沼畔小話集

犬田卯




     伊田見男爵

 伊田見男爵と名乗る優男やさおとこが、村の一小学教師をたずねて、この牛久沼畔へ出現ましました。
 男爵令嗣は「男爵」と単純に呼ばれることをなぜか非常によろこばれたということであるから、私もこれから、単にそう呼ぶことにしよう。で、閣下、いや、男爵は霞ヶ浦の一孤島――浮島にしばらく滞在されて、そこの村役場の書記某というものの紹介状をふところに、わが村の教師のところへやって来たのである。何の目的があって? それはおいおいと判明するであろうが、とにかく同僚の紹介――教師は以前その島に奉職していた――であるから、Mというその教師は、細々と書かれた紹介の言葉を読み終るや、
「さア、どうぞ……」と丁寧に、若き男爵閣下を客間に招じ、正座に据えたのであった。
 男爵は粗末なあわせ・羽織を着流し、風呂敷包み一個を所持しているのみであった。(この話は初秋に起った)が、別にそうした風体を気にかけるでもなく、悠々迫らざる態度で、いかにも貴族らしい挨拶をするのであった。
「僕は全体、上流社会が嫌いでしてね。」
「いや、何といっても平民階級の中にいた方が、気がおけませんよ。」
 男爵は、だから「画家」として世に立つべく修業し、写生旅行に、この風光明媚の沼岸へやって来たというのであった。
 M教師は酒肴を出しつつ、
「はア、そうですか、この村には小川芋銭先生がおられますが、ご存じですか」
 すると男爵は視線をあちこちさせて、
「小川……小川、先生……そう、あの方は帝展でしたな。有名な方ですな。」
「いや、院展の方で……」と正直なM教師は答えたが、相手が、
「あ、院展でしたな、そう、そう院展の……」
 明らかに狼狽した返答に接すると、こいつは……と考えざるを得なかった。
 雑談数刻、風呂がわいたという知らせに、男爵は、M教師の妻君から手拭を借りて風呂場へ立った。
 その間に、M教師は弟のように可愛がっているという画家――美校出身の、そして芋銭先生の弟子であるところの――を呼びに、近くまで自転車を走らせたのであった。
「おいS、俺の家へ、いま男爵閣下がお見えになったんだ。いっしょに飲もう。」
「へえ、珍客だな、しかし何という男爵様なんだい。」
「伊田見っていうんだ。」
「ニセじゃないかね。よくそんな奴が田舎を荒し廻るからね。」
「うむ、じつはどうも怪しいから、お前を呼びに来たんだ。」
「じゃ、ひとつ正体を見届けてやるか。」
 二人が勢いこんで取ってかえした時、男爵は風呂から上って来た。そして浮島から歩いて来て、足袋がこの通りになってしまったと笑いながら、その汚れたやつを廊下へ投げすてて、風呂敷包の中から、新しいやつを引っ張り出したのであった。新しいといっても洗濯したものである。閣下……いや、男爵は、そいつの皺を伸ばしながら右足に穿き、もう一方を穿こうとすると、どうしたことか、それも右足の方である。
 男爵は、瞬間妙にてれたが、チョッ、と舌打ちして、それを風呂敷包みの中へ押し込み、左足のを探したが、無い!
「宿へ忘れて来たかな! 仕方がない。」
 ひとりつぶやいて、右足のも脱いで、そのまま座ってしまった。
 その夜は雑談に花が咲いて、無事に過ぎた。男爵はなかなか座談にけていたのである。いかに怪しいとにらんだからといって、まさか、真っ向からそう訊ねるわけにもいかない。いや、本ものであった場合は、大変な「失礼」にあたってしまう。
        *    *    *
 次の日、男爵は沼へ写生にでも行くかと思いのほか、村の有志訪問と出かけたのであった。最初に、農会長を訪ねた。
「僕、満州に農場をはじめかけているんですよ。約三千町歩ばかりの荒蕪地を払下げてもらってね。大々的に、近代式の機械をつかって、アメリカ式にやろうと思ってね。」
 そしてそのアメリカ式の大経営が、いかに巨大なる利益のあるものであるか。また、そこの従業員や農耕者の雇入れ……いずれ移民を募集するのだが、この辺からも一つ、農会の尽力で、五十名ばかり欲しいものだ。いや、この辺の百姓はなかなか勤勉であるし、次三男諸君も随分いるようである。
 ちょうどそこへは隣村の失業農業技術員Kという青年が来合せていた。男爵はすぐにこのKへ親しみの視線を送り、内地農業の見込みのないこと、将来の農業はどうしてもアメリカ式、ないしロシヤ式でなければならないこと等々を滔々として語り、いかに自分がそういう方面において、新しい計画、経綸を持っているかを誇示したのであった。
 やがて男爵はKといっしょに農会長の宅を辞去した。辞去するまでには、男爵は農会長をして翌日、画家小川芋銭氏を紹介させ、そして満州における大農場建設の資金の一助として絵を幾枚か書かせようという手筈まできめてしまったのであった。
「じゃ、どうぞよろしく。」
「承知しました。」
 意気揚々としてそこを出た男爵は、Kの肩を叩いて、
「君、どうだね。ひとつ満州へ勇飛しないかね。」
「いや、大いに勇飛したいと考えていたんですがね。」
「じゃ、僕のところで高給を出そうよ。それからね、僕は、実に、その君の高潔なる犠牲的精神と、現代、農村青年のみが持っている本当の真面目さに惚れ込んだよ。それでだね、どうだね、折入って話したいことがあるんだが……」
 若いKは、東京の男爵閣下に、かくも慇懃に持ちかけられたので、じゃ、ひとつ、そこでひと休みしながら……と言わざるを得なかった。何となれば、ちょうどそこには、それにふさわしい「御休所」があったのである。
 卓を囲んで、女給が、どうぞお一つ……と来てからややあって、男爵はKの耳に顔を寄せていうのであった。
「実はね、僕は君のような真面目な、日本精神を体得した青年を探していたんだ。で、これはまアさきの話であるが、いや、現在でも決して差支えないんだ……ね、僕の縁者に一人の、まア、いわば僕の妹のようなやつがいるんだ。君、そいつと結婚してやってくれないかね。独身で満州くんだりまで行くなんて、われわれ若き男性にとって、こいつは残酷だからな。いや妹のやつも農業が好きで、上流社会や華族社会は嫌いだというのだ。」
「大して美人というわけでもないがね……」と言いながら、男爵は、あっけらかんとしている青年の前へ、一葉の写真を出したのであった。「しかし君、この通りの純真なやつでね。」
 なるほど――いや、非常な美人である。この辺の村の土臭い娘達に比しては……
        *    *    *
 K青年は有頂天になってしまって、次の日、Sのところへ報告に立ち寄った。
「S君、俺は婚約したぞ、男爵閣下の令妹とよ。」
 Sはその時、自分の従兄にあたる農会長が、男爵を連れて小川先生を訪問すると聞いてびっくりしてしまい、「ちょっと待て!」をやったあとだった。とにかく本当に伊田見男爵の令嗣だというあかしを見てから紹介するならした方がよかろうと、M教師と同道でことわったのである。で、Kにも言った。「眉つばものだぜ。」が、Kは華族の令嬢と結婚出来るものと信じて疑わない。
 男爵は、その時、では「証明」を手に入れてくると言って、急遽東京へ立ったのであった。そして二日して、戸籍謄本と××子爵の堂々たる紹介状とを持って、また村へやって来た。が、M教師とS画家とはまだ信用するまでには行けなかった。
「おい、二人でこっそり調べて来ようじゃないか」とM教師はいうのであった。
 そこで二人はご苦労さまにも東京へ出発したのである。と、それと気づいた男爵は、ふいといなくなった。夕方、東京から、ニセだから捕えろ! という電報が村の巡査へ来たとき、彼はもはや消えていたのである。が、あとで捕まった。男爵閣下は茨城北部のある町の床屋さんであった。道理で汚ない風姿はしていても、いつも髪だけはきれいに撫でつけていた。

     虚脱人

 彼の田地は「茅山かややま」――草葺屋根の材料にする茅刈り場――そのもののごとく草蓬々ぼうぼうであった。背丈を没する葦さえそれに交って、秋になると白褐色の穂を、老翁の長髯のようにみごとに風になびかせた。数年この方、彼は耕さなかったのである。しかも自己の持地に隣る三反歩の小作田まで一様に死田化して顧みなかったのだ。
 水田ばかりではなかった。畑地をも彼は雑草に一任してしまっていた。親戚のものは、わざわざ何回も「会議」を開いて彼に忠告した。村長や警察まで心配して――なんとなれば彼は国民の三大義務の一つ、納税なるものを果さなかったので――威嚇した。三反歩の方の地主は強硬に土地返還を迫った。が彼はそれらのいずれに対しても頑として応じなかった。「勝手に何でもやれ! 俺は、俺だ。」
 そして彼は毎日寝ていたのだった。夜も昼もなかった。一番奥の部屋へ蒲団を敷きぱなしにして。屋根からは雨漏りがした。壁は崩れてしまった。掃除もしない家の中は、埃や鼠の糞だらけだった。
 彼には二人の子供があった。長男は十四歳で次の女の子は十二歳のはずだった。彼らは全く野獣化して、他家の果樹へよじ登ったり、畑のものを失敬したりして生きていた。親戚で引き取っても三日といつかなかった。労働と叱責、それは彼らにとって堪え得ないものであるらしかった。彼らは彼ら自身の生活方法を獲得していて、夜だけはどうやらぼろ家へかえるが、夜が明けると雀のように唄いながら餌をあさりに出てしまった。
 作物を荒された村人は、よく親父のところへ抗議するのだったが、親父先生は返事もしなかった。執拗に談じ込むと、彼はうるさそうに叫んだ。「ぶっ殺すともどうとも勝手に、勝手に……俺は、俺だ。俺の知ったことじゃねえ。」
 彼は炊事もやらなかった。殆んど塩と水で生きているらしい、とは近所のものの観察である。彼がああなる前に収穫した籾が、俵に五六十残っているが、そいつを小出しに、ぽつぽつ食っているらしいとのことでもあった。
「こないだ郵便物が来たから持って行ったら」とこの話をした私の友人――××局の配達夫をやっている――が真面目な顔でつけ加えるのであった。「相変らず堆肥のような蒲団の中に、この暑いのにもぐっていて、そんなものわざわざ持って来てくれなくてもよかったっけな……なんて、手紙を受取ろうともしないんだから……」
「百円札が入っていたかも知れないのにな。……それはとにかく、気狂いかね。」
「いや、気は人並み以上に確かですよ。議論をはじめたとなると滔々として政治問題、社会問題、人生問題、なんでもやるんですからね。」
 友人の話を総合すると、数年前妻に死なれてから、彼のそうした新生活がはじまったとのことだった。婿であった彼は、それまでは人一倍の働き手だったし、真面目一方の若者だった。
 それで解る。彼はこの社会に絶望したのだ。そしてそれっきりになってしまったのだ。が、それはとにかく、このニヒリスト先生、つい過日のこと、のこのこと万年床から這い出して、草蓬々の自分の畑をうなったそうである。
「何か蒔くつもりでしょうよ。籾俵を食いつくしてしまったんですね、きっと。子供らのように、まさか、手あたり次第、ひとのものを取るわけにも行かないでしょうからね。」
「ニヒリズムの破産ですかね。」

     伝統拒否者

 彼女は呉服ものの行商を営んでいた。家にいることはめったになかった。一週間も旅先から帰らなかった。稀にかえって来ると、彼女は屋敷の殆んど半ばを占める野菜畑へ出て雑草をむしったり、季節々々のものを蒔いたりした。
 彼女はまだ若々しかった。時に行商からかえって汚れものなど洗濯している彼女の、かかる貧しい村にあっては不似合なほどなまめかしいふうや、臆面もなくあらわな脇の下、白いはぎなどを見て、村人はごくりと唾を呑んだ。
 夫に死別するや、半歳ならずして彼女のそうした生活がはじまったのであった。十四になる息子は東京へ奉公に出してしまい、よぼよぼの老母は隠居家へ押しこめてしまって、そして彼女は鍬を棄てたばかりでなく、何よりもまず村人としての生活、百姓女としてのこの世の繋縛――伝統や、いわゆる「近所づきあい」という煩累から、すっかり自由になり、さらに「家」というものの、親子の関係や、夫婦の関係や、親戚間のそれや、そうしたきずなを断ち切ってしまって、完全に「自分一個」の「自由」な「囚われない」生活をはじめたのであった。
 彼女は、近所や親戚に葬式があっても気が向かなければ顔を出さなかった。女房たちの年に一度二度の集まりにも姿を見せなかった。隠居家にひとり佗びしく生きていた老母――彼女の実の母――が息を引取る時も、旅にいてなんの世話もしなかった。東京で酒屋の小僧をしている息子が、ひょっこり行商からかえった母親をなじると、彼女は吐き出したということであった。
「自分のことは自分でするのが本当だ。俺ら誰の世話もしたくねえ代りに、ひとの世話にもならねえで気が向いたら死ぬ。」
 孤独とそして自由――それが彼女のすべての生活であった。「気が向けば」彼女は遠い山の温泉場へも行ったし、名所旧跡も訪れた。松島見物に出かけた村の人々が、塩釜の町で、ひょっこり彼女を見つけて挨拶したら、彼女はどこの誰だっけ?……といったようなとぼけた顔をして、返事もせずに行き過ぎたなどという話題を提供したこともあったほどである。「あの年で、ああして一人でいやがって……」などといらぬお世話を焼いたり、想像を逞しくしたりする人たちも、むろん最初はなきにしもあらずだったが、しかしそうして瓢々乎として足の向くままに、女の身で、今の文壇における誰やら女史のように、旅して歩く彼女の存在は、やがて村人のこころから離れてしまって、たまに鼠にさえ見限られた古家の雨戸を繰っている姿を見ても、単なる網膜の一刺激にも値しなくなってしまった。
 二十年の月日が経過した。ある日、旅先から古い故郷の家居へたどりついた彼女は、見るかげもなく痩せ衰えて、雨戸を開け、座敷へ這い上るのもやっとのくらいだった。誰一人訪れるものもない家、ひっそりと静まりかえって、晩秋の淋しい陽射しに、庭前の雑草の花のみがいたずらに咲きほこっている草葺家の中に、彼女はひとり閉じこもったきり、うんともすんとも音を立てなかった。
 そして約半月が経過した。誰もいないと思っている彼女の閉めきられた家から、突如として一つの呼び声が洩れはじめた。
「誰か来てくろよ。苦しいよ、あ、苦しいよ、誰か来てくろよ。」
 人生における、そしてこの社会における孤独と自由の破産――実際、彼女の死顔を見たものは、痛苦の本質そのものに面接したようにぞっとしたという。

     自然人

 お寺の門のところにどっかと胡座あぐらをかいた、微動だもせぬ、木像の安置せられたような彼――いかなる名匠の鑿をもってしても、かかる座像を彫ることは不可能に相違ない。それは生きている、生存しつつある木像なのだ。大きなぎらぎら光る眼、ふさふさしたみごとな髯――それが生えるがままに伸びて、くっきりと高い鼻をいやが上にも浮彫し、まるで太古の神々の中の一人でもあるかのように見えるのである。
 これは通称「ひらきやの兼公」の、ある日ある時のポーズなのだ。そして彼には、もう一つの「お得意」のポーズがある。往来のまん中へ、赤裸のまま、両股をひらいて、そしてすっくと突っ立ち上り、両手を腰にあて、両眼を見開いて大空のある一点を凝視したまま、二日でも三日でも、気のすむまで地から生え抜いた天下大将軍のそれのように、悠然として立っているのである。
 その爛々たる眼は何を見つめているのであろう。おそらく何も見てはいないのかも知れない。しかしながら天の一角に一つの不思議を発見して、その正体を見きわめようと据え付けられた精巧な器械のようにそれは見えるのである。
 ところがこうした彼が往来へ突っ立ったが最後、実際、彼は「てこでも動かない」のである。荷車をひいた百姓たちは、彼がそっくりそのまま石の地蔵尊でもよけるようにして傍へ片づけ、そして辛うじて通り得るのである。年頃の娘たちなどは、顔を火のようにするか、でもなければ、この立像に会っては、数町を遠廻りしなければいられない。
 しかし彼はいかなることをされようとも、決して人に危害を加えるようなことはないのである。彼は家というものももはや失い、主として山野にね、山野に彷徨して、虫けらを食って生存しているのだが、時々、里へ出現ましまして座像化したり、立像化したりをやらかすのである。
 時にはまたひょっこり農家を訪れることもあるのであった。しかしそれは食を乞うためではなかった。彼はなまものを好み、煮沸したものは好まないらしい。そしてそういうなまのままのものなら、何もわざわざ人家を訪れなくても、野良にいくらでも作られている。実際、虫けらもおらず、作物もない冬季ででもなければ、彼は人がやっても、握り飯やふかし芋は口にしなかった。五十歳に近い彼が若者のように漆黒の毛髪を持ち、三日間も立像化するエネルギーを把持しているというのは、全くこのなまものの故かも知れなかった。
 兼さんが、かかる生活をはじめてから、もう二十五年にはなろう。彼には一人の妹がある。東京で女中奉公しながら、可哀そうな兄貴の世話をしてくれと言って、村の親戚へ、時々五円十円と送って来るそうである。しかし山野いたるところに青山あり、生存方法の存在する兼さんにとって、そうした資本主義社会では神様である重宝なものも、何の役にも立たず、また必要もない。お蔭でその親戚では、思わぬ拾いものをしているとか、いないとか。
 兼さんがお寺の門の前へまた座り込んだという話を聞いて、私は彼を訪ねて見た。むろん昔の小学校におけるこの同輩を、彼が記憶しているはずはない。
「兼さん! どうだい。」
 言葉をかけても、彼は微動だもしない。人語を喪失した石上の修道者か何かのように、じっと前方を見つめたままである。

     神様

 村の一部を国道が通じている。そこを約一時間おきにバスが通っている。私の部落からその国道へ下りる坂の下に、ぽつんと一軒の家が建てられはじめている。どこからか壊して来たものらしい。聞いてみると、やはりそうで、そしてこれは実に「神様」の家なのであるという。
 ある日、僕が国道のところでバスを待っていると、そこの茶店のお主婦かみさんが、まア、しばらくですね、まだ時間があるようですから、こちらへ腰を下ろしてお待ちなせえよ、と言いながら、もうお茶など汲んで出してくれるのであった。その時、いま見て来た「神様の家」の話をして、いったい、どんな神様なんですかねと訊ねると、へえ、大した神様ですよ、と笑いながら次のようなことを話すのであった。
 つい、こないだのこと、その神様がここへ寄りましたよ。俄か雨がやって来て、洋傘もなかったらしく、ずぶ濡れになってしまって飛び込んで来たンでしたが、ちょうどそこに、××から蟹を商いにやって来たおいささんという女のひとが、やはり雨宿りしていたんですよ。おいささんはもう十年ばかり後家を通している働きもんでね、いくらか小金もためているという評判もあるンですがね。あれで少し顔でも人並みだと、まさか誰だってああして一人じゃ置きますめえがね……なにしろあのご面相じゃ……でもまだ若いんですよ、三十を越したばかりでしょ。まアそれはとにかく、おいささんが、今晴れるか晴れるかと思って、空ばかり見ているもんだから、神様もはじめは黙って、着物なんか拭いていたっけがね、「おッかあ、酒一ぱいつけろ!」っちから、つけてやると、それを旨そうに飲んで、急にご機嫌になっちまってね、どれ、姉さん、手の筋見てやっぺ……なんて、こう、ぐいッとおいささんの方へ寄り添っちまってね、おいささん、びっくらして、ぽかんとしているのもかまわず、手のひら引っくりかえして、ふう、ふう、姉さんは……っちわけだっけね。おいささんは見料取られッから嫌だって手を引っ込めようとすると、無理に手頸なんか握っちまって放さねえで。それから、お前さんはひとり者だな、商売の方は今うまく行ってねえが、どうこうすっとうまくいくようになると、お決まりの文句を並べはじめたっけが、おいささんも商売は熱心だからね、その話になると、つい、乗っちまったね。神様と話おっぱじめっちまった訳でさよ。
 すると神様は喋り出した。いや、何を喋ったか知らねえが、酒をもう一杯、もう一杯……で、とうとうおいささんへ杯を差したもんで、受けろッち騒ぎでさ。おいささん、はじめてびっくらして、嫌だって逃げると、そんなことはねえ、神様の杯、なんとかかんとかって怒り出しちまってね。おいささん、怖くなっちまって、肴に蟹やるから、酒だけは勘弁してくろッちわけでね、なんでも蟹二つ三つ、籠から出して神様に食わせて、ようやく機嫌直してもらったね。
 するとどうだっぺね、神様すっかり悦んでしまって、商売繁昌の呪禁まじないしてやっから、あっちの、奥の部屋で、十五分ばかりで済むから、いっしょに酒飲みながら……っち話さ。あの神様、あれでよっぽど女好きですと……
 バスが来てしまった。神様はおいささんを呪禁ったかどうしたか? 私の耳へは、お主婦かみの話の代りに、女車掌の「お待ちどう様でした。××行きでございます……」

     米泥のM公

 いつ見ても腐れ切った草屋根のところどころ雨漏りのする個所へ煤けきった板など載せて、北側の荒壁は崩れるままにまかせてあるのだったが、その廃屋同様のM公の家が、どうしたのか立派(?)に修繕せられて、やや人の住居らしく往還に背を向けて立っている。M公も「堅気」になったのかしら、女房でももらって「身を固めた」のかしら、と思って聞いてみると、否、どうして、彼はまた七年半ばかり「くらい込んで」、最近出かけて行ったばかりだという。
「また、米でか――」
「ンだ」といって話者は微笑した。
 M公は「米俵かつぎ」以外に、それこそ塵一本他人の物は盗ったことがないという泥的仲間の変り種なのである。一人前の体力が出来てから四十年このかた、何回彼は米をかついだろう。しかもそれがきまって二俵ずつ、貫目にして三十二貫ずつ、決して足跡も残さずにやってのけるのだから、その方にかけては、まさに「神技」を体得しているといってよかった。「今度も例の伝で、××の治兵衛どんの倉から四俵やらかしたんだ」と話者はいうのであった。
「それがよ、雨上りの泥道だっけが、ンでも、どこにもそれらしい跡がねえんだちけから、全く偉いものよ。」
「しかし、よく盗まれたのだけは解ったな。」
「うむ、やはり二三日分らなかったな……」
 だが、どうも「変だ!」と家人が気づいて、積んである俵をかぞえて見ると、どうしても四俵不足している。「やられた!」いまさらのようにびっくりして、村の巡査駐在所へ自転車を飛ばした。
 するとどうだろう、その途中、××屋という白米商の軒下をふと見ると、そこにちゃんと四俵の米が積まれている。今の今、誰かが売りに来るか、買って来たかしたものに相違ない。例の虫が知らせたとでもいうか、自転車を飛び下りて俵を検分すると、たしかに自分のである。小作米として取ったその俵装には、ちゃんと生産人の名前が記入せられていたのである。
 誰から買ったのか? 今朝、M公が持って来たのだ! といったようなことで、たちまちこの泥棒事件は、頭かくして尻隠さずに終ってしまった。巡査と治兵衛がM公の家へ行くと、彼は悠然としてひとり朝飯をやっていた。久しぶりで彼は酔っぱらってさえいた。
 彼の前半生は――といってももはや後半生も残り少なになっているのであるが――かかることの絶えざる繰りかえしであった。彼は高飛びをするとか、あくまで盗みを隠匿するとかいう智能は持たなかった。近所の、様子のよく分っている家の米俵をかついでは、苦もなく「上げ」られて、そして累犯々々で、次第に長たらしい刑期を送らなければならないようになった。が、いっこう、それが苦にならないらしい。先年、中風の老爺を「あの世」へ送ってからは、全く彼は呑気に、のそりのそりと牛のようにやっていたという。刑務所でこしらえて来た貯金が、そうしたしばしの彼の生活費にあてられるらしく、それが尽きて、村の商い店へものを買いに来なくなると、「もうそろそろはじまるぞ」と村人は笑い出すのであった。
 実際、警戒などしたって仕方がない。俵にかけては神様も同然の彼のことである。かつがせておいて、あとで尻っぽを抑えればそれでよかったのだ。従って村人は彼の存在を大して苦にしない。刑期を終えて彼がかえって来れば、「今日は」「いや、しばらく!」であった。

     コソ泥のR

 S部落の自作農Rがまた「上げ」られた。今度こそ慣例の「もらい下げ」もくまいし、親戚・縁者とて、またしても歎願運動を起すようなことも出来まい。なんとなれば彼らはつい三ヵ月ばかり前、村の「有力者」に頼んで、すでに三十何件かのコソ泥を自白した彼を「晴天白日」の身にしてやったばかりである。そしてR自身、そのために金一封、五百円ばかりを使ったばかりである。
 そのRが全く「性懲りもなく」俗に相田屋で通っている一農家――もとここは宿場であった関係上、当時は何か商売をしていたのでそう呼ばれているのであろうが、現在は交通関係の変遷で、多くのそうした家のように百姓をしている――へ忍び込んで、上り框に据えられた時代ものの長火鉢の曳出しを、またしてもねらったのであった。
 彼は俗用のためしばしば出入りするこの隣人の家の、小金の有り所をいつの間にか知っていたのである。もっともまとまった金など、どこの農家も同じこと、この家にもありようはずはない。時によっては十銭玉一つ入っていないようなことも稀ではないぼろ財布なのだ。
 しかし十銭玉一つであろうが、一銭銅貨一枚であろうが、とにかく「塵一本」でも「自分のもの」としてめ込むことに無上の法悦(?)を感ずるRにとって、それは不可抗の誘惑だったに相違ない。ひょっとすると今夜あたり、猪の一枚も間違って入っていないと、誰が保証し得ようぞ。
 それにしても家の中はやはり家の中で、決して誰もいない暗夜の野っ原ではなかった。野っ原から家の中への転向し向上した彼にとって、たしかにそこは勝手が違っていた。
 彼は家人に見つけられてしまったのである。眠っていると思ったこの家の親父が、あるいは眼をつむったまま、まだ何か考えごとでもしていたのだったかも知れぬ。彼は古い煤だらけの手槍をなげしから外し持ったその禿頭親父のために、横合いから危く突っこ抜かれようとした。辛うじて逃げ出しはしたものの、肝心の証拠をそこに残してしまったのである。
 証拠というのは片方の草履だった。音をたてまいために彼がわざわざ穿いて行ったR家独特のぼろを交ぜてつくった、ばかりでなく、その上へご丁寧にも、人に盗まれまいために焼印まで捺した草履だった。
 Rのような、かかるコソ泥は、決してどこの村にも珍しくない存在である。彼らは別にその日その日の食物に困っているのでもなければ、公租公課の負担に押しつぶされてしまっているわけでもないのだ。ただ、身上をふやしたい、土地持ちになりたい、ならなければならぬ、といったような封建的な――というよりは近代的なといった方が当るかも知れぬ――ある百姓心理のこり固まりなのだ。
 彼らは最初、きまって無我夢中に働く。馬車馬のように向う見ずに働いて働いて働き抜くのである。病気ということも知らなければ、世間体ということも知らない。何ものかに憑かれたように、ないしは悪魔のように働く。だが、五年、十年、彼らの希望は、岩にかぶりついても達しなければおかないその希望は、なかなか実現しない。彼らの依拠する旧式農法による生産高を現在の経済組織はみごとに裏切って行くのである。そこで彼らは申し合せたようにこそこそと他人の生産物を曲げはじめる。
 そしてかかる方法をうまく実行して堂々と穀倉を打建て、小地主に成り上る者さえあるのだから、なかなか世の中は広い。

     札つき者のA

 I部落のAは青年時代に「強盗殺人未遂」というどえらい罪名で「上げ」られて行ったきり、決して村人の前へ姿を現さなかった。実家へは時々「立ち廻る」とか、金を送ってよこすそうだとかいわれもしたが、それもおそらくうわさにしか過ぎなかった。
「岩田のKの子分になったそうだ」ともうわさされた。そしてこれは信用するに足るものだと観察するものもあるのだった。岩田のKという泥棒は、この常南地方の「出身」で伝説的な義賊である。鼠小僧の再来とまでうたわれたとかいう話が今もって残っている。だが、その正体は誰も見たものもなく、ただ徒らに名ばかり高いのである。時によっては、この地方からもそうした大泥棒が出たということが、一種の誇りをさえ伴なって、人々の口から耳へ伝波するのであった。
 ところでその岩田のKが大往生を遂げたというニュースとともに、いつしか今度は、I部落のAがそのあと目をつぎ、妾の四五人も置いて豪勢にやっているという話が、村へひろまってしまったのだった。そして一流れ者の小忰であるAは、ここ数年の間、大泥棒、大親分として、ひそかに村人の、伝統的な英雄崇拝感といったようなものを満足せしめていたのである。
 それまではそれでよかったが、そのAが、最近、ひょっこりと村へかえって来たのであった。予期に反して彼は「尾羽打ちからし」た、見るも哀れななりをしていた。しかし不思議――でもないか知らんが、とにかくAは女房をつれていた。
「あんな奴にでも連れ添う女はあるもんかな。」
 妾の四五人も抱えているはずのAも、村人にかかっては堪らない。さっそくもとの一流れ者の小忰に還元されてしまい、横目でにらんでふふんとやられてしまった。
 しかしそれはとにかく、Aはいっこう平気で、沼岸の一農家の、空いている古い隠居家を借りて、そこへ世帯を持ったのであった。彼はなんらきまった職もないらしく、毎日沼岸の丘の上から天空を眺めて日を送っていた。女房が一人で袋張りをしたり、子供の玩具の風船をこしらえたりしていた。彼女はまだ三十そこそこらしく、都会の裏町で育った多くの女性達のように色もなくやせて、口ばかりが達者だった。
 村人はこの一家に警戒の眼を光らした。強盗殺人……などという凄い罪名が背中に書かれている人間など、どうして村へ入れたのだったろうか?
 しかしながら数ヵ月過ぎても、村にはなんらの被害もなかったし、それからまた心配していたような風体の悪い人間が、Aをたずねて来るというようなこともないのであった。
「奴は改心したのかな。」
 女房の口から漏れたところによると、A一家は東京の下谷とかで何か商売をしていたということだった。しかし東京も不景気で暮しにくいから、保養かたがた田舎へやって来た云々、……A自身も時々近くの家へ遊びに行くようになって、村人の「安心」は次第に増していった。ところがある日、Aの口がちょっとすべったのだ。
「俺には家の構えを一目見ると、どんな大名屋敷でも、どこに金がしまってあるか分る!」
 村人はこの一言に、すっかり戦慄してしまった。婉曲な立ち退き策が成功して、Aは村を去った。空手でやって来た彼は、大きなトラックで荷物を運び出した。

     浩さん

 月に三日間働くことにして今年いっぱい、一日五十銭の割で約束してもらえまいかと、つい五年ばかり前から、小さい名ばかりの草葺家を建てて私の家の屋敷続きに住んでいる松原浩さんが言うのであった。食事はむろん自分持ちとのこと。
 ちょうどその当時、私のところでは東京から帰村したばかりで、それまで妹夫婦に任せきりにしておいた屋敷廻りの片づけ、手入ればかりでも容易なことではなかった。第一、天を摩す……も少し大げさな形容かも知れないが、とにかく永年の間伸び放題、拡がり放題にしてあった南風除けのための周囲の椎の大木の枝を、人を雇って伐り払ったその後始末からして、私の柔くなってしまった手には負えることでなかった。壊れた外廻りの垣根から、廃屋を取毀したあとの整理、井戸浚い、母家の修繕……と数え立てると眼前に待っている仕事だけでも限りがない気がする。机の前に座って自分の仕事を――原稿書きをしようとしても、そういうことを気にしだすともう手がつかないのである。で、浩さんからの申し出を私たちは二つ返事で承諾したのであった。それに全く誂えむきに、彼は百姓仕事のみならず、壁塗りでも、垣根づくりでも、井戸掘りでも、植木類の移植のような仕事でも、なんでも器用にやれるという村人の評判であったのだ。年齢は三十七だとのことで、五つ六つ年上の女房と二人暮しをしていたのであるが、私たちが帰村してから間もなく、その年上の女房は「逐電」――浩さんの直話――してしまい、彼はその時妹だという「ちょっとした女」――これは村の一中年者の酒の上での表現――といっしょに、その一室きりない草葺家に暮していたのであった。彼はほんの少しばかりの田畑を小作しているとのことだが、むろんそれだけで足りようはずはなく、養蚕時はその手伝いに、農繁期には日傭取りに……というふうにしてささやかな生計を立てていたのである。妹だという三十二三の女は、村に似合わぬ町場の商売女のような風姿をして、なすこともなく家の中に遊んでいた。彼女は十年も「籠の鳥」――村人の言葉――をしたあげく、そこを出て来てからは、いわゆる「ちょっとした」その風姿が物語るごとく、場末のカフェとか、田舎町の料理店とかを転々としていたのだそうで、「三日もすると」――これも村人の表現――そこを飛び出してしまうのが常習であったとか。
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 もっともこうしたことは、私たちはあとで聞いたので、帰村当時は、村人ともあまりそういう種類の話をする機会もなかったので、何も知らなかったのである。しかし浩さんが村でいう「とはり」というところの出であることは、私は彼の小さい住居が私の家の前の桑畑の片隅へ建ったとき聞いていた。それにしても私たちにとって、そうした種類のことは少しも問題でなかったのである。月に三日間、ことによっては差し繰って五日でも六日でも仕事にやって来てくれるという一事に、私たちは最大の利便と助力とを感じたのであったのだ。
 約束は伐り払ったままになっていた椎の木の枝を片づけに一日頼んだ夕方に出来上ったのであった。浩さんは次の日も来てくれて、枝の片づけをどうやら終った。それは旧正月の二日前のことで、村では餅つきも終り、一年間の決算をつけなければならぬ間際であったのだ。浩さんはその晩近所の親しい家で酒をご馳走になって来た……などと言いながらひょっこり土間へ入って来た。私は就床していたが、酔ったと言いながら何かしおしおしている浩さんの顔を見ると、「金だな」と妻は直感したそうである。翌くる日浩さんはまたやって来た。いくら位要るのだと訊ねると、彼は、年の暮で、どうも……と濁している。結局半年分、いや十円もあればどうやら越せるのだと言う。私の考えでは、村の習慣を知らぬものだから一年分を三つにしてその一つだけでもやればいいのだろうと考えていたのであった。十円は私たちにとって実に痛かった。東京では一家六人の生計がどうにもつかず、村へ帰れば、廃家ではあるが家賃の出ない「屋根の下」があることだし、なおその他のいわゆる「諸式」だって少しは軽減されるであろうし、それから精神的な理由もあったが、とにかくそう考えて生活転換をした矢先なのである。だが、文筆生活などをしていると、一文なしになることなんかもはや不感症以上で、「二三日したらどうにかなるだろう!」と図太くも高をくくる癖がついている。これは実に百姓生活をしている人達には分らぬ気持であり、また事実でもある。余談になるが、浩さんへ無けなしの十円を出してやると、それがぱっと喧伝されたとみえて、やがて私たちは、金をのこして村へ引っ込んだ……という噂が立ってしまい、大いに面目を……否お蔭でさまざまな窮地に陥込むことになるのだが、それはあとの話である。
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 浩さんはなかなかいける口らしいと知ったのは、その十円を持っていそいそと帰って行った夕方、その妹が例の「ちょっとした」姿をして村の辻へ走るらしかったからである。――が、そんなことはどうでもいいことだ。ただこの妹については、村人の話だと、彼女ゆえに、浩さんのもとの女房はいわゆる「逐電」したのであり、どうも奴らは若い頃から「怪しかった」というのであるが、実は私たちも、最初は妹とは知らず、若いのと取りかえたのだろうと信じていたのだった。が、これも実はどうでもいいことだ。とにかく浩さんも村人なみに旧正月を迎える支度をするだろうと、妹のその姿を眺めたとき、私たちは単純な百姓の生活をむしろ羨んだのであった。
 その年は雪また雪の連続であった。そのために正月が終っても浩さんは仕事に来てくれず、私はしばしば机の前から離れて、風呂をたく薪をこしらえなければならなかった。もっとも浩さんは自分の家の台所へ水汲みのついでに、私とこの水も汲んでくれた。二度も浚ったに拘らず、村でいう「まち井戸」である私の家の古い井戸は、一滴の水も湧かなかったのである。夏の盛りと冬季間には、毎年こうした状態になるのが常で、彼岸がやってきて水が出来るまで、他の、「本井戸」――地下水まで掘り下げた七十尺ほどもあるやつ――から貰い水をしなければならぬのであるが、その本井戸なるものは、約二町はど離れた小川芋銭先生の家にしか近みには無かったのである。雪解や霜のために道は悪く、桶は重く、私達にとっては全くこれは難事だった。月三日の決め以外に払うことにしてついに私のとこではこれも浩さんに依頼したのであった。
 しかし浩さんは出歩く日が多かった。せっかくあてにして待っていても、ついに風呂の水はおろか、炊事の水にも事欠くことがしばしばだった。この辺の農村生活に不馴れな妻は、その度ごとに不如意がちな私たちの離京生活をなげくのであった。
 浩さんにそれが通ずるなんてことはありえない。平然として浩さんは自分の生活を生活した。明日持って来るからといって一円二円の酒代を借りに来ることも二三度に止らなかった。
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 そのうち彼は嫁さんを貰うことになったという話を自分からした。子供をひとり連れて来るそうだが、まだ十九とかで……もっとも俺のことも先方へは三十位に言ってやってあるらしい。としごく暢気である。どんな女かまだ見もしないし、先方でもまだ誰も見に来ないというのである。式があるという日は大吹雪で、新聞によると、方々で花嫁の遭難談があったらしいが、浩さんの嫁さんも途中でひっかかってしまい、その翌日ようやくの思いでたどりついた。迎えに行った浩さんは吹雪のために道を失い、腹の方まで埋る道なき道を歩き通したために胃腸を冒され、お蔭で花嫁さん(?)を前に、二三日起きることも出来なかったとか。嫁さんらしい人の姿と子供の泣き声はするが、肝心の浩さんの姿が見えないのでどうしたのかと考えていたら、そこへ青くやつれた浩さんが薬を貰いにやって来てのその話だった。
 嫁さんと入りかわりに妹がどこかへ出て行った。「嫁にやった」のだと浩さんは言ったが、誰も信用しなかった。「また前借踏みたおして三日もすると逃げて来ンだっぺ」と村人は噂していた。ところで一方、嫁さんは十九どころか二十五六には見えた。子供というのは二つ位の女の子であった。浩さんは病気がよくなるとその子をおんぶして、ぶらりと、私が薪を割ってなどいるところへ遊びにやって来た。都合がついたら一日やって来て薪ごしらえをしてくれないかと頼むと、明日でも、と答えるのであったが、その明日になると姿が見えなかった。朝っぱらから用があって他出したのだという。何日頃来てくれるかと念を押すと、雪がなくなったら二三日つづけて薪ごしらえをしたり、野菜畑の準備をしたりしますべと答える。雪はしかしなかなか消えなかった。ようやく庭先になくなったと思うと、空模様が怪しくなってちらほらやって来るが、それでもとうとう春は訪れて来た。雀は雪に凍てた羽根をのばして朝早くから啼き、四十雀や目白などの美しい小鳥の群も庭先の柿の木へ餌をあさりにやって来るようになった。雪の解けた下からは黒い土が、ほかほかと陽炎かげろうを立てた。
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もうじっとしているわけにはいかなかった。私は原稿書きを放っておいて、廃屋のあとを開墾するばかりに片づけたり、花をつくろうと思う空地を掘りかえしたり、果樹類を植えようとする藪を伐りはらったりしはじめた。同時に浩さんの姿を見るたびに、それとなく促すのであったが、浩さんはいっこうやって来てくれる様子はないのであった。「嫁にやった」妹が都合で戻ってくるし、嫁の里に病人が出来るし、親父の方の用事がどうで……と、そして反対に一円だ、二円だである。この頃ではもう水も汲んでくれないので、それらは一ヵ年分の約束のうちに加える条件にするより他はないのであるが、しかしどうせやらなければならぬものであるからと考えて、私たちは出してやったのであった。
 浩さんの姿は見えたり見えなかったりした。ある日、近所の人が通りかかって、「浩さんがいねえちけね……」というのであった。
「まさか。」
「なんでも妹と二人で関西の方へ行っちまったとか……」
 私たちは「開いた口が塞がらぬ」という状態に遭遇したのだった。実際、はたから見たらぽかんとしていたかも知れなかったのである。
「家財道具みんな売り払ったばかりでなく、畑作まで処分して出かけたッち話だね。」
「でも、嫁さんは……昨日もいたようだが……」
「なんでも留守させて、その間に、二人でみんな運び出したって話だね。夜中に、この坂の下へトラック来たの見た人があるちけから……」
 浩さんの前半生が分った。どこへ約束しても彼は金をつかんでしまうと仕事に行かず、ちびりちびり飲んでしまうので、もはやそれを知るところでは雇い手がなかったのであった。幼い時から村を出て樺太から九州の端までほっつき歩いた「風来坊」――村人の表現――で彼はあったのだ。
「知らない土地へ行ったらあれでも夫婦で通ッぺね。」真面目な顔で話し手はいうのであった。それから村の酒屋ではいくら、どこそこではいくら引っかけられたという話の末に、お宅でもですぺね、と訊くから、少しばかりやられた……しかし問題なのは残されたこの仕事だ、すっかり信用してしまってあてにしていたものだから、というと、
「いや、全くそれは降参(浩さん)しやしたね」といってその農夫は、不精髭に蔽われた熊のような顔でにやり笑ったのであった。





底本:「犬田卯短編集二」筑波書林
   1982(昭和57)年2月15日第1刷発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2007年12月8日作成
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