クリスマス

ワシントン・アーヴィング Washington Irving

吉田甲子太郎訳




 だが、あのなつかしい、思い出ふかいクリスマスのおじいさんはもうってしまったのだろうか。あとに残っているのは、あの年とった頭の白髪とあごひげだけなのか。それでは、それをもらおう。そのほかにクリスマスのお爺さんのものはないのだから。
――クリスマスを追う声

あのころのクリスマスには、
どこの家でも見たものだ。
寒さを払う火もあたたかく、
肉のご馳走ちそうが山ほどあった、偉い人にもいやしい人にも。
近所の人はみなばれ、
心からのもてなしだ。
貧しい人でも門前ばらいは食わなんだ。
それは、この古帽子が真新しかったころのこと。
――古謡

 イギリスで、わたしの心をもっとも楽しく魅惑するのは、昔から伝わっている祭日のならわしと田舎の遊びごとである。そういうものを見て、わたしが思いおこすのは、まだ若かったころに、わたしの空想がえがいた数々の絵である。あのころ、わたしは世界というものを書物を通してしか知らなかったし、世界は詩人たちがえがいた通りのものだと信じこんでいた。そしてさらに、その絵といっしょに、純朴だった昔の日々の香りがもどってくる。そして、やはりおなじ間違いかもしれないが、そのころ世間のひとびとは今よりずっと素朴で、親しみぶかく、そして嬉々ききとしていたように思う。残念なことに、そういうものは日毎ひごとにかすかになってくるのである。時がたつにしたがって次第に擦りへらされるだけでなく、新しい流行に消し去られてしまうのだ。この国の各地にあるゴシック建築の美しい遺物が、時代の荒廃にまかされて崩壊したり、あるいは、後の世に手が加えられたり改築されたりして、もとのすがたを失ってゆくのにも似ているのである。しかし、詩は田園の遊戯や祭日の宴楽から多くの主題を得たのだが、今でもそれをなつかしみ、纏綿てんめんとしてはなれない。それは、あたかも、つたが古いゴシックの門や崩れかかった塔に、ゆたかな葉をまきつけて、自分を支えてくれた恩にこたえ、ゆらゆらする廃墟はいきょを抱きしめ、いわば、その若い緑でいつまでも香り高いものにしておこうとするのとおなじようである。
 しかし、さまざまの古い祭のなかでも、クリスマスの祝いは、最も強いしみじみした連想を目ざめさせる。それには、おごそかで清らかな感情がこもっており、それがわたしたちの陽気な気分に溶けあい、心は神聖で高尚な悦楽の境地に高められる。クリスマスのころの教会の礼拝は、たいへん優美で感動的である。キリスト教の起源の美しい物語や、キリスト生誕のときの田園の光景がじゅんじゅんと説かれる。そして、降臨節のあいだに、その礼拝には次第に熱意と哀感が加わり、ついに、あの、人類に平和と善意とがもたらされたクリスマスの朝に、歓喜の声となって噴出するのである。教会で、聖歌隊の全員が鳴りひびくオルガンに合わせて、クリスマスの聖歌を歌い、その勝ち誇った調和音が大伽藍だいがらんの隅々まで満たしてしまうのを聞くときほど、音楽が荘厳そうごんに人の道徳的感情に迫ってくるのを知らない。
 古い昔からの美しいしきたりによって、この、愛と平和の宗教の宣布を記念する祭りの日々には、一族は相つどい、また、肉親のものでも、世の中の苦労や、喜びや、悲しみで、いつも引きはなされがちなひとびとがまたひきよせられるのだ。そして、子供たちは、すでに世間に旅立って、遠くはなればなれにさまよっていても、もう一度両親の家の炉ばたに呼びかえされて、その愛のつどいの場所に団欒だんらんし、幼年時代のなつかしい思い出のなかで、ふたたび若がえり、いつくしみあうのである。
 季節そのものも、クリスマスの祝いに魅力をそえる。ほかの季節には、わたしたちはほとんど大部分のたのしみを自然の美しさから得るのである。わたしたちの心は戸外に飛びだし、陽ざしの暖かい自然のなかで気を晴らすのだ。わたしたちは「野外のいたるところに生きる」のである。鳥の歌、小川のささやき、息吹いぶいている春の香り、やわらかい夏の官能、黄金色の秋の盛観、さわやかな緑の衣をつけた大地、爽快そうかい紺碧こんぺきの大空、そしてまた豪華な雲が群がる空。すべてがわたしたちの心を、沈黙のまま、なんともいえぬ歓喜で満たし、わたしたちは、尽きぬ感覚の逸楽にひたるのだ。しかし、冬が深くなり、自然があらゆる魅力をうばわれて、一面に雪の経帷子きょうかたびらにつつまれると、わたしたちは心の満足を精神的な源にもとめるようになる。自然の風光は荒れてさびしく、日は短く陰気で、夜は暗澹あんたんとして、わたしたちの戸外の散策は拘束され、感情もまた外にさまよい出て行かずに、内にとじこめられ、わたしたちは互いの交歓に愉しみを見つけようとする。わたしたちの思索は、ほかの季節よりも集中し、友情もきでてくる。わたしたちは、ひととむつまじくすることの魅力をしみじみと感じ、互いに喜びをわけあうようになり、親しく寄りあうのだ。心は心を呼び、わたしたちは、胸の奥の静かなところにある深い愛の泉から喜びをみとるのだが、この泉は求められれば、家庭の幸福の純粋な水を与えてくれるのである。
 夜は戸外が真暗で陰鬱いんうつなので、炉の火があたたかく輝いている部屋にはいると、心はのびのびとふくらむのだ。赤いほのおは人工の夏と太陽の光とを部屋じゅうに満ちわたらせ、どの顔も明るく歓待の色に輝く。人をもてなす誠実な顔が、やさしい微笑ほほえみにほころびるのは、冬の炉がいちばんである。はにかみながらそっと相手を見る恋のまなざしが、いろいろなことを甘く物語るようになるのも、冬の炉ばたにまさるところはない。冬のからっ風が玄関を吹きぬけ、遠くのドアをばたばたさせ、窓のあたりにひゅうひゅう鳴り、煙突から吹きおりてくるとき、奥まった心地よい部屋で、一家の和楽するさまを、落ちついて安心した心持ちで見ることができるほどありがたいことはないだろう。
 イギリスでは元来社会のどの階層にも田園の風習が強くしみわたっているので、ひとびとは昔からいつも、祝祭や休日で田園生活の単調さが途切れるのを喜んだ。そして、クリスマスの宗教上の儀式や社会の慣例を特によく守ったのである。以前クリスマスを祝ったときには、ひとびとは古風で滑稽こっけいなことをしたり、道化た行列をもよおしたりして、歓楽にわれを忘れ、おたがいに全く友だちになりあったのだが、そういうことについて古物研究家が書いている詳細は、無味乾燥なものでも、読んでたいへん面白いものだ。クリスマスにはどの家も戸を開放し、人はみな胸襟きょうきんをひらいたようである。百姓も貴族もいっしょになり、あらゆる階級の人がひとつの、あたたかい寛大な、喜びと親切の流れにとけあう。城や荘園邸しょうえんていの大広間には、竪琴たてごとが鳴り、クリスマスの歌声がひびき、広い食卓にはもてなしのご馳走が山のように盛りあげられ、その重さに食卓はうなり声をたてるほどだった。ひどく貧乏な百姓家でも、緑色の月桂樹げっけいじゅひいらぎを飾りたてて、祝日を迎えた。炉は陽気に燃えて、格子こうしのあいだから光がちらちらし、通りがかりの人はだれでも招かれて、かけがねをあけ、炉のまわりに集って世間話をしている人の群に加わり、古くからの滑稽な話や、なんどもくりかえされたクリスマスの物語に興じて、冬の夜ながをすごしたのである。
 現代の洗練された風習がもたらした最も快からぬことは、心のこもった昔ながらの休日のならわしをうちこわしてしまったことだ。この現代の進歩のために、このような生活の装飾物の鮮明なのみのあとはなくなり、その活気のある浮彫は取り去られてしまった。世の中はむかしよりいっそう滑らかになり磨きあげられたが、その表面はあきらかにこれという特徴のないものになった。クリスマスの遊戯や儀式の多くは全く消滅してしまい、フォールスタフ老人のスペイン産白葡萄酒しろぶどうしゅのように、いたずらに註釈者の研究や論争の材料になってしまった。これらの遊戯や儀式が栄えた時代は、元気と活力が汪溢おういつしていて、ひとびとの人生のたのしみ方は粗野だったが、心のそこから元気いっぱいにやったのだ。そのころは野性的な絵のように美しい時代で、詩には豊富な素材をあたえ、戯曲にはいくたの魅力的な人物や風俗を供したのだ。世間は以前よりいっそう世俗的になった。気晴らしは多くなったが、喜びは減った。快楽の流れの幅は広くなったが、深さは浅くなり、かつては落ちついた家庭生活の奥深いところに和やかに流れていたのに、そういう深い静かな水路はなくなってしまった。社会は開化し優雅になったが、きわだった地方的な特性も、家族的な感情も、純朴な炉辺の喜びも、大半は失った。心の大きい昔の人の伝統的な慣習や、封建時代の歓待ぶりや、王侯然とした饗宴きょうえんは滅びさり、それが行われた貴族の城や豪壮な荘園邸もそれと運命をともにした。そのような饗宴は、ほの暗い広間や、大きなかしの木の廻廊や、綴織つづれおりを飾った客間にはふさわしいが、現代の別荘の明るい見栄みばえのよい広間や、派手な客室には向いていないのである。
 しかし、このように昔の祭礼の面目がなくなったとはいっても、イギリスではクリスマスは今もなお楽しく心がおどるときである。あらゆるイギリス人の胸のなかに、家庭的感情が湧きおこって、強い力をもつのは、見るからにうれしいことである。親睦しんぼくの食卓のための万端の準備がされて、友人や親戚しんせきがふたたび結びあわされる。ご馳走の贈物はさかんにき来して、尊敬の意のしるしともなり、友情を深めるものともなる。常緑樹は家にも教会にも飾られて、平和と喜びの象徴となる。こういうことすべてのおかげで、睦まじい交わりが結ばれ、慈悲ぶかい同情心が燃えたたされるのである。夜更よふけに歌をうたって歩く人たちの声は、たとえ上手ではないとしても、冬の真夜中に湧きおこって、無上の調和をかもしだすのだ。「深い眠りがひとびとの上に落ちる」静かな厳粛な時刻に、わたしは彼らの歌声に起されて、心に喜びをひめて聞きいり、これは、ふたたび天使の歌声が地に降りてきて、平和と善意とを人類に告げしらせるのだとさえ思った。想像力は、このような道徳的な力に働きかけられると、じつに見ごとに、すべてのものを旋律と美とに変えるものだ。雄鶏おんどりときの声が、深く寝しずまった村に、ときおり聞えて、「羽のはえた奥方たちに夜半をしらせる」のだが、ひとびとは聖なる祭日の近づいたことを告げているのだと思うのである。

「誰かさんの言うのには、
 救い主のお生まれを祝う頃ともなりますと、
 日の出を告げるこの鶏は夜通し歌っているとやら。
 すだまもおそれて、迷い出ず、
 安らかな夜に、星も魅入らず、
 いたずら妖精ようせいおとなしく、魔女は通力失って、
 いと清らかで、祝福に満ちたときだと言いまする」

 周囲のひとびとがみな幸福に呼びかけ、いそいそとして、おたがいに愛しあっているなかで、心を動かされないものがありえようか。クリスマスはまさに感情が若がえるときであり、親睦の火を部屋のなかで燃えたたせるだけでなく、親切な慈悲の火を心のなかにかきたてるときでもある。
 若いころの愛の光景がふたたび新鮮になって、老年の不毛な荒野によみがえるのだ。そして、家を思う心は、家庭の喜びの芳香に満ちて、うなだれた気力に生命を吹きこむ。それはあたかも、アラビヤの沙漠さばくに吹くそよ風が、遠くの野原の新鮮な空気を吹きおくって、疲れた巡礼のもとにもたらすのに似ている。
 わたしは異国の人としてイギリスに滞在しており、友だちづきあいの炉がわたしのために燃えることもなく、歓待の扉も開かれず、また、友情のあたたかい握手が玄関でわたしを迎えてもくれない。だがそれでもわたしは、周囲のひとびとの愉しい顔から、クリスマスの感化力が輝きでて、わたしの心に光を注いでくれるような気がするのだ。たしかに幸福は反射しあうもので、あたかも天の光のようだ。どの顔も微笑に輝き、無垢むくな喜びに照り映えて、鏡のように、永久に輝く至高な仁愛の光をほかの人に反射する。仲間の人たちの幸福を考えようともせず、周囲が喜びにひたっているのに、孤独のなかに暗くじっとすわりこみ、愚痴をこぼしている卑劣な人も、あるいははげしく感激し、自己本位な満足を感じる瞬間があるかもしれない。しかし、こういう人は、愉しいクリスマスの魅力であるあのあたたかい同情のこもった、ひととの交わりはできないのである。





底本:「スケッチ・ブック」新潮文庫、新潮社
   1957(昭和32)年5月20日発行
   2000(平成12)年2月20日33刷改版
入力:砂場清隆
校正:noriko saito
2021年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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