鯨を釣る

佐藤垢石





 僕は、大概の大物釣には経験を持っている。大鯛、ブリ、石鯛、マグロ、鮫などの猛勇も、僕の手に掛っては何れも降参しているのだが、まだ鯨だけは退治したことがない。
 釣に趣味を持つからには、いま地球上に生存する最も大きな動物を、釣って見たいと思うのだ。一番大きな動物は鯨だけれど、僕の腕が冴えていたところで、この鯨だけは釣るわけには参るまい、と、多年鯨捕りの熱望を持ちながら諦めて来たのである。
 ところが最近、極洋捕鯨会社の秘書課長村田光敬氏から
「君、鯨捕りを見物に行かないか」
 と、誘われた。
「頼む」
 時節到来、僕は二つ返事で答えた。
 上野駅をたったのが三日。四日の正午頃日本の東の果が太平洋へ突き出している宮城県の牡鹿半島の突端にある鮎川港へ着いた。鮎川の町へ入ると異様の臭気が鼻を衝く。家も、道も、川、庭も、すれちがう人間まで馬鹿に臭い。
「何だか、ひどく臭いですな」
「これが鮎川港の特徴なんで――鮎川は鯨で生活している町なんだから、あらゆるものに鯨の匂いがしみ込んでいる」
 と、村田氏は平気でいる。
「鼻が曲りそうだ――」
 僕は、とうとう悲鳴をあげた。
「馴れれば大したことはない」
 村田氏は、僕の悲鳴などてんで問題にしないのだ。僕は、ある一軒の広い庭を覗いた。ところが、その庭一杯に鯨の肉、臓腑、骨などの細かく刻んだのを乾してある。それに天陽が当って腐って、陽炎が上って窒息しそうな異臭を放ったのだ。鮎川の町といえば海の清風そよそよと涼味たっぷりのところと想像して来たのだが――。
「鮎川の町民にとっては、この匂いは香水以上なんですよ」
「なるほど――鯨からとれる龍涎香は香水のもとだといいますからね」
 それから、鮎川港に臨んだ極洋捕鯨会社の作業所へ案内してくれた。作業場へ小舟で近づくと、海の水は血色で真っ赤になっている。
 作業場の桟橋に一頭の鯨が横づけになっている。作業場の浜窪主任が案内役に立って
「これは、今朝とった四頭のうちの一頭ですが、長さが四十七尺ある鰮鯨いわしです」
 と、説明する。なる程大きなものだ。桟橋を上って作業場の広い板の間へ行くと、これも五十尺に近い鰮鯨が、作業員が持っているなぎなたのような庖丁で、肉、骨、腸と解剖されている。まるで、山を切り崩しているような作業だ。
 さらに奥の方へ進んで行くと、真っ黒い大きな貨車みたいなものが二つ並んでいる。
「これはなんですか」
「これも、今朝とれた二頭の抹香鯨の頭だけです」
「うわ……」
 鯨は大きいものだと聞いてはきたが、頭だけでも我々が住んでいる家ほどもある。
「この一つの頭のなかには、油が石油罐に二百四、五十杯も入っているでしょう。一頭の抹香鯨の油、皮、肉、臓腑などを計算すると、ざっと一万円位にはなりましょうかね」
「驚いた」
「こんなのは大したことはありませんよ。白長鬚鯨の大きいのになると、一頭で二万五千円にもなります」
 というのだ。昔から鯨一頭とれれば七浦賑わう、というが、それは嘘の話ではなかったと僕はつくづく感心した。


 いよいよ金華山沖の太平洋へ鯨とりに行くのだ。僕と村田氏は四日の夜半の十二時に捕鯨船第二京丸に乗込んだ。
 第二京丸は三百四十トン、昨年の十月から今年の四月まで捕鯨母船極洋丸と共に南極の洋へ遠征し、キャッチャーボートとして百七十頭の巨鯨をとった手柄の船だ。四月に日本に帰って来て以来、ずっと鮎川港に根拠を置き、金華山の沖合遙かに出漁して、毎日大物を追い廻しているのである。
 南極の洋は別として、一体日本の近海で幾頭の鯨がとれるかというと近年では二千頭を超えている。その十分の三の七百余頭が、この金華山沖の荒潮の中でとれるのだ。北は千島から南は台湾、西は朝鮮に至る幾つもの漁場のうち、金華山沖が一番数多くとれるのだ。
 僕が捕鯨見物に金華山沖を狙ったのには合点がいくだろう。
 鮎川港の空は、黒く曇って月が暗い。船は左舷に赤、右舷に青の燈火を輝かして港を出た。だが、海は濃い霧のために閉ざされて一寸先も見えないのだ。晴れていれば右に網地島、左に鹿がいる金華山島が見えるのだそうだが、ただ行く手は暗黒一色に塗りつぶされている。その中を第二京丸は、静かに用心深く進んで行く。
 一寝入して船室から甲板へ出て見ると、船はもう七十マイルも太平洋の沖を走っている。時計を見ると朝の七時、陽が高い筈だが、この辺も濃霧で五、六町先が見えない程だ。
「これでは鯨群の発見は困難だ」と丹下船長は首を傾ける。晴れていればクロス・ネスト(檣の展望籠)から十二、三浬前方に泳いでいる鯨さえ見えるのだけれど、これでは四、五町先も覚束ないという。それでも船は鯨を探して沖へ向い、稲妻形に漕ぎまわるのだ。
 船橋から、ふと左舷の方を見ると船に間近いところを、船と同じ方向に向ってイルカの大群が、素敵な速力で宙を切って泳いでいる。一千、二千という驚くべき多数だ。何れも一丈から一丈五尺もある代物だろう。なるほど、太平洋は賑やかである。
 霧がはれるまで、船の波の上に漂流させることになった。船長と村田氏と僕と三人で、砲台の板の間に胡座をかいた。梅雨時の海上は静かである。一服つけながら、丹下船長は愉快に語り出す。その話によると、丹下船長は四月まで南極の洋上では船長専任であったが、今年の十月から砲手兼任となるので、いまこの金華山沖で鯨とりの射撃練習中だそうだ。だが、波に動く船首から、一時間十五浬ほどの速力で泳いで逃げる鯨をうつのは、なかなかむずかしい芸当という。
 それから次第に鯨の身の上話になって、一番大きく育つ鯨は白長鬚の百十尺、次が長鬚鯨の八十尺、抹香鯨六十五尺、鰮鯨、座頭鯨、背美鯨は五十尺余、最も小さい槌鯨とゴンドウ鯨でも三十尺以上になるというのだ。百十尺を間数に直すと十八間余になる。大きなものだ。そこで鯨の目方は一尺一トンというのだそうだから百十尺の鯨は百十トンの重みがある。船でも百トンあれば相当のものだ。人間が一日に一貫ずつ鯨ばかり食っているとしても、到底人間一生の間には一頭の白長鬚鯨を食い尽くせるものではない計算になる。だから小さい捕鯨船であれば頭の一と突きか尻尾一と跳ねでひっくり返ってしまう。先年金華山沖で鯨船が抹香鯨の頭の一と突きに出遭って、船底を破られ犠牲者を大分出した、と丹下船長は僕等をこわがらせる。
 なかなか濃霧は去らない。鯨の群はさっぱり姿を見せないのだ。
 午飯の用意が出来たといって、船の少年給仕が僕等を迎えに来た。


 船の食堂の卓子の上を見ると、御馳走の山だ。
 先ず僕がはしをつけたのは、鯨肉の刺身だ。素敵においしい。
 僕は鯨の刺身を食うのは生れてはじめてだが、その味品の上等なのに一驚を喫した。牛肉のように舌を圧する重みがなく、マグロ肉のように口中にからまる脂肪のあくどさもない。まことに淡白だ。そして、ほんのりと軽い脂肪がある。次に鯨肉のカツレツが卓上に現れた。これも、素晴らしい。やわらかだ。罐詰の鯨肉のような臭みが、ちょっともない。
 僕は、口をもがもがさせながら絶賞の声をあげた。すると丹下船長は――これは、鰮鯨の腰肉といって尻尾に近いところに僅かにある肉だが、この肉は刺身にしてもカツにこしらえてもテキに焼いても、挽肉にしても、味噌漬、醤油漬、酢味噌、スキ焼など何に料理してもおいしい。私等は、船中で鯨だけ食っていれば他に何も欲しいとは思わない――とひどく得意だ。
 村田氏も余程の鯨党と見えて、傍からいう――僕は、いつも鮎川港の作業場から鯨肉を東京へ取り寄せて食っているのだが、このほど品切となったので東京市内の鯨肉屋から取り寄せたところ、百匁四円五十銭とられたには面食った――と笑う。
 食事が終った頃船は金華山沖を百浬も離れた波の上を走っていた。霧はますます深い。午後三時頃であったと思う。濃霧の中でけたたましい叫喚に似た汽笛の響きを聞いた。驚いて船橋へ飛上って見るとどこかの大きな商船が僕等の船とすれすれに同じ方向に進んでいる。危く衝突するばかりだった。桑原々々。
 夕方の六時頃無電で海洋気象通報が入った。太平洋は銚子沖から、千島方面まで明日も濃霧だといっている。船員も、僕も気が腐った。
 その夜は波の上へ流れるまま船を漂泊させることにした。
 霧の中にいつ暮れたとも分らない夜がくると、また食事の用意が出来たとボーイが知らせに来た。卓上を見ると、鯨肉の握鮨がある。一口、ぱくりとやった。おいしい鮨の中トロといいたいが、それよりずっと軽い味だ。鯨肉の鉄火巻も出てきた。鯛の塩焼に、鯛のうしお。捕鯨船は随分御馳走を食わせるところだ。僕のように、食い意地の張っている者には極楽だ。
 船に乗込んでから二日目の朝がきた。けれど、濃霧はさっぱり晴れない。丹下船長も途方に暮れているらしいのだ。ところが、午前九時頃になると霧の中に淡い陽が円く浮び出した。船内から歓声が揚った。次第々々に霧が薄くなった。
 水平線に展望がきくと、全船員は緊張した。水夫長が檣のクロス・ネストに昇って行って、遙かに遠くの沖を眺めている。ややしばらくすると、鯨群を発見したという合図だ。船員の活動は、俄かにはげしくなった。丹下船長はガンウェーを走って行った。砲の引金を握った。運転手は操縦器を握って沖合をにらんだ。
「フルスピード」
 船橋から汽罐室へ、送話管を通して号令が伝わる。船内は次第にざわついてくる。船は白い波を蹴立てて走った。
 船首から前方十五、六町の波の上に、ななめに低く霧のように潮の揚るのが、僕の眼にも止まった。鯨の群だ。誰かが
「鰮鯨だっ!」
 と叫んだ。初めて、敵にめぐり会ったようなものだ。僕は、逸早く船橋の屋根被いの上へはい上った。ここが、最も良く沖の展望が利く所なのだ。


 船は、次第に鯨に迫って行くらしい。突然――ほんの瞬間――船の右舷から三、四十間ばかり離れていると思う波の上へ黒い円い大きなものが浮び上った。僕の胸はどきっとした。
「二頭いる!」
 クロス・ネストの上から水夫長が叫んだ。
 本当に瞬間、僕の眼にうつったのであるけれど、鯨のお尻はむっちりとふとって大きなものだ。黒い背中に、小さい背びれがある。だが、頭は見えなかった。
 水中へ沈んだ。
 追跡、フルスピード!
 送話管から汽罐室へ激しい号令が伝わった。また、鯨群に追いついたらしい。ポード(左)スターンポード(右)などと、頻繁に舵手へ号令が取次がれる。
 鯨は、船に追われると海の中層を、稲妻形に全速力で走り逃げるのだ。船も、やはり稲妻形に舵を取って追尾して行く。舵手の手は目がまわるように、忙しく動く。
 ハーフスピードという号令に次いで、チョイスローという声が掛った。間近く、再び砲手の前の波の上へ姿を出す距離に近づいたのだ。続いて、ブリスローという号令が掛った。そのとき、クロス・ネストの水夫長は、何かはげしい声をあげたかと思うと、船首の船長は砲の口を左舷の海面へ向け、中腰になって両脚を張った。
 いまにも、大きな背中を波の間に出すであろう鯨を狙っているのだ。船に追われて、呼吸が迫って、空に潮を吹こうとするその一瞬前の息づまる光景だ。
 背中が波間へ出れば、銛が砲口から飛び出す一瞬前だ。
 全船員が、甲板に船橋にガンウェーに集まって手に汗を握る。僕は、船橋の屋根の上で、砲口が向いている波間に眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)って、固唾を呑んだ。息がつまる。その瞬間――。
 出たっ!
 五、六人が一斉に叫んだ。左舷から二、三十間ばかり離れたところへ、海の怪物が二頭揃って大きい背中を浮ばせた。僕は、
 あっ!
 と思った。そして、咄嗟の間にこれは撃つのに適当の距離だろう、と考えたのだ。けれど、砲と鯨の位置との角度が適当でなかったのだろう、船長はついに砲の引金を引かなかった。
 鯨は慌ただしく再び海中へ姿を没した。残念だ。それっきりもうどこへ走ったか姿を出さない。十分後、檣上の水夫長は半浬も前方へ逃げのびて海上へ浮び上った鯨群を発見した。逃げ足が早い。
 フルスピード!
 船は追跡々々だ。二頭の鯨も命からがら逃げる。右へ左へ二時間も追跡しているうちに、また濃霧が襲って来た。水夫長は空しく檣から降りて来た。船長も、砲の引金から手を放した。鯨の姿は、濃霧のなかへ永久に消え去ったのだ。
 無念!
 僕は思わず眩いたが、船長は
「落胆するには及びません、まだいくらでも鯨はいます」
 と慰める。
 また、午飯の時間が来た。卓上に、鯨のスキ焼鍋が乗っている。僕等は、額からも胸からもしたたり落ちる汗を拭いながら、熱い佳饌を飽喫耽味した。
 午後三時ごろ、再び霧が薄くなった。いままで、海上には僕等の船のほか何ものもなかったのだが、薄く消え行く霧の中に、ほのかに一艘の鰹船を発見した。
 船員が二、三人左舷へ駆け出して手を振ってその鰹船を呼びとめたのである。


 それは網地島の第五明神丸という鰹船であった。船上に五十人ばかりの漁師たちが立っている。僕等の方から何もいわないうち、鰹船の方から一人の乗組員が大きな声を張りあげて
「ここから、東南十五、六浬のところに無数の大鯨が泳いでいる」
 と、叫んだ。そこで、丹下船長は鰹船にビールと鰹の交換を申込んだ。直ぐ、快諾だ。ビールを三本繩に結んで鰹船の方へ浮してやると、先方からは大きな一貫目近くもあろうと思われる、釣ってほどもない活々とした鰹を七本送ってくれた。歓声が揚った。ビールで、鰹を釣ったのだ。
 夕方、遠くに泳いでいる鯨群を水夫長がクロス・ネストの上から発見したけれど、間もなく霧のなかへ姿を消したので追跡を思い止まった。霧の、夕闇がきた。
 夜の食卓に、あの鰹が皮つきのまま厚切りの刺身となって現れた。鮮味――嗜意が舌に躍動する。洋上の珍餐だ。
 三日目の朝がきた。八時に海洋気象通報が入ったのを見ると、釜石沖百五十浬ばかりのところに低気圧があるという。我が第二京丸の位置から四、五十浬と離れていない低気圧だ。引続き霧が濃い上に、波も高い、風も吹き出した。
「こん度の航海は、とうとう一頭もとれないのか――」
 丹下船長は、僕等にも自分にも寂しそうな顔をする。それから一時ばかりすると沖の鰹船から――金華山の東南百二十浬の付近は霧がはれている。そして、数多い鯨の群が見える――という無電が入った。
 船員は勇み立った。俄かに、その場所へ船を急行させることにした。三、四十浬走らねばなるまい。
 涼風のくる船橋の上で、話しずきの丹下船長はいろいろと語り出した――金華山沖へは毎年夏になるとイワシやイカやサバや、さまざまの小魚が集まってくるので鯨の群はそれを追って遠いところから集まってくる。遠いところでは北氷洋の鯨もくるらしい。また、カナダ方面の鯨もアリューシャン列島の方をまわってここへくる。南洋の鯨群も混っている。鯨は速力が早いから、北極やカナダ方面からここへくるといったところで、我々が東京から横浜へ散歩に行く位にしか当っていないだろう。
 鯨のうち寝ざめの悪いのは抹香鯨だ。抹香鯨の群を発見すると、そのうちの一番大きいのから撃ち殺すのだが、大きいのに銛を撃ち込むと、連れ添う雌鯨だか子供だか知れないけれど、体の小さい五、六頭の鯨がその銛を撃たれた大鯨のまわりへ集まってきて、頭を瀕死の大鯨の上へ乗せ徘徊して立ち去らないのは痛ましい。いかに商売とはいえ、こんな情景を見ると殺生をするものじゃない、と思うこともある――。
 ――だが、百尺にも近い白長鬚鯨の巨体に、一発ドンと銛を命中したときの気持は、快絶といおうか、壮絶というか、ほんとうに捕鯨業の冥利をしみじみ感ずる――その話のさい中
 見えたっ!
 送話管から、クロス・ネストの水夫長の声が響いたのだ。時計を見ると、十時五十五分。続いて、鯨群は非常に近いと報告がある。
 フルスピード!
 船は、高い波を白く切って真っ直ぐに走るのだ。十五分ばかり走ったとき、ハーフスピードからチョイスローに、チョイスローからハーフスローに号令が変った。と、見ると海上に無数の鴎が飛翔している。鰮の大群が、海の上層にいるしるしだ。鰮を追って、跳躍している鰹の群が見える。
 と――驚いた。その鰮と鰹の群の間に、五、六頭の大鯨が、むっくりと大きな背中を波の上へ現したではないか。


 汽罐室へ、ベリースローの号令が伝わった。船長は、まっしぐらにガンウェーを走って砲台へ行って、引金を握った。そして、檣上の水夫長の掛声に従って、砲口を右に左に操縦する。船は、鰮と鴎の群を中心にして、海上に見い波を残して円を描き始めた。今度、鯨が姿を出せばドンと一発という船長の姿勢だ。
 一頭の巨鯨が船首とイの字形になった角度の波間に突如として、むっちりとした大きな背中を浮せた。距離およそ三十間。僕の眼に、その巨鯨の背が映ったのと
 ドン!
 と、砲の響を聞いたのと同時だった。その瞬間――砲口を離れた大きな銛は、スルスルと響を立てて、直径一寸五分もある太い純絹のロープを引いたまま宙を弾丸のような速さで飛び、鯨の黒い肥った大きな背中をブス! と突き刺した。鋭い銛先が狙い正しく鯨の背肉を縫ったのだ。
 同時に、鯨の傷口から鼻の穴から鮮血がほとばしった。あたりの海面が真っ赤になった。この一瞬の刹陣――驚異、感激、戦慄、劇触、打撃、何にたとえたらよかろう。狙い撃ちの重砲で、敵のトーチカを命中爆破させたにも似ていようか。
 僕は、気を絶したように一心に海上を瞶め、両手で船橋の屋根の梁を握った。
 手負いの巨鯨は猛然として海中深く突入した。恐ろしい速さで恐ろしい力だ。と同時に、五百余尋の絹の太い綱が伸びきると、その綱は引き絞られて半分の直径ほどに細くなった。いまにも、切れそうだ。船は、全速力で鯨の走る方へ走り尾いて行く。
 船員は整然と部署につき、無言の活動である。いささか手負い鯨の力が弱ったらしい。キリキリとウインチの歯車が鳴ると、伸びきった綱が手繰り寄せられる。その痛さに、鯨はまた海の中層を走り出す。綱を取りつ、遣りつ、一時間ばかりの奮闘の後、とうとうその巨体を船首近くへ引き寄せた。けれど鯨は最後の逸走の姿勢をとって、波の間に巨体をもがくのだ。
 ドン!
 二発目の銛を発射した。見事に鯨の胴中に命中した。心臓を破ったらしい。白い、太い腹を横に見せた。止めを刺したのである。腹を横に見せた鯨の大きいこと――。
「四十七、八尺はあるだろう」
 丹下船長は、止めの一発がたしかに心臓を破ったのを見届けると、砲台からガンウェーを歩いて静かに船橋へ帰ってきて、僕等にこういった。
「雌鯨だ。これは鰮鯨で大した値打のあるものではないが、これでも一頭三千円はする。海には、これ以上の大物がいくらでも泳いでいるのだから大したものだ」
 それから、その鯨の腹へ空気をポンプで送り込み、印の旗を立て海上へ浮し離した。鯨は白い大きな腹を上にして、広い海にフワフワただよった。
 こうして置いて、今撃った砲の音に驚いて何処かへ姿を隠した他の鯨の群を探しに行くのである。けれど、一度砲に驚いた鰮鯨は素敵に狡猾になっている。三十分ばかり船を走らして、鯨群に追い着いたけれど、もう彼等はなかなか船を射程距離まで近づけない。二頭で体を並べて逃げ廻る鯨を二時間ばかり追い廻したが、ついに正確に砲を撃つ機会に恵まれなかった。
「一頭とれば十分じゃないか――」
 もっと頑張ろうという丹下船長に、村田氏はこういうのだ。第二京丸が、大きな鯨を舷側へ横づけにして、鮎川港へ引きあげたのは八日午前二時であった。





底本:「垢石釣游記」二見書房
   1977(昭和52)年7月20日初版発行
入力:門田裕志
校正:塚本由紀
2015年5月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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