歌麿懺悔

江戸名人伝

邦枝完二




        一

「うッふふ。――で、おめえ、どうしなすった。まさか、うしろを見せたんじゃなかろうの」
「ところが師匠ししょう、笑わねえでおくんなせえ。忠臣蔵の師直もろのおじゃねえが、あっしゃア急に命が惜しくなって、はばかりへ行くふりをしながら、ふんどしもしずに逃げ出して来ちまったんで。……」
「何んだって。逃げて来たと。――」
「へえ、面目めんぼくねえが、あの体でめられたんじゃ命がたねえような気がしやして。……」
「いい若え者が何て意気地いくじのねえ話なんだ。どんな体で責められたか知らねえが、相手はたかが女じゃねえか。女に負けてのめのめ逃げ出して来るなんざ、当時彫師ほりしの名折ンなるぜ」
「ところが師匠、お前さんは相手を見ねえからそんな豪勢な口をききなさるが、さっきもいった通り、女はちょうど師匠が前にきなすった、あの北国五色墨ほっこくごしきずみン中の、てっぽうそっくりの体なんで。……」
「結構じゃねえか。てっぽうなんてものは、こっちから探しに行ったって、そうざらにあるもんじゃねえ。憂曇華うどんげの、めぐりあったが百年目、たとえ腰ッ骨が折れたからって、あとへ引くわけのもんじゃねえや。――この節の若え者は、なんて意気地がねえんだろうの」
 背の高い、従って少し猫背の、小肥こぶとりに肥った、そのくせどこか神経質らしい歌麿うたまろは、黄八丈きはちじょうあわせの袖口を、この腕のところまでまくり上げると、五十を越した人とは思われない伝法でんぽうな調子で、縁先に腰を掛けている彫師の亀吉を憐れむように見守った。
 亀吉はまだ、三十には二つ三つがあるのであろう。色若衆いろわかしゅうのような、どちらかといえば、職人向でない花車きゃしゃな体を、きまり悪そうに縁先に小さくして、わしづかみにした手拭で、やたらに顔の汗をこすっていた。
 歌麿は「青楼せいろう十二とき」この方、版下をらせては今古こんこの名人とゆるしていた竹河岸の毛彫安けぼりやすが、森治もりじから出した「蚊帳かや男女だんじょ」を彫ったのを最後に、突然死去して間もなく、亀吉を見出したのであるが、若いに似合わず熱のある仕事振りが意にかなって、ついこの秋口、鶴喜つるきから開板かいはんした「美人島田八景」に至るまで、その後の主立おもだった版下は、殆ど亀吉の鑿刀さくとうたないものはないくらいであった。
 一昨年の筆禍ひっか事件以来、人気が半減したといわれているものの、それでもさすがに歌麿のもとへは各版元からの註文が殺到して、当時売れっ子の豊国とよくに英山えいざんなどを、遥かに凌駕りょうがする羽振りを見せていた。
 きょうもきょうとて、歌麿は起きると間もなく、朝帰りの威勢のいい一九いっくにはいり込まれたのを口開くちあけ京伝きょうでん菊塢きくう、それに版元の和泉屋市兵衛など、入れ代り立ち代り顔を見せられたところから、近頃また思い出して描き始めた金太郎の下絵をそのままにして、何んということもなくうまくもない酒を、つい付合って重ねてしまったが、さて飲んだとなると、急に十年も年が若くなったものか、やたらに昔の口説くぜつが恋しくてたまらなくなっていた。
 そこへ――先客がひと通り立去った後へ、ひょっこり現れたのが亀吉だった。しかも亀吉から前夜浅草おくやまで買った陰女やまねこに、手もなく敗北したという話の末、その相手が、かつて自分が十年ばかり前にいた「北国五色墨ほっこくごしきずみ」の女と、寸分の相違もないことまで聞かされては、歌麿は、若い者の意気地なさをかこつと共に、不思議に躍るおのが胸に手をやらずにはいられなかった。
「亀さん」
 しばし、じっと膝のあたりを見詰ていた歌麿は、突然目を上げると、るように口をゆがませて、亀吉の顔を見つめた。
「へえ。――」
「お前さん今夜ひとつ、おいらを、その陰女やまねこわせてくんねえな」
「何んですって、師匠」
 亀吉は、この意外な言葉に、三角の眼を菱型ひしがたにみはった。
「そう驚くにゃ当るまい。おいらを、お前さんの買った陰女に会わせてくれというだけの話じゃねえか」
冗談じょうだんいっちゃいけません。いくら何んだって師匠が陰女なんぞと。……」
「あッはッは。つまらねえ遠慮はいらねえよ。こっちが何様じゃあるめえし、陰女に会おうがどぶ女郎に会おうが、ちっとだって、驚くこたアありゃしねえ」
「それアそういやそんなもんだが、あんな女と会いなすったところで、何ひとつ、しになりゃアしやせんぜ」
「足しになろうがなるめえがいいやな。おいらはただ、お前のかたきを討ってやりさえすりゃ、それだけで本望ほんもうなんだ」
「あっしの敵を討ちなさる。――じょ、冗談いっちゃいけません。昔の師匠ならいざ知らず、いくら達者でも、いまどきあの女を、師匠がこなすなんてことが。――」
「勝負にゃならねえというんだの」
「お気の毒だが、まずなりやすまい」
「亀さん」
 歌麿は昂然こうぜんとして居ずまいを正した。
「へえ」
「何んでもいいから石町こくちょうつを聞いたら、もう一度ここへ来てくんねえ。勝負にならねえといわれたんじゃ歌麿の名折なおれだ。飽くまでその陰女に会って、お前の敵を討たにゃならねえ」
 おめえの敵と、口ではいっているものの、歌麿の脳裡のうりからは、亀吉の影はうに消し飛んで、十年前に、ふとしたことから馴染なじみになったのを縁に、錦絵にしきえにまで描いて売り出した、どぶ裏の局女郎つぼねじょろう茗荷屋みょうがや若鶴わかづるの、あのはち切れるような素晴らしい肉体が、まざまざと力強く浮き出て来て、何か思いがけない幸福しあわせが、今にも眼の前へ現れでもするような嬉しさが、次第に胸をおおって来るのを覚えた。
「師匠、そいつア本当でげすかい」
「念には及ばねえよ」
「これアどうも、飛んだことになっちまった」
 亀吉は、間伸まのびのした自分の顔を、二三度くるくる撫で廻すと、多少興味を感じながらも、この降っていたような結果に、むしろ当惑の色をまざまざと浮べた。
 が、歌麿に取っては、亀吉がどう考えているかなどは、今は少しの屈托くったくでもないのであろう。断えず込み上げて来る好色心が、それからそれへとうずを巻いて、まだ高々と照り渡っている日の色に、焦慮しょうりょをさえ感じ始めたのであった。
「で、亀さん」
「へえ」
「女はいって、え、いくつなんだ」
「二十四だとか、五だとかいっておりやした」
「二十四五か。そいつアおつだの。男には年がねえが、女は何んでも三十までだ。さっきお前さんのいった北国五色墨ほっこくごしきずみの若鶴という女も、ちょうど二十五だったからの、うッふッふ」
 歌麿の胸には、若鶴の肌が張り附きでもしているような緊張した快感が大きな波を打っていた。大方おおかた河岸かしから一筋ひとすじに来たのであろう。おもてには威勢のいい鰯売いわしうりが、江戸中へひびけとばかり、洗ったような声を振り立てていた。

        二

 今まで五重塔の九輪くりんに、最後の光を残していた夕陽が、いつの間にやら消え失せてしまうと、あれほど人のにぎわってた浅草も、たちまち下闇したやみの底気味悪いばかりに陰をくして、襟を吹く秋風のみが、いたずらに冷々ひえびえはだでて行った。
 燃えるようなまなざしで、馬道裏うまみちうらの、路地の角にる柳の下にったのは、せいの高い歌麿と、小男の亀吉だった。亀吉は麻の葉の手拭で、頬冠ほおかぶりをしていた。
「じゃア師匠ししょう、夢にもあっしの知合しりあいだなんてことは、いっちアいけやせんぜ。どこまでも笊屋ざるやとらに聞いて来た、ということにしておくんなさらなきゃ。――」
「安心しねえ。お前のような弱虫の名前を出しちゃ、こっちのはじンならア」
「ちぇッ、面白くもねえ。もとはといやア、あっしが負けて来たばっかりに、師匠の出幕でまくになったんじゃござんせんか」
「いいから置いときねえ。かたきはとってやる」
「長屋は奥から三軒目ですぜ」
合点がってんだ。名前はおちか。――」
「おっと師匠、莨入たばこいれが落ちやす」
 が、歌麿はもう二三歩、路地の溝板どぶいたを、力強くんでいた。
 亀吉が頬冠りの下から、闇をすかして見ている中を、まっしぐらに奥へ消えて行って歌麿は、やがて、それとおぼしい長屋の前で足をめたが、間もなく内から雨戸をあけたのであろう。ほのかに差したあかりの前に、仲蔵まいづるやに似た歌麿の顔が、うつのように黄色く浮んだ。
「おや、何か御用ですかえ」
 それはまさしく、お近のお袋の声だった。
「ちっとばかり、お近さんに用ありさ。――まア御免よ」
 ただそれだけいって、駐春亭ちゅうしゅんていの料理の笹折ささおりをぶらげた歌麿の姿は、雨戸の中へ、にゅッと消えて行った。
「いけねえ。師匠はやっぱりれている。――」
 茫然ぼうぜんと見守っていた亀吉は、歌麿の姿が吸いこまれたのを見定めると、嫉妬しっとまじりの舌打を頬冠りの中に残して、元来もとき縁生院えんじょういん土塀どべいの方へ引返した。
 中へはいった歌麿は、如才じょさいなく、お袋に土産物みやげものを渡すが否や、いっぱしの馴染なじみでもあるかのように、早くも三畳のへ上り込んでしまったが、それでもさすがに気が差したのであろう、ふところから手拭を取出して、ひたいににじんだ汗を拭くと、立ったまま小声で訊ねた。
「お近さんは留守かい」
「いやだよ。そんな大きな眼をしてながら、よく御覧なね。その屏風びょうぶの向うに、芋虫いもむしのように寝てるじゃないか」
「芋虫。――うん、こいつア恐れ入った」
 なるほど、お袋のいった通り、次のの六畳の座敷に、二枚おりの枕屏風にかこまれて、薩摩焼さつまやきの置物をころがしたように、ずしりと体を横たえたのが、亀吉のう「五色墨」なのであろう。昼間飲んだ酒に肥ったおのが身を持てあましていると見えて、真岡もうか木綿もめん浴衣ゆかたに、細帯をだらしなく締めたまま西瓜すいかをならべたような乳房もあらわに、ところ狭きまで長々と寝そべっている姿が、歌麿の目にえいじた。
「お近さん」
「え。――」
 突然聞きれない男の声で呼び起されたお近は、びくッとして歌麿の顔を見つめた。
「よく内にいたの」
「お前さん、誰さ」
「ゆうべおめえに可愛がってもらった、あの亀吉の伯父だ」
「え、あの人の伯父さんだって」
「そうよ。そんなにびっくりするにゃ当らねえ。なぜおれの甥を可愛がってくれたと、物言いをつけに来たわけでもなけりゃ、遊んだ銭を返してもらいに来た訳でもねえんだ。おまえに、ちっとばかり頼みがあって、わざわざ駐春亭ちゅうしゅんていの料理まで持って出かけて来たくれえだからの」
「おや、何んて酔狂すいきょうな人なんだろう。あたしのような者に、頼みがあるなんて。――」
 そういいながら、ようやく起き上ったお近はべたりととんびあしに坐ると、穴のあくほど歌麿の顔を見守った。
「おかしいか」
「そうさ。あたしゃお前さんが思ってるほど、たよりになる女じゃあないからねえ」
「うん、その頼りにならねえところを見込んで頼みに来たんだ。――それ、少ねえが、礼は先に出しとくぜ」
 親指の爪先つまさきから、はじき落すようにして、きーんと畳の上へ投げ出した二分金ぶきんが一枚、れたへりの間へ、将棋しょうぎの駒のように突立った。
「おや、それアお前さん、二分じゃないか」
 お近は手にしていた煙管きせる雁首がんくびで、なま新らしい二分金を、手許てもときよせたが、多少気味の悪さを感じたのであろう。手には取らないでそのまま金と歌麿の顔とを、四分六分にじっと見つめた。
「どうだの。ひとつ、頼みを聞いちゃくれめえか」
「さアね。大籬おおまがき太夫衆たゆうしゅうがもらうような、こんな御祝儀を見せられちゃ、いやだともいえまいじゃないか。だがいったい、見ず知らずのお前さんの、頼みというのは何さ。あたしの体で間に合うことならいいが、観音様の坊さんを頼んで、鐘搗堂かねつきどうかねをおろして借りたいなんぞは、いくら御祝儀をもらっても、滅多めったに承知は出来ないからねえ」
ねえさん、おめえ、なかなか洒落者しゃれものだの」
「おだてちゃいけないよ」
「おだてやしねえが、観音様の鐘は気に入った。だが、おいらの頼みはそんなんじゃねえ。観音様の鐘のように大きいおめえの体を、二時ふたときばかりままにさせてもらいてえのよ」
「あたしの体を。――」
「そうだ。うわさたがわず素晴らしいその鉄砲乳が無性むしょうに気に入ったんだ。年寄だけが不足だろうが、さりとて何も、おめえをいて寝ようというわけじゃねえ。ただおめえが、おいらのいう通りにさえなってくれりゃ、それでいいんだ。――どうだの、お近さん。ひとつ、色よい返事をしちゃアくれめえか」
 ぐっと一膝ひとひざ乗り出した歌麿の眼は、二十の男のような情熱に燃えて、ともすれば相手の返事も待たずに、その釣鐘型の乳房へ、手をれまじき様子だった。
「ほほほ。あらたまっていうから、どれほどむずかしい頼みかと思ったら、いっそ気抜けがしちまったよ。二時ふたときでも三時みときでも、あたしの体でりる用なら気のすむまで、ままにするがいいさ」
「うむ、そんなら、承知してくれるんだな」
「あいさ、承知はするよ。だがお前さん、抱いて寝ようというんでなけりゃ、どうする気なのさ。まさかあたしのこの乳を、切って取ろうというんじゃあるまいね」
「うふふ、つまらぬえ心配はしなさんな。命に別条べつじょうはありゃアしねえ。ただおめえに、そのままぱだかになってもらいてえだけさ」
「ええ裸になる。――」
「きまりが悪いか。今更きまりが悪いもなかろう。――十年振りで、おまえのような体の女にめぐり合ったは天のたすけ、思う存分、その体を撫で廻しながら、この紙にかしてもらいてえのが、おいらの頼みだ」
「そんならお前さんは、絵師えかきさんかえ」
「まアそんなものかも知れねえ」
「面白くもない人が飛込んで来たもんだねえ。あたしの体は枕絵まくらえのお手本にゃならないから、いっそ骨折損だよ」
 しかし、そういいながらも、ぬっと立上った女は、枕屏風を向うへ押しやると、いきなり細帯をするするといて、歌麿の前に、さっ浴衣ゆかたぎすてた。
「さ、はやくどッからでも勝手にいたらどう」
 おそらく昼間飲んだ酒のよいを、そのまま寝崩れたためであろう。がっくりと根の抜けた島田まげは大きく横にゆがんで、襟足えりあしに乱れた毛の下に、ねっとりにじんだ脂汗あぶらあせが、げかかった白粉を緑青色ろくしょういろに光らせた、その頸筋くびすじから肩にかけてのまぐろの背のように盛り上った肉を、腹のほうから押し上げて、ぽてりと二つ、憎いまで張り切った乳房のふてぶてしさ。しかも胸の山からそのまま流れて、腰のあたりで一度大きく波を打った肉は、膝への線を割合にすんなり見せながら、体にしては小さい足を内輪に茶色に焼けた畳表を、やけに踏んでいるのだった。
「どうしたのさ、お前さん、早く描かなきや、行燈あんどんの油が勿体もったいないじゃないか」
 が、歌麿は腰の矢立を抜き取ったまま、視線を釘附くぎづけにされたように、お近の胸のあたりを見つめて動こうともしなかった。
「ちぇッ、なんて意気地がない人なんだろう」
 そういって女が苦笑した刹那せつなだった。入口の雨戸が開いたと思う間もなく「おや、これは旦那」というお袋の声が聞えたが、すぐに頭の上で、追っかぶせるように、「こいつアめずらしい、歌麿だな」という皮肉な男の声が、いきなり歌麿の耳朶じだふるわせた。
「あッ。――」
「まア待ちねえ。逃げるにゃ及ばねえ」
「へえ。――」
 しかし、こう答えた時の歌麿は、もはや入口のしきいまたいで、路地の溝板どぶいたんでいた。
「か、駕籠屋かごや。か、茅場町かやばちょうだ。――」
 跣足はだしの歌麿は、通りがかりの駕籠屋を呼ぶにさえ、満足に声が出なかった。

        三

 自分の家の畳の上に坐って、雇婆やといばばあんでくれた水を、茶碗に二杯立続けに飲んでも、歌麿は容易に動悸どうきがおさまらなかった。
 あの顔、あの声、あの足音。――それは如何いかに忘れようとしても、忘れることの出来ない、南町奉行みなみまちぶぎょう同心どうしん、渡辺金兵衛の姿なのだ。――
「つね。おもての雨戸の心張しんばりを、固くして、誰が来ても、決して開けちゃならねえぞ」
「はい」
「酒だ。それから、速く床をひいてくんねえ」
 まごまごしている雇婆をてて、ひやのままの酒を、ぐっと一息にあおると、歌麿の巨体は海鼠なまこのように夜具の中に縮まってしまった。
「ああいやだ。――」
 もう一度、ぶるぶるッと身をふるわせた歌麿は、何とかして金兵衛の姿を、眼の先から消そうとつとめた。が、そうすればする程、かえってあの鬼のような金兵衛の顔は、まざまざと夜具の中の闇から、歌麿の前に迫るばかりであった。
「もう二度と、白洲しらす砂利じゃりみたくねえ」
 歌麿は誰にいうともなく、おがむようにこういって、を合せた。
 その記憶は、五十日の手錠てじようの刑にった、あの一昨年の一件に外ならなかった。

 つばくろの白い腹がひらりとひとつ返る度毎に、空の色が澄んでくる、五月のなかばだった。前夜画会がかいくずれから、京伝きょうでん蜀山しょくさん、それに燕十えんじゅうの四人で、深川仲町なかちょう松江まつえで飲んだ酒がめ切れず、二日酔の頭痛が、やたらに頭を重くするところから、おつねに附けさせた迎い酒の一本を、寝たままこれから始めようとしていたあの時、格子の手触てざわりも荒々しく、案内も乞わずに上って来た家主の治郎兵衛は、歯の根も合わぬまでに、あわてて歌麿の枕許へにじり寄った。
「これはどうも。――」
 歌麿は家主の顔を見ると同時に、唯事でないのを直感したもののそれにしても何んのことやらわけがわからず、重い頭を枕から離すと棒を呑んだように、布団の上に起き直った。
「大層お早くから、どんな御用で。――」
「歌麿さん」
 治郎兵衛は、まず改めて歌麿の名を呼んでから、ごくりと一つ固唾かたずを飲んだ。
「へえ」
「お前さん、お気の毒だが、これから直ぐに、わたしと一緒にお奉行所まで、行ってもらわにゃならねえんだが。……」
「奉行所へ」
「うむ」
「何かの証人にでもばれますんで。――」
「ところが、そうでないんだ。お前さんのことで、今朝方、自身番から差紙さしがみが来たんだ」
「え、あっしのことで。――」
 歌麿は、治郎兵衛の顔を見詰みつめたまま、二の句がつげなかった。
「名主さんや月番の人達も、みんなもう、自身番で待ってなさる。どんな御用でお前さんが招ばれるのか、そいつはわたし達にもわからないが、おかみからのお呼び出しだとなりゃア、どうにも仕方がない。お気の毒だが、早速支度をして、わたしと一緒に行っておくんなさい」
「――――」
「外のことと違って、行きにくいのはお察しするが、どうもこればかりは素直に行ってもらわねえじゃア。……」
「へえ。――」
 素直に。――それをいま、改めていわれるまでもなかった。生れて五十一年の間、悪所通あくしょがよいのしたい放題ほうだいはしたし、なみの道楽者の十倍も余計に女のはだを知りつくして来はしたものの、いまだ、ただの一度もさいを争ったことはなし、まして人様の物を、ちり一本でも盗んだ覚えは、露さらあるわけがなかった。さればこれまで、奉行所はおろか、自身番の土さえまったく踏んだことがなく、わずかに一度、落した大事な莨入たばこいれを、田町の自身番からの差紙で、取りに来いといわれた時でさえ、病気と偽って弟子の秀麿を代りにやったくらい。好きなところは吉原で、きらいなところはお役所だといつも口癖くちぐせのようにいっていたから察しても、大概たいがいその心持は、わかり過ぎるほどわかっている筈だった。
 その歌麿に、ところもあろうに、町奉行からの差紙は、何んとしても解せない大きななぞであった。歌麿は、夢に夢見る心持ここちで胸を暗くしながら、家主の指図に従って、落度のないように支度を整えると、人に顔を見られるのさえ苦しい思いで、まず自身番まで出向いて行った。
 自身番には、治郎兵衛のいった通り、名主の幸右衛門と、その他月番の三人が、暗い顔を寄せ合って待っていた。幸右衛門は、歌麿の顔を見ると、慰めるように声をかけた。
「飛んだことでお気の毒だが、これア、何かおかみの間違いに違いあるまい。お前さんのようなお人がかりにもお奉行所へ呼び出されるなんてことは、ほんとの災難だ。――だが心配は無用にさっしゃい。天に眼あり。決して正直な者が罪におちるようなことはありゃアしねえからのう」
 口の先では強いことをいっているものの、町役人達も、さすがにはらの中の不安は隠せなかったのであろう。同心渡辺金兵衛の迎いが、一刻でも遅いようにと、ひそかに祈る心は誰しも同じことであった。
 しかも五月の空はぬぐった如く藍色に晴れ、微風は子燕の羽をそよそよとでていたが、歌麿の心は北国空のように、重く曇ったまま晴れなかった。

        四

 それは正に、夢想むそうもしない罪科であった。
 両国広小路の地本問屋じほんどんや加賀屋吉右衛門から頼まれて大阪の絵師石田玉山が筆に成る(絵本太閤記)と同一趣向の絵を描いた、その図の二三がわざわいして、吟味中ぎんみちゅう入牢じゅろう仰付おおせつくといい渡された時には歌麿は余りのことに、あやう白洲しらす卒倒そっとうしようとしたくらいだった。
 死んだような気持で送った牢内の三日間は、娑婆しゃばの三年よりも永かった。――その三日の間に歌麿は、げっそり頬のこけたのを覚えた。
「これからはこわくて、絵筆が持てなくなりやした」
 出牢後、五十日間の手錠てじょう、家主預けときまって、再び己が画室に坐った歌麿は、これまでとは別人のように弱気になって、見舞に来た版元はんもとの誰彼をつかまえては、同じように牢内の恐ろしさを聞かせていたが、そのせいか「八十までは女と寝る」と豪語ごうごしていた、きのうまでの元気はどこへやら、今は急に、十年も年を取ったかと疑われるまでに、身心共におとろえて、一杯の酒さえ目にすることなく、自ら進んで絵の具をこうなどという、そうした気配は、薬にしたくも見られなかった。
 しとしとと雨の降る、午下ひるさがりだった。歌麿はいつものように机にもたれて茫然と、一坪の庭の紫陽花あじさいそそぐ、雨のあしを見詰めていた。と、あわててはいって来たおつねが、来客を知らせて来た。
「どなただか知らねえが、初めての方なら、病気だといって、お断りしねえ」
「ですがお師匠さん、お客様は割下水わりげすいのお旗本はたもと阪上主水さかもともんど様からの、急なお使いだとおっしゃいますよ」
「なに、お旗本のお使いだと」
「そうでござんすよ。是非ともお目に掛って、お願いしたいことがあるとおっしゃって。……」
「どういう御用か知らねえが、お旗本のお使いならなおのこと、こんなざまじゃお目に掛れねえ。――御無礼でござんすが、ふせっておりますからと申上げて、お断りしねえ」
 歌麿の、この言葉が終るか終らないうちであった。「お師匠さん、その御遠慮には及びませんよ」といいながら、庭先の枝折戸しおりどを開けて、つかつかとはいって来たのは、大丸髭まるまげった二十七八の水も垂れるような美女であった。
「これアどうも、こんなところへ。……」
 あわてる歌麿を、女は手早く押し止めた。
「あたしでござんす。おきたでござんす」
「え。――」
 鋭く、くぼんだ眼を上げた歌麿は、その大丸髷が、まがう方なく、かつては江戸随一の美女とうたわれた灘波なにわ屋のおきただと知ると、さすがに寂しい微笑を頬に浮べた。
「おお、おきたさんか。――ここへ何しに来なすった」
「何しにはおなさけない。お見舞に伺ったのでござんす」
 すべるように、歌麿のそばへ坐ったおきたは、如何にもじれったそうに、衰えた歌麿の顔を見守った。――二十の頃から、たまのようだといわれたその肌は、年増盛としまざかりの※(二の字点、1-2-22)いよいよえて、わけてもお旗本の側室そくしつとなった身は、どこか昔と違う、お屋敷風の品さえそなわって、あたか菊之丞きくのじょう濡衣ぬれぎぬを見るような凄艶せいえんさがあふれていた。
 が、歌麿の微笑は冷たかった。
「お旗本のお使いと聞いたから、滅多めった粗相そそうがあっちゃならねえと思って断らせたんだが、なぜまともに、おきただといいなさらねえんだ」
「そういったら、お師匠さんは、会ってはおくんなさいますまい。――永い間の御親切をにして仇し男と、甲州くんだりまで逃げ出した挙句、江戸へ戻れば、阪上様のお屋敷奉公。さぞ憎い奴だと思し召したでござんしょう。――ですがお師匠さん。おきたの心は、やっぱり昔のままでござんす。ふとしたことから、お前さんの今度の災難を聞きつけましたが、そうと聞いては矢もたてたまらず、お目に掛れる身でないのを知りながら、おめんかぶってお訪ねしました。――ほんに飛んだ御難儀、お腰などおさすりしたい心でござんす」
 黙って眼を閉じていた歌麿は、そういってにじり寄ったおきたの手のぬくみを膝許ひざもとに感じた。
「いや、折角せっかくの志しだが、それには及ばねえ。今更お前さんにさすってもらったところで、ひびのはいったおれの体は、どうにもなりようがあるめえからの」
 きのうまでの歌麿だったら、百に一つも、おきたの言葉をこばむわけはなかったであろう。まして七八年前までは、若い者があきれるまでに、命までもと打込んでいた、当の相手のおきたではないか。向うからいわれるまでもなく、直ぐさまおのが膝下へ引寄せずにはおかない筈なのだが、しかし手錠てじょうの中に細った歌麿の手首は、じっと組まれたまま動こうともしなかった。
「お師匠さん」
「――」
「お前さんは、殿様のお世話になっているあたしが、こわくおなりでござんすか」
「そうかも知れねえ。おれアもうお侍と聞くと眼の前が真暗になるような気がする」
「おほほほ、弱いことをおっしゃるじゃござんせんか。そのような楽な手錠なら、はめていないも同じこと、あたしがはずして上げましょうから、いっそさっぱりと。……」
 おきたは如何にも無造作に、歌麿の手錠に手をかけた。
「あ、いけねえ」
「そんな野暮やぼな遠慮は、江戸じゃ流行はやりませんよ」
 ぐいと手錠を逆に引張った刹那せつな、歌麿は右の手首に、刺すような疼痛とうつうを感じたが、忽ち黒い血潮がたらたらと青畳を染めた。
「あッ」
 さすがにおきたは、驚いて手を放した。
「飛んだことをしてしまいました。――」
 手速く、帯の間から取出したふところ紙は、血のにじんだ歌麿の手首にからみついていた。
「お痛うござんすか」
「――」
「何かお薬でも。……」
 が、歌麿はうつむいたまま、一言も発しなかった。おもてを流して通る簾売すだれうりの声が、高く低く聞こえていた。
「師匠」
「えッ」
 その声に、ぎょっとしておもてを上げた歌麿の、くぼんだ眼にうつったのは、庭先にたたずんだ、同心渡辺金兵衛の姿であった。

        五

 この後、金兵衛の姿は、常に魔の如く、歌麿の脳裡のうりにこびりついて、寸時も消えることがなかった。
 その金兵衛に、ところもあろうに、初めて訪ねた陰女やまねこの家で会ったのだった。跣足はだしのまま逃げた歌麿が、駕籠屋を呼ぶにさえ、満足に口がきけなかったのも、無理ではなかった。
「師匠」
 昨夜の様子を、一刻も速く聞きたかったのであろう。まだつが鳴ってもないというのに彫師ほりしの亀吉は、にやにや笑いながら、画室の障子に手をかけた。
「師匠。――おや、こいつアいけねえ。ゆうべのお疲れでまだ夢の最中さいちゅうでげすね」
 ふところから、かます鉈豆煙管なたまめぎせるを取出した亀吉は、もう一度にやりと笑うと、おつねの出してくれた煙草盆で二三服立続けにすぱりすぱりとやっていたが、頭から夜具やぐかぶった歌麿が、小揺こゆるぎもしないのにいささか拍子抜ひょうしぬけがしたのであろう。しばし口の中で、何かぶつぶつつぶやくと、立って、勝手許にいるおつね婆のほうへ出かけて行った。
「おつねさん。師匠はまだ、なかなか起きそうにもねえから、あっしゃ一寸並木まで、用達ようたしに行って来るぜ」
「亀さんにも似合わない、お師匠さんが、こんなに早くお起きなさらないのは、知れきってるじゃないか」
「知っちゃアいるが、今朝けさばかりは、別だろうと思ってよ」
「そんなことがあるものかね。大きな声じゃいえないが、ゆうべは何か変ったことでもあったと見えて、夢中で駈込かけこんでくると、そのままあたしにとこを取らせて寝ておしまいなんだもの。そう早く起きなさるわけはありやしないよ」
「ふん、だからよ。だからその変ったことのいきさつを、ゆっくり師匠にきてえんだ。――まあいいや。半時ばかりで帰って来るから、よろしくいっといてくんねえ」
 亀吉の足音が、裏木戸の外へ消えてしまうと、おびえた子供のように、歌麿は夜具のえりから顔を出して、あかりを見廻した。
「びっくりさせやがる。こんなに早く来やがって。――」
 のこのこと床からい出した歌麿は、手近の袋戸棚をけると、そこから、寛政かんせい六年に出版した「北国五色墨ほっこくごしきずみ」の一枚を抜き出した。それはゆうべ会った陰女やまねこのお近と寸分も違わない、茗荷屋みょうがや若鶴わかづるの姿だった。
「うむ、ひょっとするとこれやア姉妹きょうだいかも知れねえ。――だが、あいつの肌に、まともにさわもねえうちに、箆棒べらぼうな、あんな野郎が、あすこへ現れるなんて。――」
 歌麿はそういいながら、手にした錦絵を枕許へ置こうとした。と、その瞬間、急に手先のしびれるのを感じた。
「こ、こいつア、いけねえ。――」
 しかし、その語尾は、もはや舌が剛張こわばって、思うようにいえなかった。
「お、つ、ね。――」
 裏返しにされた亀の子のように、歌麿の巨躯きょくは、床の上でじたばたするばかりだった。
「大変ですよ。お師匠さんが大変ですよ」
 おつねが、耳の遠い秀麿を、声限りに呼んでいるのを、歌麿は夢のように聞いていた。
 文化三年九月二十日の、鏡のような秋風が、江戸の大路おおじを流れていた。





底本:「歴史小説名作館8 泰平にそむく」講談社
   1992(平成4)年7月20日第1刷発行
初出:「面白倶楽部」光文社
   1948(昭和23)年4月号
入力:大野晋
校正:noriko saito
2008年10月24日作成
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