恋愛と道徳

エレン・ケイ

伊藤野枝訳




 恋愛のために個人の幸福と社会の安寧とが屡々しばしば衝突する事がある。此の時に現在の義務と云ふ観念が社会に対する個人の絶対無条件の犠牲を要求する。私共はこういふことを屡々耳にする――およそ国家として欠くべからざるものは健全なる父母であり、しかして彼等の確固たる永久の結合はその子孫の教育を安全ならしむるものである。さうして、此要求が個人の幸福に対して干渉する場合には、個人は何時でも犠牲の位置に立たなければならない。この個人が禍を蒙むると云ふことが直ちに結婚の覊絆きはんをゆるめなければならぬといふ理由にはならない。而して両親の大多数が子供と云ふものは家庭に於て最もよく養育せられるものであると云ふ意見を抱いてゐる間はその様な理由は確かに成り立ちはしないのである。であるから国家といふものは結婚制度の変化如何に由て何等の影響をも蒙むるものではない。又離婚を容易ならしむると云ふことが人間の密接なる関係によつて常に生ずる不和合の原因を除去する手段にもならない。仮令たとえ現在の結婚制度が最も進歩発達したる階級にある男女の要求に背くものであつても、かの、少数を利し多数に有害なる革新と、多数を利し少数に禍する現在の制度とを比較選択する場合にあたつては全体として社会を利する現状を認容しなければならない。現代に於て離婚を容易ならしむるはいたずらに離散を事とし、結婚制度を極めて放肆ほうしなるものと化し、その結果として、づ家庭は破壊せられ次で国民の滅亡を惹き起すに至るのみである。故に幸福を要求する恋愛は国家の安寧秩序を破壊する純然たる叛逆である。幸福は恋愛個人主義によつて遂行せられるといふ理論は歴史と人種誌と自然との等しく加担せぬところである。而して静かなる克己と勇気ある義務の完成とが常に教へられなければならない。子供の出生と共に、その両親の幸福は停止せられなければならない。し両親にして自己の幸福を犠牲にしない時は自然はその法則によつて彼等の罪を子供に報ひ、以て彼等の義務の怠慢を罰するであらう。
 くの如きものが所謂いわゆる世俗の義務論である。この義務論は独り恋愛ばかりでなくその他の人間の関係にも種々なる影響を及ぼしてゐる。而してこの議論中にひそむ大なる誤謬は社会の安寧秩序は必然に個人の犠牲によつて成就せられると云ふ観念である。而してこの理論を明かにする為めに挙げらるゝ証拠も亦等しく虚偽である。かの歴史と謂ひ人種誌といふものゝ示めすところは我々が人性と呼ぶものゝ所作にすぎない。而して人性なるものは元来時代と国民性と風土につれて絶えず変化する現象である。その現象によつて見るに『自然』なるものは一面に命ずる処を他面に禁じ、一方に否定せられる時はそれを他方に要求してゐる。仮令へば仏蘭西フランスに於て今日最も進んだ非離婚論の如きは『再婚は自然に反す』とか『婦人は家庭以外に於て決して真の母たる能はず』とか或は『家庭は吾人の理性によつて左右せらるゝものに非ずして社会学或は生物学によつて証明せられたる「自然の法則」に準拠するものなり』といふが如き論拠の上に立てられてゐる。かくの如き議論は特に仏蘭西に於てかの離婚しがたき結婚制度の陰影として『自然の法則』の生んだ姦淫を忘れがたいものにするのである。所謂結婚に対するあらゆる弁護はかの『哀れむべき人々の外交術と称するものは真理を偽はり存在せるものを否定することによつて成立す』と云つたラサルレの言葉を確むるものである。かくの如き議論を聞いて人は結婚の攻撃は夢の如く美はしき牧歌を破壊せんとするものであると想像するかも知れない。しかしながら現今の結婚制度は実に寒心すべきものがある。私等は先づ来るべき新制度に伴ふあらゆる危険を予想した上で現今の制度と比較研究の結果いずれが更に恐ろしいものであるかを認めなければならない。よし今の社会状態が多くの不徳と不幸との原因でなかつたとしても、問題は『近代の結婚制度は善良にして果してよく社会の需要に応ずるものなりや』と云ふのではなく『奈何いかにせば吾人は種族改善の為め現在のそれより更らに有効なる道徳律を発見し得るや』と云ふに存する。『恋愛と結婚』の根本思想は、個人が恋愛関係によつて最高の幸福を享楽しなければならないといふのではなく、個人の幸福が即がて種族の改善に資するが如く社会が矯正せられなければならないといふのであつた。
『恋愛と結婚』の中に私は一夫一婦――即ち一生を通じての恋愛関係を以て両性間に存する唯一の道徳的関係であると主張する人々はかくの如き道徳律の結果として生ずる多大なる生活力の浪費を無視するものであることを指摘して置いた。若しその生活力が利用せられるなら立派なる子孫を生じ人種の改善に貢献する処があつたかも計られないのである。然るに一方社会の悪分子は何等の道徳律にも束縛せられずして彼等の同族を蕃殖はんしょくせしめてゐるのである。かくの如く調子高き理想主義は中世紀の修道院に於けるがごとき同一の結果を生ずるであらう。而して現在の如き社会状態にあつてはかくの如き道徳律は仮令進化の趨勢が疑ひもなく最終の目標として真の恋愛的結合に向ふにもせよ、或はまた結婚如何に関せず両性の結合に於て霊肉の一致が真に貞潔の条件として確認せらるゝとも人種の改善を妨ぐることは免ぬかれないであらう。
 種族の為めと云ふ見解から見ると法律上及び宗教上の道徳の形式は今日に於ける最も進歩発達せる性的意識並びにその道徳に拮抗して充分にその論拠を維持して行くことは出来ないのである。道徳なるものは科学が不断の努力を以て既に発見し、又発見せんとしつゝある種族改善のために都合よき条件を支配せる律法中に新しき標準を求むると同時にそれ自からの中にも求めてゐるのである。此等の律法と此の意識は私の前の著述にも指摘した如く時として相争ふかも知れない。仮令ば性的理想主義者は恋愛を以て父母たることの唯一の条件なりと主張する。人種改良論者は多くの立派なる子供がその子供の父を少しも愛せざりし母より出生せりとの事実を主張する。性的理想主義者は恋愛の結合を主張し、改良論者は貞淑を以て不生産に対する多大なる責任を有すと云ひ、種族に対する浪費なりと叫ぶ。理想主義者は愛情の最も濃やかなる両親を以て最上なりと弁護する。改良論者は人道の為め最も必要なる事は男女が恋愛結婚の如何に拘らず、父母たることの資格に於て最も適当なるものゝ結合ならざるべからざるを主張する。彼等はその例として結婚の条件に何等の恋愛をも加味せず、しかも永く強力なる存在を維持し来つた国民を挙げてゐる。理想主義者はそれに答へて国民の維持といふこともさることながら霊性の高揚と云ふこともまた忘るゝ能はざる事柄であると云つてゐる。国民はその下劣なる性格によつて存在もすれば又その高貴なる性格によつて存在もするのである。種族は遺伝せられたる野蛮性と動物的特質を自然淘汰にて根絶することによつてのみ向上せらるのである。
 この見解よりして見る時は人生に於けるその他の問題も皆種族の向上を以つて目的とするものであると見做みなされなければならない。成金の子供達は通則として強く美はしく健全なるものであらうか? 若し然らずば富を狂熱的に追求することは種族の改善に間接のみならず直接の妨害として排斥せられなければならない。又此処に恋愛を感ぜざるも父母たるに適したる男女が独身生活を続けて苦しむよりも結婚して社会に健全なる子供を提供し以て以前より更に満足なる生活を送り得るとしたならば或は又恋愛を相互に感ずるも永久単一なる恋愛を持続すること能はざる男女があるとすれば、かの単一恋愛理想主義者は最早その恋愛の標準を彼等の上に強ふるの権能を有せざるものである。
 併しながらそれは自己の主義以外に彼等の理想を認めざる青年の間にあつて特に企てらるゝことが多い。かの若き『自由思想家』等でさへ自由な寛大な態度を以て性の問題には向はないのである。彼等は唯だ僅かに可能なる二途あるのみと思惟してゐる様に思はれる――即ち慾望の奴隷となるか或は義務の奴隷となるか二者の一を選ぶにある。而してその他の人々に至つては徒らに『鉄鎖を求め埒内に止まらんこと』のみをねごふてゐる。彼等は只管ひたすらに時間表、出帆日程、或はクツクの旅行案内を打眺めて旅行の安全ならんことのみを欲してゐる。かくの如くしてかの自己の責任の上に立ち自己の危険を賭して新しき道を開拓し新しき国を発見せんと只管に猛進するの勇気を何処に認むる事が出来やう。かの『真理の探求者』を以て自任する若き人々さへこの問題を取り扱ふ時にあつて起り来る矛盾に対し徒らに唸くのみである。然しかくの如き人々は人生なるものが恋愛中に最も矛盾せる形を表はしてゐるものである事を忘却してゐるのである。人生は由来活物である。故に容易に捕捉しがたいものである。人生は一定不変のものではなく、常に千変万化して生長してゆく、而して神秘の道程に沿ふて全ての生物を導き、吾人の哲学中にあつて夢にも見る能はざるものを示してくれるものである事を彼等は知らないのであらうか。人生は吾人の期待せざる種々の運命と驚異すべき経験を貯へ吾人の先見し能はざる幾多の蕾を蔵するものなる事を彼等は瞥見する事が出来ないのであらうか。人生の美しさはその容易に打算し能はざる処に存し、人生に於ける偉大なる事業とは人生によこたはる幾多の不安をものともせず次第に高峰を仰で攀登はんとうするにありといふ事を彼等は感じないのであらうか。
 若し吾人にしてこの事実を認め得たならば仮令それが如何程崇高なるものにせよ一定不変の理想と云ふが如きものを要求することはないであらう。自己のみの理想といえども明日はそれが一般のものと変じ、更らに又新らしき理想が生れて、それを破壊するものであるといふことを知つてゐる人にとつてこの無限なる人生が単一無二の標準によつて推移して行かなければならぬと云ふ思想程恐ろしいものはないであらう。
 かくして理想主義なるものは各人が皆な自己の理想を最高なるものの如く思惟し仮令それが他の人々に如何程馬鹿々々しく或は不必要に又恥かしきものと見ゆるとも当人はそれが為めに生死を共にして悔ひないものであるといふことを認める事が出来る。
 理想主義者とはあたかも重き鉄槌を振りまはし義務と云ふ概念の砂礫を道路に打ち込み以て他人の旅行を容易ならしめんと企てるが如き人である。然しながら、地上の道路は無限に延長せられ、両極より赤道に至る迄無数の風習と気質とを異にする人生が横はつてゐるのである。かくの如き多変の人生に対し唯一無二の道徳的標準として生涯不変の恋愛説を主張せんとするが如きは思ふだに愚なることである。
 かくの如く主張する人々は自己の思想を同種類の隣人によつて定められたる狭隘なる圏外に彷徨さまよひ出づることを許さなかつた。彼は又理想なるものは大多数の人々には不可解なるものであつて若し一度それを絶対なるものとして一般人類の上に強ふる時は全く排斥せられるものであるといふことを忘れてゐる。
 自己の精神より溢れ出づる信念を宣言すると云ふ事は他人に対して同一の精神状態を要求するといふ事ではない。併しながら人が自己の教訓或は生涯によつて彼の所信を発表する時は自然自己と同一なる精神状態の拡張を促がす様になる。他の人々は彼の影響を受けて自己の精神上の修養及び自己の生涯の法則を彼に則とらんとする様になる。併し彼は主観的に自己を宣言する時に彼の仕事はそれを以て終りを告げてゐるのである。
 全ての社会問題、習俗、慣習、快楽等がことごとく人種上に及ぼす効果如何によつて規矩せられるといふならば早晩ある絶対の標準を定めて吾人は悉くそれに準拠しなければならないやうになるであらう。併しながら先づそれは初めによく研究せられなければならない。欧洲に於ては一夫一婦制は絶対の道徳律として定められてゐる。そうして国民の健康と維持に対する条件となつてゐる。併しながら近代の日本人及びいにしへの希伯来ギリシア人の如き不屈なる国民中にあつて吾人は蓄妾が律法と習慣とによりて定められたる制度なることを発見する。
 結婚が深き個人的恋愛より成立せらるゝ国民は他の国民に対して不利な地位に立たなければならない。而して遂には滅亡に立至らなければならぬやうになる。何故なら深い個人的恋愛と云ふものは未だ例外であつて人はその為めに高い価を払はなければならない。その上他の人々に対して自己の行為を充分なる道徳的要求として課するの勇気を有してゐないからである。
 かくの如き種々なる理由から私は『恋愛と結婚』の中に近代に於ける性の問題は一方に於て種族の改善に対する要求を認め、他方に於ては恋愛によつて幸福を発見せんとする個人の要求の増加を対峙せしめて適当なる平衡を発見する処に成立するのであると説いて置いた。
 然るに以前この問題は一定の結婚の形式に対する社会の要求と、如何なる形式に於ても自己の性的生活の満足を得んとする個人の要求の間に存してゐた。この新しき平衡より出発する性の道徳こそ唯一にして真実なる道徳となるであらう。而して種族と個人はそれによつて大なる影響を受け人生は次第に向上せらるるであらう。
 私が又、『恋愛と結婚』中に指摘して置いた如く性の問題は即ち生の問題である。さうして社会安寧幸福の問題である。この問題に比する時、自余の諸問題は殆んど無意義なるが如き感がある。凡そ教育と謂ひ智力並びに宗教上のあらゆる修養努力といふもそれを決定する主たる問題として人類の向上を念頭に置く迄は浅薄たるを免かれない。吾人はこれまで各時代に於ける個人の自己改善を通じてなされたるのみならず、その開発せらるるに従つて種族の繁殖を定むるもろ/\の条件を認識する淘汰的本能を通じて行はれたる、人類の向上に努力しなければならない。
 とはいへ私は人種改良の偏見に対して『恋愛と結婚』の中に人類は恋愛中に種族の向上発展に最も効果ある淘汰の方法を発見したと云ふ仮説をべて置いた。併しながら熱心なる真理の追求者は証明せられざる仮説を争ふべからざる原理なりとしてかかぐるが如き事は到底思ひも及ばざる事である。私の主として求めたものは恋愛の自由と云ふ事であつた。それによつて私共はその効果を観察するの機会を多く与へられんが為めである。私はまた、遺伝の影響といふものを研究する上から恋愛の効果といふことに多大の注意が払はれなければならないと云ふ事を力説した。祖先の特性を遺伝する様々なる結合に絶えず洞察の眼を放ち、以て人生の種々なる方面が次第に高き水準レベルに昇り行く淘汰の諸法則をよりよく発見し、淘汰をして最善の性質を保存せしめ最悪なるものを根絶せしむる為めにこれ等の諸法則と道徳的に結合せしむるはこれこそ誠に進化の一般の目的であると云はれなければならない。
 進化の一要素として唯一恋愛の必要を深く認むる人々でさへもそれ以外になほ多くの諸要素の存在を認容しなければならない。いかに熱狂なる理想主義と雖もそれ等を進化の過程中より除去することは出来ないのである。
 二個の細胞と二個の細胞精神より吾人の複雑なる存在を創造し、現在に於て種族を決定する諸種の結婚の形式と恋愛の理想とを生み出せる生命の力は数億万年以前に始められたる進化の連鎖中に於ける一鏈環れんかんに過ぎぬのである。而して吾人はこの恋愛の進化が何等前提せられたる理想の模型もなくして遂行せられたるを知るが故に、愛の神エロスは現在の上に吾人が今や曙光の自覚を有し始めつつある理想的様式を道徳的標準として課することなく依然として渾沌たる性的関係中より世界の改造を持続するであらうといふことを疑ふに都合よき何等の理由もないのである。一方に於て又この問題が全く『自然的本能』或は官能の満足にまかし去らるべきものと考ふる人々、或はその善悪正邪はひとえに神聖なる本能によつて定めらるべきであると信じてゐる人々は諸々の理想を創造する人間の力が永く進化の一要素であり、現在に於ける唯一の問題は『如何にせばこの力が進化中にあつて有益なる一動力となされ得るか』といふことであるのを忘却してゐる。
 人種の改善に力を傾注すると云ふことは『恋愛と結婚』の中に私が説明して置いた通り現在の渾沌たる恋愛の状態より単一個人的恋愛に至る橋梁を架設するが如きものである。これは又恋愛がその不合理なる性質を免かるる唯一の道である。ゲーテは且て『恋愛に於てすべては冒険である、何故なれば凡てが機会にのみ待たれなければならないからである』と云つた。併しながら全てこれは未だ発見せられざる法則に対する他の名称に過ぎない。何時か我々は霊肉の愛情的不調和並びに或る人々の間に存する心理的不調和が消滅するの日に到達するであらう。何故なれば最高の幸福を経験せんとする事は万人の欲求であるからである。而して最高の幸福は心理的必然から多くの小なる感情を除去する寛大なる感情によつてのみ達せられるのである。然しながら前途は未だ極めて遼遠である。而してその間にあつてある人々はある個人に対して彼等の理想の完全なる体現を求めて得ざりしがために幾度も恋するのである。かくの如き人々は或る一人にその理想の一方面を発見し、又或る他の人にその理想の他面を発見する人々である。又ある人々は新なる精神の伴侶を発見する時は恰かも且て起らざりしが如く彼等の以前経来つた経験を悉く忘れ去るのである。或はまた一度深き恋愛に誤まられたる後最早進んで新なる経験を味はんとする能力を失ふが如き人々もある。
『恋愛と結婚』は新なる献身の念をつて人生の賜物を保護せんと決心せる若き人々に与へられたのであつた。故にそれ等の人々は道徳的法則が石碑の上に書かれたるに非ずして血肉の上に書かれたるものであるといふことを知つてゐる。而して彼等は恋愛中に発見する高尚なる幸福は人生に対する高貴なる職務にして神に仕ふるより敬虔の念に於て遙かに優れたるものであると感じてゐる。併しながら何処に恋愛の自由が終り新代の権能が始まるかは又彼等の決定しなければならない問題である。
 生理的にも心理的にも最上の子孫を作る種々なる条件に対して吾人の智識は未だ極めて乏しいのである。故に恋愛理想主義者の信仰はかの進化の事実を無視せずと称する人々に比して更らに大なる社会的譲歩を得ることは出来ないのである。
 当然要求せらるべきすべての社会的譲歩のうち、最も根本的なるものは父母たるの道が結婚の儀式によるにあらずして、彼等の子供に対する責任を明かに進んで認むる二個の男女の意志によつて定められなければならないと云ふことである。又、第二に主張せらるべき社会的譲歩は離婚が配偶者の一方の意志によつて決定せられなければならないといふこと、而して男女が結婚上の権利に於て同等でなければならないと云ふことである。
 それ故、社会は従来の如く夫と妻とが如何なる逆境にもせよ単に共同生活を持続して行き、而して如何程不完全にもせよ彼等の子供を養育して行くならばそれを以て満足してゐたのである、かくの如き間は新しき義務の観念が生の向上を助けるであらう。何故なればこれ等の新しき原則は幸福と結合せられたる義務、権利と結合せられたる責任の組織的成長に対するあらゆる先要条件を有すると同時に日々に一般の勢力を有せんとしつつある全ての宗教、道徳、経済上の理想と権利義務、幸福、責任の組織的結合に対しても又先要条件を有してゐるのである。更らに又、これ等の諸原則はその適応が人間精神の協力並びに風習の一般化に必要なる程度に於て今日と雖も現状態に適応されることが出来る。かくして低級なる人々は高級の人々によつて教育せらるるであらう。
 一般社会に於ても又個人の場合に於ても、全ての新しき形式を通じて充分なる力の発揮を試み、豊富なる変化を与へ、同時に完全なる結合を呼び起す企ては常に進化の過程に一歩を進める事を意味するのである。若しも社会にして全ての子供を同様に保護し個人をして彼等の恋愛を保護することを許したなら現在二つの異なれる方向に放射しつつある精神的生活の勢力は更らに焦点に集められるであらう。子供の根本的生活に対する責任の感情は正出といふ俗論に依て弱められ、子供の養育に対する責任の感情は私生といふ俗見に依て又弱められる。
 恋愛を更らに向上せしむるの努力はがて恋愛が生命を得、幸福を与ふる衝動となるのである。この衝動の停止は直ちに恋愛の死となるのである――離婚の自由によつて現在の結婚制度が終りを告ぐると同時にこの努力は無限の力をもつて猛進するであらう。
 屡々駁論に於て例証せらるる如く自由結婚に於ても恋愛の死するといふ事は事実である。然しこれは自由離婚によつて実現せらるる美はしき恋愛の可能を否定する何物をも証拠立ててはゐない。而して自由結婚が屡々破壊せられるのは社会が自由結婚者を迫害するに多く起因してゐる。現在に於てすら法律は離婚に対して最も僅かの制裁をしか加へてはゐない、離婚を妨ぐるものはむしろデリケートな感情、優しき良心、同情などいふ心理状態である。故に自由離婚は不真面目なる人々をして徒らに多大の自由を享楽せしむるものであるといふ反対論があるが、これは一応もっともな次第である。結局離婚問題はそれが現在の不幸を予防するとかしないとかいふ問題ではないのである。その主たる問題はその心理的効果が漸次美はしく権威ある恋愛生活を創造するにあずかつて力あるといふ点である。
 この証拠は今迄継続せられてきた努力中に発見し得られるのである。両親がその子供の結婚――特に娘等の――を定めた時でも、或は「私は自分の恋人を得られるであらうかどうであらう?」といふのが第一の問題であつた場合に於ても大体の上から観察する時は当時の恋愛といふものは非常に精神的の性質を欠いてゐた。又全精神生活の上には殆んど何等の影響をも及ぼさず、内的調和といふ様なものの上にも別段の要求を持つてはゐなかつた。ようするに只だ外部の事にのみ力瘤が入れられたのであつた。併し現今では若き恋人等が通常自己の運命を定める時には、如何に豊富な色彩ある新しき精神的感覚、情緒、感動を示すかは彼等の霊性を洞察するの特権を有する人々には明かである。最も精神的な女子は自己の撰択に対して最も個人主義的な意志を現はしてゐる。若し彼女の情熱が呼び醒される前に男子の熱い息が額にかかる様なことがあればその男子の慾望の微かな予感すら彼女の感情を枯してしまふであらう。而して高尚な青年の間にもそれに対する同一の意志が徐々に発達し静かに自己の撰択すべき女子を待ち望んでゐる。そうして女子よりも迅速に進む慾求を止めてゐる。
 これ等の青年男女は既に長途の旅程を経過し、恋愛を通過して『自からを投げ出す』危険には陥ることがないのである。約言すれば、自由が開放した其勢力が自由の危険なる結果を防止してゐるのである
『恋愛と結婚』の中に性的関係が普遍にして決断的なる意義と神聖を以て飾られなければならないといふ確信を私はこんな風に云ひ表はした。――恋愛はかつて諸国民が敬虔の念を以て人生を眺めた時彼等の宗教であつた様に再び高き標準の上に立つ吾人の宗教でなければならないと――。
 人生の目的は人生それ自からである。恋愛は人生の宗教である。否独り恋愛のみならず人生のあらゆる精神的発想、創作、真理探求、美に対する歓喜、或は労働の如き一として宗教ならざるはないと云つたゲーテの言葉は万人に対して真である。これ等は人生の全体に関連してゐる程度に従つて各一つの宗教である。言葉を換へて云へばあらゆる宗教は全てを包含する調和の感情といふ宗教中に消え去るのである。その感情に対しては人生の向上は唯一の適宜なる神聖の奉仕であつて一般生活の黙示は日常の祈祷である。この礼拝は時代より時代に生命の焔を搬ぶ力に対して特に捧げられなければならないであらう。而してその礼拝が真摯にして敬虔の度を増すに従ひ各時代は前代より次第にその程度を高むるであらう。
 人類が種族を維持して行く他の方法を発見する迄は性的関係が地上に於ける生の根原であることは否むべからざる事である。故に進化論上より見たる人生観は性的関係を以てあらゆる人生の進歩に対する出発点と見做さなければならない。而して人生の発達進歩に対する種々なる要求と性の道徳的観念を調和せしめ、性の全王国に神聖の気を充溢させ以て再び崇拝の対象とせしめなければならない。これは恋愛が単に新しき存在を創造するからと云ふのではない。おおいなる愛によつて創造せらるるこの存在物は時代より時代を追ふて幾多の精神を拡大するであらう。而して情熱を放散する力ある感情を賦与せられたる豊富なる人類が漸次に創造せらるるであらう。恋愛は唯に人類が社会の新しき一員を得るの衝動となるばかりではない、それは人類が更らに密接なる関係を結び、子孫がその両親から大なる恋愛の力を遺伝する程度に従つて次第に高めらるる衝動となるのである。全ての人間関係によつてこの力は人類全体の上に反応するであらう。如何となれば人生に於ける万事は一つとして性愛と関係のないものはないからである。かくして生を否定する宗教にあつて性愛は最大の敵であり、生を肯定する宗教にあつては神聖なる衝動である。それは進化の階梯を進むるのみならず、尚ほ且つそれを確立せしむるものである。
 性愛は芸術、文学、法律、労働、宗教等と最も親密なる関係に立つてゐるものである。そうして性の撰択にその理想を与へてゐる。大なる宗教的情操は全てに最も近附き易いものであるといふことが一般に信じられてゐる。併しこの位真理でないものは恐らくないであらう。宗教的情操は他の場合にあつて偉なる恋愛によりて深く動かさるるが如き人々の精神にのみ大なる発達を見るのである。故に精神は大なる感情の結合より生ずる時更らに偉大になることは明かである。而して理想的恋愛は愛の力と権利とを拡大するであらう。
 現代に於けるが如く恋愛が未だ人生に於ける全ての勢力の中で最も侮蔑せられ、最も粗慢に取扱はれ、最も多く裏切られる時代にあつてはこの思想を充分に理解する人は恐らく少ないであらう。故に恋愛は何時か全く異なる形に於て現はれるであらうといふことは大なる理解を有する人でさへ殆んど思惟することが出来ないのである。人類が一歩一歩自己の道を進んで行くには先づ恋愛とその正道といふことを考へなければならない。何故なら人類はかくしてのみ更らに高き人道ヒューマニティーに到達することが出来るのであるといふ説を聞いて大抵の人々は疑惑の念を抱いて頭を振るのである。最高の教育を受けた人でさへダンテの所謂、intelleto d' amore(愛の智識)を欠いてゐる。或は少くとも恋愛修養が必要であるといふ理解を欠いてゐる。而してこれ等の言辞を以て徒らに全ての恋愛者の感情を膨脹せしめ遂に彼等を気球にて人生より高く飛翔せしむる誘惑の言葉であると見做してゐる。恋愛者は其処より自己に対する二重の尊敬に魅せられて人生を見下すのであると彼等は考へてゐる。言葉を換へて言へば人生に於ける恋愛の価値に対する凡ての弁護は、恋愛のために全ての他の人生の価値を軽視するものとして説明せられてゐるのである。
 かくの如く云ふ人々は宗教が愛といふ範囲に於てのみ人を浄化し、又力を与ふるものであり、人間の精神はそれが何物かを愛してゐる程宗教的に、又宗教の必要を感じてゐるものであるといふ事実を知らないのであらうか、何故なれば精神の力量は制限せられてゐる。その精力が一方に注がれる時には同時にそれを他に与ふることは出来ないのである。恋愛といふものは全ての感情の中で最も精神を発展せしむるものであり、又最も統合的でもある。特に全ての愛の中の最高なるものを吸収する恋愛は霊肉の合致となり、個人的生活と社会的生活の一致ともなり、偉大にして神秘なる世界的薔薇ワールドローズの花芯となるのである。かかる事実に対して彼等は全く盲目なのであらうか。
 この偉大なる事実を軽視するが故に、全ての社会問題及び政治問題を解決せんとする努力は悉く砂上の建築の如く、全ての修養努力は毒素を含む源泉より流れ来る河川の如く、其他人生の他の方面に於ける全ての力の発揮も萎縮せる根より成長せる植物の如き感がある。斯の如き状態は恋愛に対する新らしき宗教的尊敬が性的生活の健全にして美はしき条件として建築せらるる迄は持続するであらう。恋愛に対する斯の如き観念は社会の堅実なる基礎を造り、その源泉を純化し根元に滋養を供給するであらう。大都会の貧民窟を一度通過した者は今日吾人があまりに多く社会問題を喋々するといふが如き言葉を敢て公言する者は恐らくあるまい。併しながら、性的関係は実に今日に於ては全ての社会階級中の貧民窟に比せらるべきものである。而かもなほこの真理に対して発言する者があれば常に思索せる人々さへ『恋愛に対してあまりに多くの言葉が費やされる。それに対してあまりに重きが置かれるではないか』と叫び出すのである。
『現社会程結婚の悲劇と恋愛の浪費の多いことは恐らくあるまい。それがため社会は遂にその不幸を聞くべき耳を失なつてしまつた位である』とかの詩人は云つたがこれ程たしかな言葉はないのである。
 かの宗教家或は人道の志士が性的生活の罪悪並びに病症に起因する頽廃を指摘して道徳を説く時にそれを傾聴するものは社会の極めて少数なる人々である。吾人はそれを耳にする時頽廃の如何に恐るべきものなるかを知りそれに対して社会の意識がつとに覚醒せられたのではあるまいかと思はずにはゐられないのである。然るに実際の状態は未だ何人もそれを認めてはゐない。之は別段驚くにはあたらない。恋愛の人生に対する価値を否定し或は無視してゐると云ふことがその深い根柢となつてゐるからである。又数字によつて確かめられない人生の多くの不幸なる障害が同一原因に根ざしてゐるのであるといふことを説明されても、それを理解することの出来ぬ人のあるといふのも別段怪しむに足りないことである。
 世間一般の人々は隈なく探求して結婚の社会的価値を証拠立てんとする様々の議論を担ぎ出すものである。彼等は数字の上に数字を重ね自殺、罪悪、飲酒、疾病等による死亡数は既婚者より未婚者の場合に於て遙かに夥多かたであるといふことを例証せんとしてゐる。又小児の死亡数と罪悪も私生児の場合に於て遙かに多いと主張してゐる。又一方に於ては恋愛を以て離婚と自殺と罪悪の原因であると攻撃してゐる。併しながら彼等は一方に於て、社会の状態と両親の偏見とが恋愛結婚を妨圧せるがため、独身の生涯を送り、或は発狂し自殺し、罪悪を犯し、私生児の親となつた統計をば等閑視してゐる。かかる場合に於て恋人の一人は必ず富のためか或は『義務』の為め、又は『他人の幸福』のために犠牲となり、或は圧制せられ恋愛に対する叛逆者となつたに相違ないのである。
 併し実際現今ではかの昔両親がその娘に対し『お前は自分の幸福と云ふことを考へてはいけない。先づ他人の幸福といふことを考へなくてはならぬ』といふ思想を諄々と教へ込んだ時代よりもこう云ふ犠牲者に出遇ふことは少くなつたやうである。他人の幸福といふのは畢竟ひっきょう自分の両親が承認した男を幸福にして自分の愛した男を不幸にしてやれといふ意に他ならないのである。これではその両親も両親の撰択した男も自分の幸福のかはりに他人の幸福といふことを考へなければならないその義務を忘却してゐるのではないか。
 彼等はそう云ふことには一向無頓着でゐたのである。併し今でも多くの人々は青年男女の恋愛中に発見する幸福が、社会の幸福の根本的要素であるといふ真理に対して実に朦朧たる観念ほか有してはゐない様である。青年男女が第一に守るべき義務は彼等の恋愛に対する義務である。彼等にして若し第一に恋愛の義務を首尾よく守る事が出来たなら自余一切の義務も従がつて容易に守り得る事が出来るであらう。恋愛とは決して、義務と矛盾するものではない。否、結婚に際して守るべき最大なる第一義の義務である。
 特殊の場合に於ては義務の力と勝利とは恋愛の幸不幸を問はず確かに恋愛を滅亡せしめた、或は又、反対に恋愛が義務の滅亡を促がしたことも真である。併しながら今日大多数の人々が恋愛の途上に横はる幾多の障害を黙忍し或は秘かに恋愛に対して挑戦を試み日々夜々その精力を乱費しなければならないがため全ての国民の精力が如何程浪費せられてゐるかといふ事を静かに考ふる人がどれだけあるだらう。又かの未成の事業、当初より薄弱にせられたる凡ての精力が途中にてその発達を阻害せられ、或は早く疲弊し尽し再び復活することあるも、充分なる発展を見ること能はず、その目的は達せられずして終り、或は目的に向つて進むことあるも初より低き目的に向つて努力するが如き全てこれ等の原因は悉くかの不幸なる家族生活に起因するものであるといふことを深く考へたものがあるだらうか。又、一般の男女が性的生活以前の事に対して、より多く真摯なる注意を払ふことを教へられなかつたなら、そして結婚以前の事に対して何等の教育をも授けられず、又、彼等の恋愛以外の他の大なる生活上の要求に対する権利を社会から与へられなかつたならば全てかくの如き精力の社会的浪費は除かれたであらうと云ふことを静かに考へてみた人があるだらうか。
 恋愛の幸福を感ずることなくして無数の人間が高雅なる美しき生活を送つてゐるといふ事実は仮令彼等が更に進んでその幸福を味ふともそれ以上に美しく強く――故に社会に対しては更に必要なる――生活することは出来ないといふことを証拠立ててはゐない。一方に於てかくの如き幸福を欠如せるにも関はらず、尚ほ暖かき感情と智慧とを有する人々があると同時に他方に於ては未婚の結果或は既婚の結果として感情氷結し或は自暴自棄に陥つた人々がゐるのである。而して多くの人々の斯くの如き結果に到達するはかの恋愛の運命が時に与ふる斥けがたき悲劇のためではなく旧時代が新時代に対し人生に於ける恋愛の価値は極めて小なるものであるといふ見解を強ひた為めである。恋愛が『神聖なる生産』の必然的基礎として宗教的尊敬を以て取扱はるる様になれば、現在社会の救済事業の大部分は無用となるであらう。且て人間堕落の原因と云はれた恋愛が人間の幸福の一手段と変ずる時は厭世、失望、堕落の数は遙かに減ずるであらう。現在に於て劣情の牢獄の中に禁錮せられてゐる曾つて偉大であつた力が性的生活を通じて無用の苦しみから開放せらるる時は現在社会にて浪費されてゐる種々なる勢力が人生の他の方面に活躍するのみならず恋愛が覚醒し緊張する新しき諸勢力が更らにその上に加へられるであらう。
 併しながら私の恋愛といふのは人格的の偉大なる恋愛を指すのである。それは人生の無限の相を開放して人々に示すものであつてその変化を消滅せしむるかのふざけたる小さき恋の如きを云ふのではない。その恋愛は先づ第一に自己の存在と他の人々の存在が真におおきく計りがたいものであるといふ感じを呼び醒ますものである。それは家庭に於けるが如くその個人として又社会としての事業中に現はれたる他人の人格に対する恋愛を意味するものである。それは又人生の目的に関する永遠の疑問に現はるると同時に歓楽の際にも現はるる人格の尊敬をも意味するのである。かくの如きことを知らざる男女は到底人格的恋愛のなにものなるかを覗ふ事をすら許されざる人々である。かくの如き恋愛に浸れる人は自己の感情以外に何物をも省みるが如きことなかるべしと考ふるが如き人は真にかくの如き人を解せざる人である。人は徹頭徹尾それに由つて生活し又存在せるものに関して最も少なく語り又考へるものである。健康なる人は自からの健全なることに関して語らず、無邪気なる人は自己の無邪気に関して語らない。
 然しながらその健康と無邪気とが自から其人を通じて語り、或は考へる。
 人格的恋愛がその力を発揮することを許され、ラスキンが国民の真の富と呼んだ多くの健全にして充実せる幸福な人間が創造せられる時は、人生に横はる最大なる根本的矛盾の一つなる男女間の矛盾を調和せしむることが出来るであらう。其の時は又一般の期望は開展せられ様々の痛ましき矛盾は調和せられ人道ヒューマニティーは現社会が未だその一歩をふみ出せしに過ぎない高峰に達し初むるであらう。恋愛は早晩その失墜せる権威と名声とを回復しなければならない、何故なればそれは私が既に云つた様に人類出産の不断の連鎖に対する最大な武器である。それによつて時代は時代を追ふて肉と霊との様々なる力を継承し移殖する。その力は次第に高尚となり、美はしき平衡を現はし男性と女性とは愈々いよいよ堅く結び付けられるのである。
 併し恋愛は既に進化して男性及び女性の諸性質を調和するに必須なる要素となつた。かくして吾人は社会問題の解決に協力する多くの男女を見るのである。然かし彼等の協力は通例単に男性及び女性の能力の機械的結合に過ぎないのである。勿論その協力は次第に組織的に赴むき男性と女性とは益々人生のあらゆる目的の完備に向て結合せんとしてゐる。結婚は恋愛の継続ならざるべからずといふ近代婦人の意志は男女間の精神的交通及びその日常生活が単に家庭生活の範囲以上のものを抱括しなければならないといふことを意味してゐるのである。それは又、男女各自が彼等の日常生活外の舞台に於ける人格の発現を愛することを意味してゐるのである。かくして男子は従来男性的の思想及び行動の様式に従つて各自にのみ任かせられ長年月の間女子が人道に貢献した新生命及び女子の深く美はしき感受性によつて創造せられたる新しき智力を浪費し来つた仕事の範囲に於て女子の勢力を奨励するであらう。
 仮令へば同一事業に於てその夫の友として婦人の数が次第に増加してゆくではないか。彼等は相互に相提携し補助して彼等一人にして能ふより更らに以上の仕事を完成して行くのである。この協力が恋愛を通じて行はるると同時に新しき思想を有する男女は最早恋愛をもつて他の目的を達するの手段と見做すことは出来なくなつて来る。彼等は恋愛をもつてそれ自からを目的として努力せらるべきものと考へる様になる。何故なれば彼等は自己の恋愛をもつて最早完成せられたりと感ずることが出来ないからである。他の全ての場合に於けるが如く恋愛に於ても彼等は常により高き程度に到達せんと欲してゐるからである。
 恋愛が女子の場合に於けるが如く男子にあつて全くその存在を充実せしむるものではないと男子は屡々主張するがそれは誠である。何故なれば男子は自然の要求にせまられて恋愛以外に人生の変化を求めるものである。其処に活動と創造とに対する男子の本能が絶えず新しき目的を発見するからである。然るに女子にあつてはその力が等しく内部に向ふのが自然である。
 其処に女子は不変の法則によりて母としての最高なる活動の範囲を発見するのである。『男は単に愛すのみ。されど女は愛そのものなり』と詩人が云つてゐる。若し男子がこの点に於て女性的となり、女子が男性的になつたとしたなら性愛の精神的状態である対照は消滅してしまふ、女子がその男子に愛せらるゝ『女らしきこと』とはその内部に向ふ性質を指していふのであり、男子が女子に愛せらるゝ『男らしきこと』とはその外部に向ふ性質を指していふのである。若し大多数の女子が安静なる状態にて生の源泉に留ることを願はず男子と共に全ての海洋を航海せんと欲する時は性の対照はその調和を欠きたちまち単調なるものと化し去るであらう。
 女子がこれを自覚する迄は仮令へ数万の女子が男子の得意とする仕事をなし能ふとも一方に於て人生と幸福の更らに偉なる事業なる人類の創造と心霊の創造とを閑却し若くは未成に終らしむるが如きことあらば社会にとつて、それが何等の利益でもないといふことが主張されなければならない。これ等の事業を適当に完成するには、女子は男子と同等なる権力を要求するのである。而して女子がこの権利を獲得するまでは『女性主義フェミニズム』は尚ほなすべき仕事を有してゐる。併しながら女子が選挙権――単にその狭き政治上の意味に於てのみならず、一般の選択権といふ意味に於て――を得るに準じて彼等はそれを広き人生の舞台に向つて使用する事を学ばなければならない。彼等は女子の力が『はかるべからざる』価値の創造せらるゝ領域にありて最大なるものであることを学ばなければならない。その価値はたとへ数字に表はさるること能はずとも人道ヒューマニティーを改善する上に最も功力多きものである。若し自からの小児が乳母部屋に於て鞭韃せられ或は相互に相打つが如きことあらば平和会議に関して喋々するも婦人にとつてそれが何の益に立つであらう。もし婦人にして哀れむべき独身の境遇より一個の男子を救ふこと能はず、而して男子の生活に調和ある結合をもたらすこと能はずとせば徒らに倫理会議を口にするもそれが何の益にたつであらう。女性主義はゲーテの二個の格言中に極めて適当なる評言を発見する。『霜を以て自からを暖めんが為め太陽より逃れんとするは愚なり。』『智慧の第一条件は何物をも見せかくることなく、全てのものとなるにあり』と彼は云つてゐる。
 心霊の価値の生ずる処に太陽はその熱をふりそゝぎ、心霊の意とせざる功利の創造せらるゝ処を霜は支配してゐる。
 心霊の価値は感情の世界に発見せられなければならない。亜米利加アメリカに於ける近代の革新策は多くの婦人を迷路に導いたことは誠に悲しむべきことである。彼等はかの革新策なるものが恰かもかの羽根のみ華麗にして歌ふこと能はざる亜米利加の鳥の如きものであるといふことを洞察することが出来なかつたのである。亜米利加の精神は未だ一般に楽耳を欠いてゐる。それは人生の全音と半音とを識別することが出来ないのである。亜米利加に於ける数万の婦人が団体的事業にその家庭と小児の世話を任かせ自からは各自の職業或は商売に従事してゐるのは一見如何にも社会にとつて有益であるかの如く見ゆる。然し人生を向上せしむるは実は功利の如きものに非して完全なる人間である。故に行政及び社会事業を通じてなされたる全て外部の改善は畢竟何等の功果をも残さないのである。何故なれば男子も女子も真に有益なる事業とは道徳的価値を有する範囲に於て行はれ精神的状態の進歩を計るものであるといふことを理解してゐないからである。
 種々なる形式が精神状態の上に影響することは事実である。然しながら精神状態の方は更らに著しく形式の上に影響を与ふるものである。結婚、母の権利、小児の保護等に対して如何に最善の形式が現はるゝとも女子がかのシユライエルマヘルによつて与へられたる十誡を遵奉すること能はざる間は無効に終るであらう、若しその十誡にして実行されたならば人道を内部より外部に渡つて一新する事が出来るであらう。その十誡中に含まれたる意義は左の如きものである。
 汝は一人の恋人より他の恋人を有すべからず、又友人に対してはかの恋人に対する場合に於けるが如く風情を弄し或は強ひて彼を喜ばさんとするが如き態度をとるべからず。
 汝は汝自身に対し或は汝自身の影像又は他の影像に従つて何等の理想をも創造すべからず、汝は汝の夫が如何なるものにもせよ又如何なる性格を現はすにもせよ、只管夫のためにのみ夫を愛せよ、自然は厳粛なる復讐者なり、少女の空虚なる羅曼主義ローマンチシズムは成熟せる婦人の情緒の第三若しくは第四期に至る迄罰せらるべし。
 汝は汝の恋愛の神聖を汚すべからず、何人にまれ利益のために自己を犠牲とするは――仮令へ母たるべき律法上の権利のためである場合に於てすら尚ほ且つ美はしき感情を失ふものなることを記憶せよ。
 汝は後に破らるゝが如き結婚の約束をば決してなすべからず。
 汝は自から同等の程度を以て愛を注ぐ能はざる男子に愛せられんことを願ふこと勿れ。
 汝は野蛮なる現今の慣習に美はしき衣を着せその言行に於て虚偽の証明をなすべからず。
 汝は教育と芸術と智識と高貴なる心とを求めざるべからず。
 男女平等論を説くはまだしも、男子に比して女子の劣等なることを証拠立てんと試むる程無用なものはない。反省的生活は男子よりも女子の場合に於て遙かに強いといふことは男子の力が他の方面に発揮せらるゝと同じく必要なることである。男女の差異が自然的生活に於て欠くべからざるが如く又修養的生活に於ても最も根本的に必要なのである。実際に於て知らず/\女子は男子に男子は女子の仕事に協力してゐるのである。第三性といふが如きものは決して創造の事業に容喙ようかいすることは出来ないであらう。女子の精神が組織的に男子の事業と理想に結び付けられ、男子の精神が又女子の事業と理想とに結び付けらるゝに従つて精神的に豊富なる状態が次第に実現せらるゝであらう。男子の事業は比較的人生の個人的方面に従属し生存努力となり分化となつて人生の進歩と革新とを促がしてゐる。これに反して女子の事業は人世の社会的方面に属し団結的粘着力を現はしてゐる。女子はビヨルンソンの云つた様に『次第に人生に入込み来つた』暖かき感情のよりよき掩護えんご者である。かくの如き議論はかの甲乙の差別によつて天秤の価値を上下するが如きものではない。
 亜米利加主義は人生の全ての問題を極めて低級な立場から論じてゐる。而して婦人問題の如きも其の主眼とする処は自己維持にあると見做してゐる。自己維持といふことは男子にも女子にも単に権威ある人間の存在に対する初歩の外面的先要条件である。未来の社会主義がとるべき最も必要なる第一階梯は各人の最も得意とする仕事によつて自己維持の機会を万人に与ふることである。かくの如くして始めて各自の仕事はその人の幸福を増進するものとなるであらう。この理由から云つてもかくの如き仕事は社会に最大の価値を齎らすものである。而して今より更らに深き修養により、これらの事に対する吾人の洞察力が益々深くなり行く時は現今に於て社会が陸軍と海軍とを支へ行くが如く婦人を維持して行くことが社会にとつて極めて自然なることゝ見ゆる様になるであらう。何故なれば女子が新しき時代の教育者たる時は彼等は最大なる社会的職務のために尽瘁じんすいしてゐるからである。若し新社会にしてベートウベン或はワグネルを機関師として使用するが如き事あらばそは極めて悲しむべき現象と云はなければならない。而して若し又、その社会にして多くの母を児童心霊の教育者たらしむるかはりに家庭外の仕事に従事せしむるとせばこれ又等しく精力の大なる誤用である。然るに大多数の母たる人々は徒らに風琴を掻き鳴らすことが真の音楽に対して全ての芸術が学ばれなければならないといふ事を単に証拠立つるが如き教育法を用ひてゐる。併しながらそれは女子の精力が更らに完全なる人類を教育することより他の仕事に適用せらるゝ時、よりよく利用せられるであらうといふことを証拠立てゝはゐない。かの人類教育といふ仕事に対する現今の全ての努力は単に未来の準備であり、未だ理解せられざる一般の連絡である。更らに完全なる人種とは更らに精神的なる人種である。更らに精神的なる人種とは恋愛に対して更らに大いなる能力を有する人種である。而してこの次第に成長し行く恋愛の力は男女間の恋愛、親子間の愛を中心にしてのみ人生の全般に流れ行くのである。

 かくして最大なる希望を有する時代の最も顕著なる徴候は近代に於ける女子の智的発達及び男子の愛情的発達が新しき意義を以て女子の内的傾向と男子の外的傾向を包み初めんとしつゝある程度に到達したといふ事実である。女子が活動の形に於て美の程度を高むることを男子より学び、男子が安静の形に於て美を高むることを女子より学ぶ時、此処に始めて恋愛によつて両性の美はしき綜合を見ることが出来るのである。仮令愛の神エロスは同名の遊星の如く一般の人々には不必要に思はるゝも古きエロスはかの新しく発見せられたるエロス(星の名)が天文学者の注意を引くが如く人々の注意を奪つたのである。何故なれば多くの問題が天上のエロスに於けると等しく地上のエロスによつて喚起せられたからである。『男子は一般に恋愛を友とし或はそれにさからつて人生の職務に従事しなければならなかつた』のである。斯くの如くエロスは実に容易に男子の行くべき道を左右し得たのである。この経験は恐らく女子に対する男子の古き憎悪の主なる理由であつたのであらう。男子は自から許したる恋愛によつて自から堕落したるが如く感じ、又何等の恋愛をも許さゞる時傷けられたるが如く感じたのである。現在に於ける女子の解放は女子の社会的活動及びその恋愛によつて喚起せられたる破壊を通じて男子に新しき逆境をもたらしたのである。斯くして父母はまた温かき家庭の欠乏より苦しみ始めたのである。女子はもはや終日家庭に座して夫の heures perdues(閑散の時)の為めに待することに耐える事が出来なくなつたのである。斯くの如き男子は今まで家庭に全く捧げられた時間といふものを頭に置いてゐた。それは全く理由のない事ではなかつた。彼等は女子が青春時代には愛撫にこれ等の時間を消し、老年には不平と愚痴をもつて過したのを親しく目撃したからである。
 併しながらすべての場合に於て精神の親和と友誼の同情とが存在する処には恋愛は過去現在未来を通じて子孫の教育、その他すべての大なる社会的事業に父母の協力として現はれるであらう。若し斯くの如き両親にして単にその子供に生命を与ふるのみにして子供の教育を全然社会に一任するとせば彼等はすべての教育より遙かに重大なる父母たる本分を剥奪せられたるが如く感ずるであらう。即ちそれは母に愛せらるゝ男子の人格と、父に愛せらるゝ女子の人格とに共通して流るゝ生命である。而して両親が相互に成長するに従がつてその重要なる度はます/\増加せられるのである。
 恋愛によつて得たる幸福は人生の最深の要求の一つを満足せしめ、直接にその最善の力に衝動を与へて他の力をも増加せしむるが故に恋愛による個人の幸福は社会的価値を建設し個人の恋愛の標準が高めらるゝに従ひ社会全般はよ向上せしめらるゝであらうと云ふ結論に吾人は達するのである。
 併しながら全ての人類は悉くみな恋愛の賜物を賦与されてはゐない。それを所有せる人にてすらなほ他の趣味嗜好を有してゐる。故に男女何れの場合に於ても幸福の観念は恋愛の幸福と全然同一なりと云ふことは出来ない。又、大体に於てそれは個人が自から支配し能はざる境遇に属する種々なる力の要求若しくは適用の満足を意味することも出来ない。吾人の力のあらゆる発展を意味せざる幸福は極めてつまらなく見ゆるであらう。幸福の意義は全て偉大なる能力の完成であり更らに愈よ大いなる完成に対する要求を満足せしめんが為めの不断の期待である。幸福とは畢竟愛し、働き、考へ、苦しみ、楽しんで次第に向上するをいふのである。この向上は時に『幸福』によつて達せられ、時に『不幸』なる境遇を通じて達せられる。斯くして最も深き意味に於ける幸福は人生に横はるもろもろの運命を通じて人生が次第に向上発展せらるゝことである。この意味に於て幸福は人生そのものゝ内に生の目的を発見する人の唯一の義務である。若し幸福の感情に変化せられざる唯一の義務があるとすれば個人の生活と団体の生活とは猶ほ充分なる意義を有せざるものと云はるべきである。
 全ての人事関係中幸福は其目的であると同時にその手段でもある。併し他人の幸福を目的とする慈善事業に於ては少くともさうではない。慈善事業とか社会的事業とか云ふものは単に他人の幸福のみを目的としてなされるなら基督教的慈善の失敗した様に失敗するであらう。人は幸福に対する自己の要求並びにそれを満足せしむる様々の条件によつてのみ始めて他人の要求とそれを満足せしむる条件の如何なるものなるかを知り得るのである。
 義務としての幸福は恋愛との関係上健康と云ふ他の幸福の大なる価値と比較する事によつて説明せらるゝ観念である。中世時代にあつて人々が自己の肉体を飢渇、汚物等によつて苦しめ弱めんと計り、疫病に神罰を認め苦行によつてその救済を計らんとせる時吾人が今日有するが如き衛生上の観念は微塵もなかつたのである。個人が健康を神の意志なりと認め、各自の健康を増進することを以てその義務なりと見做し、地上の生命が善良なるものと認められ、社会が科学の活動を健康の法則に適用し、疾病を征服し、生命を延長する事を以てその義務なりと考ふるに至るまでは人々は健康衛生に対して何等の観念をも有してゐなかつた。健康は次第にそれ自からを目的にするやうになつて来た。而して幸福はそれが他の目的の為に有用なるか或は無用なるかを問はずそれ自からの為めに努力することを吾人は承認しなければならないやうになつた。然るに今日に於てもなほ自己の精神生活によつて病体を維持してゐる人々がある。又自己の健康を増進せんとする良心を有しながら不幸にしてそれを失つてゐる人も沢山ある。或は自己の健康に対して過大の注意を払ふ利己的の人があり、自己の健康を更らに高き目的の為めに犠牲にして惜しまざる博大の心を有する人もある。然しこれ等はすべて各個人が自己の健康を自己及び社会に大なる直接の価値あるものとして取扱ひ、単に他人の為めのみならず自己の健康の幸福のために努力することを以てその権利でもあり義務でもあると考へてゐる一般の法則を破壊してはゐないのである。他の言葉を以て云へば中世紀に於ける観念はこの場合に於て全く顛倒されたのである。
 来るべき時代はこれと同じく現在に於ける恋愛の観念を悉くくつがへすであらう。現在に於ける恋愛の観念はかの中世紀の健康に対する観念と等しく人生にとつて有害なるものである。此価値の転換或は変化は健康に関して私の述べた場合と同じく恋愛に於ける様々なる条件の現出を妨げないであらう。併し要するに各個人が自己の恋愛を自己と社会に対しふたつながら大なる価値ありと信じ、この幸福のための努力を以て自からの権利であり、義務であると思惟する上にその最大の主張が置かれなければならない。
 私のこの見解に対してフエルスタア博士は懇切なる批評をせられた。博士の批評は基督教の禁慾的人生観から見れば極めて自然のことである。氏の意見に従へば俗社会の律法並びに宗教的権威に服従することが更らに高き進化に進む唯一の道である。自己の修養及び克己が成長の最上条件である。この見解によれば神聖と愛の権利のために説かれたる言辞は悉く『自然の崇拝』である。而して受難そのものがより高き修養に至るの道である。而しそれは自己の慴伏しょうふくによつて到達せらるゝのである。最善の愛は信実と忍耐とである。それのみが独りよく深遠なる精神力を釈放し、人間を神聖の域に結び付ける。結婚に於ける信実は人をして肉慾的の本能と情熱より自由にせしめ、高き意味に於ける人格発展の可能を彼に与へる。然るにかの『自由恋愛』はこれ等の精神状態を発達させない、而して結婚以外の母は生れたる子供に安固たる家庭生活を送らしめず、子供に対して真摯なる責任の感を喚起せざるが故に排斥せられなければならない。かくの如き子供は又情熱によつてのみ生れ出でたるが故に母の愛は責任に面するの時消え去るのである。
 かくの如き禁慾的人生観より云へば私の述べた如くこの見解は極めて自然である。併しながら人生の目的が人生そのものである人は其精神的要求と同じく肉体的要求に対して同一なる尊敬を感ずるのである。斯くの如き人は又不道徳なる肉情が存するが如く不道徳なる禁慾主義が存するといふことを知つてゐる。何故不道徳であるかと云へばそれは人道と個人に対する向上でないからである。彼は又二個の未婚者が子供に生命を与へる時、自然はその子供に立派なる天賦の力を授けて『情熱』に報ゆるものであるといふことを知つてゐる。自然はこの『情熱』なるものを通じて神秘なる目的を追及してゐる様に見える。それは義務の観念といふが如きものゝ到底よく行ふところではないのである。
 故に最も重要なることは吾人が精細に自然を研究し尽した後に吾人の権利の観念を自然と調和せしむるが如く計ることがある、単に道徳的観念にのみ囚はれ、明らかに自然に反対して無条件に自然を圧服せんとするは不必要である、より高き恋愛の修養は克己を恋愛と親たる責任に結び付くることによつてのみ達せられるであらう。恋愛と親たる責任が両性関係の唯一の条件となさるゝの時相対関係はその結果として生ずるであらう。
 この理由により、全ての青年は恋愛に於て更らに偉なる要求をなし、父たる権利に対して更らに高き思を抱く様に教育せられなければならない。克己は全ての関係中にあつて真の恋愛及び健全なる親としての一条件として教へられなければならない。併しながら自棄は恋愛に於ける完全なる幸福が個人の精神及び一般の人道の成長に資する時説かれてはならないのである。自己離婚の権利も結婚せざる母権も全くこの道徳的見解から批判せられなければならない。結婚の有無に関せず母としての無責任は常に罪悪である。母たるの責任は結婚の如何を問はず常に神聖である。離婚の自由は種々なる感情及び事情が母としての道に横はる様々の障害を除くことは出来ない。併しながらそれはかの他人のために犠牲たることは自己の精神を生かすの道にして、他人を犠牲にするは精神を殺すことである。故に自己の都合よき様に犠牲の問題を決定するの個人は社会に於て無価値なるものであるといふ極めて不合理なる説を打破することが出来る。
 不幸なる結婚に於ては結婚者の一人が他を犠牲に供さなければならないといふことは偏見なき反省の示す処である。行かんとする人は彼を止めんと欲する人を犠牲にする。又止めらるゝ人は彼を制抑する人の犠牲となるのである。時としては他を犠牲とするより自己を犠牲となすことの更に罪の大なるものがある。時に又その反対の真実である時もある。而して若し吾人はその罪の大小をば何人が定むるかを訊ねらるゝ時は左の如く答へる。――それは義務に於けると等しく困難なる争ひを決定しなければならない個人の良心である。吾人のとるべき道は唯だ二つある、天主教的結婚か或は自己の責任を全うする自由結婚かである。
 その他の諸問題に於てもこの疑問に対する答は各自の抱く人生観に準じられなければならない。
 吾人は人間がある権威の命令に対して自己の理性や意志や良心を曲げなければならないと信ずることも出来るし、屡々経験を反復し、力の様々なる試練を経て自己の道を発見することも出来ると信ずる。又服従は更らに高き修養に達するの唯一の道であると信ずることも出来れば反抗が服従と等しく要素的エッセンシャルなものであると信ずることも出来る。又肉情的本能は陥穽でもあり、障害でもあると信ずることが出来ると同時に理性や良心と同じく人生の向上的運動を指導するものであると信ずることも出来る。若し吾人が後の意見を持するとすれば性的生活に於て正不正成長衰退自己の犠牲及び他人の犠牲といふことが人生の他の局面に於けるより一層密接の関係を有するものなることを知るのである。又性的生活に於ては『正』は屡々『不正』となり、他を犠牲にするは恐らく秘かに自からの犠牲となつてゐることであり『情熱』は義務のなし能はざる偉大にして美しき結果を生ずるものであることを吾人は知り得るのである。
 要は唯だ人道に新しき存在を与ふる権利ある男女に対して常に偉大なる要求がなされなければならないといふことである。
 この新しき要求が容れらるゝには現在の結婚制度に従属せる親権を造る倫理的観念が顛がへされなければならないのである。その時にのみ全体の道徳的勢力が人間の生理的及び心理的性格の上に加へられるであらう。而して両親は子供とその子供の継承する特性に対して最も重要なる要素となるであらう。子供の性格が社会の道徳的観念を決定する要素となるまでは自然的道徳は非自然の道徳と入換はることは出来ないであらう。それは全ての禁慾主義が不必要になるといふ意味ではない。只だそれが人生の進歩に与ふる場合以外には要求されないのである。而して又全ての信実が消え失せてしまふといふ意味でもない。その信実は個人的になり、夫と妻とは二人の友人の如く相互に親切とやさしさと思慮とを現はす様になるであらう。即ち彼等はかくの如くすることを以て相互の恋愛を保存し、その恋愛が充分なる成長を遂げ得る唯一の道であると覚るからである。
 霊性が発達するに従つて彼等は愈々強き肉体的情熱と最も偉大なる霊的恋愛を要求する様になるのである。恋愛者はかくして自己の為にのみ自己の情熱の統御を自己より獲得し、自己のために共同生活に必要なる全ての条件の修養に尽瘁する、かくして心霊の精力は内部より外部に解放せられる。吾人の恋愛が更らに親しく、やさしく完全に進む程吾人の恋愛を通じてより多くの幸福を享楽し得らるゝことを経験によつて学び得るのである。
 かの唯一の真実なる道徳と見做されんとして今なほその権利を主張して止まざる旧道徳は神聖なるものは全く精神と意志の中にのみ存し肉体、本能、衝動中には決して存せずといふ人生観の上に立つてゐるのである。かくの如きは何等かの権威の保護を必要としなければならない観念であつて、自己の法則の上に頼ることを敢へてすることが出来ないものである。然るに新道徳は霊を以て肉に反抗するものとは見做さない。又自然の全ての現象をば『神聖』とは呼ばないのである。新道徳は肉と霊に神聖なる二個の形を見るのである。而して神聖なるものが一層明らかに自からを現はせば霊と肉とは相互に遍通するのである。動物的人間は霊肉の矛盾を感じない。『精神的』の人のみ肉を圧迫して自己の感ずる二元より免かれんと欲求する。新道徳の目的はこの矛盾を除かんとするにある。恋愛に於てはこれが真実の恋愛によつてのみなされるのである。この意味に於ける結合の所有或は欠乏を通じてのみ各人は自己の恋愛の価値と正しきことゝを見ることが出来るのである。
 私は社会より全ての形式を剥奪せんとするものゝ如く云ふは誤れる非難である。『恋愛と結婚』を通読した人々にはこれはよく理解せられてゐることと思ふ。それは新しき形式を要求する人々に対して常に為さるゝの非難である。私の提出した新形式の心理的内容と律法的堅実を疑ふ人があるかも知れない。併しながら何人も私が何等の拘束なき自由を要求したものであると主張することは出来ない。私の云ふ束縛とは若樹を縛る麻縄の如きものであつて、かのまさに倒れんとする老樹を辛うじて支ふる鉄のたがの如きものではないのである。





底本:「定本 伊藤野枝全集 第四巻 翻訳」學藝書林
   2000(平成12)年12月15日初版発行
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:Juki
2008年9月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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