クリスマス・イーヴ

ワシントン・アーヴィング Washington Irving

吉田甲子太郎訳




聖フランシス様、聖ベネディクト様。
この家をしきものからお守り下さい。
悪い夢や、ロビンという名の人のいいお化けから
すべての悪霊あくりょう
妖精ようせいいたちねずみ、白鼬からお守り下さい。
晩鐘の時から、
暁の勤行ごんぎょうまで。
――カートライト

 皎々こうこうと月のさえた夜だったが、寒さははげしかった。わたしたちの駅伝馬車は、てついた大地を矢のように走った。馭者ぎょしゃはたえずむちを打ちならし、馬はしばらく疾駆した。「馭者は自分の行くところをよく知っているんです」とわたしの友は言って、笑った。「それで、一生懸命になって、召使部屋の催しとご馳走ちそうに間にあうように着こうとしているんですよ。じつを申しますと、父は、古風な凝り屋で、昔のイギリス流の客のもてなしぶりを今もやっては得意になっているんです。父は昔気質むかしかたぎのイギリスの田舎紳士の標本としては相当なものですが、このごろでは、純粋にそうしている人はほとんど見うけられなくなってしまいました。財産のある人は大部分ロンドンで暮らしますし、流行はどしどし田舎に流れこんできますので、むかしの田園生活の、強い、ゆたかな特色はほとんどぬぐいさられてしまいました。ところが、わたしの父は、若いころから、実直なピーチャム(原註1)を手本と仰いで、チェスターフィールドには眼もくれなかったんです。田舎の紳士が父祖伝来の土地に住むこと以上に、真に立派でうらやむべきことはないと父は心に決め、年じゅう自分の領地で暮らしています。そして、むかしの田舎の遊びごとや、祝日の催しごとなどを復活させることを熱心に唱えていますし、そのことについて書いてある著書には、昔のものであろうと、現代のものであろうと、深く精通しているんです。じっさい、父が好んで読むのは、少くとも二世紀も前に盛んだった著述家のもので、父に言わせますと、この人たちがほんとうのイギリス人に似つかわしいことを書いたり考えたりしたので、後の世の著述家の及ぶところではないということです。父は、ときには残念がって、もう二、三世紀前に生まれればよかったなどとさえ言います。そのころにはイギリスがまだイギリスらしくて、独特の風俗習慣があったというわけです。父が住んでいるところは、本街道からちょっと離れて、さびしいところですし、近くには肩をならべる名門もありませんので、イギリス人にとってもっとも羨むべき祝福を与えられています。つまり、自分の気質にあったことを勝手にやって、だれにも妨げられないのです。近隣でいちばん古い家門を代表する人でもあり、また、農夫たちはほとんどみな父の小作人になっていますので、父はたいへんあがめられていて、みんな父のことをただ『地主様』と呼んでいます。この家の家長は、大むかしから、この称号で呼ばれていたんです。うちの父についてこんなことを申し上げておくのは、ちょっと風変りなところがありますので、あらかじめ心構えをしていていただきたいからです。そうでないと、とんだ荒唐無稽こうとうむけいに見えるかもしれませんので」
 しばらくのあいだ馬車は庭園の塀に沿ってゆき、ついに門のところで止まった。この門は、重々しい、壮大な、古風なもので、鉄のさくでできていて、その上のほうは面白い唐草や花の形になっていた。門を支えている大きな四角の柱の上には家の紋章がつけてあった。すぐそばに門番の小屋が、黒々としたもみの木かげにおおわれ、灌木かんぼくのしげみにほとんど埋まっていた。
 馭者が門番の大きな鐘を鳴らすと、その音は凍った静かな空気に鳴りひびき、遠くのほうで犬のえる声がこれに答えた。やしきは犬が守っているらしかった。年とった女がすぐに門口に出てきた。月の光が明るく彼女を照らしだしていたので、わたしは、小柄で純朴な女の姿をよく見ることができた。着ているものはたいへん古風な趣味で、きれいな頭巾ずきんと胸当てをつけており、銀色のかみの毛が、雪のように白い帽子の下にのぞいていた。彼女は若主人が帰ってきたのを見て、お辞儀をしながら、喜びを言葉にも素振りにもあらわして出てきた。彼女の夫は邸の召使部屋にいて、クリスマス・イーヴを祝っているらしかった。彼は家じゅうでいちばん歌が上手だし、物語をするのもうまかったので、なくてはならない人だったのだ。
 友人の提案で、わたしたちは馬車を降り、庭園のなかを歩いて、さほど遠くない邸まで行き、馬車にはあとからついてこさせることにした。道は、すばらしい並木のあいだを曲りくねって行った。その並木の裸になった枝のあいだに、月が光りながら、一点の雲もない深い大空を動いていた。彼方かなたの芝生には雪がかるく一面におおっていて、ところどころきらきら光るのは、月の光が凍った水晶を照らすからだ。そして遠くには、うすい、すきとおるようなもやが低地から忍びやかに舞いあがり、次第にあたりを包みかくしてしまいそうな気配だった。
 わたしの友は恍惚こうこつとしてあたりを見まわした。「ほんとうに何度」と彼は言った。「わたしは学校の休暇で帰るとき、この並木路をけていったか知れません。子供のころ、この木の下でよく遊んだものです。わたしはこの木々を見ると、幼いころに自分をかわいがってくれた人に対するような尊敬の念さえおこってくるのです。父はいつでもわたしたちにやかましく言って、祭日はちゃんと祝わせ、家の祝いの日には、わたしたちをまわりに呼びあつめたものでした。父はわたしたちの遊戯を指図し監督もしましたが、その厳格さといったら、ほかの親たちが子供の勉強を見るときのようなものでした。たいへん几帳面きちょうめんで、わたしたちが昔のイギリスの遊戯をその本来の形式通りにやらなければならないと言って、古い書物を調べて、どのような『遊びごと』にも先例や典拠をもとめたものです。ですが、学者ぶるといっても、これほど愉快なものはありません。あの善良な老紳士の政策は、子供たちに、家が世界じゅうでもっとも楽しいところだと思わせるようにしたことです。そして、じっさい、わたしはこの快い家庭的な感情こそ親があたえうる贈り物のうちでいちばん立派なものだと思っているんです」
 わたしたちの話は、犬の一隊の騒ぎ声でさえぎられた。いろいろな種類や大きさの犬がいた。「雑種、小犬、幼犬、猟犬、それから、つまらぬ駄犬」みな門番の鐘の音と、馬車のがたがた鳴る音におどろかされ、口を開けて、芝生を跳んできた。

「――小犬どもまでいっしょになって、
 トレイも、ブランチも、スウィートハートも、どうだ、みんなわしにほえかかって来るわい」

と、ブレースブリッジは大声で言って、笑った。彼の声をきくと、吠え声が変って、喜びの叫びになり、たちまちにして、彼は忠実な動物たちに取りまかれ、どうすることもできないほどだった。
 わたしたちはもう古めかしい邸全体が見えるところに来ていた。邸は半ばは深い影につつまれていたが、半ばは冷たい月光に照らし出されていた。ずいぶんと宏壮こうそうな、まとまりのない建物で、さまざまな時代に建てられたらしかった。一棟はあきらかにきわめて古く、どっしりした石の柱のある張出し窓が突きだして、つたが生いしげり、その葉かげから、小さな菱形ひしがたの窓ガラスが月光にきらめいていた。邸のほかのところはチャールズ二世の時代のフランス好みの建て方で、友の言うところによれば、それを修理し模様変えをしたのは、彼の祖先で、王政復古のときに、チャールズ二世にしたがって帰国した人だそうだ。建物をとりまく庭園は昔の形式ばった様式にしたがって造園され、人工の花壇、刈りこんだ灌木林、一段高い段、つぼを飾った大きな石の欄干があり、鉛製の像が一つ二つ建ち、噴水もあった。友の老父君は細心の注意をはらって、この古風な飾りをすべて原型のままに保とうとしているということだった。彼はこの造園法をでて、この庭には宏壮な趣があり、上品で高雅であり、旧家の家風に似つかわしいと考えていた。最近の庭園術で自然を得々として模倣する風潮は、現代の共和主義的な思想とともにおこってきたのだが、君主政体にはそぐわない、それには平等主義の臭味がある、というのだった。わたしは、このように政治を庭園術にみちびきいれるのを聞いて微笑ほほえまざるをえなかった。だが、わたしは、この老紳士があまりに頑迷に自分の信条を守りすぎるのではないかという懸念けねんの意を表した。しかし、フランクが受けあって言うには、彼の父が政治をとやかく言うのを聞いたのはほとんどこの時だけで、この意見は、あるとき数週間ほど泊っていった国会議員から借りてきたものにちがいないということだった。主人公は、自分の刈りこんだ水松いちいや、形式ばった高い壇を弁護してくれる議論はなんでも喜んで聞いた。しかし、ときどき現代の自然庭園家に攻撃されることもあるのだった。
 わたしたちが家に近づくと、その一隅から音楽のひびきが聞え、ときおりどっとばかり笑う声がした。ブレースブリッジの言では、これは召使部屋から聞えてくるのにちがいなく、クリスマスの十二日間は、主人が大騒ぎを許し、むしろ奨励さえもしているのだ。ただし、すべてが昔のしきたりによって行われなければならない、ということだ。ここには、いまだに、鬼ごっこや、罰金遊び、目隠し当てもの、白パン盗み、林檎りんご受け、葡萄ぶどうつかみなど、昔の遊戯が行われている。クリスマスの大薪おおまきや、クリスマスの蝋燭ろうそくがきちんと燃され、寄生木やどりぎの白い実がついているのがられ、かわいい女中たちには今にも危険がふりかかりそうになるのだった(原註2)
 召使たちはあまり遊戯に熱中していたので、わたしたちがなんど鐘を鳴らしても、なかなか気がつかなかった。やっとわたしたちの到着が伝えられると、主人がほかの二人の息子といっしょに、出迎えに出てきた。一人は賜暇しかで帰っていた若い陸軍将校で、もう一人はオクスフォード大学の学生で、ちょうど大学から帰ってきたばかりだった。主人は健康そうな立派な老紳士で、銀色のかみの毛はかるく縮れ、快活な赤ら顔をしていた。人相見が、わたしのように、前もって一つ二つ話を聞いていれば、風変りと情ぶかい心とが奇妙にまじりあっているのを見出みいだしたであろう。
 家族の再会はあたたかで愛情がこもっていた。夜も大分遅くなっていたので、主人はわたしたちに旅の衣裳いしょうを着かえさせようとせず、ただちに案内して、大きな古風な広間にあつまっている人たちのところへ連れていった。一座の人たちは大家族の親類縁者で、例によって、年とった叔父や叔母たち、気楽に暮らしている奥さんたち、老衰した独身の女たち、若々しい従弟いとこたち、羽の生えかけた少年たち、それから、寄宿舎住いの眼のぱっちりしたやんちゃ娘たちがいりまじっていた。彼らはさまざまなことをしていた。順番廻りのカルタ遊びをしているものもあり、煖炉だんろのまわりで話をしているものもあった。広間の一隅には若い人たちがあつまっていたが、なかにはもうほとんど大人になりかかったものや、まだうら若いつぼみのような年頃のものもいて、たのしい遊戯に夢中になっていた。また、木馬や、玩具おもちゃのラッパや、壊れた人形が床の上にいっぱい散らかっているのは、かわいらしい子供たちが大ぜいいたあとらしく、楽しい一日を遊びすごして、今は寝床へおいやられて、平和な夜を眠っているのであろう。
 若いブレースブリッジと親戚しんせきの人たちが互いに挨拶あいさつをかわしているあいだに、わたしはこの部屋をしさいに見ることができた。わたしがこれを広間と言ったのは、昔はたしかにこの部屋が広間だったからであり、また、主人はあきらかにもとの形に近いものにもどそうとしていたからである。突きでているがっしりした煖炉の上に、よろいを着て、白い馬のかたわらに立った武士の肖像がかかっており、反対側の壁にはかぶとたてやりが掛けてあった。部屋の一端には巨大な一対の鹿しかの角が壁にはめこんであり、その枝は懸釘かけくぎの役をして、帽子や、鞭や、拍車をつるすようになっていた。そして部屋の隅々には、猟銃や、釣竿つりざおや、そのほかの猟の道具がおいてあった。家具はむかしの重くて荷厄介になりそうなものだったが、現代の便利なものもいくつか加えられていて、かしの木の床には絨毯じゅうたんが敷いてあった。だから、全体としては応接室と広間との奇妙な混ぜあわせといった有様だった。
 広いものものしい煖炉の火格子ひごうしは取りはずしてあり、薪がよく燃えるようにしてあった。その真中に大きな丸太が赤々とほのおをあげ、光と熱とをどんどん発散していた。これがクリスマスの大薪だとわたしは思った。主人はやかましく言って、むかしのしきたり通りにそれを運びこませ、燃させたのだった(原註3)
 老主人が先祖伝来のひじかけ椅子いすに腰かけ、代々客を歓待してきた炉ばたにいて、太陽が周囲の星を照らすように、まわりを見まわして、みんなの心にあたたかみと喜びとを注いでいるのを見るのは、ほんとうにたのしかった。犬さえも彼の足もとに寝そべって、大儀そうに姿勢をかえたり欠伸あくびをしたりして、親しげに主人の顔を見あげ、尾を床の上で振りうごかし、また、からだをのばして眠りこんでしまい、親切に守ってくれることを信じきっていた。ほんとうの歓待には心の奥から輝き出るものがあり、それはなんとも言い表わすことができないが、そくざに感じとれるもので、初対面の人もたちまち安楽な気持ちになるのである。わたしも、この立派な老紳士の快い炉ばたにすわって数分たたないうちに、あたかも自分が家族の一員であるかのようにくつろいだ気分になった。
 わたしたちが着いてしばらくすると、晩餐ばんさんの用意のできたことがしらされた。晩餐は広い樫の木造りの部屋にしつらえられたが、この部屋の鏡板は蝋が引いてあってぴかぴか光り、周囲には家族の肖像画がいくつかひいらぎと蔦で飾られていた。ふだん使うあかりのほかに、クリスマスの蝋燭と呼ばれる大きな蝋燭が二本、常緑木を巻きつけて、よく磨きあげた食器棚の上に、家に伝わった銀の食器といっしょに置いてあった。食卓には充実した料理が豊富にのべひろげられていた。だが、主人はフルーメンティを食べて夕食をすませた。これは麦の菓子を牛乳で煮て、ゆたかな香料を加えたものであり、むかしはクリスマス・イーヴの決まりの料理だった。わたしは、なつかしの肉パイがご馳走の行列のなかに見つかったので喜んだ。そして、それが全く正式に料理されていることがわかり、また、自分の好みを恥じる必要のないことがわかったので、わたしたちがいつも、たいへん上品な昔なじみに挨拶するときの、あのあたたかな気持ちをこめて、その肉パイに挨拶した。
 一座の陽気な騒ぎは、ある奇矯な人の滑稽こっけいによって大いに度を加えた。この人物をブレースブリッジ氏はいつもマスター・サイモンという風変りな称号で呼んでいたが、彼はこぢんまりした、快活な男で、徹頭徹尾独りものの老人らしい風貌ふうぼうをしていた。鼻は鸚鵡おうむくちばしのような形で、顔は天然痘のために少々穴があいていて、そこに消えることのないからびた花が咲いているさまは、霜にうたれた秋の葉のようだった。眼はすばしこくて生き生きしており、滑稽なところがあり、おどけた表情がひそんでいるので、見る人はついおかしくなってしまうのだった。彼はあきらかに家族のなかの頓智家とんちかで、婦人たちを相手に茶目な冗談や当てこすりをさかんに飛ばしたり、昔の話題をくりかえしたりして、この上なくにぎやかにしていた。ただ残念なことに、わたしはこの家の歴史を知らないために、面白がることができなかった。晩餐のあいだの彼の大きな楽しみは、隣りに腰かけた少女に笑いをこらえさせて、しょっちゅう苦しませておくことらしかった。少女は母親が正面に坐ってときどきしかるような眼つきをするのがこわいのだが、おかしくてたまらなかったのだ。じっさい、彼は一座のうちの若い人たちの人気者であり、彼らは、この人が言うこと、することに、いちいち笑いこけ、彼が顔つきをかえるたびに笑った。わたしはそれももっともだと思った。彼は、若い連中の眼には百芸百能の驚異的な人間に見えたにちがいないのである。彼は、パンチとジュディの人形芝居の真似まねもできたし、焼けたコルクとハンカチを使えば、片手でおばあさんの人形をつくってみせることもできた。そしてまた、オレンジを面白い恰好かっこうに切って、若い人たちを息がとまるほど笑わせることもしたのである。
 フランク・ブレースブリッジが簡単に彼の経歴を話してくれた。彼は独身で、もう年とっており、働かずに資産から入ってくる収入はわずかだったが、なんとかうまくやりくりして、必要なものはそれで間に合わせていた。彼が親類縁者を歩きまわるのは、気まぐれな彗星すいせいが軌道をぐるぐるあちこちにまわるようなもので、ある親戚を訪れたかと思うと、次には遠くはなれた別の親戚のところに行くのだった。イギリスの紳士は、厖大ぼうだいな親族をもっていて、しかも財産は少ししかないとなると、よくこういうことをするのだ。彼の気質は賑かで、浮き浮きしており、いつもそのときそのときを楽しんでいた。それに、住む場所も交際の仲間も頻繁にかわるので、ふつうの独りものの老人に無慈悲にも取りつく、例の意地悪で偏屈な癖をつけずにすんでいた。彼は一門の完璧かんぺきな年代記のようなものであり、ブレースブリッジ家全体の系図、来歴、縁組に精通していたから、年とった連中にはたいへん好かれていた。彼は老貴婦人や、老いこんだ独身女たちの相手役となっていたが、そういう婦人たちのあいだでは、彼はいつもまだまだ若い男だと考えられていた。それに、彼は子供たちのなかでは、遊戯の先生だった。そのようなわけで、彼が行くところ、サイモン・ブレースブリッジ氏よりも人気のある男はなかった。近年は、彼はほとんどこの主人のところに住みきりになっていて、老人のために何でも屋になっていたが、とりわけ主人を喜ばしたのは、昔のことについて主人の気まぐれと調子をあわせたり、古い歌を一くさりもちだしたりして、どんな場合にも必要に応じたことだった。わたしたちは間もなく、この最後に述べた彼の才能の見本に接することができた。夕食が片づけられ、クリスマスに特有な、香料入りの葡萄酒や、ほかの飲みものが出されると、ただちに、マスター・サイモンに頼んで、昔なつかしいクリスマスの歌を歌ってもらうことになったのである。彼は一瞬考えて、それから、眼をきらきらさせ、まんざら悪くない声で、といっても、ときに裏声になって、裂けた葦笛あしぶえの音のようになったが、面白い昔のうたをうたいだした。

さあさ、クリスマスだ。
太鼓をならし、
近所の人を呼びあつめよう。
みんなが来たら、
馳走ちそう食べて、
風もあらしも追い出そう……云々うんぬん

 晩餐のおかげで、みな陽気になった。竪琴たてごとひきの老人が召使部屋から呼ばれてきた。彼は今までそこで一晩じゅうかきならしていて、あきらかに主人の自家製の酒をんでいたらしかった。聞くところによると、彼はこの邸の居候いそうろうのようなもので、表むきは、村の住人だが、自分の家にいるときよりも、地主の邸の台所にいるほうが多かった。それというのも老紳士が「広間の竪琴」の音が好きだったからである。
 舞踊は、晩餐後のたいていの舞踊のように、愉快なものだった。老人たちのなかにもダンスに加わる人がおり、主人自身もある相手と組んで、幾組か下手しもてまで踊って行った。彼の言うには、この相手と毎年クリスマスに踊り、もうおよそ五十年ばかりつづけているということだった。マスター・サイモンは、昔と今とをつなぐ一種ののようには見えたが、やはりその才芸の趣味は多少古めかしいようで、あきらかに自分の舞踊が自慢であり、古風なヒール・アンド・トウやリガドゥーンや、そのほかの優雅な技をしめして信用を博そうと懸命になっていた。しかし、彼は不幸にして、寄宿舎から帰ってきたお転婆娘てんばむすめと組んでしまった。彼女はたいへん元気で、彼をいつも精一杯にひっぱりまわし、せっかく彼が真面目まじめくさって優美な踊りを見せようとしたのに、すっかり駄目になってしまった。古風な紳士というものは不幸にしてとかくそういう釣合いの悪い組をつくるものである。
 これに反して、若いオクスフォードの学生は未婚の叔母を連れて出た。この悪戯いたずら学生は、叱られぬのをよいことにして、ちょっとしたわるさをさんざんやった。彼は悪戯気たっぷりで、叔母や従姉妹いとこたちをいじめては喜んでいた。しかし、無鉄砲な若者の例にもれず、彼は婦人たちにはたいへん好かれたようだった。舞踊している人のなかで、いちばん興味をひいた組は、例の青年将校と、老主人の保護をうけている、美しい、はにかみやの十七歳の少女だった。ときどき彼らはちらりちらりと恥ずかしそうに眼をかわしているのをわたしはその宵のうちに見ていたので、二人のあいだには、やさしい心がはぐくまれつつあるのだと思った。それに、じっさい、この青年士官は、夢見る乙女心をとらえるにはまったくぴたりとあてはまった人物だった。彼は背が高く、すらりとして、美男子だった。そして、最近のイギリスの若い軍人によくあるように、彼はヨーロッパでいろいろなたしなみを身につけてきていた。フランス語やイタリア語を話せるし、風景画を描けるし、相当達者に歌も歌えるし、すばらしくダンスは上手だった。しかも、とりわけ、彼はウォータールーの戦で負傷しているのだ。十七歳の乙女で、詩や物語をよく読んでいるものだったら、どうして、このような武勇と完璧とのかがみをしりぞけることができようか。
 舞踊が終ると、彼はギターを手にとり、古い大理石の煖炉にもたれかかり、わたしにはどうも、わざとつくったと思われるような姿勢で、フランスの抒情じょじょう詩人が歌った小曲をひきはじめた。ところが、主人は大声で、クリスマス・イーヴには昔のイギリスの歌以外はめるように言った。そこで、この若い吟遊詩人はしばらく上を仰いで、思いだそうとするかのようだったが、やがて別の曲をかきならしはじめ、ほれぼれするようなやさしい様子で、ヘリックの「ジュリアにささげる小夜曲さよきょく」を歌った。

蛍はその眼を君に貸し、
流れる星は君にともない、
妖精ようせいたちも
小さな眼を
火花のように輝かして、君を守る。

鬼火は君を迷わさず、
蛇も、とかげも、君をまない。
かまわずに進みたまえ、
足をとめずに。
ものだって君をおどろかしはしない。

暗闇くらやみなどにたじろいではいけない。
月がまどろんでも、
夜の星が
君に光を貸してくれる。
数知れぬ蝋燭ろうそくのひかるように。

ジュリアよ、君にいおう。
こうして、ぼくのもとへ来たまえと。
そして、君の銀のような足を
迎えたら、そのとき
ぼくの心を君にそそごう。

 この歌は、あの美しいジュリアのために捧げられたのかもしれないし、あるいはそうでなかったかもしれない。彼のダンスの相手がそういう名だということがわかったのだ。しかし、彼女はそのような意味にはたしかに気がつかなかったらしい。彼女は歌い手のほうを見ず、床をじっと見つめていた。じじつ、彼女の顔は美しくほんのりと赤く染まっていたし、胸はしずかに波うっていた。しかし、それはあきらかにダンスをしたためのことだった。じっさい、彼女は全く無関心で、温室咲きのすばらしい花束をつまんではきれぎれにして面白がっていた。そして、歌がおわるころには、花束はめちゃめちゃになって床に散っていた。
 一座の人たちはついにその夜は散会することになり、昔流の、心のこもった握手を交わした。わたしが広間をぬけて、自分の部屋に行くとき、クリスマスの大薪おおまきの消えかかった燃えさしが、なおもほの暗い光を放っていた。もしこの季節が「亡霊もおそれて迷い出ない」ときでなかったら、わたしは真夜中に部屋から忍び出て、妖精たちが炉のまわりで饗宴きょうえんをもよおしているのではないかとのぞき見したい気になったかもしれない。
 わたしの部屋はやしきの古いほうの棟にあり、どっしりした家具は、巨人がこの世に住んでいた時代につくられたものかもしれないと思われた。部屋には鏡板が張ってあり、なげしにはぎっしりと彫刻がしてあり、花模様や、異様な顔が奇妙にとりまぜられていた。そして、黒ずんだ肖像画が陰気そうに壁からわたしを見おろしていた。寝台は色あせてはいたが、豪華な紋緞子もんどんすで、高い天蓋てんがいがついており、張出し窓と反対側の壁のくぼみのなかにあった。わたしが寝台に入るか入らないうちに、音楽の調べが窓のすぐ下の大気からきおこったように思われた。わたしは耳をそばだて、楽隊が演奏しているのだとわかった。そして、その楽隊はどこか近くの村からやってきた夜の音楽隊であろうと思った。彼らは邸をぐるりと廻ってゆきながら、窓の下で演奏していた。わたしはカーテンをあけて、その音楽をもっとはっきり聞こうとした。月の光が窓の上の枠から流れこみ、古ぼけた部屋の一部を照らしだした。音楽はやがて去ってゆき、やわらかに夢のようになり、夜の静寂と月の光とに溶けあうような気がした。わたしは耳をそばだてて、聞き入った。音はいよいよやさしく遠くなり、次第に消え去ってゆくにつれ、わたしの頭はまくらに沈み、そして、わたしは眠りこんでしまった。

原註1 一六二二年発行、ピーチャム著「紳士亀鑑きかん」。
原註2 寄生木やどりぎは今でもクリスマスには農家や台所につるされる。若い男は、その下で女子に接吻せっぷんする権利があり、そのたびに木から実を一つ摘みとる。実が全部なくなってしまうと、この権利は消失する。
原註3 「クリスマスの大薪おおまき」は大きな丸太で、ときには木の根を使うこともある。クリスマス・イーヴに、たいへん仰々しく儀式ばって家に運びこまれ、炉に据えて、昨年の大薪の燃えさしで火をつける。それが燃えているあいだは、大いに飲み、歌い、物語が話される。これといっしょにクリスマスの蝋燭ろうそくがともされることもあるが、農家では、その大薪の燃える赤いほのおのほかにあかりはつけない。クリスマスの大薪は一晩じゅう燃えていなければならない。もし消えたら、不吉のしるしであると考えられていたのである。
 ヘリックはその歌の一つにこの大薪のことを歌っている。

さあ、大声あげて持ってこい。
クリスマスの大薪を
みんな、たのしく炉に運べ。
そうすりゃ、かみさんは、
おまえたちに、くつろいで、
心ゆくまで飲め、という。

 クリスマスの大薪は、今もイギリスの多くの農家や台所で燃すのだが、特に北部のほうが盛んである。百姓のあいだには、この大薪についていくつかの迷信がある。もしそれが燃えているあいだに、すがめの人か、あるいは、裸足はだしの人がはいってきたら、不吉の前兆とされている。クリスマスの大薪の燃えさしは大切にしまっておいて、翌年のクリスマスの火をつけるのに使われる。





底本:「スケッチ・ブック」新潮文庫、新潮社
   1957(昭和32)年5月20日発行
   2000(平成12)年2月20日33刷改版
入力:砂場清隆
校正:noriko saito
2021年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード