汽船が太平洋を横断するまで

服部之総




さてアメリカだ。この国に生じた最も重大な、二月革命よりもっと重大な事実は、カリフォルニヤ金鉱の発見である。発見後せいぜい十八ヶ月の今日、既にこれがアメリカの発見そのものよりも遙かに大規模な結果をもたらすだろうことを思わせる。
――カール・マルクス
一八五〇年一月三十一日

一 扁平な世界


 悲喜劇にはじまった飛行機の太平洋横断は、実現までにどれほど騒々しいジャズの幾場面をもったものかしれないが、これにくらべると汽船のそれは、記録も怪しいくらい忘失された出来事のように見えて、じつははるかに大掛りなメロドラマだった。
 汽船にだって賞金付で騒がれた歴史はある。一八二四年には、一定日数内に英印間を乗切った汽船にたいする八千ポンドの賞金がインドで発表された。そのため四百七十トン百二十馬力の汽船がデットフォードで造られ、翌二五年八月十六日にファルマウスを解纜かいらん、百十三日目にカルカッタに着いた。だが、賞金が出るくらいだから、大洋航路が汽船会社の算盤そろばんに合うのはまだまだのことだった。さてこそ、これと前後して、インド政府に身売のつもりで英国から押渡った汽船ファルコン号は、あわれ生新しい汽罐きかんも両輪もはぎとられて、ただの帆船としてやっと買手がついたという。
 大洋航路の汽船会社は、ようやく三十年代の終頃になって設立された。
東洋航路 The Peninsular & Oriental Steam Navigation Company(P & O), 1837
大西洋航路 The Cunard Company, 1838
太平洋航路 The Pacific Steam Navigation Company, 1840
 だがこれで七つの海にことごとく汽船が通じたと考えてはならない。「太平洋汽船会社」とは名乗っても、実はリヴァープールと南米の太平洋岸チリ、ペルーをつなぐラインで、いにしえのバルボアのように、太平洋をのぞいたというまでのことだ。サザンプトンを起点とする、P&O(彼阿ピーオー)は、スエズを“overland route”で連絡しながら、一八四五年には香港まで延びた。しかし太平洋は依然一隻の汽船も渡らなかった。汽船にとって世界はまだ扁平だった!
 太平洋を横断するための性能がまだ汽船になかったのであるか――昨今までの段階における飛行機のように?
 どうして! すでに一八四三年に三千二百七十トン一千馬力というのが北大西洋に煙を吐いていた。よし両輪パドル船だろうが、低圧の単式機関だろうが、炭庫を広くとりさえすれば、ボイラーの水は六十年代中頃まではふんだんに海水を使っていたのだ。実際これに似た技術条件の下で、英濠間を無寄港で乗切れる一万九千トンの巨船が、五十年代の海に浮んだものである!
 で、渡ろうと思えば――渡るだけのことなら――いつでもできた。しかし、だいいち帆船にしてもが、一八四九年以前には、よくよくの珍しい例外はあったが、米支をつなぐのに太平洋を用いなかった。
 日本開港の日までシナは扁平な世界および世界市場の極東端だった。三十年以来シナ市場は絶間たえまない英米競争の場所だった。一八四二年の五港開放以後、世界経済中に占めるシナ市場の位置――対支貿易の量――は、ことに重要性を帯びてきた。太平天国の乱によってシナ市場が閉鎖されたら欧洲に革命が起る、とマルクスが叫んだほど。
 そのシナの茶とアメリカ人参にんじんの往返が太平洋を忌避し、太平洋が帆船にとっても超ゆべからざる地表の大クレヴァスだったわけというのは――
 第一にアメリカ合衆国が一八四六年までは太平洋岸を所有していなかったこと。
 第二に太平洋岸の米大陸が、一八四八年まで何らの市場を――なによりも人間そのものを約束していなかったことである。

二 カリフォルニア黄金狂時代


 ニューヨークを出た船はケープホーンを廻って太平洋へ首を出すまでには、立派に喜望峯きぼうほうをめぐってインド洋へ出ていられる。インド以東がどんなに遠かろうと、いたるところ商利を約束する港々に満ちているが、太平洋以西はサンフランシスコまで北上したところで、スペイン人の修道館が一つボソリと立っているだけだ。
 ダナが訪れた一八三五年のサンフランシスコは――
「投錨地の付近といわず、およそ湾岸全体、人影一つなかった……ふなべりを猛禽や渡鳥がかすめた。かしの森には野獣の列がゆききしていた。潮に乗ってしずかに湾頭を去らんとするとき、北岸のみぎわに鹿がならんで、いぶかしそうに見送ってくれた」。
 このカリフォルニアが米墨戦争でアメリカに帰してから三年目にあたる一八四八年の一月十日に、ジェームス・W・マーシャルという男が、新領土カリフォルニアのサン・ジョアキン・ヴァレイで、はじめて砂金を発見した。このニュースがニューヨークの新聞に出たのが、実に九月の十六日だというから、もってそれまでのカリフォルニアが、そして一般に太平洋岸がアメリカにとって何ものであったかが察せられるだろう。
 だが一度金鉱発見の報が伝わると、事態はガラリと変ってしまった。電話で、アメリカじゅうに報告される。大統領ポークが十二月には正式に報告する。やがて、熱病的なゴールドラッシュ!
 今日のネブラスカの大豊原は、そのころ「大亜米利加沙漠グレートアメリカン・デザート」だった。その沙塵をあげて、カヴァード・ワゴンの列が、幾万という黄金探索者アルゴノーツを西へ西へと運ぶ。沙漠が果てると山だ。倒れる者、引返す者を棄てて四九年の七月頃には、サクラメント・ヴァレイは羊ならぬアルゴノーツの群で身動きもならぬ景観だ。
 たちまちマサチュセッツ州だけで百二十四もの金鉱会社が生れた。遠くロンドンでも正月中だけで五組のカ州金鉱会社が設立され、資本総額一、二七五、〇〇〇ポンドにのぼった。「極東」のシナ人までこめた世界じゅうの黄金亡者もうじゃが、バラックと二ちょう短銃と砂金袋と悪漢とシェリフの国をつくるべく押寄せた。無人の広野はかくて四九年の末までに約十万の人間を呼集め、うち陸の幌馬車組が五万二千、のこりはことごとくケープホーンに帆を光らせる海のゴールドラッシュである。
 金鉱発見以前、四七年四月から、八年四月までの一年間に大西洋岸から金門湾に入った船はたった四そうだったのが、つぎの一年間には、一躍七百七十五艘に激増した。このなかには後に述べる汽船も若干入っているが、ほとんど帆船で、あり合せのいっさいの船が動員された。そのため太平洋従来の捕鯨業はぱったりになった。そのくせ金門湾には百艘以上の船が繋船されて、病院になったり倉庫になったりホテルに使われたり仮監獄にあてられたり、あるいは空しく荒廃に委されていた。船員がおさらばをきめてゴールドラッシュしたのだ。ついに船員に二百ドルの月給が支給されたが、金鉱夫になるとらくに一日三十ドルになった(もっとも物価の方も、たとえば茶、珈琲コーヒー、砂糖が一ポンド四ドル、靴一足四十五ドル、肝心な金掘道具の鶴嘴つるはしやショベルが五ドルから十五ドル、という有様だった)。
 ざっとこんな海の黄金狂時代のなかから、われわれは二つの新しい現象を見わけることができる。第一は一八四七年に創立され、四九年からニューヨーク・サンフランシスコ間の定期航路を開始した太平洋郵船パシフィック・メイルの汽船航路である。第二は、五〇年末からはじまったいわゆるカリフォルニア・クリッパーの帆船航路であった。
 このうち第二のものは五〇年正月のマルクスの眼には映じていなかった。その正月三十一日にロンドンで書かれたマルクスの国際評論には、四〇年代に名ばかり南太平洋岸に届いた汽船航路の西端が、堂々東太平洋中岸に延びて、近代資本主義世界を円形にすべく、対極広東カントンに向って一大デモンストレーションを行っている新事態が、「アメリカの発見そのものよりも重大な結果」として分析されている。

三 マルクスの評論


 本文冒頭に掲げた句をうけて、マルクスは記している。
「三百三十年の間、太平洋に向うヨーロッパの全商業は、感心すべき気永きながさであるいは喜望峯を、あるいはケープホーンを迂回うかいして行われてきた。パナマ地峡開鑿かいさくの提案はすべてこれまで商民の偏狭な嫉妬心に妨げられて来た。
 カリフォルニア金鉱が発見されてから十ヶ月になるが、すでにヤンキーはメキシコ湾方面から鉄道と大国道と運河の工事(1)に着手した。ニューヨークからチャグレスへ、パナマからサンフランシスコへ、汽船はすでに定期航路についている。太平洋の商業はいまやパナマに集中した。ケープホーン迂回航路は古くなった。
 緯度三十度にわたる海岸、世界で最もうるわしい最も豊饒なそれでいてこれまで無人の境と選ぶところがなかったこの海岸が、みるみる富裕な文明国と化した。ヤンキーからはじめてシナ人、ネグロ、インディアンならびにマレイ人、欧洲系米人クレオーレン黒白混血種メスチーゼンさてはヨーロッパ人にいたるありとあらゆる種類がここに密集した。
 カリフォルニアの金は奔湍ほんたんとなってアメリカ中に、さらに太平洋のアジア沿岸にあふれ出る。そして頑固な蛮民を世界商業に、文明にひきいれる。世界商業のうえに再度新方向が到来した。
 古代でチルス、カルタゴおよびアレキサンドリアが、中世でゼノアとヴェネチア、そしてきょうが日までロンドンとリヴァープールが世界商業の中心であったように、いまやニューヨークおよびサンフランシスコ、サンジュアン・ド・ニカラグアそしてレオン・チャグレスおよびパナマがそれとなるだろう。
 世界交通の重心は中世ではイタリー、近代ではイギリスだったが、今日では北米半島の南半である。旧ヨーロッパの産業と商業は一大奮発の必要がある――もし十六世紀以降のイタリーの産業商業と同じ浮目を見たくなかったら! もしイギリスとフランスが今日のゼノアと同じ運命に立到たちいたりたくなかったら!
 数年ならずしてイングランドからチャグレスへ、チャグレスおよびサンフランシスコからシドニー、広東カントンおよびシンガポールへ、汽船の定期就航を見るにいたるだろう。
 カリフォルニアの金とヤンキーの不撓ふとうの精力のおかげで、太平洋の両岸はたちまちのうちに、今日ボストンからニューオルリーンズにいたる海岸同様の人口を持つこととなり、商業の天地と化するであろう。
 そのときこそ太平洋は、今日大西洋がそして古代中世に地中海が演じた同じ役割を――世界交通の大水路たる役割を演ずることとなるだろう。同時に大西洋は、今日の地中海同様の単なる内海の役割にまで没落してしまうのだ。
 そのときヨーロッパ文明諸国が今日の、イタリー、スペインおよびポルトガルのてつを踏んで産業的、商業的および政治的従属状態に陥らないで済むための唯一のチャンスは、社会革命にある。すなわち、間に合うならば、生産および交通方法を近代的生産諸力から生じつつある生産要求そのものに従って変革し、よってもって新生産諸力の発現を可能にするのである。かくするときはじめてヨーロッパ産業の優越は確保せられ、地理的状態の損失も埋め合わされるにいたるだろう」(『遺稿集』第三巻四四三頁)。
 リャザノフが『シナ・インド論』の序文中に引用する箇所はちょうどこの次の行からであるが、十九世紀の極東市場史なかんずく日本開国問題を考察する場合には、太平洋に関するマルクスのこの予言部分はことに重要である。ここには的確な予言とともに、一八四八年を見送った偉大なる革命家の心情もまた吐露されている。だがカリフォルニアの金鉱を契機として方向を規定されたアメリカの繁栄にもかかわらず、ヨーロッパの革命を迎えることもなく英国がその優越を保持しえたについては、五〇年のマルクスにも、いわんやいかなるマルクス批判家にも、予見できないその後の原因があった。それはともかく、事態は数年の間ことごとくマルクスの予言を実現していった。そしてその途上に、日本開国問題が横たわっていた。

四 米国海軍委員会の報告


 パナマ地峡で連絡されたニューヨーク・サンフランシスコ間の太平洋郵船パシフィック・メイルは、四九年二月の処女航路以来非常な景気だった。「パナマ」「オレゴン」「ゴールデン・ゲート」「コロンビア」などの当年切っての優秀船が就航して太平洋横断いつでも来いと待構えた。事実これらの船の大部分が後日ヨコハマへ入ってくる。
 ところで、左の一文は、太平洋汽船航路設定に関する建白書にたいしてなされた米国海軍委員会の報告である。
「カリフォルニアの獲得はシナとの通商交通にとって閑却すべからざる利便を与えた。汽船によればサンフランシスコ湾からシナにいたる航海を定期に二十日間をもって行いうるものと信じられる。現在行われているパナマ地峡の連絡路によるときは、我国西海岸(カリフォルニア)と大西洋諸都市(ニューヨークその他)の交通は三十日強である。
 かくて太平洋上の汽船路設定はニューヨークをマカオから六十日もかからない距離に置くこととなろう。
 帆船によるシナ貿易はケープホーンを迂回するとき、長期の航海日数を要するため非常な不便をめている。一往復平均十ヶ月を費すものと仮定してよい。これに対してヨーロッパ・シナ間の往復は、平均満十二ヶ月を要するものと考えられる。
 現存の諸便益を利用し、これに加えるに建白書が提案している太平洋ラインをもってすれば、リヴァープール・シナ間の交通は六十日に縮少され、かくてロンドンからシナにいたる冒険的な往復路は、合衆国を経過することによって五ヶ月以内に縮少されることを得、現在の所用日数を半減してなお余りあるものとなる」。
 太平洋横断汽船路の設定が、シナにたいするロンドンとニューヨークの地位を顛倒てんとうするという見通しの点で、この報告書とマルクスの評論は一致するが、海軍専門家の推論は、何らの経済学的なものを含まず、かえって与えられた交通機関にたいする一見不当な比較に基づいている。
 太平洋上の汽船路設定が、パナマ地峡連絡を利用するとき当年の交通技術をもってしてニューヨークをマカオから六十日以下の距離内に近づける、これに間違いない。しかしながら同じく汽船でスエズの地峡連絡を利用した英国のP&Oラインは、同じ一八五〇年の記録で上海、ロンドン間を七十八日、五九年の記録で五十九日で結んでいる。地理上の距離そのもので比較しても、スエズ運河と同様にパナマ運河が利用できるようになったとき、上海からスエズ経由ロンドンへの距離とパナマ経由ニューヨークへの距離とは同一だった。つまり上海以西ならばロンドンに近く、以東ならばニューヨークに近い。
 海軍委員会の報告は比較をリヴァープール(ロンドン)・シナ間――喜望峯経由――ないしニューヨーク・シナ間――ケープホーン経由――の帆船所要日数と新設汽船航路の推定日数との間で行った、はなはだ身勝手な推論だった。だがそれにもかかわらず、この推論に、ある種の合理的な理由が存在していなかったろうか?
 彼阿ピーオーラインといわず、すべて五十年までの汽船は、貨物輸送の点で帆船と競争する能力がなかった。まだ複式機関が発明されてなく、マリンエンジンはすべて低圧の単気筒式だったから――おまけに海水を使っていた――おそろしく石炭を食って金がかかるうえに、寄港地を欠く大洋航海では炭庫に場所を塞がれて貨物庫の余裕が思うほど取れない。だから当年の彼阿ピーオーラインなども、今日の飛行機のように旅客および政府補助金付の郵便物に依頼して、貨物は若干の絹を積むくらいで大部分は帆船に委ねていた。船の大きさも千トンから二千トン級。
 これにたいして黄金狂時代が作り出した太平洋郵船パシフィック・メイルの船は、初手から三千トン級の当年での世界的優秀船だった。もしも政府の充分な補助があり、中途に恰好な石炭補給場が見つかりさえすれば、石炭ぐらいの単式エンジンをもってしても、両輪パドルに太平洋の波をわけてよく貨物の輸送に耐えることができたはずである。
 たんに汽船と帆船を比較したのでなく、貨物輸送に耐えうる条件下の汽船と帆船を比較したものとすれば、海軍委員会の報告は単に合理的であるばかりでなく、英国にたいする米国当年の絶大な気力を――マルクスが指摘したごときカリフォルニアに基づく経済的優越力を、たまたま吐露したものということができる。
 だが、いかに強力な補助金が与えられたにしても、一方サンフランシスコ・広東カントン(上海)間に石炭のための寄港地がなかったら、前記の技術条件の下では物にならない。
 かくて日本問題が、この日以来全然新しい視角から米国上下の関心事となった。

五 「和親」条約


 旧市場の拡張と新市場の獲得とが問題のいっさいだった産業資本主義発展期の当年にあって、かりそめにも、「和親」はするが貿易はおことわりだといった種類の条約が、足掛あしかけ五年も続いたというのはどうしたことか! 結婚はあきらめましょう。兄妹としていつまでも愛して頂戴などというたぐいのたわごとが、三十代の壮年資本主義国に適用するはずがない。
 ペリーとハリスことにハリスを、幕府がかたくなな処女のように貿易だけはというのを、脅したりすかしたりで結局物にしたその道の名外交官扱いにするのは勝手であるが、しかし「和親条約」はそれだけで立派な存在理由をもっていた。
亜墨利加アメリカ船、薪水しんすい、食糧、石炭、欠乏の品を、日本人にて調ととのへ候だけは給し候為、渡来の儀差し許し候」――サンフランシスコと上海をつなぐうえに不可欠な Port of Call――ことに石炭のための寄港地として、ヨコハマがぜがひでも当年のアメリカに必要だったのである。
 新市場候補地としての日本は、シナ市場のつぎに来るべきものとして、すでに三〇年代から米国の予算にはいっていた。一八三二年のアジア修好使エドムンド・ロバーツにたいしても、シャムその他の後にするも可なりという但書付で、日本訪問が指令されていた。一八四五年には下院議員ブラットの対日朝通商建議案が提出されて、ビッドルが浦賀へやってきたがまことに穏やかな交渉振で、五〇年代にはいってから、「日本人に対し寛大に失せるのきらいあり」と、あとから叱られている。
 ビッドルに罪はないので、カリフォルニアの黄金狂時代が線を画した五〇年代が、アメリカの対日態度を一変させたのである。従前の新市場候補地としての日本に加えて、旧市場しかも久しく英国との競争下にあるシナ市場において決定的な勝利を一挙に奪取するための必要不可欠な前提条件としての日本――横断太平洋汽船のための寄港地としての日本――が新しく認識されたのである。
 まず、「ボムベンおよび焼玉を放発して」も日本を開港させずにはおかぬという凄文句の手紙で五〇年代があける――
「……アメリカ通商のためその湊港を開き、かつサンフランシスコより、上海広東に通路すべき蒸汽船のため、松前、対馬、琉球の地に、石炭場を設る趣向を促し、もしその談判を将軍の方および執政が拒むにおいては、日本政府承服に及ぶまで、その都府にボムベンおよび焼玉を放発して、国中の湊港を閉塞し、うらみを日本国に晴さん、この意しきりにやまざる所なり云々」(一八五〇年、元ニューヨーク州外事局長A・H・パーマーより、長崎オランダ商館長レフィーソンに送った私信、実質は非公式の外交文書である)。
 つぎは五一年六月十日付の海軍中佐ジェームス・グリンの建議案。彼はブレブル艦長として四九年に長崎へ乗込み、ラゴダ号事件に関して強硬な態度をとっている。やはりカリフォルニア・シナ間の汽船定期航路を開始するためには米日間に通商条約を締結する必要があるゆえんをべ、「この手段早晩必ず着手を要するものにして、もし平和的手段によりて成功を見ざる時は、兵力に訴うるも必ず成就せしめざるべからず」と力説している。
 同年、いよいよ正式に日本問題を解決すべく、米国東インド艦隊司令長官オーリックを特使に任じたときの公式対日要求条項は、五〇年以前のもっぱらなる要求だった米捕鯨船遭難者の救助と自由貿易の二項目にあわせて、最後に五〇年代の新たな項目たる米支間横断汽船用の貯炭所問題が掲げられている。
 持前の癇癖にたたられて中途で免職になったオーリックに代って、いよいよペリーの幕だ。五二年十一月のペリーにたいする訓示中、左の箇条書の部分を、マルクス前掲文と参照すると興味がある。
「(一) 近時汽力による太平洋横断航路開かれし事(開かれんとするの誤か? 事実まだ開けてはいないのだ。田保橋氏『外国関係史』を参照)
 (二) 合衆国が太平洋沿岸に広大なる植民地を獲得せし事
 (三) 該植民地に金鉱の発見せられし事
 (四) パナマ地峡の交通頻繁となりたる事、は、東洋諸国と合衆国との関係を著しく密接ならしめたり云々」。
 で、日本への要求条項は、オーリックの場合と同じ三項目である。第二項が例の一件で「合衆国船舶が薪水食料を補給し、また海難の際にはその航海を継続するに必要なる修理を加えんがために、日本国内の一港もしくは数港に入る承諾をうること。日本国沿岸の一港もしくは少くもその近海に散在せる無人島の一に、貯炭所を設置するの権を獲得する事」とある。
 ペリーの使命をもって「帝国主義的」などと記す者があるに至っては言語道断だが、英国との間の見境もなく、たんに通商第一主義とのみ見るのも不充分であるゆえんは、すでにあきらかだと思う。第一、彼の大艦隊自身が、寄港地のない不安な太平洋路を採る代りに、マデイラ、セントヘレナ、ケープタウン、コロンボ、シンガポール、香港、上海、那覇とたどってそこからいよいよ江戸湾へ乗入れる前に、まず小笠原群島父島へ立寄って、殖民代表米人某から貯炭所用地百六十五エーカーを買入れている。
 これが五三年、そして「和親」条約が五四年。で、この年までは横断太平洋汽船航路が開けなかったにしても、この年以後はいつでも開ける手はずができたわけである。ところが太平洋を横断する貨物船航路は、この年を待たずすでに五一年から開けていた。五〇年正月のマルクスの眼に映じていなかった一現象――海の黄金狂時代が太平洋郵船ラインとともに生み出したいま一つのヒロイン――たるカリフォルニアン・クリッパーについて語らねばならぬ。

六 「フライング・クラウド」


 五〇年代の汽船をもってしては、よほどの補助金でもない限り、貨物を帆船と争うことはできなかった。ヘンリー航海王以来の帆船時代はまだ終るどころか、かえってこうした事情に直面して、五〇年以後の数十年間を、速力構造および容積のうえの最高発展期として所有することをえたものである(2)。
 すでに一八二〇―五〇年の間に、帆船の発達は英米競争を通じて著しいものがあった。まずナポレオン戦争の直後をうけた二〇年代の西インド(大西洋)貿易における新型米国帆船の勝利、三〇年代にはシナ海でこの米国帆船が英国東インド会社の船を追払ってしまった。米船の勝利はすべて速力のたまものだった。そして四〇年代、英国帆船がやっと陣容を立直したと見えるか見えぬに、四九―五〇年のカリフォルニア黄金狂時代――その、海のゴールド・ラッシュの中から、従前未聞の快速船が生れ出た。「カリフォルニアン・クリッパー」こそ、アルゴノーツの心願そのままに、speed, comfort, capacity おまけにいま一つ beauty を驚異的な程度に綜合した絶品だった。
 四九年のニューヨーク・サンフランシスコ間(ケープホーン迂回)の帆走記録は百四十三日ないし二百六十七日だったが、天才技師ドナルド・マッケイの最初の作品スタッグハウンドは五一年二月の処女航海に百十日で走り、彼の最大傑作フライング・クラウド(木造一、七九三トン)は同じ年に実に八十九日二十一時間の驚異的記録を作った。
 だがカリフォルニアン・クリッパーに関する最大の驚異は、それがニューヨーク・サンフランシスコ間だけでなく、いわゆる「三角航海」によって全世界を席巻せっけんしたからであった。マルクスがいったように太平洋をはじめて世界市場に編入し大西洋を単なる「内海」の地位にしりぞけてしまう最初の芸当を、美事にやってのけたからだ。
「三角航海」とはニューヨーク、サンフランシスコ、広東(または上海)の三点を一航路に結ぶ世界周航路で、カリフォルニアン・クリッパーはこのコースをとったものである。すなわちニューヨークから、満載した貨物と旅客をサンフランシスコで下ろすと、空荷のまま一気に太平洋を乗切って、広東または上海で茶を積込み、インド洋および喜望峯経由で帰航する。
 このコースはきわめて合理的だった。第一にカリフォルニア貿易は五〇年代を通してほとんど片道貿易だった。すなわち金の輸送は少数の船に限られており、人間は金掘に失敗した者もすべて定着して戻らない。これが砂金の代りに金色の麦を輸出するようになったのは五五年以降で、なおきわめて少量だった。第二に当時のシナ貿易も、いわゆるティー・クリッパーはほとんど空荷でシナに向うのが常だった。誠に一八五二年当時の英支貿易の数字について見ても、シナへの輸出総額は約三百万ポンドだが、シナからの輸入は茶だけでゆうに六千万ポンドに達している。
 だからこの米国船の三角路スリー・コーンドと英船の往復路アウト・エンド・ホームと競争させたら、勝負の数は明らかだ。まず黄金狂患者が創り出した米船の画時代的なスピードが物をいう。つぎに三角路の方には途中でカリフォルニア貿易というおまけが付く、したがって運賃のうえでも物がいえる(3)。
 はたして「三角」航路はすぐさまロンドンを一角加えた事実上の四角航路となった。米国クリッパーはシナ米国間の貿易だけでなくシナ英国間の貿易をも一時はほとんど独占した。
 フライング・クラウド号はそのうるわしい姿のためにロングフェローに The Building of the Ship を物させた。フライング・クラウドの船長クリージイはリンドバーク大佐のように国中の人気者となって、ワイワイ騒ぎから身をまもるために田舎に姿をくらまさなければならぬほどだった。彼とその船乗こそ、一八五一年の「七つの海」――太平洋とシナ海とインド洋と大西洋を掌握した米国海運業の、そしてそれが起因をなしたカリフォルニア黄金狂時代の、もっとも美しい誇らしいシンボルだったのだ。
 速力の点では三角路の方が距離においてずっと長かったにかかわらず、英船の往復日数に比べて約一ヶ月の差しかなかった。いわんや同一の上海ロンドン間では、五〇年代のスピード・レコードは一つ残らず米船に占められている。

七 最初の横断汽船


「フライング・クラウド」に象徴されたカリフォルニアン・クリッパーは近代資本主義最初の東廻選手として、世界を西からでなく東から円形に仕上げた。「和親」条約はその帆船路に黒船の煙をたなびかせるための条件達成をいみした。五〇年初頭のマルクスの予見どおりに、運命は黄金狂時代のアメリカ合衆国に微笑みかけ、微笑みつづけるもののようだ。
 しかるに、ハリスのもとにおきちが通う日が来ても、汽船は太平洋を渡らなかった。そればかりでなく、ひとたび東廻選手によってほとんど独占されたシナ英国間の茶貿易に、ふたたび激烈な英米帆船の競争時代がはじまっていた。英国の船大工によしフライング・クラウドを打負かす技術があったとしても、「三角航海」の経済的優越をそもそもどうして処理できたのか?
 神様のお陰で! このとき英国商船にも新しい「三角航海」が恵まれたのだ。一八五一年、濠洲に金鉱が発見された。南太平洋の新黄金狂時代は、五二年から英、濠、支の三点を結ぶ帆船洪水路を産み出した。シドニーでアルゴノーツとそのショベルとその長靴などを陸揚げした船は、今度は空荷で一気に上海まで北上すればよい。神様でないマルクスに金鉱の予言までさせようたってそれは無理だ。
 それにしても、なぜ汽船は姿を見せなかったのか?
 一八五一年から十五年間にわたるいわゆる tea-clipper 時代の、火の出るような英米汽船競争を通じてますます茶帆船構造の発達をみ、いろいろな制限下にある汽船の追随をゆるしそうもなくみえたことも、一つの理由ではあろう。またシナの内乱――五〇年から六四年にいたる長髪賊――が何程かの理由を提供するかもしれない。だが何といっても決定的な原因は、シナ海に英米クリッパーの競争が行われるのと時を同じうして、それと劣らぬ激しさの英米汽船競争が、北大西洋に全力を集中して戦われつつあったことだ。
 四〇年代の北大西洋は汽船は英、帆船は米ときまりがついていたのが、五〇年早々米国のコリンス会社が政府の強力な補助金(年十万ポンド)をえて、英国のキュナード汽船(政府補助金八万一千ポンド)に挑戦した。まず英の二千トン級にたいする米の三千トン級。猛烈な速力競争――例のように賭が流行する。賃銀競争――キュナードの独占時代トン当り七ポンド十シリングだったのが、その半分になる。五年後(一八五五)英国側は同じく両輪パドル船ではあるがしかし鉄造の三千三百トンという巨船を送り出す。米国側も負けてはいず、政府補助金額を年十七万九千ポンドに増加する。
 それは大西洋の「内海」化を物語っている。コリンス会社は二隻の優秀船を失う災厄を見たが、ぜがひでも勝たなければならない。算盤そろばんを度外に置き全米の知能と技術を傾けて、未聞の新鋭汽船アドリァチックが進水した。一八五八年のことだ。英国側は濠洲航路のために造られた超巨船一万八千九百十四トンの「グレート・イースターン」を大西洋に動員した。むろん欠損だ。ところで、米国側は、欠損どころか破産してしまった! 一八五八年のことである。
 一八五四年に「和親」条約が成功しても太平洋に汽船が通う余裕がなかったのだから、そして、当の五八年「通商」条約がハリスの手でできてしまったのだったから、結局、実は横断汽船のための和親条約をもって、単なるくどき落しの一手だったと、後世認められたからとて仕方がない。男女の間にも、よくあるやつだ。
 ところで、二年経つとアメリカの内乱である。六〇―六五年の南北戦争が終ったころは、上海ロンドン間の英米クリッパー戦は完全に英国の勝利に帰していた。the clipper race はもはや英国船同志の間で行われる例年のスポーツと化していた。そして大西洋では、最初の複式機関を据えたスクリュー汽船が、英国旗をなびかせていた。
 南北戦争は英米海運戦および市場戦の上で決定的に英国を勝利させた。そして帆船も汽船も鉄でつぎに鋼で造られるようになると、もう英国の重工業が物をいった。しかも六九年になると、スエズ運河が開通する。日本を開いた殊勲は米国のものだったのに、ヨコハマ当初の貿易額の八〇%は英国のものだった。
 よろよろと起ち上った拳闘選手みたいに、太平洋郵船パシフィック・メイル会社の「コロラド」(三、七二八トン)が金門湾を解纜したのは一八六七年(慶応三)一月元旦のことだった。彼女に北太平洋最初の横断汽船たる名誉はめぐまれてなかったが、そもそも太平洋横断をはじめから予定してカリフォルニア黄金狂時代に生れ出たこの会社の船としては、彼女は初志を――あまりにも遅く!――遂げた最初のものである。
 サーヴィスは月一回、姉妹船に、China, Japan, America などがあった。いずれも図体は四千トンにちかい、しかし木造の、使い古した単式機関両輪船で、大西洋上の鉄造複式機関船にくらべてまさに前世紀の遺物である。サンフランシスコ横浜間二十二日、横浜香港間七日、横浜碇泊日数をいれて全コース三十日――十数年前の、米国海軍委員会報告書の予定にすら足りない!
 しからばはじめて北太平洋を横断した汽船――商船――は資料について首をひねるほど小さな船だ。370 トンと記された活字に誤がないものなら、これは内乱最中、一八六二年の米国そのものの焦燥をおよそうらさびしく象徴したものというほかはない。
 文久二年の横浜寄港船名表中に、
船名      John T. Wright
船長      Watson
トン数     370
船籍及船種   American steamer
出港地     San Francisco
入港日     June 8th
 サンフランシスコの C. W. Brooks 会社の船で、合衆国政府の郵便補助金を受け、この船を最初として定期に太平洋を往復した(4)。
 大洋航路で汽船が帆船に勝てるようになったのは、複式機関が応用されて(一八六五年以後)、一馬力当りの貨物庫容積、石炭一トン当りの馬力の強度がぐっと増して以来のことである。はじめて政府補助金は不必要となった。
 それ以上の技術的発展、たとえば triple expansion engine などは、すべて一八八一年以降の出来事だった。一八五六年以降のおばけが国を売り大洋航路から追われて、上海をも含めた日本沿海航路をよたよたと稼がされるようになったころ、原始的蓄積会社の観がある維新政府の支持によって、郵便汽船三菱会社は一八六五年以後の新鋭船を所有することができ、八〇年代が訪れる数年前に、すでに沿海航路から米の太平洋郵船と英の彼阿ピーオーを駆逐することができた。
 日本郵船が早くも九〇年代に太平洋航路にゆえいを争うこととなったのをみて、何も不思議とするには当らない。日本は汽船の前史を所有しなかったからこそ、汽船の後史を先進国以上の組成において、つまり前史時代の雑物を含まない序列で、所有することをえたのである。
 もとより、その歴史的機能に徹しては傍若無人の概ある維新政府が、あったればこそのはなしだ。

(1) 米墨戦争と同時にコロン・パナマ鉄道が企画されて五五年に完成した。
  運河の方は四九年に「米国太平洋大西洋運河会社」というのができて、五一年に完成した。ニカラガ国内を通ずるもので、スエズ運河開通前のいわゆる overland route に似たものだった。河と湖をつないで汽船を通じ、残りは国道で連絡した。これが完成する前はチャグレス・パナマ間の道路で連絡した。
(2) 帆船汽船ともにいれた全世界商船トン数にたいする帆船トン数の割合をみても、一八五〇年九二%、七〇年に八四%、九〇年に至って半分、一九一〇年になるとすっかり減って二一%になった。カーカルディ『英国商船史』付録第十七を参照。
(3) 当時東洋貿易に従事していた英人ミチー・アレキサンダーの著書は米船の三角路が英船の往復路に比して約倍の積荷高を稼いだと記しているが(The Englishman in China, p. 230)、当時のカリフォルニア州貿易を顧みるとき、差額はもっと大きかったろうと思われる。
(4) P. Smith, Western Barbarians, p. 135 スミス氏はまた、前記太平洋郵船の横断就航を六五年にはじまると記している。商船史の権威 W. S. Lindsay の書は船名をあげずたんに六七年と記し――History of Merchant Shipping, p. 154――, Rogers の近書 Pacific は本文記載の船名日月をあげている。是非を決定する基本資料を私は知らない。なお、本文中工芸学に関する部分は、カーカルディの『英国船舶史』によった旨記しておく。





底本:「黒船前後・志士と経済他十六篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年7月16日第1刷発行
底本の親本:「服部之総全集」福村出版
   1973(昭和48)〜1975(昭和50)年
初出:「中央公論」
   1931(昭和6)年11月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※(1)〜(4)は注釈番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付いています。
入力:ゆうき
校正:小林繁雄
2010年5月24日作成
2011年4月3日修正
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