1 Ver erat
春であつた、オルビリウスは
彼は身動きも出来なかつた、無情な教師、彼の剣術は中止されてゐた
その打合ひの
木刀は、打続く痛みを以つて我が四肢をいためることをやめてゐた。
全てを
柔らかい欣びは研究に倦んじた我が精神を休めるのであつた。
云ふべからざる満足に充たされ、我が心は無味乾燥の学校を忘れ、彼、教師の魅力なき学課を忘れ、私ははるかな
子供の私は、かの田園の逍遥なぞと、
小さな我が心臓は、いと
如何なる聖霊が我が
翼を与へたか私は知らぬが、押黙つた歎賞を以て
我が眼は諸々の光景を打眺め、我が胸の
やさしき田園への愛惜は忍び入るのであつた。マニ※[#小書き片仮名ヱ、10-4]ジイの磁石が或る見えざる力に因つて、音もなくありともわかぬ
それにしても私の
私は緑色なす川の岸辺に身をば横たへ、
たをやけきそが呟きのまにまにまどろみ、怠惰のかぎりに
鳥らの楽音、
さて雌鳩らは谷間の空に飛びかよひ
そが白き群は、シイプルの園に、ヴェニュスが摘みし
薫れりし花の冠を
雌鳩らは、静かに飛んで、我が寝そべつてゐる
芝生の方までやつて来て、私のまはりに
私の
草花の鎖で以て
薫り佳き桃金嬢もて飾り付け、さて
彼女らは雲々の
そが
鳩ら生れの棲家に到るや
即ち迅き飛翔もて、
彼女ら私を打棄てて、目覚めた私を置きざりにした。
おお、小鳥らのやさしい
我が肩のめぐりにひろごり、我が総身はそが聖い光で以て纏はれた。
その光といふのは、影をまじへ、我らが瞳を曇らする
そのやうな光とは
その清冽な原質は此の世のものではなかつたのだ。
天界の、それがなにかはしらないが或る
私の胸に充ちて来て大浪のやうにただようた。
やがて鳩らはまたやつて来た、
調べ佳き合唱を、
アポロンのそれに似た、月桂樹編んで造れる冠
さて鳩らそを我が
空は
フ※[#小書き片仮名ヱ、12-5]ビュス親しく雲の上、黄金の雲の上、飛び翔けり舞ふが見られた。
フ※[#小書き片仮名ヱ、12-6]ビュスは我が上にそが神聖な腕を伸べ、
又頭の上には、天上の炎もて
異常の温暖は昇り来り、そが清澄もて光り耀く
清らの泉は太陽の光に
鳩らそが腕に私を抱きとり、空の方へと連れ去つた
千八百六十八年十一月六日
シャルルヴィル公立中学通学生
ランボオ・アルチュル
シャルルヴィルにて、千八百五十四年十月二十日生
[#改ページ]2 天使と子供
ながくは待たれ、すみやかに、忘れ去られる新年の
子供等喜ぶ元日の日も、
音の出るそのお
子供はそれを幸福な夢の裡にて思ひ出す
その母の年玉貰つたあとからは、天国の小父さん達からまた貰ふ。
笑ましげの
神様を呼ぶ心持。枕許には天使立ち、
子供の上に身をかしげ、
ほがらかなそれの額の喜びや
その魂の喜びや。南の風のまだ触れぬ
此の花を褒め讃へたのだ。
此の子は私にそつくりだ、
空へ一緒に行かないか! その天上の王国に
おまへが夢に見たといふその宮殿はあるのだよ、
おまへはほんとに立派だね! 地球
地球では、
花の薫りもなほにがく、騒がしい人の心は
哀れなる喜びをしか知りはせぬ。
曇りなき
おまへの純な額とて、浮世の風には萎むだらう、
憂き苦しみは蒼い眼を、涙で以て濡らすだらう、
おまへの顔の薔薇色は、死の影が来て逐ふだらう。
いやいやおまへを伴れだつて、私は空の国へ行かう、
すればおまへのその声は天の
おまへは浮世の人々とその
おまへを此の世に繋ぐ糸、今こそ神は断ち給ふ。
ただただおまへの母さんが、喪の悲しみをしないやう!
その揺籃を見るやうにおまへの
流る涙を打払ひ、葬儀の時にもほがらかに
手に一杯の百合の花、捧げてくれればよいと思ふ
げに汚れなき人の子の、最期の日こそは飾らるべきだ!
いちはやく天使は翼を薔薇色の、子供の脣に近づけて、
ためらひもせず空色の翼に載せて
魂を、摘まれた子供の魂を、至上の国へと運び去る
ゆるやかなその羽搏きよ……揺籃に、残れるははや五体のみ、なほ美しさ漂へど
息づくけはひさらになく、
そは死せり!……さはれ
笑ひこそ今はやみたれ、母の名はなほ脣の
なごやかな眠りにその眼は閉ぢられて
なんといはうか死の誉れ?
いと清冽な輝きが、額のまはりにまつはつた。
地上の子とは思はれぬ、天上の子とおもはれた。
如何なる涙をその上に母はそそいだことだらう!
親しい我が子の
さはれ夜
薔薇色の、天の
小さな天使は顕れて、
母も亦
雪の翼で舞ひながら、母のそばまでやつて来て
その
千八百六十九年九月一日
ランボオ・アルチュル
シャルルヴィルにて、千八百五十四年十月二十日生
[#改ページ]3 エルキュルとアケロユス河の戦ひ
嘗て水に膨らむだアケロユスの河は氾濫し、
谷間に入つて
そが浪に畜群と稔りよき収穫を薙ぎ倒し、
人家悉く潰滅し、みはるかす
かくてニムフはその谷を去り、
フォーヌ合唱隊亦鳴りを静め、
人々は唯手を
此の有様をみたエルキュルは、憐憫の思ひに駆られ、
河の怒りを鎮めむものと巨大な
逞しい双腕に泡立つ浪を逐ひまくし、
そがもとの河床に治まるやうに努めたのだ。
やがて
河は
そが
エルキュルは再び身をば投入れて、腕をもて河の頸をば締めつけた、その抵抗も物の数かは
河は懲され、エルキュルは、その上に、大木の幹を振り
ひつぱたきひつぱたく、河は瀕死の
扨エルキュルは立直り、此の腕前を知らんかい、たはけ
我猶揺籃にありし頃、二頭の
かの時既に鍛へたる此の我が腕を知らんかい!……
河は慚愧に顛動し、覆へされたる栄誉をば、
思へば胸は悲痛に
獰猛の
エルキュルこれを見ていたく笑ひて
ひつ捉へ、振り廻し、
腰に
力の限りに懲しめば、やがては河も悶絶す。
息を絶えたる怪物に、勇ましきかなエルキュルは、
打
かくてフォーヌやドリアード、ニムフ姉妹の
減水と富源のために働いた、彼等が勇士の愉しげに
今は木蔭に憩ひつつ、
古き捷利を思ひ合はする勇士に近づき、
かろやかに彼のめぐりをとりかこみ、
花の冠・葉飾りを、それの額に
さて皆の者、彼の近くにころがりゐたりし
かの角をばその手にとらせ、血に濡れたその戦利品をば
美味な果実と薫り佳き花々をもて飾つたのだ。
千八百六十九年九月一日
シャルルヴィル公立中学通学生
ランボオ・アルチュル
[#改ページ]4 ジュギュルタ王
諸世紀を通じ、神は此の者をば、
折々此の世に降し給ふ……
バルザック書簡。
折々此の世に降し給ふ……
バルザック書簡。
彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼は
やがては国のため人民のため、大ジュギュルタ王とはならん此の者が、
いたいけなりし或る日のこと、
来るべき日の大ジュギュルタの幻影は、
その両親のゐる前で、此の子の上に顕れて、
その境涯を述べた後、さて次のやうに語つた
おお我が祖国よ! おお我が労苦に護られし国土よ!……と
その声は、寸時、風の神に
嘗て悪漢の巣窟、不純なりし羅馬は、
そが狭隘の四壁を
そが近隣諸国を併合した。
それより漸く諸方に進み、やがては世界を我が
国々は、その圧迫を
競ふて武器を執りはしたが、
空しく流血するばかり。
彼等に
盟約不賛の諸国をば、その
彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼は
我、久しきより羅馬の民は、
さはれ成人するに及びて、よくよく見るに
そが胸には、大いなる傷、口を開け、
そが四肢には、有毒な物流れたり。
それや黄金の崇拝!……そは彼等武器執る手にも現れゐたり!……
よい
彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼は
当時羅馬はジュギュルタが事に、
介入せんとは企てゐたり、我は
迫りくるそが
かくて我日夜悶々、辛酸の極を
おお我が民よ! 我が戦士! わが聖なる
羅馬、かの至大の女王、世界の誇り、
かの
おお如何に、我等羅馬のかの傭兵、ニュミイド
此の蛮民等はジュギュルタが、あらゆる
当時世に、彼等に手向ふものとてなかりし!……
彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼は
我こそは羅馬の国土に乗り込めり、
その都までも。ニュミイドよ!
我
茲にして彼等久しく忘れゐたりし武器を執り、
我亦立つて之に向へり。我は捷利を思はざり、
唯に羅馬に拮抗せんことこそ思へり!
河に拠り、
敵
敵軍の血はわが野山蔽ひつつ、
我がなみならぬ頑強に、四分五裂となりやせり……
彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼は
恐らくは我敵
此の時ボキュスが裏切りに遇ひ……思ひ返すも
されば我、
羅馬に
さても今
居並ぶ敵を押返し! 国の為なり血を流せ!
おお、アラビヤの獅子共も、此の戦ひに参ぜかし!
鋭き
アラビヤの恥、
かくて幻影消えゆけば、幼な子は、青竜刀の
ナポレオン! おお! ナポレオン!(1) 此の今様のジュギュルタは、
打負かされて、縛られて、
茲にジュギュルタ
此の今様のジュギュルタにいとねむごろに云へるやう、
新らしき神に来れかし! 汝が災害を忘れかし、
佳き
世に並びなき信仰と、正義の司祭フランスの……
愛せよ、汝がジュギュルタを、心の限り愛すべし
さてジュギュルタが命数を、つゆ忘れずてありねかし
註(1)アムボワーズの城に幽閉されたりしアブデルカデルは ナポレオン三世の手によりて釈放されたり 時に千八百五十二年
これぞこれ、
千八百六十九年七月二日
シャルルヴィル公立中学通学生
ランボオ・ジャン・ニコラス・アルチュル
[#改ページ]5 Tempus erat
その頃イエスはナザレに棲んでゐた。
成長に従つて徳も亦漸く成長した。
或る朝、村の家々の、屋根が薔薇色になり
父ジョゼフが目覚める迄に、父の仕事を仕上げやらうと思ひ立ち、
まだ誰も、起きる者とてなかつたが、彼は寝床を抜け出した。
早くも彼は仕事に向ひ、その
大きな
その幼い手で、多くの板を挽いたのだつた。
その
牛飼達は牛を
その幼い働き手を、その朝の仕事の物音を、てんでに褒めそやしてゐた。
あの子はなんだらう、と彼等は云つた。
綺麗にも綺麗だが、由々しい顔をしてゐるよ。力は腕から迸つてゐる。
若いのに、杉の木を、上手にこなしてゐるところなぞ、まるでもう一人前だ。
昔イラムがソロモンの前で、
大きな杉やお寺の
上手に挽いたといふ時も、此の子程熱心はなかつただらう。
それに此の子のからだときたら、葦よりまつたくよくまがる。
此の時イエスの母親は、鋸切の音に目を覚まし、
起き出でて、静かにイエスの傍に来て、黙つて、
大きな板を扱ひ兼ねた様子をば、さも不安げに目に留めた。
唇をキツト結んで、その
やがて何かをその唇は呟いた。
涙の裡に笑ひを浮かべ……
するとその時鋸が折れ、子供の指は怪我をした。
彼女は自分のま白い着物で、真ツ紅な血をば拭きながら、
軽い叫びを上げた、とみるや、
彼は自分の指を引つ込め、着物の下に匿しながら、
強ひて笑顔をつくろつて、
母は子供にすり寄つて、その指を揉んでやりながら、
ひどく溜息つきながら、その柔い手に
顔は涙に濡れてゐた。
イエスはさして、驚きもせず、どうして、母さん泣くのでせう!
ただ鋸の歯が、一寸
泣く程のことはありません!
彼は再び仕事を始め、母は黙つて
蒼ざめて、俯き
再びその子に眼を遣つて、
神様、聖なる
千八百七十年
ア・ランボオ