一
共産主義国家によつてつくられた、そしてごく真面目な努力を阻んでゐる嘘の中で、子供の利益の為めにしたボルシエヰキの活動と云ふ事程、悪いそして明かな事は何処にもない。
私は、一九一九年、メデイソン・スクエア・ガアヅンで挙行された十月革命の第二回紀念日に、一人の演説者から受けた感銘をはつきりと覚えてゐる。
其の人は丁度ロシアから帰つて来たばかりだつた。彼は、ロシアでの子供の保護と取扱ひとを説いて、聴衆へ非常な感奮を与へた。私の心は其の国の人々の上に飛んだ。――其処には長い間の
バフオド号と云ふ海上の牢獄での航海の間中、私はロシアで子供の為めにされた仕事について考へた。そしてそれで私の心は支へられ、又暖められた。何と云ふ望みに満ちた未来だつたらう。そのすばらしい新生活への一歩だと云ふ事はどれ程私の心を鼓舞した事であらう。
が、私はロシアにはいつてから、此の社会主義国家では有らゆる努力を自分達の軌道に圧縮してしまふのだと云ふ事を考へないで議論してゐた事が分つた。
ボルシエヴイキが子供や教育について其の全力を尽したのは事実だ。そして又彼等がロシアの子供達の必要品を供給する事に失敗したのも、其の
二
私はロシアに来た幾週間もしないうちに、ペトログラドで一番いゝ第一の学校を訪ねる機会を持つ事が出来た。それは、ポカザテルナヤ・シユコラ即ち模範学校と呼ばれて、文字通りの『見世物学校』だつた。私はずつと後まで、其の意味を
一九二〇年の冬、ペトログラアドの燃料の欠乏は、殆んど其の全人口を涸らすばかりにひどかつた。で、出来るだけ
其の学校は、子供の集散する中心のやうに使はれてゐた。子供達は、ロシアのあらゆる方面から、どんな僻遠の地方からでも、其処に連れられて来た。彼等は虫の喰つたボロ/\の着物で、やつれて、そして病気にかゝつてそこへ来る。来ると彼等は湯にはいり、体量や身長を計り、うまいものを飽きる程食はせられてそして一般治療を受ける。
三
私はそれを見て非常な感銘を与へられた。これが本当にあの、子供のためにした大事業に就いて、アメリカまでも伝はつて来た報告の証拠なのだ。
が、此の美はしい画面の中に、それを乱すたつた一点があつた。私の接待役の婦人の医者は、
『何か伝染病ですか』と私は尋ねた。『いゝえ』とその淑女は云つた。『其の子供達は小さな泥棒なのです。で私達は、それを他の子供達から離して置かなければならないのです。』
私は
が、トルストイは此の子供の頭に紐をかけやうとして、其の眼を見て驚いた。そこには、屈辱と無言の非難とが見えた。いや、此の子供は罪人ではないのだ。此の子に泥棒だと云ふ烙印を押したりする残忍な事を犯した、彼れトルストイとほかの子供等と、即ち全社会が罪人なのだ。
トルストイの学校では、其後は決して二度と子供が罰せられた事はなかつた。が、此の偉大な、自由な、革命のロシアでは、まだ子供は罰せられ、隔離され、泥棒と云ふ烙印を押されて絶えず『道徳的不具者』と云はれてゐる。
私の心は
四
それから少し後に、私の処に、アメリカで長い間交際した一人の婦人が訪ねて来た。彼女は二月革命の一寸後に、
私は友達を一緒に夕飯を食べるやうにと引き止めた。私達はアメリカでお互に知つている人達についてだの、十月革命に就いてだの、又世界の被圧制階級の上に及ぼした其の影響だのに就いて話しながら、私は間にあはせの台所で薯の皮をむいてゐた。
『その皮をよそに棄てないでね。』と友達は私に注意した。
『どうして? 此の皮が何かにいるんですか。』と私は尋ねた。
『子供達がそれでポテトケエクをつくるのですよ、みんなはそれをどんなによろこぶか知れませんわ。』
『子供達?』私はびつくりした。『どうしてそんな事をするのです? 子供達は一等の定食を取つてゐるのぢやないんですか?』私はホテル・ド・ルウロオプで、子供達が、ミルクや、ココアや米や、フアリナや、白いパンや、チヨコレエトや、それから肉類をすらも食べてゐたのを見たのだ。
私の訪問客は笑つた『私の学校にいらつしやい。』彼女は云つた。『そして御自分で御覧になれば分りますわ。』
五
私は行つて見た、しかも一度きりでなく幾度も行つて見た。其処では私はメタルの裏を見た。が、それでも、私はまだそれ程容易にそれを信ずることが出来なかつた。其の学校には、六十五人の子供達がゐた。彼等の食物は極く僅かで、質もみぢめなものだつた。
其の中の大多数は、彼等の家の者や親戚の者が田舎から送るいくらかのもので扶助されてゐた。彼等は、僅かに暖かい着物を着、大部分は靴なしであつた。私の友達は、自分の時間と全精力とを、教育部のいろ/\の役所で浪費してゐた。
彼女は、其の六十五人の子供達の為めに二十本の木のスプーンを手に入れるのに二週間かゝつた。役所に入る順番の列の中に立つて高官に会ふのを待ちながらまる一と月も骨を折つて、二十五足の雪靴を貰つた。そして、それ等のものを、六十五人の子供達に、嫉妬や、憎悪の原因をつくらないやうに、悶着を起さないやうに分けてやるのには、深い思慮と、なか/\の機転が要る。
私は其の学校を訪ねる度毎に、何処かに何かの悪い事があるのだと云ふ事がだん/\に分つて来た。ホテル・ド・ルウロオプで子供等が受けてゐる保護と、クロンヴエルスキイ・プロスペクトの学校で子供達の受けてゐるものとの間の差別にはほかにどんな説明がつくのだらうか?
あそこでは、子供達は有らゆるものゝ最上のものを与へられてゐた。食物、着物、室、演奏会、舞踏――実は、一般の状態からするとそれは殆んど多すぎる程なのだ。
そして、此処では、子供達はほんの僅かなものしか与へられないで、いつも飢えてゐる。しかも其の僅かなものでも、それを手に入れるには非常な困難をしなければならないのだ。
六
直ぐに私は少々の事実を知つた。ロシアでは、すべての子供の為めの着物や食物が充分になかつたのだ。そしてボルシエヴイキは、外国の使者や派遣員や、通信員やに見せるために、各都市に幾つかの見世物学校を置く必要を考へ出したのだ。子供は見世物になつた。機会毎に展覧に供されて、書きたてられた。それ等の見世物学校は有らゆるものの最上等のものを貰つてゐた。其の他の学校へは残りものが行くのだ。そして此の他の学校と云ふのは大部分の学校なのだ。
そして人々は、此の見世物学校ばかりを訪ねて、そしてそれによつてロシアに於ける子供の生活を判断して、ボルシエヴイキ制度の下にある子供の大衆の境遇に就いては全く何にも知らないで行つて了ふのだ。
聯合国の干渉と封鎖とはロシアの恐しい窮乏の主なる責任を負はなければならない。が、それにしても、子供達の生活に必要なる物は、もつと公平に分けてやる事が出来たのだ。ボルシエヴイキの組織其者が、労働者に対する取扱ひにもさうであつたやうに、子供に対してもやはり差別と不公平とを附き
子供達にも、それ程公然ではないが、同じやうな事が行はれてゐる。第一に、見世物学校の組織が、一特権を設ける悪い事なのだ。それは、必然にかこつけや嘘や
(第三次『労働運動』第七号、一九二二年九月一〇日)