偽刑事

川田功




 ある停車場で電車を降りた。長雨の後冷かに秋が晴れ渡った日であった。人込みから出るとホームの空気が水晶の様に透明であった。
 栗屋くりや君は人波にただよながら左右前後に眼と注意とを振播ふりまき始めた。と、ぐ眼の前を歩いて居る一人の婦人に彼の心は惹付ひきつけられた。形の好い丸髷まるまげと桃色の手絡からなだらかな肩。日本婦人としてはず大きい型で、腰の拡がったり垂れたりして居ない、小股の切れ上った恰好かっこうたまらなく姿勢を好く見せた。足の運びの楽しげで自由であるのも、滅多に見られない婦人だった。
 早く追越して顔を見るとう事が、ただちに彼の任務と成ってしまった。郊外に住って居る彼が、時々こうやって下町へ出て来るのも、こんな美しい刺激で心を潤したい為めであった。
 一眼見た。こんな時彼はう見得も外聞も考えない。むさぼる様にのぞき込んだ。彼の心は叫びを上げた。「素敵だッ」と。湯の中へ寒暖計を投げ込んだ様に、彼の満足は目盛の最高頂へ飛び上った。何と云う気高い、何と云う無邪気な……彼は持ち合して居る有りけの讃辞を投げ出そうと試みた位であった。
 しかし其後では必ず嫉妬心と憎悪とがいて来る。れが他人の夫人であるからだ。彼は平常いつもの通り勝手な想像を胸に描いて此心持を消そうとした。
「此女は外に恋して居る男があるんだ」
「否、此女は見掛けによらぬ淫婦なんだ。悪党なんだ」
 こんな風に考えて見ても、此婦人けには其どれもが当嵌あてはまってれない様な気がした。
 彼は女をり過ごして其後を跟け始めた。女は、彼が仮令よしんばもっと露骨にこんな事を遣って見せても、恐らくは少しも気に留めないだろうと思われる程、天使的の自由さと愉快さとで歩みを運んで居る様であった。彼以外の人々は、此女に少しも注意を払って居ないらしく、夫々それぞれ自分等の行く可き方向へ足を急がせた。しかし電車や自動車などは彼女の為めに道を開いて居る様で、彼女は自由に何のこだわりもなく道を横切って其等を切り抜けた。後に続く彼は又、忌々いまいましい程交通機関や通行人に妨げられた。彼女を見失うまいと焦りながら、
「ええッ畜生ッ。犬迄が人の邪魔をしやがる」
 と、彼は口の内でこんな事を云って、水溜みずたまりを飛越えたりして居った。それでもれは愉快な遊戯には相違なかった。
 彼等の前に大きなデパートメントストーアーが見出された。屋上の塔では旗が客を招いて居った。層楼の窓は無数の微笑を行人に送った。彼女は役人が登庁する時の様に、何の躊躇ちゅうちょもなく其店へ姿を消して了った。栗屋に執って之れは好都合であった。此店には暇過ぎる彼を終日飽かせない程の品物を並べてあった。此中へ彼女が這入はいってさえ居れば、幾度でも彼女と邂逅かいこうする事も出来るのであった。彼は落着いて店の中を歩いた。テーブルの上には積木細工の様に煙草を盛上げたり、食料品の缶詰が金字塔ピラミッド型に積重なったりして居た。彼は其辺を一ト渡り見渡して、女の方へ眼を移した。が、某所そこには女の影も見られなかった。彼女に匹敵する丈けの美人も見付からなかった。
 彼は大理石で張詰めた壁に沿って、コルク張の階梯かいていを軟かく踏んで二階へ急いだ。彼女はエレベーターで天上でもしたのか、此処にも姿は見出せなかった。彼は本気に慌てて三階へ駈け昇った。身形みなりが別に派手でも何でもないが、彼女を見付け出すのは鶏群中の雄鶏おんどりを見出す程容易であった。彼女の手には反物たんものらしい紙包の買物が既に抱かれて居った。彼女は今半襟はんえりを一面に拡げた大卓の前で、多くの婦人達に混って品の選択を始めて居た。彼は既製洋服を吊した蔭に立って覗き始めた。美しい婦人達の大理石の様ななめらかな手で、蛇の様に重みのある縮緬地ちりめんじが引揚げられたり、ぬらぬらと滑り落ちて蜷局とぐろを巻いたりして、次から次へと婦人達の貪る様な眼で検閲されて居るのである。若い美しい女性の華かな姿が正面背面又は横顔を見せて居るが、彼女程輝きを持って居る女は見られなかった。彼は芝居でも見て居る様な熱心さで彼女の細かい動作を一つも見逃さない様に努めた。一つかみの半襟地を窓明りにかざしては元の位置へ置き、又他の一つかみを取上げて同じ事を繰返して居た。と、或刹那、彼は不思議な事を見付け出した。夫れは、幾枚かの半襟を取上げて窓に翳す時、重ねた両端の二枚を裏返して見る刹那。真中の一枚をすっと抜取って彼女の袖へ入れたのであった。彼が自分の眼を疑ったのは勿論もちろんである。併し其早業は只一度で無くて幾度も繰返されたのを確実に見た。彼は自分自身がそんな事をして居る様な驚きに出食わした。顔が火照ほてって耳ががァんと鳴って血の凝りでふさがれた様な気がした。
「ああァ」
 思わず深い溜息ためいきが漏れた。して今一度眼をみはって彼女をみつめた。依然彼が後を跟けて来たの美人以外の誰でもない。余りのなさけなさに涙が腹の中で雨の様に降った。それにもかかわらず、此時急に彼女に対して強い真実の愛情が湧き起って来た。
 美の前に何の罪があろう。愛の前に何の不徳があろう。只在るものは罪悪や不徳を超越した美と愛とだ。彼は只、誰もが彼女の遣った行為に気付かずに居て呉れと心に念ずる丈けであった。
「見よ、あの通り彼女の顔は晴やかに輝いて居るではないか。あの通り美しく無邪気で天使の様に尊いではないか」彼は心の中でつぶやいた。
 事実、彼女は何のこだわりも無く、自然過ぎる様な楽しい態度を示して其処の卓を離れた。彼は次に起る事が何であるかを想像する力を失って、手品を見せられて居る人の様な眼をもって彼女に近付いた。と、彼女の持って居る反物の包紙は、封緘紙ふうかんしが外れて居る事に気が付いた。恐らくのりが生々しい時に外したのであろう。而して今引抜いた半襟が今に此中に巧みに入れられるであろう。彼は夫れに気が付いた時、一種の興味さえ起って来るのであった。むしろ彼女の成功を讃美したい様な気持にさえ成って来た。彼女は、婦人用便所と札を掲げた方へ悠々と這入って行った。
 彼はかつて新聞で見た事があった。夫れは、こうした大きなデパアトメントストーアーで、頻々ひんぴんと起る万引の中で、婦人は大抵反物類を窃取するが、之れを持ち出す前には便所に行って始末すると云うのであった。これを思い出すと又しても浅間しいと思う気持に成った。彼女が再び出て来た時、持って居た買物は風呂敷に包まれて居た。

 店を出て四つ角を一つ通り越すと、大きな銀行の建物があった。周囲は広い余地を残し、鈴懸すずかけの木立から思い出した様に枯葉がこぼれて居た。垣根と云うのは石の柱と、其を結び付けて垂れ下った鉄鎖がある丈けで、人の出入も自由であった。彼女が其処へ差蒐さしかかった時、彼は直ぐ其後へ追付いて居た。此儘このまま黙って過ぎれば只路傍の人として終って了うのである。併も彼は大なる秘密を握って居る。何とか利用しないでは置けないと云う気に成って了った。彼は一ト足歩度あゆみを伸ばすなり、妙に好奇心の加わった空元気を出して呼びかけた。
一寸ちょっとお尋ね致しますが」と云った其瞬間、彼は其後をどう云うきかに付いて余り不用意である事に気が付いた。後悔の雲がぱっと頭に拡がった。聞えなければいがと云う願望も同時に起った。併し其等は一切無益であった。彼女は歩度を緩めて彼を振向いた。足をめた。最早取返しは付かなくなった。狼狽ろうばいの余りかえっ誤間化ごまかす事が出来なかった。
「貴女は今彼処あそこの店で買物をなさった様ですねえ」
「致しましたが、夫れがどうだと被仰おっしゃるんです」
 女は少しも驚かないのみか、寧ろ待ち望んででも居た様な落着方であった。併し、気のせいか彼女の美しいかがやきの顔に、不安の影がさっと通った様に思えた。
「いや、別にどうしたと云う訳でもありませんが……これははなはだ失礼な事かも知れませんが、少しお間違いをなさって被居いらっしゃるんじゃないかと思ったもんですから、一寸お尋ねして見たいと思った丈けなんです」
 しどろもどろではあったが、貴婦人に対する礼儀は失って居ないつもりで云ったのであった。
 併し之れ丈け云って了うと、今迄持って居た探偵眼を誇りたいと云う気分や、こうした美しい婦人の秘密の鍵を握って居ると云う好奇心や、何か奇蹟的に邂逅しそうな卑劣な野心などは、此時全く姿をひそめて了って、依然不安と後悔の恐ろしい様な予感とで心は乱れて居た。
「私が何か不都合でもしたと被仰るんですか」
 彼女はたちまち興奮した。険しい眼には挑戦の意気込みが現われた。こうなると、先刻さっき自分が明瞭はっきりと見極めた事実すら、何だか曖昧あいまいなものに成った様な気もしだした。
「いやそう云う訳ではないんですが……」
 言葉に窮した。初めから全然取消して了いたくなった。自分で自分の心を脅かして恐怖心を募らせ出した。併し女は依然として興奮して居った。
貴下あなたは一体どなたです。無垢むくな人間を捉えて、勝手に人をきずつける様な権利でもお持ちなんですか」
 軽蔑した様な光が眼にあった。空間を通して圧迫して来る力を感じた。夫れが彼に反抗心をいて居るのであった。
「私は探偵です」捨鉢に成った彼は又しても軽卒にこんな事を云って了った。これも又直ちに後悔しなければならなかった。
「探偵と云っても私立探偵社の者です」
 女は少しも驚いた様な顔を見せなかったが、心のうちには不安と夫れを打消す心とが相次で起ったろうと想像された。
「あの店から頼まれたとでも云うんですか。よござんす。一緒に参りましょう」
 興奮し切った女は後へ戻ろうとした、これにも少からず彼は狼狽させられた。
いやッ、決して頼まれたと云う訳じゃないんです。一寸お待ち下さい」
 彼はてのひらで空間へ印をす様にして押し止めた。
「いいえ。そうは行きません。何の関係も無い貴下が、知らない他人に勝手な疑いを掛けた訳でもありますまい。参って明しを立てましょう。こんな事は疑われた丈けでも取返しの付かない不名誉です。貴下は傷いた私の名誉を明瞭に恢復なさらなければなりますまい」
 彼はいっそ平謝罪ひらあやまりに謝罪ろうか、夫れとも逃げ出して了おうかと心に惑った。いずれにしても彼は悲しく成って来た。
「まあ貴女そう興奮なさらないで下さい。私は決して疑ったの何のと云う訳じゃ無いんですけど、新米の私が探偵研究時代に於ける単なる一つの出来事なんですから」
「研究ですって? 単なる一つの出来事ですって? 女だと思って人を莫迦ばかにするのも程があります。何の証拠も無いのに無垢の人間に疑いを掛けて、研究だとは何と云う云い方です。単なる一ツの出来事とは何です」声は段々癇高かんだかい泣声に成って行った。まぶたを潤おす涙も見えた。併も女は泣く事に依て一層勇気付けられ、一層雄弁に成るのであった。「口惜くやしいッ」独語ひとりごとの様にこう云って置いて又続けた。
「名誉ある高等官の妻に向って、能くも汚名を着せたもんです。此儘黙って済されるもんですか。私は出る所へ出て明瞭明しを立ててもらいます」
 ※(「巾+白」、第4水準2-8-83)ハンケチを眼に当てて大びらに泣き出した。喰い縛る歯が鋭くきしった、往来の人は足を停めだした。彼は最早堪え切れなくなったと同時に、此女が万引をしたのでは無いと信じだした。しそうでなかったら、女がく迄強い事を云うはずが無いからである。
「さあ一緒にお出でなさい。警察署まで一緒に行きましょう。私の潔白さを立派に知らせて見せましょう。いくら探偵が商売だって、高が私立の探偵で居乍ら、何の権利がありますか」紅色のにじんだ眼を上げた。美しいが故に物凄ものすごい。
 最早退引のっぴきならなくなった。如何いかに誠意を以て謝罪しても、此処まで出て了っては駄目なのは明かである。彼は自分の失敗を誤魔化す手段は只一つしかないと思った。
愚図々々ぐずぐず云わなくても、どうせ否でも連れて行って遣る。これを見ろッ。俺は警視庁の刑事だぞッ」彼は名刺を一枚取り出して女の方へ突き付けた。夫れには彼の姓名と、其脇に住所が記されてあるばかりで、勿論刑事とも警視庁とも書かれて居ない。
「刑事だって巡査だって、何もしない者に疑いを懸けたり名誉を傷けたりする権利があるもんですか」
 女はう泣声ではなかった。こう云い乍ら半※(「巾+白」、第4水準2-8-83)に伏せた眼を上げた。彼は此時、本能的とでも云った様に其名刺を引込めた。此時、彼女も彼も殆んど同時に、今や町を巡廻して来る一人の巡査を眼の前に見付け出した。
「あの、もし」彼女はこう云い乍ら巡査の方へ歩み寄るのであった。
 風が街上の塵埃じんあいを小さな波に吹き上げて、彼等二人をひたし乍ら巡査の方へ走って消えた。彼も此ごみと共に消えたかった。否、何もかもない。彼女が巡査に云い告げて居る間に、滅茶苦茶に逃げるより外に無いと思った。彼は反対の方向へ顔を向けた。体が泳ぎ出し始めた。と、「逃げたらなお悪い」と、心の奥に何かが力ある命令を発して彼を留まらせた。動悸どうき早鐘はやがねの様に打って頭の上まで響いて行った。
「あのもし」
 彼女が再びこう云うのを聞いた。「ああ既ういけない。とても堪らない」彼の心は泣き叫んだ。からだ藻掻もがく様に振動させた。
 巡査は刻々近寄って来る。六尺、五尺、四尺、ああついに立留った。女は媚笑こびを見せて巡査に雲崩なだれ掛りそうな姿勢をしながら云い出すのであった。
「一寸お願い致します。此処に居る偽刑事の人が、私を附け廻して仕方がありませんの……」
 巡査は鋭い眼を二人に投げた。彼は其眼の光よりも女の云い方の恐ろしさに呆然ぼうぜんとした。全くどうして好いのかわからなくなった。彼の眼の先へ恐ろしい獄舎の建物さえ浮んだ。
 女は巡査の答など待たないでどしどし饒舌しゃべり始めた。
「私、今彼処の店へ参りまして、少し許り買物を致しましたんですの。そして此処迄出て参りますと、此人が追蒐おいかけて来て、私が不都合な事をしたって取調べようとするんですの。私は何もそんな覚えはありませんし、こんな人から調べられる理由はないんですの。夫れが立派な刑事さんとか巡査さんとか云うんなら何ですけど、此人は只云い掛りでも云って、お金でも取ろうと云うんでしょう……」女の流暢りゅうちょうな言葉は上手の演説よりもなだらかにすべり出て、息をも継がせない勢であった。夫れに構わず巡査は彼の方へ向き直った。
「君は一体何者だッ」巡査はくのでなくて叱るのであった。ふるえ切った彼には直ぐに返事がのどへ塞がった。
「初め私立探偵だなどと云ってましたが、了いには警視庁の刑事だなんて人をおどかして名刺を見せましたけど、刑事とも何とも書いて無いんですの。偽刑事が人をわなおとしいれようと云う悪企わるだくみなんですわ……」
 彼女が横取りして喋舌り続けた。彼は忍術か何かで消えたかった。其儘そのまま消えて無くなって了っても好いと思った。
「貴女に訊いて居るんじゃない」巡査は女をたしなめた。而して再び同じ問いを彼に発した。
「私は……私は別に何でもないんです。只の店に行って偶然此お方を見たんです……」
「偶然だなんて皆嘘なんです。私が停車場で省線電車を降りた時から、私の後をねらって来たんです。そして探偵だの刑事などと云って……」
「貴方に訊いて居るんじゃない。……君は一体何者だと云うんだ」巡査は二人にこう云った。
 彼は女の後を跟けた時から彼女が知って居たのに驚かされた。自責と之れに依って起る恐怖とで全身がわなないた。慄え声で住所と姓名を辛うじて答えた。名刺も云われる儘に出して見せた。初め探偵と称した事の偽も、警視庁刑事と偽った事も女の云った通り白状した。叱られる儘に只平謝罪に謝罪った。彼はとっくに既うこうして謝罪りたかったのであったが、流石さすがに女の前では出来難できにくかった間に、ずんずんと女に引摺ひきずられて嘘許り云ったのであった。其処へ持って来て巡査は飽迄あくまで彼を追窮した。自分の罪を自覚し自責して居る彼は、彼女が云った様に停車場から女の後を跟けた事から白状した。白状しては叱られた。叱られる度毎に謝罪しては又白状した。
 彼は彼女が半襟をたもとへ抜取った様に見受けた事と、便所の中へ這入って包紙の中へ入れたらしい事とを語った時、女は横合から屡々しばしば口を出した。持って居る包みを開いて二人の前へ差し出した。包紙の下には一反の銘仙がある許りであった。其金の請求票も見せられた。袂の中に半襟が無い事も明白と成った。彼は散々に罵倒を浴せられては謝罪を繰返して居た。大罪人である事が今ははっきり自分に判って来た。罰せられるであろうと云う事も朦気おぼろげ乍ら判って来た。夫れは諦めなければならないものであった。
「オイッ、一寸待てッ」
 巡査の声で彼は大きな恐怖の鉄槌てっついに打たれた。一瞬間の後巡査の顔を見た。巡査は全くほかの方を見て居った。其眼の先を追った時、其処には中年の、召使とでも云った様な女がみちの脇を小さくなって歩いて居た。
「ハイッ」其女は電気にでも打たれた様に立ち止った。
「此方へ来いッ」巡査は云った。
 此処に二人を取調べて居乍ら、巡査の心持には余裕があるのに驚かされた。
「私は何も知りません」中年の女は体を横にじって胸の辺りを隠す様にして行き過ぎようとした。
「待たんかッ」巡査の声は鋭くなった。
「此隙に!」彼の心には逃走の意志がひらめいた。が、次の瞬間に彼は住所を知らした事を思い出した。
 中年の女はずるそうな眼をし乍ら近寄って来た。巡査は其方へ向き直った。
「お前は此万引した女から半襟を受取って持って居るだろう。お前達は此先の停留場で落ち合う約束だったろう。所が此女が余り遅いので様子を見に来たに相違ない。所が其女は私の前で取調べを受けて居るのを見た。これは一大事と見て取って近寄って来た。所が此万引した女が幾度か眼で合図した。此処へ来なくても好いと云う位の処であったろう。そこで折角通り蒐ったが行き過ぎようとした。そうだろうが。夫れに相違はなかろうが。ええッ。だが一体お前は此女の召使なのか。夫れとも只共犯だと云うのかッ」
 巡査の云う所は意外極まるものであった。彼には何が何だか判らない。只警察へ三人で引立てられて行った。其辺には足を止めて見て居る十人近くの野次馬が居た。最も神妙な罪人は栗屋君であるとは誰の眼にも同じく映じて居た。
「どうも済みません」
 と、こんな事を栗屋君は幾度も繰返し乍ら巡査に跟いて行った。
「奥さんは何もご承知ないんです。本統に何もご承知ないんです。奥様はお可哀想です。警察へ行くなら私と此人と丈けが行きましょう」
 中年の女は幾度か足を留めて巡査に云った。美人は何とも云わなかった。泣く丈けが何かを語って居る丈けであった。
(一九二六年二月)





底本:「「新青年」傑作選 幻の探偵雑誌10」光文社文庫、光文社
   2002(平成14)年2月20日初版1刷発行
初出:「新青年」博文館
   1926(大正15)年2月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2009年1月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について