夏釣日記

佐藤垢石




 二日の昼過ぎ、生駒※(「皐+栩のつくり」の「白」に代えて「自」、第3水準1-90-35)翔先生と将棋の木村名人と私と、大鯛釣を志して伊豆の網代温泉へ着いた。宿の窓から吹き入る南風が涼しい。海は、随分静かである。眼の下の海水浴場で、男の子の黒い体と、女の子の赤い海水着が小波に潜ったり浮んだりしていた。
 木村名人は宿へ着くのが一足遅れたので私と生駒先生は、午後の半日を湾内で小物釣を楽しもうということになって、舟を出した。狙った場所は、上多賀の岩の鼻である。最初小鰺を試みた。けれど、さっぱり餌につかない。そこで舟を、多賀の大謀網の近くへ進めてカマス釣に変った。もちろん、鈎は擬餌である。スイスイと釣糸を忙しくしごくと、掛る掛る。
 忽ちの間に四、五十尾釣れた。五、六寸のカマスが、魚槽のなかに、美しく可愛らしく泳いでいる。少し、釣れが遠ざかったようだから再び鰺釣に逆戻りした。一荷づつ掛ってくる。つまり、二本つけた鈎に一尾ずつ掛ってくるのだ。小さい鰺ではあるけれど、一度に二尾ずつ掛ってくるのは楽しい。
 若い船頭が
神立かんだちがきそうです」
 といった。私は夢中になっていた糸の手を休めて沖の方を見ると、真鶴岬の三ツ石のあたりに薄い雲が動いている。次第次第にその雲が濃くなって、丹那山の方へ押し上って行く。丹那山の頂で、濃い雲は真っ黒になって渦巻いた。遠くの沖に、ちらちらと白い波が立つ。
「いけません」
 と、また若い船頭がいった。そして、長い釣糸を忙しく巻きはじめた。私等も、急いで海底から糸を手繰った。
「なれえだっ!」
 これは、危険な北東の風が襲ってくるのをいうのだ。船頭のその言葉が終るか、終らぬうちに海は俄かに騒ぎ出した。雨は伴わないが、烈風が縦横に吹きはじめた。海水を、舟はどさりと一杯かぶった。私等はびしょぬれである。
 山と谷と、重畳する波の間を突っきって、舟は漸く宿の下まで逃げ帰った。海の夕立は、恐ろしくもあるが快い。
 そのうちに木村名人も宿へ着いた。三人で、夜の膳を囲んだ。さきほど釣ったカマスは塩焼に、小鰺はたたきなますに。その味いずれも薄にして淡、思わず小杯を過ごした。
 生駒先生は六十五の齢、木村名人は寸暇もなき多忙の身、にも拘らず清閑を得、海の気を呑んで身体を鍛えんとし、釣趣の忘我に心を養わんとするのである。近年、釣技がこの人達にも理解されてきたのを想って、私はほんとうに満足にたえなかった。
 翌朝眼を覚ますと、海は大荒れである。小笠原島の南方に、台風がきているのだと新聞に書いてあった。畳を倒すように、高い大きな波が砂浜に幾重にも倒れてくる。沖の初島は波頭の飛沫の靄に、薄くかすんでいる。鴎の群は、湾内深く避難して網代の本村の前に浮んでいた。熱海の前の白い波の上を、まっしぐらに南へ走るのは、鰹船が網代港を指して逃げているのであろうか。
 鯛釣は諦めだ。折角、楽しんでいたのに――三人が朝の茶を飲んでいるところへ、船頭がやってきた。
「残念です。これでは、一両日出漁できないかも知れません」
 と、いう。けれど、この二、三日この方初島のまわりで、中鯛と貝割が大分釣れはじめたそうだ。一日に一人で十七、八枚もあげた釣人があったという。もう一週間もたてば、餌の白蝦が網にかかるであろうから、そうなれば鯛釣は一層有望である。殊に、この時化しけの後は、鯛は盛んに餌を求めて活動するから、それを楽しみにしていて下さい、と船頭は話すのである。
 私等は、いつまでも雨雲が垂れている沖の白い波をながめていた。





底本:「垢石釣游記」二見書房
   1977(昭和52)年7月20日初版発行
※「づつ」と「ずつ」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:きゅうり
2023年5月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード