イプセン百年祭講演

久保栄




 来る三月二十日は、近代劇の父と仰がれるヘンリック・イプセンの生誕百年の記念日に相当いたします。今年(一九二八年)はどういう廻り合せか、世界的な劇作家の生誕何年という数字が、しきりとかち合いまして、たとえばロシアのトルストイがイプセンとおない年の生誕百年、マクシム・ゴリキイが六十年記念、ドイツ劇壇ではシュテルンハイムとカイザアが、そろって生誕五十年を迎えます。
 余談は措いて、このイプセン百年祭がどういう規模結構のもとに挙行されるかということが今日の話題であります。で、現在までにわれわれ文芸部の手もとへ集った資料について述べますと、まず二月下旬、ノルウエ公使館にはいった電報によって、彼の生国における演劇的催しの輪郭をほぼ知ることができました。芝居の興行のほうから申上げますが、首府オスロ――旧名クリスチャニヤ――の国民劇場では、三月十四日から記念祭の当日までに、「ブランド」「青年結社」「幽霊」「社会の敵」「鴨」「ロスメルスホルム」などという代表作を順次上演する予定で、これらは大部分、すでに同劇場のレパートリーの中にあるものだそうです。なお、第二国民劇場においても、「オストラアトのインゲル夫人」「恋の喜劇」を舞台にのぼせ、またベルゲン市の国民劇場も、「ソルハウグの饗宴」「ペエル・ギュント」を上演する意向だということです。こうして、ノルウエにおける二つの演劇都市、すなわちオスロおよびベルゲン市の各劇場の出しものが少しも重複していないところを見ますと、あるいは相互に打合せをして、イプセンの戯曲をこの光輝ある機会に一つでも多く舞台の上に復活させる計画を立てたものではないかと想像されます。もちろん、今のべた三つの劇場のほかに、なお国内の四つの有力な劇場が、いずれもイプセン劇の模範興行を行うそうで、二十日当日には、首府オスロへ観劇に集るもののために、汽車の賃銀ママ割引までが計画されていると聞きます。
 これは芝居のほうのことですが、百年祭そのものは、公使館で確めたところや最近朝日新聞社へはいったニュースを綜合しますと、十四日から二十二日まで九日間引つづいて催される予定で、そのために政府は独英仏伊その他十ヶ国からイプセン研究者イプセン役者の代表百名を国賓として招待しまして、彼の生誕地たるシーンや、彼が薬剤師の徒弟としてはじめて人生を観察したグリムスタットという小都会や、また彼が劇場の文芸顧問として、演劇の実際的知識を養ったベルゲン市などを巡遊しつつ、盛大な祝賀会を催すそうであります。またオスロ大学の主催でイプセンに関する特別講座が開かれ、これは一般に公開されます。おそらく国外から招かれる知名のイプセン学者――たとえば、アルフレッド・ケル、モンティ・ヤコブス、ベルンハルト・デイボルトなどの研究発表は、ここで行われるものと推定されます。なお、招かれた人々のうち、ゲルハルト・ハウプトマンは病気静養中、バアナアド・ショオは例のつむじ曲りから、これに参加しませんそうです。また同じくオスロ大学の主催で、イプセン記念展覧会を開催しまして、イプセンに関するあらゆる文献資料を――たとえば彼の筆蹟とか、遺稿とか、あるいは初版本とか、世界各国におけるイプセン劇の舞台写真とか、または彼が生前愛好した家具調度の類にいたるまでを一堂にあつめまして、研究者の参考に供するということであります。そして当日は、詩人の墓前で諸外国の国賓やノルウエの朝野の名士が参列して、盛んな献花式を催し、夜に入ってはビョルンソン会館に国王の臨幸を仰いで華やかな記念祭が執行されます。
 国内の模様はまず以上のような輪郭ですが、各国の演劇都市におきましても、さだめしこの機会に、沙翁以来の世界的戯曲家の業績を追慕する記念公演が盛大に行われるだろうと想像されます。ただ今のところでは、ベルリンの出し物だけ判明しておりますが、民衆劇場は「ペエル・ギュント」「ノラ」を、国立劇場は「皇帝とガリレア人」を上演するそうであります。
 わが築地小劇場も、各国の演劇都市に負けずに、さかんなイプセン記念公演、展覧会、講演会を催します。築地はこれまでにも、小山内先生によって「ボルクマン」、土方さんによって「幽霊」と「社会の敵」の都合三篇を上演しておりますが、今回は三月一ぱいを全部記念公演に当てまして、「ノラ」「幽霊」「復活の日」の三曲を三旬に分ち、築地の誇りとする三演出家の担当のもとに舞台にのせる予定でありました。ところが途中から急に、帝劇公演の話がまとまりましたので、第三の演目を「ペエル・ギュント」とき変え、これを三演出家の共同演出のもとに、近衛氏の新交響楽団と岩村舞踊研究所の援助を得て、演劇と音楽と舞踊との綜合的なブリリアントな融合形式によって上演する運びに立ちいたりました。言うまでもなくイプセンは、文芸協会自由劇場以来、日本の新劇運動とはまことに密接な関係にありますが、おそらくは今後、彼の戯曲の上演を、これほど系統的に観賞批判し得る機会は、わが新劇界においてふたたび来ないであろうと信ぜられます。
 では、なぜわれわれが、イプセンの数多い作品の中から、今のべた演目を選んだかと申しますと、御承知のとおり、現在の築地は、各部から代表委員を挙げてその合議制によってレパートリーから経営方針までを決定しております。この委員会の席上でも、何を選ぶかについては諸説ふんぷんたるものがあったのですが、まず第一に支障なく選ばれたのは「ノラ」でありまして、これは、イプセンの作品中、もっともポピュラアなものであるという理由が一つ、それと並んでこの作品は松井須磨子や水谷八重子などの上演によって日本の新劇運動にも馴染の深いものではありますが、しかしイプセンの作意を正当に伝えた舞台は、まだ日本には現われていない、この作品は婦人解放問題を扱った、いわゆるプロブレムドラマ――問題劇として一般に評価されておりますが、作者自身はある婦人の集りの席上で、自分は婦人問題については多くを知らないから、女性諸君の感謝に価しない、私の作品はただ一篇の詩であるという意味のことを述べております。事実、この作は、社会思想的な現実的な内容をもちながら、そのなかにも実に芸術的な香気をみなぎらしたすぐれた作品であります。外国の例に徴しますと、この問題劇的なシリアスな一面が極端に強調されて、芸術的な香気を抹殺した例が間々あるそうですが、日本では逆に、この厳粛な内容をきわめて低俗に解釈するところから、結果としては、芸術的な高さを失ってしまったようなことになっております。それに、いわゆるスタアシステムの弊害として、舞台のピントが、女主人公のノラにばかり集中されて、ヘルマアと彼女との深刻な家庭生活の相剋として、この両者に同じような比重を分け与えることができなかった。そういうような通弊を救って正しい演出を提示するという意味でも、この作品を上演することがよろしかろうという結論が生れたわけです。で、この「すべての名女優の野心と失望の役」であるノラには、村瀬幸子君が扮し、その対手役としては丸山定夫君が選ばれ、すでに御覧のような築地的な「人形の家」が上演されつつあるのです。
 これは青山さんの担当ですが、つづいて土方さんの担当には、再演ものの「幽霊」が選ばれました。この「幽霊」については、土方さんにだいぶ難色があったようで、「人形の家」と「ゴースツ」では、同じような色彩の――つまり婦人問題とか遺伝説とかを扱った家庭劇が二つ続く。おなじ再演ものでも、自分の意見では、もっと社会的な視野のひろい「ドクタア・ストックマン」を選びたい、小山内先生が晩年の神秘主義的色彩の濃い象徴劇(「復活の日」)を選ばれるならば、――まだこの時は、帝劇の話がなかったのですが――それと、家庭劇と社会劇と、こう三つの代表的傾向を並べて舞台化するほうが意義があるのではないかということを、土方さんは主張されたのですが、小山内先生の意見として、「幽霊」はギリシャ劇やフランス古典劇で尊重された「三統一」をイプセンが最もよく遵奉した作品で、その意味でもわれわれの研究の対象たり得る、沙翁劇や今日流行はやる表現派の芝居のように、逐事件的に劇的行為ハンドルングをたどってゆかずに、例の「第五幕から始まる」という評語もあるような、劇的事件の一つの高頂点から芝居を明けて、それ以前のことを前筋――フォールゲシヒテ――として事件の進行につれて展開させながら、キャタストロフに導くという手法の代表的な例として「幽霊」を挙げることができる、また、単に芸術作品としての出来ばえから言っても、今日、この傑作を度外視しては、記念公演が片輪なものになりはしまいか、こういうふうに小山内先生が言われまして、結局、「ゴースツ」に落ちついたわけなのであります。で、この演出にあたって土方さんは、初演の時とはだいぶプランを変更して、従来のオスワルトを主人公とする方針を捨てて、この作の重心をアルウィング夫人の悲劇相に置き、山本安英君扮するところのアルウィングをめぐるいくつかの世紀末的な人間の型を表出することにつとめられるそうであります。言うならば、十九世紀そのものの「幽霊」を描き出すことが、土方さんの演出の基本態度となるのだそうで、この新しい解釈による演出方針には、私なども大きな期待をかけております。
 イプセンは、御承知のとおり、ノルウエ南部にあるシーンという小都会で二十歳までの年月を過しました。だから、彼の描く劇的事件の大部分は、この狭くるしい、原始的な社会の人びとの間で発生しております。たとえば「ノラ」なども、デンマークの法廷で起った一事件に着想したと言われておりますが、作に現われるロカリティには何となくシーンの匂いがいたします。ただこの小さな町で湧き起った問題を、ずっと高い地位にまで引き上げたのは、実に彼の天才と社会を見る眼の鋭さにもとづくものであり、一方また彼のコスモポリタンとしての生涯が、それぞれの社会問題を狭い範囲に押し込めないですむような視野のひろさをもたらしたことにもよるのでありましょう。
 一体、イプセンは大器晩成型の作家でありまして、たとえばゲーテは、もし三十で死んだとしても「ゲッツ」と「ウェルテルの悲しみ」を残して行ったわけで、しかも、この二つの作品は、同時代人を動かした傑作なのでありますが、イプセンは、もし三十で死んだとしたら、文学史上に不朽の名を残すことはできなかったでしょう。初期のイプセンがスカンヂナヴィアの伝説から取材して書いた作品は、決して傑れてはおりません。また、もし、この時期に、後の時代に見るような社会劇を書いたとしても、おそらく、その視野のせまさは、彼に傑作を許さなかったと考えられます。三十五歳で彼は初めて「両王材」を書いて世間に認められ、その後三十六歳にして放浪の旅にのぼり、二十七年間というもの故郷に帰らなかった。この間のコスモポリタンとしての生活が、実に彼の社会的視野を広やかな豊かなものとし、彼の作品のテーマに一般的な普遍性を与えたわけです。で、放浪の旅のうち二十年を彼はドイツのドレスデン、ミュンヒェンに過したのですが、「ブランド」「ペエル・ギュント」以下、彼の傑作は、すべて国外で書かれました。この二十七年間の外国滞在中に、彼は五ヶ国の言葉を勉強し、読書の方面ではかなり上達しましたが、会話はその一ヶ国語も満足に話せなかったそうで、日常の用さえ弁じかねた。言葉が不便なところから足を封じられて、彼は自然書斎に閉じこもり、次から次へと創作にいそしむ機会をもったと言われております。では、そういう彼が、どうして当時最も社会の注目の的となった時事問題に肉迫していったかと申しますと、彼は非常な新聞愛読者だったそうであります。当時は、電報だの電話だの輪転機などという文明の利器がはじめて応用されて、新聞が非常な活躍を始めた時代でありますが、当時のモダンな人々について申しますと、彼らがどれほどの新聞読破力をもつかということが、その人の人間学、世間学の深さをはかる標準となっていたのだそうで、その標準の正しさを裏書きしているのが、実にイプセンであります。彼のミュンヒェン時代を知っている古老の話によりますと、その町のカフェ・マクシミリアンという喫茶店の窓の上に新聞をうず高く積み上げて、そのなかに埋っているようなイプセンの姿をよく見かけたということであります。後年クリスチャニヤに帰ってからも、イプセン老人は、頑強に面会謝絶を押し通したそうですが、しかし、毎日正午になると、悠然としてウェストミンスタア・ホテルに現われて、一杯のビールを命じ、外国新聞を取り寄せて、二時間というもの欠かさず読みふけった、さらに六時になると、もう一度、イプセンはそこへ現われて、ピョルテルというウィスキーの一種を命じ、今度は自国の新聞に読みふけった、ことに裁判所の記事に眼をとめたということであります。七十歳になったイプセンは、述懐のことばを洩らして、長い年月、外国を渡り歩いたものは、その心の奥底では、どこにも安住の地を見出せない、故郷すら他国であるといっておりますが、彼は実にコスモポリタンであり世界人であった。このコスモポリタンとしての生涯が、しかし、作家としてのイプセンに非常な寄与をしていることは、すでに申上げたとおりであります。
 思わず話が脇道へそれましたが、さて、今度、「復活の日」にかわって、帝劇の檜舞台にかけられる「ペエル・ギュント」について、ごく輪郭だけを申上げて話を終ることにいたします。
 この作も、すでに言うとおり外国で書かれたので、――一つ前の「ブランド」とおなじく南イタリーに滞在したころの制作に属します。作者が知人のペエテル・ハンゼンに宛てた手紙のなかで、「ブランドの後には、必然的にペエル・ギュントが来るはずだ」と言っているのでもわかるとおり、この二つの作は密接な関係をもつもので、イプセンの抱懐する思想を裏と表とから叙述した、広い意味の二部作でありまして、両々相俟って作者の世界観の全貌を示すものであります。遠く国外に去って、自国の人々を眺めなおしたイプセンは、その怯懦な国民性にたいして嘲りと諷刺とを投げつけずにいられなかったのでありましょう。だが、彼自身は、こういう批評にたいして自己弁護を試みまして、「なぜ人々は、この脚本を詩として読むことができないのだろう」と、最前申上げたノラの場合と同じようなアポロジイを発表しておりますが、たとえノルウエ人が自分の姿をペエル・ギュントのなかに見出したとしても、それは作者の罪ではなくて、イプセン自身はいつも言うとおり、誰よりもまず自分のために、自分自身の治療と浄化のために筆をとっていたというほうが正しいのかもしれません。ノルウエ人の性癖の暗い一面は、イプセンの心のなかにも芽を吹いていた、彼は、その誤れる欲望と感情とに打ち克つために、みずからを戒める鏡としてペエルの姿を見つめたのかもしれません。ペエルは言うまでもなくブランドの対蹠人であり、反対概念であります。ブランドは、行手をさえぎるあらゆる障害をうち破って、肉親の屍をさえ乗り越えて目標に突進する、意志の強い、怖れというものを知らない人間で、生涯「汝自身に忠実であれ」という信念をふりかざしていたのにたいして、ペエル・ギュントは「汝自身を享楽せよ」という信条のもとに人生をさまよい歩きながら、どこにも安住の地を見出せなかったエゴイストであります。ブランドが「全か無か」を標榜して、いつも退路を断ちながら進んだのに反して、ペエルは、いつでもうしろのドアを明け放しておく卑怯者であったのです。ちょうど、ゲエテがファウストとメフィストフェレスに二つのことなる自我を描いているように、ブランドとペエルとは、イプセンの性格の両極を意味するものであり、彼の二つの分身であります。ノルウエの観客は、「ブランド」の台辞の一行ごとに、「かくのごとくあれ」というサボナロレスクな叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)の声を聴くとともに、一方「ペエル・ギュント」の一場一場から、これがお前の姿だという嘲笑の声を聴きのがさなかったに相違ありません。そして、今度、帝劇で上演される「ペエル・ギュント」の舞台から、ノルウエ人ならぬわれわれもまた、これがお前の現実の醜い姿だというイプセンの戒めの言葉をうけとるに相違ないのです。今度の演出は、少年時代を青山さん、壮年期を土方さん、老年のペエルを小山内先生という分け方で、色とりどりの舞台を見せていただけることになったのですが、一箇の演劇学徒としての私は、これは実に自分の勉強のために千載一遇の好機であると信じております。





底本:「久保 栄全集 第五巻」三一書房
   1962(昭和37)年10月5日 第一刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月4日作成
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