星野くんの二塁打

吉田甲子太郎





 当たりそこないの飛球ひきゅうが、ふらふらと遊撃手ゆうげきしゅの頭上をこえていった。左翼手さよくしゅが、もうれつないきおいでつっこんできた。だが、球は、その一メートルばかりまえにポトリと落ちた。
 アール町の応援団おうえんだんは、「わあっ。」と、わきたった。
 まったく、ひろいもののヒットである。
 アール町の少年野球団やきゅうだんアールクラブは、一回に一点、二回に一点を入れて、二点の勝ちこしのまま、相手あいての、ティー市少年野球団やきゅうだんティークラブを六回まで無得点むとくてんにおさえてきた。ところが、七回のおもてに、いっきょ、その二点を取りかえされ、同点に追いこまれてしまった。こうなると、アールクラブの選手せんしゅたちは、追われる者の心ぼそさを感じないわけにはいかない。延長戦えんちょうせんに持ちこまれそうな不安ふあんをいだきはじめていた。
 そこへ、七回のうら、アールクラブの最後さいご攻撃こうげきで、最初さいしょの打者、岩田いわたが、安打で一るいに出たのだ。応援団おうえんだんが色めきたったのもむりはない。
 よし、ここで一点。その一点で、勝敗しょうはいがきまるのだ。アールクラブの選手せんしゅたちの顔は、急に明るくなった。郡内ぐんない少年野球やきゅう選手権大会せんしゅけんたいかいの、出場チームになることができるかもしれない。
 八番打者、投手の星野ほしのが、先のほうを四分の一ほど黒くぬった愛用あいようのバットをさげて、バッターボックスへはいろうとした。だが、そのとき、伝令でんれいがきて、かれはベンチへよばれた。
 一るいでは、ランナーの岩田いわたが足をそろえて、ぴょん、ぴょんと、はねている。足ならしをして、走塁そうるい準備じゅんびをしているのだ。
 星野ほしのは、それをちらっと見て、ベンチへ行った。キャプテンの喜多きたと、監督かんとくをしている大学生の別府べっぷさんが、かれを待っていた。
星野ほしの岩田いわたをバントで二るいへ送ってくれ。氏原うじはらに打たせて、どうしても確実かくじつに一点かせがなければならないから。」
 別府べっぷさんは、正面から星野ほしのの目を見て、はっきりといった。
 別府べっぷさんがそういうのもむりはなかった。きょうの星野ほしのは、投手としてはかなりできがよかったけれども、打者としては、ふるわなかった。投手ゴロひとつ、三しんひとつ、という不景気ふけいき成績せいせきだ。だが、星野ほしの元来がんらい、よわい打者ではなかった。当たれば、そうとうな大ものをかっばすほうだった。だから、かれは、この三回めの打撃だげきで、名誉めいよ回復かいふくしようと、ひそかにはりきっていたのだ。こんどは、きっと当たる。なんとなく、そういう予感よかんを持っていた。それだけに、かれは、別府べっぷさんのことばにたいして、「はい。」と、すなおな返事がしにくかった。
「打たしてください。こんどは、打てそうな気がするんです。」
「『打てそうな気がする』くらいのことで、作戦さくせんを立てるわけにはいかないよ。ノーダンなんだから、ここは、正攻法せいこうほうでいくべきだ。わかったな。さあ、みんなが待っている。しっかり、やってくれ。」
 ぐずぐずしているわけにはいかなかった。
「はあ。」
 あいまいな返事をして、星野ほしのがひきかえすうしろから、キャプテン喜多きたのひくい声が、追っかけてきた。
「たのんだぞ。星野ほしの。」
 星野ほしのは、明るい、すなおな少年だった。人の意見にさからって、あらそうようなことは、このまなかった。しかし、きょうのバントの命令めいれいにだけは、どうしてもふくしにくかった。安打が出そうな気がしてならないのだ。バントのぎせい打でアウトになるのは、もったいない気がする。
 だが、野球の試合しあいで、監督かんとく命令めいれいにそむくことはできない。星野ほしのは、別府べっぷさんの作戦さくせんどおり、バントで岩田いわたを二るいへ送るつもりでバッターボックスにはいった。


 ティークラブの投手は、なかなか投げない。バッテリー間のサインは、しんちょうをきわめた。
 やっと、サインがきまって、投手がプレートをふんだ。
 ランナーの岩田いわたは足の早い選手せんしゅではなかった。だから、なるべくるいからはなれて、走塁そうるい有利ゆうり態勢たいせいをとろうとした。
 投手は、ランナーのほうにも、じゅうぶん、注意をはらっている。
 ランナーは、じりじりと、るいをはなれはじめた。
 あっ、少し出すぎた……。バッターボックスにいる星野ほしのがそう思うのと同時に、投手は一るいのようなたまを送った。あぶない。岩田いわたは、すなけむりをあげて、るいへすべりこんだ。
 るいしんは、手のひらを下にして、両手をひろげている。セーフ! あぶなく助かったのだった。一るいのコーチャーが、大声でランナーに何かいっている。
 岩田いわたのはりきった動作を見ているうちに、星野ほしのの打ちたい気持ちが、また、むくむくと頭をもたげてきた。
 ――打てる。
 きっと打てる。
 確実かくじつにヒットが打てさえすれば、むりにバントをするにはおよばない。
 かれは、しせいを少しかえた。心もち、またを大きく開いて、左足を、ちょっとまえへ出した。とたんに、投手が第一球を投げこんできた。予想よそうどおりのつりだま。しかし、星野ほしののもっともすきな近めの高い直球ちょっきゅう……。
 星野ほしのは、大きくふった。
 当たった……。バットのまん中に当たったボールは、ぐうんとのびて、二るい遊撃ゆうげきの間をぬくあざやかなヒットになった。中堅手ちゅうけんしゅてんてんするボールを追って、やっと、とらえた。そのまに、ランナーは、二るい、三るい
 ヒット! ヒット! 二塁打るいだだ。
 アール町の応援団おうえんだんそうだちになった。ぼうしを投げあげる気の早い者もある。
 ボールは、やっと、投手のグローブにかえった。
 星野ほしのは、二るいの上に直立ちょくりつして、両手をこしに当てて、場内を見まわした。だが、このとき、星野ほしのは、別府べっぷさんがにがい顔をして、ベンチからかれのほうを見ていることには、気がつかなかった。
 星野ほしのの一げきは、アールクラブの勝利しょうり決定的けっていてきにした。九番打者の氏原うじはらが、右翼うよくに大飛球ひきゅうをあげ、それがぎせい打になって、岩田いわたがホームインしたからである。
 アールクラブの郡内ぐんない野球選手権大会せんしゅけんたいかい出場は確定かくていし、星野仁一ほしのじんいちは、この試合しあい英雄えいゆうとなった。


 郡内ぐんない少年野球選手権大会せんしゅけんたいかいの日どりは、さしせまっていた。だから、星野ほしのたちのチームは、自分の地区ちくからの出場権しゅつじょうけんをかくとくした試合しあいのあくる日も、練習れんしゅうを休まなかった。選手せんしゅたちは、定められた午後一時に、町のグラウンドに集まって、やけつくような太陽たいようの下で、かたならしのキャッチボールをはじめた。
 そこへ、監督かんとく別府べっぷさんがすがたをあらわした。選手せんしゅたちは、別府べっぷさんのまわりに集まって、めいめい、ぼうしをぬいで、あいさつをした。
 キャプテンの喜多きたは、いつものとおりに、打撃だげき練習れんしゅうをはじめるものと思って、バットを取りにいった。別府べっぷさんは、喜多きたからバットを受け取ると、
「みんな、きょうは、少し話があるんだ。こっちへきてくれないか。」
といって、大きなカシの木かげにいって、あぐらをかいた。
 選手せんしゅたちは、別府べっぷさんのほうを向き、半円をえがいて、あぐらをかいた。
「みんな、きのうは、よくやってくれたね。おかげで、アールクラブは待望たいぼう選手権大会せんしゅけんたいかいに出場できることになった。おたがいによろこんでいいと思う。ところで、きのうのみんなの善戦ぜんせんにたいして、心からの祝辞しゅくじをのべたいのだが、ぼくには、どうも、それができないのだ。」
 補欠ほけつも入れて十五人の選手せんしゅたちの目は、じっと別府べっぷさんの顔を見つめている。別府べっぷさんの、おもおもしい口調くちょうのそこに、何かよういならないものがあることを、だれもがはっきり感じたからである。
 別府べっぷさんは、ひざの上に横たえたバットを、両手でゆっくりまわしていたが、それをとめて、しずかにことばを続けた。
「ぼくが、監督かんとく就任しゅうにんするときに、きみたちに話したことばを、みんなはおぼえてくれているだろうな。ぼくは、きみたちがぼくを監督かんとくとしてむかえることに賛成さんせいなら、就任しゅうにんしてもいい。町長からたのまれたというだけのことでは、いやだ。そうだったろう、喜多きたくん。」
 喜多きたは、別府べっぷさんの顔をみて、強くうなずいた。
「そのとき、きみたちは、よろこんで、ぼくをむかえてくれるといった。そこで、ぼくは、きみたちとそうだんして、チームの規則きそくをきめたのだ。いったん、きめたいじょうは、それをまもるのが当然とうぜんだと思う。また、試合しあいのときなどに、チームの作戦さくせんとしてきめたことには、ぜったいに服従ふくじゅうしてもらわなければならない、という話もした。きみたちは、これにもこころよく賛成さんせいしてくれた。それで、ぼくも気持ちよくきみたちと練習れんしゅうを続けてきたのだ。おかげで、ぼくらのチームも、かなり力がついてきたと思っている。だが、きのう、ぼくはおもしろくない経験けいけんをしたのだ。」
 ここまで聞いたとき、「これは自分のことかな。」と、星野ほしのはかるい疑問ぎもんをいだいた。けれども、自分が、しかられるわけはないと、思いかえさないではいられなかった。
 ――なるほど、ぼくは、きのう、バントをめいじられたのに、かってに、打撃だげきに出た。それはチームの統制とうせいをやぶったことになるかもしれない。しかし、その結果けっか、ぼくらのチームが勝利しょうりたのではないか……。
 そのとき、別府べっぷさんは、ひざの上のバットをコツンと地面においた。そして、ななめ右まえにすわっている星野ほしのの顔を、正面から見た。
「まわりくどいいい方はよそう。ぼくは、きのうの星野ほしのくんの二塁打るいだが気にいらないのだ。バントで岩田いわたくんを二るいへ送る。これがあのとき、チームできめた作戦さくせんだった。星野ほしのくんは不服ふふくらしかったが、とにかく、それをしょうちしたのだ。いったん、しょうちしておきながら、かってに打撃だげきに出た。小さくいえば、ぼくとのやくそくをやぶり、大きくいえば、チームの統制とうせいをみだしたことになる。」
「だけど、二塁打るいだを打って、アールクラブをすくったんですから。」
と、岩田いわたがたすけぶねを出した。
「いや、いくら結果けっかがよかったからといって、統制とうせいをやぶったことにわりはないのだ。……いいか、みんな、野球は、ただ、勝てばいいのじゃないんだよ。健康けんこうなからだをつくると同時に、団体競技だんたいきょうぎとして、協同きょうどう精神せいしんをやしなうためのものなのだ。ぎせいの精神せいしんのわからない人間は、社会へ出たって、社会をえきすることはできない。」
 別府べっぷさんの口調くちょうねつしてきて、そのほおが赤くなるにつれて、星野仁一ほしのじんいちの顔からは、がひいていった。選手せんしゅたちは、みんな、頭を深くたれてしまった。
星野ほしのくんはいい投手だ。おしいと思う。しかし、だからといって、ぼくはチームの統制とうせいをみだした者を、そのままにしておくわけにはいかない。」
 そこまで聞くと、思わず一同は顔をあげて、別府べっぷさんを見た。星野ほしのだけが、じっとうつむいたまま、石のように動かなかった。
「ぼくは、こんどの大会に星野ほしのくんの出場をきんじたいと思う。とうぶん、きんしんしていてもらいたいのだ。そのために、ぼくらは大会で負けるかもしれない。しかし、それはやむをえないことと、あきらめてもらうよりしかたがない。」
 星野ほしのは、じっと、なみだをこらえていた。
 ――別府べっぷさんのことばは、ひとつひとつ、もっともだ。自分は、いままでいい気になっていたのだ。
 かれは、しみじみと、そう思わないではいられなかった。
星野ほしのくん、異存いぞんがあったら、いってくれたまえ。」
 別府べっぷさんのことばに、星野ほしのは、なみだで光った目をあげて、はっきりと答えた。
異存いぞんありません。」
 別府べっぷさんを中心とした少年選手せんしゅたちの半円は、しばらく、そのまま、動かなかった。
 ぎらぎらする太陽たいよう光線こうせんが、人かげのないグラウンドに、白くはねかえっていた。





底本:「新版・星野くんの二塁打」大日本図書
   1988(昭和63)年1月31日第1刷発行
底本の親本:「秋空晴れて」大日本図書
   1967(昭和42)年12月
初出:「少年 第2巻第8・9号」光文社
   1947(昭和22)年8月1日発行
※表題は底本では、「星野ほしのくんの二塁打るいだ」となっています。
入力:kompass
校正:noriko saito
2024年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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