私の信条

牧野富太郎




 何んでもこうしようと思っている考えは大小となく軽重となくいずれも信条である、ですから、人々はたくさんな信条を持っているわけだ、それゆえ信条のない人はおそらく世の中に一人もあるまい。
 だが、信条には立派な信条もあればつまらぬ信条もある、偉大な人の信条はこの上もなく立派なものであるのだが、平凡な人の信条はその人のように全く平凡である。
 私は凡人だから凡人並みの信条を持っている。その中で私として最も大なる信条は、わが日本の植物各種を極めて綿密にかつ正確に記載し、これを公刊して書物となし、世界の各国へ出し大いに日本人の手腕を示して、日本の学術を弘く顕揚し、かつ学界へ対して極めて重要な貢献をなし得べきものを準備するに在る、つまり各国人をアット言わせる誇りあるものを作りたいのだ。そして日本人はこのくらい仕事をするぞと誇示するに足るものを作らねばならん。
 これは日本の植物学者に出来ぬ仕事かどうかといえば、それは確かに出来る仕事であると、私はこれを公言し断言するに躊躇しない。すなわちこの目的を以て既に出来たものが、私の著述の『大日本植物志』すなわち“Icones Florae Japonicae”であった。
 私は大学にいる時、大学での責任仕事としてこの大著述に着手した。それは私一人の編著であった。そして私を信じて創めてこの仕事を打立て任せてくれた恩人は当時大学の総長の浜尾新先生であった。
 私は間もなく浜尾先生の仁侠により、至大の歓喜、感激、乃至決心を以て欣然その著述に着手した。私はこの書物について一生を捧げるつもりでいた、そして次のような抱負を持っていた。すなわち第一には日本には、これくらいの仕事をする人があるぞという事、その図は極めて詳細正確で世界でもまずこれ程のものがそうザラにはない事、かつ図中植物の姿はもとよりその花や果実などの解剖図も極めて精密完全に書く事、その描図の技術は極めて優秀にする事、図版の大きさを大形にする事、その植物図は悉く皆実物から忠実に写生する事、このようにして日本の植物を極めて精密にかつ実際と違わぬよう現わす事、まずおよそこんな抱負と目的とをもって私は該著述の仕事を始めた。その原稿は精根を打込み自分で描いてこれを優れた手腕のある銅版師に托して銅版彫刻とし或は石版印刷としたが、後には幾枚かのその原図を写生画に巧みで、私の信任する若手の画工に手伝わしたこともあった。
 この大冊(縦一尺六寸、横一尺二寸)の第一巻第一集が明治三十三年(1900)二月に出版せられて西洋諸国の大学、植物園などへも大学から寄贈せられた。次いで第二、第三、第四集と続けて刊行したが、元来植物学教室で当時私は極めて不遇な地位に在りながら奮闘しておったため、教授の嫉妬なども手伝って冷眼せられ、悪罵せられなどして、この『大日本植物志』の刊行は第四冊目でストップしてしまった。今思うと、これはこの上もない惜しい事で、もしもこれを今までも続けていたなら、必ず堂々たる貴重本にもなっていたであろうし、また学問上へも相当貢献していたであろうが、短命で夭死したので、誠に残念ながら、ただ四冊だけが記念として世に残ることとなった。
 明らさまに言えば今日の日本の植物界で著者自身で精図も描き、詳細無比の解説文も綴るこのような仕事を遂行出来る人はおそらくこれなく、またチョットそんな人は世に出ないのであろう。これは著者がよほど器用な生れの人でない限りそれは出来ない相談だ。自慢するようでおかしいけれど、この植物志と同様な仕事を仕遂げる人はまず今日では、率直に言えば、私自身より外にはないと断言してよいのであろう。これは狂人の言かも知れないが、もしあればやってみるがよい、果して匹敵が出来るかどうか、いつでも御手際を拝見しよう。
 私の残念でたまらないことはこの仕事が続かなかったことだ。この私の深い信条の仕事が頓挫したことだ。これは日本の文化のためにこの上もない惜しいことだが、しかしとにかく四冊だけ出来た。嘘と思えばどなたでも右の四冊を御覧になって下さい。そうすれば私が虚言を吐いているか妄言を弄しているかがよく分るであろう。
 私のやりたいと思ったこの大きな信条のその実行が、右のように挫折したことは、日本のためにもまた私のためにも甚だ惜しい。これを思うと涙がにじんで来る。私が今もっと若ければ復たび万難を排して仕事にかかるけれど、なにを言え少し年を取り過ぎた。イヤ八十九歳でも強いてやれば出来んことはない自信はあれど、他に研究せねばならぬ事項がたくさんあるから、この一事に安んじてそれを遂行する時間を持たない。ただ私のせめてもの思い出は、右植物志は私の記念碑を建てたようなものであると自分で自分を慰めている次第だ。希くは将来右の植物志と同様、いな、それ以上の立派な仕事が出来る人が日本に生れ出て、その誇りとする出来栄えを世界万国に示されんことを庶幾する次第だ。
 私の信条の大なるものまずこの如しだ、妄言多罪、頓首頓首。





底本:「現代日本記録全集9 科学と技術」筑摩書房
   1970(昭和45)年2月28日初版第1刷発行
底本の親本:「世界」岩波書店
   1953(昭和28)年
初出:「世界」岩波書店
   1953(昭和28)年
入力:sogo
校正:持田和踏
2023年1月28日作成
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