戦争雑記

徳永直





 日露戦争がどんな理由、如何いかなる露国ロシアの、日本に対する圧迫、凌辱りょうじょくって、日本の政府が、あのごとく日本国民を憤起させてあえて満洲の草原に幾万の同胞のしかばねさらさせたかは、当時、七歳にしかならない私に分りようがなかった。ただ、
ロスケが悪いのだ、赤鬚あかひげが悪いのだ」
 ということを、村長さんや、在郷軍人分会の会長さんたちに依って、村人を、特に若い青年を憤起させ、膾炙かいしゃせしめたから、私達小児まで、
「ロスケの赤ヒゲ、クロバトキン」
 と、まわらぬ舌で怒鳴どなり歩いたものだ。子供同士の喧嘩けんかにも、
「ナンダ、このロスケ……」
 と言えば相手を充分に侮辱ぶじょくしうるほどの、悪口あっこうの一つになっていたものだ。
 ある日のことだった。
 私の親爺おやじは天気のいいのに、二三日あちこち浮かぬ顔して、仕事にも出ずに、近所の親類なんかを迂路うろついていたが(親爺は日傭稼ひやといであった。私の親爺は、なに一つ熟練した職業を知らなかった)叔父おじや、祖父などが、二三人、私の家の狭いあがかまちのところで、酒を呑み始めた。母がきたないなりしたままで、鼻をグスグス音させながら、酌していた。
 私にはそんな光景は、初めてであった。平素酒なんかんだことのない父、して母が酒の酌する有様なんか、まったく初めて見た。
 私はぼんやり、板戸の戸口の所に、腰掛けたまま、それを見ていたら、どうしたのか、祖父がしわくちゃの手で私の手を握りながら、上り框の父の居る方に引っ張って行った。それで私と一緒に遊んでいた妹もベソをかきながら、私にいてきた。
 すると、父は、平素の顔と変にちがった顔付かおつきをして、私の頭をでて何か云おうとしたが、私には聞きとれなかった。
ととさんはナァ、センソウにゆきなさるけんおとなしゅうして、遊んでいなはり――、ナァえかい?……」
 祖父が、そばからそう云って、私をうなずかせた。「父はロスケ征伐にゆくのだ」と私は合点がってんした。私は父と別れるという様な悲しみは、少しも起らなかった。ただ父は剣も持っていなければ銃も持っていないので、何となしに物足りなかった。
 それから二三日して、父は家に居なくなった、おおかた、私達が、寝ている間、朝早くか、夜のうちにでも、戦争にいってしまったらしかった。
かかさん、戦争のあるところって、どっちの方?」
 私と二つちがいの姉は、夜、母を真中まんなかにして、寝てから、こう聞くことがあった。父が居なくなってから、母はランプの石油を、余計にいやすことを恐れて、夜なべが済むと、すぐ戸締りして、寝床を作った。一ばん下の弟が母にいだかれて、その次に妹、その隣に姉、母のすぐ背後うしろが私であった。
「戦争はナァ、ズウッとあっち、満洲ていうところ!」
 しかし満洲が、私達の家の西に当るか、東に当るか、母も知らないらしかった。姉がゆびさして、
「あっち? こっちの方?」
 と云っても、母はまちまちに答えていた。
 母は気丈な女であった。四人の子供を抱えて、毎日細いながらも、煙をたてていった。
「一人一合扶持ふちなんかで、食ってゆけるもんか」
 区長さんのところから、出征軍人の遺族扶助米として、月に二三度届けてくれる僅かの米袋を見るたびに、母は何かにだまされたもののようにいかって、米袋を投げつけた。母は毎日、大きなざるを、天秤棒てんびんぼうになって、二十三連隊の営内に、残飯をにないに行った。毎日兵士がいあました飯や、釜の底にこがれついた飯や、残りの汁なんかを、一荷いっか幾らで入札して買って来た。そして近所の同じ貧乏な、お内儀かみさんたちを呼んで来て、それをけたり、売ったりした。
 それで、父の出征したのちは、新しく炊いた飯は、一度もうことがなくなったが、とにかく、二度も三度も蒸しかえした残り飯でも、ひもじい思いはせずに、私達は暮した。
 私はその次の年、七歳で小学校にあがった。学校では遊戯のときでも、なんでもかでも、軍歌を教えられた。
月にわずか一銭と
……………………
一万二千八百トン
世界にならぶなしときく、
アメリカボーイと名付けらる。
 ハッキリとおぼえていないが、こんな文句であった。歌の調子はいまも覚えている。私達は一年生のときから月に一銭の海軍軍艦建造費を徴収せられた。
 この歌は、たしか日露戦争中に、建造された、日本で初めての大軍艦の、祝歌であった。
 津田という、女の先生が、大きな産月うみづき近い腹を、グッと前に突き出して、足を高くあげ、手を振りながら、この遊戯と歌を、私達に教えた。私達は、先生の周囲を、円陣を作って、歌い踊りながら、戦争というものが、どんなにうといものか、人間と生れて戦争にゆかないものは、不具者に劣る者だと教え込まれた。
 私は小児心こどもごころに、父が戦争に行っていることが、非常に誇りであり、遊び友達の中で、肩身が広かった。
 ある朝、学校の校庭で、御真影ごしんえい最敬礼ののち、校長先生は、出征軍人を父に持つ生徒を、講壇にあがらして、その所感を述べさせた。無論小学校の生徒で、皆のまえでそんな所感など云えよう筈はなかったが、各受持の先生が、前の日に、云うべき文句を、暗誦あんしょうさせてあった。一年生であった私は、第二番目に、校長先生に呼ばれて講壇にあがった。
 私は恐々こわごわではあったけれど、前の日、暗誦させられた通り出来るだけ声を大きくして云った。
「私の父は陸軍輜重しちょう兵第六大隊、輜重兵輜重輸卒ゆそつ、徳永磯吉であります、――」
 こう云ったら、上級生の方の大きな子供達が、クスクス笑い出した。私は何だか分らなかったが、恥かしくて黙り込んだら、校長先生が、皆の方に、恐い目をして、
「笑ってはいけない」
 と云った。
「ニチロの戦争に、ゆきました。私はよく勉強して、大きくなったら、父のように軍人になって戦争にいって、ヘイカのためコクカのためにつくそうと思います」
 と云って、自分の席にかえった。
 家にかえってから、私は母に得々とくとくとその話しをした。そしたら、三年生の姉が帰ってきて、口惜くやしがりながら云った。
なおがシチョウユーソツなんて云うから、皆から笑われた」
 と云って遂々とうとう泣き出した。私は、それで気付いたが、上級生が笑ったのは、私の父の輜重輸卒は、兵隊のうちでも、一等ビリの役目だから、笑ったのだなぁと思った。
 母は黙っていた。私は友達のィ公のととさんは喇叭卒ラッパそつであることを思い出して、喜ィ公のととさんはえらイなあと思った。
 戦争は、いつまでもあるらしかった。私達の村からは、次から次に、戦争に行く人があった。私が小学校にあがってから、間もなく、近所に住んでいる叔父おじが戦争にいった。
 男のない私のうちでは、私が名代みょうだいで皆と一緒に、叔父を停車場に見送りにいった。
 叔父は現役で、帰ってからまだ何年もっていなかった、そして十三連隊の上等兵で、如何いかにも偉そうであった。叔父の家にはまだ子供がなかった。私の母よりズッと若い叔母おばは、皆が、『××直彦万歳ばんざあイ』を三度云って、在郷軍人の服を着た叔父を真中まんなかにして、うち露路ろじを出ようとしたら、あがかまちのとこで、ワッと大声で泣き出した。
 叔父はそのあくる朝、沢山たくさんの同じ戦争に行く人と一緒に、私達の村はずれの停車場を通った。叔母も、祖父も、私の母も一緒に、構内に入って早くから待っていた。汽車がくると、どれが叔父だか一寸ちょっと見分みわけがつかない位の人々が、汽車の窓から首を出していた。逸早いちはやく見つけた叔母は、窓にしがみついて、叔父とはなししていた。窓から首を出している黄色の筋のはいった帽子(その頃までは帽子は赤筋でなかった)かぶった兵隊さんたちは、誰か訪ねて来ていないかと見廻みまわしていた。あんまり騒々そうぞうしい光景に、私はぼんやりしていた。
 そのうちに汽笛が鳴って汽車が動き出した。叔母はまだ離れなかった。「あぶない」と車掌が飛んできて、後から引きおろした。叔母は泣いていた。母も祖父も、それとは別に遠ざかってゆく叔父の振る帽子に合図して、夢中に手拭てぬぐいを振っていた。
 それから十日とおかばかりして、叔母は私のうちに同居した。私の親類では外に、従弟いとこ貞助さだすけと、三人が出征した。センチ(戦地という言葉をこの頃覚えた)から、時折グンジユウビンが来た。いつも姉が読んだ。みんな平仮名と、片仮名ばかりで書いてあった。
 母は毎日、「残飯」をにないにいった。柄の小さい叔母は、家の軒下にむしろを敷いて竹箸たけばしを削る内職をした。私も姉も、学校を退けると、手伝わされた。私はこの「箸削り」が一等嫌いであった。コガタナ(ナイフ)で小さく割った竹片たけぎれを、丹念に削るのだから、しんきで、しんきでしようがなかった。私は懐中ふところに始終入れている「ウチオコシ」が、したくて、すきを見てはすぐ飛び出したものであった。
 私達の遊びごっこは、戦争ごっこが一番盛んで、可也かなりにこっぴどく殴り合った。月のある夜なんか、沢山たくさんの子供が、語らいあって、村はずれの鎮守を中心にして、「陣地」の奪い合いをやったものだ。
 私は、力は強かったが、機敏でないため、よく頭に、こぶをつくって、うちに帰ったものであった。
 また、戦争の光景や、大将、中将の似顔をいた「ウチオコシ」が非常に流行した。黒木大将や、大山、野津、乃木、瓜生うりゅう海軍中将などの似顔と名を覚えたのも、その頃であった。
「号外」が時折、けたたましく鈴を鳴らして、くることがあった。鈴の音を聞くと、叔母も母も読めもしないくせに、顔色を変えて狼狽あわてて買いにやった。私は跣足はだしでたびたび号外売りのあとを追駈おいかけたことがあった。
「勝った勝った九連城」
 奉天よりずっと以前だと思うが、九連城が落ちたときに、村人んなが狂喜した。私達は「陣地取り」で勝つと、屹度きっとこの「勝った勝った九連城」と怒鳴どなって、手を叩いて踊ったものであった。
 村の鎮守の、大樟おおくすのき頂辺てっぺんに、大きな国旗が、掲げられた。村の「木昇りのじんさん」が決死の覚悟で、危ないところの頂辺まであがって、その大旗おおはたを結びつけたのであった。それは「どうぞ戦争がちますよう、村の出征軍人が、無事に凱旋がいせんしますよう!」という祈りのためであったそうだ。
 だが、戦死の報は、頻々ひんぴんとして相踵あいついだ。
さだは、ウチジニしたぞい!」
 ある夕暮方ゆうぐれがた祖父は、赤い筋のはいった電報を握って、私のうちの軒先から、オロオロ泣いてはいって来た。
 親類外の人々が、戦死した報を聞いても、そうビクビクしていなかった母たちは、貞助さだすけが、ウチジニしてからは、足許あしもと亀裂ひびが入ったように、何時いつもキョトキョトしていた。
 貞助が死んでも、葬式もなにもなかった。髪の毛でも送って来なければ、ほうむりようがなかった。せがれ夭死ようしして、頼みの綱の孫がまた、戦死した祖父のうちは、寂しそうであった。
 私は無性に、ロスケが憎かった。
 家主の総領息子の彌一さんも、戦死の報がきた。私の父からは、時折、軍事郵便が来たけれど叔父の方は、パッタリ来なくなった。
 母も叔母も、毎晩、お題目を唱えて、叔父達の身の上を念じた。私は寝床に入ってから、母たちが狂人のように、
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」
 と大声あげて、団扇うちわ太鼓をたたきながら、唱名しょうみょうしているのを、ひょいひょい寝覚ねおぼえのままに聞くほど、おそくまで念じていることがあった。
 私は何だか、少し戦争がこわくなった。私は父が、何だかいたく思われ出した。
 奉天が落ちた。
 それは何月何日だったかは覚えぬが、私が号外売りを追駈おいかけて行って買ったのは、暑い夏の頃で、ヂリヂリ照りつける陽で道の砂が足裏(私達小児こどもはみな大抵たいてい跣足はだしで過した)が焼きつくようで、日盛りの頃であった。
 学校は、祝賀のために、校長先生が奉天が陥落かんらくして、日本軍が大勝利であったことを話したきりで、その日は休みであった。
 村では鎮守に、お神酒みきがあがった。叔母は、もう叔父が明日にでも、戦地からかえって来るように、喜んだ。
 ロシアの捕虜が、送られてきた。十三連隊がとりこにした、ロスケの赤鬚あかひげが、練兵場の仮小屋の中に入れられる、というので、私達は村の人達と一緒に見に行った。
 ロスケはみんな、背が大きかった。私が想像した通り、鬚が赤くて、眼がビィドロのようで、鈍間のろまらしい風付ふうつきであった。みな黒いざるのような帽子を、かぶっていた。そして捕虜はみんな私達小児こどもの顔を見て、ベチャクチャしゃべりながら、ニコニコ笑って通った。
「ロスケが笑っとる!」
 私達は随分、ロスケは意久地いくじないなぁと思った。銃も剣もとりあげられて、それでニコニコしている。私は何だか不思議に思えた。
 私達は、学校のかえりに、まわり道して毎日のように捕虜を見に行った。
「弱ゴロの赤鬚――」
「剣はどうした?」
 私達は、竹柵の外から、鮨詰すしづめに押し込まれている、ロスケをののしったり、石をほうり込んだりして、一時間ぐらい費やした。
 だが、決してロスケは怒らなかった。長い赤髪あかげを、モシャモシャさせながら、何だかペチャクチャしゃべくっては、私達に笑いかけた。小屋の柵のまえに、鉄砲をかついでゆききしている日本の番兵は、彼等の胸くらいしか、が届かなかった。
 その大兵たいひょう露助ろすけは、小さい日本兵の尖った喧嘩腰けんかごしの命令に、唯々諾々いいだくだくと、むしろニコニコしながら、背後から追いたてられて、便所などに、悠々ゆうゆうと大股にったりしていた。
 私は、そのロスケのう残飯を喰った。それは、種子たね油の沢山たくさんはいった粟飯であった。
「なんでも、ロスケは油っこいものを、喰うぞいナー!」
 母は、ざるを片付けながら、かたまりの粟飯を頬張って云った。私はロスケの喰うものだと聞いて、すぐした。そして、ロスケの残飯まで喰わなければならないのかと思った。母には云わなかったけれど、貧乏人であることが、悲しく、はずかしくなって、その日からロスケを見にゆかなくなった。


 私は自分の親が、貧乏人であることを、はずかしく思うようになった。七ツ八ツの小児こどもに似ず、物事に遠慮深く、ひけ目がちになった。
 それに、私の親類一家は、村のうちでも、最下層の貧乏人であった。村の百姓達の子供は、私の顔を見ると、
「残飯食い、残飯食い」
 とののしった。
 私は、自分よりもズッと弱虫の、家主の、末っ子の、四郎次からも殴られるようになった。
 殴られても、私は泣かなかった。泣いてもうちに帰って、母のいるところでは泣かなかった。母のいるところで泣けば、また母から殴られなければならなかったからだ。
 一度泣いてかえったことがあった。すると、母が私の手を引っ張って、私を殴った喧嘩大将のげんしゃんうちへ行って、源公げんこうのおふくろに、
「いくら貧乏人の子でも、こんな血のにじむほどったものを、見ていて知らぬふりするものがあるかナッ!」
 と母は真赤まっかになりながら云ったが、小作米とくまいとりの、源しゃんのおふくろは、鼻のさきであしらって、とり合わなかった。私の母は口惜くやしさにふるえながら、やけ気味に、面当つらあてに、私をその場で無茶苦茶にひっぱたいた。私は痛さにヒイヒイ云って泣いた。しかし、源公のおふくろは、めもしなかった。
 私はひとり遊ぶことが多くなった。そしていつも、『ととが帰ったら、屹度きっと金持になるんだろう』と思った。私は、いちごとり、蝸牛でんでんとり蝸牛でんでんは焼いてうと甘味うまいものである)、笹の実とりなどに、姉たちとか、でもなければ一人でいった。
 父は却々なかなか帰って来なかった。ぼつぼつ凱旋がいせんして、帰って来る人もあったが、叔父も父もまだ帰って来なかった。
 私はこの頃、一人の恋人が出来た。
 男の子供の群から離れた私は、姉と一緒に、女の子供と遊ぶようになった。
 その女の子は、名を恵美めぐみと云った。私のうちの道一つ向うの高い石垣の上に、土蔵付の大きな瓦屋根の家で、村でも旧家の金満家で、恵美は一人娘の末っ娘であった。駄々だだで、それでいて老成ませ勝気かちきなところがあった。年は一つ上の八つだったと覚えている。
 七つぐらいで、まさか性欲なんかありそうもないが、私はかなりハッキリした、恋心を意識していた。恵美ももちろんそうらしかった。二人は、いつとなしに、男の子の群からも、女の子の群からも、かくれて遊ぶようになった。
 それが一度、男の子供の群に見付かったことがあった。二人は、恵美のうちのぬか小屋で遊んでいた。発見した男の子の群は、何時いつの間にか、小屋の周囲を取巻とりまいてしまった。
「ワァ、ワァ、ワァッ……」
 と腕白小僧連は盛んにはやしたてた。
 私は、当惑とうわくして小さくなっていた。すると恵美は、ついと、いだいていたお人形をほうり出すと、戸の所に出ていった。
 そして、何だか怒鳴り返していたが、やがて、奥庭おくにわ寝転ねころんでいた「熊」を呼んでしかけた。大きな尨犬むくいぬの「熊」は、としをとった牝犬めすいぬだったが、主人の命で、鋭く吠えたてたので流石さすがの腕白連も、ひとたまりもなく逃げてしまった。
 二人は、一年ぐらいは仲しだったが、だんだん、いろんなことで、貧富の区別が、わかりはじめると、自然うとくなった。
 それも、私の方がさきに、何となしに、物怯気ものおじけしていた。恵美は、いろんな外の事では、老成ませていたが、私が「残飯食い」であることや、シチョウユーソツが、一番ビリッこの兵隊であることなどは、知らなかった。
 それに、私が恵美のうちの二階で遊ぶことを嫌う理由も、彼女には分らなかった。其処そこから下を見下みおろすと、私のうちの四軒長屋の、傾いて、雨のる場所を、むしろおおうたわら屋根が真下ましたに見えるのだ。


 父が凱旋がいせんしてきた。
 ほとんど同時に、叔父も帰った。
 私達の近所、となりの長屋は、凱旋祝いのため賑わった。私のうちは三日あまり、水太鼓や、古い三味線で、ガンガン鳴り騒がれた。
 二年振りで見た父は、まえよりずっと色が黒く、骨張っていた。それに何となしに、恰度ちょうど他人がお客に来たような格好で、私達子供に非常にやさしくした。
 父は、古手ではあるが、黒い紋付の羽織を着ていた。そしてお客達の真中まんなかすわって、チヤホヤする村の客人達に向って、ゲラゲラ笑ってばかりいた。客人はえらい人達がやってきた。第一に村長さんが、それはほんの一時間ばかりではあるけれど、「御苦労だったなぁ……」「何しろ凱旋で目出度めでたい」「これも陛下の御威光のいたす所じゃ」などと、恐縮している父に、云って聞かせて帰った。かねて見向みむきもしない村の人達が、殊更ことさらにお世辞を云って、お祝いに来たりした。恵美のうちのお祖父じいさんも来た。私は、なんだかうれしくて仕様しようがなかった。
 戦争が済んでからの半年ばかりは、いろんな凱旋を祝するもよおしがあった。私は父にれられて瓶詰びんづめの酒や、折詰おりづめを貰ってかえることがよくあった。本妙寺にまつられてある、加藤清正公の神苑で、凱旋祝賀会があったときにも、私は白色銅葉章ようしょうと従軍徽章きしょうを胸にけた父と一緒に行った。酒をんで赤い顔した女連おんなれんが、兵隊に仮装して、長い剣をガチャガチャひきずりながら、宴会のところに、「万歳万歳」と云ってころげこんで来ると、長いひげしごいているえらい将校の人たちも、相格そうがくを崩して、女達に抱きついたりなんかした。
「勲八等、功八級」の父に、一時金百五十円の金が、おかみからさがった。凱旋早々から日傭稼ひやといにもあまり出られないでいた父は、その金を資本にして荷馬車ひきを始めることにした。職業を知らない父は、戦争に行って覚えた馬きがの商売を始めさしたのであった。
 栗毛の、片眼で老いためすの馬が、ある晩遅く、若い頃博労ばくろうをやったことのある祖父と、父と二人して、っぱられてきた。そして長屋の背後に、小さい掘立ほったて小屋が作られて、馬は其処そこに入れられた。
 戦争後、一年も経過しないうちに、素晴らしい不景気がやってきた。荷馬車業を始めはしたものの、父は毎日遊んでいる日が多かった。
「荷馬車なんて、めた方がよっぽどえ。遊んでばかりいて、馬と二人して、喰いこんじゃたまらん……」
 母は、いつもこう云って、凱旋してからこのかた、まえよりかえって、頭脳あたまがボンヤリしたような父になじりかけた。
なお、今日は荷は動きませんかて、聞いて来い」
 そんなたんびに、むっつり黙り屋の父は、私を呼んで、いつもの旦那先である益城ますしろ屋に「荷がないか」と聞きにやった。
 村はずれの、町との境にある「益城屋」は、白い壁の米倉が、幾十とならんでいた。景気のいいときは、此処ここの倉庫は、ガラン堂になるように米が倉からはこび出された。幾百台の荷馬車が並んで、懸声かけごえいさましく、上熊本駅と熊本駅を行先ゆくさきにして、往復が絶えなかった。肥後米の、特に山鹿やまが、菊池、大津おおづ、阿蘇の米産地の、咽喉のどをにぎるこの合資会社の「益城屋」の倉庫は、米穀検査所の出張所と、肥後銀行と飽託ほうたく銀行との出張所があった。
 私は度々たびたびゆくので、勝手を知っていた。学校のかえりに、の倉庫のまえをとおるときは、何時いつも注意して荷が動いているか、また父がいるかいないかを、自然それとなく確かめるのがくせとなっていた。
 そして近頃は、荷の動く日はれであった。それに、農家からの出具合は、一寸ちょっとも変っていなかった。五俵、十俵と、雑穀をじえた百姓達のうりに出す米のすうは、豊作見越しの収穫まえだけに、倉庫の店先には、幾台となく、いつも売込うりこみの米は止まっていた。
 倉庫に入れきれなくなった米は、店先まで積んであった。
 そして倉庫の米は一つも何処宛どこあてにも、はこばれなかった。
 常傭じょうようでない私の父は、十日も二十日も、仕事がなかった。
「残飯」をにないに行く母は、来る日も来る日も、父と喧嘩けんかばかりした。
 私の「父がかえったら屹度きっと金持になるだろう、残飯食いと云われなくていいようになるだろう……」という期待は、なんにもならなかった。
 私が二年生のときに、姉は四年生であった。私より女だけに、うちの暮し向きを、こまごまと気にしている姉は、自分から母に相談して学校をさがって、煙草たばこ専売局の女工になった。
 年足らずの十三を、十五だといつわって、姉は十六銭の日給を貰うために、朝五時から起きて、いそいそと一里も離れている専売局にかよった。
 年のわりにませた姉であったが、背の丈は私と同じくらいに小さかった。汚れた弁当包みを小脇にして、夕暮方かえって来る姉は、いそいそしていた。十六銭の給料が貰えるということのために、ほんとうにいそいそして喜んでいた。
「義務教育が六年に延びたから、是非ぜひとも学校にお出しなさい」と村長さんや、校長さんから督促があったけれど、母はとり合わなかった。姉は見向きもしなかった。


 翌年、私は三番で三年生に進級した。小学校の生徒間にも、教員が児童保護者からの賄賂わいろで、成績の発表を故意に上下にするということが、お互いの間で云い合っていた。
 しかしそんなことは、私は何の気懸きがかりもなかった。級長の上野が、私より学力が劣っていてどうだとか、なんて云って私をおだてる同級生もいたのだが、私にはそんなことはどうでもよかった。どうせ、中学にゆけるんじゃなし、四年を卒業したらはやく何処どこかの工場に出て、おあしをとらなければならぬと思っている私には、そんなことはまったく、気疎けうとい話であった。
 その年に、母は赤ん坊をんだ。私達は兄妹きょうだい五人となった。うまれた男の子を、子守りするために、私は学校を休む日が、まえより多くなった。ともすると一週間ぐらいぶっとおしに休むことがあった。
 それでも、私は学校がきらいではなかった。末の弟を、ねんねこ背負せおいして、裏脊戸うらせどあたりにたたずみながら、いろんな本を読むのが好きであった。国語の教科書でも、講談本の賃貸ちんがし本でも、古い婦人雑誌など、かなひろいでよく読んだ。それに音読するのが得意であった。講談本なぞ、幾様いくようの音律を附けて、岩見重太郎の大蛇退治でも、八犬伝でも、寛永三馬術でも、近所の人達が聴きに来ると、得意になって読んだものである。
 夜になると、屹度きっと、私は三席か四席ぐらいは読ませられた。二回目の残飯が、になわれてくるので、近所の人達や、たわし売りのおよしさんや、灰買いのじゅうどんや、片腕の熊さんなどが、あるものは飯を持って帰ってから引返して来るもの、るものは、あがかまちにならんで腰をかけて、預けてあるげっちょろけたお椀に、飯や汁を一緒に盛って食いながら、私の読む講談にれるのが習慣であった。
 まったく四年生になった頃は、私は学校じゅうでの講談通であった。一度こういうことがあったのを覚えている。私達の級のけ者であった近松という男生徒が、加藤清正と木山弾正きやまだんじょう組討くみうちして、崖から落ちている場面の絵を描いて、皆に見せびらした。ところが、五年生の級長の米村というのが、木山弾正じゃない四天王但馬守たじまのかみがそうだと云い出した。木山弾正か四天王但馬守か判断がつかなくなり、近松の級三十人ばかりと、米村の級二十五六人ばかりが対抗して、木山だ、いや四天王だと云い張って、危なく大喧嘩げんかになろうとした。それで気転のいた奴が、態々わざわざ、欠席していたので、私のうちまで迎いに来て、その裁判をしてくれと云うので、私は弟を脊負せおったまま、皆のいる所へ行って、「木山弾正である」という説明をして、木山の方が、清正よりかえって強者で、清正は最初組敷くみしかれていたのだが、崖から落ちた拍子に、かぶとつるに引っらんで上になりやっと討ち取ることが出来たのだ、と云った。それで要するに私の級がかちになって、皆は私を擁して喜んだが、そのかえりがけ一人になったところを、米村一派の連中から取りまかれて、散々さんざんになぐられたのだった。


 私のうちには、その片腕の熊さんや、赤褌あかべことよさんやら、たわし売りのおよしさんやら、灰買いのじゅうどんなどがいた。
 私の生涯において忘れられない人々であった。私が成長して物事がよりはっきりと、判断することが出来るようになればなるほど、これらの人達を尚更なおさおもい起さずにいられない。
 片腕の熊さんは、片腕でびっこであった。何時いつも夜になると私のうちの土間に、空俵あきたわらを敷いてそこで「八」という私の犬と一緒に寝ていた。蒲団ふとんも何もない、赤い半切れの毛布を持っていて、それを頭にすっぽり乗っけると、「八」をいて寝るのが習慣ならわしであった。
 そしてお昼になると、何処どこかの家を歩いて、小用こようを足したり、病人の買物などを手伝ったりして、「残飯」を買うお金をこしらえて来るのである。駄賃が少し余計にはいったりなんかすると、すぐ酒をひっかけて来る。そんなときは何時いつもの無口屋が、とてものおしゃべりになってしまう。
 大きな男の、頬骨の出っ張った、笑うときには、必ずひたい口許くちもとに並み外れて大きな沢山たくさんしわが出来る男だった。
 熊さんが、よく薬瓶くすりびんなんかを左手にさげて、お使いにゆく姿をみつけると、子供が寄って来てうしろから、
「ちんばの熊さん、
 いま何時……」
 と大声で呼ぶのが常である。すると熊さん、例の皺を見せて、
「十五時めめこ」
 と答えて、変な格好して、踊って見せるのである。
 熊さんは、極端な戦争否定論者であった。その頃でもちょっぴり残した薄いひげは、熊さんが、兵隊であった頃の記念であった。日清の戦役せんえきにも日露の戦役にも出征した勇士であって、片腕と足の負傷も、首山堡しゅざんぽの戦いに受けた負傷であった。
 青色銅葉章と百何十円の一時金は、永年連れ添った妻と、片腕との代償になってしまって、親類の少ない熊さんは、まったく妻もない子もない、不具者となったのだった。
 無口な熊さんが、一度父と話していたのにこんな話しがあった。
 それは首山堡の戦いのある四五日前のことであった。いま戦線にある筈の、同じ連隊の三中隊に援兵すべく徹宵てっしょう行軍していたときであった。鉄道線路添いに高梁コウリャン畑を縫って前進していると遠くに銃声の絶え間ないひびきを聞いたのだった。
 四五日らいの強行軍と、食糧不足のために、綿のように、疲れ切った皆の頭脳あたまに、この近くなるにれて激しくなる銃声を聞いて、引き締まるような緊張味を感じて、おのずと自分の足音さえが鼓膜に響くように思われたときであった。
「止まれッ」
 と中隊長の鋭い声が聞かれた。皆は不審に思って立止まると同時に遥か前面の戦線にあたって「ワァッ」という突撃らしい喚声が、瞬間、銃声も何も押っかぶせて響いた。
 中隊長は暫らく考え込んでいたらしかったが、五名の斥候せっこうを命じてから、すぐまた、全隊に「前進」を命じた。
 突撃は、敵か味方か分らないが、確かに状勢は一段落附いたらしく、銃声は段々に衰えていった。
 高梁コウリャン畑を、ひとしきり踏み過ぎると、だらだら凸凹でこぼこの激しい一寸ちょっと拡い野っ原であって、右手に線路が淋しく光って見え、凹間くぼまらしいくろずんだ向う側に、また高梁畑が起伏していた。
 と、二百米突メートルあまり向うから、「ワァ、ワァ」と云う大勢の喚声が聞え出した。
 で、中隊長はただちに、
「伏せッ」
 と命じたので、皆は伏射ふせうちの構えして次の命令を待った。ところが、
「ワァ、ワァ」
 という声は、近くなるに付けて、如何いかにも変であった。突撃でない事は無論であるが、日本軍であれば、退却するに喚声をあげる必要なさそうだし、中隊長は思案していた。其処そこ斥候せっこうが二名け戻って来て報告した。
「前線は敵のめ占領されました。×中隊ならびに、×中隊は全員が負傷の様子であります……」
 中隊長は、近づき来る約一個中隊ばかりの黒影こくえい見遣みやりながら、決心したらしく、「伏射ふせうちの構え」を命じて、自分も指揮刀を握りなおして伏した。
 二百米突メートルから、だんだん近づいて百米突メートル…………と、近づいて来たが、中隊長は次の命令を発さなかった。しかも如何いかにも可笑おかしいのは例の喚声である、遠くではそうでもなかったが、近づくにつれて、如何いかにも張りのない「ワァ、ワァ」であった。
 まるでお経の合唱みたいであった。
 中隊長は指揮刀を幾度か動かそうとして躊躇ちゅうちょした。そして遂に、その多数の黒影が、百米突メートルあまりに近づいたとき、斥候の一人がせ戻って来て報告した。
「中尉殿、前面の兵は、負傷した×中隊と×中隊とが、退却しつつあるのであります。おわり」
 皆はびっくりして、近づいて行くと、くだんの喚声は、何という事だろう! 退却する負傷兵の泣き声であった。空洞うつろのような大の男たちの泣き声であった。
「その中隊は、ほとんど誰でもが、負傷しとりました。彼処あそこの土地の名は忘れましたが、随分激戦でした。まだ私には、あの変ちきりんな泣き声が、耳に残っとりますが、あの狂人じみた泣き声は首山堡しゅざんぽで、自分がやられるまでは、わかりまっせんでしたたい」
 熊さんは茶碗をかかえることが出来ない。そして割に不器用であった。
「なまじっか生きとるよりか、戦死した方がよっぽどようござりました」
 そう云って、熊さんは、左手のはしを持つ方で、顔を押さえて泣いたのを、私は記憶おぼえている。





底本:「徳永直文学選集」熊本出版文化会館
   2008(平成20)年5月15日初版
底本の親本:「約束手形三千八百円也」新鋭文学叢書、改造社
   1930(昭和5)年11月15日
※「ベチャクチャ」と「ペチャクチャ」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:津村田悟
2019年1月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード