淡紫裳

佐藤垢石




この一文は昭和十四年四月、京城日報社の招きにより、将棋の名人木村義雄氏と共に、半島の各地を歩いた記録である。

     一

 朝鮮半島の幹線は、いま複線工事をしているので、三十分以上も遅れて京城へ着いた。駅のフォームに婦人団体、女学生団などが、二、三百人も堵列とれつしている。これは、支那の前線から帰ってきた看護婦たちを出迎えているのだ。私たちの出迎え人も山のようである。
 朝はやく釜山駅をたつと我らは、すぐ窓からそとの景色に顔を向けた。赤土山に、松の木がまばらに生えているという話は聞いていたから、それは別段珍しくはなかったが、川という川に転積している石の、角がとれてないのには驚いた。朝鮮人は理屈っぽいというけれど、石までとは思わなかったのである。歴代の総督もこの角のとれない石には随分悩まされてきたのであろう。などとくだらぬことを話し合いながら飽かず移り行く風景を眺めた。
 ところが、京城へ着いて聞いてみると、やはり漢江とか洛東江とかいう大きな川の石は丸いのであるという。汽車の窓から見える川の石は、まだ山から生まれ落ちたばかりの石であるから、角がとれないのだ。と説明されて、なるほどと思ったのだ。
 朝鮮の家は小さい。汽車から遠くの山の麓に並んでいる農家を見ると屋根をふいた藁の色が、赤土山の色にとけ込んで、何とも漠々たる感じを与える。そして、屋根の破風はふというものがないから、掘立小屋みたいだ。王朝時代、多年苛斂誅求かれんちゅうきゅうに苦しめられた風が残っている[#「残っている」は底本では「残ったいる」]ためかも知れない。
 とにかく私らは、初めての土地であるから見るもの悉く珍しいのである。洛東江も、錦江も鉄橋の上を渡った。川を見ると想像していた水の色とは全く違う。支那の川のように茶色ににごっているものと思っていたのに、どの川の水も青く澄んで悠々と流れている。そして、細かい美しい砂利が河原に一杯押しひろがっている。これには、魚がいると思った。

     二

 朝鮮の水の色はよく澄んであおいが、空も蒼く澄んでいるのは甚だ快い。きょうで京城へ着いて四日目になるのだが、この町の空に一片の雲も認めなかったのである。朝鮮には、雲というものがないらしい。
 汽車が太田と京城の中間を進んでいる時と思う。隣席の客が窓外の田圃たんぼの真ん中に大きく構えているドレッチャーを指して、あれはこの辺の地下三尺ばかりのところにある砂金を掘っているのだと教えてくれた。そして、そのあたり鮮人が泥の中をかきまわしているのは、彼ら個人で砂金を捜しているのだという。北海道や大陸の方の砂金捜しの話は、聞いていたが、いま汽車の窓から見る風景のなかに砂金捜しの姿を発見したのは、夢のような心地がした。鮮人に一貫目もある大きな砂金を拾わせたいものである。
 その隣席の客は語を続けて、朝鮮には至る所に金がある。昭和十四年度における朝鮮の産金予想は二十七トンであると説明した。二十七トンの金、これは私らにはどんな量か、どんな紙幣束に代わってくるか想像もつかない。恐ろしく、金が沢山あるところだと思った。そういえば、何となく赤土山がピカピカ光るような気がする。
 京城へ入ってみると、朝鮮臭いところはどこにもない。だから、取りたてて変わった印象はないのである。変わった印象を受けないのが、かえって変わった印象を受けたくらいである。建物も人も乗物も犬にも特別なところがない。
 出迎えの人に案内されて、朝鮮神宮へ参拝し、それから夜、京城日報主催朝鮮将棋大会木村名人歓迎会というのに臨んだが、妓生さんを見られると思ったところ、内地から行った芸妓ばかり酌に出た。それはどちらでもいいとして、この席上で思いもよらぬ人に邂逅かいこうした。

     三

 京城到着当夜の歓迎宴は、京喜久というので開かれた。杯がしげくまわりはじめると、座に一人の老人がって大きな声で、『二十年振りで会う木村義雄君にご挨拶を申しあげる』と説きだした。何を語るのかと耳を傾けていると『私は朝鮮銀行にいる時代、つまりいまから二十年前、東京へ出張を命ぜられ麹町のある旅館へ宿を取った。翌朝宿の浴衣ゆかたを着て近所の床屋へ行き、頭をきれいにしてさて勘定と懐を捜すと入れてきたはずの財布がない。止むを得ず床屋から宿まで馬を連れてきた訳だが、財布紛失のことを麹町警察署へ届けた。ほどなく警察から落とし物が発見されたという通知に接したので行って見ると、そこに拾い主であるという久留米絣くるめかすりあわせを着た十五、六歳の少年が立っている。財布の中は現金もさることながら重要書類が入っているので私はこの少年に対して深く感謝した。そして規定に従って謝礼金を取ってくれといったが少年は何としても受け取らない。僕は道に落ちていたものが財布であったから落とし主はさぞ困っているのだろうと思ったので直ぐここへ届けただけである。謝礼など貰おうとは思っていないと頑張るのだ。私はその美しい心に感激した。ところで、立会の警官は少年に対して落とし主から拾い主が謝礼を貰うのは、国の定めとなっているから受け取らねばいかん、というので少年は渋々しぶしぶ謝金を受け取ったような次第であった。そのとき私は少年に名を聞くと、木村義雄というものでいまはさる商業学校の夜学部へ通っているという。私は、こんな立派な精神を持っている少年なら必ず立派な将来を持つであろうと思ったから、学校を卒業したら朝鮮へ来てくれ、必ず就職の斡旋をするつもりであるから、といって別れたまま今日に及んだが、話はこれからである』と、この老紳士はなおも語を続けるのである。

     四

『そのことがあってから二、三年たった。もう彼の美しい少年は学校を卒業した頃である、と考えていたが朝鮮へやっても来なければ手紙一本来ない。日夜少年の顔を眼に描いて、心待ちに待っていた。ところが大阪の新聞に専門棋士を七人抜いた天才少年棋士のことが載っていて、それがあの時の少年木村義雄と同姓同名であったのを見て私は不思議の感を催していたところ、それから一年後の年始状に将棋六段木村義雄と署名したのが届いた。そのとき私はさてはこういう人であったのか、それでは私をたよって朝鮮くんだりまでくるはずはないと思ったのである。それから十数年たって、今夜ここで棋界の名人木村義雄氏としてあの時の拾い主にお目にかかった訳である。ことの奇縁といい、精神の持ち方といい、回顧してまことに感慨に堪えない』と、語り終わった。これを聞いて私らは、旅はして見るものかな、と思った。老紳士は当時朝鮮銀行秘書課長兼人事課長、現在京城の不二興業専務飯泉幹太氏である。
 翌日、木村名人は龍山陸軍病院に白衣の勇士を慰問に行って勇士たちに、『棋略と戦略』という題で一時間ばかり話をした。
 京城の料理はおいしい。材料も清新であるし、調理のしかたもまことに結構だが、我々東京の者には塩味が少し足りない。これは関西式の料理であるからであろうと思う。
 京城には、なかなか美人がいる。内地婦人は眼につかないけれど、朝鮮婦人はよく眼につく。赤、紫、白、紫紺、黒など思い思いの上着をきて町をぞろぞろ歩いている。ほんとうに朝鮮婦人は外出好きらしい。何れも、涼しい眼を持っている。衣類の格好によるのであろうが、背が高く足が長く見えるところは体格美を感ずる。そして、頭の毛はパーマネントをかけて、もじゃもじゃさせているのが、ほとんどいない。

     五

 中枢院参議金尚会氏という京城では有名な釣り人に案内されて、四月一日から開通された京慶線に乗って漢江の上流へ、探勝に行った。
 その傍ら釣りもやろうというのであったが、まだ季節は早いと見えて漢江の鮒には一匹もお目にかかることが出来なかったのは甚だ残念であった。けれど、八堂という駅の前を流れる漢江は内地では見られぬ大河の相を持っている。広さは、隅田川の二倍ほどもあろうか、あおい水を満々とたたえ静かに西北に向かって流れている。深さは三丈から四丈はあるという。その上を、帆をかけた舟が悠々と流れるように東北へいくつもいくつも動いて行くのだ。舟には、鮮人の舟夫が例の美音で款乃かんだいを唄っている。
 山の松もいい。岩山には土が浅いと見えて松の育ちは悪いのであるが、育ちが悪いだけに松の枝振りは風流である。浅間火山の六里ヶ原に生えている松に似ている。徳沼という駅の前の河原は、一里もあろうと思うほど広い。白い衣物を着けた鮮人が舟に乗って小さいはやを釣っていた。
 朝鮮の棋界は、甚だ盛んである。大阪、名古屋などの次に、京城の棋界は位するものであろうと思う。それに、素人しろうと棋士がよく書物を読んでほんとうの棋道に精通しているらしく見えるのは感服に堪えない。朝鮮将棋大会で優勝した人など、まだ三十歳を出たばかりであるが、この人など素人とはいえ熱心に定跡じょうせきを学んでいる風がある。この分で行くと、京城の棋界はこれから目覚ましい発達を示すのではないかと考える。
 昌徳宮へ案内された。ここは、昔から朝鮮王が住んでいたところである。宮廷の広さ約十五万坪、なかでも秘園といって特に紹介の人以外に入れない約八万坪の庭園は植物、建築など渋く錆がついていて五百年の歴史がしのばれた。落葉の上に、リスがくるくると歩んでいた。ここの動物園で虎を見た。朝鮮の虎かと思ったら、アジア南部産と書いてあった。
 平壤は素敵にいいところだ。十二日の午前七時ごろ着いたのであるが、折りから雨風が吹いて少し寒い上に、道幅が広いので何となく寂寞たる感を催したのであった。
 町並みのどこかに、すさくれた新興都市といった風の、一種親しみにくいところがあるように思ったのであるけれど、雨の中を宿の三根楼を出て将棋の会がある柳という席亭へ行ってみて、はじめてここは古い歴史ある都会であるのをしみじみ心に覚えた。集まってきた土地の名士の人々にも、なかなか迫らぬ人柄が備わっている。
 昼食後、朝鮮唯一であるという平壤の妓生学校へ案内された。赤煉瓦造りの小さい建物であるが、大同江に臨んでいて、優れた眺めが軒下に連なっている。学校の職員の斡旋でこの学校の三年生の、舞踊を見せてくれた。最初幕があがると、美しい四人の生徒妓生が淡紅色の長い袖に、長いの衣をつけ、頭に花笠のような笠をかぶって、両の手に短剣を持ち、腰はしなやかに、両脚をこまやかになよなよと踊りだすのである。踊りに伴って鳴る楽器が春にふさわしい閑雅な音をただよわす。胡弓こきゅう、長鼓、太胡、笛、しょうの五器がそれぞれの響きを悠揚ゆうような律に調和させて大同江の流れの上へ、響いて行くのである。これは、剣舞といって、朝鮮の王朝時代から伝わった古い伝統を持つ踊りである。次は二人の妓生が僧舞というのを舞った。これも優雅なものである。
 長鼓は、内地のつつみに似てそれよりも大きく長く、右手に棒を持ち左手は指で打つのであるが、楽器の柄の大きさとは反対に複雑な音を出す。胡弓の音がよかった。綿々めんめんとして哀調を、舞う妓生の袖に送っている。
 舞踏が終わると一人の老妓生が事務室へ現われて席画を始めた。竹と蘭を描いた。絵はさほどうまいとは思わなかったが、女がしかも日本でいえば芸妓が、墨の濃淡こまやかに筆を運んでゆくことに、ただ感心して見たのであった。
 それから牡丹台へ行った。標高僅かに三百尺位の牡丹台であるが、一番高いところに登ると、四方へ闊達かったつに開けた大同江平野が一眸いちぼうのもとにあった。
 大同江が東北の遠い山の間から流れて帯のようにくねって曲がり、下流は悠々と流れて霞の中に消えている。折りから雨はれて、水蒸気が霞か靄に変わったのであろう。果てしない大陸の平野は夢のように淡く続いている。朝鮮の霞だ。京城では、大陸へきたという感は起こらなかったがこの牡丹台から眺める雄大な景観に接して、はじめて遠い国に旅してきたという思いを催したのである。
 玄武門も見た。大きな門ではなかったが、昔子供時代に原田重吉がこの門を乗り越える木版画を見たのを思い起こして、ある感慨に打たれた。
 ゆるやかに流れる大同江の水上に、画舫がほうがいくつも浮いている。牡丹台の岸にれんげが咲き始めた。
 山の中腹にある平壤博物館へ行った。既に時間が過ぎて閉門したのであったが、遠来の客とあって館長が特に案内して中を見せてくれた。楽浪らくろうの遺物が大部分を占めている。二千余年前の朝鮮にこんな文明があったのかと思って驚嘆したのである。漆器美術の巧緻こうちなことは、我々芸術を解せぬ者にも、当時の人の雅趣が思われたのだ。楽浪の墓陵を移して再現したものも見た。構成の偉大な、調度の配置の美術的な、何事か朝鮮の昔がしのばれる。棺に納まっている婦人のは、骸は既に風水に解けて容は止めなかったけれど、絹物の衣類調度と、胸の宝石貴金が昔のままに残っていた。
 夜の歓迎会は、お牧の茶屋というので開かれた。この眺望は恐ろしく大きかった。大同江を真っ直ぐに下流に見下ろして、既にが落ちた薄暮のうちに対岸の平野を黙々と飾る灯と、牡丹台の崖にちらつく灯が相対して、ほんとうに幽遠を思わしめたのである。
 宴席に、六、七人の妓生が現われた。二十二、三歳から五、六歳になっているから、妓生学校を卒業してからもう七、八年は過ぎた人達であろう。甚だものなれている。
 真白、淡紅、薄紫、黄などいろいろの上着の下に、長い裳をつけてなよなよとしていた。いずれも五尺二寸以上の上背があって最も高いのは五尺三寸あるという。そして姿態がやわらかく、四肢がのびのびとしているから物腰に無理なところがない。婉美えんびというのはこういう女達を指すのではないかと思う。
 中でも崔明洙、韓晶玉というのが、美声の持主であった。内地の芸妓の唄う歌をなんでも唄った。この色と艶と弾力、それをこれほどまでに錬磨した声は、内地の芸妓にも少ないと思った。安来節やすきぶしと白頭山節には感服した。哀調を帯びたアリラン節に魅せられたのは勿論のことである。
 尹玉川と白蓮紅の二人は、若くて、そして美人であった。皮膚が練絹ねりぎぬのように細かくやわらかであるから、白粉おしろいの乗りがいい。爽やかな眼を大きく張って、この二人も明るく唄った。
 韓晶玉は、絵筆を色紙の上に揮った。濃淡の墨痕に七賢を描き出したのだが、内地でいえば、いやしい芸妓にもひとしい稼業であるのに、よくもこんな技まで習ったものかなと、驚いたのである。
 妓生は芸妓とひとしいというけれど、少しも借金を背負っていないのだ。流行妓になると三、四万から十万円位貯蓄しているという。妓生学校へ入学するには、人物試験と身元調査が厳重に行なわれる。だから下層民の娘は入学できないのである。良家に育ち、厳重な校規の下に教育を受けて卒業すると、そのまま誰に抱えられる訳ではなく、女の一つの立派な職業として旗亭きていの招きに応じ客に唄と舞を供する。勿論、酌もするのだ。
 お牧の茶屋の収穫は、妓生の美しさばかりではなかった。川魚料理である。カルユイ(小蟹)、ソガリ(鰍魚)、フナ、ヒガイ(鰉)、ドジョウなど、いずれも眼下に眺める大同江の水からったものだそうだ。
 鰍魚という魚は、いままで人の話や書物などで知っていたが、実物を見て、そして味わうのはきょうがはじめてである。この日、私らの目前に運ばれたのは、長さ一尺七、八寸、目方は六、七百匁もあったろうか、全体の姿がスズキによく似ている。殊に、下あごの突き出ているところはスズキにそっくりである。背びれがいかめしく、うろこが細やかである。それに塩を振って丸焼きにしてあった。肉は淡白で味わうと、一種の濃淡が舌に残った。スズキよりもおいしい。きもは皮ハギのそれに似てそれよりもおいしく、腹の卵粒も珍賞にあたいしたのであった。
 小ガニは、小豆ほどの大きさである。そんなに小さいながら親ガニであるそうだ。それに薄くころもをつけ、空揚げにした味は酒席の前菜として杯の運びをまことによく助ける。私らは、ほんとうに賞喫したのである。フナとドジョウとヒガイは内地のものにくらべて、少しは劣ると思った。それは舌に淡い、いがら味の残匂をおくからであろう。
 まだこの外に、サンチー(山至魚)という珍味があるのであるけれども、これは大同江の上流の六、七十里のところに棲むのであって、まだ漁の季節に入っていないから、漁人が持って来ないのは残念である、とお牧の茶屋の中年の女将が語った。
 夜半、宿へ帰っておいしいそばを食った。半島でもこんなおいしいザルそばが食えるものかと思ったのである。
 十三日朝再び京城へ帰って、その夜の汽車で外金剛の山々を志して出発した。車掌がスチームの温度を無暗と高める。肌から汗が出て眠れない。寝台車の中で寝返りばかり打っていた。朝八時半に、外金剛駅へ着いた。
 駅から出ると、今まで見た朝鮮の風物とはことごとく変わっていた。今まで釜山から京城へ、京城から平壤へ、京城から外金剛の駅まで汽車の窓から見る風景は、禿山に近い赤土の地肌に、ちょろちょろと若い松が生えた甚だ痩せた感じの趣ばかりであったが、ここは赤松が緑の葉を濃く垂れてのびのびと茂っていた。さまざまの雑木も水と肥料を食べ足りたように、何のこだわりもなく、枝を押しひろげている。この間を清い水の渓流が流れている。青い淵に続いて、激しい瀬が白い泡を立てる。花崗岩の家ほどもある岩塊が、いくつともなく渓畔に転積していた。
 温井里の温泉で、朝飯を食った。温泉は、砂の中から湧いている。清い、あくまで清い。湯槽の底にある砂と玉石の数が一つ一つ数えられるくらいだ。
 名所は、行って見ると話に聞いたほどでもないのが普通であるが、金剛山だけは話以上に勝れた景観と風物を持っていると出発前に誰かが語った。まさにその通りである。これは、金剛山の偉大と繊細と広さとに接して、誰も適当な形容の言葉を発見し得なかったためであろうけれど、我らも一歩山へ足を踏み入れて呆然ぼうぜんたるばかりであった。
 途中、一里半ばかりの六花台までは自動車、それから一里ばかりの万相渓までは山駕籠やまかごであった。この駕籠は籐椅子を二本の長い竹に結び、二人の鮮人の舁子かきてが担ぐのだが、樽神輿たるみこしにでも乗った気持ちで甚だ快い。
 万相渓で駕籠を捨て、いよいよ万物相(岩山の群落の総称)への棧径さんけいへかかった。目指すところは天仙台と、天女の化粧壺である[#「化粧壺である」は底本では「化粧壼である」]。内地のどこかに胸突八丁という難路があるが、そんな道は愚かである。約一里の道が、ことごとく爪先上つまさきのぼりだ。雪橋の下からくぐり出す渓水を汲んで渇を癒し、吐息をつきながら鉄の鎖を握ってよじのぼった。朝鮮烏が五葉松の梢に止まっている。
 安心呂から二、三百メートルのところであるが、天女の化粧壺へ[#「化粧壺へ」は底本では「化粧壼へ」]行く道は随分危険な場所が多い。胸を突くような岩の道に、鉄の鎖が張ってある。それをたぐりたぐり行くのだ。一足行くごとに眺めが広くなってくる。
 天女の化粧壺というのは[#「化粧壺というのは」は底本では「化粧壼というのは」]、三保の松原の羽衣の伝説と同じ話であるが、日本の伝説は海の羽衣であるけれど、朝鮮の伝説は山の羽衣である。一足誤れば、命のないほんとうにあぶない岩角をまわって化粧壺を[#「化粧壺を」は底本では「化粧壼を」]訪ね、それから天女が舞い下って羽衣を脱いだという天仙台へ登って行った。
 天仙台は、新万物相の中心をなしている。ここから眺めた景観は甚だ大きい。ただ大きいといったところで分かるまいが、ちょっと例をとって見ると、天仙台から一眸いちぼうの下に集まる万物相一帯の景色だけでも妙義山と御獄昇仙峡を五十や六十組合わせたくらいの大きさを持っている。それが、ことごとく花崗岩の風化した奇峰ばかりだ。ここらは、まだ春が浅いのでいろいろの雑木の枯林の下に、白い残雪が光っていた。東の方遠くに、山の裾が靄に溶け込んでいるところは、日本海であろうか。
 こうして一眸の下に、妙義と昇仙峡とが数十集まったくらいの素晴らしい景観が見えるけれどこれは金剛山のほんの一小部分にしか過ぎない。高い山にさえぎられた奥の方に渓谷と山容の複雑な内金剛の山々が、果てしもなく広く隠れている。また、海の方には日本海の波涛を白く砕いて、海金剛が奇観を集めているのだという。
 だから、妙義や耶馬渓をみただけの人には、この金剛全山の巨姿は到底想像もつくまい。この山々をゆっくり仔細にふみ分けるには、十四、五日間かかるであろうといわれている。
 午後、再び駕籠に乗って温井里の温泉宿へ向かって山を下りはじめた。駕籠の上から、路傍を見ると落葉の間に白い北韓スミレや可愛らしい紫スミレが咲いていた。
 外金剛の谿たにを飾る万相渓の水は、まことに清冽であった。この美しい水が、大きな岩にくだけ一枚岩をすべってゆき、そして蒼い淵となって凄寒の趣を堪えている情景を眺め入ったとき思ったのは、岩魚いわな山女魚やまめが数多く棲んでいるであろう、ということである。だから、朝鮮人の駕籠かきや茶亭の老爺に様子をたずねてみたのであるけれど、魚類というものは、何もいないという返事であった。
 これで、用意していった竿も、餌も何の役にも立たなくなった。温井里付近の下流には、アブラはやに似た小さい魚ならばいるとの話であったが、アブラ鮠は釣ってみる気になれなかったのである。そして、渓のみぎわに転積している小さい玉石をころがしてその裏を見た。けれど、渓流魚の餌となる川虫の姿が一つも見られなかったのである。なるほど、これでは魚はこの川に棲めないと思った。
 夕方、長箭や温井里や元山津の愛棋家が三、四十人集まって、我々の歓迎会を開いてくれた。
 夜汽車に乗って京城へ帰った。途中、安辺というところが日本海の沿岸を走る線と、京津線との乗換場所である。夜半、駅のホームに立って冴えた空を眺めると、頭上高く北斗七星がきらめいていた。北極星は、東京付近で見るのよりも地平高きところにある。
 京城へ帰って一日休養し、十六日は朝から碧蹄館の古戦場を訪れた。山と山との間に水田が開けて、畔にポプラの樹がそびえ、山裾に落葉松が金魚藻のような若葉をつけていた。そこが、三百四十年前の古戦場であった。小早川隆景の僅かな軍勢が、明の四、五万の大軍を殲滅した所である。いま見るこの水田が、戦争で血に溢れたそうだ。日本刀で随分斬りまくったものと見える。太閤の朝鮮役は前後七年かかった。このたびの支那事変はまだ僅かに三年。思いくらべて感慨無量であった。
 十六日夜半、東京へ向けて京城をたった。翌朝釜山で鯛釣りを試みるつもりだったが、海が荒れて、この志も達せられなかったのである。
(一四・四・一七)





底本:「完本 たぬき汁」つり人ノベルズ、つり人社
   1993(平成5)年2月10日第1刷発行
底本の親本:「随筆たぬき汁」白鴎社
   1953(昭和28)年10月発行
※<>で示された編集部注は除きました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年4月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について