雨月物語

上田秋成

鵜月洋校注




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校注 雨月物語



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雨月物語序


羅子撰水滸。而三世生唖児。紫媛著源語。而一旦堕悪趣者。蓋為業所※(「にんべん+福のつくり」、第4水準2-1-70)耳。然而観其文。各※(二の字点、1-2-22)奮奇態。※(「口+(合/廾)」、第4水準2-4-11)哢逼真。低昂宛転。令読者心気洞越也。可見鑑事実于千古焉。余適有鼓腹之閑話。衝口吐出。雉※[#「句+隹」、U+96CA、187-5]竜戦。自以為杜撰。則一〇摘読之者。一一固当不謂信也。一二豈可求醜脣平鼻之報哉。一三明和戊子晩春。雨霽月朦朧之夜。窓下編成。一四※(「鼾のへん−自」、第4水準2-81-24)梓氏。題曰雨月物語。云。一五剪枝畸人書
一六 一七
「丸子虚後人」「四角遊戯三昧」の印の図
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羅子らし水滸すいこせんして、三世唖児あじみ、紫媛しゑん源語げんごあらはして、一旦悪趣につるは、けだごふのために※(「にんべん+福のつくり」、第4水準2-1-70)せまらるるところのみ。然り而して其の文をるに、各々奇態きたいふるひ、※(「口+(合/廾)」、第4水準2-4-11)あんろうしんせまり、低昂宛転ていかうゑんてん、読者の心気をして洞越どうゑつたらしむるなり。事実を千古にかんがみらるべし。たまたま鼓腹こふくの閑話あり、口をきて吐きだす。きじ[#「句+隹」、U+96CA、188-6]き竜戦ふ、みづからおもへらく杜撰なりと。則ち之を摘読てきどくする者は、もとよりまさに信と謂はざるべきなり。あに醜脣平鼻しうしんへいびむくいを求むべけんや。明和めいわ戊子ぼし晩春、雨れ月朦朧もうろうの夜、窓下さうかに編成し、以て梓氏しし※(「鼾のへん−自」、第4水準2-81-24)あたふ。題して雨月物語うげつものがたりふと云ふ。剪枝畸人せんしきじん書す。
[#丸印、U+329E、188-11] ※[#四角印、188-11]

一 羅貫中。中国一三、四世紀の人。水滸伝を著わしたために子孫三代唖児が生まれたという俗説がある(西湖遊覧志余。続文献通考等)「羅氏が三代まで唖子をうみしなども云ふ」(秋山記・秋成)。
二 紫式部。源氏物語を著わしたために地獄におちたという俗説がある(今物語、宝物集等)。秋成も秋山記でそのことを書いている。
三 思うに悪業の為にこんな報いにせまられたというべきであろう。
四 鳥の黙したりさえずったりする声の形容。ここでは文章の調子、勢い。
五 文章の調子が或は低く或は高く、あたかもころがるようになめらかで流暢である。
六 つよく感銘する。
七 泰平の世を謳歌するようなのんきな無駄ばなし。鼓腹は、飽食して腹鼓をうち、泰平を楽しむ。
八 雉が鳴き竜が戦うような奇怪千万な怪奇談。
九 自分でもこれは杜撰であると思う。杜撰はよりどころなく疎漏なこと。
一〇 ひろい読む。
一一 もとよりこれが信ずるに足るものだというはずがない。
一二 どうして子孫に口唇裂や平たい鼻の変わり者が生まれるという業の報いをうけるはずがあろうか。
一三 明和五年(一七六八)三月。秋成三五歳。
一四 出版業者に与えた。版行にふした。
一五 上田秋成の戯号。秋成は五歳の折、重い痘を病み、その結果、右手の中指と左手の人さし指が短くなり、不自由になった。そのことから一時的につけた号である。枝は肢と同じで、指に通ず。剪枝は木をきるはさみの意味もある。畸人は変人、変わり者。
一六 「子虚後人」とあって、秋成の一時的な戯号。いたずらに妄言を吐く人物の子孫という意味。
一七 「遊戯三昧」とある。遊びたわむれることにむちゅうになること。五雑組、巻十五に「凡為小説及雑劇戯文、須是虚実相半、方為游戯三昧之筆」とある。
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雨月物語 巻之一



白峯しらみね

 あふ坂の関守せきもりにゆるされてより、秋こし山の黄葉もみぢ見過しがたく、浜千鳥の跡ふみつくる鳴海なるみがた、不尽ふじ高嶺たかねけぶり浮嶋がはら、清見が関、いそ小いその浦々、むらさきにほふ武蔵野の原、塩竈しほがまぎたる朝げしき、一〇象潟きさがたあまとまや、一一佐野の舟梁ふなばし一二木曾の桟橋かけはし、心のとどまらぬかたぞなきに、(なほ)西の国の歌枕見まほしとて、一三仁安三年の秋は、一四あしがちる難波なにはて、一五須磨明石の浦ふく風を身に一六しめつも、行々一七讃岐(さぬき)真尾坂みをざかはやしといふにしばらく一八※(「筑」の「凡」に代えて「おおざと」、第3水準1-89-61)つゑとどむ。草枕はるけき旅路のいたはりにもあらで、一九観念修行くわんねんしゆぎやう便たよりせしいほりなりけり。
 この里ちかき白峯といふ所にこそ、二〇新院のみささぎありと聞きて、拝みたてまつらばやと、十月かみなづきはじめつかた、かの山にのぼる。まつかしはは奥ふかくしげりあひて、二一青雲あをぐも軽靡たなびく日すら小雨こさめそぼふるがごとし。二二ちごだけといふけはしきみねうしろそばだちて、千じん谷底たにそこより雲霧くもきりおひのぼれば、咫尺まのあたりをも鬱悒おぼつかなきここちせらる。木立こだちわづかにきたる所に、つち※(「土へん+敦」、第3水準1-15-63)たかみたるが上に、石を三かさねにたたみなしたるが、二三荊蕀うばら薜蘿かづらにうづもれてうらがなしきを、これならん御墓みはかにやと心もかきくらまされて、さらに夢現ゆめうつつをもわきがたし。
 にまのあたりに見奉りしは、二四紫宸ししん清涼せいりやう御座みくら朝政おほまつりごときこしめさせ給ふを、もも官人つかさは、かくさかしき君ぞとて、みことかしこみてつかへまつりし。二五近衛院このゑのゐんゆづりましても、二六藐姑射はこややまたまはやしめさせ給ふを、思ひきや、二七麋鹿びろくのかよふ跡のみ見えて、まうでつかふる人もなき深山みやま二八おどろの下に神がくれ給はんとは。二九万乗ばんじようの君にてわたらせ給ふさへ、三〇宿世すくせごふといふもののおそろしくもそひたてまつりて、罪をのがれさせ給はざりしよと、世のはかなきに思ひつづけて涙わき出づるがごとし。
 終夜よもすがら供養くやうしたてまつらばやと、御墓の前のたひらなる石の上に座をしめて、経文きやうもんしづかにしつつも、かつ歌よみてたてまつる。

三一松山の浪のけしきはかはらじを
    かたなく君はなりまさりけり

(なほ)おこたらず供養きようやうす。露いかばかりそでにふかかりけん。日はりしほどに、山深き夜のさま三二ただならね、石のゆか木の葉のふすまいと寒く、しんほねえて、三三物とはなしにすざまじきここちせらる。月は出でしかど、三四しげきがもとは影をもらさねば、三五あやなきやみにうらぶれて、ねぶるともなきに、まさしく三六円位ゑんゐ々々とよぶ声す。
 をひらきてすかし見れば、其のさまことなる人の、高くせおとろへたるが、顔のかたち、着たる衣のいろあやも見えで、こなたにむかひて立てるを、西行もとより三七道心だうしん法師ほふしなれば、恐ろしともなくて、ここに来たるはそと答ふ。かの人いふ。さきによみつること葉のかへりごと聞えんとて見えつるなりとて、

三八松山の浪にながれてこし船の
    やがてむなしくなりにけるかな

うれしくもまうでつるよ、と聞ゆるに、新院のれいなることをしりて、地にぬかづき涙を流していふ。さりとていかに迷はせ給ふや。三九濁世ぢよくせ厭離えんりし給ひつることのうらやましく侍りてこそ、今夜こよひ四〇法施ほふせ随縁ずゐえんしたてまつるを、四一現形げぎやうし給ふはありがたくも悲しき御こころにし侍り。ひたぶるに四二隔生即忘きやくしやうそくまうして、四三仏果円満ぶつくわゑんまんくらゐに昇らせ給へと、こころをつくしていさめ奉る。
 新院から々と笑はせ給ひ、なんぢしらず、近ごろの世のみだれがなすわざなり。生きてありし日より魔道にこころざしをかたぶけて、四四平治へいぢみだれおこさしめ、死して(なほ)四五朝家てうかたたりをなす。見よ見よ、やがてあめしたに大らんを生ぜしめん、といふ。西行此のみことのりに涙をとどめて、こは浅ましき四六御こころばへをうけたまはるものかな。君はもとよりも四七聡明そうめいの聞えましませば、四八王道わうだうのことわりはあきらめさせ給ふ。こころみにたづまうすべし。そも四九保元ほうげん御謀叛ごむほん五〇あめかみの教へ給ふことわりにもたがはじとておぼし立たせ給ふか。又みづからの人慾にんよくより計策たばかり給ふか。つばららせ給へとまうす。其の時院のけしきかはらせ給ひ、汝聞け、帝位は人のきはみなり。人道にんだうかみより乱すときは、天のめいに応じ、たみのぞみしたがうて是をつ。そもそも五一永治えいぢの昔、をかせるつみもなきに、五二みかどみことかしこみて、三歳の五三体仁としひとゆづりし心、人慾深きといふべからず。体仁早世さうせいましては、皇子みこ五四重仁しげひとこそ国しらすべきものをと、われも人も思ひをりしに、五五美福門院びふくもんゐんねたみ五六さへられて、四の宮の五七雅仁まさひとうばはれしは深きうらみにあらずや。重仁五八国しらすべき才あり。雅仁何らのうつは物ぞ。人の徳をえらばずも、あめしたの事を五九後宮こうきゆうにかたらひ給ふは父帝ちちみかどの罪なりし。されど世にあらせ給ふほどは孝信かうしんをまもりて、六〇ゆめいろにも出さざりしを、かくれさせ給ひてはいつまでありなんと、たけきこころざしをおこせしなり。六一臣として君をつすら、天に応じ民ののぞみにしたがへば、六二しう八百年の創業さうげふとなるものを、まして六三しるべきくらゐある身にて、六四牝鶏ひんけいあしたするを取つてかはらんに、道を失ふといふべからず。汝、六五家を出でてほとけいんし、六六未来みらい解脱げだつの利慾を願ふ心より、六七人道にんだうをもて因果いんぐわに引き入れ、六八堯舜げうしゆんのをしへを釈門しやくもんこんじてわれに説くやと、御声あららかにらせ給ふ。
 西行いよよ恐るる色もなく座をすすみて、君がらせ給ふ所は、人道のことわりをかりて六九慾塵よくぢんをのがれ給はず。遠く辰旦もろこしをいふまでもあらず。皇朝くわうてうの昔、七〇誉田ほんだの天皇、兄の皇子みこ七一大鷦鷯おほさざききみをおきて、すゑ皇子みこ七二菟道うぢきみ七三日嗣ひつぎ太子みことなし給ふ。天皇崩御かみがくれ給ひては、兄弟はらからゆづりて位にのぼり給はず。三とせをわたりても(なほ)果つべくもあらぬを、菟道うぢきみ深くうれひ給ひて、あに久しくきて天がしたわづらはしめんやとて、七四みづから宝算よはひたせ給ふものから、罷事やんごとなくて兄の皇子みこ御位みくらゐかせ給ふ。是れ七五げふを重んじ孝悌かうていをまもり、まことをつくして人慾にんよくなし。堯舜げうしゆんの道といふなるべし。本朝に儒教をたふとみてもは王道わうだうたすけとするは、※道うぢ[#「くさかんむり/兎」、U+2B7CF、195-6]きみ百済くだら七六王仁わにを召して学ばせ給ふをはじめなれば、此の兄弟はらからきみ心ぞ、やが漢土もろこしひじりの御心ともいふべし。又、周のはじめ七七武王ぶわう一たびいかりて天下の民を安くす。臣として君をしいすといふべからず。じんぬすみ義を賊む、一ちうちゆうするなりといふ事、七八孟子まうじといふ書にありと人の伝へに聞きはべる。されば漢土もろこしの書は、経典けいてん七九史策しさく詩文しぶんにいたるまで渡さざるはなきに、かの孟子の書ばかりいまだ日本に来らず。八〇此の書を積みて来る船は、八一必ずしもあらき風にあひて沈没しづむよしをいへり。それをいかなる故ぞととふに、我が国は天照すおほん神の開闢はつぐにしろしめししより、日嗣ひつぎ大王きみゆる事なきを、かく口さかしきをしへを伝へなば、末の世に八二神孫しんそんを奪うてつみなしといふあたも出づべしと、八百やほよろづの神のにくませ給うて、神風を起して船をくつがへし給ふと聞く。されば他国かのくにひじりの教も、ここの国土くにつちにふさはしからぬことすくなからず。かつ八三にもいはざるや。八四兄弟うちせめぐともよそあなどりふせげよと。さるを骨肉こつにくの愛をわすれ給ひ、八五あまさへ八六一院崩御かみがくれ給ひて、八七もがりの宮に肌膚みはだへもいまだえさせたまはぬに、御旗みはたなびかせ弓末ゆずゑふり立て宝祚みくらゐをあらそひ給ふは、不孝の罪これよりはなはだしきはあらじ。八八天下は神器じんきなり。人のわたくしをもて奪ふともべからぬことわりなるを、たとへ重仁王しげひとぎみ即位みくらゐは民の仰ぎ望む所なりとも、徳をくわほどこし給はで、道ならぬみわざをもてを乱し給ふときは、きのふまで君をしたひしも、けふはたちま怨敵あたとなりて、本意ほいをもげたまはで、いにしへより八九あとなきつみを得給ひて、かかるひなの国の土とならせ給ふなり。ただただ九〇ふるあたをわすれ給うて、浄土じやうどにかへらせ給はんこそ、ねがはまほしき叡慮みこころなれと、はばかることなくまをしける。
 院、長嘘ながきいきをつがせ給ひ、今事をただして罪をとふ、ことわりなきにあらず。されどいかにせん。この嶋にはぶられて、九一高遠たかとほが松山の家にくるしめられ、日に三たびの九二御膳おものすすむるよりは、まゐりつかふる者もなし。只あまとぶかり小夜さよの枕におとづるるを聞けば、都にや行くらんとなつかしく、あかつきの千鳥の洲崎すさきにさわぐも、心をくだくたねとなる。九三からすかしらは白くなるとも、都にはかへるべきときもあらねば、定めて九四海畔あまべおにとならんずらん。ひたすら後世ごせのためにとて、九五五部の大乗経だいじようぎやうをうつしてけるが、九六貝鐘かひがねも聞えぬ荒礒ありそにとどめんもかなし。せめては筆の跡ばかりをみやこうちに入れさせ給へと、九七仁和寺にんわじ御室みむろもとへ、経にそへてよみておくりける。

九八浜千鳥跡はみやこにかよへども
    身は松山にをのみぞ

 しかるに九九少納言信西せうなごんしんぜいがはからひとして、呪咀じゆその心にやとそうしけるより、そがままにかへされしぞうらみなれ。いにしへよりやまと漢土もろこしともに、国をあらそひて兄弟あたとなりしためしは珍しからねど、つみ深き事かなと思ふより、悪心あくしん懺悔さんげの為にとてうつしぬる御きやうなるを、いかにささふる者ありとも、一〇〇したしきをはかるべきのりにもたがひて、筆の跡だもれ給はぬ叡慮みこころこそ、今はひさしきあたなるかな。所詮しよせん此の経を一〇一魔道に回向ゑかうして、恨をはるかさんと、一すぢにおもひ定めて、ゆびやぶり血をもて願文ぐわんもんをうつし、経とともに一〇二志戸しとの海にしづめてし後は、人にもまみえず深くぢこもりて、ひとへに魔王となるべき大願をちかひしが、一〇三はた平治のみだれぞ出できぬる。まづ一〇四信頼のぶよりが高きくらゐを望む驕慢おごりの心をさそうて一〇五義朝よしともをかたらはしむ。かの義朝こそにくあたなれ。父の一〇六為義ためよしをはじめ、同胞はらから武士もののべは皆がためにいのちを捨てしに、他一人かれひとりわれに弓をく。一〇七為朝ためともが勇猛、為義一〇八忠政ただまさ軍配たばかり一〇九贏目かついろを見つるに、西南の風に焼討やきうちせられ、一一〇白川の宮を出でしより、一一一如意によいみねけはしきに足を破られ、あるひは一一二がつ椎柴しひしばをおほひて雨露をしのぎ、つひとらはれて此の嶋にはぶられしまで、皆義朝よしともかだましき計策たばかりくるしめられしなり。これがむくい一一三虎狼こらうの心に障化しやうげして、信頼のぶより隠謀いんぼうにかたらはせしかば、一一四地祇くにつがみさかふ罪、さとからぬ清盛きよもりたる。かつ父の為義をしいせしむくい※(「にんべん+福のつくり」、第4水準2-1-70)せまりて、一一五家の子にはかられしは、天神あまつがみたたりかふむりしものよ。又少納言信西は、常におのれ博士はかせぶりて、人をこばむ心のなほからぬ、これをさそうて信頼義朝があたとなせしかば、つひに家をすてて一一六宇治山のあなかくれしを、一一七はたさがられて一一八六条河原に梟首かけらる。これ経をかへせし諛言おもねりの罪を治めしなり。それがあまり、一一九応保おうほうの夏は美福門院びふくもんゐんいのちせまり、長寛ちやうくわんの春は一二〇忠通ただみちたたりて、われも其の秋世をさりしかど、(なほ)一二一嗔火しんくわさかんにしてきざるままに、つひに大魔王となりて、三百余類の巨魁かみとなる。一二二けんぞくのなすところ、人のさいはひを見てはうつしてわざはひとし、世のをさまるを見てはみだれおこさしむ。只清盛が一二三人果にんくわ大にして、親族氏族うからやからことごとく高き官位につらなり、おのがままなる国政まつりごと執行とりおこなふといへども、一二四重盛忠義をもてたすくる故、いまだときいたらず。汝見よ、平氏も又久しからじ。雅仁まさひとわれ一二五つらかりしほどはつひむくふべきぞと、御声いやましに恐ろしく聞えけり。西行いふ。君かくまで魔界まかい悪業あくごふにつながれて、一二六仏土ぶつどに億万里を隔て給へば、ふたたびいはじとて、只もくしてむかひ居たりける。
 時にみねたにゆすり動きて、風叢林はやしたふすがごとく、沙石まさごそら巻上まきあぐる。見る見る一二七一段の陰火いんくわ、君がひざもとより燃上もえあがりて、山も谷も昼のごとくあきらかなり。ひかりの中につらつら御気色みけしきを見たてまつるに、あけをそそぎたる竜顔みおもてに、一二八おどろかみひざにかかるまで乱れ、白眼しろきまなこりあげ、あついきをくるしげにつがせ給ふ。御衣は柿色かきいろのいたうすすびたるに、手足のつめけもののごとくひのびて、さながら魔王のかたち、あさましくもおそろし。そらにむかひて、一二九相模さがみ々々と、ばせ給ふ。あと答へて、とびのごとくの一三〇化鳥けてうかけ来り、まへしてみことのりをまつ。院、かの化鳥にむかひ給ひ、何ぞはやく重盛がいのちりて、雅仁まさひと清盛きよもりをくるしめざる。化鳥こたへていふ。一三一上皇じやうくわう幸福さいはひいまだきず。重盛が忠信ちかづきがたし。今より一三二支干えとめぐりを待たば、重盛が命数よはひ既に尽きなん。かれせば一族の幸福さいはひ此の時に亡ぶべし。院、手をつてよろこばせ給ひ、かの讐敵あたどもことごとく一三三此の前の海に尽すべしと、御声谷峯にひびきて、すざましさいふべくもあらず。魔道の浅ましきありさまを見て涙しのぶにへず。ふたたび一首の歌に随縁ずゐえんのこころをすすめたてまつる。

一三四よしや君昔の玉のとことても
    かからんのちは何にかはせん

一三五刹利せつり須陀しゆだもかはらぬものをと、心あまりて高らかにうたひける。
「白峯陵の前の「たひらなる石の上に座をしめ」た西行が、崇徳院の怨霊と対決する図」のキャプション付きの図
白峯陵の前の「たひらなる石の上に座をしめ」た西行が、崇徳院の怨霊と対決する図。「一段の陰火、君が膝の下より燃上がりて」という情景である。(原本三丁裏、四丁表の挿絵)

 此のことばを(きこ)しめしてでさせ給ふやうなりしが、御面みおもてやはらぎ、陰火もややうすく消えゆくほどに、つひに竜体みかたちもかきけちたるごとく見えずなれば、化鳥けてうもいづちきけん跡もなく、十日あまりの月は峯にかくれて、のくれやみのあやなきに、夢路ゆめぢにやすらふが如し。ほどなく一三六いなのめの明けゆく空に、朝鳥あさとりこゑおもしろく鳴きわたれば、かさねて一三七金剛経こんがうきやうくわん供養くやうしたてまつり、山をくだりていほりに帰り、しづかに終夜よもすがらのことどもを思ひ出づるに、平治の乱よりはじめて、人々の消息、年月のたがひなければ、深くつつしみて人にもかたり出でず。
 其の後十三年を経て、一三八治承ちしよう三年の秋、たひらの重盛やまひかかりて世をりぬれば、一三九平相国へいさうこく入道、一四〇君をうらみて一四一鳥羽とば離宮とつみやめたてまつり、かさねて一四二福原のかやの宮にくるしめたてまつる。一四三頼朝よりとも東風とうふうきそひおこり、一四四義仲よしなか北雪ほくせつをはらうて出づるに及び、平氏の一門ことごとく西の海にただよひ、つひに讃岐の海志戸一四五八嶋にいたりて、たけきつはものどもおほく一四六鼇魚かうぎよのはらにはぶられ、一四七赤間あかませき一四八だんの浦にせまりて、一四九幼主えうしゆ海に入らせたまへば、軍将いくさぎみたちものこりなく亡びしまで、露たがはざりしぞおそろしくあやしき話柄かたりぐさなりけり。其の後一五〇御廟みべう一五一玉もてり、一五二丹青たんせいゑどりなして、稜威みいづあがめたてまつる。かの国にかよふ人は、必ずぬさをささげて一五三いはひまつるべき御神なりけらし。

一 香川県坂出市青海町にあり、崇徳院の御陵がある。
二 京都と滋賀の境にあった関。関の番人に通行を許されて東国の方へ向ってから。
三 秋がきた山の紅葉の美景を見捨てがたく。この辺の文章は撰集抄による。
四 愛知県名古屋市緑区鳴海町付近の干潟。
五 静岡県富士市浮島沼付近の沼沢地。歌枕。
六 静岡県静岡市清水区興津清見寺町にあった関所。歌枕。
七 大磯・小磯ともに神奈川県大磯町にある。歌枕。
八 紫草の美しく咲く武蔵野。
九 宮城県塩釜市の海。
一〇 秋田県にかほ市象潟町。当時は入江であった。歌枕。
一一 群馬県高崎市の南部、佐野の烏川に架せられた、舟を並べて板を渡した橋。歌枕。
一二 木曾川上流地方のけわしい崖や山道にかけられた橋。
一三 一一六八年。高倉天皇の代。西行五一歳。
一四 「難波」の枕詞でもある。
一五 兵庫県の神戸・明石の海岸。源氏物語以後の名勝地。
一六 しみじみと感じながら。
一七 坂出市王越町にある。
一八 逗留する。
一九 悟りの道を念じて仏道修行するための庵。
二〇 七五代崇徳天皇が上皇となって新院とよばれた。
二一 樹木鬱蒼としたさま。万葉集一六「弥彦(いやひこ)のおのれ神さび青雲のたなびく日すら小雨そぼふる」。
二二 白峰の北方にある。
二三 野ばらと蔓草。
二四 宮中の儀式を行なう正殿と、陛下の常の御所であった中殿。
二五 七六代近衛天皇。崇徳天皇の異母弟。
二六 上皇・法皇の御所。
二七 鹿。麋は大鹿。
二八 雑草木やいばらの乱れ茂った藪。
二九 天皇。
三〇 前世でした悪い因縁。
三一 松山は香川県坂出市にある。かたなくはむなしく。形は潟の掛詞。山家集下に第五句「なりましにけり」として出ている。
三二 不気味で何か異常なことが起りそうである。
三三 何とはなしに。
三四 繁茂した木立は月光をもらさないので。
三五 物の見わけもつかぬ闇に心憂く疲れて。
三六 西行が出家直後の法名。西行は俗名佐藤義清、北面の武士であったが、二三歳で出家、諸国行脚の末、河内弘川寺で没した。行年七三歳。
三七 仏道をふかく信仰、帰依して正道をえた僧侶。
三八 山家集下に出ている。
三九 濁りけがれた現世をいとい離れる。死去することをいう。
四〇 仏縁にあずかりたいと思って法要申しあげているのに。法施は三施(財施・法施・無畏施)の一、法を聞かせて善根を増すことで、法要。随縁は仏縁につながる。
四一 生前の姿を現わす。
四二 死によってただちに妄執を忘れる。
四三 仏道修行の果報をえて完全無欠の仏の位につく。
四四 平治元年(一一五九)藤原信頼と源義朝が、藤原信西と平清盛を討伐しようとして起した乱。義朝方が敗れた。平治物語に詳しい。
四五 皇室。
四六 御心のおもむく所。
四七 賢明だとの評判。
四八 帝王道の道理は十分御存じでいらっしゃる。
四九 保元元年(一一五六)七月、崇徳上皇が皇位継承をめぐって同母弟後白河天皇と争って挙兵した乱。上皇方が敗れた。保元物語に詳しい。
五〇 天照大神をさす。
五一 永治元年(一一四一)。
五二 七四代鳥羽天皇。
五三 七六代近衛天皇。「なりひと」が正しい。
五四 崇徳上皇の第一皇子。
五五 鳥羽法皇の妃、近衛天皇の生母、藤原長実の女、得子。
五六 さまたげられて。
五七 鳥羽天皇の第四皇子で、七七代後白河天皇。
五八 天子として国を治める才。
五九 后妃のすむ御殿。ここでは美福門院をさす。
六〇 ちっとも。決して。
六一 周の武王が臣の身をもって殷の紂王を討った故事。
六二 周は武王にはじまり、三〇余代八百数十年つづいて、紀元前二五六年頃滅びた。
六三 天子として国を治める資格のある身。
六四 雌鶏が雄鶏をつついてときをつくらせるように、妻の権力が夫の上位にあるたとえ。
六五 出家して仏道に溺れ惑い。
六六 現世の煩悩から解放されて、未来で救いを得たいと願う利欲の心。
六七 儒教の説く現世の人間道を仏教の因果思想にひきつけ。
六八 中国古代の聖天子。仁徳をもって民を治めた。
六九 色声香味触(又は色名食財睡眠)の五欲が眼耳鼻舌身意の六根を通して心を穢す事。
七〇 一五代応神天皇。
七一 応神天皇の第四皇子。一六代仁徳天皇。
七二 仁徳天皇の末弟。
七三 皇太子。
七四 御自害あそばされたので。
七五 天皇の位。
七六 朝鮮百済の学者。応神天皇一六年に来朝し帰化した。
七七 周の祖。殷の紂王の暴虐を怒ってこれを誅し、天下に仁政をしいた。「孟子」梁恵王下の「武王亦一怒而安天下之民」「臣弑其君可乎」「賊仁者謂之賊、賊義者謂之残、残賊之人、謂之一夫、聞一夫紂矣、未君也」による。
七八 中国戦国時代の哲学者孟軻の言説を記した書。このことは孟子、梁恵王章句下に記されている。
七九 歴史書と記録・文書の類。
八〇 このこと「五雑組」地部巻四に見えている。
八一 必ず、と同意。
八二 皇孫(天子の位)。
八三 詩経。
八四 兄弟は内輪で喧嘩しても、外部からのはずかしめに対しては協力一致して防げ(詩経・小雅)。
八五 そのうえに。
八六 鳥羽法皇。
八七 貴人の遺体を本葬するまでの間、柩に入れて安置しておく仮の御殿。
八八 天子は神の定めた器、天子の位は神意による。老子二九「天下神器、不為也」。
八九 上皇が流罪にあうという前例のない刑罰。
九〇 昔のうらみ心。
九一 綾高遠。香川県坂出市松山にいた名家。
九二 天子の食事。
九三 普通には絶対ありえないことのたとえ。
九四 海辺で命を終ることであろう。鬼は死者の霊。
九五 大乗に属する経典で各宗派で違う。天台宗では華厳・大集・大品般若・法華・涅槃の五部をいう。
九六 法螺貝と梵鐘。寺院らしい寺院もない荒磯。
九七 鳥羽天皇の第五皇子、崇徳上皇の弟、覚性法親王。京都市右京区御室にある真言宗仁和寺の上首であった。
九八 鳥の跡は文字筆跡。松山は待つの掛詞。保元物語巻三にある。
九九 藤原通憲。保元の乱後権勢をふるい、平治の乱で斬首された。
一〇〇 議親法。天皇の五等親、太皇太后・皇太后の四等親、皇后の三等親までの親族が減刑されるという特別法。
一〇一 正法の妨げをなす邪道(天狗道)に自分が写経で修得した功徳をさしむけ。
一〇二 坂出市の北の海にある大椎・小椎島の間の椎途の海であろうか。
一〇三 果して。
一〇四 藤原信頼。近衛大将を望んで信西と争い、平治の乱を起して殺された。
一〇五 源義朝。為義の長子。保元の乱で父を討ち、平治の乱で清盛に敗れた。
一〇六 源為義。保元の乱で上皇方につき、敗れて斬首された。
一〇七 源為朝。為義の第八子。鎮西八郎。伊豆大島に流罪。
一〇八 平忠正。清盛の叔父。保元の乱で斬首された。
一〇九 勝利の気配。
一一〇 京都市中京区丸太町にあった、もと白河法皇の御所。
一一一 京都東山の主峰。
一一二 きこり・猟師など。
一一三 暴虐残忍な心にかえて。
一一四 国土を守る神。天皇。
一一五 家来に謀殺されたのは。
一一六 京都府宇治市宇治一帯の山。平治物語では木幡山。
一一七 ついに。果して。
一一八 京都六条付近の賀茂河原で、刑場に使われた。
一一九 一一六一―六三。実際にはその前年、永暦元年(一一六〇)一一月に死去。
一二〇 藤原忠通。後白河天皇を擁立し、保元の乱には天皇方についた。長寛二年(一一六四)二月没。
一二一 憤怒怨恨のはげしさを火にたとえた。
一二二 眷属。配下の悪魔たち。
一二三 人間としての果報。
一二四 平重盛。清盛の長子。
一二五 我につらく当った分だけは。
一二六 仏のすむ極楽浄土。ここは、とうてい極楽へなど行けない状態を指摘した。
一二七 ひとかたまりの鬼火。
一二八 乱れた髪。
一二九 白峰に住む天狗の名。謡曲「松山天狗」、「四国遍礼霊場記」、浄瑠璃「崇徳院讃岐伝記」に見える。
一三〇 鳥の姿をした化物。
一三一 後白河上皇。
一三二 ここでは一二年後。治承三年(一一七九)になる。
一三三 白峰北方の瀬戸内海。平家はここで源氏のために致命的な敗戦を喫した。
一三四 君は崇徳上皇。玉の床は金殿玉楼。山家集下に出ている。
一三五 王族も隷属民も。インド古代における四階級の第二位と第四位。
一三六 「明け」にかかる枕詞。
一三七 大般若経の内の一巻。悪魔退散、煩悩克服の功徳がある。
一三八 一一七九年。八〇代高倉天皇の代。
一三九 平清盛。相国は太政大臣の唐名。入道は剃髪して仏門に入ったもの。
一四〇 後白河法皇。
一四一 京都市伏見区鳥羽にあった鳥羽離宮。城南の離宮。
一四二 神戸市兵庫区福原町にあった。茅の宮は、茅ぶきの粗末な宮殿。
一四三 源頼朝が東国から機運に乗じて挙兵し。治承四年(一一八〇)のこと。
一四四 源義仲が北国から雪をけたてて上京し。寿永二年(一一八三)のこと。
一四五 屋島。香川県高松市の東北部にある半島。
一四六 魚介の餌食になって。鼇は海中にすむ大すっぽん。
一四七 山口県下関市の旧称。
一四八 下関海峡東口の北岸付近の海上。
一四九 安徳天皇。ときに八歳。
一五〇 御霊所。崇徳上皇没後二七年、建久二年(一一九一)後白河法皇が建立した頓証寺。
一五一 玉をちりばめ。
一五二 いろどり飾って。
一五三 自分のけがれをはらいきよめて神をまつる。
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菊花きくくわちぎり

 青々せいせいたる春の柳、家園みそのゆることなかれ。まじはりは軽薄けいはくの人と結ぶことなかれ。楊柳やうりうしげりやすくとも、秋の初風はつかぜの吹くにへめや。軽薄の人は交りやすくして亦すみやかなり。楊柳いくたび春にむれども、軽薄の人はえてとむらふ日なし。
 播磨(はりま)の国加古(かこ)うまや丈部はせべもんといふ博士はかせあり。清貧せいひんあまなひて、友とするふみの外は、すべて調度の絮煩わづらはしきいとふ。老母あり。孟氏まうしみさをにゆづらず。常に紡績うみつむぎを事として左門がこころざしを助く。其の季女いもうとなるものは同じ里の佐用氏さようぢに養はる。此の佐用が家はすこぶる富みさかえて有りけるが、丈部母子のかしこきをしたひ、娘子をとめめとりて親族となり、しばしば事にせて物をおくるといへども、口腹こうふくの為に人をわづらはさんやとて、あへくることなし。
 一日あるひ左門同じ里の何某なにがしもととぶらひて、いにしへ今の物がたりして興ある時に、かべへだてて人の痛楚くるしむ声いともあはれに聞えければ、あるじに尋ぬるに、あるじ答ふ。これより西の国の人と見ゆるが、一〇ともなひにおくれしよしにて一宿ひとよを求めらるるに、一一士家しかふうありていやしからぬと見しままに、とどめまゐらせしに、其の夜一二邪熱じやねつはなはだしく、起臥おきふしみづからはまかせられぬを、いとほしさに三日四日は過しぬれど、何地いづちの人ともさだかならぬに、あるじも思ひがけぬあやまりし出でて、ここちまどひ侍りぬといふ。左門聞きて、かなしき物がたりにこそ。あるじの心安からぬも一三さる事にしあれど、病苦の人はしるべなき旅の空に此のやまひうれひ給ふは、わきて胸窮むねくるしくおはすべし。其のやうをもばやといふを、あるじとどめて、一四瘟病をんびやうは人をあやまつ物と聞ゆるから、家童わらべらもあへてかしこに行かしめず。立ちよりて身を害し給ふことなかれ。左門笑うていふ。一五死生しせいめいあり。何の病か人につたふべき。これらは愚俗ぐぞくのことばにて、吾がともがらはとらずとて、戸をして入りつも其の人を見るに、あるじがかたりしにたがはで、一六なみの人にはあらじを、病深きと見えて、おもては黄に、はだへ黒くせ、古きふすまのうへにもだす。人なつかしげに左門を見て、湯ひとつ恵み給へといふ。左門ちかくよりて、憂へ給ふことなかれ。必ず救ひまゐらすべしとて、あるじとはかりて、薬をえらみ、一七みづかはうを案じ、みづから一八煮てあたへつも、(なほ)かゆをすすめて、病をること同胞はらからのごとく、まことに捨てがたきありさまなり。
 かの武士、左門が愛憐あはれみの厚きに(なみだ)を流して、かくまで一九漂客へうかくを恵み給ふ。死すとも御心にむくいたてまつらんといふ。左門いさめて、ちからなきことはな聞え給ひそ。凡そ二〇えきは日数あり。其のほどを過ぎぬれば寿命ことぶきをあやまたず。吾日々にまうでてつかへまゐらすべしと、まめやかにちぎりつつも、心をもちゐて助けけるに、病やや減じてここちすずしくおぼえければ、あるじにも念比(ねんごろ)に詞をつくし、左門が二一陰徳をたふとみて、其の生業なりはひをもたづね、おのが身の上をもかたりていふ。もと二二出雲(いづも)の国松江のさと生長ひととなりて、赤穴宗右衛門あかな(そうゑもん)といふ者なるが、わづかに二三兵書へいしよむねあきらめしによりて、二四富田とみたの城主二五塩冶掃部介えんやかもんのすけ、吾を師として物まなび給ひしに、近江の二六佐々木氏綱ささきうぢつなみそか使つかひにえらばれて、かのみたちにとどまるうち、さきの城主二七尼子経久あまこつねひさ二八山中たうをかたらひて、二九三十日みそかの夜三〇不慮すずろに城を乗りとりしかば、掃部殿も討死うちじにありしなり。もとより雲州うんしうは佐々木の持国もちぐににて、塩冶は三一守護代しゆごだいなれば、三二三沢みざは三刀屋みとやを助けて、経久をほろぼし給へと、すすむれども、氏綱はほかゆうにして内おびえたる愚将なれば果さず。かへりて吾を国にとどむ。三三ゆゑなき所に永くらじと、三四おのが身ひとつをぬすみて国にかへみちに、此のやまひにかかりて、思ひがけずも師をわづらはしむるは、身にあまりたる御恩めぐみにこそ。吾三五半世はんせいいのちをもて必ず報いたてまつらん。左門いふ。三六見る所を忍びざるは、人たるものの心なるべければ、三七厚き詞ををさむるに故なし。猶とどまりて三八いたはり給へと、まことある詞を便りにて日比(ひごろ)るままに、三九物みな平生つねちかくぞなりにける。
「文明十八年(一四八六)一月一日の早暁、尼子経久と山中党が富田城を襲撃した図」のキャプション付きの図
文明十八年(一四八六)一月一日の早暁、尼子経久と山中党が富田城を襲撃した図。構図は「菊花の約」が典拠とした「陰徳太平記」の記事によったと思われる。(原本十四丁裏、十五丁表の挿絵)

 此の日比、左門はよき友もとめたりとて、日夜ひるよるまじはりて物がたりすに、赤穴あかな四〇諸子百家しよしひやくかの事四一おろおろかたり出でて、問ひわきまふる心おろかならず。四二兵機へいきのことわりは四三をさをさしく聞えければ、ひとつとして相ともにたがふ心もなく、かつで、かつよろこびて、つひに兄弟のちかひをなす。赤穴五歳長じたれば、伯氏あにたるべき礼義ををさめて、左門にむかひていふ。吾父母にわかれまゐらせていとも久し。賢弟けんていが老母はやがて吾が母なれば、あらたに拝みたてまつらんことを願ふ。老母あはれみて四四をさなき心をけ給はんや。左門よろこびにへず。母なる者常に我が孤独をうれふ。まことあることばを告げなば、よはひびなんにと、ともなひて家に帰る。老母よろこび迎へて、吾が子四五不才にて、まなぶ所時にあはず、四六青雲せいうんの便りを失ふ。ねがふは捨てずして伯氏あにたる教をほどこし給へ。赤穴拝していふ。四七大丈夫は義を重しとす。功名富貴こうめいふうきはいふにらず。吾いま母公ぼこう慈愛めぐみをかうむり、四八賢弟けんていゐやを納むる、何ののぞみかこれに過ぐべきと、よろこびうれしみつつ、又日来ひごろをとどまりける。
 きのふけふ咲きぬると見し四九尾上をのへの花も散りはてて、涼しき風による浪に、五〇とはでもしるき夏のはじめになりぬ。赤穴あかな母子おやこにむかひて、吾が近江をのがれ来りしも、雲州の動静やうすを見んためなれば、一たび下向くだりてやがて帰り来り、五一菽水しゆくすゐつぶね御恩めぐみをかへしたてまつるべし。五二今のわかれを給へといふ。左門いふ。さあらば兄長このかみいつの時にか帰り給ふべき。赤穴いふ。月日はきやすし。おそくとも此の秋は過さじ。左門云ふ。秋はいつの日を定めて待つべきや。ねがふはやくし給へ。赤穴云ふ。五三重陽ここぬか佳節かせつをもて帰り来る日とすべし。左門いふ。兄長このかみ必ず此の日をあやまり給ふな。一枝の菊花に五四薄酒うすきさけを備へて待ちたてまつらんと、たがひまことをつくして赤穴は西に帰りけり。
 五五あら玉の月日はやくゆきて、五六下枝したえ茱萸ぐみ色づき、垣根の五七野ら菊にほひやかに、九月ながつきにもなりぬ。九日ここぬかはいつよりもはや起出おきいでて、草の屋の五八むしろをはらひ、黄菊しら菊二枝三枝小瓶こがめし、五九ふくろをかたぶけて酒飯しゆはんまうけをす。老母云ふ。かの六〇八雲たつ国は六一ぎたはてにありて、ここには百里をへだつると聞けば、けふとも定めがたきに、其のしを見ても六二物すともおそからじ。左門云ふ。赤穴はまことある武士もののべなれば必ずちぎりあやまらじ。其の人を見てあわただしからんは、六三思はんことの恥かしとて、美酒よきさけ鮮魚あざらけきくりやに備ふ。
 此の日やそら晴れて、六四千里ちさとに雲のたちゐもなく、六五草枕旅ゆく人のむれ々かたりゆくは、けふは誰某たれがしがよき京入みやこいりなる。此のたび商物あきものによき六六徳とるべき六七さがになん、とて過ぐ。五十いそぢあまりの武士もののべ廿はたちあまりの同じ出立(いでたち)なる、六八日和にわはかばかりよかりしものを、明石より船もとめなば、この六九朝びらきに七〇牛窓うしまど七一とまりは追ふべき。若きをのこ七二けくおびえして、銭おほくつひやすことよといふに、殿とののぼらせ給ふ時、七三小豆嶋あづきじまより七四室津むろづのわたりし給ふに、七五なまからきめにあはせ給ふを、みともはべりしもののかたりしを思へば、このほとりの渡りは必ずおびゆべし。七六ふづくみ給ひそ。七七魚が橋の蕎麦くろむぎふるまひまをさんにと、いひなぐさめて行く。口とるをのこの腹だたしげに、此の七八死馬しにうままなこをもはたけぬかと、荷鞍にぐらおしなほして追ひもて行く。午時ひるもややかたぶきぬれど、待ちつる人は来らず。西に沈む日に、宿り急ぐ足のせはしげなるを見るにも、かた七九のみまもられて心へるが如し。
 老母、左門をよびて、八〇人の心の秋にはあらずとも、菊の色こきはけふのみかは。帰りくるまことだにあらば、そら八一時雨にうつりゆくとも何をかうらむべき。入りてしもして、又あすの日を待つべし、とあるに、いなみがたく、母をすかしてさきに臥さしめ、もしやとそとに出でて見れば、八二銀河ぎんが影きえぎえに、八三氷輪ひようりん我のみを照して淋しきに、軒守(のきも)る犬のゆる声すみわたり、浦浪の音ぞ八四ここもとにたちくるやうなり。月の光も山のくらくなれば、今はとて戸をてて入らんとするに、八五ただる、おぼろなる八六黒影かげろひの中に人ありて、八七風のまにまにるをあやしと見れば赤穴宗右衛門なり。
 をどりあがるここちして、八八小弟せうていはやくより待ちて今にいたりぬる。ちかひたがはで来り給ふことのうれしさよ。いざ入らせ給へといふめれど、只点頭うなづきて物をもいはである。左門さきにすすみて、八九南のまどもとにむかへ、座につかしめ、兄長このかみ来り給ふことの遅かりしに、老母も待ちわびて、(あす)こそと臥所ふしどに入らせ給ふ。さまさせまゐらせんといへるを、赤穴又かしらりてとどめつも、さらに物をもいはでぞある。左門云ふ。既に九〇夜をぎてし給ふに、心もみ足もつかれ給ふべし。さいはひに一ぱいみて歇息やすませ給へとて、酒をあたため、下物さかなつらねてすすむるに、赤穴九一袖をもておもておほひ、其のにほひをくるに似たり。左門いふ。九二井臼せいきうつとめはたもてなすにらざれども、おのが心なり。いやしみ給ふことなかれ。赤穴(なほ)答へもせで、長嘘ながきいきをつぎつつ、しばししていふ。賢弟がまことある饗応あるじぶりをなどいなむべきことわりやあらん。あざむくに詞なければ、じつをもてぐるなり。必ずしもあやしみ給ひそ。吾は九三陽世うつせみの人にあらず、九四きたなきたまのかりにかたちを見えつるなり。
 左門大いに驚きて、兄長このかみ何ゆゑにこの九五あやしきをかたり出で給ふや。更に夢ともおぼえ侍らず。赤穴いふ。賢弟とわかれて国にくだりしが、国人くにびと大かた経久がいきほひにきて、塩冶えんやめぐみかへりみるものなし。従弟いとこなる赤穴あかな丹治、富田の城にあるをとむらひしに、利害を説きて吾を経久にまみえしむ。かりに其の詞をれて、つらつら経久がなす所を見るに、九六万夫ばんぷゆう人にすぐれ、よく士卒いくさ習練たならすといへども、九七智を用ふるに狐疑こぎの心おほくして、九八腹心ふくしん爪牙さうがの家の子なし。永くりてやうなきを思ひて、賢弟が菊花のちぎりある事をかたりて去らんとすれば、経久うらめる色ありて、丹治にれいし、吾を九九大城おほぎの外にはなたずして、つひにけふにいたらしむ。此のちかひにたがふものならば、賢弟吾を一〇〇何ものとかせんと、ひたすら思ひ沈めどものがるるに方なし。いにしへの人のいふ。一〇一人一日に里をゆくことあたはず。たまよく一日に千里をもゆくと。此のことわりを思ひ出でて、みづからやいばし、今夜こよひ一〇二陰風かぜに乗りてはるばる来り菊花のちかひく。一〇三この心をあはれみ給へといひをはりて、(なみだ)わき出づるが如し。今は永きわかれなり。只母公ぼこうによくつかへ給へとて、座を立つと見しが、かき消えて見えずなりにける。
 左門慌忙あわてとどめんとすれば、陰風いんぷうまなこくらみて行方ゆくへをしらず。俯向うつぶしにつまづき倒れたるままに、声を放ちて大いになげく。老母目さめ驚き立ちて、左門がある所を見れば、一〇四座上とこのべ酒瓶さかがめ一〇五りたるさらどもあまた列べたるが中に臥倒ふしたふれたるを、いそがはしく扶起たすけおこして、いかにととへども、只一〇六声をみて泣く泣くさらにことばなし。老母問ひていふ。伯氏あに赤穴がちかひにたがふをうらむるとならば、明日あすなんもし来るには一〇七ことばなからんものを。汝かくまで一〇八をさなくも愚かなるかとつよくいさむるに、左門やや答へていふ。兄長このかみ今夜こよひ菊花のちかひわざわざ来る。一〇九※(「肴+殳」、第4水準2-78-4)しゆかうをもて迎ふるに、再三あまたたびいなみ給うて云ふ。しかじかのやうにてちかひそむくがゆゑに、みづかやいばに伏して陰魂なきたま百里を来るといひて見えずなりぬ。それ故にこそは母のねむりをもおどろかしたてまつれ。只々ゆるし給へと潸然さめざめなき入るを、老母いふ。一一〇牢裏らうりつながるる人は夢にもゆるさるるを見え、かつするものは夢に漿水しやうすゐを飲むといへり。汝も又さるたぐひにやあらん。よく心を静むべしとあれども、左門かしらりて、まことに一一一夢のまさなきにあらず。兄長このかみ一一二ここもとにこそありつれと、又声をげて哭倒なきたふる。老母も今はうたがはず、一一三びて其の夜はきあかしぬ。
 明くる日、左門母を一一四拝していふ。吾をさなきより身を一一五翰墨かんぼくするといへども、国に忠義の聞えなく、家に孝信をつくすことあたはず、一一六いたづらに天地のあひだにうまるるのみ。兄長このかみ赤穴は一生を信義の為に終る。小弟けふより出雲に下り、せめては一一七骨ををさめてしんまつたうせん。一一八きみ尊体おほんみを保ち給うて、しばらくのいとまを給ふべし。老母云ふ。吾がかしこに去るとも、はやく帰りて老が心を休めよ。永くとどまりて一一九けふをひさしき日となすことなかれ。左門いふ。一二〇しやうは浮きたる※(「さんずい+區」、第3水準1-87-4)あわのごとく、あさにゆふべに定めがたくとも、やがて帰りまゐるべしとて、泪を振うて家を出づ。佐用氏にゆきて老母の介抱いたはりねんごろ一二一あつらへ、出雲の国にまかるみちに、一二二飢ゑてしよくを思はず、寒きに衣をわすれて、まどろめば夢にもきあかしつつ、十日をて富田の大にいたりぬ。
 先づ赤穴丹治がいへにいきて、一二三姓名をもていひ入るるに、丹治迎へしやうじて、一二四つばさある物の告ぐるにあらで、いかでしらせ給ふべきいはれなしと、しきりに問もとむ。左門いふ。たる者は富貴ふうき一二五消息せうそくの事ともに論ずべからず。只信義をもて重しとす。伯氏あに宗右衛門一旦ひとたびちかひをおもんじ、むなしきたまの百里を来るに一二六むくいすとて、一二七日夜をうてここにくだりしなり。吾がまなぶ所について士に尋ねまゐらすべきむねあり。ねがふは明かに答へ給へかし。昔一二八公叔座こうしゆくざ病のゆかにふしたるに、魏王みづからまうでて手をとりつも告ぐるは、一二九むべからずのことあらば、誰をして一三〇社稷くにを守らしめんや。吾がために教をのこせとあるに、叔座いふ。一三一商鞅しやうあう年少しといへども一三二奇才きさいあり。きみし此の人を用ゐ給はずば、これを殺しても一三三さかひを出すことなかれ。他の国にゆかしめば、必ずも後のわざはひとなるべしと、ねんごろに教へて、又商鞅をひそかにまねき、吾汝を一三四すすむれども王ゆるさざる色あれば、用ゐずばかへりて汝を害し給へと教ふ。是君を先にし、臣を後にするなり。汝はやひとの国に去りて害をのがるべしといへり。此の事、一三五と宗右衛門にたぐへてはいかに。丹治只かしられてことばなし。左門座をすすみて、伯氏宗右衛門、塩冶が旧交よしみを思ひて尼子に仕へざるは義士なり。士は、旧主の塩冶を捨てて尼子にくだりしは士たる義なし。伯氏あには菊花のちかひを重んじ、命を捨てて百里をしはまことあるかぎりなり。士は今尼子にびて一三六骨肉こつにくの人をくるしめ、此の一三七横死わうしをなさしむるは友とするまことなし。経久ひてとどめ給ふとも、ひさしきまじはりを思はば、ひそかに商鞅叔座がまことをつくすべきに、只一三八栄利えいりにのみ走りて一三九士家しかふうなきは、すなはち尼子の家風かふうなるべし。一四〇さるから兄長このかみ、何故此の国に足をとどむべき。吾、今信義を重んじて態々わざわざここに来る。汝は又不義のために汚名をめいをのこせとて、いひもをはらず抜打ぬきうちに斬りつくれば、一かたなにてそこに倒る。一四一家眷いへのこども立ち騒ぐひまにはやくのがれ出でて一四二跡なし。
 尼子経久此のよしを伝へ聞きて、兄弟信義のあつきをあはれみ、左門が跡をもひてはせざるとなり。一四三ああ軽薄の人と交りは結ぶべからずとなん。

一 菊の節句。九月九日重陽の佳節に再会を約束し、魂魄となってそれを果すという主題にもとづく。
二 中国白話小説、范巨卿鶏黍死生交の書出し「種樹莫垂楊枝、結交莫軽薄児、楊枝不秋風吹、軽薄易結還易離、云々」の翻訳。
三 川柳としだれ柳。
四 兵庫県加古川市。駅は宿場。古来交通の要衝。
五 学者。儒者。
六 甘んじて。
七 家財道具があれこれあるのをうるさく思う。
八 中国戦国時代の人。孟子の母で、孟母三遷、断機の教えで名高い賢母。
九 生活のために人に厄介をかけることができようか。
一〇 連れ。同伴者。
一一 武士らしい風采。
一二 悪性の病熱。
一三 もっともなことであるが。
一四 流行病は人に伝染してその人を害する。范巨卿鶏黍死生交に「瘟病過人」とある。
一五 人間の生死は天命の定めるところである。論語、顔淵篇「死生有命、富貴在天」。
一六 素姓のない人とは思えないが。氏素姓・人品ともにすぐれている。
一七 自分で処方を考えて。
一八 内服の漢方薬は煎薬が多い。
一九 見ず知らずの行きずりの旅人。
二〇 流行病には一定の罹病期間がある。その期間をすぎてしまうと生命をまっとうする。
二一 人に知られぬ隠れた善行。
二二 島根県松江市。
二三 軍学の道をきわめたので。
二四 島根県安来市の東部。今「トダ」という。
二五 一五世紀に出雲にいた武将。代官として富田城にいたが、のち尼子経久に攻めほろぼされた。
二六 一五世紀末、滋賀県を本拠とした武将。塩冶氏の主筋。
二七 一五、六世紀の武将。佐々木氏の配下として出雲の守護代をつとめたが、放逐され、のち再起して中国地方一一国を領した。
二八 山中鹿之介一味を味方として。出雲の豪族で有名な武将。
二九 文明一七年(一四八五)一二月の大晦日。
三〇 不意討ちをして。
三一 守護職の代理として現地にあって実際の政務をとるもの。代官。
三二 三沢も三刀屋も出雲地方の豪族。
三三 いる理由のない所。
三四 単身ひそかにぬけ出して。
三五 後半生。
三六 人の不幸を見殺しにできないのは人間の本性であるから。
三七 鄭重なお礼の言葉をうける理由がない。
三八 養生する。
三九 健康状態がほとんど平生の状態に回復した。
四〇 中国の春秋戦国時代にそれぞれ一派の学説をとなえた思想家・哲学者の総称。またその著述。
四一 ぽつりぽつり。少々。
四二 戦術理論。
四三 確信をもって卓越した話をしたので。
四四 私の幼稚で愚かな心。
四五 才能がなくて。
四六 立身出世する機会。
四七 大丈夫は義を第一とし、義をつらぬきとおすものである。
四八 賢弟から兄としての尊敬をうける。
四九 加古川市尾上町の桜。有名な桜で、諸書・諸歌にひかれている。
五〇 人に問うまでもなくあきらかに知られる初夏。
五一 豆粥をすすり水をのむような貧しい暮らしのなかで親に孝養をつくすこと。菽は豆。豆粥。奴はしもべ。奉仕する。
五二 しばしのお暇。
五三 陰暦九月九日の節句。五節句の一。グミの節句、菊の節句ともいう。
五四 粗酒。謙遜していう。
五五 「月日」の枕詞。
五六 木の下方の枝になっているグミが熟し色づいて。
五七 野菊が色美しく咲いて。
五八 掃除をして。
五九 財布の底をはたいて。
六〇 出雲の国。古事記上「八雲たつ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」。
六一 山陰地方。陰は、山の場合は北、河の場合は南。
六二 饗応の支度をする。代動詞。
六三 その人がどう思うか、そのおもわくが恥かしい。
六四 見渡すかぎり一片の雲もなく。
六五 「旅」の枕詞。
六六 儲け。利益。
六七 前兆。
六八 海面。平穏な海原。
六九 朝早く船出すること。
七〇 岡山県瀬戸内市牛窓町の港。
七一 牛窓の港にむけて船を走らせていたはず。
七二 かえって。
七三 香川県小豆郡の小豆島で、瀬戸内海中の大きな島。いまは「しょうどしま」という。
七四 兵庫県たつの市御津町の港。瀬戸内海航路の要港であった。
七五 こっぴどい目。さんざんな目。
七六 お怒りなさいますな。
七七 兵庫県高砂市阿弥陀町。
七八 くたばり馬めは、眼もあかないのか。馬が物につまずいたのを居眠りでもしていたのだろうとして罵った言葉。
七九 「のみ、まもられて」と訓む。まもるは見まもる。
八〇 人の心のかわりやすいのを秋空にたとえる。「飽き」の掛詞。交り厚く、饗応のこまやかなのを菊の色の濃いことにたとえる。
八一 時節は遅れてしぐれふる秋冬の候になっても。
八二 天の川の星の光がいまにも消えそうに弱って。
八三 月の異名。
八四 夜の静寂に、浪音が高く近く聞こえて、すぐ足もとまでうちよせてくるようである。
八五 ふとみると。中国白話小説によく用いられる語。
八六 黒い影。
八七 風にしたがって。
八八 私。義兄弟の弟としての謙辞。
八九 南面した客間の窓の下。窓の下は客の正座。
九〇 夜を日についで。昼夜兼行で。
九一 すでにこの世の人でない赤穴が、なまぐさいものをきらう様子。
九二 貧しい手料理であるからとてもおもてなしするには不足であるが。井臼の力は、自分で水を汲み米を搗くこと。款すは饗応する。
九三 現世の人。
九四 死霊。亡魂。
九五 どうしてこんな奇怪なことをおっしゃるのですか。
九六 万人に匹敵するほどの雄略があって。
九七 智者を用いるのに疑いぶかい性質がひどく。
九八 主君のために手足となって働く忠実な家臣。
九九 本城。富田城。
一〇〇 義をまもらぬうそつきで信ずるに足りないやつと思われるであろう。
一〇一 范巨卿鶏黍死生交に「古人有云、人不千里、魂能日行千里」とある。
一〇二 妖怪や亡霊がのって来る冥途から吹く風。
一〇三 この気持を憐憫をもって汲みとって下さい。
一〇四 客席のあたりに。
一〇五 魚を「な」とよましているから、肴、料理の意。
一〇六 声をたてずに忍び泣きに泣きながら。
一〇七 何ともいうべき言葉がないだろう。
一〇八 子供のように物の道理がわからないのか。
一〇九 酒と肴。
一一〇 范巨卿鶏黍死生交に「古人有云、囚人夢赦、渇人夢漿」とある。牢裏は監獄の中。漿水は飲料水。
一一一 けっして夢のようなそらごとではない。
一一二 このところに。
一一三 互いに声をあげて。
一一四 礼を正して願い出る。
一一五 学問文事に専念してきたとはいいながら。
一一六 無意味にこの世に生きているだけである。
一一七 遺骨を葬って。
一一八 母上には御身をお大切になさって。
一一九 今日の別れを永久の別れの日としないで下さい。
一二〇 人生は水に浮いている泡の如きもので、朝に夕にいつ消えるとも定めがたいものではあるが。范巨卿鶏黍死生交の「生如※(「さんずい+區」、第3水準1-87-4)、死生之事、旦夕難保」による。
一二一 頼んで。
一二二 ただ赤穴のことのみ思いつづけて、飢えても食をとろうとせず。范巨卿鶏黍死生交の「沿路上饑不食、寒不衣」による。
一二三 姓名を名のって面会をもとめると。
一二四 雁の便りにでも託して宗右衛門の死を知らせなければ。
一二五 盛衰。
一二六 その信義に対して、信義をもってむくいようとして。
一二七 夜に日をついで。
一二八 魏は中国古代の一国。公叔座は魏の宰相。この話は史記、商君列伝にある。
一二九 万が一のこと。死ぬこと。
一三〇 宰相としようか。
一三一 のちに秦の宰相となった有名な刑名家。
一三二 世にもまれなすぐれた才能。
一三三 国境から出す。
一三四 推挙したが。
一三五 あなた。貴殿。
一三六 血縁の人。
一三七 非業の死。変死。
一三八 栄達利益にばかりとらわれて。
一三九 真に武士らしい風儀。
一四〇 それだから。
一四一 赤穴丹治の家臣たち。
一四二 行方をくらました。
一四三 ああ、軽薄の人と交わりを結んではならないというが、まさにその通りである。起筆の部分と呼応している。
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雨月物語 巻之二



浅茅あさぢ宿やど

 下総しもふさの国葛飾郡かつしかのこほり真間ままさとに、かつ四郎といふ男ありけり。祖父おほぢよりひさしくここに住み、田ばたあまたぬしづきて家豊かに暮しけるが、生長ひととなりて物にかかはらぬさがより、農作なりはひうたてき物にいとひけるままに、はた家貧しくなりにけり。さるほどに親族うからおほくにもうとんじられけるを、くちをしきことに思ひしみて、いかにもして家をおこしなんものをと左右とかくにはかりける。其の(ころ)雀部ささべそう次といふ人、足利あしかが染の絹を交易するために、年々京よりくだりけるが、此のさと氏族やからのありけるをしばしば来訪きとぶらひしかば、かねてより親しかりけるままに、商人となりて京に一〇まうのぼらんことを頼みしに、雀部いとやすくうけがひて、いつの(ころ)はまかるべしと聞えける。かれがたのもしきをよろこびて、のこる田をもりつくしてかねへ、一一絹素きぬあまた買積かひつみて、京にゆく日を一二もよほしける。
 勝四郎が妻宮木みやぎなるものは、一三人の目とむるばかりのかたちに、心ばへも愚かならずありけり。此の度勝四郎が商物あきもの買ひてみやこにゆくといふをうたてきことに思ひ、ことばをつくしていさむれども、一四常の心のはやりたるにせんかたなく、一五梓弓あづさゆみすゑのたづきの心ぼそきにも、かひがひしく一六調こしらへて、其の夜は一七さりがたき別れをかたり、かくてはたのみなき女心の、一八野にも山にもまどふばかり、物うきかぎりに侍り。あしたに夕にわすれ給はで、はやく帰り給へ。一九命だにとは思ふものの、あすをたのまれぬ世のことわりは、たけ心にもあはれみ給へといふに、いかで二〇浮木うきぎに乗りつも、しらぬ国に長居せん。二一くずのうら葉のかへるは此の秋なるべし。心づよく待ち給へと、いひなぐさめて、夜も明けぬるに、二二鳥が(な)あづまを立ち出でて京の方へ急ぎけり。
 此年ことし二三享徳きやうとくの夏、二四鎌倉の御所ごしよ成氏朝臣しげうぢあそん二五管領くわんれい上杉うへすぎと御中けて、みたちひやう火に跡なく滅びければ、御所は二六総州そうしうの御味方みかたへ落ちさせ給ふより、関の東(たちま)ちに乱れて、二七心々の世の中となりしほどに、老いたるは山に逃竄にげかくれ、二八わかきは軍民いくさびとにもよほされ、けふは此所を焼きはらふ、あすは敵のよせ来るぞと、女わらべ東西をちこちに逃げまどひて泣きかなしむ。勝四郎が妻なるものも、いづちへものがれんものをと思ひしかど、此の秋を待てと聞えしをつとことばを頼みつつも、安からぬ心に日をかぞへて暮しける。秋にもなりしかど風の便りもあらねば、二九世とともにたのみなき人心かなと、恨みかなしみ三〇おもひくづほれて、

三一身のうさは人しも告げじあふ坂の
    夕づけ鳥よ秋も暮れぬと

 かくよめれども、国あまた隔てぬれば、いひおくるべきつてもなし。世の中さわがしきにつれて、人の心も恐ろしくなりにたり。適間たまたまとぶらふ人も、宮木がかたちのめでたきを見ては、さまざまにすかしいざなへども、三二ていかしこみさをを守りてつらくもてなし、後は戸をてて見えざりけり。一人ひとり婢女はしためも去りて、すこしのたくはへもむなしく、其の年も暮れぬ。年あらたまりぬれども(なほ)をさまらず。三三あまさへ去年こぞの秋、三四京家の下知として、三五美濃の国郡上ぐじやうぬし三六とう下野守(しもつけのかみ)常縁つねより三七御旗みはたびて、三八下野の領所しるところにくだり、氏族しぞく三九千葉ちば実胤さねたねとはかりて四〇むるにより、御所方も固く守りてふせぎ戦ひけるほどに、いつ果つべきとも見えず。四一野伏等のぶしらはここかしこにさいをかまへ、火を放ちてたからを奪ふ。四二八州はつしうすべて安き所もなく、浅ましき世のつひえなりけり。
 勝四郎は雀部ささべに従ひて京にゆき、絹ども残りなく交易せしほどに、当時このごろ都は四三花美くわびを好むときなれば、四四よき徳とりてあづまに帰る用意はかりごとをなすに、今度このたび上杉のつはもの鎌倉の御所をおとし、なほ御四五跡をしたうて責討せめうてば、古郷ふるさとほとりは四六干戈かんくわみちみちて、四七※(「さんずい+(冢−冖)」、第3水準1-86-80)鹿たくろくちまたとなりしよしを四八いひはやす。まのあたりなるさへいつはりおほき四九世説よがたりなるを、まして五〇しら雲の八重に隔たりし国なれば、心も心ならず、八月はづきのはじめみやこをたち出でて、五一岐曾きそ真坂みさかを日くらしにえけるに、落草ぬすびとども道をささへて、行李にもつも残りなくうばはれしがうへに、人のかたるを聞けば、是より東の方は所々に新関しんせきゑて、旅客たびびと往来いききをだにゆるさざるよし。さては五二消息おとづれをすべきたづきもなし。家も兵火ひやうくわにや亡びなん。妻も世に生きてあらじ。しからば古郷ふるさととても五三おにのすむ所なりとて、ここより又みやこに引きかへすに、近江の国に入りて、にはかにここちあしく、五四あつき病をうれふ。五五武佐むさといふ所に、児玉こだま嘉兵衛とて富貴の人あり。是は雀部が妻の五六産所さとなりければ、五七ねんごろにたのみけるに、此の人見捨てずしていたはりつも、医をむかへて薬の事もはらなりし。やや五八ここちすずしくなりぬれば、あつめぐみ五九かたじけなうす。されど歩む事はまだ六〇はかばかしからねば、今年は思ひがけずもここに春を迎ふるに、いつのほどか此の里にも友をもとめて、六一めざるになほき志をしやうぜられて、児玉をはじめ誰々も頼もしくまじはりけり。此の後はみやこに出でて雀部を六二とぶらひ、又は近江に帰りて児玉に身をせ、七とせがほどは夢のごとくに過しぬ。
 六三寛正二年、六四畿内河内の国に六五はたけ山が同根どうこんの争ひ果さざれば、みやこぢかくも騒がしきに、春の頃より六六瘟疫えやみさかんにおこなはれて、かばねちまたみ、人の心も今や六七ごふくるならんと、はかなきかぎりを悲しみける。勝四郎つらつら思ふに、かく落魄おちぶれてなす事もなき身の何をたのみとて遠き国にとどまり、六八由縁ゆゑなき人のめぐみをうけて、いつまで生くべき命なるぞ。六九古郷ふるさとに捨てし人の消息せうそこをだにしらで、七〇萱草わすれぐさおひぬる野方のべに長々しき年月を過しけるは、七一まことなきおのが心なりける物を。たとへ七二泉下せんかの人となりて、七三ありつる世にはあらずとも、其のあとをももとめて七四※(「土へん+龍」、第3水準1-15-69)つかをもくべけれと、人々に志を告げて、五月雨さみだれのはれ七五手をわかちて、十日あまりをて古郷に帰り着きぬ。
 此の時、日ははや西に沈みて、雨雲はおちかかるばかりにくらけれど、ひさしく住みなれし里なれば迷ふべうもあらじと、夏野わけ行くに、いにしへの七六継橋つぎはしも川瀬におちたれば、げに七七駒の足音あおともせぬに、田畑は七八荒れたきままにすさみて、もとの道もわからず、七九ありつる人居いへゐもなし。たまたまここかしこに残る家に人の住むとは見ゆるもあれど、昔には似つつもあらね。いづれか我が住みし家ぞと立ちまどふに、ここ八〇二十ばかりを去りて、らいくだかれし松のそびえて立てるが、雲の星のひかりに見えたるを、げに八一我が軒のしるしこそ見えつると、先づうれしきここちしてあゆむに、家はもとにかはらであり、人も住むと見えて、古戸ふるどすきより灯火の影もれてきら々とするに、八二こと人や住む、もし八三其の人やいますかと心さわがしく、門に立ちよりて八四しはぶきすれば、内にもはやく聞きとりてそととがむ。いたう八五ねびたれど正しく妻の声なるを聞きて、夢かと胸のみさわがれて、我こそ帰りまゐりたり。八六かはらで独自ひとり浅茅あさぢが原に住みつることの不思議さよといふを、八七聞きしりたれば八八やがて戸を明くるに、いといたう黒くあかづきて、まみはおち入りたるやうに、八九げたる髪もにかかりて、九〇もとの人とも思はれず。をとこを見て物をもいはで潸然さめざめとなく。
 勝四郎も九一心くらみて、しばし物をも聞えざりしが、ややしていふは、今までかくおはすと思ひなば、など年月を過すべき。(い)ぬる年、みやこにありつる日、鎌倉の兵乱ひやうらんを聞き、九二御所のいくさつひえしかば、総州に避けてふせぎ給ふ。管領くわんれいこれを責むる事きふなりといふ。其のあす雀部ささべにわかれて、八月はづきのはじめみやこを立ちて、九三木曾路をるに、山だちあまたに取りこめられ、衣服金銀残りなくかすめられ、命ばかりを辛労からうじて助かりぬ。かつ里人のかたるを聞けば、九四東海東山の道はすべて新関をゑて人をとどむるよし。又きのふ京より九五節刀使せつとしもくだり給ひて、上杉にくみし、総州のいくさに向はせ給ふ。本国のほとりくに焼きはらはれ、九六馬のひづめ尺地せきちひまなしとかたるによりて、今は九七灰塵くわいぢんとやなり給ひけん、海にや沈み給ひけんと、ひたすらに思ひとどめて、又みやこにのぼりぬるより、九八人に餬口くちもらひて七とせは過しけり。近曾このごろ九九すずろに物のなつかしくありしかば、せめて其のあとをも見たきままに帰りぬれど、かくて世におはせんとは努々ゆめゆめ思はざりしなり。一〇〇巫山ふざんの雲、一〇一漢宮かんきゆうまぼろしにもあらざるやとくりごとはてしぞなき。妻、涙をとどめて、一たびわかれまゐらせて後、一〇二たのむの秋よりさきに恐ろしき世の中となりて、里人は皆家を捨てて海にただよひ山にこもれば、たまたまに残りたる人は、多く一〇三虎狼こらうの心ありて、かくやもめとなりしを便たよりよしとや、ことばたくみていざなへども、一〇四玉とくだけてもかはらまたきにはならはじものをと、幾たびか辛苦からきめを忍びぬる。一〇五銀河ぎんが秋を告ぐれども君は帰り給はず。冬を待ち、春を迎へても消息おとづれなし。今はみやこにのぼりて尋ねまゐらせんと思ひしかど、丈夫ますらをさへゆるさざる関のとざしを、いかで女の越ゆべき道もあらじと、軒端の一〇六松にかひなき宿に、きつね※(「休+鳥」、第4水準2-94-14)※(「(卯/田)+鳥」、第4水準2-94-32)ふくろふを友として今日までは過しぬ。今は長き恨みもはればれとなりぬることのうれしくはべり。一〇七逢ふを待つ間に恋死なんは人しらぬ恨みなるべしと、又よよと泣くを、夜こそ短きにといひなぐさめて、ともに臥しぬ。
 一〇八まどかみ松風まつかぜすすりて夜もすがら涼しきに、一〇九みち長手ながてつかうまねたり。一一〇五更ごかうそら明けゆく(ころ)一一一うつつなき心にもすずろに寒かりければ、一一二ふすま※(「巾+皮」、第3水準1-84-9)かづかんとさぐる手に、何物にや籟々さやさやと音するに目さめぬ。かほにひやひやと物のこぼるるを、雨や漏りぬるかと見れば、屋根は風にまくられてあれば、一一三有明月のしらみて残りたるも見ゆ。家はもあるやなし。一一四簀垣すがき朽頽くちくづれたるひまより、をぎすすき高くおひ出でて、朝露うちこぼるるに、袖一一五湿ぢてしぼるばかりなり。壁にはつたくずひかかり、庭はむぐらうづもれて一一六秋ならねども野らなる宿なりけり。
 さてしも臥したる妻はいづち行きけん見えず。狐などのしわざにやと思へば、かく荒れ果てぬれどもと住みし家にたがはで、広くつくせし奥わたりより、はしの方、稲倉いなぐらまで一一七好みたるままのさまなり。一一八呆自あきれて足の踏所ふみどさへわすれたるやうなりしが、つらつらおもふに、妻は既にまかりて、今は狐狸の住みかはりて、かく野らなる宿となりたれば、怪しきものして一一九ありしかたちを見せつるにてぞあるべき。し又我を慕ふたまのかへり来りてかたりぬるものか。一二〇思ひし事の露たがはざりしよと、更に涙さへ出でず。一二一我が身ひとつはもとの身にしてとあゆみめぐるに、むかし閨房ふしどにてありし所の簀子すのこをはらひ、土を積みて※(「土へん+龍」、第3水準1-15-69)つかとし、雨露をふせぐまうけもあり。よべれいはここもとよりやと恐ろしくもかつなつかし。一二二むけ一二三物せし中に、木のはしけづりたるに、一二四那須野紙なすのがみのいたうふるびて、文字も一二五むらぎえして所々見定めがたき、正しく妻の筆の跡なり。法名といふものも年月もしるさで、三十一字に末期いまはの心を哀れにもべたり。

一二六さりともと思ふ心にはかられて
    世にもけふまでいける命か

 ここにはじめて妻の死したるをさとりて、大いにさけびて倒れ伏す。さりとて何の年、何の月日に終りしさへしらぬ浅ましさよ。人はしりもやせんと、涙をとどめて立ち出づれば、日高くさしのぼりぬ。先づちかき家に行きてあるじを見るに、一二七昔見し人にあらず。かへりて何国いづくの人ぞととがむ。勝四郎一二八ゐやまひていふ。此の隣なる家のあるじなりしが、一二九過活わたらひのためみやこに七とせまでありて、きその夜帰りまゐりしに、既に荒廃あれすさみて人も住ひ侍らず。妻なるものもまかりしと見えて、※(「土へん+龍」、第3水準1-15-69)つかまうけも見えつるが、一三〇いつの年にともなきに、一三一まさりて悲しく侍り。しらせ給はば教へ給へかし。あるじの男いふ。一三二哀れにも聞え給ふものかな。わがここに住むもいまだ一とせばかりの事なれば、それよりはるかの昔にせ給ふと見えて、住み給ふ人の一三三ありつる世はしり侍らず。すべて此の里のふるき人は兵乱ひやうらんの初めに逃失にげうせて、今住居する人は大かたほかより移り来たる人なり。只一人ひとりおきなの侍るが、一三四所にひさしき人と見え給ふ。をり々あの家にゆきて、せ給ふ人の一三五菩提ぼだいとぶらはせ給ふなり。此の翁こそ月日をもしらせ給ふべしといふ。勝四郎いふ。さては其の翁のみ給ふ家は何方いづべにて侍るや。あるじいふ。ここより百ばかり浜の方に、あさおほく植ゑたる畑のぬしにて、其所そこにちひさきいほりして住ませ給ふなりと教ふ。勝四郎よろこびてかの家にゆきて見れば、七十可ななそぢばかりの翁の、腰は一三六浅ましきまでかがまりたるが、一三七庭竈にはかまどの前に一三八円座わらふだ敷きて茶をすする。翁も勝四郎と見るより、一三九吾主わぬし何とて遅く帰り給ふといふを見れば、此の里に久しき漆間うるまの翁といふ人なり。
 勝四郎、翁が一四〇高齢よはひをことぶきて、次にみやこに行きて心ならずもとどまりしより、前夜さきのよのあやしきまでをつばらにかたりて、翁が※(「土へん+龍」、第3水準1-15-69)つかきて祭り給ふめぐみのかたじけなきを告げつつも涙とどめがたし。翁いふ。吾主わぬし遠くゆき給ひて後は、夏の(ころ)より干戈かんくわふるひ出でて、里人は所々にのがれ、わかき者どもは軍民いくさびとに召さるるほどに、一四一桑田さうでんにはかに狐兎ことくさむらとなる。只一四二烈婦さかしめのみぬしが秋をちかひ給ふを守りて、家を出で給はず。翁も又一四三あしなへぎて百かたしとすれば、深くてこもりて出でず。一旦ひとたび一四四樹神こだまなどいふおそろしきものむ所となりたりしを、わか女子をんなご一四五矢武やたけにおはするぞ、一四六老が物見たる中のあはれなりし。秋去り春来りて、一四七其の年の八月はづき十日といふにまかり給ふ。いとほしさのあまりに、老が手づから土を運びてひつぎをさめ、其の終焉をはりに残し給ひし一四八筆の跡を※(「土へん+龍」、第3水準1-15-69)つかのしるしとして、一四九※(「くさかんむり/繁」の「毎」に代えて「誨のつくり」、第3水準1-91-43)行潦みづむけの祭も心ばかりにものしけるが、翁もとより筆とるわざをしもしらねば、其の月日を一五〇しるす事もえせず。寺院遠ければ一五一贈号おくりなを求むる方もなくて、五とせを過し侍るなり。今の物がたりを聞くに、必ず烈婦さかしめたまの来り給ひて、ひさしき恨みを聞え給ふなるべし。ふたたびかしこに行きて念比(ねんごろ)にとぶらひ給へとて、杖をきてさきに立ち、相ともに※(「土へん+龍」、第3水準1-15-69)つかのまへにして声をげて嘆きつつも、其の夜はそこに念仏して明かしける。
「勝四郎と漆間の翁がつれだって勝四郎の廃居を訪れた図」のキャプション付きの図
勝四郎と漆間の翁がつれだって勝四郎の廃居を訪れた図。「らいくだかれし松のそびえて立てる」のがあり、家には戸もなく、萩薄などが[#「萩薄などが」はママ]生い茂っている荒廃のさまが描かれている。(原本三丁裏、四丁表の挿絵)

 寝られぬままに翁かたりていふ。翁が祖父おほぢの其の祖父すらもうまれぬはるかの往古いにしへの事よ。此のさと一五二真間まま手児女てごなといふいと美しき娘子をとめありけり。家貧しければ身には一五三麻衣あさごろも青衿あをえりつけて、髪だもけづらず、くつだも穿かずてあれど、かほ一五四もちの夜の月のごと、めば花の一五五にほふがごと綾錦あやにしき一五六つつめる一五七京女※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)みやこぢよらうにもまさりたれとて、この里人はもとより、一五八みやこ防人等さきもりたち、国の隣の人までも、一五九ことをよせて恋しのばざるはなかりしを、手児女てごな物うき事に思ひ沈みつつ、一六〇おほくの人の心にむくいすとて、一六一此の浦回うらわの波に身を投げしことを、世の哀れなるためしとて、いにしへの人は歌にもよみ給ひてかたり伝へしを、翁がをさなかりしときに、母のおもしろくかたり給ふをさへ、いと哀れなることに聞きしを、一六二此のなき人の心は昔の手児女が一六三をさなき心に一六四幾らをかまさりて悲しかりけんと、かたるかたる涙さしぐみてとどめかぬるぞ、一六五老は物えこらへぬなりけり。勝四郎が悲しみはいふべくもなし。此の物がたりを聞きて、一六六おもふあまりを田舎いなか人の一六七口鈍くちにぶくもよみける。

いにしへの真間の手児奈てごなをかくばかり
    恋ひてしあらん真間のてごなを

思ふ心の一六八はしばかりをもえいはぬぞ、一六九よくいふ人の心にもまさりてあはれなりとやいはん。かの国にしばしばかよふ商人あきびとの聞き伝へてかたりけるなりき。

一 茅がまばらに生え、草ぶかく荒れはてた家。
二 千葉県市川市真間。万葉集以来名高く、歌枕。
三 所有して。
四 生れつき物事に無頓着な性質。
五 いやなことだと。
六 ついに。とうとう。
七 口惜しいことだと深く思いこみ。
八 あれこれと思案をめぐらした。
九 栃木県足利市付近から産出した染絹。
一〇 まいり上る、の音便。
一一 染めてない白絹。
一二 準備した。
一三 人目をひくほどの美しい容貌で。
一四 平生思いたったらきかぬ気のうえに、今度は更に思いつめているので、仕方なく。
一五 「末」の枕詞。今後の生活が心細く思われたにもかかわらず。万葉集一二「梓弓末のたづきは知らねども心は君によりにしものを」。
一六 旅支度をととのえて。
一七 離れがたい別れ。
一八 まったく途方にくれるばかりで。古今集一八「いづこにか世をばいとはむ心こそ野にも山にも惑ふべらなれ」。
一九 命さえあればまた逢えると思うが。古今集八「命だに心にかなふものならばなにか別れの悲しからまし」。
二〇 不安な気持と生活。
二一 「かへる」の序詞。秋の七草の一。帰宅するのは。
二二 「東」の枕詞。東は関東。
二三 享徳四年(一四五五)。
二四 鎌倉公方足利成氏。明応六年(一四九七)没。古河公方。御所はもと将軍をいったが、鎌倉管領が僭称した。
二五 執事が管領を僭称した。成氏が上杉憲忠を謀殺し、憲忠の弟房顕が成氏と戦った。
二六 茨城県古河へ逃げた。
二七 ばらばらで統一のない。
二八 若者は兵卒にかり出され。
二九 悪化する世相とともに。
三〇 がっくりと気落ちして。
三一 あふ坂は京都と滋賀の境の逢坂山。夕づけ鳥は木綿付鳥で鶏の異称、夕と「云う」の懸詞。
三二 義婦・節婦・烈婦(剪灯新話句解の注)。
三三 あまつさえ。そのうえ。
三四 京都室町将軍(義政)。
三五 岐阜県郡上市。
三六 千葉介常胤の後裔。武将で歌人。宗祇の師。生年未詳、文明一六年(一四八四)頃没。
三七 征伐の指揮官に任命して。
三八 下総の誤。千葉県香取郡東庄町。
三九 千葉県市川城主。
四〇 攻める。
四一 野武士。山賊夜盗の類。
四二 関八州。関東地方一帯。
四三 義政将軍の東山時代で、文化風俗は華美であった。
四四 いい儲けを得て。
四五 成氏を追撃して。
四六 たてとほこ。武器。どこもかしこも戦争さわぎで。
四七 戦場。中国河北省東南部の地で、太古、黄帝と蚩尤(シュウ)の[#「蚩尤(シュウ)の」はママ]戦った所。
四八 世間で評判をする。
四九 世間のうわさ。
五〇 遠く隔たった形容。
五一 長野県木曾郡南木曾町と岐阜県中津川市との境をなす馬籠峠。木曾路の難所。
五二 便りをする方法。
五三 鬼のような人ばかりすんでいるところ。
五四 熱病。
五五 滋賀県近江八幡市武佐。中仙道の宿駅。
五六 実家。
五七 ていねいに。
五八 気分がさっぱりした。
五九 感謝する。
六〇 しっかりしないので。
六一 生れつきの素直で正直な性質を愛されて。
六二 訪ね。
六三 一四六一年。
六四 京都・奈良・大阪と兵庫の一部。山城・大和・河内・和泉・摂津の五国。河内は大阪府。
六五 同根は兄弟。畠山政長と義就の家督相続争いが終りそうもないので。
六六 悪性の流行病。
六七 この世の終りであろうか。劫は、仏教で非常に長い時間をいい、宇宙の生命変遷を四劫にわけている。
六八 親戚関係のない、あかの他人。
六九 妻の宮木。
七〇 故郷を忘れ妻を忘れて、萱草の生えているようなこの土地で。古今集一七「すみよしとあまはつぐとも長居すな人忘れ草おふといふなり」。
七一 実意のない私の心からであったのだ。
七二 あの世の人。
七三 以前のようにこの世に生きていないにしても。
七四 墓。
七五 別れをつげて。
七六 万葉の昔から有名な真間の継橋。真間川にかかっていた。板の橋を長く継いだ橋。
七七 万葉集一四「足(あ)の音せずゆかむ駒もが葛飾の真間の継橋やまずかよはむ」。
七八 荒れ放題に荒れて。
七九 以前あった人家。
八〇 一歩は曲尺の約六尺。二〇歩は約三六メートル。
八一 わが家のめじるし。古来、家の門口に松を植える風習があった。
八二 べつの人。
八三 妻の宮木。
八四 来訪・帰宅をしらせる合図のせきばらい。
八五 ふけているが。
八六 達者で。
八七 夫の声であると聞き知ったので。
八八 すぐに。
八九 結いあげた髪も乱れおちて背にかかり。
九〇 以前の妻の面影はない。
九一 気も動転して。
九二 成氏方が敗れたので。
九三 中仙道の一部。
九四 東海道・東山道。京から関東へ通ずる二大街道。
九五 節度使。天皇から派遣された征討軍の将軍。
九六 軍馬の蹄がみちみちて、すっかりふみにじった。
九七 戦禍をうけて焼け死んだか、溺れ死んだか。
九八 人の許に寄食して。
九九 しきりに。
一〇〇 男女が夢の中で逢って契りを結ぶこと。巫山は中国西南区四川省にある山。文選巻四の高唐賦に、楚の襄王が夢に巫山の女と契ったがこれが実は雲であったという故事。
一〇一 男女が幽明さかいを異にしながらあうこと。漢書の外戚伝に、漢の武帝が方士に命じて李夫人の霊を幻の如く見たという故事。
一〇二 夫の帰宅を頼みにしていた秋。八月一日を「たのむの日」とよぶのにかけた。
一〇三 恐ろしく貪婪な心。
一〇四 操を守って死すとも不義をして命ながらえる道はふむまい。剪燈新話句解の註「寧為玉砕、不瓦全」。
一〇五 天の河が冴えて秋のきたのを知らせる。
一〇六 松に「待つ」をかける。
一〇七 逢うのを待つ間にこがれ死にしたら、相手からも私の心中を知られずにほんとに口惜しく情けないことであろう。後拾遺集一一「人しれずあふを待つ間に恋ひ死なば何に代へたる命とかいはむ」。
一〇八 窓の障子の破れ目から松風がひたひたと音をたてて吹きこんで。
一〇九 長い道中。
一一〇 午前四時―六時。
一一一 まださめやらぬ夢心地にも何となく寒かったので。
一一二 夜着をかけようと。
一一三 夜があけてもまだ空に残っている月。陰暦一六日以後の月。
一一四 簀掻のあて字。簀子で作ったゆか。
一一五 びっしょり濡れて。
一一六 秋でもないのに秋の野のように草ぶかく荒れはてた家の模様であった。古今集四「里は荒れて人はふりにし宿なれや庭もまがきも秋の野らなる」。
一一七 かつて自分の好みで造ったままの様子。
一一八 茫然自失のさま。
一一九 妻の生前の姿。
一二〇 帰国する前に想像していたこと。
一二一 「月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」(古今集一五・伊勢物語四にある業平の歌)。
一二二 霊前に供える水を入れる器。
一二三 供える。設ける。代動詞。
一二四 栃木県那須野、烏山付近で産する和紙。
一二五 ところどころ消えて。
一二六 権中納言敦忠卿集にある歌。
一二七 以前の知人。
一二八 ていねいに挨拶して。
一二九 生業。渡世。
一三〇 いつの年死んだとも墓に記してないので。
一三一 いっそう。
一三二 お気の毒なおはなしでございますね。
一三三 生きていた当時。
一三四 この土地に古くからいた人。
一三五 亡き人の冥福を祈っていらっしゃいます。
一三六 ひどく。
一三七 土間に造ったかまど。
一三八 わら・い・すげ等の葉を丸くひらたく渦にして編んだ敷物。
一三九 そなた。お前さん。
一四〇 長寿を祝福して。
一四一 桑畑も耕す者がなくてたちまち狐や兎のすむくさむらとなる。かわり方のはげしいことをいう。
一四二 宮木をさす。
一四三 足がきかなく、歩行不自由になって。
一四四 樹木にやどる霊で、妖怪。人にたたると信じられていた。
一四五 気丈。
一四六 この老人(自分)が見聞したことの中で。
一四七 勝四郎が帰宅を約束した翌年の秋。康正二年(一四五六)。
一四八 前出の和歌をさす。
一四九 死者の霊前に水を供えてまつること。蘋はうき草、※(「くさかんむり/繁」の「毎」に代えて「誨のつくり」、第3水準1-91-43)はしろよもぎ、行潦は路上の水たまりの水で、粗末なものだが誰でもとれるものであり、心ばかりの供えものの意からきた。
一五〇 記す、とおなじ。
一五一 戒名。法名。
一五二 真間にすんでいた美少女で、その伝説は万葉集の巻三・九・一四などに見え、のちには藤原清輔「奥儀抄」にも見える。ここは万葉集九、高橋連虫麻呂の「詠勝鹿真間娘子歌一首并短歌」と題する歌によっている。
一五三 麻衣も青衿も古代の質素な服装。青衿は野草で染めた衿。
一五四 満月の如く美しく輝き。
一五五 咲きかがやく。
一五六 身にまとった。
一五七 都の貴婦人。
一五八 都から派遣された国庁の武士。防人はもと九州防衛警備兵をいったが、ここはたんに警備の武士。
一五九 いい寄って。
一六〇 多くの人の心にはこたえられず、こたえられなければ多くの人の恨みをうけて罪をかさねることになるから、いっそ死ぬことによって、多くの人の心にむくいよう(秋成の金砂にある説)。
一六一 入江。真間の浦。
一六二 宮木をさす。
一六三 うぶな心。
一六四 どれほどまさって。
一六五 年寄りというものは涙もろくてこらえ性のないもの。
一六六 思いあまった胸の中を。
一六七 口べた。不器用。
一六八 一端。
一六九 うまく歌をよむ人。
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夢応むおう鯉魚りぎよ

 むかし延長えんちやうの頃、三井寺に興義こうぎといふ僧ありけり。絵にたくみなるをもて名を世にゆるされけり。つねゑがく所、仏像ぶつざう山水さんすゐ花鳥くわてう事とせず。寺務じむいとまある日はうみに小船をうかべて、網引あびきつりする泉郎あまに銭をあたへ、たる魚をもとの江に放ちて、其の魚の遊躍あそぶを見ては画きけるほどに、年を細妙くはしきにいたりけり。或るときは一〇絵に心をこらしてねぶりをさそへば、ゆめのうちに江に入りて、一一大小さばかりの魚とともに遊ぶ。むればやがて見つるままを画きてかべし、みづから呼びて夢応むおう鯉魚りぎよと名付けけり。其の絵のたへなるをでて乞要こひもとむるもの一二前後ついでをあらそへば、只花鳥山水はふにまかせてあたへ、鯉魚りぎよの絵は一三あながちに惜しみて、人ごとたはぶれていふ。一四しやうを殺しあざらけくら凡俗ぼんぞくの人に、法師の養ふ魚一五必ずしも与へずとなん。其の絵と一六俳諧わざごととともに天下あめがしたに聞えけり。
 一とせやまひかかりて、七日を(たちま)ちにまなこを閉ぢ、いき絶えてむなしくなりぬ。一七徒弟とてい友どちあつまりて嘆き惜しみけるが、只一八心頭むねのあたりのすこし暖かなるにぞ、一九しやと二〇居めぐりて守りつも三日をにけるに、手足すこし動き出づるやうなりしが、(たちま)長嘘ためいききて、をひらき、めたるがごとくに起きあがりて、人々にむかひ、我二一人事にんじをわすれて既に久し。幾日をか過しけん。衆弟等しゆうていらいふ。師三日さきに息たえ給ひぬ。寺中の人々をはじめ、日(ごろ)むつまじくかたり給ふ二二殿原とのばらまうで給ひてはうむりの事をもはかり給ひぬれど、只師が心頭むねの暖かなるを見て、ひつぎにもをさめでかく守り侍りしに、今や蘇生よみがへり給ふにつきて、二三かしこくも物せざりしよとよろこびあへり。興義点頭うなづきていふ。誰にもあれ一人、二四だん家のたひらの助の殿のみたちまゐりてまうさんは、法師こそ不思議に生き侍れ。君今酒をあざらけ二五なますをつくらしめ給ふ。しばらくえんめて寺に詣でさせ給へ。二六稀有けうの物がたり聞えまゐらせんとて、の人々の二七あるさまを見よ。我が詞に露たがはじといふ。使あやしみながら彼のみたちきて、其のよしをいひ入れてうかがひ見るに、あるじの助をはじめ、令弟おとうとの十郎、二八家の子掃守かもりなど居めぐりて酒を酌みゐたる。師が詞のたがはぬをあやしとす。助のたちの人々此の事を聞きて大いにあやしみ、先づはしめて、十郎掃守をも召具めしぐして寺に到る。
 興義枕をあげて、二九路次ろじわづらひをかたじけなうすれば、助も蘇生よみがへりことぶきを述ぶ。興義先づ問ひていふ。君こころみに我がいふ事を聞かせ給へ。かの漁父ぎよふ文四に魚をあつらへ給ふ事ありや。助驚きて、まことにさる事あり。いかにしてしらせ給ふや。興義、かの漁父三たけあまりの魚をかごに入れて君が門に入る。君は賢弟と三〇南面みなみおもての所にを囲みておはす。掃守かもりかたはらはべりて、ももの大なるをひつつ三一※(「亦/廾」、第4水準2-12-13)えき手段しゆだんを見る。漁父が大魚まなたづさへ来るをよろこびて、三二高杯たかつきりたる桃をあたへ、又さかづきを給うて三三こん飲ましめ給ふ。三四鱠手かしはびと三五したり顔に魚をとり出でてなますにせしまで、法師がいふ所三六たがはでぞあるらめといふに、助の人々此の事を聞きて、或はあやしみ、或はここちまどひて、三七かくつばらなることのよしをしきりに尋ぬるに、興義かたりていふ。
 我此の頃病にくるしみてへがたきあまり、其の死したるをもしらず、三八熱きここちすこしさまさんものをと、三九杖にたすけられて門を出づれば、病もやや忘れたるやうにて、の鳥の四〇雲井にかへるここちす。山となく里となく行き行きて、又江のほとりに出づ。湖水のみどりなるを見るより、四一うつつなき心にびて遊びなんとて、そこに衣をてて、身ををどらして深きに四二飛び入りつも、彼此をちこちおよぎめぐるに、わかきより水にれたるにもあらぬが、おもふにまかせてたはぶれけり。今思へば愚かなる夢ごごろなりし[#「夢ごごろなりし」はママ]。されども四三人の水にかぶは、魚のこころよきにはしかず。ここにて又魚の遊びをうらやむこころおこりぬ。かたはらにひとつの大魚まなありていふ。師のねがふ事いとやすし。待たせ給へとて、はるかのそこくと見しに、しばしして、かむり装束さうぞくしたる人の、さき大魚まなまたがりて、許多あまた四四鼇魚うろくづひきゐて浮かび来たり、我にむかひていふ。四五海若わたつみみことのりあり。老僧かねて四六放生はうじやう功徳くどく多し。今、江に入りて魚の遊躍あそびをねがふ。かり金鯉きんりふくを授けて四七水府すゐふのたのしみをせさせ給ふ。只かんばしきにくらまされて、つりの糸にかかり身をうしなふ事なかれといひて、去りて見えずなりぬ。不思議のあまりにおのが身をかへり見れば、いつのまにうろこ金光きんくわうを備へてひとつの鯉魚りぎよしぬ。
 あやしとも思はで、尾を振りひれを動かして、心のままに逍遥せうえうす。まづ四八長等ながらの山おろし、立ちゐる浪に身をのせて、四九志賀の大湾おほわだみぎはに遊べば、五〇かち人ののすそぬらすゆきかひにおどされて、五一比良ひらの高山影うつる、深き水底みなそこ五二かづくとすれど、かくれ五三堅田かたた漁火いさりび五四よるぞうつつなき。五五ぬば玉の夜中よなかかたにやどる月は、五六鏡の山の峯にみて、五七八十やそみなと八十隈やそくまもなくておもしろ。五八沖津嶋山、五九竹生嶋ちくぶしま、波に六〇うつろふ六一あけかきこそおどろかるれ。六二さしも伊吹の山風に、六三旦妻船あさづまぶねぎ出づれば、芦間あしまの夢をさまされ、六四矢橋(やばせ)(わたり)する人のなれさををのがれては、六五瀬田の橋守にいくそたびか追はれぬ。日あたたかなれば浮かび、風あらきときは千尋ちひろの底に遊ぶ。
 にはかにも飢ゑてものほしげなるに、彼此をちこち六六※(「求/(餮−殄)」、第4水準2-92-54)あさり得ずして狂ひゆくほどに、(たちま)ち文四が釣を垂るるにあふ。其のはなはだかんばし。心又六七がみいましめを守りて思ふ。我はほとけの御弟子なり。しばしものを求め得ずとも、なぞもあさましく魚の餌を飲むべきとてそこを去る。しばしありてうゑますますはなはだしければ、かさねて思ふに、今はへがたし。たとへ此の餌を飲むとも六八嗚呼をこられんやは。もとより六九かれは相るものなれば、何のはばかりかあらんとて、つひに餌をのむ。文四七〇はやく糸を収めて我をとらふ。こはいかにするぞと叫びぬれども、かれ七一かつて聞かず顔にもてなしてなはをもて我が七二あぎとつらぬき、芦に船をつなぎ、我をかごに押入れて君が門に進み入る。七三君は賢弟と南おもて※(「亦/廾」、第4水準2-12-13)えきして遊ばせ給ふ。掃守かもりかたはらに侍りて七四このみくらふ。文四がもて来し大魚まなを見て、人々大いにでさせ給ふ。我其のとき人々にむかひ、声をはり上げて、七五旁等かたがたらは興義をわすれ給ふか。ゆるさせ給へ。寺にかへさせ給へと、しきりさけびぬれど、人々しらぬさまにもてなして、只手をつて喜び給ふ。鱠手かしはびとなるもの、まづ我が両眼を左手ひだりおゆびにてつよくとらへ、七六右手みぎりぎすませし七七かたなをとりて俎盤まないたにのぼし、七八既に切るべかりしとき、我くるしさのあまりに大声をあげて、七九仏弟子ぶつでしを害するためしやある。我を助けよ助けよとさけびぬれど、聞き入れず。つひに切らるるとおぼえてゆめめたりとかたる。人々大いにあやしみ、師が物がたりにつきて思ふに、八〇其の度ごとに魚の口の動くを見れど、八一更に声を出だす事なし。かかる事まのあたりに見しこそいと不思議なれとて、八二従者ずさを家に走らしめて残れるなますうみに捨てさせけり。
「平の助の館、表座敷で、助、十郎、掃守等の見まもる中、料理人が鯉を料理しようとする図」のキャプション付きの図
平の助の館、表座敷で、助、十郎、掃守等の見まもる中、料理人が鯉を料理しようとする図。興義は「仏弟子を害する例やある。我を助けよ助けよ」と叫んだが、声にならず、やがて鯉の体をはなれてゆく。(原本十丁裏、十一丁表の挿絵)

 興義これより病えて、はるかの後八三天年よはひをもてまかりける。其の終焉をはりに臨みて、ゑがく所の鯉魚数枚すまいをとりてうみちらせば、画ける魚八四紙繭しけん[#「紙繭」の左に「かみきぬ」のルビ]をはなれて水に遊戯いうげす。ここをもて興義が絵世に伝はらず。其の弟子八五成光なりみつなるもの、興義が八六神妙しんめうをつたへて八七時に名あり。八八閑院の殿との八九障子しやうじにはとりゑがきしに、生けるとりこの絵を見てたるよしを、九〇古き物がたりにせたり。

一 夢の中で感応してえがいた鯉。
二 九二三―九三一。
三 滋賀県大津市にある天台宗寺門派総本山、長等山園城寺の別称。由緒ふかい寺で、眼下に琵琶湖をのぞむ。
四 古今著聞集に名が見えているが、伝未詳。
五 世間から名人という評判をたてられていた。
六 専らとしない。仕事としない。
七 琵琶湖。
八 網をひいたり釣をしたりする漁師。
九 精細巧妙の域に達した。
一〇 絵に心を集中して。
一一 大小種々の魚。
一二 われ先にとあらそいもとめた。
一三 どこまでも惜しんで。
一四 生物を殺したり、鮮魚を食ったりする世間一般の人。
一五 けっして、きっと。
一六 冗談。戯言。「生を殺し鮮を喰ふ云々」の言葉をさす。
一七 弟子の僧と友人たち。
一八 本篇の典拠、魚服記に「心頭微暖」とある。
一九 もしかしたら蘇生するかもしれない。
二〇 まわりをとりまいてみまもりながら。
二一 人事不省になって。失神して。
二二 殿方。かたがた。
二三 葬らなくてよかったことだ。
二四 寺に属する信徒。
二五 生の魚肉を細く切ったもの。魚服記「為※(「虎+見」の「儿」に代えて「助のへん」、第4水準2-88-41)群官方食鱠否」。
二六 世にもまれなめずらしいはなしをおはなししましょう。
二七 どんな様子をしているか。
二八 家臣。
二九 わざわざきてくれた足労の礼をのべると。
三〇 表座敷。
三一 囲碁の勝負。
三二 食物を盛る足高の器。
三三 酒を杯に三ばい。十分に飲ませたこと。
三四 調理人。
三五 得意顔に。誇り顔に。
三六 ちがわないでしょう。
三七 こんなにくわしくはっきりと事実を指摘できた理由。
三八 ねつっぽい苦しい心地。魚服記「悪熱求涼」。
三九 杖をたよりに。魚服記「策杖而行」。
四〇 大空。
四一 夢心地に。原文「うつ」
四二 飛びこんで。
四三 人間が水に浮いて泳ぐのは、それがどんなにうまくても、魚が自由自在に泳ぎまわるのにはおよばない。魚服記「人浮不魚快也」。
四四 魚族。魚類。
四五 海神。湖の神。原文「わたづみ」
四六 ひとの捕えた鳥や魚を放してやること。
四七 水中のたのしみ。水府はもと海底にある水神の居処、竜宮をいった。
四八 三井寺の背後にある長等山から吹きおろす風。
四九 琵琶湖の南西岸、昔の志賀の都付近の海岸。
五〇 徒歩で行く人が着物の裾を濡らすほど水際近くを往来するのにおどろかされ。続古今集六「かち人の汀の氷ふみならしわたれどぬれぬ志賀の大わた」。
五一 琵琶湖の西にある比良山。
五二 もぐろうとするが。
五三 琵琶湖西岸にある。「かくれ難し」の懸詞。
五四 「夜」と「寄る」の懸詞。
五五 「夜」の枕詞。
五六 滋賀県蒲生郡竜王町にある山。歌枕。
五七 多くの港のあらゆるすみずみまで照らし出している情景はおもしろい。
五八 琵琶湖の南岸近く東寄りの沖の島。
五九 琵琶湖の北岸近くにある島。弁財天で名高い。
六〇 うつる。
六一 竹生島弁財天の朱塗りの玉垣。
六二 滋賀県と岐阜県の境にある伊吹山。さしもは、そうとはの意とさしも草(艾草)の掛詞。後拾遺集一一「かくとだにえやは伊吹のさしも草さしもしらじなもゆるおもひを」。
六三 琵琶湖東岸、米原市朝妻筑摩の入江にあった渡船。朝が来ての意を懸ける。
六四 琵琶湖南東岸、草津市矢橋から大津へ渡る舟の船頭の、さばきもあざやかな棹。
六五 琵琶湖南部、瀬田川にかかる唐橋。
六六 もとめたが手に入れることができないで。
六七 河神。湖の神。
六八 おめおめと。うかつに。
六九 文四をさす。
七〇 素早く釣糸をひきあげて。
七一 いっこう。ちっとも。
七二 魚のえら。あご。
七三 平の助をさす。
七四 くだもの。前出の桃。
七五 皆様。あなた方。
七六 「みぎり」と訓ませている。
七七 庖丁。
七八 すんでのことに切ろうとしたとき。
七九 仏に仕える僧を殺すということがあるか。
八〇 興義が魚になって口をきくたびに。
八一 ちっとも。いっこうに。
八二 めしつかい。下僕。
八三 天寿をまっとうして。
八四 画料の紙や絹からぬけ出して。「紙繭」の左右に振り仮名がある。
八五 古今著聞集に名が見えているが、伝未詳。
八六 入神の妙技をうけついで。
八七 その時代に名声をあげた。
八八 京都市上京区二条の南、西洞院の西にあった閑院内裏。もと藤原冬嗣の邸で、名園の誇高かったが、一二五九年焼失した。
八九 唐紙。ふすま。
九〇 古今著聞集をさす。同書巻一一、画図一六に「成光閑院の障子に鶏を書きたりけるを、実の鶏見て蹴けるとなん。この成光は三井寺の僧興義が弟子になん侍りける」とある。
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雨月物語 巻之三



仏法僧ぶつぽふそう

 うらやすの国ひさしく、たみ作業なりはひをたのしむあまりに、春は花のもとやすらひ、秋は錦の林をたづね、しらぬ火の筑紫路つくしぢもしらではとかぢまくらする人の、富士筑波の嶺々みねみねを心にしむるぞそぞろなるかな。
 伊勢の相可あふかといふさとに、拝志氏はやしうぢの人、世をはやくつぎゆづり、むこともなくかしらおろして、名を夢然むぜんとあらため、従来もとより身に病さへなくて、彼此をちこちの旅寝を老のたのしみとする。季子すゑのこ作之治なるものが一〇生長ひととなりかたくななるをうれひて、京の人見するとて、一一一月あまり二条の別業べつげふとどまりて、三月やよひすゑ一二吉野の奥の花を見て、知れる寺院に七日ばかりかたらひ、此のついでに、いまだ一三高野山を見ず、いざとて、夏のはじめ青葉のしげみをわけつつ、一四てんの川といふよりえて、一五摩尼まにの御山にいたる。道のゆくてのさかしきに一六なづみて、おもはずも日かたぶきぬ。
 一七壇場だんぢやう、諸堂一八霊廟みたまや、残りなく拝みめぐりて、ここに宿からんといへど、一九ふつに答ふるものなし。そこを行く人に二〇所のおきてをきけば、寺院僧坊に二一便たよりなき人は、ふもとにくだりて明すべし。此の山すべて旅人に一夜をかす事なしとかたる。いかがはせん。さすがにも老の身のさかしき山路をしがうへに、事のよしを聞きて大きに心二二みつかれぬ。作之治がいふ。日もくれ、足も痛みて、いかがして二三あまたのみちをくだらん。二四わかき身は草に臥すともいとひなし。只二五み給はん事の悲しさよ。夢然云ふ。旅はかかるをこそ哀れともいふなれ。今夜こよひ二六あしをやぶり、みつかれて山をくだるとも、おのが古郷ふるさとにもあらず。あすのみち又はかりがたし。此の山は二七扶桑ふさう第一の霊場、二八大師の広徳くわうとくかたるに尽きず。二九ことにも来りて通夜つやし奉り、三〇後世の事たのみ聞ゆべきに、さいはひをりなれば、霊廟みたまやに夜もすがら三一法施ほふせしたてまつるべしとて、杉の下道のをぐらきを行く行く、霊廟みたまやの前なる三二灯籠堂とうろうだう簀子すのこのぼりて、雨具あまぐうち敷き座をまうけて、しづか念仏ねぶつしつつも、夜のけゆくをわびてぞある。
 三三方五十町に開きて、三四あやしげなる林も見えず。小石だもはらひし三五福田ふくでんながら、さすがにここは寺院遠く、三六陀羅尼だらに三七鈴錫れいしやくこゑも聞えず。立は三八雲をしのぎてみさび、三九道にさかふ水の音ほそぼそとみわたりて物がなしき。寝られぬままに夢然かたりていふ。そもそも大師の四〇神化じんくわさう木も四一れいひらきて、四二八百やほとせあまりの今にいたりて、四三いよよあらたに、いよよたふとし。四四遺芳ゐはう四五歴踪れきそう多きが中に、此の山なん第一の四六道場だうぢやうなり。大師四七いまぞかりけるむかし、遠く四八唐土もろこしにわたり給ひ、あの国にて四九でさせ給ふ事おはして、此の五〇のとどまる所、我が道をぐる霊地れいちなりとて、杳冥そらにむかひてげさせ給ふが、五一はた此の山にとどまりぬる。五二壇場だんぢやうの御前なる三の松こそ此の物の落ちとどまりしところなりと聞く。すべて此の山の草木泉石せんせきれいならざるはあらずとなん。こよひ五三不思議にもここに一夜をかりたてまつる事、五四一世ならぬ善縁ぜんえんなり。※(「にんべん+欠」の「人」に代えて「小」、第3水準1-14-13)なんぢわかきとてゆめ信心しんじんおこたるべからずと、五五ささやかにかたるもみて心ぼそし。
 御廟みべうのうしろの林にと覚えて、五六仏法ぶつぱん々々となく鳥の音、山彦にこたへてちかく聞ゆ。夢然目さむる心ちして、あなめづらし、あのく鳥こそ仏法僧といふならめ。かねて此の山にみつるとは聞きしかど、まさに其の音を聞きしといふ人もなきに、こよひのやどりまことに五七滅罪生善めつざいしやうぜんしるしなるや。かの鳥は清浄しやうじやうをえらみてすめるよしなり。上野かんづけの国五八迦葉山かせうざん下野しもづけの国五九二荒ふたら山、山城の六〇醍醐だいごみね、河内の六一杵長しなが山、就中なかんづく此の山にすむ事、大師の六二詩偈しげありて世の人よくしれり。

六三寒林独坐草堂暁かんりんどくざさうだうのあかつき   三宝之声聞一鳥さんぼうのこゑをいつてうにきく
一鳥有声人有いつてうこゑありひとこころあり   性心雲水倶了々せいしんうんすゐともにれうれう

又ふるき歌に、

六四松の尾の峯しづかなるあけぼの
あふぎて聞けば仏法僧啼く

むかし六五最福寺さいふくじ六六延朗法師えんらうほふしは世にならびなき六七法華者ほつけしやなりしほどに、六八松の尾の御神此の鳥をして常に延朗につかへしめ給ふよしをいひ伝ふれば、かの神垣にもむよしは聞えぬ。六九こよひの奇妙きめう既に一鳥声あり。我ここにありて七〇心なからんやとて、平生つねのたのしみとする俳諧風はいかいぶりの十七ことを、しばし七一うちかたぶいていひ出でける。

七二鳥の秘密ひみつの山のしげみかな

 旅硯たびすずりとり出でて、御灯みあかしの光に書きつけ、今一声もがなと耳をかたぶくるに、思ひがけずも遠く寺院の方より、七三さきふ声のいかめしく聞えて、やや近づき来たり。何人の夜けてまうで給ふやと、あやしくも恐ろしく、親子顔を見あはせていきをつめ、そなたをのみまもり居るに、はや前駆ぜんぐ若侍わかさむらひ七四橋板はしいたをあららかに踏みてここに来る。
 おどろきて堂の右にひそみかくるるを、武士ぶしはやく見つけて、何者なるぞ、七五殿下でんかのわたらせ給ふ。りよといふに、あわただしく簀子すのこをくだり、土にして七六うずすまる。程なく多くの足音聞ゆる中に、沓音くつおと高くひびきて、烏帽子ゑぼし七七直衣なほしめしたる貴人、堂に上り給へば、従者みとも武士もののべ四五人ばかり右左みぎひだりに座をまうく。かの貴人、人々に向ひて、たれ々はなど来らざるとおほせらるるに、やがてぞ参りつらめとまうす。又一むれの足音して、威儀ある武士、かしらまろげたる入道等にふだうらうちまじりて、七八ゐやたてまつりて堂にのぼる。貴人、只今来りし武士にむかひて、七九常陸ひたちは何とておそく参りたるぞとあれば、かの武士いふ。八〇白江しらえ熊谷くまがへの両士、きみ八一大御酒おほみきすすめたてまつるとて八二まめやかなるに、臣も八三あざら(け)き物一しゆ調てうじまゐらせんため、御従みともおくれたてまつりぬとまうす。はやく※(「肴+殳」、第4水準2-78-4)さかなをつらねてすすめまゐらすれば、八四万作しやくまゐれとぞおほせらる。かしこまりて、美相びさう若士わかさぶらひ膝行ゐざりよりて八五瓶子へいじささぐ。かなたこなたにさかづきをめぐらしていと興ありげなり。
「高野山奥の院、灯籠堂の前で、深夜、夢然・作之治父子が、関白秀次とその家臣たちの亡霊にあう図」のキャプション付きの図
高野山奥の院、灯籠堂の前で、深夜、夢然・作之治父子が、関白秀次とその家臣たちの亡霊にあう図。先駆の武士が父子を叱っているところ。(原本三丁裏、四丁表の挿絵)

 貴人又のたまはく、絶えて八六紹巴ぜうは説話ものがたりを聞かず、召せと、八七の給ふに、呼びつぐやうなりしが、八八我がうずすまりしうしろの方より、八九大いなる法師の、おもて九〇うちひらめきて、九一目鼻めはなあざやかなる人の、僧衣そうえかいつくろひて座のすゑにまゐれり。貴人九二古語ふることかれこれわきまへ給ふに、つばらに答へたてまつるを、いといとでさせ給うて、九三かれろくとらせよとの給ふ。
 一人の武士かの法師に問ひていふ。此の山は九四大徳(だいとこ)ひらき給うて、土石草木どせきさうもく九五れいなきはあらずと聞く。さるに九六玉川のながれには毒あり。人飲む時はたふるが故に、大師のよませ給ふ歌とて、

九七わすれても汲みやしつらんたび人の
    高野たかのの奥の玉川の水

といふことを聞き伝へたり。大徳のさすがに、此の毒ある流をば、九八などせては果し給はぬや。いぶかしき事を九九足下そこにはいかにわきまへ給ふ。
 法師ゑみをふくみていふは、此の歌は一〇〇風雅集ふうがしふえらみ入れ給ふ。其の一〇一端詞はしことばに、高野たかのの奥の院へまゐる道に、玉川といふ河の水上みなかみどく虫おほかりければ、此の流を飲むまじきよしをしめしおきて後よみはべりける、とことわらせ給へば、足下そこのおぼえ給ふ如くなり。されど今の御疑ひ一〇二僻言ひがごとならぬは、大師は神通自在じんつうじざいにして一〇三隠神かくれがみえきして道なきをひらき、いはほるには土を穿うがつよりもやすく、大蛇をろち一〇四いましめ、化鳥けてう一〇五奉仕まつろへしめ給ふ事、あめが下の人の仰ぎたてまつるいさをしなるを思ふには、此の歌のはしことば一〇六まことしからね。もとより此の一〇七玉河てふ川は国々にありて、いづれをよめる歌も、其の流れのきよきをげしなるを思へば、ここの玉川も毒ある流れにはあらで、歌のこころも、一〇八かばかり名にふ河の此の山にあるを、ここにまうづる人は一〇九忘る忘るも、流れの清きにでて手にむすびつらんとよませ給ふにやあらんを、後の人の毒ありといふ一一〇狂言まがことより、此の端詞はしことばはつくりなせしものかとも思はるるなり。又深く疑ふときには、此の歌の調しらべ一一一今のみやこはじめの口ぶりにもあらず。おほよそ此の国の古語ふることに、一一二かづら一一三だれ一一四珠衣たまぎぬたぐひは、かたちをほめ清きをむることばなるから、清水しみづをも玉水玉の井玉河ともほむるなり。毒ある流れをなど一一五玉てふことばかうむらしめん。一一六あながちほとけをたふとむ人の、歌のこころ細妙くはしからぬは、これほどのあやまりは幾らをもしいづるなり。足下そこは歌よむ人にもおはせで、此の歌のこころあやしみ給ふは一一七用意よういある事こそと、あつでにける。貴人をはじめ人々も此のことわりをしきりでさせ給ふ。
 堂のうしろの方に、仏法ぶつぱん々々とこゑちかく聞ゆるに、貴人さかづきをあげ給ひて、れいの鳥絶えて鳴かざりしに、今夜こよひ酒宴しゆえん一一八はえあるぞ。紹巴ぜうは一一九いかにとおほせ給ふ。法師かしこまりて、それがし一二〇短句たんくきみにも一二一御耳すすびましまさん。ここに旅人の通夜つやしけるが、今の世の俳諧風はいかいぶりをまうして侍る。きみにはめづらしくおはさんに召して聞かせ給へといふ。一二二それ召せとおほせらるるに、若きさむらひ夢然が方へむかひ、召し給ふぞ、ちかうまゐれと云ふ。一二三夢現ゆめうつつともわかで、おそろしさのままに御まのあたりへはひ出づる。法師夢然にむかひ、さきによみつる詞をきみに申し上げよといふ。夢然恐る恐る、何をか申しつる、さらに覚え侍らず。只ゆるし給はれと云ふ。法師かさねて、秘密の山とは申さざるや。殿下でんかの問はせ給ふ。いそぎ申し上げよといふ。夢然いよいよ恐れて、殿下とおほせ出され侍るは一二四誰にてわたらせ給ひ、かかる深山みやま夜宴やえんをもよほし給ふや。一二五更にいぶかしき事に侍るといふ。法師答へて、殿下と申し奉るは、一二六関白秀次公くわんぱくひでつぐこうにてわたらせ給ふ。人々は一二七木村常陸介(きむらひたちのすけ)雀部ささべ淡路、白江備後、熊谷くまがへ大膳、粟野杢あはのもく日比野下野ひびの(しもつけ)、山口少雲せううん丸毛不心まるもふしん隆西りうさい入道、山本主殿とのも、山田三十郎、不破ふは万作、かく云ふは紹巴ぜうは一二八法橋ほつけうなり。汝等なんぢら一二九不思議の御目見えつかまつりたるは。さきのことばいそぎ申し上げよといふ。かしらかみあらば一三〇ふとるべきばかりにすざましく一三一きもたましひそらにかへるここちして、ふるふ振ふ、一三二頭陀嚢づだぶくろより清き紙取りでて、筆も一三三しどろに書きつけてさし出すを、主殿とのも取りてたかく吟じ上ぐる。

鳥の音も秘密の山の茂みかな

 貴人聞かせ給ひて、一三四口がしこくもつかまつりしな。そ此の一三五末句すゑくをまうせとのたまふに、山田三十郎座をすすみて、それがしつかうまつらんとて、しばしうちかたぶきてかくなん。

一三六芥子けしたきあかすみじか夜のゆか

一三七いかがあるべきと、紹巴に見する。よろしくまうされたりと、きみの前に出すを見給ひて、一三八片羽かたはにもあらぬはと興じ給ひて、又一三九さかづきげてめぐらし給ふ。
 一四〇淡路と聞えし人、にはかに色をたがへて、はや一四一修羅しゆらの時にや。阿修羅あしゆらども御迎ひに来ると聞え侍る。立たせ給へといへば、一座の人々(たちま)おもてに血をそそぎし如く、いざ一四二石田増田がともがら今夜こよひ一四三あわかせんと勇みて立ちさわぐ。秀次ひでつぐ木村に向はせ給ひ、一四四よしなきやつに我が姿すがたを見せつるぞ。かれ二人ふたり修羅しゆらにつれ来れとおほせある。老臣の人々一四五かけへだたりて声をそろへ、いまだめいつきざる者なり。一四六れい悪業あくげふなせさせ給ひそといふ詞も、人々のかたちも、遠く雲井に行くがごとし。
 親子はえて、しばしがうち一四七しに入りけるが、一四八しののめの明けゆく空に、ふる露のひややかなるにいき出でしかど、いまだ明けきらぬ恐ろしさに、一四九大師の御名みなをせはしくとなへつつ、一五〇やや日出づると見て、いそぎ山をくだり、みやこにかへりて一五一薬鍼やくしん保養ほやうをなしける。一日あるひ夢然、三条の橋を過ぐる時、一五二あくぎやくづかの事思ひ出づるより、かの寺ながめられて、白昼ひるながら物すざましくありけると、みやこ人にかたりしを、そがままにしるしぬ。

一 啼声がブッポーソー、ブッパンニなどと聞こえるフクロウ科のコノハズクで、深山にすむ。
二 心安らかに平穏に治まれる国。日本の美称。
三 錦のようにうつくしい紅葉の林。春は花云々の対。
四 筑紫の枕詞。「知らぬ」に懸ける。
五 ここでは九州の国々。
六 船旅をする人。械は楫。
七 茨城県にあり、古来富士山と並んで関東の名山。
八 三重県多気町相可。
九 不幸があったわけでもないのに薙髪して。
一〇 生来無骨で融通のきかないのを案じて。
一一 一月・二条・三月と数を重ねる修辞法。別業は別邸。ここでは支店ととってよい。
一二 吉野山は桜の名所。下の千本・中の千本・上の千本・奥の千本とある。
一三 和歌山県伊都郡高野町にあり、古義真言宗総本山金剛峯寺がある。
一四 奈良県吉野郡天川町。
一五 高野山の美称。
一六 ゆきなやんで。
一七 東塔より西塔にいたる二町の間をいい、金堂・大塔・灌頂堂・御影堂・愛染堂等の重要な堂塔伽藍がある。
一八 奥の院にある大師廟。
一九 まったく。ちっとも。
二〇 この土地の規約・戒律。
二一 つてのない人。
二二 がっかりして。
二三 長いみちのり。
二四 作之治が自分をさす。
二五 父上が御病気になられはしまいかと。
二六 脚を痛め。
二七 日本の異称。
二八 この山を開基した弘法大師の広大な徳はとても語りつくせない。
二九 わざわざにでも。
三〇 来世の安楽往生をお願いしなければならないが。
三一 霊前で読経念仏すること。
三二 大師廟の前にあり、古くは拝殿・礼堂とよばれ、中に多くの灯籠が奉納されている。
三三 五〇町四方。実際は東西五〇町(五四五〇メートル)南北一〇町余り。
三四 見苦しい林。
三五 仏法僧三宝の徳を敬田・恩田・悲田といい、ここでは、その仏法僧の諸徳がそなわったありがたい霊地の意。
三六 経文の名。翻訳せずに梵語のままで誦する。
三七 鈴と錫の仏具。
三八 雲をおしわけるくらい高くそびえて茂りあい。
三九 道ばたを流れる水。
四〇 神の如き徳化力。
四一 霊魂を宿して。
四二 大師が高野山をひらいたのが弘仁七年(八一六)であり、八百余年後は一七世紀初頭にあたる。
四三 ますます顕著に。
四四 後世につたえられるすぐれた業績。
四五 諸国を遍歴してのこした旧跡。
四六 仏道を修行する場。
四七 御在世中の当時。
四八 大師が唐に渡ったのは延暦二三年(八〇四)。
四九 ふかく感じられたこと。
五〇 仏具で、金剛杵の一種。
五一 その結果。果して。
五二 御影堂の前にある。
五三 思いがけずも。不思議な縁で。
五四 この世だけでなく前世からの善因縁である。
五五 小声で。
五六 秋成の胆大小心録四五に「仏法僧は高野山で聞いたが、ブツパンブツパンとないた。形は見へなんだ」。
五七 この世でおかした罪を消滅して、来世の善因をつくるよい前兆。
五八 群馬県沼田市の北部にある。弥勒寺がある。
五九 栃木県日光市北方にある。
六〇 京都市伏見区にある。
六一 大阪府南河内郡太子町にある山か。
六二 仏徳を讃えるためにつくった詩で、多く四句から成る。
六三 三宝は仏法僧。性心雲水は有情の鳥の性と人心、無情の行雲と流水。了々は悟りの境地に入っている。大師の詩文集、遍照発揮性霊集、巻一〇にある。現代語訳を見よ。[#現代語訳「さびしい林の中の草の庵にひとり坐して暁をむかえると、折から仏・法・僧の三宝を唱える一羽の鳥の声を聞いた。一羽の鳥ですらすでに三宝を唱える声があるのだから、これを聞く自分にも、これに応じて仏心を発揮する心がある。有情の鳥声・人心、非情の行雲・流水、すべてこの山にあるものは法身如来の仏徳を開顕して悟りの境地に入っている」]
六四 松の尾は、京都市右京区にある山。新撰六帖や夫木集にある藤原光俊の歌。
六五 松の尾にある天台宗の寺。
六六 一二、三世紀の天台宗の高僧。最福寺の住職。
六七 法華経の信奉者。
六八 京都市右京区嵐山宮前町にある松尾神社。
六九 今夜めずらしくも仏法僧の一声を聞くことができた。
七〇 興趣を解し感動せずにおられようか。
七一 首を傾け思案して。
七二 秘密の山は高野山。真言秘密の法を行なう高野山では仏法僧の声も神秘の響をもつ。
七三 先ばらい。前駆。
七四 御廟橋の橋板を荒々しくふんで。
七五 摂政・関白・将軍などをいう。
七六 「うずくまる」意の古語。
七七 ノーシといい、貴人の平服。
七八 礼をして。
七九 木村常陸介重茲。秀次補佐の重臣。
八〇 白江備後守と熊谷大膳亮。ともに秀次の臣。
八一 神や天皇・貴人にたてまつり、賜わる酒。
八二 まめまめしく働いているので。
八三 鮮魚。転じて酒の肴。
八四 不破万作。秀次の近侍。美少年。
八五 酒徳利。
八六 里村紹巴。連歌の名人。信長・秀吉・秀次の恩をうけた。慶長七年(一六〇二)没。
八七 おっしゃる。
八八 夢然を一人称とした。
八九 松永貞徳の戴恩記に「顔おほきにして眉なく、明らかなるひとかは目にて、鼻大きにあざやかに」とある。
九〇 ひらたくて。
九一 目鼻だちのはっきりした人。
九二 故事古語古歌などについてあれこれと問いただす。
九三 紹巴に褒美を与えよ。
九四 徳高き高僧。ここでは弘法大師をさす。
九五 仏徳をうけて霊魂なきものはない。
九六 摩尼・楊柳・転軸の三山に発して、御廟橋の下を流れる小川。
九七 この歌の解には古来異説があるが、忘れても旅人は高野山の奥の玉川の水を汲んで飲んではいけない、毒があるからだ、の意に解すのが普通のようであり、秋成の解は本文に詳述している。風雅集一六に弘法大師作としてある。
九八 どうして水を涸らしてしまわれないのか。
九九 貴殿。対称代名詞。
一〇〇 花園上皇自撰の歌集。貞和二年(一三四六)成立。
一〇一 和歌などの前につける詞書。
一〇二 まちがったこと。
一〇三 目に見えない神を使役して。
一〇四 封じこめ。
一〇五 帰順せしめ。
一〇六 本当とは思えない。
一〇七 六玉川として有名。井出玉川、京都府綴喜郡井手町。野路玉川、滋賀県草津市。擣衣玉川、大阪府高槻市。高野玉川、和歌山県高野山。調布玉川、東京都西多摩郡。野田玉川、宮城県塩釜市付近。歌枕。
一〇八 これほど有名な。
一〇九 すっかり忘れていても。
一一〇 道理にはずれた妄説。
一一一 平安朝初期の歌風ではない。すなわち、弘法大師の作ではないの意を暗示する。
一一二 多くの玉を緒でつらぬいたもので、頭の飾り。
一一三 玉などを飾ったすだれ。またすだれの美称。
一一四 玉をつけた着物。また着物の美称。
一一五 玉という語。
一一六 むやみに仏をありがたがって尊ぶ人で。
一一七 たしなみのふかいことである。
一一八 ひとしお興を加えたことである。
一一九 一句どうだ。
一二〇 連歌の一句。
一二一 お聞きふるしでいらっしゃいましょう。
一二二 その者を召し出せ。
一二三 無我夢中で。
一二四 どなたでいらっしゃって。
一二五 いよいよ不審なことでございます。
一二六 秀吉の甥で、秀吉の猶子となり、内大臣から関白になったが、秀吉に実子の秀頼が誕生するにおよんで威勢を失い、官位を奪われて高野山に逐われ、文禄四年(一五九五)七月、青巖寺で自刃。二八歳。
一二七 以下の人々はいずれも秀次腹心の臣で、大半は秀次に殉じて死んだ。
一二八 僧の位で、法印・法眼につぐ。後には文人・画家・医師にも授かった。
一二九 不思議の御縁で拝顔の栄をえたのであるぞ。
一三〇 一瞬にして毛髪がふとくなるほどの恐ろしさ。
一三一 肝も魂も身をはなれて宙にうくような心地。
一三二 首から胸にかける袋で、近世には多く旅行用に用いられた。
一三三 とり乱すさま。
一三四 うまく、小ざかしくも詠んだな。
一三五 付句。五七五にたいしてつける七七。
一三六 芥子は真言宗で焚いて加持祈祷に用いる。みじか夜は夏の夜。牀は護摩壇。芥子を焚きながら短い夏の夜を、護摩壇のそばで護摩の秘法を行なってあかす。
一三七 どうでしょうか。
一三八 片端。不十分。不完全。下手でもない。
一三九 杯に酒をみたして。
一四〇 雀部淡路とよばれた人。
一四一 闘争を事とする鬼神阿修羅の略。もはや争闘のはじまる時刻になった。
一四二 石田三成と増田長盛。ともに秀吉の重臣で、秀次を讒言して死にいたらしめた。
一四三 ひどいめにあわせてやろう。
一四四 つまらぬやつ。
一四五 その間にわって入って。両者をへだてて。
一四六 殺生残虐を好むいつもの悪い所行。
一四七 失神したが。
一四八 「明け」の枕詞。
一四九 南無大師遍照金剛ととなえた。
一五〇 ようやく。やっと。
一五一 薬をのんだり鍼をうったりして治療養生した。
一五二 京都三条小橋の東南岸、瑞泉寺内にある悪逆塚。畜生塚ともいう。秀次の首、および妻子侍妾三十余人の首を埋め、僧慶順が、文禄四年(一五九五)に建立した。その後、角倉了意があらたに碑を建てて現存する。
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吉備津きびつかま

 ※(「女+戸の旧字」、第3水準1-15-76)とふやしなひがたきも、いての後其のこうを知ると。ああこれ何人のことばぞや。わざはひの甚しからぬも、商工わたらひさまたげ物を破りて、垣の隣のそしりをふせぎがたく、害の大なるにおよびては、家を失ひ、国をほろぼして、天が下に笑を伝ふ。いにしへより此の毒にあたる人、幾許いくばくといふ事をしらず。死してみづちとなり、或は霹靂はたたがみふるうてうらみむくたぐひは、其の肉をししびし(ほ)にするとも飽くべからず。さるためしは(まれ)なり。をつとのおのれをよくをさめて教へなば、此のうれひおのづからくべきものを、只一〇かりそめなるあだことに、女の一一かだましきさがつのらしめて、其の身のうれひをもとむるにぞありける。一二きんせいするはにあり。を制するは其のをつと々しきにありといふは、にさることぞかし。
 一三吉備きびの国賀夜郡かやのこほり庭妹にひせさとに、井沢ゐざは庄太夫といふものあり。祖父おほぢ播磨(はりま)一四赤松に仕へしが、んぬる一五嘉吉かきつ元年のみだれに、一六かのたちを去りてここに来り、庄太夫にいたるまで三代みよて、一七たがやし、秋をさめて、家ゆたかにくらしけり。一子正太郎なるもの農業なりはひいとふあまりに、酒に乱れ色にふけりて、父が一八おきてを守らず。父母これを嘆きてひそかにはかるは、一九あはれよき人の女子むすめかほよきをめとりて二〇あはせなば、かれが身もおのづからをさまりなんとて、あまねく国中くになかをもとむるに、幸に媒氏なかうどありていふ。二一吉備津きびつ神主かんざね香央造酒かさだみき女子むすめは、うまれだち秀麗みやびやかにて、父母にもよく仕へ、かつ歌をよみ、二二ことたくみなり。従来もとよりかの家は二三吉備の鴨別かもわけすゑにて家系すぢめも正しければ、君が家に二四ちなみ給ふは二五はた吉祥よきさがなるべし。此の事のらんは二六老が願ふ所なり。二七大人うし心いかにおぼさんやといふ。庄太夫大いによろこび、二八よくも説かせ給ふものかな。此の事我が家にとりて二九千とせのはかりごとなりといへども、香央かさだは此の国の貴族にて、我は氏なき三〇田夫でんぷなり。三一てきすべからねば、おそらくはうけがひ給はじ。媒氏なかだちの翁ゑみをつくりて、大人うしくだり給ふ事甚し。我かならず三二万歳をうたふべしと、きて香央に説けば、彼方かなたにもよろこびつつ、妻なるものにもかたらふに、妻もいさみていふ。我が女子むすめ既に十七歳になりぬれば、朝夕に三三よき人がなあはせんものをと、心も三四おちゐはべらず。はやく日をえらみて三五聘礼しるしれ給へと、あながちにすすむれば、盟約ちかひすでになりて、井沢にかへりごとす。やが聘礼しるしを厚くととのへて送りれ、三六よき日をとりて婚儀ことぶき三七もよほしけり。
 (なほ)さいはひを神に祈るとて、三八巫子かんなぎ祝部はふりを召しあつめて、三九御湯みゆをたてまつる。そもそも当社に祈誓いのりする人は、四〇数の祓物はらへつものそなへて御湯みゆを奉り、吉祥よきさが凶祥あしきさがうらなふ。巫子かんなぎ祝詞のつとをはり、湯の沸上わきあがるにおよびて、吉祥よきさがには釜の鳴るこゑ牛のゆるが如し。あしきは釜に音なし。是を吉備津の御釜祓みかまばらひといふ。さるに香央かさだが家の事は、神の四一けさせ給はぬにや、只秋の虫のくさむらにすだくばかりの声もなし。ここにうたがひをおこして、此のさがを妻にかたらふ。妻四二更に疑はず。御釜の音なかりしは、祝部等はふりたちが身の清からぬにぞあらめ。既に聘礼しるしを納めしうへ、かの四三赤縄せきじようつなぎては、あたある家、ことなるくになりともふべからずと聞くものを。ことに井沢は四四弓の本末もとすゑをもしりたる人のすゑにて、四五掟ある家と聞けば、今いなむともうけがはじ。ことに四六佳婿むこがねあてなるをほの聞きて、我がも日をかぞへて待ちわぶる物を、今のよからぬことを聞くものならば、四七不慮すずろなる事をや仕出(しい)ださん。其のとき悔ゆるともかへらじと、ことばつくしていさむるは、まことに女の四八こころばへなるべし。香央も従来もとよりねがふちなみなれば深く疑はず、妻のことばにきて、婚儀ことぶきととのひ、両家の親族氏族うからやから四九鶴の千とせ、亀の万代よろづよをうたひことぶきけり。
 香央かさだ女子むすめ磯良いそら、かしこにきてより、つとき、おそく臥して、常に舅姑おやおやかたへを去らず、五〇をつとさがをはかりて、心を尽して仕へければ、井沢夫婦は五一孝節をでたしとてよろこびにへねば、正太郎も其の志にでてむつまじくかたらひけり。されど五二おのがままの※(「(女/女)+干」、第4水準2-5-51)たはけたるさがはいかにせん。いつの(ころ)より五三ともの津の袖といふ五四妓女あそびものにふかくなじみて、つひ五五あがなひ出し、ちかき里に別荘べつやをしつらひ、かしこに日をかさねて家にかへらず。磯良これをうらみて、或ひは舅姑おやおや忿いかり五六せていさめ、或ひはあだなる心をうらみかこてども、五七大虚おほぞらにのみ聞きなして、後は五八月をわたりてかへり来らず。父は磯良が五九切なる行止ふるまひを見るに忍びず、正太郎を責めて押籠おしこめける。磯良これを悲しがりて、六〇朝夕のつぶねことまめやかに、かつ袖が方へもひそかに物をおくりて、まことのかぎりをつくしける。
 一日あるひ父が宿にあらぬひまに、正太郎磯良を六一かたらひていふ。御許おもとまことあるみさをを見て、今はおのれが身の罪をくゆるばかりなり。かの女をも古郷ふるさとに送りてのち、父の六二おもてなごめ奉らん。六三かれは播磨の六四印南野いなみのの者なるが、親もなき身の六五浅ましくてあるを、いと六六かなしく思ひてあはれをもかけつるなり。我に捨てられなば、はた六七船泊ふなとまりの妓女うかれめとなるべし。おなじ六八浅ましきつぶねなりとも、みやこは人の情もありと聞けば、かれをば京に送りやりて、六九よしある人に仕へさせたく思ふなり。我かくてあればよろづに貧しかりぬべし。七〇みちしろ、身にまとふ物も、誰が七一はかりごとしてあたへん。七二御許おもと此の事をよくしてかれを恵み給へと、ねんごろに七三あつらへけるを、磯良いともうれしく、此の事安くおぼし給へとて、ひそかにおのが衣服調度を金に貿へ、(なほ)香央かさだの母がもとへもいつはりて金をひ、正太郎に与へける。此の金を得てひそかに家をのがれ出で、袖なるものをして、みやこの方へ逃げのぼりける。かくまでたばかられしかば、今はひたすらにうらみ歎きて、つひに重き病に臥しにけり。井沢香央の人々、七四かれにくこれかなしみて、もは七五しるしをもとむれども、七六ものさへ日々にすたりて、よろづにたのみなくぞ見えにけり。
 ここに播磨の国印南郡いなみのこほり七七荒井あらゐの里に、彦六といふ男あり。かれは袖とちかき従弟いとこちなみあれば、先づこれをとぶらうて、しばらく足を休めける。彦六、正太郎にむかひて、みやこなりとて七八人ごとにたのもしくもあらじ。ここにとどまられよ。七九ぱんをわけて、ともに過活わたらひのはかりごとあらんと、たのみある詞に心おちゐて、ここに住むべきに定めける。彦六、我が住むとなりなる破屋あれやをかりて住ましめ、友得たりとてよろこびけり。しかるに袖、八〇風のここちといひしが、八一何となくなやみ出でて、八二鬼化もののけのやうに狂はしげなれば、ここに来りて幾日もあらず、此のわざはひかかる悲しさに、八三みづからもものさへわすれて八四いだたすくれども、只八五をのみ泣きて、八六むねせまへがたげに、八七さむれば常にかはるともなし。八八窮鬼いきすだまといふものにや、八九古郷ふるさとに捨てし人のもしやと九〇ひとりむね苦し。彦六これをいさめて、いかでさる事のあらん。九一えきといふものの悩ましきはあまた見来りぬ。九二あつき心少しさめたらんには、夢わすれたるやうなるべしと、やすげにいふぞたのみなる。みる々露ばかりのしるしもなく、七日にしてむなしくなりぬ。そらを仰ぎ、地をたたきて哭悲なきかなしみ、九三ともにもと物狂はしきを、さまざまといひなぐさめて、かくてはとてつひ九四曠野あらのけぶりとなしはてぬ。ほねをひろひ※(「土へん+龍」、第3水準1-15-69)つかきて九五塔婆たふばいとなみ、僧を迎へて菩提ぼだいのことねんごろにとぶらひける。
 正太郎今はして九六黄泉よみぢをしたへども九七招魂せうこんの法をももとむる方なく、仰ぎて古郷ふるさとをおもへば、かへりて地下ちかよりも遠きここちせられ、九八前にわたりなく、うしろみちをうしなひ、昼は九九しみらに打して、よひ々ごとには※(「土へん+龍」、第3水準1-15-69)つかのもとにまうでて見れば、小草はやくもしげりて、虫のこゑすずろに悲し。一〇〇此の秋のわびしきは我が身ひとつぞと思ひつづくるに、一〇一天雲あまぐものよそにも同じなげきありて、ならびたる※(「土へん+龍」、第3水準1-15-69)あらづかあり。ここに詣づる女の、世にも悲しげなるさまして、花をたむけ水をそそぎたるを見て、あな哀れ、わかき御許おもとのかく一〇二気疎けうときあら野にさまよひ給ふよといふに、女かへり見て、我が身よひ々ごとに詣ではべるには、一〇三殿はかならずさきに詣で給ふ。一〇四さりがたき御方に別れ給ふにてやまさん。御心のうち一〇五はかりまゐらせて悲しと潸然さめざめとなく。正太郎いふ。一〇六さる事に侍り。十日ばかりさきに一〇七かなしきつまうしなひたるが、一〇八世に残りてたのみなく侍れば、ここに詣づることをこそ一〇九やりにものし侍るなれ。御許おもとにも一一〇さこそましますなるべし。女いふ。かく詣でつかうまつるは、一一一たのみつる君の御あとにて、いついつの日ここにはうむり奉る。家に残ります一一二女君のあまりに嘆かせ給ひて、此の頃は一一三むつかしき病にそませ給ふなれば、かくかはりまゐらせて、香花をはこび侍るなりといふ。正太郎云ふ。一一四刀自とじの君の病み給ふもいとことわりなるものを。そも一一五ふる人は何人にて、家は何地いづちに住ませ給ふや。女いふ。たのみつる君は、此の国にては一一六由縁ゆゑある御方なりしが、人のさかしらにあひてしる所をも失ひ、今は此の野のくまわびしくて住ませ給ふ。女君は一一七国のとなりまでも聞え給ふ美人かほよびとなるが、一一八此の君によりてぞ家所領しよりやうをもくし給ひぬれとかたる。此の物がたりに一一九心のうつるとはなくて、一二〇さてしもその君のはかなくて住ませ給ふはここちかきにや。とぶらひまゐらせて、同じ悲しみをも一二一かたりなぐさまん。一二二し給へといふ。家は殿の来らせ給ふ道の一二三すこし引き入りたる方なり。一二四便りなくませば時々をりをりはせ給へ。一二五待ち侘び給はんものをとさきに立ちてあゆむ。
 一二六二丁あまりを来てほそきみちあり。ここよりも一丁ばかりをあゆみて、一二七をぐらき林のうちにちひさき一二八草屋かやのやあり。竹のとぼそのわびしきに、七日あまりの月のあかくさし入りて、一二九ほどなき庭の荒れたるさへ見ゆ。ほそき灯火ともしびの光窓の紙をもりてうらさびし。ここに待たせ給へとて内に入りぬ。こけむしたる古井のもとに立ちて見入るに、唐紙からかみすこし明けたるひまより、一三〇火影ほかげ吹きあふちて、一三一黒棚のきらめきたるもゆかしく覚ゆ。女(い)で来りて、御とぶらひのよし申しつるに、入らせ給へ、一三二物隔ててかたりまゐらせんと、はしの方へ膝行ゐざり出で給ふ。彼所かしこに入らせ給へとて、一三三前栽せんざいをめぐりて奥の方へともなひ行く。一三四二間の客殿を人の入るばかり明けて、低き屏風を立て、古きふすまはし出でて、あるじはここにありと見えたり。正太郎かなたに向ひて、一三五はかなくて病にさへそませ給ふよし。おのれも一三六いとほしき妻をうしなひて侍れば、おなじ悲しみをも一三七問ひかはしまゐらせんとて、一三八して詣で侍りぬといふ。あるじの女、屏風すこし引きあけて、めづらしくもあひ見奉るものかな。一三九つらきむくいの程しらせまゐらせんといふに、驚きて見れば、古郷ふるさとに残せし磯良いそらなり。顔の色いと青ざめて、一四〇たゆきまなこすざましく、我をしたる手の青くほそりたる恐ろしさに、一四一あなやと叫んでたふれ死す。
「正太郎が未亡人を訪ねた図」のキャプション付きの図
正太郎が未亡人を訪ねた図。未亡人は実は磯良の怨霊で、屏風すこし引きあけて、「めづらしくもあひ見奉るものかな。つらき報いの程しらせまゐらせん」という。正太郎は「あなや」と叫んで倒れた。(原本十三丁裏、十四丁表の挿絵)

 時うつりて生出いき(い)づ。をほそくひらき見るに、家と見しはもとありし荒野あらの一四二まい堂にて、黒き仏のみぞ立たせまします。一四三里遠き犬の声を力に、家に走りかへりて、彦六にしかじかのよしをかたりければ、一四四なでふ狐にあざむかれしなるべし。心のおくれたるときはかならず一四五まよはし神のおそふものぞ。足下そこのごとく虚弱たよわき人のかくうれひに沈みしは、神仏に祈りて一四六心ををさめつべし。一四七刀田とださとにたふとき一四八陰陽師おんやうじのいます。一四九身禊みそぎして一五〇厭符えんぷをもいただき給へと、いざなひて陰陽師の許にゆき、はじめよりつばらにかたりて此のうらをもとむ。陰陽師うらかうがへていふ。わざはひすでに一五一せまりてやすからず。さきに一五二女の命をうばひ、うらみ(なほ)きず。足下そこの命も旦夕あさゆふにせまる。此の一五三鬼世をさりぬるは七日さきなれば、一五四今日より四十二日が間、戸をてて一五五おもき物いみすべし。我がいましめを守らば一五六九死を出でてまつたからんか。一五七一時をあやまるともまぬがるべからずと、かたくをしへて、筆をとり、正太郎がより手足におよぶまで、一五八篆籀てんりうのごとき文字を書き、猶一五九朱符しゆふあまた紙にしるしてあたへ、此の一六〇じゆを戸ごとして神仏を念ずべし。あやまちして身をほろぶることなかれと教ふるに、一六一恐れみかつよろこびて家にかへり、朱符を門にし、窓に貼して、おもき物斎にこもりける。
 其の夜一六二かう(ころ)、おそろしきこゑして、あなにくや、ここにたふとき一六三符文ふもんを設けつるよとつぶやきて、ふたたび声なし。おそろしさのあまりに長き夜を一六四かこつ。程なく夜明けぬるに一六五いき出でて、急ぎ彦六が方の壁をたたきてよべの事をかたる。彦六もはじめて陰陽師が詞を一六六なりとして、おのれも其の夜は(い)ねずして三更の(ころ)を待ちくれける。松ふく風物をたふすがごとく、雨さへふりて一六七ただならぬ夜のさまに、壁を隔てて声をかけあひ、既に一六八四更にいたる。一六九下屋しもやの窓の紙にさと赤き光さして、あなにくや、ここにもしつるよといふ声、深き夜にはいとどすざましく、かみ一七〇生毛うぶげもことごとく聳立そばだちて、しばらくはりたり。明くれば夜のさまをかたり、暮るれば明くるを慕ひて、一七一此の月日頃千歳ちとせを過ぐるよりも久し。かの鬼も夜ごとに家をめぐり、或は屋のむねに叫びて、忿いかれる声一七二夜ましにすざまし。
 かくして四十二日といふ其の夜にいたりぬ。今は一七三一夜にみたしぬれば、ことつつしみて、一七四やや五更のそらもしらじらと明けわたりぬ。長き夢のさめたる如く、やがて彦六をよぶに、一七五壁によりていかにと答ふ。おもき物いみも既にてぬ。絶えて兄長このかみおもてを見ず。なつかしさに、かつ此の月頃のおそろしさを心のかぎりいひなぐさまん。ねぶりさまし給へ。我もの方に出でんといふ。彦六一七六用意なき男なれば、今は何かあらん、いざこなたへわたり給へと、戸を明くる事なかばならず、となりの軒にあなやと叫ぶ声耳をつらぬきて、思はず一七七尻居しりゐに座す。こは一七八正太郎が身のうへにこそと、をのげて大路おほぢに出づれば、一七九明けたるといひし夜はいまだくらく、一八〇月は中天なかぞらながら影らう々として、風ひややかに、さて正太郎が戸は明けはなして其の人は見えず。内にや逃げ入りつらんと走り入りて見れども、一八一いづくにかくるべき住居にもあらねば、大路にや倒れけんともとむれども、其のわたりには物もなし。いかになりつるやと、あるひはあやしみ、或は恐る恐る、一八二ともし火をかかげてここかしこを見めぐるに、明けたる戸腋とわきの壁に一八三なま々しきそそぎ流れて地につたふ。されどしかばねほねも見えず。月あかりに見れば、軒のつまにものあり。ともし火を一八四ささげて照し見るに、男の髪の一八五もとどりばかりかかりて、外には一八六露ばかりのものもなし。浅ましくもおそろしさは、一八七筆につくすべうもあらずなん。夜も明けてちかき野山をさがしもとむれども、つひに一八八其の跡さへなくてやみぬ。
 此の事井沢が家へもいひおくりぬれば、涙ながらに香央にも告げしらせぬ。されば陰陽師が一八九うらのいちじるき、一九〇御釜みかま凶祥あしきさがもはたたがはざりけるぞ、いともたふとかりけるとかたり伝へけり。

一 岡山県岡山市の吉備津神社に伝わる御釜祓いの神事。
二 嫉妬ぶかい女はとかく手におえないものだが。五雑組、巻八「人有妬婦嘲者……故諺有曰、到老方知妬婦功」。
三 家業を妨げ。
四 隣近所からのそしり。
五 嫉妬の害毒。
六 蛇に似た想像上の動物。ここはおろちをいう。
七 すごい雷をならして。
八 肉の塩辛。肉醤。
九 妻を教導したならば。
一〇 ちょっとした浮気。
一一 嫉妬ぶかい性質。
一二 鳥類を制して動けないようにするのは気合による。五雑組、巻八「禽之制在気、然則婦之制夫固有於勇力之外矣」。
一三 岡山県岡山市庭瀬。
一四 白旗城に拠った赤松氏。兵庫県上郡町にあった。
一五 一四四一年。赤松満祐が将軍足利義教を殺害した事件。
一六 赤松氏の居城白旗城。
一七 農業を生業として。「荀子」王制「春耕、夏耘、秋収、冬蔵、四者不時、故五穀不絶而百姓有余食也」。
一八 いいつけ。命令。
一九 ああどうか。
二〇 結婚させたならば。
二一 備中の一の宮、吉備津神社の神主。
二二 十三絃の「こと」。
二三 「日本書記[#「日本書記」はママ]」応神二二年に見える吉備臣の一族、笠臣の祖。
二四 縁組をなさることは。
二五 きっと。
二六 媒酌人の自称。
二七 相手に対する尊称。
二八 いいことをきかせて下さったものです。
二九 家運長久のもとい。
三〇 身分卑しい農民。
三一 家柄がつりあわないから。翠々伝「門戸甚不敵」。
三二 うまくまとめて結婚という運びに致しましょう。
三三 いい相手があったら嫁入りさせたいものだ。
三四 心のやすまるひまもない。
三五 結納をとりかわす。
三六 吉日をえらんで。
三七 とり行なうことになった。
三八 ともに神職で、巫子はおもに女のみこ、祝部は禰宜の下の位。
三九 神前に御湯を供えて御釜祓の神事を行なう。
四〇 数多くのお供物。
四一 御嘉納にならないのであろうか。
四二 いっこう。ちっとも。
四三 夫婦の縁を結んだうえは。幽怪録「問嚢中赤縄、云、繋夫婦之足、雖仇家異域、此縄一繋終不易」。
四四 ほまれある武門の後裔で。
四五 厳格な家風の家。
四六 婿になるべき人。
四七 とんでもないこと。
四八 母親の立場からした心持であろう。
四九 新夫婦の契りの末長からんことを祝った。淮南子「鶴千歳極其遊、亀経万歳齢」。
五〇 夫の性質をのみこんでそれに順応するように。
五一 舅姑に仕えて孝行であり、夫にかしずいて貞節であるのを感心だとして。
五二 生来のわがままで放蕩な性質。
五三 広島県福山市の港で、古来瀬戸内海の要港。庭瀬の西南六〇余キロ。
五四 遊女。
五五 身請けして。
五六 かこつけて。
五七 まったくうわのそらにききながして。
五八 ひと月以上も。
五九 真心こめた誠実なふるまい。
六〇 朝夕の仕え。奴は忠実に仕えること。
六一 説いて味方にひきいれる。手なずけて。
六二 いかりをなだめやわらげよう。
六三 袖をさす。
六四 兵庫県の加古川と明石川の間の平野で、稲美町付近が中心。歌枕。
六五 身分卑しく不幸な境遇。
六六 かわいそうに思って。
六七 港町の遊女。
六八 卑しい勤めの身。
六九 ちゃんとした身分のある人。
七〇 旅費と衣類。
七一 工面して。都合して。
七二 そなた。
七三 注文して頼む。
七四 正太郎をにくみ、磯良をあわれんで。
七五 医者にかけてその効験をねがいもとめたが。
七六 粥さえだんだんのどをとおらなくなって。
七七 兵庫県高砂市の一部。庭瀬からは東八〇余キロ。
七八 みんながみんな。
七九 一つ釜の飯をわけあって、協力して暮しの工夫をしようではないか。
八〇 風邪の気味。
八一 何ということなくわずらい出して。
八二 もののけでもついたように。
八三 正太郎をさす。
八四 介抱する。看病する。
八五 声をあげて泣くばかりで。
八六 胸がさしこんできて、たえられない様子で。
八七 熱がひき、発作がやむと。
八八 生霊・怨霊というもののたたりであろうか。
八九 磯良がもしかしたら怨霊となってたたりをしているのではなかろうか。
九〇 正太郎はひとりで胸をいためる。
九一 流行病。ここではおこりなどをさす。
九二 熱気がすこしさめたらば。
九三 自分もともに死にたいと狂気のようになっているのを。
九四 野辺に送って火葬にしてしまった。
九五 卒塔婆をたて。
九六 亡き袖のいる冥途を慕ったが。
九七 中国古代にはじまる俗信で、死者の霊魂をこの世によびもどす法。
九八 前に進もうとすれば渡し舟がなく、後に退こうとすれば道がわからなく、進退きわまって途方にくれる状態。
九九 ひねもす。終日。
一〇〇 古今集四「月みれば千々にものこそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど」。
一〇一 「よそ」の枕詞。
一〇二 人気のないさびしい荒野。
一〇三 男子に対する敬称。
一〇四 はなれがたい方。肉親。愛する方。
一〇五 御推量申しあげて。
一〇六 さようでございます。
一〇七 いとしい妻。
一〇八 私ひとり生きのこって頼りなく心細い。
一〇九 せめてもの心の慰めとしているのです。
一一〇 同じような事情がおありなのでございましょうね。
一一一 御主人様のお墓で。
一一二 奥方。死んだ人の未亡人。
一一三 重い病気におかかりになられたので。
一一四 一家の主婦。奥方。
一一五 なくなった方。
一一六 由緒ある家柄の御方。
一一七 隣国にまで評判の高い。
一一八 この奥方のことが原因で。
一一九 生来の浮気心がきざしたというわけではないが、何となくひかれて。
一二〇 「さて」を強めた語。
一二一 はなしあってお互いに心の憂さをなぐさめよう。
一二二 一緒につれていって下さい。
一二三 少し横に入った方。
一二四 奥方は頼る方を失って心細くいらっしゃいますから。
一二五 きっとお待ちかねでいらっしゃいましょうよ。
一二六 約二一八メートル。
一二七 薄暗い。
一二八 茅ぶき屋根の家。
一二九 広くもない。狭い。
一三〇 ともしびの光が風に吹きあおられて。
一三一 黒塗りの違い棚。立派な調度である。
一三二 古くは身分ある女性が男子とあう時には、几帳や簾、屏風などを隔ててあうのが礼儀であり、習慣であった。
一三三 植えこみのある前庭。
一三四 柱と柱の間を一間という。
一三五 御主人に先だたれて頼りなくなられたうえに。
一三六 愛妻。
一三七 たずねたりたずねられたりして心を慰めあおうと思って。
一三八 たって参上いたしました。
一三九 ひどい仕打ちにたいする返報がどんなものか思いしらせてあげよう。
一四〇 力なくどろんとした眼。
一四一 キャーッとか、あれえとかいう悲鳴。
一四二 ここは墓地にある慰霊堂。
一四三 遠い人里で吠える犬の声。
一四四 なあに多分狐にだまされたのだろう。
一四五 人を迷わす神がとりつくものだ。
一四六 心をしずめおちつけたがよい。
一四七 兵庫県加古川市北在家付近。刀田山鶴林寺がある。荒井からは東約四キロ。
一四八 ここは占師、加持祈祷師。
一四九 身心をきよめて。
一五〇 魔よけのお守札。
一五一 身辺近く切迫していて容易なことではない。
一五二 袖をさす。
一五三 磯良の怨霊をさす。
一五四 死後四九日の間は霊魂が彼岸へ行かずに中有をさまよっているという仏教の説。
一五五 厳重な謹慎。
一五六 九死に一生を得ることができるかもしれない。
一五七 たとえ一時たりともこの戒めを破ったならば、死を免れないであろう。
一五八 籀文と篆書で、中国古代の書体。
一五九 朱で書いたお守札。
一六〇 まじない札。
一六一 一方では恐れ、また一方ではよろこんで。
一六二 午前零時―二時。
一六三 お守札。
一六四 なげく。
一六五 蘇生した思いで。
一六六 的中したことをいかにも不思議だと思って。
一六七 何か異常なことがおこりそうな不気味な夜の気配。
一六八 午前二時―四時。
一六九 身分低い者などが住む家。ここは破屋。正太郎の家。
一七〇 身の毛もよだって。
一七一 この数十日間というものは、まるで千年をすごすよりも長く思われた。
一七二 一晩ますごとに。
一七三 今夜一夜で物忌みの期間も終るところまできたので。
一七四 しばらくするうちに。
一七五 壁に身を寄せて。
一七六 思慮分別の浅い男。軽はずみなうかつ者。
一七七 尻もちをつく。
一七八 正太郎の身の上に異変が起ったに違いない。
一七九 さっき正太郎が夜が明けたと思ったのは、怨霊にだまされたのである。
一八〇 月は中空にありながら、その光りはぼんやりとおぼろで。
一八一 どこにもかくれることのできるような広い住居でもないので。
一八二 灯火を振って明るくして。
一八三 鮮血。
一八四 高くさしあげて。
一八五 髪を頭の頂で束ねた部分。たぶさ。
一八六 なにひとつない。
一八七 とても書きつくせないほどである。
一八八 形跡さえ見つからなくて、そのままに終った。
一八九 占いがよく的中したこと。
一九〇 御釜祓の凶兆のお告げもはたしてそのまま事実となってあらわれたことは。
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雨月物語 巻之四



蛇性じやせいいん

 いつの時代ときよなりけん。紀の国三輪が崎に、大宅おほやの竹助といふ人在りけり。此の人海のさちありて、海郎あまどもあまた養ひ、はたひろき物をつくしてすなどり、家豊かに暮しける。男子をのこご二人、女子むすめ一人をもてり。太郎は質朴すなほにてよく生産なりはひを治む。二郎の女子は大和の人のつまどひ[#「女+聚」、U+218DE、271-7]に迎へられて、彼所かしこにゆく。三郎の豊雄とよをなるものあり。生長ひととなりやさしく、常に都風みやびたる事をのみ好みて、過活わたらひ心なかりけり。父是をうれひつつ思ふは、家財たからをわかちたりともやが人の物となさん。さりとて一〇他の家をがしめんも、はた一一うたてき事聞くらんが一二やましき。只一三なすままにおほし立てて、一四博士はかせにもなれかし、一五法師にもなれかし、一六命のかぎりは太郎が一七ほだし物にてあらせんとて、ひて一八おきてをもせざりけり。此の豊雄、一九新宮の二〇神奴かんづこ安倍あべ弓麿ゆみまろを師として行き通ひける。
 九月ながつき下旬すゑつかた、けふはことに二一なごりなくぎたる海の、にはか二二東南たつみの雲をおこして、小雨こさめそぼふり来る。師が許にて二三おほがさかりて帰るに、二四飛鳥あすか二五神秀倉かんほぐら見やらるるほとりより、雨もややしきりなれば、其所そこなる海郎あまが屋に立ちよる。あるじのおきなはひ出でて、こは二六大人うし弟子おとごの君にてます。かく二七あやしき所に入らせ給ふぞいとかしこまりたる事。是敷きて奉らんとて、二八円座わらふだきたなげなるを二九清めてまゐらす。三〇霎時しばしむるほどは何かいとふべき。なあわただしくせそとてやすらひぬ。の方にうるはしき声して、此の軒しばし恵ませ給へといひつつ入り来るを、あやしと見るに、年は廿はたちにたらぬ女の、顔容かほかたち三一かみのかかりいとにほひやかに、三二遠山ずりの色よききぬて、三三※(「Y」に似た字、第4水準2-1-6)わらはの十四五ばかりの清げなるに、包みし物もたせ、三四しとどにれて三五わびしげなるが、豊雄を見て、おもてさと打ち赤めて恥かしげなるさまあてやかなるに、三六不慮すずろに心うごきて、かつ思ふは、此のあたりにかうよろしき人の住むらんを今まで聞えぬ事はあらじを、は都人の三七三つ山まうでせしついでに、海めづらしくここに遊ぶらん。さりとて三八男だつ者もつれざるぞいと三九はしたなるわざかなと思ひつつ、すこし身退しりぞきて、ここに入らせ給へ。雨もやがてぞみなんといふ。女、しばしゆるさせ給へとて、四〇ほどなき住ひなれば、四一ついならぶやうに居るを、見るに四二ちかまさりして、此の世の人とも思はれぬばかり美しきに、四三心もそらにかへる思ひして、女にむかひ、四四あてなるわたりの御方とは見奉るが、三つ山まうでやし給ふらん。四五みね温泉にや出で立ち給ふらん。かう四六すざましき荒礒ありそを何の見所ありて四七りくらし給ふ。ここなんいにしへの人の、

四八くるしくもふりくる雨か三輪が崎
    佐野のわたりに家もあらなくに

とよめるは、まこと四九けふのあはれなりける。此の家あやしけれど、おのれが親の五〇目かくる男なり。五一心ゆりて雨め給へ。そもいづ旅の御宿やどりとはし給ふ。御見送りせんもかへりて無礼なめげなれば、此のかさもて出で給へといふ。女、いとうれしき御心を五二聞え給ふ。五三其の思ひにしてまゐりなん。都のものにてもあらず、此の近き所に年来としごろ住みこしはべるが、けふなんよき日とて五四那智なちまうで侍るを、にはかなる雨の恐ろしさに、やどらせ給ふともしらで、五五わりなくも立ちよりて侍る。ここより遠からねば、此の小休をやみに出で侍らんといふを、五六あながちに此のかさもていき給へ。五七いつ便たよりにも求めなん。雨は五八更にみたりともなきを。さて御住ひはいづぞ。是より五九使奉らんといへば、新宮のほとりにてあがた真女児まなごが家はと尋ね給はれ。日も暮れなん。御めぐみのほどを六〇指戴さしいただきて帰りなんとて、傘とりて出づるを、六一見送りつも、あるじが蓑笠みのかさかりて家に帰りしかど、(なほ)おもかげ六二露忘れがたく、しばしまどろむあかつきの夢に、かの真女児が家に尋ねいきて見れば、門も家もいと大きに造りなし、六三しとみおろし六四すだれれこめて、ゆかしげに住みなしたり。真女子出迎ひて、御なさけわすれがたく待ち恋ひ奉る。此方こなたに入らせ給へとて、奥の方にいざなひ、酒菓子くだもの種々さまざま管待もてなしつつ、うれしきゑひごこちに、つひに枕をともにしてかたるとおもへば、夜明けて夢さめぬ。六五うつつならましかばと思ふ心の六六いそがしきに、朝食あさげも打ち忘れて六七うかれ出でぬ。
 新宮のさとに来て、あがた真女子まなごが家はと尋ぬるに、さらにしりたる人なし。
 六八午時ひるかたぶくまで尋ねわづらひたるに、かの※(「Y」に似た字、第4水準2-1-6)わらは東の方よりあゆみ来る。豊雄見るより大いに喜び、六九娘子をとめの家はいづくぞ。かさもとむとて尋ね来るといふ。※(「Y」に似た字、第4水準2-1-6)鬟打ちゑみて、よくも来ませり。こなたに歩み給へとて、さきに立ちてゆくゆく、幾ほどもなく、ここぞと聞ゆる所を見るに、門高くつくりなし、家も大きなり。しとみおろしすだれたれこめしまで、夢のうちに見しと露たがはぬを、あやしと七〇思ふ思ふ門に入る。※(「Y」に似た字、第4水準2-1-6)鬟走り入りて、七一おほがさのぬしまうで給ふをいざなひ奉るといへば、いづにますぞ、こち迎へませといひつつ立ち出づるは真女子なり。豊雄、七二ここに安倍あべ大人うしとまうすは、年来としごろ七三まなぶ師にてます。彼所かしこに詣づる便に、傘とりて帰るとて七四推して参りぬ。御住居見おきて侍れば、又こそ詣でんといふを、真女子あながちにとどめて、七五まろや、七六ゆめ出し奉るなといへば、※(「Y」に似た字、第4水準2-1-6)鬟立ちふたがりて、おほがさひて恵ませ給ふならずや。がむくいに強ひてとどめまゐらすとて、腰を押して七七南面みなみおもての所に迎へける。板敷の間に七八床畳とこだたみを設けて、七九几帳きちやう八〇御厨子みづしかざり八一壁代かべしろの絵なども、皆古代こだいのよき物にて、八二なみの人の住居ならず。真女子立ち出でて、故ありて八三人なき家とはなりぬれば、八四まめやかなる御饗みあへもえし奉らず。只八五薄酒うすきさけ一杯ひとつぎすすめ奉らんとて、八六高坏たかつき平坏ひらつきの清らなるに、海の物山の物りならべて、八七瓶子へいじ土器かはらけ※(「敬/手」、第3水準1-84-92)ささげて、まろや酌まゐる。豊雄また夢心して、さむるやと思へど、まさうつつなるをかへりてあやしみゐたる。
 まらうどあるじもともにゑひごこちなるとき、真女子まなごさかづきをあげて、豊雄にむかひ、八八花精妙はなぐはし桜が枝の水に八九うつろひなすおもてに、春吹く風を九〇あやなし、こずゑ九一たちぐく(うぐひす)九二にほひある声していひ出づるは、九三おもなきことのいはでみなんも、九四いづれの神になき名おふすらんかし。九五ゆめあだなることにな聞き給ひそ。もとは都のうまれなるが、父にも母にもはやうわかれまゐらせて、乳母めのともと成長ひととなりしを、此の国の九六受領じゆりやう下司したづかさあがた何某なにがしに迎へられてともなくだりしははやく三とせになりぬ。つま九七にんはてぬ此の春、かりそめのやまひに死し給ひしかば、便なき身とはなり侍る。都の乳母めのとあまになりて、行方ゆくへなき修行しゆぎやうに出でしと聞けば、九八彼方かなたも又しらぬ国とはなりぬるをあはれみ給へ。きのふの雨のやどりの御めぐみに、まことある御方にこそと九九おもふ物から、一〇〇今より後のよはひをもて一〇一御宮づかへし奉らばやと願ふを、一〇二きたなき物に捨て給はずば、此の一杯ひとつぎ一〇三千とせの契をはじめなんといふ。豊雄、もとよりかかるをこそと一〇四みだれ心なる思ひ妻なれば、一〇五ねぐらの鳥の飛び立つばかりには思へど、一〇六おのが世ならぬ身をかへりみれば、親兄弟はらからのゆるしなき事をと、かつうれしみ、かつ恐れみて、とみに答ふべき詞なきを、真女児一〇七わびしがりて、女の浅き心より、一〇八嗚呼をこなる事をいひ出でて、一〇九帰るべき道なきこそおもなけれ。かう浅ましき身を海にもらで、人の御心をわづらはし奉るはつみ深きこと。今の詞はあだならねども、只酔ごこちの一一〇狂言まがことにおぼしとりて、ここの海にすて給へかしといふ。
 豊雄、はじめより都人のあてなる御方とは見奉るこそ一一一かしこかりき。一一二鯨よる浜に生立おひたちし身の、かくうれしきこと一一三いつかは聞ゆべき。一一四やがての御こたへもせぬは、親兄に仕ふる身の、おのが物とては爪髪つめかみの外なし。何を一一五ろくに迎へまゐらせん便もなければ、身の一一六徳なきをくゆるばかりなり。何事をもおぼしへ給はば、いかにもいかにも後見うしろみし奉らん。一一七孔子くしさへ倒るる恋の山には、孝をも身をも忘れてといへば、いとうれしき御心を聞きまゐらするうへは、貧しくとも時々をりをりここに一一八住ませ給へ。ここにさきつま一一九ふたつなきたからにめで給ふ一二〇おびあり。これ常にかせ給へとてあたふるを見れば、金銀きがねしろがねかざりたる太刀たちの、一二一あやしきまできたうたる古代の物なりける。一二二物のはじめにいなみなんは一二三さがあしければとて、とりてをさむ。今夜こよひはここにあかさせ給へとて、一二四あながちにとどむれど、まだ一二五ゆるしなき旅寝は、親の一二六つみし給はん。あすの夜よく一二七いつはりてまうでなんとて出でぬ。其の夜も一二八ねがてに明けゆく。
 太郎は一二九網子あごととのふるとて、一三〇つとめて起き出でて、豊雄が閨房ねやの戸のひまをふと見入れたるに、え残りたる灯火ともしびの影に、輝々きらきらしき太刀たちを枕に置きて臥したり。あやし。一三一いづちより求めぬらんと一三二おぼつかなくて、戸をあららかに明くる音に目さめぬ。太郎があるを見て、召し給ふかといへば、輝々きらきらしき物を枕に置きしは何ぞ。あたひたかき物は海人あまの家にふさはしからず。父の見給はばいかにつみし給はんといふ。豊雄、一三三たからつひやして買ひたるにもあらず。きのふ一三四人のさせしをここに置きしなり。太郎、いかでさる宝をくるる人此のあたりにあるべき。一三五あなむつかしの唐言からこと書きたる物を買ひたむるさへ、一三六世のつひえなりと思へど、父のだまりておはすれば、今までもいはざるなり。其の太刀帯びて一三七大宮おほみやの祭を※(「二点しんにょう+黎」、第4水準2-90-3)るやらん。一三八いかに物に狂ふぞ、といふ声の高きに、父聞きつけて、一三九徒者いたづらものが何事をか仕出(しい)でつる。ここにつれよ太郎と呼ぶに、いづちにて求めぬらん、軍将等いくさぎみたちき給ふべき輝々しき物を買ひたるはよからぬ事、御のあたりに召して一四〇問ひあきらめ給へ。おのれは網子あごどもの一四一怠るらんと云ひ捨てて出でぬ。
 母、豊雄を召して、さる物一四二何のれうに買ひつるぞ。米も銭も太郎が物なり。一四三吾主わぬしが物とて何をか持ちたる。日来ひごろ一四四すままにおきつるを、かくて太郎ににくまれなば、天地あめつちの中に何国いづくに住むらん。かしこき事をも学びたる者が、など是ほどの事一四五わいためぬぞといふ。豊雄、まことに買ひたる物にあらず。一四六さる由縁ゆゑ有りて人のさせしを、兄の見とがめてかくのたまふなり。父、何の一四七ほまれありてさる宝をば人のくれたるぞ。一四八更におぼつかなき事。只今所縁いはれかたり出でよとののしる。豊雄、此の事只今は一四九面俯おもてぶせなり。人つてに申し出で侍らんといへば、親兄にいはぬ事を誰にかいふぞと声あららかなるを、太郎の嫁の一五〇刀自とじかたへにありて、此の事一五一おろかなりとも聞き侍らん。入らせ給へとなだむるに、一五二つい立ちていりぬ。
 豊雄、刀自とじにむかひて、兄の見とがめ給はずとも、みそかに姉君を一五三かたらひてんと思ひ設けつるに、一五四はやさいなまるる事よ。一五五かうかうの人ののはかなくてあるが、後見うしろみしてよとてたまへるなり。一五六おのが世しらぬ身の、御ゆるしさへなき事は重き一五七勘当かんだうなるべければ、今さら悔ゆるばかりなるを、姉君よく憐み給へといふ。刀自打ちみて、男子をのこごのひとりし給ふが、兼ねて一五八いとほしかりつるに、いとよき事ぞ。おろかなりともよく一五九いひとり侍らんとて、其の夜太郎に、かうかうの事なるはさいはひにおぼさずや。父君の前をもよきにいひなし給へといふ。太郎まゆひそめて、あやし、此の国の(かみ)下司したづかさあがた何某なにがしと云ふ人を聞かず。我が家一六〇保正をさなればさる人のなくなり給ひしを聞えぬ事あらじを。まづ太刀ここにとりて来よといふに、刀自やがてたづさへ来るを、よくよく見をはりて、長嘘ためいきをつぎつつもいふは、ここに恐ろしき事あり。近来ちかごろ都の大臣殿おほいどの一六一御願ごぐわんの事みたしめ給ひて、一六二権現ごんげんにおほくの宝を奉り給ふ。さるに此の神宝かんだからども、一六三御宝蔵みたからぐらの中にてとみせしとて、一六四大宮司だいぐじより国のかみうつたへ出で給ふ。守、此のぬすびとさぐとらふために、一六五助の君文室ふんや広之ひろゆき、大宮司のたちに来て、今もつぱらに此の事を一六六はかり給ふよしを聞きぬ。此の太刀一六七いかさまにも下司したづかさなどのくべき物にあらず。(なほ)父に見せ奉らんとて、一六八御前に持ちいきて、かうかうの恐ろしき事の一六九あなるは、いかがはからひ申さんといふ。父おもてを青くして、こは一七〇浅ましき事の出できつるかな。日来ひごろ一七一まうをもぬかざるが、何のむくいにてかう良からぬ心や出できぬらん。一七二ほかよりあらはれなば此の家をもたやされん。みおやの為子孫のちの為には、不孝の子一人惜しからじ。あすうつたへ出でよといふ。
 太郎、夜の明くるを待ちて、大宮司のみたちに来り、しかじかのよしを申し出でて、此の太刀を見せ奉るに、大宮司驚きて、是なん大臣殿おほいどのたてまつり物なりといふに、助聞き給ひて、(なほ)せし物問ひあきらめん。召捕れとて、武士ら十人ばかり、太郎をさきにたててゆく。豊雄、かかる事をもしらでふみ見ゐたるを、武士ら押しかかりて捕ふ。こは何の罪ぞといふをも聞き入れずからめぬ。父母、太郎夫婦も、今は一七三浅ましと嘆きまどふばかりなり。一七四公庁おほやけより召し給ふ、くあゆめとて、一七五中にとりこめて舘に追ひもてゆく。助、豊雄をにらまへて、※(「にんべん+欠」の「人」に代えて「小」、第3水準1-14-13)なんぢ神宝かんだからを盗みとりしはためしなき一七六国津罪くにつつみなり。(なほ)種々くさぐさたから一七七いづちに隠したる。明らかにまうせといふ。豊雄一七八やや此の事をさとり、涙を流して、おのれ一七九更に盗をなさず。かうかうの事にて、あがた何某(なにがし)が、さきつまびたるなりとて得させしなり。今にもかの女召して、おのれが罪なき事を覚らせ給へ。助いよよいかりて、我が下司したづかさに県のかばねを名のる者ある事なし。かくいつはるはつみますます大なり。豊雄、かくとらはれていつまで偽るべき。一八〇あはれかの女召して問はせ給へ。助、武士らに向ひて、県の真女子まなごが家はいづくなるぞ。一八一かれを押してとらへ来れといふ。
 武士らかしこまりて、又豊雄を押したてて彼所かしこに行きて見るに、いかめしく造りなせし門の柱もちくさり、軒のかはらも大かたはくだけおちて、一八二草しのぶひさがり、人住むとは見えず。豊雄是を見て、只一八三あきれにあきれゐたる。武士らかけめぐりて、一八四ちかきとなりを召しあつむ。一八五をぢ一八六(よね)かつ男ら、恐れまどひて一八七うずすまる。武士かれらにむかひて、此の家何者が住みしぞ。県の何某がのここにあるはまことかといふに、鍛冶かぢの翁はひ出でて、さる人の名は一八八かけてもうけたまはらず。此の家三とせばかりさきまでは、村主すぐりの何某といふ人の、一八九にぎはしくて住みはべるが、一九〇筑紫つくしあきみてくだりし、其の船行方ゆくへなくなりて後は、家に残る人も散々(ちりぢり)になりぬるより、絶えて人の住むことなきを、此の男のきのふここに入りて、ややして帰りしをあやしとて、此の一九一漆師ぬしをぢがまうされしといふに、一九二さもあれ、よく見きはめて殿に申さんとて、門押しひらきて入る。
 家はよりも荒れまさりけり。なほ奥の方に進みゆく。前栽せんざい広く造りなしたり。池は水あせて水草みくさも皆枯れ、一九三やぶ一九四かたぶきたる中に、大きなる松の吹き倒れたるぞ物すざまし。客殿きやくでんの格子戸をひらけば、なまぐさき風の一九五さと吹きおくりきたるに恐れまどひて、人々あとにしりぞく。豊雄只一九六声を呑みて嘆きゐる。武士の中に巨勢こせ熊檮くまがしなる者、一九七きもふとき男にて、人々我があときて来れとて、一九八板敷いたじきをあららかに踏みて進みゆく。ちりは一寸ばかり積りたり。鼠のくそ一九九ひりちらしたる中に、古き二〇〇帳を立てて、花の如くなる女ひとりぞる。熊檮くまがし、女にむかひて、国のかみの召しつるぞ、急ぎまゐれといへど、こたへもせであるを、近く進みてとらふとせしに、(たちま)ち地も裂くるばかりの二〇一霹靂はたたがみ鳴響なりひびくに、許多あまたの人ぐるひまもなくてそこに倒る。て見るに、女はいづち行きけん見えずなりにけり。
 此のとこの上にきら々しき物あり。人々恐る恐るいきて見るに、二〇二狛錦こまにしき二〇三くれあや二〇四倭文しづり二〇五※(「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17)かとりたて二〇六ほこ二〇七ゆきくはたぐひ、此の失せつる二〇八神宝かんだからなりき。武士らこれをとりもたせて、怪しかりつる事どもをつばらに訴ふ。助も大宮司も妖怪もののけのなせる事をさとりて、豊雄をさいなむ事をゆるくす。されど二〇九当罪おもてつみまぬがれず、かみみたちにわたされて牢裏らうりつながる。大宅おほや父子おやこ多くの物を二一〇まひして罪をふによりて、百日がほどにゆるさるる事を得たり。かくて二一一世にたちまじはらんも面俯おもてぶせなり。姉の大和におはすをとぶらひて、しばし彼所かしこに住まんといふ。げにかうきめ見つる後は重き病をも得るものなり。二一二ゆきて月ごろを過せとて、人を添へて出でたたす。
 二郎の姉が家は、二一三石榴市つばいちといふ所に、田辺たなべ金忠かねただといふ商人あきびとなりける。豊雄がとむらひ来るをよろこび、かつ二一四月ごろの事どもをいとほしがりて、いついつまでもここに住めとて、二一五念頃にいたはりけり。年かはりて二月きさらぎになりぬ。此の石榴市といふは、二一六泊瀬はつせの寺ちかき所なりき。二一七仏の御中には泊瀬なんあらたなる事を、唐土もろこしまでも聞えたるとて、都より辺鄙ゐなかよりまうづる人の、春はことに多かりけり。詣づる人は必ずここに宿れば、軒を並べて旅人をとどめける。
 田辺が家は御明みあかし灯心とうしんたぐひを商ひぬれば、二一八所せく人の入りたちける中に、都の人の忍びのまうでと見えて、いと二一九よろしき女一人、※(「Y」に似た字、第4水準2-1-6)わらは一人、二二〇たき物もとむとてここに立ちよる。此の※(「Y」に似た字、第4水準2-1-6)鬟豊雄を見て、二二一が君のここにいますはといふに、驚きて見れば、かの真女子まなご、まろやなり。あな恐ろしとて内に隠るる。金忠夫婦、こは何ぞといへば、かの二二二鬼ここにひ来る。あれに近寄り給ふなと二二三隠れまどふを、人々、そはいづくにと立ち騒ぐ。真女子入り来りて、人々あやしみ給ひそ。わがの君な恐れ給ひそ。二二四おのが心より罪におとし奉る事の悲しさに、御有家ありかもとめて、事の由縁ゆゑをもかたり、二二五御心放みこころやりせさせ奉らんとて、御住家尋ねまゐらせしに、かひありてあひ見奉る事のうれしさよ。あるじの君よく聞きわけて給へ。我もしあやしき物ならば、此の二二六しげきわたりさへあるに、二二七かうのどかなるひるをいかにせん。二二八きぬ縫目ぬひめあり、日にむかへば影あり。此の二二九まさしきことわりを(おぼ)しわけて、御疑ひを解かせ給へ。
 豊雄やや人ごこちして、※(「にんべん+欠」の「人」に代えて「小」、第3水準1-14-13)なんぢまさしく人ならぬは、我とらはれて、武士らとともにいきて見れば、きのふにも似ず二三〇浅ましく荒果あれはてて、まことに鬼の住むべき宿に一人るを、人々ら捕へんとすれば、(たちま)二三一青天霹靂はたたがみふるうて、跡なく二三二かき消えぬるをまのあたり見つるに、又ひ来て何をかなす。すみやかに去れといふ。真女子まなご涙を流して、まことにさこそおぼさんはことわりなれど、二三三せふことをもしばし聞かせ給へ。君公庁おほやけに召され給ふと聞きしより、かねてあはれをかけつる隣のおきなをかたらひ、とみ二三四野らなる宿のさまをこしらへし。我をとらんずときに鳴神なるかみひびかせしは、まろやが二三五計較たばかりつるなり。其の後船もとめて難波(なには)の方にのがれしかど、御消息せうそこしらまほしく、二三六ここの仏にたのみを懸けつるに、二三七二本ふたもとの杉のしるしありて、二三八うれしき瀬にながれあふことは、ひとへに二三九の御徳かうむりたてまつりしぞかし。種々くさぐさ神宝かんだからは何とて女の盗み出すべき。さきつまの良からぬ心にてこそあれ。よくよくおぼしわけて、二四〇思ふ心の露ばかりをもうけさせ給へとて、さめざめと泣く。
 豊雄あるは疑ひ、或はあはれみて、かさねていふべき詞もなし。金忠夫婦、真女子がことわりの明らかなるに、此の二四一女しきふるまひを見て、ゆめ疑ふ心もなく、豊雄のもの語りにては、世に恐ろしき事よと思ひしに、二四二さるためしあるべき世にもあらずかし。はるばると二四三尋ねまどひ給ふ御心ねのいとほしきに、豊雄うけがはずとも、我々とどめまゐらせんとて、一なる所に迎へける。ここに一日二日を過すままに、金忠夫婦が二四四心をとりて、ひたすら嘆きたのみける。其の志のあつきにでて、豊雄をすすめてつひに婚儀ことぶきをとりむすぶ。豊雄も日々に心とけて、もとより容姿かたちのよろしきをでよろこび、千とせをかけて契るには、二四五葛城かつらぎ高間たかまやまよひ々ごとにたつ雲も、二四六初瀬の寺の暁の鐘に雨をさまりて、二四七只あひあふ事の遅きをなん恨みける。
 三月やよひにもなりぬ。金忠、豊雄夫婦にむかひて、都わたりには似るべうもあらねど、二四八さすがに紀路きぢにはまさりぬらんかし。二四九名細なぐはしの吉野は春はいとよき所なり。二五〇三船みふねの山、二五一菜摘なつみ川、二五二常に見るとも飽かぬを、此の頃はいかにおもしろからん。二五三いざ給へ、出で立ちなんといふ。真女児うち笑みて、二五四よき人のよしと見給ひし所は、都の人も見ぬをうらみに聞え侍るを、我が身をさなきより、人おほき所、あるは道の長手ながてをあゆみては、必ず二五五のぼりてくるしき病あれば、二五六従駕みともにえ出で立ち侍らぬぞいとうれたけれ。二五七土産づと必ず待ちこひ奉るといふを、そはあゆみなんこそ病も苦しからめ。二五八車こそもたらね、いかにもいかにも土は踏ませまゐらせじ。とどまり給はんは、豊雄のいかばかり二五九心もとなかりつらんとて、夫婦すすめたつに、豊雄も、かう二六〇たのもしくの給ふを、二六一道に倒るるともいかでかはと聞ゆるに、二六二不慮すずろながら出でたちぬ。人々二六三花やぎて出でぬれど、真女子まなごあてなるには似るべうもあらずぞ見えける。
 何某なにがしの院はかねて二六四心よく聞えかはしければ、ここにとむらふ。あるじの僧迎へて、此の春は遅くまうで給ふことよ。花もなかばは散り過ぎて、二六五鶯の声もやや流るめれど、(なほ)よきかた二六六しるべし侍らんとて、夕食ゆふげいと清くして食はせける。二六七明けゆく空いたう霞みたるも、二六八晴れゆくままに見わたせば、此の院は高き所にて、ここかしこ僧坊どもあらはに見おろさるる。山の鳥どもも二六九そこはかとなくさへづりあひて、木草の花色々に咲きまじりたる、同じ山里ながら目さむるここちせらる。初詣うひまうでには滝ある方こそ見所はおほかめれとて、彼方かなたにしるべの人ひて出でたつ。谷をめぐりて下りゆく。いにしへ二七〇行幸いでましの宮ありし所は、二七一(いは)はしる滝つせのむせび流るるに、ちひさき※(「魚+條」、第4水準2-93-74)あゆどもの水にさかふなど、目もあやにおもしろし。二七二檜破子ひわりご打ちちらしてひつつあそぶ。
 岩がねづたひに来る人あり。髪は二七三績麻うみそ二七四わがねたる如くなれど、手足いとすこやかなる翁なり。此の滝のもとにあゆみ来る。人々を見てあやしげにまもりたるに、真女子もまろやも此の人を二七五そがひに見ぬふりなるを、翁、かれ二人をよくまもりて、あやし、此の邪神あしきかみ、など人をまどはす。翁がまのあたりをかくても有るやとつぶやくを聞きて、此の二人(たちま)をどりたちて、滝に飛び入ると見しが、水は大虚おほぞらきあがりて見えずなるほどに、雲すみをうちこぼしたる如く、雨二七六しのを乱してふり来る。翁、人々の慌忙惑あわてまどふを二七七まつろへて人里にくだる。
「吉野宮滝行楽の図」のキャプション付きの図
吉野宮滝行楽の図。大倭神社の神官当麻の酒人をみて、蛇の化身であった真女児とまろやは、あわてて激流にとびこもうとする。(原本三丁裏、四丁表の挿絵)

 二七八あやしき軒にかがまりて、生けるここちもせぬを、翁、豊雄にむかひ、つらつら二七九そこのおもてを見るに、此の二八〇隠神かくれがみのために悩まされ給ふが、吾救はずばつひに命をも失ひつべし。後よくつつしみ給へといふ。豊雄地に額着ぬかづきて、此の事の始めよりかたり出でて、(なほ)二八一命得させ給へとて、恐れみうやまひて願ふ。翁、さればこそ、此の邪神あしきかみは年たる※(「虫+也」、第3水準1-91-51)をろちなり。かれがさがみだりなる物にて、二八二牛とつるみてはりんみ、馬とあひては竜馬りようめを生むといへり。二八三此のまどはせつるも、はたそこの秀麗かほよき二八四※(「(女/女)+干」、第4水準2-5-51)たはけたると見えたり。かくまでしふねきを、よく慎み給はずば、おそらくは命を失ひ給ふべしといふに、人々いよよ恐れ惑ひつつ、翁をあがまへて、二八五遠津神とほつがみにこそと拝みあへり。翁打ちみて、おのれは神にもあらず。二八六大倭やまとの神社に仕へまつる当麻たぎま酒人きびとといふ翁なり。二八七道のほど見たててまゐらせん。いざ給へとて出でたてば、人々あとにつきて帰り来る。
 あけの日二八八大倭やまとさとにいきて、翁が二八九めぐみかへし、かつ二九〇美濃絹みのぎぬ三疋みむら二九一筑紫綿つくしわた二屯ふたつみおくり来り、(なほ)此の妖災もののけ二九二身禊みそぎし給へとつつしみて願ふ。翁これを納めて、二九三祝部はふりらにわかちあたへ、みづからは一むらつみをもとどめずして、豊雄にむかひ、二九四かれ※(「にんべん+欠」の「人」に代えて「小」、第3水準1-14-13)なんぢ秀麗かほよき※(「(女/女)+干」、第4水準2-5-51)たはけて二九五※(「にんべん+欠」の「人」に代えて「小」、第3水準1-14-13)まとふ。※(「にんべん+欠」の「人」に代えて「小」、第3水準1-14-13)かれかりかたちまどはされて二九六丈夫ますらを心なし。今より二九七雄気をとこさびしてよく心をしづまりまさば、此らの邪神あしきかみやらはんに翁が力をもかり給はじ。ゆめゆめ心を静まりませとて、まめやかにさとしぬ。豊雄夢のさめたるここちに、二九八礼言ゐやこと尽きずして帰り来る。金忠にむかひて、此の年月かれまどはされしは、おのが心の正しからぬなりし。親兄のつかへをもなさで、君が家の二九九ほだしならんは三〇〇由縁よしなし。御めぐみいとかたじけなけれど、又も参りなんとて、紀の国に帰りける。
 父母、太郎夫婦、此の恐ろしかりつる事を聞きて、いよよ豊雄があやまちならぬをあはれみ、かつは妖怪もののけしふねきを恐れける。かくて三〇一やむをにてあらするにこそ。妻むかへさせんとてはかりける。三〇二しばの里に芝の庄司なるものあり。女子むすめ一人もてりしを、三〇三大内おほうち三〇四采女うねめにまゐらせてありしが、此の度いとま申し給はり、此の豊雄をむこがねにとて、媒氏なかだちをもて大宅おほやもとへいひるる。よき事なりてやが三〇五ちなみをなしける。かくて都へもむかひの人をのぼせしかば、此の采女富子とみこなるもの、よろこびて帰り来る。年来としごろの大宮づかへに馴れこしかば、よろづ行儀ふるまひよりして、姿かたちなども花やぎまさりけり。豊雄ここに迎へられて見るに、此の富子がかたちいとよく、三〇六よろづ心にたらひぬるに、かのをろち懸想けさうせしことも三〇七おろおろおもひ出づるなるべし。はじめの夜は事なければ書かず。
 二日の夜、よきほどのゑひごこちにて、年来としごろ大内住うちずみに、辺鄙ゐなかの人は三〇八はたうるさくまさん。三〇九かの御わたりにては、何の三一〇中将宰相さいしやうの君などいふに三一一添ひぶし給ふらん。今更にくくこそおぼゆれなどたはむるるに、富子三一二やがおもてをあげて、三一三古きちぎりを忘れ給ひて、かく三一四ことなる事なき人を三一五時めかし給ふこそ、三一六こなたよりましてにくくあれといふは、姿かたちこそかはれ、まさしく真女子が声なり。聞くにあさましう、身の毛もたちて恐ろしく、只あきれまどふを、女打ちゑみて、三一七吾が君な怪しみ給ひそ。三一八海にちかひ山にちかひし事をはやくわすれ給ふとも、三一九さるべきえにしのあれば又もあひ見奉るものを、三二〇あだし人のいふことをまことしくおぼして、あながちに遠ざけ給はんには、うらむくいなん。紀路きぢの山々さばかり高くとも、君が血をもて峯より谷にそそぎくださん。三二一あたら御身をいたづらになし果て給ひそといふに、三二二只わななきにわななかれて、今や三二三とらるべきここちに三二四死に入りける。屏風のうしろより、吾が君いかに三二五むつかり給ふ。かうめでたき御契なるはとて出づるはまろやなり。見るに又きもを飛ばし、まなこを閉ぢて伏向うつぶきす。三二六なごめつおどしつ、かはるがはる物うちいへど、只死に入りたるやうにて夜明けぬ。
「芝の庄司の娘富子にのりうつった蛇性の真女児が、新婚二日目の夜、酔ごこちになってたわむれた豊雄の前で、その正体をあらわす図」のキャプション付きの図
芝の庄司の娘富子にのりうつった蛇性の真女児が、新婚二日目の夜、酔ごこちになってたわむれた豊雄の前で、その正体をあらわす図。(原本十六丁裏、十七丁表の挿絵)

 かくて閨房ねやのがれ出でて、庄司にむかひ、かうかうの恐ろしき事あなり。これいかにしてけなん。よくはかり給へと三二七いふも、うしろにや聞くらんと、声をささやかにしてかたる。庄司も妻もおもてを青くして嘆きまどひ、こはいかにすべき。ここに都の三二八鞍馬寺くらまでらの僧の、年々熊野くまのに詣づるが、きのふより此の三二九向岳むかつを三三〇蘭若てらに宿りたり。いとも三三一げんなる法師にて、およ三三二疫病えやみ妖災もののけいなむしなどをもよく祈るよしにて、此のさとの人はたふとみあへり。此の法師三三三むかへてんとて、あわただしく三三四呼びつげるに、ややして来りぬ。しかじかのよしを語れば、此の法師鼻を高くして、これらの三三五蠱物まじものらをらんは何のかたき事にもあらじ。必ず三三六静まりおはせとやすげにいふに、人々心落ちゐぬ。法師まづ三三七雄黄ゆうわうをもとめて薬の水を調じ、小瓶こがめたたへて、かの閨房ねやにむかふ。人々ぢ隠るるを、法師あざみわらひて、老いたるもわらはも必ずそこにおはせ、此の※(「虫+也」、第3水準1-91-51)をろち只今りて見せ奉らんとてすすみゆく。閨房の戸あくるを遅しと、かのをろちかしらをさし出して法師にむかふ。此の頭三三八何ばかりの物ぞ。此の戸口に充満みちみちて、雪を積みたるよりも白くきら々しく、まなこかがみの如く、つの枯木かれきごと、三たけ余りの口を開き、くれなゐの舌をいて、只一のみに飲むらんいきほひをなす。あなやと叫びて、三三九手にすゑし小瓶こがめをもそこに打ちすてて、たつ足もなく、三四〇展転こいまろびはひ倒れて、からうじてのがれ来たり、人々にむかひ、あな恐ろし、三四一たたります御神にてましますものを、など法師らが祈り奉らん。此の手足なくば、三四二はた命失ひてんといふいふ三四三絶え入りぬ。人々たすけ起すれど、すべておもてはだへも黒く赤く染めなしたるがごとに、熱き事焚火たきび三四四手さすらんにひとし。毒気あしきいきにあたりたると見えて、のちは只三四五のみはたらきて物いひたげなれど、声さへなさでぞある。水そそぎなどすれど、つひに死にける。これを見る人、いよよ三四六たましひも身に添はぬ思ひして泣き惑ふ。
 豊雄すこし三四七心を収めて、かくげんなる法師だも祈り得ず、しふねく我をまとふものから、三四八天地あめつちのあひだにあらんかぎりは三四九探し得られなん。おのが命ひとつに人々を苦しむるは三五〇まめならず。今は三五一人をもかたらはじ。三五二やすくおぼせとて閨房ねやにゆくを、庄司の人々、こは物に狂ひ給ふかといへど、更に聞かず顔にかしこにゆく。戸を静かに明くれば、物のさわがしき音もなくて、此の二人ぞむかひゐたる。富子、豊雄にむかひて、君三五三何のあたに我をとらへんとて人をかたらひ給ふ。此の後もあたをもて報い給はば、君が御身のみにあらじ、此のさとの人々をもすべて苦しきめ見せなん。ひたすら三五四吾が貞操みさををうれしとおぼして、三五五あだ々しき心をなおぼしそと、いと三五六けさうじていふぞ三五七うたてかりき。豊雄いふは、世のことわざにも聞ゆることあり。三五八人かならず虎を害する心なけれども、虎かへりて人をやぶこころありとや。※(「にんべん+欠」の「人」に代えて「小」、第3水準1-14-13)なんぢ三五九人ならぬ心より、我をまとうて幾度かからきめを見するさへあるに、三六〇かりそめごとをだにも此の恐ろしきむくいをなんいふは、いと三六一むくつけなり。されど吾を慕ふ心ははた世人にもかはらざれば、三六二ここにありて人々の嘆き給はんがいたはし。此の富子が命ひとつたすけよかし。三六三て我をいづくにも連れゆけといへば、いとうれしげに点頭うなづきをる。
 又立ち出でて庄司にむかひ、かう三六四浅ましきものの添ひてあれば、ここにありて人々を苦しめ奉らんはいと三六五心なきことなり。只今いとま給はらば、三六六娘子をとめの命もつつがなくおはすべしといふを、庄司さらけず、我三六七弓の本末もとすゑをもしりながら、かく三六八いひがひなからんは、大宅おほやの人々のおぼす心もはづかし。(なほ)計較はかりなん。三六九小松原の三七〇道成寺に、三七一法海和尚ほふかいをしやうとて貴きいのりの師おはす。今は三七二老いてむろにも出でずと聞けど、我が為には三七三いかにもいかにも捨て給はじとて、馬にていそぎ出でたちぬ。道はるかなれば夜なかばかりに蘭若てらに到る。老和尚三七四眼蔵めんざうをゐざり出でて、此の物がたりを聞きて、そは浅ましくおぼすべし。今は老朽おいくちて三七五げんあるべくもおぼえはべらねど、君が家のわざはひもだしてやあらん。三七六まづおはせ。法師もやがまうでなんとて、三七七芥子けしにしみたる袈裟けさとり出でて、庄司にあたへ、かれ三七八やすくすかしよせて、これをもてかしらに打ち※(「巾+皮」、第3水準1-84-9)かづけ、力を出して押しふせ給へ。手弱たよわくあらばおそらくは逃げさらん。よく三七九念じて、よくなし給へとまめやかに教ふ。庄司三八〇よろこぼひつつ馬を飛ばしてかへりぬ。
 豊雄をひそかに招きて、此の事よくしてよとて袈裟をあたふ。豊雄これをふところに隠して閨房ねやにいき、庄司今はいとま三八一たびぬ、三八二いざたまへ、出で立ちなんといふ。いとうれしげにてあるを、此の袈裟とり出でてはやく打ち※(「巾+皮」、第3水準1-84-9)かづけ、三八三力をきはめて押しふせぬれば、あな苦し、※(「にんべん+欠」の「人」に代えて「小」、第3水準1-14-13)(なんぢ)何とてかく三八四情なきぞ。しばしここゆるせよかしといへど、(なほ)力にまかせて押しふせぬ。法海和尚の輿こしやがて入り来る。庄司の人々にたすけられて三八五ここにいたり給ひ、口のうち三八六つぶつぶと念じ給ひつつ、豊雄を退しりぞけて、かの袈裟とりて見給へば、富子は三八七うつつなくしたる上に、白きをろちの三たけあまりなるわだかまりて動きだもせずてぞある。老和尚これをとらへて、徒弟とていささげたる三八八鉄鉢てつばちれ給ふ。(なほ)三八九念じ給へば、屏風のうしろより、三九〇たけばかりの小蛇こへびはひ出づるを、三九一是をもりて鉢にれ給ひ、かの袈裟をもてよくふうじ給ひ、そがままに輿に乗らせ給へば、人々をあはせ涙を流してうやまひ奉る。
 蘭若てらに帰り給ひて、三九二堂の前を深くらせて、鉢のままにめさせ、三九三永劫えいごふがあひだ世に出ることをいましめ給ふ。今猶三九四をろちつかありとかや。庄司が女子むすめはつひに病にそみてむなしくなりぬ。豊雄は命つつがなしとなんかたりつたへける。

一 蛇の化身が一青年につきまとう愛欲の執念を主題としたところからこの題がでた。
二 和歌山県新宮市三輪崎。海辺で、歌枕。
三 漁場で大いに儲けて。
四 大魚も小魚もすべて漁獲して。古事記・祝詞などに見える語。
五 太郎は名前とも長男の意ともとれるが、ここは太郎という名の長男ととっていい。
六 二番目の子。
七 風流なこと。
八 実直に生業を営む気持。
九 他人にとられてしまうだろう。
一〇 養子にやって他家をつがせるのも。
一一 いやなこと。
一二 心苦しい。
一三 したいことをさせながら。
一四 ここは、学者。
一五 ここは、僧侶。
一六 豊雄の一生は。
一七 厄介者。
一八 しつけ。
一九 新宮市にある熊野権現速玉神社。熊野三山(本宮・新宮・那智)の一。
二〇 ここは、神官。
二一 余波。
二二 この地方は東南から天気がくずれる。雷峯怪蹟「霧鎖東南、早落下微々的細雨来了」。
二三 雨傘。
二四 新宮市にある阿須賀神社。
二五 宝物殿であるが、ここは本殿とみてよい。
二六 旦那様の所の末の御子息。
二七 むさくるしいあばら家。
二八 円く渦に編んだ敷物。
二九 塵をはらって。
三〇 ほんのしばらく雨宿りする間だから何でもかまわない。
三一 髪の形が大層あでやかで。
三二 遠山の様を色うつくしく摺り出して模様とした着物。
三三 年若い侍女。中国白話小説の用字。
三四 ぐっしょりと濡れて。
三五 いかにも困った様子。
三六 思わずも。
三七 本宮・新宮・那智の熊野三山へ参詣すること。
三八 下僕らしい者。
三九 中途半端な。不用意な。
四〇 せまい住居。
四一 そろって並ぶ。
四二 近くでみると一層うつくしく見えること。
四三 心がぽーっとして。
四四 高貴の家の御方。
四五 和歌山県田辺市の西、四村にある湯の峰温泉。
四六 殺風景な。
四七 見物して一日をくらす。
四八 佐野は三輪崎の西南。万葉集三、長忌寸奥麻呂の歌。秋成は「金砂」でこの歌に注している。
四九 今日のこの風情とおなじである。
五〇 世話をしている男。
五一 心おきなく。くつろいで。
五二 おっしゃって下さる。
五三 御親切なあたたかい御情で濡れた着物をほしてまいりましょう。思ひの「ひ」を「火」にかけ、乾すは縁語。
五四 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある那智権現と青岸渡寺。熊野三山の一。
五五 見境もなく。分別もなく。
五六 しいて。無理に。
五七 何かのついでにいただきにまいりましょう。
五八 雨はいっこうに小やみになったとも思えないのに。
五九 使を出しましょう。
六〇 さし戴くに、傘の縁語「さす」をかけた。
六一 見送って。
六二 どうしても忘れられず。
六三 日光をよけ風雨を防ぐための横戸。ふつう上下二つになっていて、上はあげさげができ、下はとりはずせる。寝殿造りなどの高貴な邸宅に多い。
六四 簾をふかくおろして。簾は蔀の内側にかける。
六五 この夢が現実であったならば、どんなにうれしかろう。
六六 そわそわとしておちつかないので。
六七 心もそぞろにうきたって家を出た。
六八 昼すぎまで。
六九 お嬢さま。
七〇 思いながら。
七一 雨傘を貸して下さった方がいらしたのを御案内してまいりました。
七二 新宮に、の意にとっておく。
七三 学問の先生。
七四 ぶしつけながら、こちらから推参しました。
七五 ※(「Y」に似た字、第4水準2-1-6)鬟の名。
七六 けっして。必ず。
七七 表座敷。
七八 客があると板敷に敷く畳。
七九 台に柱を二本たて横木を渡してそこに帳をかけた家具。隔てのために座側にたてた。
八〇 調度品などをおさめる両びらきの置戸棚。
八一 壁のかわりに長押からおろし、また母屋の廂の間をさえぎった絹。御簾と併用した。
八二 身分のない人。
八三 主人のいない家とも、人手のない家とも解せる。
八四 行き届いたおもてなし。
八五 粗酒。謙辞。
八六 食物を盛る器。足のあるのが高坏、足のないのが平坏。
八七 酒器と素焼きの杯。
八八 「桜」の枕詞。
八九 映る。
九〇 巧みにあしらう。
九一 立ちくぐる。とびまわる。
九二 鶯の如く美しく妙なる声。
九三 恥かしいことだと打ちあけずに心悩み、焦れ死にでもしてしまったら。
九四 神のたたりだと、何もしらない神にまで無実の罪をきせることになるであろう。伊勢物語、八九「人知れずわれ恋ひ死なばあぢきなくいづれの神になき名おふせむ」。
九五 けっして浮気心でいうあだごととお聞き下さいますな。
九六 国守の下役人。
九七 四年の任期がまだ終らないこの春に。
九八 生まれ故郷の都も。
九九 思いますので。
一〇〇 今後の生涯をもって。
一〇一 妻としてあなたのそばにお仕えしたい。
一〇二 けがらわしい女だと。
一〇三 末長い夫婦の契り。
一〇四 心乱れるまでに思い慕っていた女であるから。
一〇五 「飛び立つ」の序詞。
一〇六 親がかりの身。
一〇七 つらく思って。
一〇八 おろかなこと。
一〇九 ひっこみのつかないのが恥かしい。
一一〇 冗談。たわむれごと。
一一一 自分の推測が当っていた。
一一二 熊野灘は鯨の寄る浜として名高い。
一一三 いつ聞く事ができようか。
一一四 即答。
一一五 結納。結婚費用。
一一六 財産。
一一七 孔子のような聖人でさえよろめく恋のためには。
一一八 お通い下さい。夫が妻の許に通う古代の結婚形態。
一一九 この上ない宝として。
一二〇 帯びるもの、太刀。
一二一 ものすごいまでに。
一二二 めでたいことのはじめに。
一二三 縁起がわるい。
一二四 しきりに。
一二五 親の許可をえていない外泊。
一二六 叱るでしょう。
一二七 口実をもうけてまいりましょう。
一二八 目がさえて安眠できずに。
一二九 網をひく漁師を召集してそれぞれの部署に配置するために。
一三〇 早朝。
一三一 どこから手に入れてきたのであろう。
一三二 不審に思って。
一三三 金をはらって。
一三四 人がくれたのを。
一三五 こむずかしい漢字の書籍を買い集めるのさえ。
一三六 ひどい無駄づかい
一三七 新宮速玉神社の祭礼の行列に加わってねり歩くつもりだろう。※(「二点しんにょう+黎」、第4水準2-90-3)るは、ようすをつくって歩く。
一三八 何という狂気じみたことをするのか。
一三九 厄介者。豊雄をさす。
一四〇 問いただして下さい。
一四一 なまけるとこまるから、浜の方へ行ってくる。
一四二 何にしようと思って。
一四三 おまえ。対称代名詞。
一四四 するままにさせておいたが。
一四五 わきまえないのか。
一四六 しかるべき理由。
一四七 手柄。功績。
一四八 さっぱり腑におちないことだ。
一四九 恥かしいこと。面目ないこと。
一五〇 主婦。
一五一 私はふつつか者ですが。
一五二 一緒にたって。
一五三 相談して力になってもらおうと。
一五四 はやくも見つかって叱られてしまったことだ。
一五五 これこれこうした素姓の人の妻で、夫を失って頼りのない人が。
一五六 まだ独立せずに、部屋ずみの分際で。
一五七 勘当という重い処罰。勘当は父から絶縁放逐されること。
一五八 気の毒。あわれ。
一五九 うまくはなして承諾を得るようにしてみましょう。
一六〇 ここは村長、庄屋。
一六一 御祈願が成就なさってそのお礼として。
一六二 新宮(熊野権現)。
一六三 新宮はふるくは宝蔵なく、宝物は本殿に納めてあり、享保前後に宝蔵ができた。
一六四 「ダイグジ」と訓ませている。大社の神官の長。
一六五 国司の次官。
一六六 詮議する。
一六七 どうみても。
一六八 父の前に。
一六九 あるのは。
一七〇 とんでもないこと。たいへんなこと。
一七一 他人のものはたとえ毛一本なりともとらないのに。白娘子永鎮雷峰塔・孟子等にこの語がある。
一七二 自首しないで、他人の口から露顕したら。
一七三 情けないことだ。
一七四 国司の庁。役所。
一七五 真中にとりかこんで。
一七六 もとの意は、天津罪に対して、国土で行なわれた罪。ここでは国の掟をやぶった罪。祝詞に見える語。
一七七 どこに。
一七八 ようやく捕縛された理由がわかり。
一七九 けっして。
一八〇 どうか。なにとぞ。
一八一 この男(豊雄)を先におしたてていって。
一八二 忍草の一種。軒しのぶ。
一八三 まったく茫然自失とした状態。
一八四 近所の者たちをよびあつめた。
一八五 きこりの老人。
一八六 米搗(つ)き男。
一八七 うずくまる。古語。
一八八 ちっとも。ついぞ。
一八九 家豊かに人も大勢使って。
一九〇 ここは、九州。
一九一 漆細工をする職人。
一九二 ともかくも。
一九三 雑草が生え放題に生え茂っている藪。
一九四 高く茂っているので先が傾いている状態。
一九五 さっと。
一九六 驚愕のために声も出ずに。
一九七 度胸のすわった男。
一九八 板張りのゆか。
一九九 体外へ排出する意。
二〇〇 トバリとよめば垂れ絹、チョウとよめば几帳。どちらにもとれるが、几帳ととった方がよい。
二〇一 急にはげしくなる雷。
二〇二 高麗国より渡来した錦で、高価な舶来品。
二〇三 中国から渡来した綾織物で、高価な舶来品。
二〇四 穀や麻などで織った布で、青や赤の糸を用いて乱文を織りだし、帯などに用いた。
二〇五 固織。目のつんだ絹織物。
二〇六 突きさすのに用いる武器。
二〇七 矢を入れて背中に負う具。やなぐい、えびらの類で、木製・銅製がある。
二〇八 新宮から紛失した宝物。
二〇九 当面の罪。理由のいかんにかかわらず盗品をもっていたという罪。
二一〇 金品を贈って刑罰を軽くしてもらうこと。
二一一 世間と交際することも。故郷の人に顔むけすることも。豊雄のことば。
二一二 むこうへいって、何か月か暮してこい。
二一三 奈良県桜井市金屋から東方にあり、初瀬観音への参道で、門前市。椿市、海柘榴市とも書く。
二一四 この数か月来の災難に同情して。
二一五 親切に。手厚く。
二一六 奈良県桜井市初瀬にある、新義真言宗豊山派総本山、豊山神楽院長谷寺。名刹として平安朝以来、皇室・貴族の信仰がさかんであった。
二一七 諸仏の中では初瀬の観音こそとりわけ霊験あらたかであるということは、遠く中国にまでその評判が伝わっている。源氏物語、玉鬘「仏の御中には、はつせなん、日の本のうちには、あらたなるしるしあらはし給ふと、もろこしにだにきこえあんなる」。
二一八 店内も狭いほど客がたてこんでいる中に。
二一九 上品でうつくしい女。
二二〇 数種の香をねりあわせてつくった煉香。
二二一 旦那様。
二二二 妖怪、魔性をいう。
二二三 うろたえながらしきりに隠れようとするのを。
二二四 私のいたらない心から夫を罪におとしいれたこと。
二二五 御安心させようと思って。
二二六 人出の多いところ。
二二七 そのうえこんなのどかな昼日中に、どうしてあらわれることができようか。
二二八 妖怪変化が人間に化けたものは、その着物に縫目なく、太陽に照らされて影がないといわれる。白娘子永鎮雷峰塔に「我怎的是鬼怪、衣裳有縫、対日有影」とある。
二二九 正しい道理をよく御判断になって。
二三〇 あきれるばかり。
二三一 青空の上天気に急にはげしく雷がなって。
二三二 主語は真女児。
二三三 私。女子の自称。
二三四 荒れ果てた野原のような家の様子。
二三五 はかりだましたこと。計略。
二三六 初瀬の観世音。
二三七 初瀬古川の川辺に向いあっている二本杉のように、祈りのかいあって二人は再会できた。古今集一九「初瀬川ふる川の辺に二本ある杉、年をへてまたもあひ見むふた本ある杉」。源氏物語、玉鬘・手習などにも記されている。
二三八 うれしくもまためぐりあうことができたのは。瀬は、機会、折。「瀬」「ながれあふ」は、川の縁語。源氏物語、玉鬘に見えている。
二三九 観世音菩薩の広大無辺なおめぐみ。
二四〇 あなたを慕う私の気持のほんのすこしでもおくみとり下さい。
二四一 女らしい可憐な。
二四二 妖怪変化などが人間に化けてあらわれるはずのないいまの時世。
二四三 あちこちと苦労してたずねる。
二四四 気にいるようにその機嫌をとって。
二四五 葛城の高間山に夜ごと立つ雲は、雨をふらせるが。奈良県と大阪府・和歌山県との境にある葛城山脈の主峰。葛城山・金剛山。夜と暁、雲と雨は対。雲雨で男女の契りをあらわす。新拾遺集、「葛城や高間の山にゐる雲のよそにもしるき夕立の空」。
二四六 初瀬寺の暁鐘とともに夜来の雨もやむ。文選、高唐賦「旦為朝雲、暮為行雨、朝々暮々、陽台之下」、唐詩選、劉廷芝の公子行「為雲為雨楚襄王」。
二四七 いまでは再会の日の遅かったことを恨んだ。白娘子永鎮雷峰塔「只恨相見之晩」。
二四八 なんといっても紀州路とくらべると景色がすぐれているであろう。
二四九 名も美しい。吉野の枕詞。
二五〇 奈良県吉野郡吉野町にある船形の山。歌枕。
二五一 吉野川の上流。歌枕。
二五二 万葉集九、「山高み白木綿花に落ち激つ夏身の川門見れど飽かぬかも」。秋成「名くはし吉野の国は……いきかひて見れども飽かずあそびせし」(岩橋の記)。
二五三 さあまいりましょう。
二五四 高貴の方がいいとおっしゃった。万葉集一、天武天皇「よき人のよしとよく見てよしといひし吉野よくみよよき人よく見つ」。
二五五 のぼせて。
二五六 おともをして。
二五七 山のおみやげ。
二五八 牛車こそもっていないが。
二五九 気がかりに思う事だろう。
二六〇 親切に。
二六一 途中で倒れてもどうして行かないですまされようか。
二六二 不本意ながら。
二六三 花やかに装って。
二六四 親しく交際していた。
二六五 晩春の流鶯。枝から枝へうつって乱れ啼く。
二六六 ご案内しましょう。
二六七 源氏、若紫「明け行く空はいといとう霞みて」。
二六八 源氏、若紫「少し立ち出でつつ見渡し給へば、高き所にて、ここかしこ、僧坊どもあらはに見おろさるる」。
二六九 どこということなく。
二七〇 吉野離宮。吉野郡吉野町宮滝にあった。
二七一 「滝」の枕詞。
二七二 檜板で作った弁当箱。
二七三 長くつないでよった麻糸。
二七四 丸くたばねた。
二七五 背を向けて。
二七六 雨足のはげしい形容。
二七七 おししずめて。
二七八 みすぼらしい家の軒下に身をかがめて。
二七九 そなた。対称代名詞。
二八〇 ここは、正体をくらまして人をたぶらかす邪神、妖神。
二八一 命をお助け下さい。
二八二 牛と交尾しては麟を生み、馬と交わっては竜馬を生む。「五雑組」巻九「与牛交則生麟、……与馬交則生竜馬」。
二八三 この妖神がそなたに憑いてまどわせたのも。
二八四 みだらな、不義なまじわりをする。
二八五 ここは、凡人をはるかに超えた尊い神。
二八六 天理市新泉にある大和(オオヤマト)神社。
二八七 道中見送ってあげよう。
二八八 大和神社の付近。
二八九 恩をうけた礼をいい。
二九〇 岐阜県から産出した上等の絹。疋は、布帛・巻物を数える単位。二反を一疋とする。
二九一 九州産の真綿。古くより有名。屯は綿の量目の単位。二斤を一屯とする。
二九二 ここは、お祓い。
二九三 ここは、配下の神官たち。
二九四 真女児をさす。
二九五 そなたにまつわりつく。
二九六 男らしいしっかりした心。
二九七 雄雄しい勇気をふるいおこして。
二九八 お礼の言葉もいいつくせないほど感謝して。
二九九 厄介者。
三〇〇 理由のないことである。
三〇一 妻のない独身男。
三〇二 和歌山県田辺市栗栖川。旧熊野路、中辺路にある。道成寺説話の清姫の生誕地真砂の荘のそば。
三〇三 内裏、宮中。
三〇四 地方官の子女で天皇の陪膳に奉仕する女官。
三〇五 婚約を結んだ。
三〇六 万事に満足したにつけても。
三〇七 少しばかり。おぼろげに。
三〇八 きっと。やっぱり。
三〇九 かの御所などでは。
三一〇 近衛府の次官と参議。共に青年貴族が多く任じられた。
三一一 男女が契る。同衾。
三一二 すぐに。
三一三 すでに富子が真女児になっている。前からのふかい仲を忘れて。
三一四 特別に取柄もない女。富子をさす。
三一五 寵愛なさる。源氏、夕顔「かくことなる事なき人を率ておはして時めかし給ふこそ、いとめざましくつらけれ」。
三一六 あなたの方こそ憎らしく思われる。
三一七 あなた、そんなびっくりなさいますな。
三一八 海よりふかく山より高く、永くかわるまいとかたく誓った二人の契り。翠翠伝「誓海盟山心已許」。
三一九 前世からこうなると定まった因縁。
三二〇 あかの他人のいうことをまにうけて。
三二一 むだに大切な御命をすてておしまいなさいますな。
三二二 ただふるえおののくばかりで。
三二三 とりころされてしまいそうな心持がして。
三二四 気を失った。
三二五 腹立ってじれるさま。
三二六 なだめたりおどしたり。
三二七 いいながらも。
三二八 京都市左京区鞍馬山にある名刹鞍馬寺。修験者の登山修行がさかんであった。
三二九 向いの山。万葉集によく見る語。
三三〇 寺院。梵語。
三三一 効験あらたかな。
三三二 流行病、妖怪、稲につく害虫。
三三三 お迎えしよう。
三三四 よびにやったところ。
三三五 ここは、人にとり憑いた妖怪、蛇性をいう。
三三六 安心しておいでなさい。
三三七 砒素の硫化物で、橙黄色の塊状または粒状をなし、石黄、鶏冠石ともよばれ、悪鬼毒虫などの邪毒をはらい殺すと信じられていた。白娘子永鎮雷峰塔「那先生装了一瓶雄黄薬水」。
三三八 どのくらいあるだろうか、とにかくすごいものである。
三三九 手にのせた。
三四〇 ころげまわり這い倒れて。
三四一 たんなる憑物やもののけではなく、祟りをなさる御神でいらっしゃる。
三四二 きっと。
三四三 気絶した。
三四四 手をかざす。
三四五 目を動かすだけで。
三四六 生きた心地もなく。
三四七 心をしずめて。
三四八 私がこの世に生きているかぎりは。
三四九 探し出されてつかまるであろう。
三五〇 誠実なことではない。
三五一 他人の力を頼むまい。
三五二 御安心下さい。
三五三 何のうらみで。
三五四 私があなたにつくす貞節をうれしいとおもって。
三五五 うわついた浮気心。
三五六 なまめかしい様子をつくって。しなをつくって。
三五七 いやらしかった。
三五八 白娘子永鎮雷峰塔「人無虎心、虎有人意」。
三五九 人間とちがった魔性の執念ぶかい心から。
三六〇 ほんのちょっとしたたわむれごとをさえ。
三六一 恐ろしい気がする。
三六二 私がこの家にいて。
三六三 そのうえで。
三六四 情ない魔性のもの。
三六五 不本意。無思慮。
三六六 富子をさす。
三六七 武道の心得もある武士の身でありながら。
三六八 不甲斐ない。いくじない。
三六九 和歌山県御坊市湯川町小松原。厳密な意味では、道成寺は小松原にあるわけではないが、古来小松原の道成寺といわれてきた。
三七〇 和歌山県日高郡日高川町鐘巻にある名刹で、安珍清姫説話で名高く、熊野詣での順路にあたっていた。
三七一 白娘子永鎮雷峰塔も雷峯怪蹟も「金山寺法海禅師」としているが、それに拠ったのであろう。
三七二 年老いて僧坊の外にも出ない。源氏、若紫「老いかがまりて、室の外にもまかでずと」。
三七三 どんなにしてでもお見捨てなさいますまい。
三七四 仏家の寝室。
三七五 法力の効験。
三七六 先にお帰りなさい。
三七七 密教では芥子を焚いて加持祈祷をおこなう。
三七八 うまくだましよせて。
三七九 心に仏を祈念して。
三八〇 よろこびながら。
三八一 たまわった。
三八二 さあ、いらっしゃい。
三八三 力いっぱい。
三八四 つれないのか。
三八五 豊雄たちのいる部屋。
三八六 小声で呪文をとなえながら。
三八七 気を失って正体なく。
三八八 鉄製の鉢で、僧侶が食物をいれる器。
三八九 祈念をこらされると。
三九〇 一尺ほどの。
三九一 白娘子永鎮雷峰塔「禅師将二物於鉢盂之内」。
三九二 白娘子、雷峯怪蹟ともに、鉢を地下に埋めたと記してある。
三九三 永久。永遠。
三九四 蛇塚は道成寺外西方百メートル余りの所にあるが、ここの文章は、本堂前の安珍塚(蛇榁)と混同しているようである。
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雨月物語 巻之五



青頭巾あをづきん

 むかし快庵禅師くわいあんぜんじといふ大徳だいとこひじりおはしましけり。総角わかきより教外けうぐわいむねをあきらめ給ひて、常に身を雲水にまかせたまふ。美濃(みの)の国の竜泰寺りようたいじ一夏いちげみたしめ、此の秋は奥羽のかたに住むとて、旅立ち給ふ。ゆきゆきて下野(しもつけ)の国に入り給ふ。
 富田といふ里にて日入りはてぬれば、大きなる家のにぎははしげなるに立ちよりて一宿ひとよをもとめ給ふに、田畑たばたよりかへる男黄昏たそがれにこの僧の立てるを見て、大きにおそれたるさまして、山の鬼こそ来りたれ、人みな出でよと呼びののしる。家の内にも騒ぎたち、女わらべは泣きさけび展転こいまろびてくま々にかくる。あるじ一〇あふごをとりて走り出で、の方を見るに、年紀としのころ一一五旬いそぢにちかき老僧の、かしら紺染あをぞめ一二巾を※(「巾+皮」、第3水準1-84-9)かづき、身に墨衣のれたるを穿て、一三つつみたる物を背におひたるが、つゑをもてさしまねき、一四檀越だんゑつなに事にてかばかり一五備へ給ふや。一六遍参へんざんの僧今夜ばかりの宿をかり奉らんとてここに人を待ちしに、おもひきやかくあやしめられんとは。一七やせ法師の強盗などなすべきにもあらぬを、なあやしみ給ひそといふ。荘主あるじあふごを捨てて手をつて笑ひ、一八渠等かれらおろかなる眼より一九客僧をおどしまゐらせぬ。二〇一宿ひとよ供養くやうして二一罪をあがなひたてまつらんと、二二ゐやまひて奥の方に迎へ、こころよく食をもすすめてもてなしけり。
 荘主あるじかたりていふ。さきに二三下等しづらが御僧を見て、鬼来りしとおそれしも二四さるいはれの侍るなり。ここに二五希有けうの物がたりの侍る。二六妖言およづれごとながら人にもつたへ給へかし。此の里の二七上の山に一宇の二八蘭若てらの侍る。もと二九小山氏の三〇菩提院ぼだいゐんにて、代々よよとこの住み給ふなり。今の三一阿闍梨あじやり何某なにがし殿の三二猶子いうじにて、ことに三三篤学修行の聞えめでたく、此の国の人は三四香燭かうしよくをはこびて帰依きえしたてまつる。我がいへにもしばしばまうで給うて、いとも三五うらなく仕へしが、去年こぞの春にてありける。三六こしの国へ三七水丁くわんぢやう三八戒師かいしにむかへられ給ひて、百日あまりとどまり給ふが、くにより十二三歳なる童児わらはしてかへり給ひ、三九起臥おきふしたすけとせらる。かの童児わらはかたち秀麗みやびやかなるをふかくでさせたまうて、四〇年来としごろの事どももいつとなく怠りがちに見え給ふ。さるに茲年ことし四月うづき(ころ)、かの童児わらはかりそめの病に臥しけるが、日をておもくなやみけるを四一いたみかなしませ給うて、四二国府こうふ典薬てんやく四三おもだたしきをまで迎へ給へども、其のしるしもなくつひにむなしくなりぬ。四四ふところのたまをうばはれ、挿頭かざしの花を四五嵐にさそはれしおもひ、泣くに涙なく、叫ぶに声なく、あまりに嘆かせたまふままに、火にき、土にはうむる事をもせで、四六かほに臉をもたせ、手に手をとりくみて日を給ふが、つひ心神こころみだれ、生きてありし日にたがはずたはぶれつつも、其の肉の腐りただるるををしみて、肉を吸ひ骨をめて、四七はたくらひつくしぬ。寺中の人々、四八じゆこそ鬼になり給ひつれと、連忙あわただしく逃げさりぬるのちは、よな々里に下りて人を四九驚殺おどし、或は墓をあばきてなま々しきかばねくらふありさま、まことに鬼といふものは昔物がたりには聞きもしつれど、五〇うつつにかくなり給ふを見て侍れ。されどいかがしてこれを五一せいし得ん。只いへごとに五二暮をかぎりて堅くとざしてあれば、近曾このごろ国中くになかへも聞えて、人の往来いききさへなくなり侍るなり。さるゆゑのありてこそ客僧きやくそうをもあやまりつるなりとかたる。
「人間の肉を食う悪鬼と化した山寺の僧が、里人を追いかけてとらえようとしている図」のキャプション付きの図
人間の肉を食う悪鬼と化した山寺の僧が、里人を追いかけてとらえようとしている図。(原本三丁裏、四丁表の挿絵)

 快庵この物がたりを聞かせ給うて、世には不可思議かしぎの事もあるものかな。凡そ人とうまれて、五三仏菩薩のをしへの広大なるをもしらず、愚かなるまま、五四かだましきままに世を終るものは、其の五五愛慾邪念の五六業障ごふしやうかれて、或は五七もとかたちをあらはしていかりむくい、或は鬼となりみづちとなりてたたりをなすためし、往古いにしへより今にいたるまでかぞふるに尽しがたし。又人きながらにして鬼にするもあり。五八楚王そわうの宮人はをろちとなり、五九王含わうがんが母は六〇夜叉やしやとなり、六一呉生ごせいが妻はとなる。又いにしへ六二ある僧あやしき家に旅寝せしに、其の夜雨風はげしく、ともしさへなきわびしさに六三いも寝られぬを、夜ふけてひつじの鳴くこゑの聞えけるが、頃刻しばらくして僧のねぶりをうかがひてしきりにぐものあり。僧あやしと見て、六四枕におきたる禅杖ぜんぢやうをもてつよくちければ、大きに叫んでそこにたふる。この音に六五あるじうばなるものあかしを照し来るに見れば、若き女の打ちたふれてぞありける。うば泣く泣く命をふ。いかがせん。六六捨てて其の家を出でしが、其ののち又六七たよりにつきて其の里を過ぎしに、田中に人多くつどひてものを見る。僧も立ちよりて何なるぞと尋ねしに、里人いふ。鬼にしたる女をとらへて、今土に※(「やまいだれ+(夾/土)」、第3水準1-88-54)うづむなりとかたりしとなり。されどこれらは皆女子をんなごにて、男たるもののかかるためしを聞かず。凡そ女のさがかだましきには、さる浅ましきものにも化するなり。又男子なんしにも、六八ずゐ煬帝やうだい臣家しんか六九麻叔謀ましゆくぼうといふもの、小児せうにの肉を嗜好このみて、ひそかに民の小児をぬすみ、これをしてくらひしも七〇あなれど、是は浅ましき七一えびす心にて、あるじのかたり給ふとはことなり。さるにてもかの僧の鬼になりつるこそ、過去の因縁にてぞあらめ。そも平生つね七二行徳ぎやうとくのかしこかりしは、仏につかふる事に志誠まごころを尽せしなれば、其の童児わらは七三やしなはざらましかば、七四あはれよき法師なるべきものを。一たび愛慾の迷路めいろに入りて、七五無明むみやう七六業火ごふくわさかんなるより鬼と化したるも、ひとへに七七なほくたくましきさがのなす所なるぞかし。七八ゆるせば妖魔えうまとなり、七九収むるとき八〇仏果ぶつくわを得るとは、此の法師が八一ためしなりける。八二老衲らうなふもしこの鬼を八三教化けうげして本源もとの心にかへらしめなば、こよひのあるじむくひともなりなんかしと、たふときこころざしをおこし給ふ。荘主あるじかうべたたみりて、御僧この事をなし給はば、此の国の人は浄土にうまれ出でたるがごとしと、涙を流してよろこびけり。山里のやどり八四貝鐘かひがねも聞えず。八五廿日あまりの月も出でて、古戸のすきに洩りたるに、夜の深きをもしりて、いざ休ませ給へとて八六おのれも臥戸ふしどに入りぬ。
 八七山院人とどまらねば、八八楼門ろうもん八九荊棘うばらおひかかり、九〇経閣きやうかく九一むなしく苔蒸こけむしぬ。くもあみをむすびて九二諸仏を繋ぎ、燕子つばくらくそ九三護摩ごまゆかをうづみ、九四方丈はうぢやう九五廊房らうばうすべて物すざましく荒れはてぬ。日の影九六さるにかたぶく(ころ)、快庵禅師寺に入りて九七しやくならし給ひ、遍参へんざんの僧九八今夜こよひばかりの宿をかし給へと、あまたたびべども九九さらにこたへなし。一〇〇眠蔵めんざうより一〇一痩槁やせがれたる僧の一〇二よわ々とあゆみ出で、からびたる声して、御僧は何地(いづち)へ通るとてここに来るや。此の寺はさる由縁ゆゑありて、かく荒れはて、人も住まぬ野らとなりしかば、一りふ一〇三斎糧ときりやうもなく、一宿ひとよをかすべき一〇四はかりごともなし。はやく里に出でよといふ。禅師いふ。一〇五これは美濃の国を出でて、みちの一〇六いぬる旅なるが、このふもとの里を過ぐるに、山のかたち、水の流のおもしろさに、おもはずもここにまうづ。日もななめなれば里にくだらんも一〇七はるけし。一〇八ひたすら一宿ひとよをかし給へ。あるじの僧云ふ。かく野らなる所は一〇九よからぬ事もあなり。ひてとどめがたし。一一〇強ひてゆけとにもあらず。僧のこころにまかせよとて、ふたたび物をもいはず。こなたよりも一ことを問はで、あるじのかたはらに座をしむる。一一一る看る日は入り果てて、一一二宵闇よひやみの夜のいとくらきに、一一三げざればまのあたりさへわかぬに、只たに水の音ぞちかく聞ゆ。あるじの僧も又眠蔵めんざうに入りて音なし。
 夜更けて月の夜にあらたまりぬ。影一一四玲瓏れいろうとしていたらぬくまもなし。一一五ひとつともおもふ(ころ)、あるじの僧眠蔵を出でて、あわただしく一一六物をたづぬ。たづね得ずして大いに叫び、一一七禿驢とくろ[#「禿驢」の左に「くそばうず」の注記]いづくに隠れけん。ここもとにこそありつれと、禅師が前を幾たび走り過ぐれども、更に禅師を見る事なし。堂の方にかけりゆくかと見れば、庭をめぐりてをどりくるひ、つひに疲れふして起き来らず。夜明けて朝日のさし出でぬれば、酒の醒めたるごとくにして、禅師がもとの所にいますを見て、只あきれたるさまに、ものさへいはで、柱にもたれ長嘘ためいきをつぎてもだしゐたりける。禅師ちかくすすみよりて、院主ゐんじゆ何をか嘆き給ふ。一一八もしゑ給ふとならば、一一九野僧が肉にはらをみたしめ給へ。あるじの憎いふ。師は夜もすがらそこに居させたまふや。禅師いふ。ここにありてねぶる事なし。あるじの憎いふ。我あさましくも人の肉を好めども、いまだ一二〇仏身ぶつしんの肉味をしらず。師はまことに仏なり。一二一鬼畜きちくのくらきまなこをもて、一二二活仏くわつぶつ一二三来迎らいがうを見んとするとも、一二四見ゆべからぬことわりなるかな。あなたふとと、かうべれてもだしける。
 禅師いふ。里人のかたるを聞けば、汝一旦ひとたび愛慾あいよく心神こころみだれしより、(たちま)ち鬼畜に一二五堕罪だざいしたるは、あさましともかなしとも、一二六ためしさへ(まれ)なる悪因あくいんなり。よひ々里に出でて人をわざはひするゆゑに、ちかき里人は安き心なし。我これを聞きて一二七捨つるに忍びず。わざわざ来りて教化けうげし、本源もとの心にかへらしめんとなるを、汝我がをしへを聞くやいなや。あるじの憎いふ。師はまことに仏なり。かく浅ましき悪業あくごふとみにわするべきことわりを教へ給へ。禅師いふ。汝一二八聞くとならばここに来れとて、一二九簀子すのこの前のたひらなる石の上に座せしめて、みづから※(「巾+皮」、第3水準1-84-9)かづき給ふ紺染あをぞめの巾を脱ぎて僧がかうべ※(「巾+皮」、第3水準1-84-9)かしめ、一三〇証道しようだうの歌の二句を授け給ふ。

一三一江月照かうげつてらし松風吹しようふうふく   永夜清宵えいやせいせう何所為なんのしよゐぞ

汝ここを去らずして一三二しづかに此の句のこころをもとむべし。意解けぬるときは、おのづから一三三本来の仏心に会ふなるはと、一三四念頃(ねんごろ)に教へて山を下り給ふ。此ののちは里人おもきわざはひをのがれしといへども、(なほ)僧が生死をしらざれば、疑ひ恐れて人々山にのぼる事をいましめけり。
 一とせはやくたちて、一三五むかふ年の冬十月かみなづき初旬はじめ、快庵大徳、一三六奥路あうろのかへるさに又ここを過ぎ給ふが、かの一宿ひとよのあるじがいへに立ちよりて、僧が一三七消息せうそこを尋ね給ふ。荘主あるじよろこび迎へて、御僧の大徳によりて鬼ふたたび山をくだらねば、人皆浄土にうまれ出でたるごとし。されど山にゆく事はおそろしがりて、一人としてのぼるものなし。一三八さるから消息をしり侍らねど、など今まできては侍らじ。今夜こよひの御とまりに、一三九かの菩提ぼだいをとぶらひ給へ。誰も一四〇随縁ずゐえんしたてまつらんといふ。禅師いふ。一四一かれ善果ぜんくわもとづきて遷化せんげせしとならば、一四二道に先達せんだちの師ともいふべし。又活きてあるときは一四三我がために一個ひとり徒弟とていなり。一四四いづれ消息せうそこを見ずばあらじとて、ふたたび山にのぼり給ふに、一四五いかさまにも人のいききえたると見えて、去年こぞふみわけし道ぞとも思はれず。寺に入りて見れば、をぎ一四六尾花のたけ人よりもたかく生茂おひしげり、露は時雨めきて降りこぼれたるに、一四七三つのみちさへわからざる中に、堂閣の戸右左みぎひだりたふれ、方丈はうぢやう一四八庫裏くりめぐりたるらうも、一四九朽目くちめに雨をふくみてこけむしぬ。さてかの僧をらしめたる簀子すのこのほとりをもとむるに、影のやうなる人の、僧俗ともわかぬまでにひげかみもみだれしに、むぐら一五〇むすぼほれ、尾花一五一おしなみたるなかに、の鳴くばかりのほそきこゑして、一五二物とも聞えぬやうに、まれまれとなふるを聞けば、

江月照かうげつてらし松風吹しようふうふく   永夜清宵えいやせいせう何所為なんのしよゐぞ

 禅師見給ひて、やがて禅杖をりなほし、一五三作麼生そもさん一五四何所為なんのしよゐぞと、一かつしてかれかうべち給へば、(たちま)ち氷の朝日にあふがごとくきえうせて、かの青頭巾とほねのみぞ草葉にとどまりける。一五五にも一五六久しき念のここにせうじつきたるにやあらん。たふときことわりあるにこそ。
 されば禅師の大徳、一五七雲のうら、海の外にも聞えて、一五八初祖しよその肉いまだ乾かずとぞ称嘆しけるとなり。かくて里人あつまりて、寺内を清め、修理しゆりをもよほし、禅師をしたふとみてここに住ましめけるより、一五九もと密宗みつしゆうをあらためて、一六〇曹洞さうとう霊場れいぢやうをひらき給ふ。一六一今なほ寺はたふとく栄えてありけるとなり。

一 僧侶のかぶる紺色の頭巾で、本篇の主人公快庵禅師がこれを鬼の僧にかぶらせた。
二 明応二年(一四九三)一二月没。七二歳。曹洞宗の高僧、名は妙慶、越後の顕聖寺、下野の大中寺等をひらく。禅師は、知徳高い禅僧で、官賜。
三 幼少より。髪を左右にわけて角のように揚げて結う小児の髪形による。
四 特に経典をもたず、不立文字・教外別伝・以心伝心を旨とする禅宗の本旨。
五 諸国を行脚すること。
六 岐阜県関市下有知にある曹洞宗の名刹。
七 夏行(四月一六日―七月一五日まで、室に籠って仏道修行すること。夏安居とも)をすまして。
八 栃木県下都賀郡大平町富田の宿。
九 使用人なども大勢いて裕福そうな家。
一〇 天秤棒の一種。
一一 年ごろ五〇歳にちかい。
一二 僧侶のかぶる頭巾。
一三 包み。旅行用の油単。
一四 檀家。信徒。ここは相手をよびかけた語。御主人。
一五 用心する。警戒する。
一六 諸国を遍歴参詣して修行する僧。
一七 私のような痩法師が。
一八 百姓たちをさす。
一九 旅の僧。
二〇 一夜の宿を提供して。
二一 おかした罪のつぐないをいたしましょう。
二二 礼を厚くして。
二三 小作人や下男。下僕たち。
二四 しかるべき理由。
二五 世にもまれな不思議な話。
二六 人をまどわすようなあやしいはなし。
二七 富田の西北にある大平山。
二八 寺院。のちの曹洞宗大平山大中寺をいう。
二九 藤原秀卿の[#「藤原秀卿の」はママ]後裔で栃木県小山市を本拠とした豪族。
三〇 家代々帰依して、財物を寄与する旦那寺。
三一 梵語。密教で秘法を伝授する僧職。
三二 甥。または養子。
三三 学問修行のふかいという評判が高く。
三四 香や蝋燭等の布施をあげ。
三五 わけへだてなく、うちとけてつきあっていたが。
三六 越後佐渡(新潟県)、越中(富山県)、加賀能登(石川県)、越前若狭(福井県)の総称。
三七 真言宗ではじめて受戒するとき、その頂に香水をそそぐ結縁灌頂、修道上進のときの伝法灌頂等の儀式。
三八 戒を授ける法師。阿闍梨がおこなう。
三九 身の回りの世話をする者。
四〇 長年勤めてきた修行の事。
四一 御心痛になり。
四二 ここは、国府所属の官医。
四三 立派な。名声の高い。
四四 大切なもの。
四五 嵐に吹き散らされる。
四六 顔をすりよせて。
四七 とうとう。
四八 寺院の主。住持。
四九 ひどく驚かし。
五〇 まのあたり。
五一 とりおさえる。
五二 日暮れとともに。
五三 仏と菩薩。
五四 心のまがった。
五五 肉欲・色欲にとらわれる。
五六 成仏正道のさまたげになる悪業にひきずられて。
五七 生前の姿。
五八 五雑組、巻五「化為狼者、太原王含母也。化為夜叉者、呉生妾劉氏也。化為蛾者、楚荘王宮人也。化為蛇者、李勢宮人也」の読み違え。楚の荘王は中国紀元前六〇〇年頃の人。宮人は女官。
五九 太原にいた武将。
六〇 暴悪勇猛な鬼類の一。
六一 いつの人か不明。
六二 以下、五雑組、巻五に伝えられる話。
六三 寝るに寝られない。
六四 枕許においた警策。
六五 主人である老婆。
六六 そのままにしておいて。
六七 ついでがあったので。
六八 中国隋(五八一―六一八)の第二代皇帝。大運河などを作った。
六九 このはなしは五雑組、巻五に見える。
七〇 「あるなれど」の約。
七一 理非分別をわきまえない野蛮な心。
七二 仏道修行の結果身につけた徳。修行と学徳。
七三 側近く召して世話をしなかったならば。
七四 あっぱれ。ほんとに。
七五 煩悩のために一切の真理を知ることができなくなった暗さをいう。
七六 悪事悪業のために身を苦しめることを地獄の猛火にたとえた。
七七 一本気で、思いこんだらつらぬきとおす性質。
七八 心をゆるめて放任すれば妖しい魔物となり。
七九 心をひきしめれば。
八〇 成仏できる。
八一 そのよい実例である。
八二 老僧。快庵の自称。
八三 教え導いて善道に転化する。
八四 貝と鐘。ともに仏具。近くに寺院がないこと。
八五 二〇日すぎの、出のおそい下弦の月。
八六 この家の主人をさす。
八七 山寺は誰も住みついていないとみえて。
八八 二階造りの門。山門。
八九 いばら。雑草。
九〇 経典をおさめる建物。
九一 見捨てられたまま。
九二 たちならんだ仏像。
九三 護摩壇。本尊の前に設けられている。
九四 住持の居室。
九五 長廊下と僧侶の室。
九六 方角ととれば西南西、時刻ととれば午後四時より六時頃をいう。
九七 錫杖。
九八 今夜一夜だけの。
九九 いっこうに。
一〇〇 仏家でいう寝室。
一〇一 痩せこけた。
一〇二 力なくしずかに。
一〇三 食糧。斎は、僧侶の正食。
一〇四 用意、支度。
一〇五 私は。謡曲などでつねに用いる自称の代名詞。
一〇六 行く。
一〇七 遠いみちのりである。
一〇八 切に。ぜひに。
一〇九 よくないこともあるものです。
一一〇 さりとて、たって出て行けというわけでもない。
一一一 たちまち。秋の日はおちるのが早い。
一一二 月の出が遅くて、宵にまだ月のなく暗い状態。
一一三 つけないので。
一一四 月光が清くうつくしく輝くさま。
一一五 午前零時より零時半ごろまで。
一一六 何かさがしもとめる。
一一七 右によみ、左に意味を記している。白話小説などの注解に用いる方法。頭に毛のない坊主をののしることば。
一一八 もし飢えておいでだというならば。
一一九 僧が自分を卑下していう語。愚僧、拙僧。
一二〇 生き仏の肉の味をしらない。
一二一 鬼畜のような理非分別のつかない眼。
一二二 生き仏。
一二三 仏が衆生臨終の際に迎えにくることで、ここは、おいでになった、の意。
一二四 見ることができないのも当然のことである。
一二五 罪におちる。鬼畜になりさがる。
一二六 前例がないほどの悪因縁。
一二七 見捨てておくことができない。
一二八 聞くというならば。
一二九 堂の前の縁側。
一三〇 禅の本義を七言長詩の形で説いたもの。唐の玄覚の作。
一三一 現代語訳(一六四ページ)を見よ。[#現代語訳「月は入江をてらしてあかるく、岸辺の松を吹く風は松籟しょうらいを聞かせる。この秋の夜長、清らかな宵の景色はいったい何のためであろうか。自然のままのすがたである。しかし、大自然のすがたは結果において自他をきよめている。これ自然の摂理である。その真意を理解すれば、人はおのずから真理を会得できる。これが禅定である」]
一三二 おもむろに。じっくりと。
一三三 本来そなわっている仏心にあうのである。
一三四 親切に。
一三五 翌年。
一三六 奥州よりの帰途。
一三七 その後の様子。
一三八 それゆえに。
一三九 かの山寺の僧が成仏するように、冥福をお祈り下さい。
一四〇 私どももみんな一緒に回向いたしましょう。
一四一 彼が善行のむくいで往生したというのならば。遷化は、仏法念者の死去をいう。
一四二 仏道においては私より先に悟りに入った先輩ともいうべき人。
一四三 私にとっては、一人の弟子。
一四四 どちらにしてもその様子を見なければなるまい。
一四五 主人の言葉通り、なるほど人の往来が絶えているとみえて。
一四六 すすき。
一四七 庭の草生えた小径。門への道、井戸への道、厠への道の三径。漢の蒋※(「言+栩のつくり」、第3水準1-92-6)が邸内の三径に遊んで仕えなかった故事がある。また陶淵明、帰去来辞に「三径就荒、松菊猶存」とある。源氏、蓬生「このさびしき宿にも必ずわけたる跡あなる三つの径とたどる」。
一四八 寺院で雑事をつかさどる所。台所など。
一四九 朽ちたもくめ。
一五〇 雑草がからみあい。
一五一 倒れ伏しなびいている様。
一五二 何をいっているのかはっきりと聞えない状態。
一五三 禅家の用語。いかに。どうじゃ。
一五四 どうするのだ。
一五五 まことに。じつに。
一五六 長い間の執念がここにいたって全く消えつくしたのであろう。
一五七 遠い国々から海外にまで。
一五八 禅宗の開祖達磨大師は死んだが、その教法・精神はいまなお生き続けている。快庵はその教法を具現化した。
一五九 それまでの真言宗を改宗して。
一六〇 曹洞宗。禅宗の一派。道元の開創。
一六一 栃木県下都賀郡大平町西山田にある大平山大中寺。曹洞宗関東惣禄三か寺の一。現在も広大な境内に老杉繁茂し、快庵を祀った開山堂、根無しの藤等が残っている。
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貧福論ひんぷくろん

 陸奧むつの国蒲生氏郷がまふうぢさとの家に、岡左内といふ武士もののふあり。ろくおもく、ほまれたかく、丈夫ますらをの名を関の東にふるふ。此のいと偏固かたはなる事あり。富貴をねがふ心、常の武扁ぶへんにひとしからず。倹約をむねとして一〇家のおきてをせしほどに、年をみて富みさかえけり。かつ一一いくさ調練たならいとまには、一二茶味さみ翫香ぐわんかうたのしまず。一三庁上ひとまなる所に許多あまたこがねならべて、心をなぐさむる事、世の人の月花にあそぶにまされり。人みな左内が行跡ふるまひをあやしみて、吝嗇りんしよく一四野情やじやうの人なりとて、つまはじきをしてにくみけり。
 一五家に久しきをのこ一六黄金わうごん一枚かくし持ちたるものあるを聞きつけて、ちかく召していふ。一七崑山こんざんたまもみだれたる世には瓦礫ぐわれきにひとし。かかる世にうまれて弓矢とらんには、一八棠谿たうけい墨陽ぼくやうつるぎ一九さてはありたきもの財宝たからなり。されどよきつるぎなりとて千人のあたにはむかふべからず。金の徳はあめが下の人をも従へつべし。武士たるもの二〇みだりにあつかふべからず。かならずたくはをさむべきなり。※(「にんべん+欠」の「人」に代えて「小」、第3水準1-14-13)なんぢいやしき身の分限ぶげんに過ぎたるたからを得たるは二一嗚呼をこわざなり。賞なくばあらじとて、十両の金を給ひ、二二かたなをもゆるして召しつかひけり。人これを伝へ聞きて、左内が金をあつむるは、二三長啄ちやうたくにして飽かざるたぐひにはあらず。ただ当世の一奇士きしなりとぞ二四いひはやしける。
 其の夜、左内が枕上まくらがみに人の来たる音しけるに、目さめて見れば、二五灯台とうだいもとに、ちひさげなる翁のゑみをふくみてれり。左内枕をあげて、ここに来るはそ。我に二六かてからんとならば二七力量りきりやうの男どもこそ参りつらめ。※(「にんべん+欠」の「人」に代えて「小」、第3水準1-14-13)がやうの二八げたるさましてねぶりをおそひつるは、きつねたぬきなどのたはむるるにや。二九何のおぼえたるわざかある。秋の夜の目さましに、三〇そと見せよとて、すこしも騒ぎたる三一容色いろめなし。翁いふ。かく参りたるは、三二魑魅ちみにあらず人にあらず。君が三三かしづき給ふ黄金わうごん精霊せいれいなり。年来としごろあつくもてなし給ふうれしさに、夜話よがたりせんとてしてまゐりたるなり。君が今日家の子をしやうじ給ふにでて、翁が思ふ三四こころばへをもかたりなぐさまんとて、かりかたちあらはし侍るが、十にひとつもやうなき閑談むだごとながら、三五いはざるは腹みつれば、わざとにまうでてねぶりをさまたげ侍る。
「枕許に立った黄金の精に、左内が、体をおこして応待している図」のキャプション付きの図
枕許に立った黄金の精に、左内が、体をおこして応待している図。「灯台」が行灯、黄金の精が「ちひさげなる翁」であることがわかる。(原本十三丁裏、十四丁表の挿絵)

 さても富みておごらぬは大聖おほきひじりの道なり。さるを世のさがなきことばに、三六富めるものはかならずかだまし。富めるものはおほくおろかなりといふは、しん三七石崇せきそう唐の三八王元宝わうげんぱうがごとき、三九豺狼さいらう蛇蝎じやかつともがらのみをいへるなりけり。往古いにしへに富める人は、四〇天の時をはかり、地の利をあきらめて、おのづからなる富貴ふうきを得るなり。四一呂望りよぼうせいほうぜられて民に産業なりはひを教ふれば、海方うなべの人利に走りて四二ここに来朝きむかふ。四三管仲くわんちゆう四四ここのたび諸侯をあはせて、身は四五倍臣やつこながら富貴は列国の君にまされり。四六范蠡はんれい四七子貢しこう四八白圭はつけいともがら四九たからひさぎ利をうて、巨万ここだくこがねみなす。これらの人をつらねて、五〇貨殖伝くわしよくでんしるし侍るを、其のいふ所いやしとて、のちの博士はかせ筆を競うてそしるは、ふかくさとらざる人のことばなり。五一つねなりはひなきは恒の心なし。五二百姓おたからつとめてたなつものを出し、工匠等たくみらつとめてこれを助け、商賈あきびとつとめてこれかよはし、おのれおのれが五三なりをさめ家を富まして、みおやを祭り子孫のちはかる外、人たるもの何をかさん。ことわざにもいへり。五四千金の子は市に死せず。五五富貴の人は王者とたのしみを同じうすとなん。まことに五六ふち深ければ魚よくあそび、山ながければけものよくそだつは、五七あめまにまになることわりなり。只、五八貧しうしてたのしむてふことばありて、五九字を学びゐんを探る人のまどひをとるはしとなりて、弓矢とるますらも富貴は国のもとゐなるをわすれ、六〇あやしき計策たばかりをのみ調練たねらひて、ものを※(「爿+戈」、第4水準2-12-83)やぶり人をそこなひ、おのが徳をうしなひて子孫を絶つは、たからかろんじて名をおもしとするまどひなり。おもふに名とたからともとむるに心ふたつある事なし。六一文字てふものにつながれて、金の徳をかろんじては、みづから清潔ととなへ、六二すきふるうて棄てたる人をかしこしといふ。さる人はかしこくとも、さるわざは賢からじ。こがね六三ななのたからのつかさなり。土に※(「やまいだれ+(夾/土)」、第3水準1-88-54)うもれては霊泉れいせんたたへ、不浄を除き、たへなるこゑかくせり。かくいさぎよきものの、いかなれば愚昧ぐまい六四貪酷どんこうの人にのみつどふべきやうなし。今夜こよひ此のいきどほりを吐きて年来としごろのこころやりをなし侍る事のうれしさよといふ。
 左内きようじてむしろをすすみ、さてしもかたらせ給ふに、富貴の道のたかき事、おのがつねにおもふ所露たがはずぞ侍る。ここにおろかなるとひ事の侍るが、ねがふはつばらにしめさせ給へ。今六五ことわらせ給ふは、もはら金の徳をかろしめ、富貴の大業たいげふなる事をしらざるを罪とし給ふなるが、かの六六紙魚しぎよがいふ所もゆゑなきにあらず。今の世に富めるものは、十が八ツまではおほかた貪酷残忍の人多し。おのれは俸禄ほうろくに飽きたりながら、兄弟はらから一属やからをはじめ、六七みおやより久しくつかふるものの貧しきをすくふわざをもせず、となりにみつる人のいきほひをうしなひ、ひとたすけさへなく六八世にくだりしものの田畑たばたをも、あたひやすくして六九あながちにおのがものとし、今おのれは村長むらをさとうやまはれても、むかしかりたる人のものをかへさず、礼ある人のむしろを譲れば、其の人を七〇やつこのごとく見おとし、たまたまふるき友の寒暑かんしよとむらひ来れば、物からんためかと疑ひて、宿にあらぬよしをこたへさせつるたぐひあまた見来りぬ。又君に忠なるかぎりをつくし、父母に七一孝廉かうれんの聞えあり、貴きをたふとみ、いやしきをたすくるこころありながら、七二三冬のさむきにも七三きう起臥おきふし、七四ぶくのあつきにも七五かつすすぐいとまなく、年ゆたかなれども七六あした※(「日+甫」、第3水準1-85-29)くれに一わんかゆにはらをみたしめ、さる人はもとより朋友ともがきとむらふ事もなく、かへりて兄弟はらから一属やからにも七七みちられ、まじはりを絶たれて、其のうらみをうつたふる方さへなく、七八きふ々として一生をふるもあり。さらばその人は作業なりはひ七九うときゆゑかと見れば、つとに起きおそくふして八〇性力ちからこらし、西にひがしに走りまどふ八一※蹊ありさま[#「足へん+堯」、U+8E7A、319-上-12]さらにいとまなく、その人おろかにもあらで才をもちふるに八二あたるはまれなり。これらは八三顔子がんしが一ぺうあぢはひをもしらず。かくつるを、八四仏家ぶつかには前業ぜんごふをもて説きしめし、八五儒門には天命と教ふ。もし未来あるときは、現世げんぜ八六陰徳善功も八七来世のたのみありとして、人しばらくここに八八いきどほりをやすめん。されば富貴のみちは仏家にのみそのことわりをつくして、儒門の教は八九荒唐くわうたう[#「荒唐」の左に「とりじめなし」の注記]なりとやせん。九〇かみも仏の教にこそ九一らせ給ふらめ。九二いなならばつばらにのべさせ給へ。
 翁いふ。君が問ひ給ふは、九三往古いにしへより論じ尽さざることわりなり。かの仏の御法みのりを聞けば、九四富と貧しきは前生さきのよ脩否よきあしきによるとや。九五あらましなる教ぞかし。前生にありしときおのれをよくをさめ、慈悲の心もはらに、他人ことひとにもなさけふかくまじはりし人の、その善報によりて、今此のしやうに富貴の家にうまれきたり、おのがたからをたのみて九六他人ことひとにいきほひをふるひ、九七あらぬ狂言まがごとをいひののしり、あさましき九八えびすごころをも見するは、前生さきのよの善心かくまでなりくだる事はいかなるむくいのなせるにや。仏菩薩ぶつぼさつ九九名聞利要みやうもんりえうみ給ふとこそ聞きつる物を、など貧福の事に一〇〇かかづらひ給ふべき。さるを富貴は前生さきのよのおこなひのかりし所、貧賤はしかりしむくいとのみ説きなすは、一〇一尼媽あまかかとらかす一〇二なま仏法ぞかし。貧福をいはず、ひたすら善をまん人は、その身に来らずとも、子孫はかならず幸福さいはひべし。一〇三宗廟そうべうこれをけて子孫これをたもつとは、此のことわりの細妙くはしきなり。おのれ善をなして、おのれそのむくひの来るを待つはなほきこころにもあらずかし。又悪業あくごふ慳貪けんどんの人のさかふるのみかは、寿いのちめでたくそのをはりをよくするは、一〇四我にことなることわりあり。霎時しばらく聞かせたまへ。我今かりかたちをあらはしてかたるといへども、神にあらず仏にあらず、もと一〇五非情ひじやうの物なれば人と異なるこころあり。いにしへに富める人は、あめの時にかなひ、くにの利をあきらめて、一〇六産を治めて富貴となる。これ天のまにまになる計策たばかりなれば、たからのここにあつまるも天のまにまになることわりなり。又一〇七卑吝ひりん貪酷どんこうの人は、金銀を見ては父母のごとくしたしみ、くらふべきをもくらはず、一〇八穿べきをもず、得がたきいのちさへ惜しとおもはで、起きておもひ臥してわすれねば、ここにあつまる事、一〇九まのあたりなることわりなり。我もと神にあらず仏にあらず、只これ非情なり。非情のものとして、人の善悪をただし、それにしたがふべきいはれなし。善を一一〇撫で悪をつみするは、天なり、神なり、仏なり。一一一三ツのものは道なり。我がともがらのおよぶべきにあらず。只一一二かれらが一一三つかへかしづく事のうやうやしきにあつまるとしるべし。これかねに霊あれども人とこころの異なる所なり。また富みて一一四善根をうるにも一一五ゆゑなきに恵みほどこし、その人の不義をもあきらめず一一六しあたへたらん人は、善根なりともたからはつひに散ずべし。これらは金の用を知りて、金の徳をしらず、かろくあつかふが故なり。又身のおこなひもよろしく、人にも志誠まごころありながら、一一七世にせばめられてくるしむ人は、一一八天蒼氏てんさうしたまものすくなくうまれ出でたるなれば、精神を労しても、一一九いのちのうちに富貴を得る事なし。さればこそいにしへのかしこき人は、もとめてやうあればもとめ、益なくばもとめず、おのがこのむまにまに世を山林にのがれて、しづかに一生を終る。心のうち一二〇いかばかりすずしからんとはうらやみぬるぞ。かくいへど富貴のみちはわざにして、一二一たくみなるものはよくあつめ、不せうのものは瓦の解くるよりやすし。かつ我がともがらは、人の生産なりはひにつきめぐりて、一二二たのみとするぬしもさだまらず。ここにあつまるかとすれば、そのぬしのおこなひによりて、たちまちにかしこに走る。水のひくき方にかたぶくがごとし。一二三夜に昼にゆきくとむときなし。ただ一二四閑人むだびと生産なりはひもなくてあらば、一二五泰山たいざんもやがてひつくすべし。一二六江海がうかいもつひに飲みほすべし。いくたびもいふ、不徳の人のたからを積むは、一二七これとあらそふことわり、君子は論ずる事なかれ。一二八ときを得たらん人の、倹約を守りつひえをはぶきてよくつとめんには、おのづから家富み人服すべし。我は仏家の前業ぜんごふもしらず、儒門の天命にもかかはらず、一二九異なるさかひにあそぶなりといふ。
 左内いよいよ興に乗じて、れいの議論きはめて一三〇妙なり。ひさしき疑念うたがひ今夜こよひせうじつくしぬ。こころみにふたたび問はん。今一三一豊臣の威風四海をなみし、一三二五畿七道一三三ややしづかなるに似たれども、一三四亡国の義士彼此をちこちひそかくれ、或は大国のぬしに身をせて世のへんをうかがひ、かねて一三五こころざしげんとはかる。民も又戦国の民なれば、一三六すきててほこへ、一三七農事なりはひをこととせず。士たるもの枕を高くしてねむるべからず。今のさまにては長く不きうまつりごとにもあらじ。誰か一統して民をやすきにらしめんや。又一三八誰にかくみし給はんや。翁云ふ。これ又人道なれば我がしるべき所にあらず。只富貴をもて論ぜば、信玄しんげんがごとく智謀はかりごとももが百あたらずといふ事なくて、一三九一生の威を三国にふるふのみ。しかも名将の聞えは世こぞりてしやうずる所なり。その末期まつごことばに、一四〇当時信長は一四一果報いみじき大将なり。我平生つねかれあなどりて征伐を怠り、一四二此のやまひかかる。我が子孫もやがかれほろぼされんといひしとなり。謙信けんしんは勇将なり。信玄死してはあめが下に一四三つゐなし。不幸にして一四四はやみまかりぬ。信長の器量人にすぐれたれども、信玄の智にかず、謙信の勇に劣れり。しかれども富貴を得て、天が下の事一たびは此の人に一四五ざす。一四六任ずるものをはづかしめていのちおとすにて見れば、文武を兼ねしといふにもあらず。秀吉ひでよしこころざしおほいなるも、一四七はじめより天地あめつちに満つるにもあらず。一四八柴田と丹羽にはが富貴をうらやみて、羽柴と云ふうぢを設けしにてしるべし。今一四九りようして太虚みそらのぼり、池中ちちゆうをわすれたるならずや。秀吉竜と化したれども一五〇蛟蜃かうしんたぐひなり。一五一蛟蜃の竜と化したるは、寿いのちわづかに三歳みとせを過ぎずと。これもはた後なからんか。それおごりをもて治めたる世は、往古いにしへより久しきを見ず。人の守るべきは倹約なれども、一五二過ぐるものは卑吝ひりんつる。されば倹約と卑吝のさかひよくわきまへてつとむべき物にこそ。今豊臣のまつりごと久しからずとも、万民ばんみん一五三にぎははしく、戸々ここ一五四千秋楽をうたはん事ちかきにあり。君がのぞみにまかすべしとて八字の句をうたふ。そのことばにいはく、

一五五※(「くさかんむり/冥」、第3水準1-91-18)げうめい日杲ひにあきらかに   百姓ひやくせいいへによる

 数言すげんきようきて、遠寺ゑんじかね一五六五更を告ぐる。夜すでけぬ。わかれを給ふべし。こよひの長談ながものがたりまことに君がねむりをさまたぐと、ちてゆくやうなりしが、かき消して見えずなりにけり。
 左内つらつら一五七夜もすがらの事をおもひて、かの句を案ずるに、百姓ひやくせい家にすの句、一五八ほぼ其のこころを得て、ふかくここに一五九しんおこす。まことに一六〇瑞草ずいさうの瑞あるかな。

 雨月物語五之巻大尾
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一六一安永五歳丙申一六二孟夏吉旦

寺町通五条上ル町
京都    梅村判兵衛
書肆
高麗橋筋壱町目
大坂    一六三野村長兵衛

一 一人の武士と黄金の精の貧富に関する議論。
二 広く東北地方をさし、ここは会津地方。
三 戦国時代の武将。文禄四年(一五九五)没、四〇歳。会津四二万石に封ぜられ、のち九二万石に加増された。
四 実在の人物。岡野左内。諸家高名記、常山紀談、翁草等に詳しい。
五 高禄で。左内は氏郷に仕えて八千石であった。
六 武士としての勇名。
七 東国(関東・東北)。
八 人と違って偏った性質。
九 世間一般の武家。
一〇 家内を取締ったので。
一一 軍兵を訓練するひま。
一二 茶の湯や聞香などの趣味。
一三 一室に。
一四 ここは、卑しい根性の人。
一五 家に長く使っている下男。
一六 ここは、大判。
一七 天下の名宝崑山の璧も乱世ではその価値は瓦や小石に等しい。中国の伝説神話に出る崑崙山は名玉の産地。
一八 ともに中国の名剣の産地。
一九 その上更にほしいものは。
二〇 軽々しく。粗末に。
二一 殊勝なこと。
二二 帯刀をもゆるして。士分にとりたてて。
二三 長喙(チョウカイ)が正しい。長いくちばし。貪婪。
二四 ほめそやした。
二五 ここは、行灯。
二六 食糧がほしいのなら。
二七 腕っぷしの強い男。
二八 おいぼれた様子。
二九 何か習い覚えた術でもあるだろう。
三〇 ちょっと。
三一 様子。そぶり。
三二 山林の異気より生じて人に害を与える怪物。
三三 大切に取扱って下さる。
三四 心持。
三五 大鏡「思しき事いはぬはげにぞ腹ふくるる心地しける」。徒然草に同様な文がある。
三六 五雑組巻五「富者多慳、非慳不富也、富者多愚、非愚不富也」。
三七 晋の富豪で、豪奢な生活をして殺された。五雑組巻五「如石崇王元宝之流、迺豺狼蛇蝎」。
三八 唐の富豪で、金銀を積んで屋壁とした。
三九 やまいぬ・狼・蛇・さそり。猛悪、残忍、貪欲な輩。「だかつ」が正しい。
四〇 五雑組巻五「但古之致富者、皆観天時、逐地利」。
四一 周代の太公望呂尚。ここは史記貨殖列伝の文章に拠る。
四二 斉の国にやってきた。
四三 斉の宰相。
四四 貨殖列伝「九合諸侯」。九合は糾合で、連合の意。秋成は九度あわせと誤読した。
四五 陪臣。諸侯の臣。
四六 越王勾践をたすけて呉を討ち、のち斉に入って鴟夷子皮と変名、巨万の富豪となり、さらに陶に入って陶朱公となり大富豪となる。
四七 衛の人。孔子の門人で貨殖に長じていた。
四八 周の人。商機の才あって、蓄財術の祖と称された。
四九 産物を売買して。
五〇 漢の太史司馬遷著「史記」の巻一二九が「貨殖列伝」。
五一 一定の生業財産のないものは定まった善心がない。孟子、梁恵王上「若民則無恒産因無恒心」。
五二 貨殖列伝「故待農而食之、虞而出之、工而成之、商而通之」。
五三 生業をはげみ。
五四 富豪の子弟は刑死して市中にさらされることはない。貨殖列伝「諺曰、千金之子不於市」。
五五 貨殖列伝「巨万者、乃与王者楽」。
五六 貨殖列伝「淵深而魚生之、山深而獣往之」。
五七 天然自然の道理。
五八 論語、学而篇「未貧而楽、富而好礼者也」。
五九 学者や文人たちのまどいをひきおこすいとぐち。
六〇 つまらぬ軍略ばかり。
六一 学問・知識にとらわれて。
六二 俗世間を棄てて田畑に鋤をふるう人。
六三 七宝の筆頭。
六四 正しくは「どんこく」。欲深く残忍無慈悲なこと。
六五 ことの道理をはっきりさせてはなされたことは。
六六 書籍・衣類等を食う虫。ここは学者を罵った。
六七 先代よりながく家に仕えている者。
六八 零落した者。
六九 無理やりに。強引に。
七〇 下僕。
七一 孝行清廉との評判。
七二 冬期の三か月間。
七三 一枚のかわごろも。剪灯新話、富貴発跡司志「寒一裘暑一葛、朝※(「日+甫」、第3水準1-85-29)粥飯一盂」。
七四 夏の土用。極暑の間。
七五 一枚の帷子を洗濯するひまもなく。着たきりで。
七六 朝夕一杯の粥で。
七七 出入りをさしとめられ。
七八 あくせくと働いて。
七九 不熱心。怠惰。
八〇 精神精力を集中し。
八一 従来は※[#「足へん+堯」、U+8E7A、319-下-16][#「足へん+堯」、U+8E7A、319-下-16]・※[#「足へん+堯」、U+8E7A、319-下-16]※(「足へん+登」、第4水準2-89-47)とよむ。ここは※[#「足へん+堯」、U+8E7A、319-下-17]蹊とよんで、むずかしそうな有様に解しておく。
八二 的中することはまれで、大ていはずれる。
八三 孔子の高弟顔子が一つの瓢をいだいて清貧を楽しんだ心境もしらない。論語、雍也篇「賢哉回也、一箪食一瓢飲、在陋巷、人不其憂、回也不其楽、賢哉回也」。
八四 仏教では前世の因縁をもって説明し。
八五 儒教では天の定めた運命であると教える。
八六 かくれた徳とよいおこない。
八七 来世でむくいられるであろうとそれを頼みに。
八八 腹立ちを我慢する。
八九 右側によみ、左側に意訳を示す白話小説注解書の用いた表現法。とりとめのないでたらめ。
九〇 黄金の精霊をさす。
九一 依る。信奉する。
九二 もしそうでないと否定されるならば。
九三 昔からいろいろ論じられて、しかもまだ結論の出ていない道理。
九四 五雑組、巻一五「使今世之富貴貧賤皆由前生之脩否乎」。
九五 おおざっぱでいいかげんな教え。
九六 他人にたいして権勢をふるい。
九七 道理にはずれた妄言をいいつのり。
九八 粗暴で情理にくらい野蛮な心。
九九 名誉とかわが身の利欲とかを。
一〇〇 関係する。とらわれる。こだわる。
一〇一 無知愚昧な女どもをたぶらかす。
一〇二 いいかげんな。未熟な。
一〇三 中庸、一七「宗廟饗之、子孫保之」。祖先の霊もこの徳をうけて天子の礼をもって祀られ、子孫もこの徳をうけて名と位、禄と寿を保った。
一〇四 私なりの異った意見。
一〇五 感情のないもの。
一〇六 産業をいとなんで。
一〇七 品性卑しくけちんぼ。
一〇八 「着るべきをも」の意。
一〇九 眼前に見るようなわかりきった道理。
一一〇 いつくしんでほめ。
一一一 天・神・仏は、人間の道をただし、教えるもの。
一一二 金銀を大切にする人々をさす。
一一三 黄金の霊に仕え奉仕する。
一一四 善果となるべき善行をしても。
一一五 恵む理由もないのに。
一一六 「貸」に同じ。
一一七 苦境においやられて。
一一八 造化の神のお恵み。
一一九 一生のうちに。
一二〇 どれほどすがすがしいことだろう。公任卿集「ささなみや滋賀の浦波いかばかり心のうちのすずしかりけむ」。
一二一 術に巧みなものはよく富をあつめ。貨殖列伝「能者輻湊、不肖者瓦解」。
一二二 貨殖列伝「富無軽業、則貨無常主」。
一二三 昼夜往来して。貨殖列伝「若水趨一レ下、日夜無休時」。
一二四 遊んで暮すひま人が定職なく徒食すれば。
一二五 中国の名山。諺「坐してくらえば泰山も空し」。山の如く蓄積された食物。
一二六 河海の如く多量の飲料。
一二七 文意明確を欠く。かりに「不徳の人が財宝を積むのはその人の徳不徳とは無関係で、道徳とは相容れないことゆえ、君子の富貴は同日に論ずべきではない」としておく。
一二八 時運をえた人が。
一二九 別天地に生きている。
一三〇 すばらしい。
一三一 豊臣秀吉の威光が天下をあまねく靡かせ。
一三二 京都を中心とした五国、七つの行政区画。日本全国、津々浦々。
一三三 ようやく。どうやら。
一三四 国を亡ぼされた主君に忠義をつくす武士。
一三五 まえまえからの素志。
一三六 耒は鋤。矛は槍に似た兵器。
一三七 天職の農耕にいそしもうとしない。
一三八 誰に味方なさるのですか。
一三九 一生涯、その威勢を、甲斐・信濃・越後にふるったのみ。
一四〇 いまや。
一四一 非常に好運にめぐまれた。市井雑談集「とにもかくにも信長は果報いみじき者也……恐くは我子孫彼が為に滅亡せんか」。
一四二 いまこの病気にかかった。
一四三 肩をならべる好敵手。
一四四 信玄没後五年にして死去。
一四五 まかされた。天下統一の覇業をいう。
一四六 家臣。明智日向守光秀。
一四七 はじめから天下を征服してその志が天下に満ちるようなものではなかった。秋成は胆大小心録一二に「豊臣公の大器も、始より志の大なるにはあらざりし也、云云」という。
一四八 柴田勝家と丹羽長秀。
一四九 あたかも竜と化して大空に昇ったように位は人臣を極めているが、昔の境遇身分を忘れているのではなかろうか。
一五〇 蛟はみずちで、蛇に似た竜の一種。蜃は蛟の属。まだ竜になっていないもの。
一五一 五雑組、巻九「竜由蛟蜃化者寿不三歳」。
一五二 倹約が行きすぎると。
一五三 富み栄え豊かで。
一五四 雅楽の曲名。ここは御代泰平と家運繁栄をことほぐこと。
一五五 堯は中国古代の天子。※(「くさかんむり/冥」、第3水準1-91-18)は聖代に生えた※(「くさかんむり/冥」、第3水準1-91-18)莢という瑞草。杲はすでに日が高く。百姓は万民。帰家は、「帰家康」を暗示する。
一五六 午前四―六時。
一五七 この一夜中のこと。
一五八 どうやら精霊の言の真意が会得されて。
一五九 信ずるにいたった。
一六〇 瑞草の生ずるような聖代にめぐりあうべきめでたいしるしであり、めでたいはなしである。

一六一 一七七六年。後桃園天皇の代。将軍一〇代家治。秋成四三歳、大坂にて医を業としていた。
一六二 四月。
一六三 天明三年ごろから天明七年に、大坂心斎橋筋博労町の書肆名倉又兵衛と合板の形で、「雨月」を再版している。





底本:「改訂 雨月物語 現代語訳付き」角川文庫、KADOKAWA
   2006(平成18)年7月25日初版発行
   2020(令和2)年5月15日26版発行
底本の親本:「雨月物語」野梅堂
   1776(安永5)年4月
初出:「雨月物語」角川文庫、角川書店
   1959(昭和34)年11月30日初版発行
※「菟道うぢきみ」と「※道うぢ[#「くさかんむり/兎」、U+2B7CF、195-6]きみ」、「剪灯新話句解の注」と「剪燈新話句解の註」、「手児女」と「手児奈」と「てごな」、「玉河」と「玉川」、「真女児」と「真女子」の混在は、底本通りです。
※底本は校注が脚注の形で配置されています。このファイルでは小見出しごとに、本文、校注の順序で編成しました。その際、校注は二字下げとしました。
※底本では脚注番号を見開きページごとにつけていますが、小見出しごとの連番としました。
※本文の旧仮名は、底本通りです。
※()内のルビは井上泰至氏によります。
※底本では、挿絵は現代語訳のページを参照とありますが、参照先の挿絵を掲載しました。なおキャプションの文字遣いは現代語訳のページのままです。
※底本巻末の井上泰至氏による補注・上田秋成年表・改訂は省略しました。
入力:砂場清隆
校正:みきた
2024年5月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「句+隹」、U+96CA    187-5、188-6
丸印、U+329E    188-11
四角印    188-11
「くさかんむり/兎」、U+2B7CF    195-6、195-6
「女+聚」、U+218DE    271-7
「足へん+堯」、U+8E7A    319-上-12、319-下-16、319-下-16、319-下-16、319-下-17


●図書カード