牧野富太郎自叙伝

第二部 混混録

牧野富太郎




所感


何時いつまでも生きて仕事にいそしまんまた生まれ来ぬこの世なりせば

 われらの大先輩に本草学、植物学に精進せられた博物学者の※(「穴かんむり/果」、第3水準1-89-51)きんか翁伊藤圭介先生があった。珍しくも九十九歳の長寿を保たれしはまず例のすくない芽出度めでたい事である。しかるに先生の学問上研鑽がこの長寿と道連れにならずに、先生の歿年より遡りておよそ四十年程も前にそれがストップして、その後の先生は単に生きていられただけであった。そうすると先生の研究は直言すれば死の前早くも死んでいるのである。学者はそれでいのか、私は立ちどころにノーと答える事に躊躇しない。
 学者は死ぬる間際まで、すなわち身心が学問に役立つ間は日夜孜々ししとしてその研鑽を続けねばならない義務と責任とがある。畢竟それが学者の真面目で学者の学者たる所以ゆえんはそこにある。「老」という事は強いて問題にすべきものではなく、活動している間は歳は幾つであろうと敢てそれを念頭に置く必要は無い。足腰が立たなくなり手も眼も衰え来ってために仕事が出来なくなれば、その時こそはじめて「老」が音ずれて真の頽齢境に入るのである。そうなれば全く世に無用な人間となりはて、何時死ぬるも御勝手で何も遠慮することには及ばぬ事となる。
 自分は平素上のように考えているので、たとい年は取ってもなるべく仕事の出来る期間の長からん事を祈っている。そして前の伊藤先生の場合を回想すると先生の長寿はこの上も無く芽出度いが、そのはやく放棄せられた研究心はその長寿に比べては一向に御芽出度く無い。故に学者としての先生は決して九十九歳では無く、それよりはずっと短くおよそ六十歳位の生命であったと断ずべきだ。自分は無論先生の比類れな長寿を祝する事には異存は無いが、しかし一面早くも研鑽心を忘れた先生を弔する事にも敢て臆病では無いのだ。

私の健康法


 昭和二十二年十一月一日、東京の中村舜二氏という方から『高齢一百人』と題する書物を用意するために、条項書きで左の回答を求められたので、すなわち筆を馳せて同十二月にその返答を書き綴り同氏へ送ったものが左の通りであった。そして右同氏の書面には「老生事多少たりとも文献報国の微忱びしん不禁此度び現代各階級より御高齢の諸名士一百人を厳選仕りその各位より健康長寿に干する御感想を伺いそれを取り纏めて一本として最も近き将来に出版仕度存候」とあった。

〔一〕特に健康法として日常実行しつつある何等かありや否

 何にも別に関心事なく平素坦々たる心境で平々凡々的に歳月を送っています。すなわちかく心を平静に保つ事が私の守ってる健康法です。しかし長生きを欲するには何時もわが気分を若々しく持っていなければならなく、従って私はこの八十六の歳になっても好んで、老、翁、叟、爺などの字を我が姓名に向かって用いる事は嫌いである。例えば牧野翁とか牧野叟とかと自署し、また人より牧野老台などとそう書かれるのも全く好きません。それ故自分へ対して今日まで自分にこんな字を使った事は一度もなく、「わが姿たとえ翁と見ゆるとも心はいつも花の真盛り」です。

〔二〕最近の日常生活振り

 今日は時節柄止むを得ないから、毎日得られるだけの食物で我慢し生活せねばならぬのだが、しかしなるべく滋養分を摂取する事に心掛け、わが学問のために何時までも自分の体力を支え行かねばならんと痛感しています。それでも元来自分が幸いに至極健康であるが故に今日のところ身体は別に肥える事はないけれど仕合せにはまた敢て弱りもしません。けれども戦前に比ぶれば食の関係で多少痩せた事は事実である。且つこの頃は脂油を得るに難いから、ために皮膚の枯燥を招いています。まことに困ったもんです。

〔三〕食餌法、粗食、小食、菜食、健啖の類、特に好物として快喫するもの

 私は生来割合に少食です。その食物は物により嫌いはあれど、また特殊な好物もなくまず何んでも食っています。胃腸が頗る丈夫なのでよく食物を消化し、一体食物には不断に誠に世話の焼けない方です。しかし従来腥臭なまぐさいために余り魚類を好きませんでしたが、この頃は食味が一変してよくそれを食しています。牛肉は幼年時代から一串いっかんせる嗜好品ですが、鶏肉は余り喜びません。コーヒーと紅茶とは至って好きで喜んで飲みますが、抹茶は余り難有ありがたく思いません。今日は右コーヒーと砂糖とが得難いので困っていますが、しかしヤミで買えば何んとかなるようです、呵々かか

〔四〕酒と煙草との来歴

 私は酒と煙草とは生来全く嫌いで、幼少時代から両方とも呑みません。元来私は酒造家の息子なれども幼い時分から一向に酒を飲まなかったのです。従来この酒と煙草とを用いなかった事は私の健康に対して、どれほど仕合せであったかと今日大いに悦んでいる次第です。故に八十六のこの歳になっても少しも手が顫わなく、字を書いても若々しく見え、敢て老人めいた枯れた字体にはならないのです。また眼も良い方でまだ老眼になっていないから老眼鏡は全く不用です。そしていろいろの書き物写し物は皆肉眼でやり、また精細なる図も同じく肉眼で描きます。しかし、頭髪は殆んど白くなりましたが、私は禿はげにはならぬ性です。歯は生まれつきのもので虫歯はありません。この頃は耳が大分遠くなって不自由です。それから頭痛、のぼせ、肩の凝り、体の倦怠だるさ、足腰の痛みなど絶えてなく、按摩あんまは私には全く用がありません。また下痢なども余りせず両便とも頗る順調です。

〔五〕病歴

 私は文久二年四月の生まれですが、まだ物ごころのつかぬ時分に早くも両親にわかれて孤児となりました。わが家の相続人に生まれた私は幼ない時分には体が弱々しかったので家人が心配し時々灸をすえられたが、それから後次第に息災となり余り病気をした事がなく、そして何等持病というものがありません。しかし今から最早もはや二十年程前に医者に萎縮腎だといわれましたが、小便検査にも一向蛋白が出ず、あるいは時々山に登りあるいは相当に体を劇動させても爾後何の異条もなく今日に及んでいます。しかしこの二、三年以来重い物を抱える際に突然座骨神経痛様の強い痛みが偶発する事があるが、それはおよそ一ヵ月位で自然に全快します。また昨年以来不意に三度も肺炎に侵されしが幸いに平癒して以来何んの別条もなく、この頃は一向に風邪にもかからず過ぎ行いています。数年前に本郷の大学の真鍋物療科で健康診断をして貰った事があったが、その時血圧は低く脈は柔かで若い者の脈と同じだ、これなら今後三十年の生命は大丈夫だと、串戯じょうだん交りにいわれた事があり、そしてこの血圧の低い事と脈の柔かい事から推しますと、まず私は脳溢血に罹る事はないように思われます。またある医学博士は、先生の身体は檜造りで何処も何等の異条がないと褒められた事もありました。
 また私の体はきずをしても滅多にうみを持たず癒るのが頗る早いので、小さい創は何んの手当てもせず何時もそのままほうり放しで置きます。つまり私の体は余り黴菌が繁殖せぬ体質とみえます。すなわちバクテリアの培養基としては極めて劣等のものと想像します。そして何んだか自分にもそのように信ずるので、流行病のある時などでも電車中でマスクを掛けた事は絶えてありません。それから私は常に鼻で呼吸をしています。電車中でも隣の客が咳をしますと、その唾の飛沫を吸い込まぬ用心のために暫時、呼吸をする事を止めています。

〔六〕配偶者の過去現在

 妻は昭和三年に五十五歳で病歿、生まれた子供は十三人、現在六人生存、他は病歿、私には後妻はない。

〔七〕父母及祖父母の年齢と家系

 父は養子で慶応元年に三十九歳で病歿。
 母は祖父の先妻の娘で慶応三年に三十五歳で病歿。
 祖父は慶応四年に七十五歳で病歿。
 祖母は病歿。
 第二(後妻)の祖母は明治二十年に七十八歳で病歿、私とは何んの血統も引いていない。家系は土佐国高岡郡佐川さかわ町で旧家といわれし家柄で、酒造と雑貨店とを営んでいた商家です。

〔八〕睡眠時間、起床、就床

 睡眠時間はまず通常六時間あるいは七時間位で、朝は大抵八時前後に床から離れます。非常によく眠り枕を附けると直ぐ眠りに落ちます。夢は時々見ます。この頃は夜は十二時前に就褥した事は殆どなく、往々午前一時、あるいは二時、あるいは三時頃、あるいは時とすると夜の明ける迄ペンを執っていますが、しかしその翌日は別に何んともありません。今日では大抵毎日朝から夜の更ける迄机前に坐し書生気分で勉強し、多くは我が著述に筆を持ち、あるいは植物の研究に従事し、只食事時に行いて食卓につくばかりです。
 私は幸いに非常に根気がよく続き、一つの仕事を朝から晩まで続けても、敢て厭きが来るような事は少しもありません。どうも何か仕事をしていないと気の済まん性分と見えます。そして夏でも一向に昼寝をした事はありません。しかし二、三年来余り坐り通しで、大いに運動が不足しており、且つ日光浴も紫外線にあたる事も不充分ゆえ、これからはその辺に大いに注意すべきだと思っています。私の机は主として日本机を用い、テーブルよりは此方がずっと楽です。つまりこれはその人の習慣に由るのでしょう。

〔九〕信仰

 信仰は自然その者がすなわち私の信仰で別に何物もありません。自然は確かに因果応報の真理を含み、これこそ信仰の正しい標的だと深く信じています。つねに自然に対していれば私の心は決して飢える事はありません。

〔十〕趣味趣向

 私は生来いろいろの趣味を持っていますが、その中でも音楽、歌謡、絵画は最も興深く感じます。また自然界の種々な現象、種々な生物ならびに品物についても趣味を感じ、殊に火山については最も感興を惹きます。けれども他に超越して特に深い趣味を感受するものは、何んといっても天性好きな我が専門の植物その者です。草木に対していれば何の憂鬱も煩悶も憤懣もまた不平もなく、何時も光風霽月せいげつでその楽しみいうべからずです。まことに生まれつき善いものが好きであったと一人歓び勇んでいるのです。そしてそれは疑いもなく私一生涯の幸福であると会心の笑みを漏しています。従って敢て世を呪わず、敢て人をば怨まず、何時も心の清々しい極楽天地に棲んでいるのです。

〔十一〕養生訓、処世訓と曰ったもの

 前にもべた通り私は体が至って健康な故に、別に養生訓というものに、ついぞ注意を向け心を労した事がありません。つまりいわゆる養生に無関心な訳で、私の体にはその養生というものに対して心配する程な、欠陥がないからです。故に畢竟敢て気に留めないのです。また処世訓も同様で、私は敢て世態に逆らわずに進退し、常にそれに順応して行く故に、特にいわゆる処世訓というような題目に心を配ってそれをとやかく論じ理窟をいって見た事は一度もありません。

〔十二〕近什近詠

 つたなき近詠を左に、

いつまでも生きて仕事にいそしまん、
   また生まれ来ぬこの世なりせば
何よりも貴とき宝もつ身には、
   富も誉れも願わざりけり

余ガ年少時代ニ抱懐セシ意見


 左の一篇は私が年少時代にわが郷里土佐高岡郡佐川町の自宅に於てその当時私の抱懐していた意見を書き附けたもので、「赭鞭一撻しゃべんいったつ」と題してあった。これは今から六十六、七年前の明治十四、五年、私が二十歳頃に書いたものである。そして今日これを読んでみると私は実に感慨に堪えないものがある。当時私は飽食暖衣別に何の不自由もなかったのであったから、時来れば必ず仰〔望〕の抱負をことごとく実行して見ようと心ひそかに期待していたに相違ない。春風秋雨半世紀以上をた今日に於てこれをけみして見ると、その中でなんぼも実績が挙がっていないのに一驚を喫する。今日これを回想すれば爾来有為の活動時代に私は何をして過ごして来たのか。私はただ何時とはなしに夢の如く今日まで来たような感じがする。私が招きに応じ民間から入って東京大学の理科大学に奉職したのは指折り数えて見ると、実に今から五十四年前の明治二十六年一月であったが、月給僅か十五円、その時分から貧乏をしはじめて思う事が充分に出来なかった。いたずらに歳月矢の如くきて今は全くの白頭になったが、その間何一つでかした事もないので、この年少時代に書いた満々たる希望に対してうた忸怩じくじたらざるを得ない。
 今左にわざとその「赭鞭一撻」の一字一句も改竄せずに、極めて拙文のままその全篇を掲げて、読者諸君の一粲いっさんに供えてみよう。私は上に述べたように今は何んにも出来ていないが、それでも一度はこのような希望に燃えていた少年であった事を思い遣って下さい。

赭鞭一撻       結網子 稿
○忍耐ヲ要ス
堅忍不撓ノ心ハ諸事ヲ為スモノノ決シテ欠クベカラザル者ニシテ繁密錯雑ナル我植学ニ在テモ資ヲ此ニ取ラザルハ一トシテ之ナキナリ故ヲ以テ阻心ヲ去テ耐心ヲ存スルモノハ其功ヲス易々タルナリ
○精密ヲ要ス
周密詳細モ亦決シテ失フ可ザルモノニシテ之ニ忍耐ヲ添加シテ其功正ニ顕著ナリ精細之ヲ別テ両トナス心ト事ト是ナリ解剖試験比較記載ヨリ以テ凡百ノコトニ至テ皆一トシテ此心ノ精ヲ要セザルナク又事ノ精ヲ要セザルナシ故ヲ以テ此心ヲシテつねニ放逸散離セシメザレバ一睹いっとスル者此ニ瞭然一閲スル者此ニ粲然
○草木ノ博覧ヲ要ス
博覧セザレバ一方ニ偏辟ス一方ニ偏在スレバ遂ニ重要ノ点ヲ決スル能ハズ要点ヲ発見スル無キハ是レ此学ノ病ニシテ其病タル博覧セザルニ座スルモノナリ
○書籍ノ博覧ヲ要ス
書籍ハ植物記載〔所載ノ意ナリ〕ノ書ニシテ仮令たとヒ鶏肋ノ観ヲ為スモノト雖ドモ悉ク之ヲ渉猟閲読スルヲ要ス故ニ植学ヲ以テ鳴ラント欲スルモノハ財ヲおしム者ノ能ク為ス所ニアラザルナリ
○植学ニ関係スル学科ハ皆学ブヲ要ス
曰ク物理学曰ク化学曰ク動物学曰ク地理学曰ク天文学曰ク解剖学曰ク農学曰ク画学是皆関係ヲ植物学ニ有ス数学文章学ハ更ニ論ヲまたザルナリ
○洋書ヲ講ズルヲ要ス
其堂ニ造ラント欲シ其ししむら[#「栽」の「木」に代えて「肉」、U+80FE、144-12]くらハント欲スル者ハまさニ洋籍ヲ不講ニ置ク可カラザルナリ是レ洋籍ノ結構所説ハ精詳微密ニシテ遠ク和漢ノ書ニ絶聳スレバナリ雖然しかりといえども是レ今時ニ在テ之ヲ称スルノミ永久百世ノ論トスルニ足ラザルナリ
○当ニ画図ヲ引クヲ学ブベシ
文ノミニテハ未ダ以テ其状ヲ模シ尽スコト能ハズ此ニ於テカ図画ナル者アリテ一目能ク其微妙精好ノ処ヲつくス故ニ画図ノ此学ニ必要ヤもっとも大ナリ然而しかりしこうして植物学者自ラ図ヲ製スル能ハザル者ハつねニ他人ヲやとうテ之ヲ図セシメザルヲ得ズ是レ大ニ易シトスル所ニ非ザルナリ既ニ自ラ製図スルコト能ハズ且加フルニ不文ヲ以テスレバ如何シテ其うんヲ発スルコトヲ得ルヤ決シテ能クセザルナリ自ラ之ヲ製スルモノニ在テハ一木ヲ得ル此ニ※(「暮」の「日」に代えて「手」、第3水準1-84-88)シ一草ヲ得ル此ニ写シ更ニ他人ノ労ヲ仮ラズ且加ルニ舞文ヲ以テセバあたかモ晶盤ニ水ヲ加フルガ如ク彰々瞭々其微ヲひらキ其蘊ヲ発スルハ是レ易シトスル所ナリ之ヲ自ラ製スル能ハザルモノニ比スレバ難易ノ懸絶スルヤ一目其大ナルコトヲ知ルナリ
○宜ク師ヲ要スベシ
書籍ノミニテハ未ダ以テ我疑ヲ解クニ足ラズ解疑スルニ足ラザレバ師ニ就テ之ヲ問フノ外ニ道ナキナリ其師トスル処ハ必ズ一人ヲ指サズ我ヨリ先ニ之ヲ聴クモノバ生ルヽノ我ヨリ先後ニ論ナク皆悉ク之ヲ師トシテ可ナリ若シ年ノ我ヨリ幼ナルヲ見テ曰ク我ニシテ彼幼者ニ問フ羞ヅ可キノ至リナリト如此かくのごとくニ至テハ如何シテ其疑ヲ解クヲ得ルカ其疑タル死ニ至テ尚未ダ解ケザルナリ
○吝財者ハ植学者タルヲ得ズ
書籍ヲあがなフ財ヲ要スルナリ器械ヲ求ムル財ヲ要スルナリいやしくモ此学ノ考証ニ備ヘ此学ヲシテますます明ナラシムル所以ノモノハ皆一トシテ財ヲ要セザルナシ財ヲ投ゼザレバ書籍器械等一切求ムル所ナシ故ニ曰ク財ヲおしム者ハ植学者タルヲ得ズト
〇跋渉ノ労ヲ厭フ勿レ
峻嶺岡陵ハ其攀登ニ飽カズ洋海川河ハ其渡渉ヲ厭ハズ深ク森林ニ入リ軽ク巌角ヲヂ沼沢砂場ニ逍遥シ荒原田野ニ徘徊スルハ是レ此学ニ従事スルモノヽ大ニゆるがせニス可ラザル所ニシテ当ニ務テ之ヲ行フベキナリ其之ヲ為ス所以ハ則チ新花ヲ発見シ土産ヲ知リ植物固有ノ性ト其如何ノ処ニ生ズルカヲ知ルニ足レバナリ
○植物園ヲ有スルヲ要ス
遠地ノ産ヲ致シ稀有ノ草木ヲ輸スルトキハ皆之ヲ園ニうえテ之ヲ験スベキナリ又賞玩ノ草木ニ至テハ随在之ヲ自生スルモノニ非ズ故ヲ以テ之ヲ園ニ培養セザルヲ得ズ又山地沼沢等ノ草木ヲ栽蒔さいじシテ他日ノ考ニ備フルハ大ニ便ヲ得ル有ルナリ故ニ植物学ヲ修スルノ輩ハ其延袤えんぼうノ大小ヲ問ハズ当ニ一ノ植物園ヲ設置スルヲ以テ切要トスベシ既ニ園ヲ設クレバ則チ磁盆鋤鍬じょしょうノ類ヨリシテ園ニツノ物ハ一切予置スルハ更ニ論ヲ俟ザルナリ
○博ク交ヲ同志ニ結ブ可シ
道路ノ遠近ヲ問ハズ山河ノ沮遮ヲ論ゼズ我ト志ヲ同クスルモノアレバ年齢ノ我ニ上下スルニ論ナク皆悉ク之ト交ヲ訂シ長ヲ補ヒ互ニ其有スル所ヲ交換スレバ其益タル少小ニ非ズシテ亦一方ニ偏スルノ病ヲ防グニ足リ兼テ博覧ノ君子タルコトヲ得ベシ
○邇言ヲ察スルヲ要ス
農夫野人樵人漁夫婦女小児ノ言考証ニ供スベキモノ甚ダ多シ則チ名ヲ呼ビ功用ヲ称シ能毒ヲ弁ズルガ如キ皆其言フ所ヲ記シ収ムベシ他日其功ヲ見ズンバアラザルナリ故ニ邇言じげん取ルニ足ラズト云ガ如キニ至テハ我ノ大ニ快シトセザル所ナリ
○書ヲ家トセズシテ友トスベシ
書ハ以テ読マザル可ラズ書ヲ読マザル者ハ一モ通ズル所ナキ也雖然其説ク所必ズシモ正トスルニ足ラザルナリ正未ダ以テ知ル可ラズ誤未ダ以テ知ル可ラザルノ説ヲ信ジテ以テ悉ク己ノ心ニ得タリト為シダ一ニ書ヲ是レ信ジテ之ヲ心ニ考ヘザレバ則点一ニ帰スルナク貿貿乎トシテ霧中ニ在リ遂ニ植学ヲ修ムル所以ノ旨ニ反シテ其書ノ駆役スル所トナリ其身ヲ終テ後世ニ益スルナシ是レ書ヲ以テ我ノ家屋ト為スノ弊タルノミ如此かくのごとクナラザル者ハ之ヲ心ニ考ヘ心ニ徴シテ書ニ参シ必シモ書ノ所説ヲ以テ正確ニシテ従フベキト為サズ反覆討尋其正ヲ得テ以テ時ニ或ハ書説ニ与シ時ニ或ハ心ニ従フ故ヲ以テ正ハいよいヨ正ニ誤ハますます遠カル正ナレバ之ヲ発揚シテ著ナラシメ誤ナレバ之ヲしりぞけテ隠ナラシム故ニ身ヲ終ルト雖ドモ後世ニ益アリ是レ書ヲ以テ家屋トズシテ書ヲ友トナスノ益ニシテ又植学ヲ修ムルノ主旨ハ則チ何ニ在ルナリ
○造物主アルヲ信ズルなか
造物主アルヲ信ズルノ徒ハ真理ノ有ル所ヲ窺フ能ハザルモノアリ是レ其理隠テ顕レザルモノアレバ其理タル不可思議ナルモノトシ皆之ヲ神明作為ノ説ニ附会シテ敢テ其理ヲ討セザレバナリ故ニ物ノ用ヲ弁ズルコトハ外ニ明ナリト雖ドモ心常ニ壅塞ようそく丕閉ひへいシテ理内ニ暗シ如此ノ徒ハ我植学ノ域内ニ在テ大ニ恥ヅベキ者ナラズヤ是レ之ヲ強求スレバ必ズ得ルコトアルモ我ノ理ノ通ゼザル処アレバ皆之ヲ神明ノ秘蘊ニ托シテ我ノ不明不通ヲ覆掩修飾スレバナリ

火山を半分に縦割りにして見たい


 私は去る昭和十二年一月に次のような文章を当時の「科学知識」で発表した。これは私がかの葦原あしわら将軍の二代目になるため松沢へ行こうというのではなく、全く正気の沙汰で筆を執ったのである。そして今日でも敢てこの希望は捨てていなく、もしも万一レコが千万円も懐に這入って来た事が夢ではなくて本当にあったなら早速その仕事に取り掛る段取りになるのだが、どうもこの福の神ゴ入来は少々当てにゃならんらしいから、まずここは一場のオ話に止めておくより外致方はあるまい。千万長者に生まれなかったばっかりにサテも残念至極な事だ。いやしくも名を後世に垂れんとするにはこの位デッカイ事をしでかさんとモノにゃならん、そこに来ると秦の始皇は全くエライよ、万里の長城は始皇の名と共に不朽ではないか、またピラミッドもこの類だネ。
 私は一つの火山を縦に半分に割ってその半分の岩塊を全部取り除けてみたい。つまり山を半分にするのだ。これを実行するには大きな山はとても手におえずアキマヘンから、なるべく小さい孤立した山を択びたい。それにはかの伊豆の小室山こむろやまが丁度持って来いだ、これならなし遂ぐべき可能性が充分にある、そしてそれが休火山と来ているのだから願うてもない幸いだ。
 さていよいよその山が半分になったと仮定して見たまえ、すなわちそれが元は火山であるのだから、これを縦に割ったらたちまちその山の成り立ちやら組織やらまた年代やらが判明し、そこで火山学や岩石学、地質学などに対しどれほど無類飛切りな好研究資料を提供するか知れない。かの有名なジャヴァのクラカトアの火山が半分ケシ飛んでいるが、マアそんなものになる訳だ。クラカトアの方は強烈な天然の爆発力でアノ様になったのだが、われはそれを人間わざで行こうというのだ。まだ今日まで世界広しといえども、こんな事をしたのは何処にも無かろう。それを学術のために日本人がしでかそうというのは褒めた話であるといってよい。日本は戦争にも負けたが、それでもなかなか馬鹿にならん大きな考えを持っている人があると当世の人々はキット瞠目するのであろう。

私の信条


 何んでもこうしようと思っている考えは、大小となく軽重となくいずれも信条である。ですから、人々は沢山な信条を持っているわけだ。それゆえ信条のない人は恐らく世の中に一人もあるまい。
 だが、信条には立派な信条もあればつまらぬ信条もある。偉大な人の信条はこの上もなく立派なものであるのだが、平凡な人の信条はその人のように全く平凡である。
 私は凡人だから凡人並みの信条を持っている。その中で私として最も大いなる信条は、わが日本の植物各種を極めて綿密に且つ正確に記載し、これを公刊して書物となし、世界の各国へ出し、大いに日本人の手腕を示して、日本の学術を弘く顕揚し、且つ学界へ対して極めて重要な貢献をなし得べきものを準備するにある。つまり各国人をアットいわせる誇りあるものを作りたいのだ。そして日本人はこの位仕事をするぞと誇示するに足るものを作らねばらん[#「作らねばらん」はママ]
 これは日本の植物学者に出来ぬ仕事かどうかといえば、それは確かに出来る仕事であると、私はこれを公言し断言するに躊躇しない。すなわちこの目的を以て既に出来たものが、私の著述の『大日本植物志』すなわち“Icones Florae Japonicae”であった。
 私は大学にいる時、大学での責任仕事としてこの大著述に着手した。それ私一人の編著であった。そして私を信じてはじめてこの仕事を打立て任せてくれた恩人は当時大学の総長の浜尾新先生であった。
 私は間もなく浜尾先生の仁侠により、至大の歓喜、感激、乃至ないし決心を以て欣然その著述に着手した。私はこの書物について一生を捧げるつもりでいた。そして次のような抱負を持っていた。すなわち第一には日本には、これ位の仕事をする人があるぞという事、その図は極めて詳細正確で世界でもまずこれ程のものがザラにはない事、且つ図中植物の姿はもとよりその花や果実などの解剖図も極めて精密完全に書く事、その描図の技術は極めて優秀にする事、図版の大きさを大形にする事、その植物図は悉く皆実物から忠実に写生する事、このようにして日本の植物を極めて精密に且つ実際と違わぬよう表わす事、まずおよそこんな抱負と目的とを以って私は該著述の仕事をはじめた。その原稿は精魂を打込み自分で描いてこれを優れた手腕のある銅版師に托して銅版彫刻とし、あるいは石版印刷としたが、後には幾枚かのその原図を写生図に巧みで、私の信任する若手の画工に手伝わした事もあった。
 この大冊(縦一尺六寸、横一尺二寸)の第一巻第一集が明治三十三年(一九〇〇)二月に出版せられて西洋諸国の大学、植物園などへも大学から寄贈せられた。次いで第二、第三、第四集と続けて刊行したが、元来植物学教室で当時私は極めて不遇な地位にありながら奮闘しておったため、教授の嫉妬なども手伝って冷眼せられ、悪罵せられなどして、この『大日本植物志』の刊行は第四冊目でストップしてしまった。今思うと、これはこの上もない惜しい事でもしもこれを今までも続けていたなら、必ず堂々たる貴重本にもなっていたであろうし、また学問上へも相当貢献していたであろうが、短命で夭死したので、まことに残念ながら、ただ四冊だけが記念として世に残る事となった。
 明らさまにいえば今日の日本の植物界で著者自身で精図も描き、詳細無比の解説文も綴るこのような仕事を遂行出来る人は恐らくこれなく、またチョットそんな人は世に出ないのであろう。これは著者がよほど器用な生まれの人でない限りそれは出来ない相談だ。自慢するようで可笑しいけれど、この『植物志』と同様な仕事を仕遂げる人はまず今日では、率直にいえば私自身より外にはないと断言してよいのであろう。これは狂人の言かも知れないがもしあればやって見るがよい、果して匹敵が出来るかどうか、何時でも御手際を拝見しよう。私の残念でたまらない事はこの仕事が続かなかった事だ。この私の深い信条の仕事が頓挫した事だ。これは日本の文化のためにこの上もない惜しい事だが、しかしとにかく四冊だけ出来た。嘘と思えばどなたでも右の四冊を御覧になって下さい。そうすれば私が虚言を吐いているか妄言を弄しているかがよく分るであろう。
 私のやりたいと思ったこの大きな信条のその実行が、右の様に挫折した事は、日本のためにもまた私のためにも甚だ惜しい。これを思うと涙がにじんで来る。私が今もっと若ければふたたび万難を排して仕事にかかるけれど、何をいえ少し年を取り過ぎた。イヤ八十九歳でも強いてやれば出来ん事はない自信はあれど、他に研究せねばならぬ事項が沢山あるから、この一事に安んじてそれを遂行する時間を持たない。ただ私のせめてもの思い出は、右『植物志』は私の記念碑を建てたようなものであると自分で自分が慰めている次第だ。ねがわくは将来右の『植物志』と同様、否な、それ以上の立派な仕事が出来る人が日本に生まれ出て、その誇りとする出来栄えを世界万国に示されん事を庶幾しょきする次第だ。
 私の信条の大なるものはまずかくの如しだ。妄言多罪、頓首々々。

わが生い立ち


 私はかつて「帝国大学新聞」にこんな事を書いた事があります。それはすなわち「私は植物の愛人としてこの世に生まれ来たように感じます。あるいは草木の精かも知れんと自分で自分を疑います。ハハハハ、私は飯よりも女よりも好きなものは植物ですが、しかしその好きになった動機というものは実のところそこに何にもありません。つまり生まれながらに好きであったのです。どうも不思議な事には、酒屋であった私の父も母も祖父も祖母もまた私の親族のうちにも誰一人特に草木の嗜好者はありませんでした。私は幼い時からただ何んとなしに草木が好きであったのです。私の町(土佐佐川町)の寺子屋、そして間もなく私の町の名教館めいこうかんという学校、それに次いで私の町の小学校へ通う時分よく町の上の山などへ行って植物に親しんだものです。すなわち植物に対してただ他愛もなく、趣味がありました。私は明治七年に入学した小学校が嫌になって半途で退学しました後は、学校という学校へは入学せずにいろいろの学問を独学自修しまして多くの年所を費やしましたが、その間一貫して学んだというよりは遊んだのは植物の学でした。
 しかし私はこれで立身しようの、出世しようの、名を揚げようの、名誉を得ようの、というような野心は、今日でもその通り何等抱いていなかった。ただ自然に草木が好きでこれが天稟てんびんの性質であったもんですから、一心不乱にそれへそれへと進んでこの学ばかりはどんな事があっても把握して棄てなかったものです。しかし別に師匠というものが無かったから、私は日夕天然の教場で学んだのです。それゆえ断えず山野に出でて実地に植物を採集しかつ観察しましたが、これが今日私の知識の集積なんです」というのでした。
 こんなようなわけで草木は私の命でありました。草木があって私が生き、私があって草木も世に知られたものが少なくないのです。草木とは何の宿縁があったものか知りませんが、私はこの草木の好きな事が私の一生を通じてとても幸福であると堅く信じています。そして草木は私に取っては唯一の宗教なんです。
 私が自然に草木が好きなために、私はどれ程利益をけているか知れません。私は生来ようこそ草木が好きであってくれたとどんなに喜んでいるか分りません。それこそ私は幸いであったと何時も嬉しく思っています。

ハタットウ


 私は今年七十八歳になりましたが、心身とも非常に健康で絶えず山野を跋渉ばっしょうし、時には雲にそびゆる高山へも登りますし、また縹渺ひょうびょうたる海島へも渡ります。そして何の疲労も感じません。私は上のように年が行っていますけれど、私の気持ちはまず三十より四十歳位のところで、決して老人のような感じを自覚しません。もうこんな年になったとて老人ぶることは私は大嫌いで、何時も書生のような気分なんです。学問へ対しましても何時も学力が足らぬという気が先きに立ちまして、自分を学者だなんどと大きな顔をした事は一度もありません。それは私に接する人は誰でもそう感じ、そう思って下さるでしょう。少し位学問したとてそれで得意になったり、尊大に構えたりするのはそれは全くヘソ茶もので、わが得た知識をこの宇宙の広大かつ深淵な事に比べれば、顕微鏡で観ても分らぬ位小さいもんダ、チットモ誇るに足らぬもんダ、オット、チョット脱線しかけたからまた元へ還って、私の健康は上に書いたようだが、人間は何をするにも健康が第一である事は誰も異存はないでしょう。どんな仕事をするにしても健康でなければダメで、時々病褥に臥したり薬餌に親しんだりするようでは如何に大志を抱いていても決してこれを実行に移す事は出来ません。
 さて私の健康は何より得たかといいますと、私は前にいった様に、幼い時から生来草木が好きであったため、早くから山にも行き野にも行き、その後長い年月を経た今日に至るまでどの位歩いたか分りません。それで運動が足ったのです。その間絶えず楽しい草木に向かい、心神を楽しめ慰めつつ自然に運動が足ったわけです。その結果遂に無上の健康をち得たのです。
 私の両親は私のごく幼い時に共に若くて世を去りまして、私は両親の顔も両親の慈愛も知りません。兄弟も無かったので私独りポッチであったのです。祖母が私を育てましたが幼い時は大変に体が弱かったそうです。胸骨が出ているといって心配してくれた事をウロ覚えに覚えています。クサギの虫、また赤蛙あかひきを肝の薬だといって食わされ、また時々痛いお灸をすえられました。私が酒屋の跡襲ぎ息子、それはたった一人生まれた相続者であったため、とても大事にして育ててくれたらしいのです。少し大きくなりまして十歳位にもなった時、私の体はとても痩せていましたので、友達などはよく牧野は西洋のハタットウだ、などとからかっていました。それは私の姿が何んとなく西洋人めいていて(今日でもそうらしいのです)、且つ痩せて手足が細長いというのでハタットウといったもんです。ハタットウとは、私の郷里でのバッタの方言です。こんな弱々しい体が年と共に段々と健康になり、ついに今日に及んでいます。

あと三十年


 そしてその間大した病気に罹った事がないのですが、私の今日の状態ですとこの健康はまず当分は続きそうです。今日私の血圧は低く脈は柔かくて若い人と同じであるので、医者は串戯じょうだん半分まずこの分ならばあと三十年は大丈夫ダといっていますが、しかしこれをお世辞と聞いてその半分生きても大したもんです。そうすると私は九十位になる。どうかそうありたいもんだと祈っています。
 余り健康自慢をするようでチト鼻につきますが、ついでにもう少々述べますれば私は一つも持病がありません。そしていくら長く仕事を続けましても決して肩が凝るナンテ事はありませんから、按摩あんまは全く私には無用の長物です。逆上のぼせも知らず、頭痛も滅多にしません。また、夏でも昼寝をしません。また、夜は午前二時頃まで仕事を続けています。運動が足ったせいでしょう胃腸がとても健全で、腹痛下痢などこれまたまことに稀です。食事の時三ゼン御飯を食べれば、その二ゼンはお茶漬です。そして直ぐ消化して仕舞います。夜は非常によく眠りますので、枕を着けると直ぐ熟睡の境に入ります。
 私のこの健康をち得ましたのは、前にもいったように全く植物の御蔭で、採集に行くために運動が足ったせいです。そして山野へ出れば好きな草木が自分を迎えてくれて心は楽しく、同時に清新な空気を吸い、日光浴も出来、等々皆健康を助けるものばかりです。その上私は、宅は酒を造っていましたけれど酒が嫌いで呑まず、また煙草も子供の時から吸いませんので、それがどの位私の堅実な健康を助けているのか知れません。今は耳が少しく遠くなりました外、眼も頗る明らかで(アミ版の目が見えます)、歯も宜しく、そして決して手も顫えませんのは、何んという仕合せなんでしょう。
 それ故まだ私の専門の仕事は若い時と同じように出来ますので誠に心強く、これから死ぬまでウント活動を続けにゃならんと意気込んでおります。先日大学を止めて気も心も軽くなり何の顧慮する事もいりませんので、この見渡す限りの山野にあるわが愛する草木すなわちわが袖褸しゅうろうを引く愛人の中に立ち、彼らを相手に大いに働きます。そしてその結果どんなものが飛び出すのか、どうぞこれから刮目して御待ち下されん事を願います。

わが恋の主


 以前何時いつだったか、ある事がヒドク私の胸に衝動を与えた事がありました時、私は「草木の学問さらりと止めて歌でこの世を送りたい」と咏んだ事がありましたが、ヤッパリ好きな道は断念出来ませんので間も無くこれまでの平静な心に還り、それは幻のように消えて仕舞いました。

赤黄紫さまざま咲いて
   どれも可愛い恋の主

年をとっても浮気は止まぬ
   恋し草木のある限り

恋の草木を両手に持ちて
   劣り優りのないながめ

草木への愛


 終わりに臨んで今一言してみたい事は、私は草木に愛を持つ事によって人間愛を養成する事が確かに出来ると信じている事です。
 もしも私が日蓮のような偉い人であったならば、私は草木を本尊とする一つの宗教を建つる事が出来たと思っています。草木は生き物でそして生長する。その点敢て動物とは異なっていない。草木を愛すれば草木が可愛くなり、可愛ければそれを大事がる。大事がればこれを苦しめないばかりではなく、これを切傷したり枯らしたりするはずがない。そこで思い遣りの心が自発的にきぎして来る。一点でもそんな心が湧出すればそれはとても貴いもので、これを培えば段々発達して遂に慈愛に富んだ人となるであろう。このように草木でさえ思い遣るようにすれば、人間同士は必然的になおさら深く思い遣り厚く同情するのであろう。すなわち固苦しくいえば、博愛心、慈悲心、相愛心、相助心が現われる理由わけダ。人間に思い遣りの心があれば天下は泰平で、喧嘩も無ければ戦争も起るまい。故に私は是非とも草木に愛を持つ事をわが国民に奨めたい。
 しかし、何も私のように植物の専門家になれというのではない。ただ草木の愛好家になればよい。ここにまことに幸いな事には、草木は自然に人々に愛せらるる十分な資格を供え、かの緑葉を見ただけでも美しく、その花を見ればなおさら美しい。すなわち誰にでも好かれる資質を全備している。そしてこの自然の美妙な姿に対すれば心は清くなり、高尚になり、優雅になり、詩歌的になり、また一面から見れば生活に利用せられ、工業に応用せられる。そしてこれを楽しむに多くは金を要しなく、それが四時を通じてわが周囲に展開しているから、何時にても思うまま容易に楽しむ事が出来、こんな良好なかつ優秀な対象物がまたと再び世にあろうか。わが日本の秀麗の山河の姿にはそこに草木が大いなる役目を勤めているが、これが万古以来永く国民性を陶冶した一要素ともなっている。決してかの桜花のみが敷島の大和心を養成したのではない。
 私は今草木を無駄に枯らすことをようしなくなった。また私は蟻一疋でもこれをいたずらに殺す事をようしなくなった。そして彼等に同情し思い遣る心を私は上に述べた草木愛から養われた経験を持っているので、それで私はなおさら強くこれを世に呼び掛けてみたいのである。

植物と心中する男


 私は植物の愛人としてこの世に生まれ来たように感じます。あるいは草木の精かも知れんと自分で自分を疑います。ハハハハ。私は飯よりも女よりも好きなものは植物ですが、しかしその好きになった動機というものは実のところそこに何にもありません。つまり生まれながらに好きであったのです。どうも不思議な事には、酒屋であった私の父も母も祖父も祖母もまた私の親族のうちにも誰一人特に草木の嗜好者はありませんでした。私は幼い時からただ何んとなしに草木が好きであったのです。私の町(土佐佐川町)の寺子屋、そして間もなく私の町の名教館めいこうかんという学校、それに次いで私の町の小学校へ通う時分よく町の上の山などへ行って植物に親しんだものです。すなわち植物に対してただ他愛もなく、趣味がありました。私は明治七年に入学した小学校が嫌になって半途で退学しました後は、学校という学校へは入学せずにいろいろの学問を独学自修しまして多くの年所を費やしましたが、その間一貫して学んだというよりは遊んだのは植物の学でした。
 しかし私はこれで立身しようの、出世しようの、名を揚げようの、名誉を得ようの、というような野心は、今日でもその通り何等抱いていなかった。ただ自然に草木が好きでこれが天稟てんびんの性質であったもんですから、一心不乱にそれへそれへと進んでこの学ばかりはどんな事があっても把握して棄てなかったものです。しかし別に師匠というものが無かったから、私は日夕天然の教場で学んだのです。それゆえ断えず山野に出でて実地に植物を採集しかつ観察しましたが、これが今日私の知識の集積なんです。
 私が植物の分類の分野に立って断えず植物種類の研究に没頭してそれから離れないのは、こうした経緯いきさつから来たものです。烏兎匆々うとそうそう歳月人を待たずで私は今年七十二歳ですが、く植物が好きなもんですから毎年よく諸方へ旅行しまして、実地の研究を積んで敢て別に飽きる事を知りません。すなわちこうする事が私の道楽なんです。およそ六十年間位も何のわき目もふらずにやっております結果、その永い間に植物につきいろいろな「ファクト」をのみ込んではいますが、決して決して成功したなどという大それた考えはした事がありません。何時も書生気分で、まだ足らない足らないとわが知識の未熟で不充分なのを痛切に感じています。それ故われらは学者でそうろうとの大きな顔をするのが大きらいで、私のこの気分は私に接するお方は誰でもそうお感じになるでしょう。少し位知識を持ったとてこれを宇宙の奥深いに比ぶればとても問題にならぬ程の小ささであるから、それは何等鼻にかけて誇るには足りないはずのものなんです。ただ死ぬまで戦々兢々として、一つでも余計に知識の収得につとむればそれでよい訳です。
 私は右のような事で一生を終えるでしょう、つまり植物と心中を遂げる訳だ。このように植物が好きですから、私が明治二十六年に大学に招かれて民間から入った後ひどく貧乏した時でも、この植物だけは勇猛にその研究を続けて来ました。その時分はとても給料が少なく生活費、沢山の子供(十三人出来)の教育費などで借金が出来、時々執達吏に見舞われましたが、私は一向に気にせず押えるだけは自由に押えて行けとその傍の机上で植物の記事などを書いていました。こんな事の昔はきょうの物語となったけれども、今だって私の給料は私の生活費には断然不足していますけれど、老躯を提げての私の不断のかせぎによってこれを補い、まず前日のようなミジメな事はなく辛うじてその間を抜けてはおります。私は経済上余り恵まれぬこんな境遇におりましても敢て天をも怨みません。また人をもとがめません。これはいわゆる天命で私はこんな因果な生まれであると観念しておる次第です。
 私は来る年も来る年も、左の手では貧乏と戦い右の手では学問と戦いました。その際そんなに貧乏していても、一っ時もその学問と離れなくまたそう気を腐らかさずに研究を続けておれたのは、植物がとても好きであったからです。気のクシャクシャした時でもこれに対するともう何もかも忘れています。こんな事で私の健康も維持せられ、従って勇気も出たもんですから、その永い難局が切抜けて来られたでしょう。その上私は少しノンキな生まれですから一向平気でとても神経衰弱なんかにはならないのです。私は幼い時から今でも酒と煙草とを呑みませんので、従ってそんな物で気をまぎらすなんていう事はありませんでした。ある新聞に私を酒好きのように書いてありましたがそれは全く誤りです。
 前にも申しました通り私も古稀の齢を過しはしましたが、今のところ昔の伏波ふくは将軍の如く極めて健康で若い時と余り変りはありません、いつか「眼もよい歯もよい足腰達者うんと働ここの御代みよに」と口吟しました。しかし何といったとて百までは生きないでしょう。植物の大先達伊藤圭介先生は九十九で逝かれた例もあれば、運よく行けば先生位までには漕ぎつけ得るかも知れんとマーそれを楽しみに勉強するサ。今私には二つの大事業が残されていますので、これから先は万難を排してそれに向うて突進し、大いに土佐男子の意気を見せたいと力んでいます。いいふるした語ではあるが、精神一到何事ならざらんとはいつになっても生命ある金言だと信じます。やア、くだらん漫談をお目にかけ恐縮しております。左に拙吟一首。

朝な夕なに草木を友に
   すればさびしいひまもない

植物に感謝せよ


 植物と人生、これはなかなかの大問題で、単なる一篇の短文ではその意を尽すべくもない、堂々数百頁の書物が作り上げらるべき程その事項が多岐多量で且つ重要なのである。
 ところがここには右のような竜頭的な大きなものは今にわかに書く事も出来ないので、ほんの蛇尾的な少しの事を書いて見る。
 世界に人間ばかりあって植物が一つも無かったならば、「植物と人生」というような問題は起りっこがない。ところがそこに植物があるのでここにはじめてこの問題が抬起する。
 人間は生きているから食物を摂らねばならぬ、人間は裸だから衣物を着けねばならぬ。人間に風雨を防ぎ寒暑を凌がねばならぬから家を建てねばならぬので、そこではじめて人間と植物との間に交渉があらねばならぬ必要が生じて来る。
 右のように植物と人生とは実に離す事の出来ぬ密接な関係に置かれてある。人間は四囲の植物を征服しているというだろうが、またこれと反対に植物は人間を征服しているといえる。そこで面白い事は、植物は人間がいなくても少しも構わずに生活するが、人間は植物が無くては生活の出来ぬ事である。そうすると、植物と人間とを比べると人間の方が植物より弱虫であるといえよう。つまり人間は植物に向こうてオジギをせねばならぬ立場にある。衣食住は人間の必要欠くべからざるものだが、その人間の要求を満足させてくれるものは植物である。人間は植物を神様だと尊崇し、礼拝し、それに感謝の真心を捧ぐべきである。
 われら人間はまずわが生命を全うするのが社会に生存する第一義で、すなわち生命あってこそ人間に生まれ来し意義を全うし得るのである。生命なければ全く意義がなく、つまり石ころと何の択ぶところがない。
 その生命を繋いで、天命を終えるまで続かすにはまず第一に食物が必要だが、古来から人間がそれを必然的に要求するために植物から種々様々な食物が用意せられている。チョット街を歩いても分り、また山野を歩いても分るように、街には米屋、雑穀屋、八百屋、果物屋、漬物屋、乾物屋などが直ぐ見つかる。山野に出れば田と畠とが続き続いていろいろな食用植物が実に見渡す限り作られて地面を埋めている。その耕作地外ではなお食用となる野草があり、菌類があり木の実もあれば草の実もある。眼を転ずれば海には海草があり淡水には水草があって、皆わが生命を繋ぐ食物を供給している。
 食物の外には更に紡績、製紙、製油、製薬等の諸原料、また建築材料、器具材料などがあって、吾人の衣食住に向かって限りない好資料を提供しているのである。そこで吾人はこれら無限の原料をよく有益に消化応用する事によって、いわゆる利用厚生の実を挙げ幸福を増進する事を得るのである。

長生の意義


 人間のかく幸福ならんとする事はそれは人間の要求で、またその長く生きて天命を終える事は天賦である。この天賦とこの要求とがよく一致併行してこそ、そこにはじめて人間のこの世に生まれ出て来た真の意義がある。人間は何故に長く生きていなければならぬ? また人間は何故に幸福をもとむる事を切望する? の最大目的は動物でも植物でもおよそ生きとし生けるものは皆敢て変わる事はない、畢竟人間はわが人間種類すなわち Homo sapiens の系統をこの地球の滅する極わみ、何処までも絶やさないようにこれを後世に伝える事と、また長く生きていなければ人間と生まれ来た責任を果す事が出来ないから、それである期間生きている必要があるのである。
 世界に生まれ出たものただわれ一人のみならば別に何の問題も起らぬが、それが二人以上になるといわゆる優勝劣敗の天則に支配せられて、お互いに譲歩せねばならぬ問題が必然的に生じて来る。この譲歩を人間社会に最も必要なものとしてその精神に基づいて建てた鉄則が道徳と法律とであって、ほしいままに跋扈ばっこする優勝劣敗の自然力を調節し、強者を抑え弱者を助け、そこで過不及なく全人間の幸福を保証したものだ。これが今日人間社会の状態なのである。
 ところがそこに沢山な人間がいるのであるからその中には他人はどうでもよい、自分独りよければそれで満足だと人の迷惑も思わず我利な行いをなし、人間社会の一人としては実に間違った考えをその通り実行するものがあって、社会の安寧秩序が何時も脅かされるので、そこで識者は色々な方法で人間を善に導き社会を善くしようと腐心している。今沢山な学校があって人の人たる道を教えていても、続々と不良な人間が後から後から出て来てひどく手を焼いている始末である。

植物と宗教


 私は草木に愛を持つことによって人間愛を養うことが出来得ると確信して疑わぬのである。もしも私が日蓮ほどのぶつであったなら、きっと私は草木を本尊とする宗教を樹立して見せることが出来ると思っている。私は今草木を無駄に枯らすことをようしなくなった。また私は蟻一疋でも虫などを無駄に殺すことをようしなくなった。この慈悲的の心、すなわちその思い遣りの心を私は何んで養い得たか、私はわが愛する草木でこれを培うた。また私は草木の栄枯盛衰を観て人生なるものを解し得たと自信している。これ程までも草木は人間の心事に役立つものであるのに、なぜ世人はこの至宝に余り関心を払わないであろう? 私はこれを俗にいう「食わず嫌い」に帰したい、私は広く四方八方の世人に向うて、まあウソと思って一度味わって見て下さいと絶叫したい、私は決して嘘言は吐かぬ。どうかまずその肉の一臠いちれんめて見て下さい。
 皆の人に思い遣りの心があれば、世の中は実に美しいことであろう、相互に喧嘩も起らねば国と国との戦争も起るまい。この思い遣りの心、むずかしく言えば博愛心、慈悲心、相愛心があれば世の中は必ずや静謐で、その人々は確かに無上の幸福に浴せん事ゆめゆめ疑いあるべからず、世のいろいろの宗教はいろいろの道をたどりてこれを世人に説いているが、それを私は敢て理屈をいわずにただ感情に訴えて、これを草木で養いたいというのが私の宗教心でありまた私の理想である。私は諸処の講演に臨む時は機会ある毎に、何時もこの主意で学生等に訓話している。
 また世人がなお草木に関心を持っていなければならない事は、これが国を富ます工業と大関係があるからである。日本の国は富まねばならぬ。今日世界の情勢を観、またわが国の現状を見つむる者は、わが国を富ます事は何より大急務である事を痛感するのであろう。わが国はこれから先ウント金が要る、国民はこのわが帝国を富ますことに大覚悟を持たねばならぬ。金は国力を張る一つの片腕である。人間無手の勇気ばかりでは国は持てぬ、独立も出来ぬ。一方に燃ゆるが如き愛国心と勇気、一方に山と積む金、この二つの一つを欠けば国が亡びる運命に遭遇する。そこでこの金を、工業を隆盛にしてこしらえる。その原料はこれを世界に需め、それを日本人の手によって製品化し、一つは吾人の生活を改善安定し一つはそれを世界の人間に供給して金を集むる。
 その工業の原料の一切なる一つは植物であることは識者をって知るのではない。その天産植物を利用するにその植物に関心を持ち、その知識のある人が多くなればなるほど効果が挙がり結果が良い訳だ。未知の原料は世界に多い。植物に知識あるものはそれを捜し出し易い。すなわち新原料が出て来るのである。一般の国民が植物に対して多少でも知識があればその新原料は続々と急速度に見つかることであろう。この点から見ても一般の国民にこの方面の知識を普及させておくのは真に国家のために必要である。私は世人にはじめは趣味を感ぜさせることから進んで次にその知識を得させ、そしてこのような国民を駆ってその有用原料を見つけるに血眼にならしめたい。学校で植物学を教えるにも先生はこんな道理をも織り込んで、他日必ずや日本帝国の中堅となるべき今日の寧馨児ねいけいじを教育せられんことを国家のために切望する。右は止むに止まれぬ大和魂のほとばしりである。
 以上植物と人生の一斑を述べたから一まずここに筆をく事にした。

酒屋に生まる


 私は戌の年で今年七十九歳になるのですが、至って壮健で老人メクことが非常に嫌いですので、従って自分を翁だとか、叟だとか、または老だとか称したことは一度もありません。回顧すると私が土佐の国高岡郡の佐川町で生まれ呱々の声を揚げたのは文久二年の四月二十四日(戸籍には二十二日となっているがそれは誤り)であって、ここにはじめて娑婆しゃばの空気を吸いはじめたのである。
 私の町にはさむらいが大分いたが、それは皆佐川の統治者深尾家の臣下であった。私の家は町人で商売は雑貨(土地では雑貨店を小間物屋と云った)と酒造とであったが、後には酒造業のみを営んでいた。
 私が生まれて四歳の時に父が亡くなり、六歳の時に母が亡くなった。私は幼かったから父母の顔を覚えていない。そして私には兄弟もなく姉妹もなく、ただ私一人のみ生まれた。つまり孤児であったわけです。
 生まれた時は大変に体が弱かったらしい。そして乳母が雇われていた。けれども酒屋の後継ぎ息子であったため、私の祖母が大変に大事にして私を育てた。祖父は両親より少しく後で私の七歳の時に亡くなった。
 私の店の屋号は岸屋で、町内では旧家の一つでした。そして脇差をさす事をゆるされていた。私の幼い時の名は誠太郎であったが、後に富太郎となった。これが今日の名である。
 ずっと後、私の二十六歳になった時、明治二十年に祖母が亡くなったので、私は全くの独りになって仕舞ったが、しかし店には番頭がおったので、酒屋の業務には差支えはなく、また従妹が一人いたので、これも家事を手伝い商売を続けていた。しかし私は余り店の方の面倒を見る事を好まなかった。

上組の御方御免


 私の七歳位の時であったと思うが、私の町から四里ほど北の方の野老山ところやまという村で一揆が起った。それは異人(西洋人)が人間の脂を取ると迷信して土民が騒いだので、これを鎮撫するために県庁から役人が出張し、遂にその主魁者三人程を逮捕し、隣村の越知おち今成いまなり河原で斬首に処したのであった。この日は何んでも非常に寒くて雪が降っていたが、私は見物に行く人の後について二里余りもある同処へ見に行った事を覚えている。
 またそれから少し後の年であったが、私の町から四里余りも東の方にある高岡町に親類があって、そこへ連れられて行った事がある。この高岡の町から東南の方二里位も隔たりて新居にいの浜があり、私はそこへ連れて行って貰って生まれてはじめて海を見た。その浜へ打ち寄せる浪はかなり高く繰り返し繰り返しその浪頭が巻いて崩れ倒れる様を見て、私は浪が生きているもののように感じた。私の町は海から四里も距っているので、これ迄一向に海は知らなかったのです。私の十一歳頃の時であったでしょう、私ははじめて土居という師匠の寺子屋へ入門して字を習った。暫くするうちにこの寺子屋が廃せられたので、私は更に伊藤という先生の寺子屋に転じそこで習字と読書とを教わった。ここは士族の子弟ばかりであって町人は私と今一人いたぎりであった。そして士族の方が上組で町人の方が下組であった。昼食する時の挨拶が面白い。上組の士族の人々は「下組の人許してヨ」といった。これに対して下組の町人の方では「上組の御方御免」といった。この時分は明治六、七年頃であって、明治元年の維新の時を去る事まだ僅かであったため、士族と商人とは何んとなくその区別があったのである。廃刀令が出た後ではあったけれど、士族の人はなお脇差をさしていたものがあった。

小学校も嫌で退学


 前に述べたように私の町には士族が多かったので、明治維新前の徳川時代に深尾家で建てた名教館めいこうかんという学校があって、儒学を教授していた傍ら算術なども教えていた。そして士族の子弟が皆この校へ入学していた。その教官には一廉ひとかどの学者が多く、中には有名な漢学者もいた。明治の年になって後、この学校が漢学の教授を廃し、これに換うるに主としていわゆる文明開化の諸学科を教える処と成り、いろいろ日進の学術を教授していた。その学科の中には窮理学(今の物理学)、地理学、天文学、経済学、人身生理学、西洋算術などがあった。私は寺子屋からこの校に移ってこんな学科を習ったのが、それが丁度十一、十二歳の頃であった。そうするうちに明治七年になってはじめて小学校が出来たのでそれに入学したが、それが私の十三歳の時であった。この時私は既に小学校以上の学力を持っていた。それは上の名教館で稽古したからであった。
 この時の小学校は上等、下等と分れ各八級ずつあったから全部で十六級であった訳だ。何んでもこれを四年で卒業する仕組みになっていたようだが、私は下等一級をおわった時小学校が嫌になって自分で退校してしまった。
 私のまだ在学している時、文部省で発行になった『博物図』が四枚学校へ来たので、私は非常に喜んでこれを学んだ。それは私は植物が好きであるので、この図を見ることが非常に面白かった。そして図中にある種々の植物を覚えた。図は皆着色画で、その第一面が植物学的の事柄で、葉形やら根やら花やらなどの事が出て、その第二面には種々の果実ならびに瓜の類が出ており、その第三面には穀類、豆類、根塊類が出て、その第四面には野菜の類、海藻類、菌類が出ていた。

私は植物の精である


 私は生まれながらに草木が好きであった。故に好きになったという動機は別に何んにも無い。五、六歳時分から町の上の山へ行き、草木を相手に遊ぶのが一番楽しかった。どうも不思議なことには、私の宅では両親はもとより誰れ一人として草木の好きな人は無かったが、ただ私一人が生まれつき自然にそれが好きであった。それ故に私は幼い時から草木が一番の親友であったのである。後に私が植物の学問に身を入れて少しも飽く事を知らなかったのは、草木がこんなに好きであったからです。そして両親が早く亡くなり、むずかしくいって私に干渉する人が無かったので、私は自由自在の思う通りに植物学を独習し続けて、遂に今日に及んでいるのです。
 もしも父が永く存命であったら、必然的に種々な点で干渉を受くるのみならず、きっと父の跡をいで酒屋の店の帳場に坐らされて、そこで老いたに違いなかったろうが、父が早くいなくなったのでその後は何んでも自分の思う通りに通って来たのである。今思うて見ると、私ほど他から何の干渉も受けずにわが意思のままにやって来た人はちょっと世間には少なかろうと思う。
 上のように天性植物が好きであったから、その間どんな困難な事に出会ってもこれを排して愉快にその方面へ深く這入り這入りして来て敢てむ事を知らず、二六時中ただもう植物が楽しく、これに対していると他の事は何もかも忘れて夢中になるのであった。こんな有様ゆえ、時とすると自分はあるいは草木の精じゃないかと疑う程です。これから先も私の死ぬるまでも疑いなく私はこの一本道を脇目もふらず歩き通すでしょう。そうして遂にはわが愛人である草木と情死し心中を遂げる事になるのでしょう。
 しかしまことに残念に感ずることは、私のような学風と、また私のような天才(自分にそう言うのはオカシイけれど)とは、私の死とともに消滅してふたたび同じ型の人を得る事は恐らく出来ないという事です。
 人によると私のような人は百年に一人も出んかも知れんといってくれますが、しかし私はそんな人間かどうか自分には一向に分りませんが、人様からはよくそんな事を聞かされます。

『本草綱目啓蒙』に学ぶ


 小学校におった時も、また同校を止めた後も前に書いたように元来植物が好きであったため、絶えずそれを楽しみにその名称を覚える事に苦心したが、何分にも郷里にこれを教えて貰う人が無かったので甚だ困った。それでも実地に研究していろいろとその名を知る事に努めたが、その時分私の町に西村尚貞という医者があって、その宅に小野蘭山の著わした『本草綱目啓蒙』の写本が数冊あったので大いに喜び、借り来ってそれを写して見たが写すに時間がとれ、且つそれが端本はほんであったため遂にその書の版本を買うことを思い立ち、町の文房具屋の主人に依頼してこれを大阪あたりから取寄せて貰った。暫くしてその書が到着したので鬼の首でも取ったように喜び、日夜その書をひもといてこれを翫読がんどくし自得して種々の植物を覚えた。それがために大分植物の知識が出来た。
 しかし全く自修であるから、その間にいろいろの苦心もあった。実物を採って本と引き合わせ、本を読んでは実物と照り合わせそんな事が積り積りして知識が大分殖えて来た。隣りに越知(今は越知町)という村があってそこに有名な横倉山というのがあり、森林の鬱葱うっそうたる山で従って珍しい植物が多いので度々登って採集した。これは私には大変に思い出の深い山です。
 この時分にある時、名の知れぬ一つの水草を採って来て水に浮かして置いたら、田舎から来ていた下女がこれを見てこれはビルムシロというものだと教えてくれた。そこでこの時分に買って持って居った『救荒本草』という書物にそれに似た草が出ていて眼子菜とあったので、これと引き合せてそのビルムシロが眼子菜である事を知った。またある時、ある草を採って来たらそれがムカゴニンジンであるという事が分かり、またある草がフタリシズカであるという事も分って嬉しかった。またある時に町の上の山に行き、そこに咲いているある草を見、その夜燈下で彼の『本草綱目啓蒙』を読んでいたら東風菜シラヤマギクというのが出ていた。どうもその形状が右の山で見た草と同じようだから、その翌日再び同処からその草を採って来て引合せたらピッタリ合っていたので、はじめてそれがシラヤマギクであった事が分った。いろいろな事を天然の教場で実地に繰り返しているうちに、段々と種々な植物を覚えて来たのであった。

 人はく(この頃ヨクという場合にの字を書いて平気でいるが、ヨクはんな場合もの字でよいという訳のものではない位の事は、筆を持つ人は心得ていなければ人に笑われても怒る資格はない)希望に満ちた新年だという。ボクだってそうじゃないノ。希望の無い人間は動いていても死んでいらア。そんなら君の希望はどんなものかと聴かれたらまずザット次のようなものだと答えるネ。しかし是れはボクの希望の九牛の一毛である事だけは承知して貰いたい。どうも牧野もボツボツ松沢ものになりかけて来たようだ。

富士山の美容を整える


 その希望の一つは何んであるかというと富士山の姿をもっとくする事だ。富士山を眺めると誰れでも眼に着くが東の横に一つのこぶがあるだろう、あれはすなわち宝永山だ。人の顔にコブがあって醜いと同じことで、富士にもコブがあっては見っともよくない。元来あのコブの宝永山は昔は無かったものだが、今から二百三十年前の宝永四年にアンナ事になっちゃった。考えてみるとそのコブの出来る前はもっと富士の姿が佳かったに違いないが不幸にしてあんなものが出来たから悪くなった。
 そこで私は富士山の容姿をもと通りに佳くするためにアノ宝永山を取り除いてやりたいと思う。それは訳のない事で、もともと富士の側面の石礫岩塊が爆発のために下の方に噴かれ飛んでそれが積って宝永山のコブと成り、これと反対にその爆発口は窪んで大穴となっているからその宝永山を成している石礫岩塊をもと通りにその窪みの穴に掻き入れたらそれで宜しいのだ。そうすると跡方もなくコブも無くなり、同時にその窪みも無くなって、富士の姿が端然と佳くなるのである。姿の佳いのは姿の悪いのよりはよい位の事は誰れでも知っているでしょう。そうなりゃどんな人でも私のこの企てに異議はなく皆々原案賛成と来るでしょう。
 近頃は美容術が盛んで方々に美容院が出来、女ばかりでなく随分男の人までもそこへ出入する時世だから、富士の山へも流行の美容術を施してやる思い遣りがあってもしかるべきだ。そして世人をアットいわせるのも面白いじゃないかね。やるならこの位の事をやって見せぬと大向こうがヤンヤとはやしてハシャガナイ。右はとてもイイ案でしょう。
 ところが、いよいよそれをやるとなるとレコがいる。もしも私が三井、岩崎の富を持っていたらそれを実現させてみせるけれど、悲しいかな、命なる哉、私はルンペン同様な素寒貧すかんぴんであれば、どうも幾らとつおいつ考えて見ても、とても一生のうちにそれを実行する事は思いも寄らない。仕方がないから、この良策は後の世の太っ腹な人に譲るとしよう。

もう一度大地震に逢いたい


 次の希望、これは甚だ物騒な話であるが、私はもう一度彼の大正十二年九月一日にあったようなこの前の大地震に出逢って見たいと祈っている。
 この地震の時は私は東京渋谷のわが家にいて、その揺っている間は八畳座敷の中央で(この日は暑かったので猿股一つの裸になって植物の標品を覧ていた)どんな具合に揺れるか知らんとそれを味わいつつ坐っていて、ただその仕舞際にチョット庭に出たら地震がすんだのでどうも呆気あっけない気がした。その震い方を味わいつつあった時、家のギシギシ動く騒がしさに気を取られそれを見ていたので、体に感じた肝腎要めの揺れ方がどうも今はっきり記憶していない。何をいえ地が四五寸もの間左右に急激に揺れたからその揺れ方をしっかと覚えていなければならん筈だのに、それを左程覚えていないのがとても残念でたまらない。
 それ故もう一度アンナ地震に逢ってその揺れ加減を体験して見たいと思っているが、これは事によるとわが一生のうちにまた出逢わないとも限らないから、そう失望したもんでもあるまい。今頃は相模なだの海底でポツポツその用意に取り掛っているのであろう。

富士山の大爆発


 また富士山へもどるが、私はこの富士山がどうか一つ大爆発をやってくれないかと期待している次第だ。
 誰れもが知ってるように、富士山は火山であって有史以前は時々爆発した事があった訳だが、有史後はそれがたまにあった位だ。今日では一向に静まり返ってウンともスンとも音がしないが、元来が火山であってみれば何時持ち前のカンシャクが突発しないと誰れがそれを請合えよう。しかし少し位のドドンでは興が薄いが、それが大爆発と来て多量の熔岩を山一面に流すとなれば、それはそれはとても壮観至極なものであろう。もし夜中に遠近からこれを望めば、その山全体に流れる熔岩のため闇に紅の富士山を浮き出させ、忽ち壮絶の奇景を現出するのであろう。
 そこが見ものだ、それが見たいのだ、山下の民に被害の無い程度で上のような大爆発をやってくれぬものかと私はひそかにそれを希望し、さくや姫にも祈願し、一生のうちに一度でもよいからそれが見えれば、私の往生は疑いもなく安楽至極で冥土の旅路も何んの障りもないであろう。

日比谷公園全体を温室にしたい


 東京の日比谷公園全体を一大温室にして、中に熱帯地方のパーム類、タコノキ類、羊歯しだ類、蘭類、サボテン類などをはじめとして種々な草木をえ込んで、内部を熱帯地にぞらえ、中でバナナも稔ればパインアップルも稔り、マンゴー、パパ〔イ〕ヤ、茘枝れいし、竜眼など無論の事、コーヒー、丁字ちょうじ、胡椒、カカオなどの植物も盛んに繁茂して花が咲き実が実り、その他花の美麗な、また葉の美観な観賞草木を室内に充満する程栽え渡し、その植物間を自由に往来が出来るように路を通し、また大なる池を造り彼の有名な大玉蓮すなわちヴィクトリア、洋睡蓮、パピルスなどを養いて景致を添える。
 処々にコーヒー店、休憩所、遊戯場などを設備し、また宴会場、集会所、演奏場などその他万般の設備を遺憾なく整え、中へ這入ればわが身はまるで熱帯地にいる気分を持つようにする。また動物は美麗な鳥、金魚のような魚、珍奇な爬虫類などを入れてもよいと思うが、動物は汚い臭い糞をひり出すのでその辺の注意が肝要である。
 何をいえわが帝都の真ん中へ類の無い一つの別世界を拵える事であれば、これは確かに東洋、特にわが日本の誇りの一つにもなろう。私は東京市が思い切ってこのような大々的規模のものを作らん事を希望するが、小っぽけな予算でさえ頭を悩ましている現代では、とても右のような計画は思いも寄らない事で、マー当分は問題にならんならん。

緑蔭鼎談


 昭和二十三年八月一日、東京都文京区音羽町三丁目十九番地、光文社発行の雑誌「ひかり」第四巻第七八号に「緑蔭鼎談」と題し、伊豆熱海の緑風閣で催された長谷川如是閑、志賀直哉並に天野貞祐あまのていゆう三君の座談会記事が掲げてあった。そしてその中に「牧野富太郎縦横談」という次の一項があったのを見つけたので、すなわちここにそれを転載した。

 長谷川 東京大学の先生など、どうだったですかね、これは講師だからちょっとちがうんだが牧野富太郎氏なんか変わってるね。
 志賀 牧野という人は、ずいぶんの年ですね。
 長谷川 八十九か九十かですね。このあいだ八十歳以上の人の写真を「アサヒ・グラフ」で出したとき、その説明に学士院会員と書いてあった。むろん本人はそうじゃないんです。そうしたら、わたしの所へハガキをよこして、学士院会員なんてべらぼうなものには頼まれてもならんといって、大いにふんがいしてきた。
 志賀 あの人の文章はおもしろいですね。
 長谷川 明治以来変らない。
 志賀 このあいだ『植物図鑑』の序文を見ていたらどういう文句か前後は忘れたが、どうとかしてごろうじろなんて――。(笑声)
 長谷川 土佐言葉だ。
 志賀 ごろうじろなんて、久しく聞かない言葉だ。
 長谷川 あの人のからだは不死身ですね。まだ夜の二時ごろまで原稿を書いている。
 志賀 渋谷あたりに待合を開いたそうだね、あの人が。
 長谷川 細君ですよ。
 志賀 大学の先生でちょっと困るといって反対したら、食えないから仕方がない、といったという話がある。
 長谷川 ある東京大学の教授とさいきん一緒に汽車で帰ったとき、その話をしていましたよ。奥さんが開いたはいいとして、その奥さんが学生を勧誘して連れて行くという。(笑声)
 天野 植物学的なんでしょうね。徹底していますね。
 志賀 『植物図鑑』という字引みたいな本、あれはなかなかいいですね。三色版で変な機械的なよくある図でなしに、みな真物ほんものをうつしたんですからね。
 長谷川 それも、何でもみな自分で書かないと承知しない。ところが、こんど出す『植物図鑑』は、もう高齢なので、今までのように自分でやらない。画家のいいのが見つかったとかいうことでしたが。
 天野 そういうことをやるために、片方で待合もやらなければならんのでしょう。(笑声)とにかく、こういう人は、差支えないかぎり寛大にして、仕事をやってもらった方がいいですね。

 牧野富太郎いう、右座談会での私に関する事柄はこれで終わっているが、しかし今ここにいささか私が弁明しておかねばならん事がある。それは外でもないがこの待合は私自身が開業したものではなく、これは長谷川君のいわれた通り私の妻がやった事であって、その店は私とは世帯が別になっていた。故に私は待合の家には住まっていなかった。そしてこの事件は勿論今日の事ではなくて最早や今から二十七年も前の大正十年頃の出来事である。私の妻が事もあろうに何ゆえこんな恥も外聞も構わぬ大それた芸当をしたのかというと、それは当時私一家が貧乏のどん底に陥っていたので早く金を得て焦眉の急を救い、我が家の経済を立て直さんとするのが唯一の目的であって、それには待合が一番早く金を得るのに都合がよいとの事でこれを選んだわけだ。そして妻は素人ながらも待合業を経営するぐらいな天才的手腕は持合せていた。故に何の臆するところなく大胆にその業をはじめ、渋谷花柳界での荒木山に妻の姓〔別姓〕である「今村」の看板を掲げたのであったが、その後故あって廃業して仕舞い一場いちじょう昔譚むかしばなしを今日に残したその妻も今はく亡き人の数に入った。
 右待合を開いた時、私の窮状に非常に同情して下さったのは人情味豊かな大学理学部長の五島清太郎博士であった。なお且つ当時同大学のその他の人々も敢て私の事を問題にしていなかった。故に私の身辺は無事であって何等の心配もするには及ばなかった。
 これは別の話だが、私が大学にいるうち私をよく理解してくれられし学長は、右の五島博士と箕作佳吉博士とであった。この両先生に対しては、今でも忘れず絶えず感謝の念を捧げている。私はかつてカヤツリグサ科の一新種であったマツカサススキを、世界的学名の Scirpus Mitsukurianus Makino と命名して発表し、すなわち箕作先生へデジケートし、そして先生の名を永久に記念する事にして、何時かは先生の墓畔へ水瓶を埋めてこのマツカサススキを植え、先生の霊を慰めんと思いつつなお今にはたさずにいる。その時の用意として、今私の庭にはそれがえてあって毎年よく花穂を出している。

土屋文明君の詠歌
ジャガイモを馬鈴薯とかく世をいきどおり
   長生きしたもう君は尊し

「牧野先生を迎えて」


 武蔵野原中なる清瀬病院内、清風会発行の「指向」第十八号五月号(昭和二十三年五月三十日発行)誌上に登載しある「牧野富太郎先生を迎えて」の、清風会文化部、永江梅子、松本美保子、渡辺友次、沢田栄一四氏の編集記事は次の通りである。

 花は黙っています。それだのに花は何故あんなに綺麗なのでしょう。何故あんなにも快く匂っているのでしょう。思いつかれた夕など窓辺に薫る一輪の百合の花をじっと抱きしめてやりたい様な思いにかられても、百合の花は黙っています。そして一寸も変らぬ清楚な姿で、ただじっと匂っているのです。
『植物記』の中にうかがわれるこの言葉、植物への限りない愛情――小学校中退後貧苦と戦いながらも、独学で植物分類の世界的権威となり、八十七歳の今日なお日夜研究にいそしまれる老科学者牧野富太郎先生、われわれは四月十八日当地の植物採集会に臨まれた先生からいろいろのお話を聴く機会を得たのである。
 の日壇上にのぼられた先生は杖がわりの粗末な竹竿を無雑作に壁にたてかけ椅子に腰かけて右手を耳のうしろへ、一語一語自身の言葉を確めるように話される。
 牧野「ヤマブキは山吹と書きますが、万葉集では山振と書いてあります。これはヤマブキが山の麓などに沢山咲いていて風に揺ぐのを見てこう書いたのではないかと思います。支那では棣棠(テイトウ)と書きますが、花は八重でもとは日本から渡ったものかと思います。山吹の種類には一重、八重白花、菊花、斑入ふいりのものがありまして、このうち白花は奈良公園に咲いていたのを貰い来り、菊咲は本郷の弥生町に咲いて居ったのを見つけ、今私の家に植えてあります。山吹に似たものでは、同じイバラ科の白山吹、ケシ科の山吹草等があります、かの太田道灌と山吹の里の少女の物語に『七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき』という和歌があります。
 ところでこれは一重と八重のどちらを歌ったものでしょうか。八重の山吹にはたしかに実ができません。それでこれは八重のものだと考えられます。一方一重には小さな実が出来ますが、この実は非常に小さく素人ではなかなかわかりにくいものです、故に山吹には実がないといいます。それでこの一重の山吹の繁く咲き重ったのを七重八重という風に形容したと考えることも出来るわけです。
 さて私は八十七歳の今日まで元気に植物の研究をつづけて参りましたが、植物に親しきことは非常にええもんです(先生しきりにこのええもんですをつかわれる)。これには芝居や映画を見るのと違い一銭もかけずに楽しむことが出来ます。又私が今日このように元気なのも植物に親しみ採集などによく山野を歩いたためではないかと思います。植物に親しむことの第一は、先ず名前を正確に覚えるようにすることです。従来アジサイを紫陽花とかき、カキツバタを燕子花とかく人がありますが、これらはジャガイモを馬鈴薯とかくのと同じく皆誤りです。聞けば病院では俳句や和歌が非常に盛んだそうですが、植物と文学との関係はまことに深いものです。どうかこれを機会に植物への関心を深められ、植物を病養の慰めとして一日も早く恢復されんことを祈ります」
 ここでお話を終り先生を囲んで質問に移る。
 患者A「先生この病院のまわりにはどの位植物の種類がありますか」
 牧野「さあ、五百種位ですかな」
 患者B「この位なら病院中の植物をみんなとってきて教えていただき、名札でもくっつけるようにすればよかったなあ」
 慰安室の畳の上にベタッと坐られた先生は今日の採集植物の中から一本一本手にとって説明して下さる。
 牧野「これが翁草(オキナグサ)」
 患者C「どうして翁草と云いますか」
 先生耳が遠くて聞えないのでお嬢さんが通訳にあたられる。大きな声で「お父様この草はどうして翁草というのですかって」、先生耳に手をかざして聞いて居られたがようやくわかったらしくニコリとして、
 牧野「ああ、それはこの花がすんで実が成熟すると私の髪の毛のように真白くなるんで」と白髪を引張って笑われる。一同笑声。
 牧野「一本槍なんだが名前は千本槍」
 牧野「これはサルトリイバラ、とげに猿が引かかります。根は山帰来という漢方薬ですが、かし本当のサンキライではありません。これが誰でも知っているナズナ(ペンペン草)この実が三味線のバチに似ているでしょう。『覚えていやがれ、そんな事をすりゃあ手前んとこの屋根にペンペン草を生やしてやるぞ』と、江戸ッ子は啖呵たんかを切るもんですが、実はペンペン草が屋根に生えることは殆どないのです。私ならばそんな時『何をペンペン草が屋根に生えるもんなら生やして見ろ』とやりかえしますがね」
 先生の意気はなかなか盛んだ。
 牧野「サワフタギ、これは沢の上に覆いかぶさるように茂るのでサワフタギ。ジュウニヒトエ、花が重っているので官女の十二ひとえに例えたもんです。
 イチヤク草、昔から薬として此の一つの草があれば何にでも効くと考えたものです、故に一薬草です。
 ハバマヤボクチ、葉裏の毛を火口ほくちにつかったものです」
 其の他、小楢こなら、クサボケ(シドミ)、ツリガネ草、スズメノヤリ、フデリンドウ、ニオイツボスミレ、ツボミスミレ、カガリビ草(クチナシ草)、タチフウロ、ミツバチグリ、キジムシロ、ウド、オミナエシ、カンゾウ等。
 先生の博識はつきる所を知らない。時間もすでに四時近く先生の御都合もあるので会を閉じる。先生は一杯の茶を喫せられつつわれわれの「指向」を御覧になり、文化活動の盛んなことを非常に喜ばれてお帰りになる。植物に熱心な患者Dさん、外に出られた先生をつかまえて、玄関わきのドウダンツツジについて質問する。
 患者D「先生ドウダンツツジの語原は何ですか」
 牧野「これこのように枝の先が三ツまたに分れているでしょう。これを逆にすると昔使ったむすび燈台の三つの脚の恰好になるんです。それで燈台ツツジといったものがいつかドウダンツツジにかわったのです」
 先生はつと手をのばしてこのツツジの小枝を実に器用にむしられる。その手先は荒れて黒いが、この手にまで植物の香がしみついているような感じになり、改めてこの老科学者の手を見つめる。先生は来年八十八の米寿を迎えられるが、お弟子さん達に私は八十八なんていうはんぱな数で祝って貰うのはいやだ、せめて九十になってからやって貫いたいといわれたそうで、食事なども肉を百匁位一度に召上るし、夜は二時三時まで研究をつづけられることもあるという。
「植物を愛することは、私にとって一つの宗教である」とまでいわれたあの牧野先生の温顔は、一つの仕事にすべてを捧げぬいた人間の完成した姿として、われわれの胸に深くきざみつけられたのであった。

海を渡る日本人の頭脳


学術資料としてアメリカの大学に献納を予約


 平和によみがえった太平洋の波涛を越えて牧野博士の頭脳が学術資料としてはるばるアメリカ・コーネル大学に送られ、総司令部経済科学局でもこれを援助すると言う新生文化日本にふさわしい快適なニュースがある。
 わが国植物学界の権威として知られている元帝大講師理学博士牧野富太郎氏は今板橋区東大泉五五七のこんもり茂った森にある研究室で八十五歳の高齢も吹きとべといった元気さで植物の研究を続けている、土佐に生れ若い時から酒も飲まず、煙草もすわず小学校を半途退学で独学力行、今日を築いた人だ、この人の頭脳なら立派なものだろうとアメリカに永年滞在し民間外交官とまでいわれる谷邨一佐氏は一九三七年ニューヨーク・コーネル大学教授パペーズ博士の依頼により牧野博士の頭脳を推奨し、同氏を訪問して快だくを得たものである、コーネル大学には世界各国人の優秀な頭脳が一堂に集められているが、日本人の脳だけがないので博士の頭脳がここに予約されたのだ、八十五歳といえばこたつにでも入り隠居生活をしているのが世間の常識だが、博士は溢れる元気で夜は午前一時から二時頃まで、時に徹夜までして一生の事業たる植物の着色、図説に没頭している、食料難のこのごろ果して健康が保たれるかと家人の心を痛めさせているくらいだ、この博士の頭脳なればこそ各国優秀人の頭脳に伍して恥じぬものである、ただ脳の輸送は短時間が必要なので空輸しなければならない。

お役にたてば


右について牧野富太郎氏は語る。
 私のような者の頭脳でも世界学界のため多少なりお役に立つ事になれば願ってもない喜びです。谷邨さんからお話があったので喜んでお引受した次第です。

ある日の閑談


時 早春のある日、外にはまだ冷たい風が吹き、薄玻璃うすはりのような空に白雲が流れている。
所 牧野博士邸の椽側、日はうららかに射し込んでいるが、かなりうすら寒い。
人 牧野博士(A)と編輯小僧(B)。

B「(卓上の花瓶を指して)先生、ニシキマンサクが咲きましたね。原稿を戴きに使いに出した女の人が先生から託されたと云ってこの花を持って来たとき、火の気のない寒い部屋に飾って春を待ったことをおぼえています。いかにも春の先触れといったような花で匂いも高いので、玻璃越しに空の晴れた日は、何かしら春の幻想に浸ることができました」
A「そうだ、まだ空襲の烈しい頃でしたね」
B「あとで終戦になった年の早春――そう、ちょうど今頃でした。先生が自費で出された『混混録』の第二二号がなかなか出ないと云って困ってらしたので、その頃同じ所に勤務していた三浦逸雄はやお(イタリア文学研究家・詩人)と私とが相談して、場合によったら私たちでお引受けして出そうというので先生にもこのことを申し上げましたね」
A「そう、そう。それが終戦後、君が鎌倉書房に入って長谷川さんの好意で更めて第一号から出ることになったのですよ」
B「御罹災なさらなくて国家のために何よりでした」
A「ありがとう。幸いに平和に還った今日、天与のこの恩恵を活かして学問のために余生をあますところなく捧げるつもりです」
B「終戦後、学問の自由が恢復して、日本もいよいよこれからですね」
A「しかし、それにつけてもこれから学問をする人には、よほどしっかりしてもらわにゃ困る。学者がこんな無自覚では国が持てぬ。あいも変らずジャガイモを馬鈴薯と云っているようではね」
B「お説によると、植物漢字名のあやまりは夥しいようですね」
A「そうです。サクラの桜、カシの橿、キノコの茸、スゲの菅、スミレの菫、フジの藤、クスノキの楠、シキミの樒、ケヤキの欅、ススキの薄、スギの杉、カヤの萱、アズサの梓、ヨモギの蓬、ハジの櫨、カエデの楓、ツキの槻、フキの蕗、ヒノキの檜など、数えればきりがないくらい誤用が多いですね。これにはどうしても改訓の漢和字典が必要です。誤りとも知らずに用いているのは日本文化の恥辱だ、だいいち青年を誤るものですよ」
B「ひとつ、植物漢字典を作っていただけませんか」
A「それはぜひやりたいのですが……。しかし、そういう間違いだけでなく、絵などでももう少し植物の知識が欲しいですね。どうも間違いが多い。画伯連中などもだいぶ間違った木や草を描いていますよ。……その点、森鴎外さんは感心でしたね。植物名について手紙でお尋ねを受けたことがあります」
B「今の学者ではどなたにいちばん注目しておられますか」
A「新村出しんむらいずるさんとか柳田国男さんのお仕事には敬意を表しております」
B「新村先生、柳田先生と云えば牧野先生も植物名の方言を採集しておいでですね」
A「ええ、だいぶ集めました。この方の整理もしておきたいと思うのですが……。それにつけても時間の経つのが惜しくてたまらん。余命はだんだん短くなるのに、あれもやりたい、これもやりたい。やり遂げにゃならん事が山とある」
B「それだけ長生きをなさればいいですよ。先生があの線の細かくこみいった精巧な図版をお描きになると聞いたら、たいていの人は驚きます。それに、御勉強ぶりは私たち若い者でもかないません。夜の二時三時に御就寝なさるというのですものね。この分だと、百歳はわけなくお生きになるでしょう」
A「百までは生きたいですね」
B「それはそうとして、この『混混録』は第百号まではどうしても続けましょう」
A「そりゃ愉快だ、ぜひそうしましょう(笑)」
B「それにしても、おいしいものを召し上ってますます若返っていただかなくてはなりません」
A「数年前岩で滑り背骨を強打したのがもとで、寒いと少々神経痛に悩まされるぐらいのもので、体はこのとおり健康です。若い時から山野に交わったせいですね」

森戸文部大臣へ進呈せる書翰


 馬鈴薯訂正の件につき、私は先日次の書面を森戸〔辰男〕文部大臣宛に文部省に郵送しておいたが、大臣が私の進言に理あるものとして幸いに嘉納せられるか、但しは馬耳東風と聞き流しそれを黙殺せらるるかもとより予想は出来ないが、それは馬鈴薯の字面の出ている文部省編纂教科書、すなわち学生に読ませつつある教科書中馬鈴薯字面の非を認めて、断然その馬鈴薯の字面を仮名と交替せしめて取り除く事を、教育のため、且つまた誤謬を覚え込む児童の不幸を救わんがため要請したものである。それだから私は刮目してその成り行きの注視を怠らないであろう。もしも文部省がその分りきった当然の間違いを改めるに誠意なく、依然としてそれをそのままに捨ておくなれば、私は止むなく更に鉾を磨くより外致し方はないと感ずる。しかし文部省は文教の府だけに済々たる学者の淵藪えんそうでもあれば、必ず理のある我輩の言に耳を傾ける事がないでもなかろう事を期待している。

書面の文
 謹啓、文部省編纂の教科書にジャガイモを馬鈴薯と書いてある事を伝聞し頗る遺憾に思っています。元来ジャガイモに馬鈴薯の名を適用する事は極めて非で決して当を得たものではありません。別包小包便で御手許へ進呈いたしました拙著『牧野植物随筆』を御覧下されて、それが正しくないという事に御同意下さるならば、教科書の馬鈴薯の字面を仮名でジャガイモと御改訂あられん事を日本教育のために希望致します次第であります。
昭和二十二年九月六日
牧野富太郎
森戸文部大臣御中

 その後間もなく同大臣から極めて御丁寧な御返書を頂きました。そして馬鈴薯の出ている教科書の抜き書きまでも御送り下さいまして、その細心な御注意をも感謝しています次第であります。

謹んで広く世間に告げる



牧野植物混混録


 右の混混録は著者多年蘊蓄せる植物の知識と、著者の新研究に依て得た知識とを綜合しあたかも泉の混混として湧き出ずるが如く、平易なる文章、簡明なる文章、趣味おおき文章を以て綴り、且つ図を入れ、以て博く世に紹介せんとする著者の個人雑誌である。幸いに世間の諸君子特別に好意的購読を賜われば著者並に発行者の悦び且つ光栄これに過ぐるものはない。殊に発行者北隆館は赤字の出ずるのを強いて我慢し、学問のためまた著者のために義侠的にその出版を快諾し敢行する勇気を示してくれていれば、切に御同情下されん事を悃願こんがん致します次第です。
 本誌は従来鎌倉書房の主人長谷川映太郎君の好意に因て発行し来りしが、不幸にして戦争のためその出版が頓挫し、ために暫らく休刊を続けしが、今回前記の通り北隆館がこれを継承し再び発足する事となったのである。
昭和二十七年一月二十日
著者 牧野富太郎

敢て苦言を呈す


 今日の時世は雑誌の一冊を作るにも、その労力、時間、用紙、印刷、並に費用など実に容易な事ではありません。そして今この雑誌を進呈するにしても、その誌代、包装、郵税などは毎号の事とてなかなかその負担が軽くないのです。今までの例に依れば、中にはその寄贈を受けても取りっぱなしで、ハガキ一本の礼状をも送り来ない人があったのはまことに苦々しい次第だ。御互いに特に交情相許す仲なればそれはまた格別であれど、右の行動に実に不愉快を感ぜずには居られません。この様に礼儀を無視して顧みない御方には、不得止やむをえず本誌の進呈好意を見合わすより外ありませんから、その辺何卒悪しからず御諒察を願いおきます。
昭和二十七年一月二十日
著者 牧野富太郎

私は毎日何をしているのか


 諸君が御承知の通り、私は植物分類学(Systematic Botany)が専門で、毎日夜その方面の勉強を続け、断えず植物と相撲をとっていて敢て厭きる事を覚えないばかりでなく、これが私の生まれつき一番な嗜好で、この上もない趣味を感ずる研究なんです。もしも植物が無かったなら私はどれほど淋しい事か、またどれほど失望するかと時々そう思います。植物は春夏秋冬わが周囲にあってこれに取り巻かれているから、いくら研究しても後から後からと新事実が発見せられ、こんな愉快な事はないのです。
 平素見馴れている普通の植物でも、更にこれを注意深く観察していきますと、これまでまだ一向に書物にも出ていないような新事実、それは疑いもなく充分学界へ貢献するにも足る新事実が見つかります。
 一つ例を挙げてみると、通常人家に植えてあるアノ南天は誰れでも知っている極く普通の植物であるから、最早や別に新しい事実はありはしないと誰れでもそう思うだろうが、それは全く皮相の見で古くからの書物にも載っていない新事実を、この南天に見つけ得るのです。これは私が今ここで御話をする以外には何んの書物にも書いてありません。
 まず第一に南天の幹に互生に着いている葉柄のえきには、必ず一つずつの芽すなわち腋芽えきがを持っています。葉腋に芽を持つという事は植物体には普通の事なので何にも珍しくいうには足らないけれど、南天の芽に至っては長い年数の間一向に枯死せずに生命を保っている事実がある。南天の葉はおよそ三年位幹について生き繁っているが、それがもとの方から段々上の方に向かって新陳代謝的に枯れていき、その幹はただ梢の方にのみ生きた葉が拡がり繁っていて、それ以下の幹の大部分には葉が既に謝落して幹は一本立ちになっている。この生活している葉の腋にはもとよりだが、なお枯れた葉の旧い葉腋にもまた前述の通りみな芽を持っていて、何年立っても枯れずに幹にピッタリと平たく接着して生命を保ちつつ残っている、故に南天の幹には本の方から梢の方に至るまで生きながらえている新旧の芽がある訳です。幹を見るとその古い部には無論葉はないけれど、芽だけはチャンと残り、表面は黒ずんで目立たぬけれど、内部は依然として生気、すなわち生命を保っている。一朝南天の幹が切られるかあるいは折れるかすると、その切り口、折れ口より下方にある芽のどれかが芽を吹いて葉を出し、新枝となるのである。これは近縁なヒラギナンテン(Mahonia Japonica DC.)でも同じ事です。試みに南天の幹をって見ると、必ずその切口の下の方にある用意の芽から、時こそ来れと新しく芽出めだって来るのを見受ける。このように南天は他に比する事の出来ないような心強い多くの芽を用意している事は面白い事実であるというべきだ。
 次にはまた南天に地下茎を有し、それで繁殖する事実も従来の書物には一切書いてない。この地下茎は南天の株から四方に出で、長いものはおよそ四尺ばかりの距離に達する。そしてその末端から地上に茎と葉とを出して新たな株を作る。それが後にその地下茎が枯死して朽腐きゅうふすれば、ここに独立した南天の株となる。この地下茎は痩せ、長い円柱形で黄色を呈しており、低い節があってその節から鬚根ひげねが輪生している。南天の株本を踏み堅めると、なかなか地下茎が伸び出ないが軟らな土質だとよくそれが発生する。そして南天が繁殖するのである。すなわち南天は勿論果実でも繁殖するが、また地下茎すなわち地中枝でも繁殖する二様の繁殖法を持っていることが知られる。
 上に書いたように、南天の幹には新旧多くの腋芽を持っておる事と地下茎を有している事とは、前にも述べたように、これまでの多くの書物には書いてない新事実で、これは全く私の新発見であると自慢してもよかろう。知れきった普通の南天でも綿密に注意し観察すれば、従来まだ学界に知られていないこのような新事実が見つかるから、科学するには何んでも細心綿密な観察が必要である事はいうまでもない。
 南天は日本と支那との原産灌木で、支那名は南天燭、一名は南天竹である。日本名となっているナンテンすなわち南天はこの支那名から導かれたものだ。南天はわが国の暖国には山林地に自生がある。学名は Nandina domestica Thunb. で、そのナンデイナは南天に基づいた名、ドメスチカは人家の庭に植え養われてあるからいう。ヘビノボラズ科に属し一属一種である〔現在はメギ科に分類される〕。南天には園芸的の品種が多く、すなわちキンシナンテン、イカダナンテン、ササバナンテンなどをはじめとし、およそ二十品位もあるであろう。
 南燭というのはツツジ科のシャシャンボすなわち Vaccinium bracteatum Thunb. で、支那ではその葉汁で色の淡黒いいわゆる烏飯を作ることがある。日本の本草学者はこの南燭を南天だと勘違いし、従ってその飯をナンテンメシと誤り呼んでいる一人の学者があるが、それは『本草綱目啓蒙』の著者小野蘭山であった。ナンテンの葉は有毒であるから、従って南天飯を食えば多分中毒するのであろう。

植物方言の蒐集


 私は今から二十八年程前の大正九年頃から、わが日本各地の植物方言をあつめているのだが、今日でもなおその手を緩めてはいなく、従って得れば従って録しておく事を怠らなく、一つでも沢山にその数の増加せん事を庶幾しょきしている。そして今私の手許にろくせられているその方言が既に相当な多数に上りノートブック十冊位の分量に達しているが、これは皆私自身と他から親切にも報告してくれた協力者との結晶である。私は早晩それを一書に編成する事を期し、ひいてはこれを印刷に附しいささか斯界に貢献したいと願念している。
 今日わが植物界の人々は何故か余り植物の方言には重きをおいていないように感ずる。何んとなればその方面に努力している熱心家を見受けないからである、がしかし、この植物方言の調査研究は決して放漫に附してはならない程重要なものである。これは民衆が植物の実物について実際に呼んでいる名であるのだから、その点から観ても民衆がそれに注意を向けてそれだけ知識を働かせている証拠になる。故に方言が沢山にあればあるほどその国の民俗文化の度が進んでおり且つ開けている幟印はたじるしであるといえる。すなわち人々がそれだけ注意力、思考力を使用しているからである。そしてその智能の結果から生まれ出たこの方言を死滅させ葬り去らせて顧みぬ事は国の文運として許されない事で、強いてこれを等閑視するのは取りも直さず民衆思想の趨向すうこうを殺すものというべきだ。つまりかくの如く必要に応じて自然に生まれ来た正しい事柄は、何時までもこれを生かし且つ育て上ぐべき義務を常に吾人は荷うている筈でないか。
 子供などのいう方言にはその意味に頗る興味を帯びるものがあり、従って子供の頭に閃めくその知識も察知せられる。例えばスベリビユをヨッパライグサというが如きまことに面白く、それは子供がその茎をしごき、漸次に赤色を呈せしめてこれを酔漢に擬し酔ッパライ草と呼んで遊ぶの類である。
 また現にその方言があったため古来不明な植物が明らかとなり重要な発見として世に浮かび出たものにアズサがある。すなわちこの方言があったためアズサの真物がはじめて判かり、同時に梓をアズサとしていた旧来の誤りが是正せられた。このアズサはわが本草家達が誤り呼んでいるアカメガシワでは決してなく、それはカバノキ属のヨグソミネバリであった。昔この樹で弓を作り信州飛州から朝廷に貢したものだ。梓は日本にはない支那特産の樹木でキササゲ属に属し、トウキササゲ(私の命名)と呼ぶものである。もしもアズサの方言がなかったならばこの問題は遂に解けずに終わったのであろう。そしてこれを証明決定したのは故白井光太郎博士の功績であった。
 かの『古今集』の歌の「深山みやまにはあられ降るらし外山とやまなるまさきのかづら色づきにけり」にあるマサキノカズラも、今日八丈島等に昔ながらのその方言が残っていたればこそそれがテイカカズラである事が判った。それ迄はこのマサキノカズラをツルマサキだと間違えていた。このツルマサキには敢て紅葉は出来ぬが、テイカカズラには濃赤色の紅葉がその緑葉間に交り生ずる。
 このように植物の方言は大分大切な役割りをもっているので、決してそれを忽諸こつしょに附してはならない。これには苟くもわが日本に存するその方言を残らず採集してそれを網羅整頓し、ここにこれを一書にまとめて僉載せんさいし、すべからく植物方言全集を完成して刊行すべき事を私は強調する。回顧すれば今から何年か前に一時方言熱が勃興し、花火の如く次々にその書物が発行せられたが、のち端なくも依然としてその熱が冷却し、すなわち寂寞たる運命を辿たどる世となったのはまことに残念である。





底本:「牧野富太郎自叙伝」講談社学術文庫、講談社
   2004(平成16)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「牧野富太郎自叙伝」長嶋書房
   1956(昭和31)年12月
入力:kompass
校正:仙酔ゑびす
2014年1月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「栽」の「木」に代えて「肉」、U+80FE    144-12


●図書カード