小山内先生は、大学の卒業論文が英国の詩篇の研究であったばかりでなく、文壇へのデビユも「小野のわかれ」「夢見草」に収録された詩作であった。したがって身を劇界に投ぜられて後も、この詩人的なテンペラメントが、常に先生の行動を支配したということができよう。先生は冷静な演劇理論の遂行者というよりも、熱狂的な演劇の殉教徒であられたと思う。明治、大正、昭和の三つのジェネレエションにわたって、真砂座から築地小劇場にいたる劇壇生活の長い道程を、この詩人的な熱情がひと筋に貫いていると言っても過言ではない。一部の人の言うごとく、先生の性情が、ある場合、熱しやすいとともに醒めやすいという一面を伴ったことは否みがたいが、しかし日本劇壇のよき未来のために粉骨砕身する根本の精神においては、終始一貫して変るところがなかったのである。
たとえば、先生の伝記の重要な頁を占めるべき自由劇場の運動がそれである。この運動は、大正八年の帝劇における「信仰」同十一年の本郷座における「夜の宿」の部分的上演をもって、一たん中絶したかの観がある。しかし七草会の「俊寛」「忠義」「第一の世界」も、その後の「オセロ」「シイザア」「森有礼」「西山物語」「金玉均」も、また先生の最後の筆になる「毛剃」の改作も、広義に解釈すれば自由劇場の延長であり継続であって、日本劇界の進展が、大劇場の普通興行に新劇系統の作品を包容する機運を作るに及んで、自由劇場は試演劇団としての過去の形態を失うにいたったと観ることができよう。ただ創立当時の革新的意義と叛逆的使命とは、その後の活動に期待することができなかったが、これは左団次以下、同劇団の名において結束した俳優が、商業劇場の興行政策に掣肘せられるの余儀なきにいたった結果であって、かつて先生の指導鞭撻を受けた猿之助が、その現在の環境にあってなおかつ、満々たる野心をもって旧劇界の局面打開に努力しつつあるのはもちろん、高島屋一門の「修善寺物語」から「文覚」にいたる松莚戯曲の演技的完成にしても、その功の一半を、自由劇場時代に受けた訓練の賜物として、先生に譲らなければならないと思う。しかし小山内先生の全身的な努力をもってすれば、現在日本劇壇の中堅を形づくる最も優秀な俳優の一団を、この程度の小康に安んぜしめなかったに相違ないのであるが、自由劇場の再興と築地小劇場の新運動とを秤にかけてみれば、後者において前者に数倍する文化的使命が見出されるのはもちろんであろう。
アントワアヌやオットオ・ブラアムの創始したヨーロッパの自由劇場運動も、今日では遠い演劇史的事実となった。ウィウ・コロンビエを閉鎖したジャック・コポオも、今は
小山内先生を失ったことは、近時ようやく発展向上の途に向いつつあった築地小劇場の最も大きな損失であるが、しかし先生はわれわれに内外の名作四十五篇(共同演出を含めて)の権威ある演出を遺産として残された。築地小劇場は、おそらく今後も、その重要ないくつかの舞台を、小山内先生演出の名のもとに再演するであろう。あたかもこれは、ラインハルトがウィーンに拠って後、ベルリンの劇壇において
築地小劇場は、最もよき指導者、最もよき同志としての小山内先生の遺志を奉じて、その最もよき後継者たるべく最善の努力を続けなければならない。ただわれわれが戒心を要するのは、小山内先生を追慕し哀悼するのあまり、先生の遺志を現在形において遵奉することにのみ汲々として、これを未来形において継承するのを忘れてはならないという一事である。われわれが小山内先生の屍を乗り越えて前進する時、はじめて洋々たる未来がわれわれを迎えるであろう。