして私は、その土地の人情にも接した。食べものの味も、試みた。
 けれど、東京は言わずもがな、どこの国でも、わが上州ほどよい国はない。と、感じてきたのである。取り分け私は生まれた上新田の眺めがよい。
 試みに、上新田の田圃へ出て、東西南北の風姿に一瞥を与えようか。
 さて東の空へまず手をかざそう[#「かざそう」は底本では「かざさう」]。山田郡と思える方の地平線から、低く起伏した浅緑の峰々は桐生市の裏山から野州の足利、安蘇、下都賀郡の方へ連なる一連の山脈である。真夏がくると朝の四時半には、もう敦光とんこうが鮮やかに、きらめくのである。そこに東雲しののめのたなびくころ、幼い私は父に連れられて、利根の流れへ鮎釣りに行った。利根の崖に、ならの若葉が天宝銭ほどの大きさに、育っていたのである。
 この山脈の上にはもう五月に入ると、いつも鈍い銀色の、雲の峰が立つ。そして積乱雲は、夕を映し受けて、緋布のように紅く輝くのを、私は子供の時から眺めてきた。しかしこの雲の峰に、決して上州方面へは雷雨をもたらさない。いつも、東の空へ長く倒れる。多分、下野国の耕野を白雨にうるおすことであろう。
 それから東北に眼を送ると足尾の連山が、赤城の長い青い裾から、鋸の歯のように抜けだしている。足尾山は、中宮祠湖畔の二荒山や、奥日光の峻峰を掩い隠しているけれど、わが上新田から一里半ばかり南方の玉村町近くへ行くと赤城と足尾連山の峡から奥白根の高い雪嶺が、遙かに銀白色の光を放っているのを眺め得よう。
 足尾山の左は、わが赤城だ。私の村からは、真北よりも東に位置して、前橋の街を裾の間へ掻い込まんばかりにして聳えている。
 赤城について説明するのは、いらぬことであろう。上州人は赤城山について、知り抜いている。しかし、わが村から仰ぐ赤城の偉容は、わが村人だけが知っている姿だ。
 上新田から望んだ赤城の嶺には、東から長七郎、地蔵、荒山、鍋割、鈴ヶ岳と西へ並んでいるが、主峰黒桧は地蔵ヶ岳の円頂に掩い隠されて、姿を現わさない。
 私は、五月から六月上旬へかけての赤城が一番好きだ。十里にも余るあの長い広い裾を引いた趣は、富士山か甲州の八ヶ岳にも比べられよう。麓の前橋あたりに春がくと赤城の裾は下の方から、一日ごとに上の方へ、少しばかりずつ、淡緑の彩が拡がってゆく。
 春が、若葉をかざして裾野を嶺を指して行くのだ。つまのあたりを小紋模様に、染め分けて微かに見えるのは、細井や小坂子の山村の数々か、それとも松林か。
 真冬の赤城は、恐ろしい。籾殻灰のように真っ黒な雲が地蔵ヶ岳を掩うと、有名な赤城颪が猛然と吹き降りてくる。寒冽な強風だ。風花を混じえて、頬に当たれば腐肉も割れやせん。
 私は子供のころ、その痛い嵐が吹き荒む利根川端の崖路を、前橋へ使いに走らせられたことがあったのを記憶している。相生町の津久井医院へ、病母の薬貰いであったかも知れぬ。
 晩秋の夕が、西の山端に近づくと、赤城の肌に陽影があかね色に長々と這う。そして山ひだがはっきりと、地肌に割れ込んでいるのが、手に取るように見える。箕輪の部落のあたりから富士見村の方へ割れ下っている襞は、あれは白川の流れであろうか。
 父は夕方になると山襞に添って黒くひろがる斑点を指して、幼い私に「白川狐」の物語を、麦田打つ手を休めて、語ってくれた。父は、前橋市宗甫分、昔の勢多郡上川向村大字宗甫分から、利根川の小相木の船橋を渡って、私の家へ養子に来たのである。前橋からの高崎街道は六十年ばかり前までは、宗甫分から利根川を越えて、対岸の西群馬郡東村大字小相木へ通じていた。そこに、船橋が架してあった。
 宗甫分に在った頃の青年の父は、いつも年の暮れが近づくと、村の長老鹿五郎爺の先達で、赤城の中腹にある箕輪村の近くへ、春の用意の薪採りに登って、幾夜も松林のなかへ立てた俄作りの掘立小屋に泊まった。ある年の冬の夜、その小屋の近くを流れる白川の崖に棲む「白川狐」の二匹が、一人の娘に化けて掘立小屋を訪ねてきたのに、青年の父が応待したという話である。
 二匹の狐が、一人の娘に化けたというのが、私ら子供の興味を集めた。一匹の狐が、一匹の狐の肩車に乗り、一体となって巧みに、姿のなまめかしい娘に化けた。
 そこで、娘は青年達が宿っている掘立小屋へ、夜の訪問とでかけたわけだ。思い設けぬ美人の訪問に、青年達は大いに喜んで厚くもてなした。そこで、私の父も家から持って行った餅を五切れ六切れ、榾火に焼いて、娘に馳走したところ、娘はおいしそうに、そして恥ずかしそうに、むしゃむしゃと盛んに食べた。
 ところで、頬ふくらして盛んに食べたのは、肩車に乗った上の狐である。肩車の下の狐は、これを見て、朋輩のやつ、ひどく旨いことをやっていやがるな。だが待てよ。ここらで、小生が食い意地をはり、ちょっかいを出せば、あらぬところで化の皮を剥がれるおそれがあろう。
 待てば海路の日和ひより、そのうちには小生の方へも、お鉢が回ってくるに違いないと、下の狐はしばしがほど、辛抱に辛抱を重ねて、上の狐が青年共の隙を狙って、一切れの餅を股座またぐらへ抛り込むのを待っていた。
 が、しかし上の狐は甚だ友情に乏しい。手前ひとりで、食ってばかりいる。下の狐は、憤慨してむかっ腹を立てた途端にわれを忘れ、先刻の自制心を失い、の間から素早く手を出して上の狐の持っている餅を奪って、股座の奥の横に割れた己の口へ、ねぢ込んだ。
 そんな次第で、ついに美人は青年達に正体を見破られ、からき目に会って二匹の狐は命からがら白川の崖へ逃げ帰ったという父の実話である。
 父は話上手で、手まね物まねで語るから「白川狐」の話は、何度聞いても、飽くことを知らなかった。父逝いて幾年、晩秋がめぐりきて、夕陽が赤城の山襞を浮き彫りにするとき、私の眼には白川狐が、餅を食べている姿がよみがえる。白川狐は、いまもなお赤城の山襞に、永遠の生を続けているであろう。
 赤城の左の肩には、利根郡の中央に蟠踞する雪の武尊ほたか山が、さむざむとした姿をのぞかせている。仏法僧で名高い武尊の前山の、迦葉山は、いずれの突起か。
 子持と小野子の二つの山は赤城の山裾が西へ長く伸びて、そこに上越国境から奔下する利根の激流を対岸に渡った空間に静座しているのである。この二つの山は、わが村から真北に当たって、赤城の裾と榛名の裾が、相触れようとする広い中空を占めている。子持は右、小野子は左だ。なんと円満な、そして温厚な二つの山の風影であろうか。厳冬が訪れても、かつて険相に墮したことがない。
 子持山と、小野子山の東西相る樽の奥遠く、頭の白い二つの山が顔を出している。右が茂倉岳、左が谷川岳である。平野の人々は遙かにこれを望んで、ただ越後山と呼んでいるが、二つとも上野国と越後国にまたがっているのである。
 この二つの山は、平野から北へ眺める一番深い山である。十月半ばには、毎年頭に白い雪を冠る。里の人々は『越後山に雪が降ったから、そろそろ稲刈りがはじまるだんべ』というのだ。もうその頃には、ときどき寒い秋の風が吹く。
 十月末に降った雪は、年によって七月半ばの夏の土用に入るまで、山の襞に消え残っているのが遠く見えるのである。だからこの山々に全く雪を見ないのは、八、九月の二ヵ月だけだ。
 私は、子供のとき利根の河原からこの山々の白い嶺をみやびやかに眺めて、まだ知らぬ越後国の雪の里人のありさまについて、いろいろ想像をめぐらしたものであった。晩秋から冬にかけては雪雲と風雲に閉じこめられて、はっきりと姿を現わすことはまれである。春は春霞に、夏は夏霞に面を掩うて、晴れやかに里の人々に国境の寂しさを物語ることは少ないが、九月から十月にかけての秋晴れの日には丸裸となった嶺の容が眼に近い。
 谷川岳も、二十年前、まだ上越線が開通しないうちには、ただ遠い山と呼ばれてのみ、人々の接近を許さなかったのである。伊勢崎市付近の平野からは、谷川岳の左に続いて万太郎山の姿が遙かに見える。
 小野子山の肩から、榛名山の右の肩にかけて空間に、これを遙かに白い国境の山脈が連なっている。三国峠を中心とした三国山の峰々である。上越線が開通する以前、恐らく数百年前から、越後国の人々はこの雪の三国峠を草鞋わらじをはいて越え、上州や武州の江戸村の方へ稼ぎに出て行った。米搗く人もあったろう、湯屋の三助を志す人もあったであろう。
 三国連山から西に続いて、渋峠の山と草津の白根火山が聳えているのであるけれど、白根山も渋峠も、榛名山の背後に隠れて、平野からは全く視界を絶っている。しかし、昭和七、八年頃、白根が盛んに噴煙している間は、静かに晴れた秋の日に、夕陽を狐色に映した煙が、榛名山の右の肩から細く、東北の方、越後の空に遠く棚引くのを折り折り望見した。
 榛名山は、わが上新田にとって、お隣という感じである。あるいは、上新田は榛名山の麓の分に含まれているかも知れぬ。
 真北よりも、少し西に位置して、群馬郡南部の平野を悉く、おのれの衣裳のうちに包んでいる。赤城と同じに、なんと広い裾野の持ち主ではないか。
 榛名は赤城に比べると、全体の姿といい、肌のこまやかさ、線の細さなど、女性的といえるかも知れない。東から船尾、二つ岳、相馬山、榛名、富士と西へ順序よく並んで聳えるが、どの峰もやわらかな調和を失わない。そして、それぞれが天空に美しく彫りつけたような特色を持っているけれど、敢て奇嬌ではない。
 まず、榛名は麗峰と呼んで日本全国に数多くはあるまいと思う。
 死んだ村上鬼城は、榛名の春霞に陶酔して、これを幾度も俳句に読んでいるけれど、私は秋の榛名に傾倒している。九月の末になって、峰の初霜から次第に冷涼が加わってくると、榛名は嶺の草原から紅くなる。十月に入ると、もう朝寒むである。嶺の草紅葉の色は、段々に中腹の雑木林に移り染まってあたかも初夏、新緑が赤城の裾野を頂に向かって這い登るのと反対に、一日ごとに青草の彩が、麓の方へ退くのが、はっきりと分かるのである。
 この頃の榛名を眺めると、私は終日飽くことを知らない。殊に、十月下旬になると相馬ヶ原一帯の錦繍きんしゅうは、ほんとうに燃ゆるようだ。明治三十九年の正月の上旬であったと思う。私は、帰省して箕輪町の奥の松の沢の山家へ泊まったことがあった。その夜、山家では山鳥の汁で、手打ち蕎麦を馳走してくれた。それから四十年の月日は過ぎたが、その時の榛名の鳥蕎麦の味は忘れられない。
 食後、松の沢の部落から、前橋方面に大きな火事が火の手をあげるのを発見した。あとで聞いた話だが、それは前橋市立川町の敷島屋が焼け、逃げおくれた男女が七、八人、無惨の死を遂げたということであった。
 山上の榛名湖にも、いろいろの想い出がある。華やかな火口原の花野の果てに、漂う水の湖辺に糸を垂れて大きな鱒を引っかけた釣悦は、なににたとえよう。青銀色の艶に光る鱗のなかに、丸々とした肉脂を蓄えた鱒の風味に添えて、一盃の麦酒、まことに物豊かな想い出だ。
 氷上の公魚わかさぎ釣りも、趣が深い。釣りあげて氷上に放つと、忽ち棒のように凍った公魚は、細かい鱗の底から、紫色に光る艶を放って、鮮麗な小魚である。天ぷらによし、塩焼きによし、汁物によし。
 伊香保温泉は、二つ岳の背後にあって、南方の平野からは望めぬが、私は十七、八年前、幼くして夭折した二男のやまいをここで養ったことがあった。丈夫でいれば、予科練へでも入ったか、特幹でも志願したか。特別攻撃隊の卵にでもなっていたであろう。
 上新田から見る五月の落日は、榛名山の西端にかかる。初夏の厚い霞を着た入陽いりびは、緋の真綿に包んだ茶盆のように大きい。麓の遠い村々にはもう夕べの炊さんの煙が、なびいている。
 西の空には、煙の浅間山が浅間隠し山、鼻曲がり山、碓氷峠などの前山を踏まえて、どっしりと丸く大きく構えている。一体、浅間山は南向きなのか、東向きなのか、前掛山は、山の中腹から南方へ向かって掛かって見える。
 浅間山は、わが地方の気象台である。明日の晴雨、風雪は浅間山が最もよく承知しているのだ。日中、浅間の煙を望んで、東の空か東南の秩父山の方へ流れていれば、明日は太鼓たいこ判を捺したように晴天である。もし、煙が山肌を這って東へ降りれば、明日は強暴雨戸を押し倒すほどの浅間颪。
 ところで、噴煙が火口からすぐ北に向かっていれば、明日の午後か明後日は必ず雨が到来するか、静穏な天候が一両日続くものと判断して差し支えない。だから、秋晴れの日の越後の国の空へなびく煙を眺めれば、明日の釣り道具の用意をはじめて結構だ。
 なにはともあれ、浅間の壮観は、爆発直後、天にちゅうする大噴煙の躍動である。ドンと爆音が耳にこだましたと同時に庭前へ飛びだして西の空を望むと、むくむく灰色の大噴煙の団塊が、火口から盛り上がるのを見るのである。それから一秒、二秒。煙の団塊は天宙に向かって発展し、入道雲のようになって丸く太く高く、高く突っ立つ。
 煙の尖端が天に沖して、ある高度まで達すると、その尖端は必ず東の空へ向かって倒れるのである。東の風の吹く日に爆発したとすれば、爆発直後、煙はある高度までは西方に傾きつつ天に沖するが、さらに高度を高めて一定のところまで上がると、煙の尖端は必ず反対に東の空へ向かって流れはじめるのである。
 そこで我々は、なるほど煙は一万尺の高度に達したなと思うのだ。つまり、煙が必ず東へ向かって流れる一定のところが、成層圏に近いのであるかも知れぬと察するのである。
 浅間の中腹の肌に、瘤のように膨れ上がったのは小浅間である。小浅間から北方へ、なだらかに下れば、はてしもなくひろがった六里ヶ原だ。五月下旬の六里ヶ原の叢林は、漸く若葉が萌えたつ時だ。茶、黄、燻し銀、鼠、鬱紺、淡縹、群がる梢に盛り上がる若葉はなんと多彩な艶に、日光を吸い込むことか。
 叢林の若葉の色沢は、触れれば弾力を感ずるのではないかと思う。
 六里ヶ原の浅絲の下には、幾本もの渓流が吾妻川の峡谷に向かって走っている。そこには、数多い山女魚やまめが棲んでいて、毛鈎けばりの躍るを追い回す。殊に熊川渓谷の銀山女魚の味は絶品だ。
 四阿あずまや山は、上信国境の峻峰であるけれど、遠く榛名の西の肩に隠れて姿を出さない。しかし両毛線の汽車に乗り、新前橋駅を発して高崎駅へ向かう途中、日高村の信号所の前後からは、僅かに頭の一端を遠望することができる。それも、まだ残雪の濃い早春の、穏やかに晴れた朝でないと、他の群峰に紛れて、しかと判別することができぬ。ほんの、拳ほどの大きさに、白い頭が覗いているだけである。
 浅間の東南に続くのは、角落や妙義の奇山で、これは誰にもなじみ深い。わが村から真西に卓子のように平らに横たわるのは、神津牧場の荒船山である。荒船山の右の肩から奥の方に、雪まだらの豪宕ごうとうの山岳が一つ、誰にも気づかれぬかに黙然と座している。これが、信州南佐久の蓼科たでしなだ。
 それに連なって、西南の空は遠い峻岳高峰が居並び、まことに絢爛たる眺めである。秋も終わりに近づいて、そろそろ稲の収穫がはじまろうとするころ、荒船山の南方と、秩父山の西北との遠い遠い空に、雪の連山が生まれたように浮いて出る。
 この連山は夏から秋の半ばころにかけては、あたりの群山に紛れて、全く人々の注意を惹かないのであるけれど、上州の平野から眺める四囲の山々で、最も早くこの連山に雪がくるので、はじめて晩秋の農民の眼に映るのである。我々平野の人々は、昔からこの遠山の名を知らなかった。
 ただ村人は、あれは信州か甲州の奥山であろうと思っていた。
 ところで、あの遠い山をはじめて甲州の八ヶ岳であると断定したのは、私であった。それは私が登山に趣味を持つようになって、甲州や駿河信州の飛騨の山々を歩きはじめた今から三、四十年前のことであった。甲州の甲府の南方釜無河畔から眺めた八ヶ岳と、ある年の晩秋、上新田へ帰省して、西南の遙かな空にあの白い奥山を望んだとき、形の大小遠近こそあれ、全く姿が同じであったので、あれは八ヶ岳であったかと、多年の謎が解けたのである。
 赤岳を主峰として八つの嶺が序列正しく白い新雪を冠り、怒れる猛獣が銀の牙を天に向かってきだしたに似た姿を遠望したとき、真に凄寒を催さざるを得ない。折柄、秋風空中をかすめて稲刈る人の指先が、ひとりでにかじかむ。
 八ヶ岳の雄容はひとりわが上新田ばかりから望めるのではない。高崎市に近い佐野村を通過する信越線の汽車の窓からも前橋公園の桜の土手からも、はっきり眺めることができるのだ。
 四月の半ば、桜の花が散るころ、わが故郷には西南の微風がもたらした細雨が、しとしとと降ることがある。この雨雲はあの遠い甲州の奥山から送ってくるのであると、里人は言い伝えた。西南の遠い山から吹いてくるこのやわらかい微風は、糟のように細かい雨と共に、駿河大納言が詰腹を切った高崎の鐘の音も雲に含んで伝えてくる。
 こうして春の夕、大信寺の鐘の音が、わが村に響いて、余韻が消えなんとするとき、村の末風山福徳寺の鐘が、人のかぬのに大信寺の鐘に応えるが如く、自ら低く唸り咳くのである。この話は、象徴的な興味深いところがあるけれど、語りだせば余りに長くなるから、ここでは山の姿のみを眺めて、別の機会に譲りたいと思う。
 八ヶ岳の左手に、いつも濃紺の肌の色を、くっきりと現わした円錐形の高い山が、つつましき姿で立っているのを見いだすであろう。それはやはり甲州の金峰山だ。金峰山は、なんとみめかたちよい山か。
 標高八千尺というから、むろん秋から初夏にかけ、白い雪を頂いているのであろうが、四季濃紺の色に肌を染めているのは、わが村から眺める光線の角度によるのかも知れぬ。お隣の瑞垣山は、いずれかの山のかげに隠れて、面をださない。
 それから東に眼を移すと、近くは上州北甘楽の稲含山、多野の西御荷鉾山、東御荷鉾山。遠くは武州と甲州にまたがる奥秩父の連山が、十重二十重に霞の奥の果てまで連なっている。近きは紫紺に、遠きは浅葱あさぎ色に、さらに奥山は銀鼠色に。
 甲武信か国師か雁坂か、武甲山か三峰か、いずれがどれとも名は分からないが、奥秩父の高山が東へ向かって走ったその奥遙かに、奥多摩の雲取山が銀鼠色に、淡く煙って見える。太い平らな胴を台にして、熊の爪のように並ぶ三、四の小峰は、あれは雲取山の頂に違いない。
 これで、上州の平野から眺望する四辺の山々に、眼を一巡させたが、秩父の連山はさらに東南へ低く伸びて、武州児玉郡か北埼玉郡の草野のなかに、裾を没している。
 そこはもう、広茫たる関東平野だ。秩父山の消えるところと、野州の連山の消えるところのわが村から指して東南の一隅には、全く山を見ない。夏は、その地平線から白い雲が湧き、冬は灰色の浮雲が、その地平線に吸い込まれて行った。
 上州の東南地方から武州、下総国かけて一望、眼を遮るもののない大平野である。一つの小山もなく、青い田と畑が、際限なく押し広がっている。この平野の尽くるところの海辺に東京の街がある。前橋から二十八里。
 大正十二年九月一日の夜、大震災の火の手はいよいよ逞しく、東京の下町を殆ど焼き尽くしたが、天を焦がす猛火の反映が、燃ゆる雲となってむらがり立ち、関東平野の西北端にある赤城と榛名の麓の村々からも、東南の水平線に怖ろしきばかりに見えたのである。
 東京も永い年月住んでみれば、万更いやなところでもない。こうして、お膝元を離れ麦田と桑畑に囲まれた農村へ帰り住むと、白雲が流れる東南の方、都の空がなつかしくもある。
 私の、上新田の茅舎あばらやは、利根の河原へ百歩のところにある。朝夕、枕頭に瀬音の訪れを聞くのは、子供の時からの慣わしである。利根川なくして、私の人生はないようなものだ。四季、さまざま想い出の水が流れる。初夏には、母や姉と共に蚕蓆を洗いに行った。初夏とはいえど水源である上越国境の大水上山の雪を解かして流れくる水温は、摂氏の十度前後と思わんばかりに低い。水際に浸ってものの五分もたたぬうちに、姉の白い脛は冷烈の水に刺されて、紅に彩った。
 夏がくれば、私は魚籠びくをさげて父のあとから、ひょこひょこ歩き、投網打ちに行った。うけをかけにも行った。釣りにも行った。五歳の折りの想い出、十歳のとき、十五歳のとき、二十歳のとき、三十歳のとき、四十歳のとき、わが生涯の歴史は、綿々として絵巻物のように、上新田の地先の利根の流れの面に、絶え間なく幻影を描きだす。
 私は、遠く山々を望んだとき、利根の水際に佇んだとき、ほんとうに童心に返る。全く人間の五欲を忘れてしまう。
 それは、私ばかりではあるまい。誰でも、愉しき過去、悲しき過去には、山と水の俤が夢に残る。人は、その想い出にわれを忘れる。つまり、童心に返るのだ。私は、市川猿之助の舞踊劇『黒塚』に心酔して、これを三、四回観たのであるが、那智から巡りきた行脚の僧の看経の功徳により、安達ヶ原の鬼女は悪夢から覚めたように過ぎし罪業を離脱し、ゆくりなくも童心に返って丸い大きな月があまねく照らす芒野にさまよいいで、幼きころ都にて習いおぼえし月の歌の踊り。われを忘れて口ずさみつつ茜草踏んで踊る場面は、観る私もうっとりとして、われを忘れてしまった。





底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
   1993(平成5)年8月20日第1刷発行
※<>で示された編集部注は除きました。
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
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