勝太郎

兼常清佐




 私はニホン音楽をあまり好まない。それでラジオは演芸放送の時間になると必ず切っておくことにしている。それが何時だったか間違って掛けっぱなしになっていた事がある。偶然その時唄ったのが勝太郎である。この実に偶然な機会で私は勝太郎の名と、その綺麗な声とを聞いた。その翌日早速出来心を起して、私は勝太郎のレコードを二、三枚買って来たものである。
 何枚もない私の家のニホン音楽のレコードの事だから、私は一つその話をしてしまおうかと思う。実はもう一つ特種があるが、それはまた今度の事にして、まず手近な勝太郎レコードから始める事にする。
 と言ったところで私が何も別に勝太郎レコードを研究したわけでもなく、またこれに匹敵するレコードも外にいくらもあるだろうと思う。また不幸にして宣伝が下手なばかりに、これほど有名にならない唄い手もあるだろう。私が偶然勝太郎を撰んだのは、ただこんな一群の人々の代表のつもりである。
 勝太郎のレコードには随分おもしろいのがある。諸君は一度こんなものを聞いて見ても、それが決して諸君の音楽鑑賞力の疵にならぬことは確である。諸君はすぐシューベルトが美しいと言うであろう。ガリクルチが綺麗だと言うであろう。しかし、それだから即ち『追分節』が美しくなくて勝太郎が綺麗でないとは言われない。それは話が別である。
 勝太郎レコードの声はかなり綺麗である。実際の声はどうだか知らないが、電気装置で煮たり焼いたりした末にレコードとなって出て来る声は、柔かで豊かで潤いがあって、聞いていて甚だいい気持である。レコードの事だからよくわからないが、まず大体で as あたりから d' あるいは d'b あたりまでが普通の声らしい。その間で曲によって多少音階を移調することも出来るようである。『大漁節』と『下総盆踊』とはその一例である。そして声は e''s くらいになると、もはや多少の工風がいるらしい。アルトとしても音域の広い方ではないが、それでも少し練習すれば普通のリードにはさしつかえなくなるであろう。話に聞くと有名な四家よつや夫人がラジオで『越後獅子』とかを唄って大いに喝采を博した事があるそうである。それなら今度は勝太郎が『菩提樹』でも唄って、あっと言わせる番である。――もちろん、これは冗談である。しかし、もし私が勝太郎だったら、そんな事は四家夫人のやらない前に必ずちゃんとやってのける。
 私は日本風の声の出し方を少しもおかしいとは思わない。弱くて、低くて、そして表情の力は欠けているであろうが、私にはまた一方で、自然な、無理のない、平穏安楽な気持を与えてくれる。日本人がこの日本の声で或る種のリードを唄って何故いけないだろうか。私はニホン音楽をあまり好まないが、もしその中から何かを撰べと言われるならば、私はこの無理のない声の出し方などを撰ぶつもりである。
 次にこれは付けたりの事であるが、――そして本当はこれを特に技巧の中には数えられないものであろうが、――私はリュトムスをちょっと注意する。細かい話はここでは出来ないが、とにかく私にはこんなレコードの持つリュトムスの感じが甚だ気に入る。きまり切った三味線端唄なら、そう大した事はないが、自由な民謡では音の長短の割合と曲の進行する速度とが甚だ工合よくいっている。このようなレコードを聞いてすぐその曲を真似て見ると、民謡は簡単だから大体のふしの上下は真似られる。しかし音の長短の呼吸は、拍子を数えて精密に譜に書いて見ない以上はなかなか真似られまいと思われる。とにかく相当おもしろい。
 常識で考えて、勝太郎姐さんともあるものが、まさか『コールユーブンゲン』を正式に稽古したはずはないから、この快いリュトムスの感じは、やはり自然に彼女の心の中にそなわったものであろう。これは日本の民謡で決して馬鹿にならないものの一つである。
 繰返して言うが、私はニホン音楽をあまり好まない。その好まないうちでも、もし何かを撰んで見ろと言われたら、私は躊躇なくニホンの民謡を撰ぶ。だから勝太郎が『三階ぶし』を唄い、『伊那節』を唄うなどという事は、甚だ私を喜ばせる。
 ニホンの民謡のふしには相当おもしろいのがある。一体でみな簡単ではあるが、しかしなかなか綺麗なのがある。そしてそれにはちゃんとした形がある。大抵文句が二行で、その二行がA―Bというような対照のふしで唄われて、それがリュトムスや何やでよく統一されているのが多い。その上に曲に個性がある。どれを聞いても同じようなものだとは言われない。テムポにも、リュトムスにも曲によっては音階にさえも、それぞれ多少区別がある。『大漁節』と『追分節』とは大分違った印象を与えるようなものである。そして第一短くていい。長唄や清元のように、だらだら長くて何だか一向まとまらないのに比べると、民謡は大いに音楽的である。しかしニホン音楽の通人に聞くと、民謡などは格式が低くて、お上品でないそうである。全く罰の当った言い分である。私は幸にからッきし素人だから、ぜにを出してニホン音楽のレコードを買うなら、民謡だけだときめている。
 それに民謡の文句にはおもしろいのがある。なかなか文学的なのがある。小気が利いているのがある。長唄や清元の文句は何が何だか一向わけのわからないものばかりで、――しいて理窟をつけたら、何か多少意味はあるだろうが――その文学的な手ぎわでは遥に遥に民謡の敵でない。音楽を好み、文学を好む私共がニホンの民謡を好むのは、これは全く当然の事である。そしてこれが私がニホン音楽を代表するものの一つとして勝太郎レコードの一、二枚に翻訳をそえて、ドイツの友人に降誕祭の贈物として送ったゆえんである。そして僅かに一、二枚に限ったのは、ただ私の紙入れの淋しいためだけでない。多くの勝太郎レコードの中で、本当にこれはと思うニホンの民謡のレコードは、そう沢山ないからである。

 ここらでこの漫筆をおしまいにしたら、誠に天下は太平であるが、さて物事はそうは行かない。最後にちょっと私の小さい不平を言わせてもらおう。
 まず私共が切に惜むのは、勝太郎レコードの文句のくだらない事である。文句をどんなに変えても、それで民謡は決して新味を得るものではない。それはかえって鰻の蒲焼を西洋皿に盛って、ナイフとフォクを付けて出すようなものである。歯が浮くとは正にこんな事である。「一番漁した優勝旗」という大漁節もあまり聞かないし、「橋の欄干に佇むルンペン」という詩吟もあまりいい気持はしない。『佐渡おけさ』や『追分節』は大変お上品で無難だかしらないが、私は普通一般にやる『佐渡おけさ』の文句を一シュトローフだけは唄ってもらいたい。従来の民謡の文句がいかに気の利いたものであるかを忘れてはいけない。実はこの文句を離れては本当の民謡は存在しない。
 次は話が多少ややこしくなるが、――三味線の伴奏についてである。民謡の伴奏は三味線だけで十分である。その方が私共にはおもしろい。そして、どうせ三味線は後から付けたものであろうから、そのふしは然るべき音楽家に一応相談した方がよさそうである。また、いやしくも勝太郎姐さんともあるものは、そこをよく音楽的に考えて見てもよさそうである。声との関係や、曲全体としてのふしなどは、音楽的にもう一度考えて見る必要が甚だありそうである。細かい事は漫筆に適しないが、早い話が『佐渡おけさ』『追分節』のレコードでは三味線はスタカートで終る。三味線というものは、由来そうしたものか知らないが、もしあれと反対に少しのフェルマートをあの音に付けて終ったとしたら、このレコードはもっと気分を損じないおもしろいレコードになったであろうと思う。そしてそんな事を言えならまだまだ沢山ある。
 このようなレコードは、一口に民謡レコードというけれども、決してただ実用だけの民謡ではない。ニホン音楽のうちでも一番メロディッシュな民謡というものを、独立に、それだけで鑑賞せられるように、一種の美しいリードとして私共に与えてくれるものである。例えば私共がただ『佐渡おけさ』を踊るなら、勝太郎のレコードで踊るよりも、も少しテムポを早めて、もう少しメロディをぶっきら棒に自分で唄った方がいい。このようなレコードは音楽的に聞けばいいものである。確に或る種類の音楽的な意味をもつものである。そしてニホンの民謡をその出来得る限りの範囲で私共にリードとして与えるのが、――大げさに言っておどかせば、――正に勝太郎の双肩にかかった大仕事である。決して軽々しくやられない。あらゆる点に深甚な音楽的な用意がいる。
 ――と、こんな事は、もちろん全くの素人の言う事である。こんなレコードの御客様方には、恐らくどうでもいい事であろう。そしてレコードはレコード会社の商品で、どんどん売れればそれで文句は無いはずである。ろくにレコードを買いもしないで、何だかだと下らない余計な注文ばかり言うのは、言う方が悪いにきまっている。そこで勝太郎姐さんもその「都々逸」で大いに道徳を説法する。――「上見りゃきりなし、下見てくらせ!」
 なるほど、いや、恐入りました。素人はまずこの辺で満足して僅かの勝太郎の民謡レコードの万歳でも三唱して引き下る事にいたしましょう。





底本:「音楽と生活 兼常清佐随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1992(平成4)年9月16日第1刷発行
※プライムはアポストロフィ「'」で、ダブルプライムはアポストロフィ二つ「''」で代替入力しました。
入力:鈴木厚司
校正:noriko saito
2009年4月4日作成
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