望郷

――北海道初行脚――

服部之総




 歴研(歴史学研究会)北海道支部に日程は一任して、上野発十月十五日、帰着二十七日ということで、生れてはじめて北海道にでかけた。その間にきっと初雪がある、との注意で冬仕度じたくをしてでかけたら、あちらの人々はまだみんな合着で、札幌の街をマフラー姿で歩いた最初の人間が、私ということになった。だが初雪は、二十五日の夜全道にふった。
 歯舞はぼまい諸島のユリ島付近でB29がソ連戦闘機に撃墜される事件が起きたのは十月七日のことだが、私が札幌について二日目の十七日には、歯舞諸島は日本領土であるという米国務省の対ソ抗議覚書が発表された。根室ねむろ沖が「危険地帯」の発火点になるための外交辞令はととのった形である。二十日私は旭川あさひかわにいた。その前の日だったろうか、米軍ジェット機が旭川付近のどこかしらで墜落して、それを捜索するための小型機が旧練兵場から一日中飛びまわっているのを私は見た。学芸大学の裏手のアイヌ部落のまんなかに立ってその飛行機を見ているときに、旭川には水野成夫氏の国策パルプの工場があるが、ストライキなどはけっしておこらないしくみになっているときいたとたんに私はおかしさがこみあげてきた。というのも国策パルプ、苫小牧とまこまい製紙、東洋高圧、帝国製麻、日本製鋼、北海道電力といった優良株を、北海道に工場があるという理由で、絶対に買わない男がいるという話をとたんに思い浮べたからである。その男の名前もむろん私は聞いているのだが、旧財閥筋のさる大会社のれっきとした重役なのである。こんな重役が一人でも日本にいるかぎり水野氏はまだまだのしあがるだろう。ところでストライキは、そのとき全道、否全国にわたって炭労、電産二労組がゼネストに入っていたのである。炭労は十三、四日にわたる四十八時間ストについで、十七日から大手筋十六社二十四万人が一せいに無期限ストに突入した。
 車窓の左手に帝国製麻の工場が、日本橋本社のヒョロ高さを埋めあわせるほどの平べったさで見られる札幌から、国策パルプがあるという旭川まで、平野のところどころに大工場が立ちならぶ、その反対側の山々こそ、三菱美唄びばい、三井美唄、北炭、井華せいか、古河以下大小炭鉱のありばしょである。前進座事件をひきおこした赤平あかびらもそのちかくにある。その赤平事件の第一回公判は、私が夜おそく札幌についた十六日の朝から岩見沢いわみざわで開かれていた。ついで二十四日から初雪を挾んで続行されたはずである。初雪を予見して、冬仕度をすすめてくれた友人の先見の明に、私は心から敬意を表したのであるが「危険地帯」北海道の三十八度線化を予想する手あいの先見について、何と評したものであろうか? ともかく私は、感想をなにがしとりまとめてみよう。

 連絡船洞爺丸とうやまるが、その日海峡のひどい荒天しけをのりきって静かな函館湾にはいったとき、私は一種不思議な錯覚にとらえられていた。望郷の錯覚とそれをいってみようか。――戦災を一つもうけていない日本の都市をそこに見出したからだ、という解釈がついてみずから納得するまで、しばらくのあいだ私は困惑をおぼえた。
 北海道の人はいまもって、開拓使時代の「内地」ということばを、海峡のこちらにたいして使っている。アイヌから区別するばあい日本人のことを「ワジン」と自分でよんでいるのと同じ性質の古さである。そして鉄道開通八十年記念切符ではじめて渡道した私という「内地人」が、過去半世紀にわたってなじんできた内地の大都市――アメリカの好意でのこされたという京都と奈良をのぞいてはもうどこにも見ることのできない八年前までのそのおもかげを、ありありとこの北海道の玄関口で迎え見ることができたのである。
 考えてみれば、あながちこれは錯覚とのみいいすてることでないようだ。函館は私の旅程の最後にあてられているために、船から汽車にのりかえて、窓から見棄てる函館平野の風景は、農家のたたずまいといい、耕地整理の行届き不行届きのむらといい、東北のあちこちとほとんど変るところはない。こまたけをめぐる未開墾の火山灰地帯と大沼の風光をつきぬけて、噴火湾岸の森からオシャマンベまで、さしむき熱海あたみから藤沢までの天地自然の夕まぐれを、同じく東北風の貧寒たる人事風物が点綴するのである。あとで聞いた話だが、かつてこの沿岸をにぎわした海の幸、いわしにしんも、昭和十三、四年いらいよりつかなくなって、漁師のせがれを一季二万円で十勝とかちの農家に出稼ぎさせるような昨今の状況だという。松前方面をいれたこの「道南」一帯は、徳川時代からのふるい植民地帯である。人文地理上東北と同じ地帯にいれてよいわけだろう。学芸大学函館分校の学生諸君と北海道最後の夜をおそくまでともにしたとき、思いついて私は一人一人の家系についてきいてみた。すると、渡道後四代、初代は石川県人というのが二、三名いたが、何代になるかわからない、どこからきたかおぼえていない、と答えた人数のほうが多かった。同学の手塚氏に、学生の家系調査のことをおすすめしておいた。でき上ればいろんないみでよい参考になると思う。

 札幌となればことが変る。この石狩平野は、小説『石狩川』がくりひろげているような光景で、太政官政府の開拓使時代に拓かれたものである。内地のどこの家庭でも、北海道に一人二人の知人をもたぬ家はないであろう。夜おそい札幌に出迎えて下さった人々のうち、たとえば北大の鳥山成人君は厳父が歩兵将校として札幌在任中にうまれた人、峯※(「(冫+臣+犯のつくり)/れんが」、第3水準1-87-58)君の亡父は長崎県人で拓銀の模範社員とうたわれた人、十幾年ぶりでおめにかかった母堂の生家は秋田藩士族の移住者であるといったふうなのだ。
 ここは日清戦争で台湾をとる日までの、唯一つの植民地北海道の中点であった。日本中の隅々からはじきだされた人々が、開拓使長官黒田清隆のタクト棒のまにまに、それぞれの運命をみずから開拓していった首府なのだ。移住者に肌着のごとくつきまとっていた方言や風俗のいっさいが相互に中和され、東京が江戸を殺して中性的な東京語をつくったのよりもっと手早いテンポでもって、東京弁と区別のつかぬいまの道弁をつくっていった都市である。大碁盤縞ごばんじまの都市計画は、後年佐賀の乱の叛将となってきょう首された島義勇しまよしたけが京都にならって墨をひいたといわれるものだが、札幌に住む人で京都を思いうかべる人がどこにあろうか。
 これに反して黒田開拓使長官のタクト棒がアメリカ製であったことは、いたるところに思いもかけぬ形で記念されている。あの京都式の都市計画すら、一般にはアメリカ式と思われているほど、札幌の街には、古典アメリカの表情がところどころにのこされている。「アカシヤの街、詩の都、大札幌の風光」と、駅前で買った絵ハガキ集の表紙にうたわれているが、そのアカシヤも、ポプラも、旧一中の堤に葉裏を白くひるがえしていた銀ドロも、アメリカから輸入したものだ。この絵ハガキの道庁の写真には「赤煉瓦れんが古風床しき」と書いてあるのだが、いつ建ったものか聞きもらした。だがこの赤煉瓦の先代の建物である開拓使本庁舎は、ドームのてっぺんたかく青地にまっかな星一つある開拓使旗をひるがえして、絵になってのこっている。そのおもかげをいくらかでもいまにつたえているのが、歴研支部講演会場にあてられた北大農学部新館講堂の隣にある、札幌農学校いらいの古くエキゾチックな校舎などであろうかと、あとで私は思いあわせたことである。なんにしてもそれら遺物は、青地に赤い星一つの開拓使旗とともに、太政官日本の「古風」ではなく古典アメリカの健康な肌あとをしのばせてくれる。古典アメリカ。それはリンカーンが象徴する。リンカーンとともに革命を闘いつつ実業家から北軍の少将となり、勝ってのち農商務長官となっていたホレス・ケプロンこそ、黒田の乞いをいれて一八七一年から七五(明治四―八)年まで、北海道開拓事業の基礎を設計した恩人である。
「ボーイズ・ビー・アンビシァス」という別離のことばでいつまでも記憶されている札幌農学校初代校長クラーク博士も(北大構内にある彼の胸像は戦時中台座から追放されていた)、北海道鉱業のための基礎調査を完成した当年の世界的地質学者ライマンも(彼の業績を、りくつばかりで実地に無能なドイツ派官学と対比しつつ高く評価した論文が今年、札幌の歴研会員松井煎君によって発表されている)、北海道畜産の育ての親エドウィン・ダンも、みなケプロンの推薦で赴任した斯道しどう一流の人士であった。往年ケプロンについてなにがし調べたおぼえのある私は、彼らの胸に一片の侵略者の野望が含まれていなかったことを断言することができる。「青年よ大望をもて!」といったクラークの別辞のなかに、革命を戦った古典アメリカの清純なアンビションをみる。
 北大の庭から、落葉する大樹の梢ごしに手稲のいただきが見える。これぞエルムなるべしと思って、顧みて聞くと、「にれの樹です」という。クラークの胸像のように、エルムという樹名も追放されていたのであろうか? あの寮歌こそ学生時代の私たちの心を北海道にひきつけるたった一つの――ビールとあわせて二つきりの――媒体であった。サッポロビールの名も消えていまはない。けれども、私はこんにちの北大の学生たちが、在りしよき日のあの寮歌を忘れて、四九年いらいとりわけ「平和の歌」を愛唱するという事実のなかに、古典アメリカの、かつて世界を鼓舞したあの大望の継承を知ってよろこぶ。
 エルムもまたアメリカから渡った街路樹とばかり私は思いこんでいた。すると、札幌市の中央部をゆたかに占拠している北大付属植物園、そこへ行ったときギャフンとまいった。
 開拓されるまえの札幌は、乾いた大川という意味のサッポロベツの乱流が密林を左右にわけているところを、川口からいまの米軍事基地千歳ちとせまで通じる一条の小径が、はっていたにすぎない。その原始林にはいま植物園内博物館に剥製はくせいとなっているあの非妥協的なエゾオオカミやヤマイヌが、明治二十年代まで出没していたのである。森を伐り、大札幌を建設する途上、中央にもとのままの一画をのこし、付属植物園として保存する案をたてたのは明治九年に来たクラークであろうか、それとももっと早く顧問ケプロンの創意にぞくするか。いずれにしてもわれわれはこの植物園の一角で、八十余年前のサッポロベツ原始林をなにかしのぶことができる。落葉を布いてそそりたつ巨木はすべてエルムであった。してみれば、道立図書館まえの大街路樹、おばけのような柳とエルムも、土地生えぬきのものだったのだ。
 接収されて「アーニー・パイル」と名づけられた東京宝塚劇場は、ちかく解除になってもその名前を改めない経営方針だそうである。エルム・エルム。このアメリカ名前は強権によってうまれたものではない。にれなぞという木を見たこともない開拓民たちは、サッポロ・チャシナイ・クッチャンなどと耳馴れぬアイヌ地名を覚えるのと同じ気安さで、アメリカの教師が教えたエルムという樹名に親しんでいったことであろう。

 植物園の北隣にアメリカ領事館がある。進駐とともに接収されてG・H・Q出張所となり、条約後買収されて新領事館となった。もとの持主はいま札幌停車場新工事を請負っている伊藤豊次氏。先代亀太郎は明治二十年代から「北海道行」といって内地の農村をふるえあがらせた鉄道工事の監獄部屋タコベヤの大御所であった。
 私は記念品を買うため狸小路たぬきこうじに案内してもらうことにした。買いたい記念品は馬の鈴であった。あのドーナツ型の馬鈴、むかしのものは良質で音がよいから、狸小路の三軒の古道具屋が目当てであった。
 案内書に「東京以北唯一の繁華街」と記されている札幌の狸小路は、開拓使時代よなよな官員をばかす雌狸たちが出没したのでその名があるということだが、いまはもっぱら米兵アベックの闊歩かっぽ場と化している。案内の峯君なぞはめったによりつかない証拠に、古道具屋は三軒とも、ギフト・ショップになっていた。一月まえそれに転業した茶屋という古道具屋の主人にきくと、たった一つ残っていた馬鈴を、ついこのほど北大の児玉作左衛門先生に買われてしまいましたという。
 あきらめて、馬具屋めざして、狸小路を西に歩けば、米兵アベック、また米兵アベック。クロフォード・キャンプというのが、川上のマコマナイ旧種羊場にある。そこから流す汚物が、豊平とよひら川で水泳ぎする子供たちに有害という成績が出て、この夏、市から陳情が行われたという話だ。
 米兵そっくりの服装をした保安隊員も、同じ数くらい漫歩している。彼等は山鼻の北方方面軍司令部にいる兵たちであろうか。日曜日の午後にあたっている。
 南二条の一軒の馬具屋で私は十個の馬鈴を買った。ドーナツ型のでなく、映画「馬喰ばくろう一代」で注意ぶかい人は見たはずの、すずらん型の小鈴である。一個五十円。その馬具屋では英国式だと教えてくれたが、ふるくから札幌でつくるもので、皮のベルトに何個か上むきにならべてつける。私はそこで牛の鼻輪を一個買った。手錠式の真鍮の輪で、鼻にとおしてネジクギでしめる。日本の牛のハナグリは骨と木でできている。牛にとってさぞかし冬はつめたいだろうと思われるこのアメリカ型鼻輪は、いまでは鎌倉山の朝鮮牛もつけているので私はおぼえていたのである。一見腕輪そっくりで、はめてみるとうまくはいる。「これはなんでしょう?」といってはずして相手に手渡す。「馬具屋で買いました」。
 いたるところでそれをやってみた結果、函館を去るときまでにズバリといいあてた人は二人しかなかった。学者学生で農村出身者は北海道でもそれほどすくないのである。

 北海道の農村について私は知りたいと思う。内地の農村とは、まるでちがった歴史をそれはもっているからだ。はやい話が内地の農村で、明治初年の一揆と十年代の自由民権闘争に無縁であったようなところはどこにもない。北海道がその例外となっているのは、札幌とともに北海道開発がはじまったのが明治四年からだったという、そのような年次の若さよりもっと根本的な事情があるはずである。このたび北大の高倉新一郎たかくらしんいちろう教授からいただいた『私たちの研究、北海道の歴史』(昭和二十四年)を参考にしつつ開拓史を考えてみるに、明治七年までは、戊辰ぼしん内乱に敗れた東北旧「賊」藩の士族たちの手で拓かれている。会津あいづ藩士がつくったヨイチ郡黒川くろかわ村、山田村、伊達だて藩士がひらいたウス郡モンベツ村、イシカリ郡トウベツ村その他等々。西部諸藩のなかでも、内乱前の江戸派主流で維新後藩内京都派のために国を追われた淡路あわじの藩主稲田邦稙いなだくにたねのシズナイ村、以上はすべて「模範村」として有名になった村々である。ずっと昔発表とともに読んだ小説『石狩川』の固有名詞はみんな忘れたが、その感銘はこの路線だった。
 維新政府が大きく分裂した明治七年から士族屯田兵とんでんへい制度を布いたのは、七年前「官軍」の主力となった西部諸藩から新たな内乱が起るのに備える一石二鳥の妙策であった。けれども西南戦争までに、わずかにコトニ、ヤマハナ、ハツサップに四百戸たらずを移したに過ぎないから、成功した妙策とは評しがたい。
 ところが西南戦争後、土地と民権のための自由民権闘争のほうはいたる大波が明治政府を根底からゆさぶった革命期にあたって、士族屯田兵は急速に進行している。明治十一年八雲やくもを拓いた旧名古屋藩士、十三年ヨイチ郡大江村を拓いた旧山口藩士、十四年イシカリ郡トウベツ村に入った佐賀藩士、福岡藩士、十六年イワナイ郡前田村を拓いた金沢藩士、以下等々。明治二十年までの屯田実績は、札幌を中心にしていたと見てよいであろう。
 同時にそのころから、旭川を目標とする道路計画が鋭意強行されたことを忘れてはならぬ。そしてこの道路開発の重労働がもっぱら「懲役」と当時よばれた囚人労働によって行われたことを忘れてはならぬ。最後にこれらソラチの囚人の大部分が、内地全土の殺人強盗の最凶悪犯と内地全土の自由民権運動の最精鋭政治犯から成っていたことを忘れてはならぬ。
 北海道屯田兵団長永山武四郎ながやまたけしろうが自分で嵐山と名づけた郊外山塊の一角から旭川を俯瞰しながら、この京都に似てさらに雄大なる盆天地こそ明治日本の王城の地たるべきものと宣言したのは、明治十八年だったと旭川学芸大の諸君からこのたびきいたが、何事をそれはいみしたであろうか?
 自由民権の大衆運動が国会開設請願の形で出発した第一年めの明治十二年、岩倉右大臣はすべての官有の山林、鉄道、製造所を皇室財産に収め、陸海軍全部を皇室財産でまかなうことを主張している。福島事件が弾圧された直後その岩倉は、陛下の愛信して股肱ここうとする海陸軍警視の勢威を左右にひっさげ、りん然として下に臨み、民心をしてせんりつするところあらしむべしと上書している中で、同時に窮困不平の士族を政府に馴致し、豪農巨商等の有力者を政府に収攬しゅうらんせよとつけ加えることを忘れていない。明治五年一千町歩、明治十八年三万二千町歩、五年のちの明治二十三年三百六十五万町歩とふくれ上っている全国帝室御料林の三段とびの数字のうち、この北海道はどのへんで、何年ころ、どれだけの数字をわけもっているのであろうか、だれかしらべてほしいことである。明治十八年の屯田兵団長の宣言は、岩倉と同血族の一味徒党の、人民にたいする恐怖と「安全保障」の声明であったと解してまちがいはないであろう。革命自由党を弾圧し去ったのちも、第一国会を迎えて再建自由党土佐派の(吉田首相、林幹事長がその血統をつぐところの)買収に成功したのちも、この恐怖は明治政府に久しくつきまとって離れることがなかったのである。
 それにつけても私は思ってみるのであるが、明治十四年の巡幸は「東北御巡幸」と称せられて、河野磐州こうのばんしゅうが指導する東北自由党の全地帯を、各地町村の「豪農巨商」を「御小休所」に指定しながら練ってゆくのであるが、その秘められた目的が終点の北海道にあっただろうという一点は、こんどはじめて気のついたことである。有名な官有物払下事件も、単に黒田長官の薩系スキャンダルとして理解するだけでは、岩倉=永山式北海道開拓方針の全貌を見るじゃまになる。
 開拓使はその翌年廃止され、函館、札幌、根室三県がおかれて中央の直轄となったが、十九年三県を廃して北海道庁に統一し、薩系岩村通俊いわむらみちとしが初代長官となって赴任する。
 懲役と屯田兵による旭川方面の開拓は彼の指揮下に進行する。将来ここに皇居を移すと声明して、旭川の高台に離宮予定地を設定したのは明治二十二年、皇居をおくからには、皇室の藩屏はんぺいもここに土地をもつべきであると華族によびかけて、官有地からめぼしいところを払下げ、東鷹栖ひがしたかす村の松平農場、深川の菊亭農場、雨龍うりゅうの戸田農場や蜂須賀はちすか農場そのたがうまれた。いっそう入念に京都風な市街区画が完了して一般人の入市をゆるしたのは明治二十五年、そのときまでにはビバイ、チャシナイ、滝川たきかわその他の札幌旭川間の要路に、屯田兵が配置され、永山、東旭川にもおかれていた。屯田兵の資格を士族から一般農民にひろげたのは二十三年のことだ。永山という村名は兵団長の名をとったのであろうが、彼が新設第七師団長に昇格して、旭川に鎮将となったのは明治二十七年のことである。皇居は移らなかったが、北海道中もっとも保守的な都市旭川が、こうしてうまれた。旭川の明治史は、そのまま北海道の明治史である。札幌にのこる古典アメリカの「大望」の文化は、ここ旭川の明治の支柱に阻まれ、酷使され、やがてひそかな民心となって、啄木たくぼく有島武郎ありしまたけおの悲劇をはらんでゆくのである。
 ――私はあまりに多く昔を語りすぎたというのであろうか? 旭川の大練兵場に夏草生い茂り、兵舎は学芸大学の校舎そのたに割当てられ、この土地でふるくから信頼されてきた医師藤井家の三兄弟から熱心な共産党員や旭川民科会長がうまれ、その末弟の眼科医善友氏の客となって私はこの初旅の北隅の一夜をおくったのであるが、一日一夜の所見をまとめるだんになると、やはりこれだけの昔話を自分で整理する必要があったのである。「史癖」を人は笑うであろうか? 予備隊改め保安隊第二管区司令部がこの旭川にいまおかれているのだ。旧七師団はただ旭川に集中されていたのに反し、いまは管区のさらに上級司令部が札幌にあり、その他ルモイ、チトセ、エニワ、北見、ビホロ、オビヒロと全道にわたって諸部隊が撒布されているのである。保安隊は内乱にそなえるためのものであるとは、政府がしばしば声明したことばだ。
 歯舞の声明が発せられ、旭川盆地をつつむ山塊の一角に米ジェット機が墜落し、練兵場から捜索機がぶんぶん飛んでも、このたび北海道で逢った限りの顔々から「危険地帯」と見ての不安や動揺の一かけらすら私は見たことがない。ニュースがあれだけ書きたてているのだから、知らぬがほとけのそれではない。人々は私がいま書いたような歴史を、めいめいの家族史ファミリーヒストリーのうちに直感的に反省しながら、それが直感的であるだけいよいよしんじつに、事態の真相を把握させているのであろう。旭川から函館まで私が逢ったかぎりのすべての人々に、北海道の晩秋初冬の、あの深い落つきと用意があるのはそのためであるにちがいない。

 北海道の人心の前史と後史をはげしく分離したものは、終戦直後から二・一ストにいたる大嵐であった。この嵐の中から、道庁林務課の年わかい一係長が新しい知事に選出されたのであった。去年の春、任期を満たした彼は、再び自由党候補を破って再任したが、彼が属する左派社会党のほかに、労農党と共産党の票が支持していたのである。今年の総選挙で彼が右派社会党某候補を応援したということから、何かしらもめているニュースが私の滞在中に出ていたが、書く興味はない。「千島返還促進同盟」を彼が首唱して、道民が少しも踊らず、おくらになってしまったが、「ハボマイ返還促進同盟」の二の舞を舞う道化役者に、なるかならぬか、するかしないか、彼の意志の彼方にあろう。彼の意志の彼岸の世界で、私が一晩泊ったのはチャシナイ炭坑であった。正確には三菱鉱業茶志内鉱業所。炭労茶志内支部を結成している全九百人の坑夫が無期限ゼネストにはいって五日めのひるまえに着いた。生れてはじめて見た炭坑は、物音一つなくしずまりかえって、往来に人影もまばらであった。せまい坑夫集会所でもたれた夜の講演会には三十人ばかり、それはこのたびの講演旅行中、いちばんささやかな聴衆であったが、いちばんふかい思い出となって残っている。
 老人と少年がおもであった。青年たちは無期限ストの第一日から、アルバイトのため山を去っていた。翌朝札幌から帰ってきた組合執行委員長の富田勇君にきくと、ストを支えるためのここの準備は食料だけで一カ月分あるという。にもかかわらず坑夫たちが第一日からしずかにアルバイトに出ていったのは、さきほどの破防法反対ストで準備された政治的意識のたかまりによると彼はいうのである。政治といえばここでこんどの選挙のことを顧みてみよう。共産党で落選した旭川の五十嵐久弥君(日共上川委員長、日農道連委員長)からきいたところでは、彼が立った第二区の得票数は四年前の五〇%をわずか上まわっていた。そのうち炭山方面はもっとも下まわる。農村地帯では村数六〇のうち前回より六カ村多く、前回の四倍をえた村さえある。ところが、彼が委員長である日農が権力をとっている村々――村議村長を占めている村々で、自由党に全票を献じたという現象がみられる。そうせぬことにはバス道路はその村に打通できないわけである、等々。
 ここはその下まわっている炭山地帯だ。茶志内炭山で得られた共産党の票は、総選挙ではわからぬが直後の市会議員補充選挙でみると、全山家族とも千五百のうち七百だったという。だが富田君がいうこのたびのストの政治意識とは、この数字ではかれるものとはもひとつべつの、あるいはまえの、もっと単的なものであるらしい。破防法通過はスト権はくだつの第一歩であるということを、りくつぬきに了知した炭坑夫の本能――そのようなカンのめざめなのだ。私は科学者だから神秘は知らない。そのようなカンや本能とは、三代にわたる家の歴史の身のおぼえのことなのだ。貧農から坑夫へ――。
 茶志内の坑夫集会所で私がえらんだ演題は、このたび他のどこでえらんだものよりも高度な主題のものであった。「民族文化と労働者階級」。仮りにこの主題を、私が所属する歴史学研究会の春の大会にかけてみたとするとき、どんな討論が渦まくかは見ものであるにちがいない。私は同行の会員鳥山成人君を証人としていうが、茶志内三十人の坑夫諸君は、この主題に食いいって、私を迷わせることがなかった。貧農から坑夫へ――。三代にわたって蓄積されたカンが、二・一ストまでとその後を背景に、朝鮮戦争と条約と破防法の現在史で、するどく心内に現像されてきつつあるのだ。

 茶志内から私は小樽、ついで余市よいちと一泊したのだが、書くための紙数がのこっていない。小樽も余市もけっして進歩的な性格の土地ではなく、それにはそれの長い歴史が伴っている。小樽ではこの夏、挑発されて火炎ビン事件がおこり、ビンを投げた自由労働者の組合は、鮮明に右旋回してあっといわせた。市議四〇人中自由党二五人を擁する小樽市議会は、このそうどうのあと八月下旬「戦争宣伝禁止法」を可決した。この法案の内容をききもらしたのは遺憾であるが、今年六月、札幌市議会が集会保安条令を布いて、いっさいの集会を届出主義から許可主義へと逆行させた方角と、反対のものであるのが妙であろう。すると九月初旬になって、小樽港をアメリカ軍事基地として「提供」したらどうかという横浜調達庁のかねての勧誘にたいして、市議会は断乎、港湾軍港化反対決議を通過させた。全市民が熱烈にそれを支持したからである。
 私の小樽の講演は「平和を守る会」と小樽市の共催だった。みぞれまじりの夜の嵐をついて、往年の摂政宮行啓を記念するひのき造りの公会堂の、広さにくらべて座席の少い会場にほぼいっぱいの学生と市民があつまった。
 余市では私は話すよりも学ぶ時間をゆっくりともった。旭川藤井家で御馳走になった「秋味」――鮭のしゅん――をいつまでも私は忘れないのだが、はからずもここ余市の道立水産試験場でまる一日この方面でからっぽの私の頭を、みたすことができたことはしあわせであった。夜ふけの公民館で名物のリンゴ・ウィスキーをのみわかれて、翌朝私は函館学芸大学の諸君とともに五稜廓ごりょうかくに立っていた。
 久保栄くぼさかえ『五稜廓血書』の筋書はあらかた忘れてしまっても、この五稜廓に立つ感情は、一九五二年まで時機をおくらせただけのふかさはあった。
 安政二年乙卯みう夏、仙台鳳谷小野寺謙刊行の蝦夷えぞ地図をみると、太平洋岸の内地からは下北半島の突端大畑港と佐井港から函館へ、日本海岸の航路は津軽半島の北端ミウマヤ港から松前(福山)に達する。そのとき内地と蝦夷を結ぶメインルートが大阪を起点として瀬戸内海、日本海沿岸を経て松前に達する日本海航路だったことはいうまでもない。江差追分えさしおいわけから安来節やすきぶしまでの港々の民謡に一抹の基調が通っているのはそのためである。
 鳳谷地図はむろん最上徳内もがみとくない間宮林蔵まみやりんぞうそのたを参照して成ったものだが、樺太の南半は「北蝦夷地」と書いて日本領に彩り、北半は「サカレン」と書いて白地のままである。千島については「ウルフ以北は我有に非す」と註し、ハボマイ諸島はもちろんのこと、エトルフ、クナシリ、シコタンを「ネモロ持」つまり根室会所支配下の日本領におさめてある。それにしてもこの古地図がいま何の役に立つというのであろうか? 日本占領を区域したマッカーサー・ラインは、クナシリと北海道をわかつ根室海峡野付水道を経てシコタンとハボマイ諸島の間でなく、ハボマイ諸島の西端島貝殻島かいがらじま花咲はなさき半島の東端ハボマイ村のあいだ、わずか一・四マイルの中間〇・七マイルの地図上を走っているのである。
 よくもあしくも「占領日本」から出発している今日の「独立日本」、未条約諸国にとってはまだ占領日本のままであるわれらの日本、その「危機」は北海道に局限されているのではない。それはどの内地にいても自明のことであるのに、今ここ五稜廓に立って願望するとき無量の感を呼ぶのである。ここ五稜廓に凝集される蝦夷地の過去は、明治政府に封土をうばわれた徳川遺臣たちの共和国宣言となって濃い印象をのこしている。この五稜廓はそもそもツァー・ロシアの侵略をおそれて、幕府が築いたものである。蘭法による築城術は当年の世界的水準をそなえていたといってよい。その城が、その幕府のさいごの牙城となり、いわんや日本国土上さいしょの共和声明の記念の場所となるなぞと、だれが予測したことであろう。
 北海道がツァー・ロシアでなく、いまやソビエト・ロシアの「赤い侵略」にさらされているというのが今日の「民主世界」の有力な予測である。マス・コミュニケイションのこの「有力」は、いかに民心において無力であるかを私はすでに見てきてここに立っている。
 立って願望するとき無量の感を呼ぶのである。ここ五稜廓に凝集される徳川の過去も、旭川に集約された明治の既往も、このうるわしい光景のなかにいつかけしとんで、着岸の日のあの望郷の想念を、このうるわしい光景のなかに、私はほしいままにする。





底本:「黒船前後・志士と経済他十六篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年7月16日第1刷発行
底本の親本:「服部之総全集」福村出版
   1973(昭和48)〜1975(昭和50)年
初出:「改造」
   1952(昭和27)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「さいはての地を往く――北海道初行脚――」です。
入力:ゆうき
校正:小林繁雄
2010年9月13日作成
2011年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード