犬田卯




     一

 三間竿の重い方の鋤簾じょれんを持って行かなければならぬ破目になって、勝は担いでみたが、よろよろとよろめいた。小さい右肩いっぱいに太い竿がどっしりと喰いこんで来て、肩胛骨けんこうこつのあたりがぽきぽきと鳴るような気がする。ばかりでなく二足三足とあるき出すと、鋤簾の先端が左右にかぶりを振って、それにつれて竹竿もこりこりと錐をもむように肩の皮膚をこするのだ。勝は顔中をしかめながら亀の子のように首をすくめて、腰で歩いた。
愚図ぐず々々しているから、そんなのに当るんだで。」
 あとから軒先を出た母親のおせきが見かねるように言って、そのよたよたした勝の恰好に思わず微笑した。
 軽い方の鋤簾は、股引を穿いたり手甲をつけたり、それからまた小魚を入れるぼて笊を探しあぐねているうち、兄の由次にいち早く持って行かれてしまったのである。勝からいえば自分にあてがわれたその股引と手甲が、ことに股引が――それは昨秋東京の工場へ行った長兄がそれまで使用していたもので、全くだぶだぶで脚に合わず、上へ引っ張ってみたり下の方で折り曲げてみたり、ようやくのことで穿いたというような理由で、それで由次に遅れを取ってしまったので、
「由兄の野郎ずるいや、あとで見るッちだから。」勝はそんなことを三度も由次の後姿に向って浴びせかけたのだったが、こんどは母親に突っかかった。
「俺に股引こしらえてくれねえからだ。こんなひとのものなんど……」
ひとのものでも自分のものでも、この野郎、それ本当の木綿ものなんだど。きょう日、スフの股引なんど、いしらに穿かせたら半日でらしちまァわ。」
 おせきは籠の中へ大きな弁当の包みや、万一の用意に四人分のみのをつめこんで、これまたよろめくように背負い、そして足ばやに勝に追いついて一言の下にたしなめると、やがてすたすたと追い抜き、道の先の方に見える由次や夫に遅れまいと足を早めた。
 勝は歯ぎしりして腰を落し、両の手で竹竿を支え上げるようにして母に抜かれまいとするが、そうすると鋤簾の奴よけいにぶらぶらとかぶりを振って、ともすれば、小さい勝の身体を道傍へ投げとばしそうにする。
 天秤籠にどさんと堆肥を盛り上げ、その上へ万能まんのうや泥掻きなどを突き差して担いだ親父の浩平は、そのときすでに部落を横へ出抜けて、田圃へ下りる坂道にかかっていた。雨上りの、ともすればつるりこんと滑りがちなじめついた土の上を、爪先で全身の勢いを停めながら、彼はそろそろと降りてゆく。そのあとから由次が身がるに小さい方の鋤簾をかついで、口笛を吹き吹きつづいた。由次は十六だが、昨年の稲刈り時分から眼に見えて背丈が伸び、いまでは親父の肩の辺まで届きそうになっていた。
「由、その泥掻き、お前持て。駄目だ。邪魔になって、歩きづらくて。」
 親父が息を止めて言うと、彼はひょいと横あいからそれを引ったくるなり、左の肩へ鉄砲のようにかついで、そしてとっとと坂を駈け下りた。
 一日も早く植えてしまわなければならぬ八反歩ばかりの田を控えて、赤ん坊の手さえ借りたい今明日、尋常六年生のおさよは無論のこと、今年入学したばかりのおちえまで学校を休ませ、そして留守居させての、文字どおり一家総動員の田植作業であった。旱魃を懸念された梅雨期の終りの、二日間打つづけの豪雨のおかげで、完全に干上ろうとしていた沼岸の掘割沿いの田が、どくどくと雨水を吸い、軟かく溶けて来ていたのだ。
 明け放れの早い六月の空には何時か太陽が昇って、沼向うの平野はひときわ明るく黄金色に輝き出していた。風もなく、紺碧の沼は崇厳なほど静かだった。やがて浩平一家のものは、よちよちと蟻が長い昆虫を運ぶような恰好をして、勝が、むしろ鋤簾そのものに曳きずられるようにしてやってくるのを殿しんがりに、丘を下りて掘割に沿い、自分の作り田へ着いた。そのとき黄金の光りは此方こちら――丘の裾の長く伸びた耕地にまで輝き渡って来た。畑地の方の薄い靄を含んだ水のような空には、もう雲雀ひばりが高くあがって、今日一日の歓喜を前奏しつつあった。
 荷を下ろすより早く彼らは各自仕事にとりかかった。おせきは万能を手にして代田しろたの切りかえしであった。由次は掘割へ自分の持って来た長柄の鋤簾を投げ込んで、そして泥上げである。上流の広い耕地から何時とはなしに押し流されて来て沈澱するここの泥土は、自然に多くの肥料分を含み、これさえ上げれば大してその部分だけは施肥する必要がなかったばかりか、その上、水田そのものが年一年と高くなって、いくらか秋の水害を脱れるたしになったのである。
「勝、早く持って来う、この野郎」と浩平は待ちきれなくなってどなった。「なにを、それ位のもの、愚図ったれていやがるんだ。」
 勝はひどく汗をたらし息を弾ませながら、やっと父親の立っている足許に鋤簾の先端を突き出すと、ばたりとそこへ竹竿を投げ出した。
「由兄の野郎、ずるいや」と彼は泣きそうに言った。
「何だ、俺がどうした。この野郎」遠くから由次が応酬した。「俺ら、自分で自分のを持って来たんだねえか。」
「だって、ひでえやい。いいから、あとで見るッちだから……」
「そんなことで喧嘩するんでねえ、この野郎ら。――勝は早く泥を掻け。」
 浩平は一喝して、大きな鋤簾を水音高く掘割へ投げこんだ。
 勝は帽子を被り直し、それから畦に投げ出されていた泥掻きを取って、母親が切りかえしている田の一方へ父と兄貴が浚い上げる例の泥土を、その中ほどまで掻いて来るという単純ではあるが子供の身にはやや骨の折れる仕事にとりかかった。田へ入るや否や、気持の納まらぬ彼は、丁字形の泥掻きで反対にいきなり由次の方へ泥をひっかけた。
「あれ、この野郎」由次も片脚を上げて足許の泥を跳ねとばしたが、それは勝の方へは行かず、遠く母親の方へ飛んだ。
「こら、由、何すんだ、馬鹿。」
 叱られた兄貴を横眼で見て、勝は口をひん曲げ、眼玉を引っくり返してにゅっとやった。いくらかそれでこじれた気分が直って、せっせとこんどは、本気に泥をかきはじめた。
 それにしても次から次へと上げられる泥土を一人で掻くのは容易のことでなかった。勝は一時間もしないうちに大汗になってしまった。
「あ、メソん畜生――こら、こん畜生。」
 淡緑色の小鰻が泥の中を逃げまどっている。叫びを上げた彼は泥かきを放り出し、両手をもって押えようと駈け寄った。
「おっ母さん、早く、容れもの――俺のぼて笊――ぼて笊、早く。」
「どこだか、ぼて笊。――馬鹿野郎、そんなもの捕ったって、うまくもありもしねえ。」
 おせきは言ったまま、しかし万能を振りつづけていた。
「捕えたよ、おっ母さん、早く……」
「馬鹿だな。そんなことしていねえで、この野郎、早くかかねえと泥たまってしようがあっか、こらっ、勝。」
 父親にどなられても勝は、片手にしっかと小鰻をぶら下げたまま畦へ上って、そして自分が携えて来て、その辺へ置いたはずのぼて笊を探しにかかった。
 陽がかんかんと照り出して来た。もう子供の勝手な行動などに構っていられなかった。浩平は満身の力を鋤簾にこめて泥をすくい上げ、おせきは男のように大きく脚を踏ん張って代田を切返した。そして由次も――彼はもう三年も前から百姓仕事に引っ張り出されていたので、半人分以上、いや大人に近いまでの仕事をやってのけたのである。

     二

 次の日も次の日も一家のものは同じように泥上げ、代田の切返し、そして一目散に田植の準備を進めたが、肝心の肥料がまだ手に入っていなかった。自家製の堆肥だけはどうやら真似事位には入れたが、それだけでは泥の廻らない一段と高い方の田など全くどうにもならなかった。そこへは毎年きまって化成を三叺ほど叩きこんだ。ところでその肥料だが――化成のみならず魚糟配合のようなものでも、今年は品不足で(日支事変のための原料不足に加えて製造能力の低下のためだという)価額が倍にも騰貴してしまった。そんなことから、一方では増産ということが国家の至上命令となった関係上、お上の配給制度になり、浩平たちのような、買置きの出来なかった者は村の産業組合からの配給を待たなくてはならなかったのだ。そしてこの配給肥料なら、とにかく成分もたしかだし、価額も一般の肥料商から今まで買ったのよりは安く、「公定」されていた。
 甚だ「うまい具合に」――村人の表現を借りると――出来ていたが、しかし実際なかなかそう行かないものとみえて、「今日来る」、「明日は必ず来る」と組合で確言するにも拘らず、まだほんの少し――桑畑への割当分しかやって来ず、「重点」と称せられる水田の分は一向姿を見せなかった。
「仕方がねえから素田を植えたさ」という者も出て来た。全く気の早い連中にとっては、甘んじて素田を植えるか、三倍もの値で商人からひそかに手に入れるかしかなかったのである。
「俺も素田でも植えっか――」と浩平は代田の準備が進むにつれてやきもきしていたが、とうとうその日の昼休みに、
「これが最後だ。組合へ行って見て、今日中に来ねえとすれば、俺も素田植えだ。畜生、こんな思いするのは生涯になかったことだ」とぷりぷり言っているとこへ、おさよが丘の坂を下りてこっちへ駈けて来る。今日も学校を休んで留守居かたがたおさよは末子のヨシを守していたのであった。
「なんだ、さア子――」といち早く見つけたおせきが声をかけた。
「肥料でも来たかな」と浩平も起ち上った。
 だが、おさよの持って来た報告は、そんな耳寄りのことではなかった。
「おっ母、ヨチ子、腹痛えって泣いていっと」とおさよは、はあはあ息をきらしながら、遠くから叫んだ。
「腹が痛えって、何時から――」
 おさよが近づいて説明するには、その朝言いつけられたとおり、まだかない小麦の束を庭へひろげて乾していると、おちえと二人で小麦束の中へ入って歌などうたっていたが、急に黙ってしまって、縁側へ戻るなりそこへ突っ伏して、しくしく泣きだした。何だ、なんで泣くんだ、おっちにどうかされたのかと聞くと、かぶりを振って、ぽんぽが痛えんだという。手水ちょうずに行きたいんではないかと訊くと、いやいやする。じゃ、どうすればいいんだといっても、ただ泣いてばかりいて、自分の手では始末がつかぬと言うのである。
「それ、何時頃だか。」
「十時か十一時頃――」
「赤玉飲ませたか」とおせきはせかせかと言い放った。
「飲まねえもの、――袋から出して飲ませべと思っても、ぽき出してしまって。」
仕様しようねえ餓鬼だな。――何か食わせやしなかったのか、李でも。」
「食わせっかい、俺ら、なんにも。」
「連れて来ればよかったんだ。」おせきは叱りつけるように言った。「この忙しいのに、痛えたってしようあるもんか。なんで連れて来ねえんだ。」
「だって、おっ母さんは……たアだ転げ廻っていて、何といってもかんぶり振るだけなんだもの。」
 おさよはそう言って不服そうに黙った。
「腹ぐれえ何でもねえ、わざわざ知らせに来っことあるもんか、馬鹿。」
 浩平も言って起ち上り、のっそりと、みんなをあとに組合さして出かけて行った。準備だけ出来ても肝心の肥料が来ないのでは、全く骨を折って植えるせいはなかった。実際、彼は気が気でならなかった。黙って突っ立っていたおさよは、そのあとからぷすんと、もと来た道を引かえしはじめた。
 おせきはどうすればいいか迷っていた。夫と娘の、それぞれの行動を見守っていたが、
「さア子、さア子――」と呼んだ。が、おさよは聞えたのか聞えないのか、もう振り向きもしなかった。
「大したことでもあるめえ。」彼女はひとりつぶやいて、それから一段と声を高くし、
「さア子、ヨチに赤玉飲ませて寝かせておけ。いいか、無理にでも飲ませなくては駄目だど。」
 おせきは再び田へ下りて万能を振い出した。子供の腹痛など、全く彼らは馴れっこになっていた。夫のいうように、わざわざ知らせに来るほどのことはなかったのである。
 一方、組合の事務所へ駈けつけた浩平は、自分と同じように肥料の問合せにやって来ている五六人の者と顔を合せた。
「どうだい、様子は――来そうかい。」
 ずいと入って誰にともなく言いかけると、「肥料来るかやと、組合さ来てみれば……」「肥料来もせで……」と退屈と憤懣とをごっちゃにした連中が、かけ合いで唄の文句をつぶやいていた。
「用もない、体温計など来てやがる。」
 全く呆れたことに、その体温計が小綺麗な箱へ入って配給されて来ていた。それは農村人への衛生思想注入のため、どこか厚生省あたりの肝煎りで、特に組合が実行したに相違なかった。
「体温はかってみたところで、稲は育つめえで」と一人が言って、浩平に話しかけた。「なア、よう、台の親方。」
「うむ、そうでもあるめえで」と浩平はそこにあった椅子へ腰を下ろしながら答えた。「田の体温でも計って報告したら、そのうちに、それ、何とか、その方の医者様がかけつけてくれべえから。」
「農学博士がか。」
「うむ、まァその博士なら、これで、無肥料で増産ちう一挙両得の方法も教えてくれべえからよ。」
「それもそうだっぺけんど、これで人間の方の温度も計る必要があっぺで。みんな、はア、肥料肥料でのぼせ上っていっからよ。いい加減のところで血圧下げてもらアねえと、村中みんな脳溢血だなんて……」
「ところがどうも、その血圧、上るばって下りっこねえ。どうだ、今の電話きいてみろ。」
 奥の部屋で、なるほど電話している組合事務係のだみ声がしている。
「……うむ、そんな訳では……なるほどな……うむ、なアる……全く、どうも、いやはや……全くこれ困っちまアな。……いくらでもいいから……はん……ははア……いや、全く……それではまず……さいなら。」
 そこでがちゃりと受話器をおく音がして、急ぎ足にスリッパを鳴らしながら係が現れた。半白の小柄な猿のようなかおをしたおやじである。わざわざ事務机には向わず、みんなのいる方へ向って火鉢の向う側へ蹲み、両手をふふん……と言いながら組み合せた。出来るだけ七むつかしい、が誰にも当り触りのない顔を彼はそこへ作って見せたのである。
「どうだや、それでもいくらか来るあてがあるのかい」と一人が訊くと、
「それが、どうも――明日にならなけりゃ分らないと県の方では言っているんで……」
「明日、明日って、随分その手食ったな。まるで何かのようだぜ、組合も。」
「いや、君らはそんな冗談言っていっけんど、みろ、これで、県の方だって、組合の方だって、ここんとこ不眠不休で心配しているんだから。はア、組合長ら、昨日から寝こんじまった位だから――県庁へ行く、農林省へ行く、肥料会社まで行って見る。全くお百度踏んで、それでも何ともならねえんだ。農林省の方では、とにかく早場地方が第一だというわけで、出来るそばからそっちの方へ廻送しているらしいんだし、そこに百叺でも五十叺でもいいから、こっちへ取ろうという始末なんだから、これで、並大抵のことでは……」
「でも、山十(町の肥料屋)なんどへ行けば、一時の間に合せ位のものは、倉庫の中に昼寝しているっち話だねえか。どうだや、そいつを何とか、こうお上の力で、こっちへ廻してよこすような方法をとれねえもんかな」と中年の鬚もじゃ親父が言って、眼玉をぎょろつかせた。

     三

 それにしても、もうどんなに待ったところで、ないし別の方法によったところで、今日明日の間には合わないものと観念した方がよさそうだった。
「仕方ねえ、それこそ素田でも何でも植えべえ」と投げつけるようにいって浩平は起ち上った。
「そうだ、酢だとか蒟蒻こんにゃくだとか言っている場合じゃねえ。俺らもはア、すっぽりと諦めて明日は植えっちまアんだ。」さきにおばこ節を口誦んでいた一人の青年も、それにつれて突っ立ち上り、両手を天井へ届くほど伸ばして、ああ、ああ……とあくびを連発した。
 田圃への道を浩平は割り切れぬ気持でのそりのそりと戻りつつあった。町の肥料商の倉庫には確かに相当のストックがあることを彼も信じていた。小金の廻る連中は、すでにその方面から若干のものを手に入れて、どしどしと田を植えているのである。
「畜生――」と彼は思わずひとり言をかっとばした。「そんな大べら棒ってどこにある。」
「いよう、なんだや、今頃――」
 ひょいと横あいから自転車を飛ばして知合いの男が姿を現した。
「おう、君か――君こそ何だい今頃。」
「俺か――俺は商売さ。」
 ひらりと自転車を下りたその中年の男――選挙ブローカーもやれば、墓碑の下文字も書く、蚕種、桑葉、繭の仲買いもやれば、雑穀屋の真似もやると言ったような存在――俗称「塚屋」で通っているこの五尺足らずの顔面ばかりが馬鹿に大きく、両眼はあるか無きかの一線にすぎない畸形児風の男は、浩平をまともに見て、にやりと笑った。そして口ばやに、
「組合さお百度踏んでも肥料は来めえ。」
「組合長が県や政府や会社へお百度踏んでも駄目だっちだから、こちとらがいくら、それ……」
「へへえ……」と塚屋は唇をひん曲げた。「組合長ら何処さお百度踏んだのかよ。今頃はエネルギー絞り上げられっちまって、死んだように寝てべえ。ホルモン注射でもしてやらなけりゃ、肥料も来めえで。」
 そう吐き出してから、「時に――」と塚屋は調子を改めた。「どうだや、旦那ら、はア、田植えっちまったのかい。」
「田か――田なんか俺ら植えねえつもりだ。今年は、はア、草っ葉に一任と決めた。」
「でも、それでは『増産』という政府の命令にふれべえ。」
「仕方ねえな。これ……」
「少し位なら、俺、都合つけるぜ。実はこないだからその方で、こうして歩いてるんだ。俺のような始末の悪いとんぴくれんでも、これで非常時となりゃ、いくらかまさか国家のお役に立たなくちゃア、なア。」
 そう言って塚屋は、悠々とポケットから巻煙草などをつまみ出し、一本どうだ、とばかり黙って浩平の眼の前へ袋ごと突き出した。
 浩平は「暁」を一本つまみ、
やみやって国家のためもあんめえ。」
 ははあ……と哄笑した。
やみなもんか。公定で俺らやるんだ。」
「だって君、公定の配給肥料は産組でしか……」
「それはこの村での話、政府の方針としては産組に半々位に分けて配給させる方針でやっているんだぜ。」
「そうかな。……それはまア、どうでもいいが、早いとこ、何があるんだか、化成か魚糟か大豆か……」
「化成は切れっちまったが、魚糟配合があるんだ。」
「それは……山十か。誰が一体、持っているんだ。」
「君、そんなことはどうでもいい。俺と君との間の商取引だねえか。肥料は俺が持っているのさ――ひとのものなんか君、泥棒じゃあるめえし。」
「うむ、とにかく現物さえあるんなら、何も問題ではねえが……で、一叺いくらなんだ。」
「公定価額だよ」と唇を突出して言いながら、塚屋は懐中から小さい算盤を出して斜めにかざし、得意そうにぱちぱちと珠を入れた。
「そんな公定あるもんかい。」
 浩平はおっかぶせるように叫んで塚屋をにらみ、それから、ぷいとそっぽを向く。
「無えことあるもんか。どこさ行ったってこれだ。これでなかったら、こんどは見ろ、組合からだって手に入らねえから。」
 いやなら止すと言わぬばかりである。
「うむ――」と浩平は今は折れるしかなかった。「それで……何叺あるんだか。」
「君は何叺要るんだか、それによって俺の方はいくらでも都合する。」
「俺は、まア、差しあたり二十もあれば……」
「二十か、よし、都合つける。――明日でよかっぺ。」
「それはいいが、……しかし、その値段は、少し、どうかなんねえかい。」
「公定だよ、君、これを破れば、俺はやみであげられるんだぜ。」
「そんな、それは君だけの公定だっぺ。」
「そんなこと言うんなら、俺ら止めた。――破談だ。村中のものがほしがって、はア、金つん出して待っている者さえあるんだ。君にやらなくたっていくらでも売れるんだから――いい具合に君とここで逢ったもんだから、俺、話したばかりなんだ。」
 塚屋は小さい算盤を再び懐中ふところして、馴れた手つきでハンドルを握った。一刻を争う……といったような面持で、「それじゃ、まア、せっかくおかせぎ――」

     四

 田圃へかえると、由次が一人で泥上げをしていた。陽はいつか傾いてしまって、掘割を隔てた真向いの丘のかげが濃く沼岸の方へ伸びている。由次は鋤簾は重そうに投げ込み、肩に力を入れて掬うのであるが、思うように泥に喰いこまず、半分も泥は上らなかった。
「はア、泥無くなってしまって駄目だ」と由次は父親を見ると言訳いいわけのように呟いた。
「おっ母と、勝は?」浩平は無意識のように訊ねた。彼の頭の中は、今の今、塚屋とやって来た取引談のことで暴風のような状態だったのだ。――公定だなんて、野郎。あらかた倍でもきくめえ。あんなもの誰が、それでは――って買えるけえ。阿呆にも程度ちうものがあらア。――だが、一方ではそれを打ち消して、しかし、反七俵に廻ってくれるようだと、なアに、あれを買ったって損はねえ。第一、元肥を打って植えるその気持だからな、そいつが千両したって買える品物じゃねえんだから……
 由次が何か答えたようであったが耳に入らず、浩平は投げ出してあった自分の鋤簾をつかみ、器械的にそれを掘割へ投げこんだ。
 さて、その頃、ヨシ子の容態が急に悪いといって、おせきは再びおさよから迎えを受け、家へとんでかえって、あれこれと気も転倒し、てんてこ舞いを演じていた。ヨシ子は今にも眼の玉を引っくりかえしてしまいそうなどろんこの眼をして、もはや痛みを訴える力もなく、うつらうつらと、高熱の中に、四肢をぴくつかせていた。腹部を見ると、まるで死んだ蛙のようにぷくらんと膨れ上り、指先で押しても凹まないくらいだった。
「おやまア、どうしたんだや、ヨチ子――」
 おせきは初めのうち茫然として、そこに立ちつくしていた。こんな状態とは少しも考えなかったのだ。
 近所へ家を借りて別居している母のお常が、野良支度ではあったが、いつものように身綺麗な、五十を半ば過ぎているにも拘らず、まだ四十台の女のような姿態なりで、ヨシ子の頭部を冷やしていた。ヒマシ油か何かを飲ませようと骨折ったような形跡もあった。
 おせきは次の瞬間、自分を取りかえして、その母親の、いつものような姿態を見ると、むらむらと腹が立った。
「なんだか、おっ母さんら――」とおせきは突慳貪つっけんどんに叫んで、ヨシ子の枕頭からその見るに堪えないものを追いのけるように、自分の身体をぐいと持って行った。
「なんだかではあるめえ、痛がって騒いでいるの見て黙っていられっか。」
 お常はそれでも娘に遠慮して――そうしなければいられないものを彼女は持っていた――一歩そこから膝で後退した。
「いいから、おっ母さんに構ってもらいたくねえから、はア、帰ってくろ。」
「言われなくたって帰っけんどな。」そう押しかぶせて、「おせきら、俺にいつまでそんなつんつんした口きいていんだ、ようく考えてしねえと、はア、損だっぺで。」
「損でも得でも、俺ら、そんなことはどうでもいいんだ。ひとにわらわれたくねえから、俺ら、していんだから……」
 投げつけてからおせきは、傍につくねんと立っているおさよに向ってたかぶる胸のうちを奔注させた。
「赤玉飲ませたのか、あれほど言ったのに、……飲ませりゃ、こんなにならないうち癒ってしまアんだ。」
「だってお母さんは……いくら飲ませたって、げっげっ……と吐いてしまうんだもの、しようあっかい。」
「しょうある、この馬鹿阿女あま――十三四にもなって赤ん坊の守も出来ねえなんてあるか。」
「おさよのこと怒ったって病気はよくなんめえ」とお常がそこへ横あいから口を出した。「それより、はァ、早く医者様でも頼んで来なくてや、ヨチ子おッ殺しまアべな。」
「大きなお世話だよ。いくら俺だって七つや十の餓鬼奴がきめじゃあるめえし、それ位のこと、言われなくたって知ってらア。知っていっけんど、医者っちば、すぐに金だっペ。金はただでは誰も持って来てくれねえんだから……俺らには……」
「それこそ大きなお世話だ。」お常はお終いの一文句が自分にあてつけられたものと思って鋭く言いかえした。「いしら、そんな意地悪だ。どうして俺の腹から汝のような悪たれ娘が生れて来たのかと思うと不思議でしようねえ。」
 お常はくらくらとして前後の弁えもなくなりそうになったが、そこへ隣家の若衆が、心配そうに眼をかがやかせて、そっと土間へ入って来たのに気づき、気を取り直して、裏戸口から出て行った。
「俺、医者様へ行って来てやっか」と若衆はおせきの顔色をうかがった。
「おや、心配かけて済まねえね。」
 おせきも我にかえって笑顔をつくろい、やや考えていたが、
「なアに、おさよをやるからいいんですよ。この忙しいのに、わざわざ行ってもらわなくても……」
「でも、俺、はア、仕事から上って来たんだから……」
「でも、いいんですよ。やるときはおさよをやるから。」
 おせきはまだ決心がつかなかったのだ。若者はそれと察して、行くんなら何時でも行ってやるから……と繰返して言って遠慮がちに出て行った。
 入り代りに、裏の家の女房が、夕飯の支度に野良から上って来たといって立ち寄らなかったら、おせきの決心はまだまだつかなかったであろう。自分の子供を二人も疫痢で亡くしているこの女房は、ヨシ子の容態を一目で見てとった。
「まア、おせきさん、早く、お医者さん頼んで来なくてや……」
 そこでおせきもびっくりして、おさよを呼んだ。と、横あいから「俺行ってくる」と叫んで飛び出したのは勝であった。彼は母親のかえったのを幸い、自分もこっそり仕事を放ったらかして家へ戻っていたのだが、今まで、叱られると思って、納屋の方にかくれていたのである。
「あれ、この野郎、いつの間にかえった。」おせきは顔を尖らしたが、叱りつけている暇はなかった。「いしらに分るか、この薄馬鹿野郎。――さア子、早く、裏の家の自転車でも借りて行って来う。」
 庭先に干した小麦束を片づけていたおさよは、言われるなり裏の家へ行って、軒下に乗りすててあった自転車をひっぱり出した。が、大人乗りのその自転車はサドルが高くて足が届かなかった。彼女はまるで曲乗りのような具合に、横の方から片脚を差入れ、右足だけでペダルを踏み、それでも危なげなく吹っとばして行った。
 村の医者は往診から帰ったところで、そのまま早速自転車で来てくれた。そして注射を一本打っておいて、それから腹部のものを排渫させると、ヨシ子は呼吸を回復し、少しく元気づいてきた。
「危なかった、生漬の梅だの、腐れかけた李だのを、うんとこ食べていた」と白髪の村医は笑った。
 甘酸っぱいような水薬をつくって、その飲み方や、病児の扱い方などを細々こまごまと説明して、やがて医者は帰って行った。
 その頃、ヨシ子はもう殆んど平常の息づかいになって、すやすやと眠っていた。
 ところで、浩平はまだ野良から帰っていなかった。医者がやって来て病児の処置をしているうち、由次は黙って、いつの間にかえったか、風呂の下など焚きつけていたが、「お父は」と訊ねても、「いまにかえって来べえで……」と答えたばかりであったのだ。医者が帰ったあと、おさよがごそごそ台所で準備した夕飯を、おせきも子供らといっしょに食べ終ったが、それでも浩平はかえらない。
「お父は、組合さ行ったきりかい」とおせきが、そろそろ苛々しい気持になって、改めて由次にきくと、
「だもんか。野良から上りに、またどこかへ廻って行ったんだ。俺こと、さきにかえれなんて言って。」由次はぷすんとしている。
「馬鹿親父め、こんな騒ぎしていんのに……暢気のんきな畜生で、しようねえ。」
 おせきはぶつぶつと呟きながら、いったん出した浩平のお膳を戸棚の中へ突っ込んでしまった。
 浩平はみんなが寝床についてから、のそりとかえって来た。とうとう塚屋の前にかぶとを脱いでしまった。――いや、脱がせられてしまった何とも名状しがたいいやな後味が、にがっぽく頭の中にこびりついていて、物をも言わず、彼は自分のお膳をひっぱり出し、ぼそぼそと冷たい麦飯を咽喉のどへ押し込んだ。

     五

 翌くる朝、ヨシ子はもうすっかり快くなって、起きるなり食べものをねだり、満腹すると歌などうたい出した。「五万何把の藁束分けて、隠れんぼどこかと探チてまわる。……」それは前の日、干しならべた小麦束の中でおちえから教えられた一節だった。そして
「きょうは、はァ、おまんましか何にも食べるんでねえど」と母親にしつこく念を押されると、
「う、ヨチ子、なんにも食べねえ……」
 眼を伏せて、さすがに神妙な顔つきをする。
 ところで今日は、いよいよ植付ができる段取りだった。あとから起き出して、もぞもぞ朝飯を終えた浩平が、
「俺は肥料を受取って来なけりゃならねえから、お前らさきに出かけていろな」と誰の顔も見ないで言った。
 そこには何か魂胆がありそうだった。おせきの胸にそれがはっと応えた。もっともそれは彼女にとって前夜来のまだ解けぬこだわりの故だったかも知れぬ。何となれば浩平は、おせきがいくら訊ねても肥料のことについては深く言わず、触れられることを嫌うので、反対におせきはますます追求せざるを得なかったのである。産組からは、穂が出てしまった頃しかやって来まい、勢い他で手に入れなければ、おめおめと素田を植えなければならぬ。そんな分りきった理窟ばかりこねていて、肝心の塚屋のことを少しも口にせず、ただ、とにかく十五貫入りの配合を十五叺だけ都合できたから、明日は植付だ、植付だ。とその植付だけを強調する……どこで都合したのだ、まさかやみの高いものを手に入れたわけではあるまい。とさらに追求すると、そんなでご助に俺のことが見えるのか、八文銭でも天宝銭でも、とにかく身上切り盛りしている以上、そんなまねはやれたってしないし、たといやったにせよ、かかあらに責任はもたせぬ、というようなことを言って、てんで寄せつけようとしないのであった。
 おせきも眠いので、そのまま眠ってしまったが、再び彼女の胸のうちにはもやもやするものが湧き起った。
「畜生、身上切り盛りもねえもんだ。まかり間違って洪水でも来たらどうするんだ。とどのつまりは俺げ降りかかって来るんだねえか――」
 おせきはとにかく家付娘として、祖先から伝った屋敷や若干の田畑――作り高の三分の一にも当らなかったが――だけは自分の名儀で所有していた。婿の浩平はその点になると、いわゆる「素っ裸」で、いざという場合には腕まくりでも尻まくりでも出来たのである。
 そのことを考えて夫の言動を責めつけようとは思ったが、朝っぱらからぎゃあぎゃあ言い合いをして、この忙しい時節、近所に迷惑をかけるでもあるまいと、彼女はぐっとそれを腹の底の方へ押しやってしまった。そして学校へ行くの行かないのと愚図ついているおさよへ当りがけした。
「馬鹿、学校なんどどうでもいい、苗取りやるんだから田圃へ行かなくちゃしようねえ。」
 浩平にはかまわず、おさよをせき立ててそのまま家を出た彼女は、今度はいよいよ夫がどうしてその肥料の金の工面をしたかに疑いを懐かざるを得なかった。――また母から借りたに相違ない。――そう口に出して言うと、彼女の足は我にもあらずそこへ釘づけになった。十五叺手に入れたとすれば、どんなことをしても百円は缺けまい。そんな大金がある筈はなかった。産組から来るつもりで用意した金が五十円位はあったが……その他には、子供らへやった小遣銭まではたいたとしても十円とはまとまらなかったであろう。――だから親父め、あんな薄とぼけた顔つきをしてやがるんだ。それに母も母だ。――おせきは胸くそが悪くなった。実の母だからそれが一層ひどかったのかも知れぬ。村人に立てられた夫と母との噂――それが依然として解けない謎であり、ますます深まる疑惑でさえあった。
「母を叩き出した。」全くそれはおせきの断行した、換言すれば実の娘の鬼畜の行為であったろうが、はやく夫に死別して、持って生れたその百姓女には珍らしい美貌――美貌もきいてあきれるが、とにかく人並以上の容貌であることは、当のおせきにも分っていた――がいわゆるあだをなして隠然公然、多くの男の慰み者に堕し、うまく立廻って小金は蓄めたか知れないが、そのためにどんなに自分たち兄妹――兄及び弟の三人のものが惨めな境涯に陥ちたことであったろう。そのため家を飛び出した長兄は他郷に死し、祖父母の許にあって成育した彼女と弟とのみが、辛うじて一人前になったが、いや、そのことよりも何よりもおせき兄弟を身も世もあらぬ思いに駆ったのは、「お前ら家のおっ母は誰某のメカケだっぺ、……」と言ったような同僚たちの嘲笑だった。
 そのために兄弟たちは殆んど学校へも行く気になれず、いい加減のところでやめてしまい、祖父に従って百姓仕事に身をかくし、長兄の出奔後、おせきは十八歳でいまの浩平を婿にもらって、傾く身上を支えたのであった。弟の清吉は、これも十五のとき東京の工場へつとめることになって、後、電気会社に入り、いまは応召中である。
 母のお常は家にいたりいなかったり、定まらぬ日常を送っていたが、四十五六の頃、身体を悪くしてからは余り出歩かず、いつの間にか昔の姿にかえって野良へも出るようになっていた。ことにおせきが次から次へと子供を産んで、ますます困窮の加わるここ数年間、全く母の手なしには、一家は「のたり切れ」なかったと言ってよかったのでもあった。
 そんなことで、過去のことはいつか忘れられた。おせきが産後の摂養期にあるときなど、浩平とお常は自然同じ仕事に携わらなければならず、笠をならべて田植もすれば、畑の作入れもし、野良で、同じおひつの弁当も食べた。
 ――二人の仲が変だ、というような噂が村を走り廻った。そしてそれはおせきの耳へも入らずにはいなかった。ばかりでなく浩平が身のほども知らぬ新しいシャツなど着ていることがおせきの眼にとまったこともあり、金銭上のことでも母と夫との間に、時々共通の出費があるのを発見したこともあった。
 そんな事情で、おせきは浩平との口争いのとばちりを母へ持って行って、とうとう別居を強要し、お常も「一人で暢気にしていた方がいい……」などと言って別れたのであったが、それ以来も浩平が相変らずちょくちょく母のところから自分の知らぬ出費を借り出しているらしかったのだ。が、おせきは努めて知らぬ振りを装い、母ももはや年が年だし……まず小遣銭の借り貸しぐらいは……とそんな風なところで納めていたのである。
 それにしても依然として気持のいい筈はなかった。母の体臭のようなものを浩平の肌に感ずるようなことがあると、一週間でも十日でも、彼女は夫を突きとばして寄せつけなかった。いまもまた、あの、夫の何かしら不敵そうな、城壁を築いたような態度から、彼女は肥料代のことに思いを及ぼし、まざまざと母の烙印を見たように思ったのだ。気を取り直して田へ行くには行ったが、おせきは胸が静まらなかった。覚束おぼつかない手つきで苗を取っているおさよの、そののろのろした不器用さまでが癪に触った。
「そんな取り方で植えられっか、このでれ助阿女――」と彼女はいきなり叱りとばした。「こういう風に指先で分けて取るんだ。馬鹿、俺らお前の年には、はア、どんな仕事でも大人並に出来たど。婿の二人や三人貰ってもびくともしねえ位の気持だったど。このちんちくりん奴。」
 代掻しろかき器械を扱いかねている由次と勝の動作にも同様に腹が立った。
「馬鹿野郎ら、そんな風に把手を下げる奴があるもんか、空廻りしちまって何度やっても駄目だねえか。把手を上へあげて、上へ……。いしら、はア、いくつになると思ってけっかるんだ。一人前に大飯ばっかり喰いやがって、このでれ助野郎ら。」
 やがて浩平が牛車で肥料の叺をいくつか積んで来て、それを代田しろたの近くに持ち運び、黙ってその口をあけ、そして灰桶へあけては、ばらばらと由次と勝が掻きならした田の面でばら撒きはじめた。
 ぷんとその匂いがおせきの鼻を打った。気持をそそる肥料の匂い――が、そこには何か不純なものが含まれていた。彼女は苗取る手を休めて苗代から代田の畦へ近づき、そのばら撒かれた肥料を泥の上から掬い上げて、色合を見たり匂いをかいだりしていたが、今度は叺そのものに近づいて、ざくりと手一ぱいに掬い上げて検分した。
「こんな配合……なんだや、これ、糟くそみてえなもの、これでもくつもりかい。――誰からこれ買ったか知んねえけんど、まさか、塚屋だあるめえ。」
 浩平は返事をしなかった。そっぽを向いて、ただ熱心に、ばらばらと撒いて歩いた。
「ああ、お父、まさか塚屋から買ったんだあんめえよ。」
 さらに追求されて浩平は反発した。
「塚屋から買ったんならどうしたか。」
「どうしたもこうしたもあるもんか。あのインチキ野郎、山十の倉庫から十年も二十年も前の、下敷きになっていた利きもしねえ腐れ肥料持ち出して来て、そいつを新しい叺につめかえて、倍にも三倍にも売っているんだちけが、まさか、俺家のお父ら、天宝銭でも八文銭でもねえちけから、そんな、塚屋らに引っかかったわけではあるめえと思ってよ。」
 この女房の一言はぐさりと浩平の胸を刺した。
「なに、もう一遍言ってみろ。」
 ぐいっと向き直ったが、おせきのぎらぎらする両眼につかると、浩平は矢庭やにわにそっぽを向いた。
「一遍でも百遍でもいうとも。こんな肥料、いくらで、誰から買ったか知んねえけんど、これが丁満ちょきんに利いたらお目にかからア。」
 何か言いかえすかと夫を見たが、そっぽを向いたまま知らん振りで、相変らずばらばらと撒きつづけているので、おせきは威丈高になった。
「こんなもの、いくらで買ったか知らねえが、よくもそんな腐れ肥料買う金があったことよな。まさか、その金、どこからかぬすとして来たわけじゃあるめえが、よく借りるところがあったことよな。」
 暗に母のところを指したこの針をふくんだ一言は、またしてもぐさりと浩平をえぐった。
「どこで借りようと、誰に借りようと、お前らに心配かけねえから……」
「心配かけねえ?」
「かけねえとも――」
「ふん、そんな、はア、水臭えこと抜かしやがるんなら、さっさと俺家出てもらアべ、婿の分際も弁えねえで、心配かけねえとは何事だ。自分勝手に、婿なんどに身上引っかき廻されて、それでこの俺が、黙っていられっかっちんだ。これで俺ら、人に後指うしろゆびさされるようなこと、まあだした覚えはねえんだと。このでれ助親父。」
 おせきは遠くの田圃にいる人々が首をもたげたほどの声で、家付娘の特権を振りまわした。
「ばか阿女、いくらでもえろ」と浩平は気圧けおされ気味で、にっと笑った。「山の神なんか黙って引っ込んでいればいいんだ。何のかんのと差出がましいこと言うのを、俺の方の村では雌鶏めとき吹くって笑うんだ。雌鶏とき吹くとその家に災難があるって、昔からこの辺でも言ってべ。」
「何だと、きいた風なこと吐かしやがって、いしら、はア、俺家のおっ母とでもいっしょになれ……今日限り、縁を切っから、はア……」
 おせきは地団太を踏んで、歯をぎりぎりとかみ、熱い涙をはらはらと飛ばした。
「おっ母さん、はア、勘忍して……おっ母さん、よう勘忍して……」とおさよが、泥手のまま夫に武者ぶり付こうとする母のあとから、いきなりすがりついた。

     六

 次の日、長男の勇が東京の工場からひょっこり帰って来て、おせきの気持はどうやら転換した。田圃には自分たち同様、田植の人々がそこにもここにも見えたので、彼女はおさよにすがりつかれるまでもなく、じっとそこで我慢したのであったが、あくまでしらをきっている夫の態度には、ますます腹が立ってならなかった。その日一日中、思い思いの仕事をして、夜も思い思いに過ごしたが、あくる朝になっても口をきく機会はなく、おせきはそのまま野良支度になろうとはしなかった。それに彼女はこないだから多少、自分の体の生理的な異状をも自覚していたのであった。
 今夜はお寺で部落常会があるから、各戸、かならず誰か一人出席のこと――という役場からの「ふれ」を隣家へ廻して、そこの老婆としばらく無駄話を交換し、やがて何か見馴れぬ洋服姿の男が自家の門口を入って行った様子に、戻って見ると、それが、はからずも勇だったのだ。
「おや、誰かと思ったら。――どうも、誰かが来たように思ってはいたが――」
 半年ばかり見ないでいるうちに、急に、町場の青年らしく、大人びた忰を見た彼女は、最近人に見せたことのないような嬉しげな微笑を顔いっぱいに湛えた。
 勇は国防色のスフの上衣を脱ぎ、上り端へ胡座あぐらをかいてから、小さい新聞包みを母の方へ押しやった。
「おみやげだ。何にもなくて駄目だっけ。」
 母の大好物の鰹の切身を彼は汽車を降りた町で買って来たのである。それに、別に少しばかりの東京風の菓子。そしてそれは勝やおさよや、その他の幼い者たちへ。
「みんなどうしたか。」
と彼はがらんどうの家を見廻して訊ねた。
「由次と勝は田植、さア子は今日は、出征家族の奉仕労働とかで、どうしても学校さいかなくてえなんねえなんて行っちまアし、おッちうらはその辺で遊んでいんだっぺ。」
「俺いなくて田植大変だっぺ。」
 勇はこんどは土間のあたりを見廻した。貧しい小作百姓のむさ苦しい煤けた土間には、ごみごみした臼や古俵ばかりで何もなかった。
 おせきは答えず、別のことを訊ねた。
「東京の方は外米だちけか。まずくてひどかっペ。」
「うむ、ひでえや、ぽそくさで、味も何もねえ。」
「ふでもどうだか、こっちの死米の麦飯と較べると、まアだ、外米の方がよくねえか。」
「うむ、どんなもんだかよ。」
「今年は、はア、洪水浸みずびたしの米ばかり残っていて、まアだ食いきれねえでいんだよ。いくら団子にしても、へな餅にしても、鶏や牛にやってもやりきれねえ。でもようやくあれだ、と一俵半くらいになった。そのあとに、合格米が三俵、まア、どうやら残っていっから、田植だけはこれで出来べえと思っているんだ。」
 おせきはしみじみとそんなことを繰りかえした。勇が聞いているかいないかなどは確かめもせず。それから彼女は調子を改めて、「今日は勇がかえったから、米の飯でも、それでは炊くべ。碌な米だねえけんど、外米よりはまさか旨かっぺから。」
 そのとき「あんちゃんが来てらア」と叫んでおちえとヨシ子が往還の方から飛びこんで来た。
「ほら、兄ちゃんだ――兄ちゃん、大きい兄ちゃん――」
 しかしヨシ子はきょとんとしている。この兄を見忘れているのかも知れない。でなければ服装や何かがどこか違うので、大きいあンちゃんではなかったと思っているのかも知れない。
 おみやげのキャラメルやビスケットの包みを抱かされてようやくヨシ子はにこにこと笑い出した。
 おせきはその間、鰹の切身を包みから出し、「早速煮ておくかな――」としばらくぶりで匂いをかぐ海の魚に、もう満悦の思いだった。勇が工場へ――叔父清吉の行っていた東京の電気会社へ出るときまったときは、頭から反対して怒鳴り散らし、「百姓家の長男が百姓しねえなんちあるもんか、家をどうするんだ、家の相続を――」などと言ったり、「東京などへ行って……肺病にでもとっつかれて死ね、この野郎――」などと喚いたりしたのだったが、結局、一人でも口減らしをしなければ、子供があとからあとから大きくなるし、家が持たない……というそれこそ至上命令の下には、何とも抗議のしようもなくなってしまい、「そんなら出て行け、俺ら知らないから、死ぬとも生きるとも。」そんなことまで口走った彼女だったが、いまこうして見違えるほどな若者になって帰っているのをみると、やはり出してやるしかなかったし、出してやってよかったのだろうと、思いかえさざるを得なかった。
「兄ちゃん、遊びに行ってみべえ」とおちえが言ってもう甘えかかっていた。ヨシ子は相変らず黙っているが、貰ったお菓子をうれしそうに眺めて、そしてまだ口へは持ってゆかず、食べてもいいのか、怒られやしないのかというように、時々母親の方をうかがった。
「兄ちゃん、いつまでいんだ。あいよ、大きい兄ちゃん。」おちえがまたしても訊ねかける。
「今日けえるのか、あいよ。」
 勇は最初答えようとしなかったが、うるさく言われて、
「はア、東京さなんど行かねえよ、こんどは遠いところさ行くんだ」と何かしら母に気がねするように、しかしわざと聞かせるかのようにも言うのであった。
 おせきはそのことを感じて、
「勇ら休暇かい。それとも何か用があってかえって来たのかい。」竃の前から訊ねかけた。
「うむ――」と勇は生返事した。
 勇を北満の開拓にやってもらえまいか、ということは村の青年学校の先生からの、前々からの懇望だったのである。勇にもその気がないことはなかったのだが、事情はそう単純には出来ていなかった。なるほど青少年義勇軍とかに入れば、別にこれという金は要らず、訓練から渡航、開拓……と順序を踏んで、やがては十町歩の土地持になれる。そのことは願ってもない仕合せであったが、当面、勇にいくらかでも――たとい月十五円にせよ、働いて入れてもらわなければ、家が立ち行かなかった。食う口を減らすと同時に十五円の入金――それが一先ず勇の叔父のつとめていた会社へ当人を出してやった一つの理由だったのだ。
 が、今では由次が勇と代ってもよかった。ばかりでなく勇自身が、工場づとめよりは、まだ満州の方がよくはなかろうかという夢をすてきれないでいた。
「お前、なにかい、やっぱり満州さ行って見る気があるのかい」とおせきは、せき込んで訊ねた。
「とにかくどうなっか、先生が一度相談したいから、休日にかえって来ないかと言って手紙くれたからよ、それで俺、まア、とにかく、帰って来て見たんだ。」
「そうか、先生が……でも、あれだで、一度行ったら、はア、なかなか来れねえんだから、よっく、お父とも相談して、それから、決めるんなら決めなくては駄目だで。」
 彼女は勇をそんな遠い寒い国にやるのがひどく気づかわれる様子だった。
 午後、勇は久しぶりに白い米の飯を食って、それから青年学校の先生を訪ねて行った。

     七

 植付が終って、今後は田の草取りだった。黒々と成育し分蘖ぶんけつしはじめた一つの稲株を見ると、浩平はとにかく得意の鼻をうごめかさずにはいられなかった。インチキ肥料でも腐れ肥料でも、利き目さえあればなア……などとつい妻に向って浴せかけたくなる衝動を、彼はじっと抑えるのに骨を折った。
 おせきは肥料のことについては、もはや何も言わなかった。言ってみたところでどうにもなるものではなかった。それよりは、今は彼女は出来秋の心配に移っていた。昨年のような洪水でも来られると一家はますます悲境に沈むばかりであった。厄介な存在がまた一人殖える――いまやそれが確定的だったのだ。健康な彼女は悪阻に悩むようなことはまず無いと言ってよかったのであるが、それにしてもさすがに自分で自分の肉体が持てあまされた。一人前の仕事が出来ない、それほど歯がゆいことはなかったのである。彼女は浩平の動物性を憎悪した。「丁満なことは何一つ出来ねえくせに。このでれ助親父。」
 浩平にとっては、そのことに関する限り、何とも反駁は出来なかった。実際、すでに七人もの子を産んで、今度で八人目、これからさきもその可能性は長かった。いったい、これでどうなるというのであろう。妻の肉体的負担もさることながら、自分たちのその後の負担も容易のことではなかった。
 暢気のんきな彼もそのことを考えぬではなかったが、口では「この不精阿女。」時にはそれ位のことは言った。が、一言の下に圧倒されてしまうのだった。
「畜生。」
 第一、世間体が恥しかった。出来ることなら彼女は、今度こそはなんとか処置したかった。
 ところで表面は、この頃、一家は至極静穏に推移していたといってよかった。勇の北満行きはひとまず秋になってからということになった。訓練所へ入る前、彼は工場をやめて、家の仕事を手伝っていたのだ。百姓はつらい、つらい……とこぼしながらも、由次には負けず、田の草も掻き、畑の草取りもした。
 お蔭で、植付が終ると同時に、大麦の調製から小麦の始末まで、器械を頼んで来て、一気にやってしまった。ただ、おせきを困らせたのは、勇の食事であった。東京の食事に馴れてしまった勇は、ぽそぽその麦飯や、屑米の団子、へな餅など食べようとせず、痩せ細った身体がますます痩せて行くようなのだ。
 おせきは三俵だけ残してある合格米の一俵に手をつけ、いつか二俵目にも手をつけた。さすがに勇にだけ旨い飯を食べさせ、あとの連中には別のを、というような訳にもゆかず、ついそれが家族の常用になってしまった。
「出来秋までどうしたらいいであろうか。」
 そろそろそれが心配の種になって来ていた。月に二俵はどんなに節約しても食べてしまった。九月の半ばまで、まだ七俵はなければならなかった。それが一俵、他に屑米が一俵、それだけだった。
 毎年々々のことだったが、おせきは田植時分からその苦労のために痩せる思いだった。出来秋まで、何の心配もなく食うだけのものは貯えておきたい、おかなければならぬ。それが農家としての不文律であり、常規でなければならなかった。でなければ曲りなりにも一家を張っている以上、人様に顔向けが出来なかった。
 早く麦でも売って、その金でそっと必要なだけの米を買いたい。ところが今年はその肝心の麦が自分勝手に売却することが出来ず、産組へ集めて、政府へ供出するのだという。そして麦俵は出したが、金が……実に、その金がまだ渡って来なかった。
 全くどうしたらよかったのか。子供らの小遣銭にも不自由な日がやって来ていた。そういうやさき、また一つの難問題が降って湧いた。それは「米の調査」というこれまでかつて経験したことのない一事件だった。部落常会で助役さんの説明するところによると、今から一人あて米二合八勺として十月一日までの数量以上を持っているものは、たとい一俵でも二俵でも政府へ供出しなければいけない。それはこの日支事変を遂行するため、日本が勝って東亜の盟主になるため、是が非でも必要な処置であり、日本農民の、それが唯一の、この際の義務である……というのであった。
 常会から帰った浩平にそのことを告げられると、おせきは夜半まで、まんじりともせずに、あれこれと胸の中で算盤をはじいた。――自家うちではどうしても、これから百日と計算して、一家八人、割当だけでも約六俵は必要なのに……それが一俵しかない。うちには一俵しかございませんなどと調べに廻って来た役場や農会の方々の前に赤恥をかくようなことがどうして出来よう。――あと五俵、いや、出来ることなら六俵、それをどうしてこの際、工面したらよかったろうか。
 考えても考えても、たよるのは産組へ出荷した大麦の代金だけしかなかった。つぎの朝、彼女は野良支度をしている夫へ言った。
「あの金、まだ渡して貰えねえのかどうか、組合さ行って聞いて来てくれねえか。」そして彼女は組合というものの、こういう際の不自由をぶつぶつと、まるで浩平に罪でもあるかのように、繰りかえして攻撃した。
 やがて組合へ行って訊ねて来た浩平の答は、四五日中に半金位は渡るかも知れない、という空っとぼけたものだった。彼女のこれまでの経験からすると、四五日などといったって、それは半月であるか一ヵ月であるか分らなかった。
「ほんとに何ちう組合だっペ。」そのとば尻を、おせきは何時ものように浩平に持って行かなくてはいられなかった。
「お父ら、暢気もんだから……米の調べあるっちのに、どうするつもりなんだ。」
「どうするっちたって、どうもこうもあるもんか。――えものは無え、有るものは有る、横からでも縦からでも調べた方がいいやな。こちとらのような足りねえ者には、政府の方で心配して、何俵でも廻してよこすんだっペからよ。」
「そんな無責任な親父だ。そんで、どうしてこの一家、立派に、ひとから嗤われねえように張って行けるんだ。あすこの家にはたった一俵しかなかったとよ、なんて世間に言われるの、黙って聞いていられんのか、この間抜け親父奴。」
 おせきは近所に聞えるのを恐れてそれ以上言わなかったが……
 そうしているうちに、とうとう調査の日がやって来てしまった。が、彼女はその前日から覚悟をきめたようだった。土間の隅に積んであるいろいろながらくたや、古俵、叺……そんなものをきちんと整理して、それから軒下の方までおさよと勝に掃除をさせ、浩平が野良へ出てしまったあと、自分で、調査員のやって来るのを待っていた。
 昼近い頃、村長と巡査、農会の書記、それからこの部落の区長とが、ぞろぞろと門口を入って来た。
 土間から軒下へ出て一行を迎えたおせきは、丁寧に被っていた手拭をとって、
「これはまア、本日はご苦労さんでございます」と改まった東京風の言葉で挨拶した。
「いい日だなア。」
 区長が半白の頭を見せてそれに答え、それから一行のものは、あるいは軒下に立ち、あるいは土間へ入って来て、じろじろとあたりを見廻した。おせきは少々上り気味で、誰と誰がどこに突っ立っていて、誰が米俵の方を注視していたか、そのときは識別しなかったが、あとで考えると、「米は何俵あったかね」と訊ねて、俵の方へ近づいたのは農会の書記――見知らぬ若者だったと思った。
 そう訊ねられて、彼女は胸を落ちつけ、そしてはっきりと答えたつもりだった。
「はい、あの、六俵半……不合格も合せれば、ざっと七俵はございます。」
「え、四俵――」
「七俵って言ったんだど」と、それまできょとんとして眺めていた勝が訂正した。
「どれとどれだね。」
「これと、これと、これ……これ……」
 俵へ触れる彼女の手先はぶるぶると震えていた。
「ああ、七俵か……そうすると、こちらは家族八人……少し余る勘定だな……一俵だけそれでは供出して貰うことになる訳だな。」
 書記は紙片へ書き込んで、それからおせきに捺印させた。やがて調査の一行はどやどやと門口を出て行ったが、おせきは失神したように、軒下に突っ立っていた。
「おっ母さん、いまのあれ違っていべえな。」
 勝は相変らずきょとんとした顔付で、眼ばかり輝かせていたが、こんどは、違っていても差支えないのかというように母に迫った。
「馬鹿、いしら黙っていろ。よけいな口きくとぶんなぐるぞ」とおせきはやっと我にかえって勝をたしなめた。





底本:「犬田卯短編集 一」筑波書林
   1982(昭和57)年2月15日第1刷発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2007年12月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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