一
今から百年以前、ゴオゴルは其の傑作『死んだ魂』で同国人を驚かした。それは、ロシアの封建制度と其の寄生虫共を仮借なく非難したものであつた。『死んだ魂』は再びロシアの生活に帰つて来た。
誰が現代の死んだ魂か? それは実際を話す方が一番はつきりするだらう。何処の託児所も、寄宿学校も、感化院も――実際子供と大人とが住んでゐる何処のさうした所にでも、――寄宿舎の数だけ、食物や着物や定食糧やを取る権利を与へられてゐる。
チノヴニキは、型のやうに、何かの賄賂を受け取るまでは、手を延引させておく。そこで其学院の人間の実際の数よりはずつと多い人間のための命令を貰はなければならない事になる。そして其の『余分のもの』は賄賂ともなり、同時に又其の学院の飢えた友達のためのものとなるのだ。
たとへば、私の友達の学校には六十五人の子供達がゐる。以前の舎監達はみんな架空の人の名前――死んだ魂――を学校の子供達の実際の統計に加へてゐた。かうして手に入れた其の余分の食糧を賄賂に使つて、其のお蔭で舎監達は其の仕事を早く運ぶ事が出来た。学校の主事等はかうしていろんな役所の『勢力のあるもの』に賄賂を使つてゐるので、其の仕事をサボつたり、子供を放つておいたりまた濫用したりしても、或は又往々寄宿生の為めに貰つた食料で投機をしても、ちつともかまはないのだ。彼等は『上の方の友達』を持つてゐるのだ。
二
ロシアの到る処に行はれてゐる此の面白いやり方の結果は、勿論明かな事だ。が、私の友達は、そんな事の仲間にはなれなかつた。彼女は『死んだ魂』を加へる事を拒んだ。
彼女は、其の地方の無数の検査官や、試験官や、懲治官等に賄賂を使ふことを拒絶した。其の結果は、此の悪事に反対する、長いそして苦い争ひとなつた。そして其の争ひは、彼女の健康を害し、結局彼女を其の地位から除いて、文字通りに街頭に投げ出した。彼女はペトログラアド教育課長である『同志』マダム・リリナの注意を呼ばうと試みたが、無駄だつた。彼女は会はなかつた。彼女は決して私の友達の学校を訪ねた事はなかつた。『見世物』学校に彼女の全時間をとられてゐたのだ。マダム・リリナは、私の友達の話を信用しなかつたのだ。共産主義者に対する不平を云ふ『局外者』に注意を払ふ事は先づない事なのだ。そして、又、同時に、そんな事に係はるのは危険な事なのだ。
三
最初私は『死んだ魂』が一般に行はれてゐる方法だと云ふ事を信ずるのを拒んだ。『ソヴイエツトの第一の家』ホテル・アストリアで私の隣室に、一人の小さい婦人が二人の子供と住んでゐた。彼女は共産主義者であつたが、『死んだ魂』の方法に反対して激しく争つた一人だつた。彼女はいろんな子供達の学院で働いてゐた。そして私がクロンヴアスキイ・プロスペクトの学校で見出した状態を確証するだけではなく、同じ手段が行はれてゐる沢山の他の所へ私を連れて行つた。
何処にも『死んだ魂』が半ば餓えてゐる子供達のものを奪取つてゐた。私の隣人は、彼女が其の自分の子供達に就いて持つてゐる経験を
私は、其の真面目で熱心に働く共産主義者の隣人と友達になつた。彼女を通して、私は子供達の一般の状態に就いていろんな事を学んだ。私はます/\、ボルシエヴイキは子供達のためにあらゆる事を試みたが、其の彼等の努力は彼等の国家が創り出した寄生虫的官僚政治によつて失敗したと云ふ事がわかつて来た。宣伝の目的に子供までも使はねばならないと云ふ彼等の考への破壊的な事が何よりも先づ証拠立てられた。
四
私ははじめに云つた。私が最初に子供達が『泥棒だとか道徳的不具者』だとか云はれて隔離されてゐると聞いた時に、私はひどく驚いたと。其の時私はそれをホテル・ド・ルウロオプで掛りの医者の態度と其の旧式な考へとに帰した。然るにプラウダ紙上の一論説と、私がマキシム・ゴルキイ、マダム・リリナや、其他の多くの共産主義の首領とした話で、彼等の殆どすべてが、『先天性の道徳的堕落』と云ふ事を信じてゐる事が分つた。
或る高い位置にゐる児童教育者でさへ、かうした『道徳的不具者』のために牢獄を設けると云ふ事に賛成してゐる。が、これは教育委員ルナチヤルスキイや、ゴルキイや、其の他の、正統派共産主義者からはセンテイメンタリストと
ルナチヤルスキイもゴルキイもそれを知らないのだと云ふ事は確かだ。しかも此の知らないと云ふ事の中に悪事があるのだ。大勢の下役達がしてゐる事を上役の者が知る事が出来ないやうに出来てゐるのだ。タガンカ監獄にゐる子供達は、其処に送られた政治犯人によつて発見された。彼等はそれを外に居る友人達に知らせた。友人達はルナチヤルスキイと一緒に、それを問題にした。そして結局、子供達は監獄から出された。
五
だが、其の『道徳的不具者』のための学校や殖民地は監獄よりはもつとよくない。青年共産党の委員会で作つた調査は、それ等の学校の悲惨を
其の上に委員会の通信は子供達が酷く疎略にされてゐる事を明かにした。子供は汚いボロにくるまつて、そして不快な臭のする敷布なしの寝具の不潔な上で寝る事を許されてゐる。そして、或る子供達は、罰を受けて夜真暗な室の中に閉ぢ込まれてゐる。又他の者は夕飯を抜く事を強制され、そして或者は、打たれさへもした。その報告は役人仲間に大きな
特別の調査が命ぜられたが、勿論それはアメリカでの同じやうな調査のやうに誤魔化しに終つた。青年共産党の委員会は『大げさ』な事を云ふと云つて叱られた。そんな話は反革命の作り話だと云つて、プラウダの論文は載せない事にきまつた。
六
私はその事で或る共産主義者と議論した。どうしてこんな事がソヴイエツト・ロシアに起るのか? 私は『信頼すべき、そして能力ある働き手の欠乏だ』と云ふ型にはまつた答を受け取つた。で、『私は道徳的不具者』のやうに烙印を押された不運な子供達の中で仕事をする事を提議した。
『同志リリナにお会ひなさい』と私は忠告された。『彼女はきつとあなたを喜ばすでしよう。』
数日の後同志リリナを訪ねた。彼女はむづかしい顔をした虚弱な女で典型的な五十年以前のニユウ・イングランドの女教師だつた。私は彼女が最も立派な心理学と教授学との法式をよくのみ込んで居り、それに親しんで来た人だと云ふ事を確かめた。私はかまはず、子供の道徳的堕落の理論の信じられない事、そしてそんな時代後れの見解に支へられてゐるのは非現代的な教育者である事、少年犯罪者でも不具者の子供達と同様に罰したり烙印を押したりする事の出来ないと云ふ事を彼女に話した。
此の会見は私に、もしも私が小さい犠牲者達の間で働くとしたら、私の努力は一歩毎に、此の固苦しい、そして独断的な淑女から妨げられるだらうと云ふ事を納得させた。彼女はまた恐らく自分だけで、共産主義者の国家で無政府主義者に子供の世話を
ボルシエヴイキ制度の腐敗や濫用や無能は、当然信頼の出来る働き手の欠乏が責任を負ふのだと云ふ屡々繰返されたボルシエヴイキの此の言葉が、ウソだと云ふ例証として、私は此の話をするのだ。
ロシアにゐた間に、私は教育や、経済や其の他の非政治的仕事に、才能もありよろこんで協力する驚く程多くの人々に接触した。が、彼女は共産主義者でないところから、有らゆる敵意と努力とを無駄にさせて
七
四ヶ月間のウクライナの旅の間に、私はいろんな託児所や幼稚園や寄宿学校や又児童植民地などを見る十分な機会を得た。勿論それは非公式にだ。到る処に私は同じ事、即ち十分に食物を与へられ十分に注意された子供の見世物学校と、其の子供等の飢えてゐる他の学校とを見た。屡々私はそれらの学校の係りの男女が子供等のために熱心に努めて、官僚政治と闘つてゐるのを見た。が、それは皆な無駄な戦ひで、最後には彼等は万能の機関によつて
私はロシアを去る少し前にモスクワで此の事の著しい実例を見た。其の或る区に、私がロシアで見た一番よく組織されそして一番よく設備された、模範託児所がある。其の所長はごく稀れに見る婦人で、理想家で長い経験のある教育家で、非常な働き手であつた。彼女は『死んだ魂』の慣例に断乎として反対した。彼女はピオレルに食はせるためにピイタアから奪ふと云ふやうな事をしたくなかつたのだ。小役所の小役人に賄賂を使ひたくなかつたのだ。
例の通り、或る闘ひが彼女に対して始められた。此のあさましい戦ひの首領は共産主義者である其の託児所の医師であつた。有らゆる批難が所長の上に向けられた。が、其の一つとして何んの根拠もなかつた。しかし敵は遂に彼女を其の地位から退かしめるまで其の手を休めなかつた。そして其の地位から退くと云ふ事は、同時に又、其の住んでゐた室をもなくする事であつた。所長は生れて四ヶ月目の赤児の母であつた。
八
それは十一月で、天気は寒かつた。それでも此の託児所のために戦つた所長はそこを出るようにと命ぜられた。彼女の赤児のために彼女は其の建物の中の他の一室を与へられるまではそこを去る事を拒絶した。そして彼女は三年間暖められた事のなかつた地下室の小さな暗い湿めつぽい一室を与へられた。そして此の墓の中で、其の赤児は病気になつて、それ以来病み苦しむ事となつた。
ルナチヤルスキイはこんな事を知つてゐるだらうか。共産党の首領等はこれを知つてゐるだらうか。或る人達は勿論知つてゐる。しかし彼等は其の『重要な国事』であまりに多忙なのだ。そして彼等はこんな『些細な事』には無感覚になつてゐるのだ。そして又彼等もやはりボルシエヴイキ官僚政治のからくりの中に巻きこまれてゐるのだ。
尤も、此の共産主義国家が他の政府の上に出てゐる或る一事はあつた。それは子供の労働の廃止だ。これは共産主義者を十分に信用していゝ其の最も重大な成功だ。が、レニンの新経済政策は今、死人をまでも甦らせて、ロシアを資本主義に後戻りさせてゐる。ボルシエヰキ政府はやがて其の豊富な財源と子供の労働とで他の有らゆる文明国の政府と『平等』になるだらう。
(第三次『労働運動』第八号、一九二二年一〇月一日)