盗難

佐藤垢石




     一

 私は、娘を盗まれたことがある。そのときのやるせなさと、自責の念にさいなまれた幾日かの辛さは、いまでも折りにふれてわが心の底によみがえり、頭が白らけきる宵さえあるのである。
 結婚後、五、六年になるが不幸にも、私ら夫妻は子宝に恵まれなかった。しかし、私らはそれを悩みとも、不幸とも思っていなかった。そして、子供のない安易の生活を楽しんでいるのである。子供がほしいと切望したところで、掌ででっちあげるような訳にはまいるまい。また、欲しくないって言ったところで、産腹の夫妻は毎年産む例はいくらでもある。また世の中には結婚後二十年、二十五年と月日がたったというのに、思い設けぬ子宝を授かる人さえある。だから、まあまあ運は天にまかせろと言った気分で、別段子供のない寂しさなど味わってみもしなかった。
 ところが、私の家庭に子のないことを、私の郷里の方で大分問題としていたらしい。大正六年の秋であったと思う。私の妹が突然郷里から東京へでてきて、私ら夫妻に言うに、兄さんたちはまだ若いのであるから、ゆくさきのことなど心配にならないであろうが、故郷の老父はゆくさきが短い。いつこの世を終わるかも知れないのであるけれど、家に生まれた孫の顔を見ぬうちに死ぬのは残念だ。もし、伜夫妻にゆくさきざきまで子供がいないとすると、佐藤の血統は絶えてしまう。それを考えると気がふさぐ、などと老父はこのごろ毎日愚痴まじりに言っている。そんなわけであるから、兄さん、親孝行のために、なにか子供をこしらえるうまい思案はないでしょうか、と語って妹はしみじみするのであった。
 うまい思案といったところで、こればかりは思案のほかの問題だ。私はただ笑って妹の言葉にはなにも答えなかった。すると、ややあって妹は膝をのりだし、兄さん京都の姉はまた妊娠したのだそうです。ところで父とわたしと相談の上、兄さん夫婦には事後承諾を求めることにして、勝手なことをやってしまいました。それは、京都の姉の腹にある子供を、そのまま佐藤の家へ貰ってしまう、という相談をきめたのです。姉夫婦が、こちらの希望を容れてくれれば、その結果を兄さん夫婦に報告して承認を求めればよろしい。もし、兄さん夫婦がこのことに反対であれば、その趣を京都へ言ってやれば、それで済む。他人ではないのであるから、義兄はわたしら父妹の僭越なやり方や、破談のことなど憤りはしないと思いました。
 そこで、善は急げということになり先日東京を素通りして京都へ参り、姉夫婦にこのことを率直に打ち明けたところ、案のじょう直ぐ承諾してくれました。そのとき義兄が申すに、当方には丈夫の子供が三人もいる。だから、これから産まれる子供の一人ぐらいは問題ではない。
 しかし、わが子を佐藤家の嗣子ししとして贈るとすれば、直接その子を育てる者は佐藤の嫁さんである。その、嫁さんの人柄によって子が幸福にも、不幸にもなるものだ。だから、自分は佐藤の嫁さんの人柄が心配になる。だが、佐藤の嫁さんにはまだ初対面をしていないのであるから、この際一度会っておきたいと思う。そして、安心しておきたいと思う。
 こんな風に快い返事をしてくれましたと、くどくどと述べてから妹は、私の妻の方へ顔を向けそれはねえ、わたしが見つけた兄の嫁さんですもの、太鼓判おして保証しますわと義兄に言ってやりました。と、笑うのである。私の妻は妹とあるミッションスクールの同級生であったのであるが、卒業後、妹の勧めで私はそれを嫁に迎えることにしたのである。
 以上の経過で、話はとんとんと進み、間もなく京都の義兄が上京して、私のところへ二、三泊した。明け暮れ、私の妻を縦からも横からも観察したのであろう。京都へ帰るほどもなく故郷の老父の方へ、あの嫁さんならば子供を贈るに異存はない。腹の子供が男の子であろうと女の子であろうと無条件で佐藤家へ差しあげる。とはっきりした返事を言いよこしたのである。
 妹は、この報告をもたらして直ぐ上京した。私は、妻と妹を前にして祝杯を過ごしたのである。
 わが家の世嗣ができたということ、また親に安心させることができたという喜びは勿論であったが、それよりもそれから後は、産まれる子供が男の子であるか、女の子であるかという興味が私ら夫妻の生活の中心となった。

     二

 翌年の一月末に京都から電報がきた。女の子が産まれたと知らせてきたのである。家内は赤飯を蒸した。それから直ぐ、私の長女として故郷の村役場へ出産届けをだした。私の祖母に八十六歳まで長寿を保った人があったので、それにあやかるためその名を頂戴して、みゑ子と名付けたのである。
 人々の意見で、藁の上から引き取るということは、やめた方がいいとなった。つまり、私の家内ははじめて子持ちになることであり育児には経験がないのであるから、乳離れするまでは京都へ預けておく方がよろしいというのである。老父も妹も、私のところへ喜びの手紙をよこした。
 産まれて一年ばかりたったとき、堪らなくなって私と家内は連れ立って京都へ行った。みゑ子は肥って可愛い。そして割合にわせの児で、もう障子の棧につかまって、座敷を横歩きに歩いていた。乳を離しても、差し支えあるまいということは誰にも分かる。私らと姉と三人で、みゑ子を東京の家へ連れてきた。
 姉は、みゑ子が私の家内になつくまで、東京にいて、京都へ帰って行った。帰るとき私が東京駅まで送ってゆくと姉は横を向いて、そっと涙を拭っていた。
 春が俄に私の家庭を訪れたのである。だしぬけに母となった家内は人工哺乳に、洗濯に、縫物に、乳母車を押して散歩に、朝から暮れるまで眼がまわる程の忙しさであった。みゑ子が手離しで歩きだしたと言って笑い、転んだと言っては騒ぎ、家のなかはいつも薫風くんぷう瑞雲ずいうんが漂った。
 みゑ子は、風邪かぜ一つひかないですくすくと育った。月日は夢の間に流れて、三歳の春を迎え、みゑ子は片言まじりに歌などうたった。
 話はさきに戻るが、みゑ子が京都で産まれたころ、故郷では私の若い弟に嫁を迎えた。それは私が長い間、故郷を離れて諸方を巡歴しているために、家の業である農のことがなげやりになっている。それでは祖先に申し訳ないという父の意見で、若い弟に嫁を迎えて足止めし、それに農のことを担当させようとしたのである。
 弟は嫁を迎えると、一年たつかたたぬうちに子供をこしらえた。しかし、弟は病身であった。産まれた子供が数え年二歳――生後六、七ヵ月のころ弟はとうとう病死した。これは、みゑ子が三歳の春を迎えたときであった。
 私の故郷では、弟の遺児を誰が育てるかということと、若い未亡人の処置とが人々の頭を悩ました。子供は、佐藤家の子供であるからこれは大して問題でないにしても、まだ二十歳を出たか出ない未亡人の前途は、甚だ長い。このまま、婚家へ止めて置いて一生後家ごけ暮らしをさせるのは不憫である。一旦、里方へ帰し、そして改めてどこかへ嫁に行けるようにしてやらずばなるまい。
 こう、親戚中の意見が一致して、子供を嫁の乳から離すことになった。そこで、子供は佐藤家で産まれたのであるから、佐藤家の惣領であるところの私の子供とするのが当然の筋であるということにも、親戚中の意見が一致したのである。故郷において、私の妹が老父と共に育ててもいいのだが、妹はまだ嫁入り前であったから、それは妹にとっては可哀相な訳合わけあいであったのだ。
 老父は、孫娘を弟の若い未亡人に抱かせて東京へやってきた。家内は、俄に二人の母親となったのだ。家内は二人の子供をよく育てた。私は家内に感謝した。上の方が人工営養を離れたころ、間もなく次の子の人工哺乳がはじまったわけである。弟の子は、千鶴子と名付けてあった。この子も、丈夫の子であった。
 私の家内に子供が産めなかったというのは、どこがどういうわけはないが、ひよわの性でいつもぶらぶらしていたためであったのであろう。ところが俄の子持ちとなり、それが一年あまりの間に一人が二人となったのであるから、家内の労働はいままで想像もしてみなかったほどはげしくなった。そのために、いつの間にか家内は病魔を征服して、細い骨に肉がまるまるとついてきて、三、四年前とは見違えるように健康の体格となったのである。
 みゑ子が五歳、千鶴子が四歳のとき、家内はある日、心配そうな表情して、わたしこのごろ何ですか変なの。下腹に癌のようなかたまりができて、それが動くような気もしますわ。病気じゃないでしょうか? わたしひょっとすると妊娠じゃないかと思うのですけれど――と、私に妙なことを訴えた。
 おいおい、馬鹿なことを申せ。お前が、妊娠などするものか。とんでもない話だ。だが妊娠でないとすると、下腹の膨れものとあっては重大事だぞ。世にいう血塊というやつかも知れない。早く、婦人科の医者のところへ飛んで行って[#「飛んで行って」は底本では「飛んで行った」]診て貰え。こんな風に私は笑いながら家内をおどかした。家内は、血相変えて医者のところへ走って行った。診て貰うと家内が予感していた通り、立派な妊娠であるときかされたのである。私も家内も狐に摘まれたような気持ちがした。
 一度口あけがあると、それから続々産まれた。長男についで女の子、三人目がまた男の子。一生の間、夫婦二人きりで暮らさねばなるまいと思っていたわが家庭へは、十年ばかりの間に幼い五人の天使が舞い降りて、夜が明ければ喧騒と泣き声で、まるで幼稚園のお庭のような賑やかさとなった。
 ところで、私は家内の育児の手際、殊にその気持ちのありどころに対しては、ひそかに深い注意を払ってきた。そして、自分の子が産まれてからというものは、さらに深刻な疑い深いと思えるほどの眼光を、家内の挙措きょそに注いだのである。
 私には、自分の子よりも、上の二人の子供に不憫が掛かっていた。もちろん、自分の子は可愛い。しかしながら、上の二人の子供は家内にとって血を引いていない。他人である。それが私には不憫の種であった。
 ところが、家内は長い年月私の疑い深い注意など、全く知らぬ風であった。平然として、五人の子供を平等に育てている。それは、心になんのわだかまりもなかったためであったのかも知れない。上の二人の子供に対しても、自分の産んだ子らに対しても、日ごろ少しの分け隔てがないのだ。
 まるで平凡に、誰の眼から見ても、そこになんの区別もつかぬように叱り、賞め、呶鳴り、おだて、ただ淡々として子供同志の間に、どんな騒動が持ち上がってもそれを風のように裁き、何事も尋常茶飯の間に扱っている。
 私は、家内の心が神の姿に見えた。

     三

 京都の姉夫婦は、次第に老いてきた。姉はみゑ子を産んだのが、それが妊娠の最後であったらしい。だから姉は、みゑ子に対する愛着が月に歳に募っているという話を、風のたよりにきいていた。佐藤の家には、千鶴子のほかに自ら産んだ子供が三人もあるのであるから、みゑ子を返したところでさびしいことはあるまいと、愚痴をちょいちょいこぼすのであると言う。この、愚痴を既にそのころ故郷から三里ばかり離れたところへ嫁いでいる妹、つまりみゑ子縁組の仲介人のところまで、遙々とこぼしてきたそうである。だが、妹が取り合わなかったので、次に老父のところへ訴えてきた。姉は悲痛愛着の情を父に敍するのである。
 父は、わが娘を憐れに思った。そうだろう、親となれば誰も同じことだ――こんなことを言って姉を慰めたらしい。その後間もなく私のところへみゑ子を京都へ返してやれ、と言ってきた。私も姉の気持ちには同情した。そこで甚だ不鮮明な態度で家内に相談したところ、家内はさっと顔色を変えて、とんでもありません、と私に武者振りつくように言うのであった。
 親戚の人々の噂に、京都でみゑ子を欲しがっているという話を耳にしていましたが、とうとう故郷の方から命令がきましたか。ですが、わたしはみゑ子がなくてはこの世に生きている気がしません。わたしは死んでもみゑ子とは離れません。日本にいると、これから先もそんな要求が絶えずくるかも知れませんから、世間から遠く離れた南米へでも移住しようじゃありませんか。その方が、うるさくなくていいでしょう。ねえ、お父さん。
 こんな心持ちを、家内は哀心から私に訴えるのであった。子供を幼いときから育てれば、こうも愛が凝集するものかと、私は感動した。
 日本を離れるのもよかろうが、それはとにかくとして最後にのっぴきならぬときがきたら、みゑ子の身代わりとして久子を京都へやることにしようか。と言って、私は三番目の女児の名をあげ、家内の心を試した。すると家内は言下に、それで済むことでしたら、是非ぜひそれで京都を納得させるようにしてください、と哀願するのだ。
 だが、実際問題として、わが子をたとえ自分の姉のところであるにしても、手離せるわけのものではない。また先方にしたところが、みゑ子が欲しいのであって、どの子でもよろしいから、子供が欲しいというわけではない。私は、父の命令を拒絶した。しかし、姉夫婦はあきらめきれず、親戚のあちこちに斡旋方を[#「斡旋方を」は底本では「幹施方を」]頼んできた。これに対してどの親戚も、私ら夫妻の固い信念を知っているので、その橋渡しに手を出したものがない。

     四

 私は、青年のころから浪費癖を持っていた。それで、故郷や東京を離れ諸国を巡歴し、家庭と共に流れ流れて歩く間に、持てるものを悉く費やし果たした。
 そして、鬢髪びんはつに白いものを数える初老の頃になり尾羽打ち枯らして、二十数年振りで故郷の家へ戻ってきた。老父は、冷たい眼で私を見た。嫁いだ妹は、兄を見損なったとかげでいったそうだ。京都の姉に、申訳がないと言って老父にざんげしたという。
 でも、私と家内は貧しいなかをなんとか繰りまわし、みゑ子と千鶴子を県立の女学校へ入学させた。故郷へ帰ってきてからの、私の働きはほんとうに乏しいものであった。私は過去を顧み、将来を思い人生の涯を味わっていた。その貧しい間にありながら、妻は何の不平もなく五人の子供を育て、私をいたわり励ましてきた。よく、貧乏に堪えた。そして、愛を護ってきた。
 ところが、突然私らの魂に熱湯を注ぎかけたような事件が勃発ぼっぱつした。それはみゑ子が、女学校二年、十五歳の暮れのできごとであった。第二学期の試験が済んで、暮れの二十五日の朝、みゑ子は学校の終業式へ出て行った。ところで、みゑ子はいつも学校がすむと道草食うことなどなく直ぐ家へ帰ってくるのであるけれど、その日に限ってみゑ子は、冬の陽が暮れかかる頃まで、家へ姿を見せなかった。家内は、明日から冬休みに入るのであるから友達の家へ遊びに寄ったか、それとも自分の里方である学校から一里ばかり離れた村の方へ行ったか、あるいは妹の嫁ぎ先の家へまわったかも知れない。だから大して心配するにも及ぶまいが、それにしても平素無断で他へ立ち寄ったことのないみゑ子が、きょうに限って無断で帰りが遅くなるというのは、ちと変であると思った。
 夕飯が済んで、夜の九時になっても帰ってこない。家内の胸は、次第に騒がしくなった。ある幻影が、魔のように一瞬、頭の一隅をかすめて過ぎた。日ごろ――あるいは――と悩みの種となっていたことが、現実の姿となって行なわれているのではないか、と思いめぐらすと、いてもたってもいられない気持ちになった――いや、そんな馬鹿なことはない――と、自分の妄想を打ち消してみるが、打ち消しても打ち消しても、妄想は後から後から霧のように湧き上がってきた。
 しかしただ、心強いことはみゑ子に対する信頼である。家内がみゑ子を信ずることは絶対であった。あの子は決して心を変える子ではない。どんな誘惑があっても、何処どこへも行く子ではない。こう考えると、自分の心配が愚かのように思えるけれど、次第に夜は更けて行くが、みゑ子はさっぱり帰ってこない。
 家内は、十時ごろになってから隠居所にいる老父を起こして、みゑ子の帰ってこないことを話した。そして、もしかすると京都から盗みにきたのではないでしょうか、とつけ加えた。ところが老父は家内に、わしは何も知らない。京都から盗みにきたかどうかなどということは、もちろん知らない。だが、どの親も子を思う心は同じだろう。わしにしたところが、京都にいる娘も可愛いし、お前の良人である伜も可愛い。親の心は誰も同じだ。ところで、みゑ子のことは大して心配しないでもいい、とわしは思う。夜が明けたら落ちついて捜すがいい。わしは眠い。寝る。
 こんな謎のような言葉で、老父は家内をあしらったのである。家内はとりつく島がなかった。そこで家内は、夜道を一人の婢を連れただけで、里方の方へ尋ねて行った。しかし、そこにはみゑ子の姿は見えなかった。がっかりした。里方から、妹の嫁ぎ先へ電話をかけて様子を尋ねた。すると妹が電話口へ出て、それはご心配ですね。ですが、私のところへはきていません。それにしても、この夜半では何とも致し方がないでしょう。夜があけてから、ゆっくり心当たりを訪ねることにしたら、いかがでしょう。という挨拶であった。家内は眼を赤くして家へ帰り、一夜一睡もしないで、陽が昇るまで待ったが、みゑ子はとうとう帰って来なかった。

     五

 そのころ私は、ある会社の創立のために町の方の旅館に滞在していた。早朝、顔色蒼白となった家内は、私の部屋へ転げ込んだ。しばし、口がふるえて言葉が出ぬありさまであった。家内は気が落ちついてから、充血した眼を輝かして、昨夜からの顛末てんまつを語ったのである。
 私は、暗然とした。
 その日の午後、警察署へ捜索願を出すと同時に、京都に電報で照会してみた。すると、たしかに当方にきているから、気遺いはいらぬ、という返電があった。それからもう、みゑ子はわが家へ帰らぬ子となった。
 家内は失神したようになって、それから一ヵ月ばかり床の中の人となった。訳ある子二人を育て、わが子を三人産み、貧苦と闘い、浪費癖の良人を護りながら、義理と人情の路に立って、ついに自他一如の心境に達していた家内は、報われなかった。
 日ごろ、家内の心を知っていながら、何の感謝の意を言葉の上に出さないできた私は、この事件に際しても、慰めの言葉が口から出なかった。
 姉の、わがままが、こういうことを引き起こしたのであろうが、結局は私の不徳、つまり私の貧乏がこんな羽目に導いたのではないかと思う。私は、家内の心を哀れに見た。
 京都の姉は昨秋、義兄は今春他界した。事件以来私は義絶していたのだ。今年の初夏のころ、みゑ子は突然、東京の私の家を訪ねてきて、玄関で泣き崩れた。お母さん、堪忍してくださいとひとこと言ったまま、長い間畳の上に歔欷きょきしていた。
 私は、みゑ子から、みゑ子が学校から帰り途に連れだされた日の模様を、訪ね聞く気持ちになれないでいる。なんとなく腫れものに触るような恐ろしさを感じて――。
 みゑ子は三年前、京都から東京へ嫁いできていた。
(一五・八・三〇)





底本:「完本 たぬき汁」つり人ノベルズ、つり人社
   1993(平成5)年2月10日第1刷発行
底本の親本:「随筆たぬき汁」白鴎社
   1953(昭和28)年10月発行
※<>で示された編集部注は除きました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年4月2日作成
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●表記について