この南九州の熊本市まで、東京から
慌ただしく帰省してきた左翼作家
鷲尾和吉は、三日も
経つともうスッカリ
苛々していた――。
朝のうちは、女房が洗濯を終るまで子守しなければならぬので、駄菓子店である生家の軒先の
床机を出して、懐中の三番めの女の児をヨイヨイたたきながら、弱い冬の陽だまりでじッとしている習慣だった。
この辺は熊本市も一等端っこの町はずれで、
肥汲み馬車と、在から出てくる百姓相手の飲食店、
蹄鉄屋、自転車屋、それから製材所などが、マバラにつながっている位で、それから左手の小さく見える南九州特有の軒の浅い
藁屋根がおし固まっている農村部落までは、白々とおそろしく退屈な顔をしている県道が
横わっているきりであった。
勿論県道の西側は
田圃と畑ばかりだが、それが大陸的な起伏のにぶい龍田山の
麓につづいていて、ひくい冬空の下に
空らッ風が出ると、県道筋の白い
埃が
龍巻のように、くるくると舞いながら遠くへ走ってゆく。馬が隠れ、
頬かむりの百姓が見えなくなり、天も地もすべて灰色で、鈍い退屈な荷馬車のゴトゴトゴトゴトという音だけがきこえてきた。
鷲尾は四十歳にまだ間があるという年配にしてはひどく
老けてみえた。現在は小説書きという特殊な職業をやっているものの、根が労働者であるせいか頑固な
身体つきで、それがひどく
シンが疲れているとみえて、
顳あたりには白髪がめだっていた。
「昨年は
繭値が出たンで、
一寸よかったろう」
彼は努めて楽な調子で、背後をふりかえってそんなことを話しかけた。すると店先で団子を焼いている田舎女房風の鷲尾の妹は、
憤ったような
返辞をするのだった。
「
なンのああた、あれ位ァ
鼻糞にもなろう
かいた」
「そうかな……」
「
はァいああた、戦争でも無からにゃ景気ァ出んと――」
ヘエ! と思って鷲尾は妹の方を見たが、彼女は平気な青黒く焼けた顔をうつむけて、さッさと団子をおこしているのだった。
「戦争は、どことやるンだね?」
「……ちゅう話ですたい」
何の遅疑もなく、彼女はこのつぎの部落に「軍馬買入所」が出来たこと等を話す。それは鷲尾が東京で知ってるそれよりも、もっと単純で明瞭にあらわれているのだった。
吝ン坊で、不妊症のこの田舎女房は、青く鳥肌だった顔をしょッちゅう戸外へむけていて、馬を
挽っぱった
頬被りや、自転車に乗った百姓達を見ると、顔色とまるで反対な声を出して――
一寸、
烙ってゆきなはりまッせんか――とか、――寒うござりますな、帰りにゃお寄んなはりまッせ――とか叫びかけるのだが、相手は頬被り頭を
一寸うごかすきりで、さッさと行きすぎてしまう。――
「
吝ン坊の土ン百姓共が、正月
餅があるうちァ寄りつきもせん――」
そんなとき彼女の口惜しそうな毒口は、いまに涙でも出るかと思うほどだった。
鷲尾はわざわざ旅費を工面して帰ってこなければよかったと後悔していた。目的の一つというのは、死にめにも
逢えなかった母親の一周忌と、残っている老父を妹夫婦に頼むことや、いろいろ貧乏長男としての後始末なぞであったが、どうせ自分の経済的無力さでは円滑にゆく道理もなかったので、
矢張り手紙でおしつけておいた方が
怜悧だったという気がしていた。
帰ったすぐその晩、父親を真ン中にしてみんなで酒を
呑んだときにも、妹はもうそれとなく予防線を張って、事こまかに家計をならべあげた。大工である妹の亭主が手弁当で日給一円、鷲尾の末弟の
虎吉が熊本市の郊外電車の少年車掌で日給七拾銭、末の妹と父親の内職が三十銭足らず、それに店の売上げが月々の地代金にやっとだという。
「一家五人がみんな
ガマ(働く)だしとりますばい、これでああた虎吉が来年は徴兵におっとられたらどぎゃンしまッしゅか
」
「成程、成程……」
鷲尾は自分でもワケのわからぬ
返辞をしておいた。妹婿は朝くらいうちに出かけてゆくし、末弟は一ヶ月三百二十時間からのひどいダイヤ
(乗務時間割)なので、帰省してからまだ一度もゆっくり話す機会さえなかった。
ホンとういえば、鷲尾自身、複雑ないまの自分自身がわからなくなっていた。彼達の所属する作家団体は
殆んど………………しまい、一部の仲間作家達は嵐の中をドシドシ身を
挺してつきすすんでいる現在、非常に困難な今後を
控えて、できるだけ身軽にするために、家の後始末をしたり、父親に因果をふくめたり、可能なら子供の一人二人も預かって
貰い、とにかく仲間に
隨いてゆかねばならぬと思うのだが、すぐその一方では疲れきった心身と、………………底なしに崩れゆこうとする感情があって――、たとえばこんどの帰郷でも、そんな積極的なプランをもちながら、どうにも跳び越せない大きな溝をかかえたまま、あたふたと逃げ帰ったとも云える気持であった。
落つけ、落つけ――とか、こんなときアセってはならぬぞ――とか、そんな文句を「日記」の
至るところに書き散らし、心の底でも必死に叫んでいるのであるが、気がつくといつの間にか
身体を固くして、カブさるような冬空の、あらぬところを凝視している自分を発見するという風だった。
「近頃はニュームが安うなってなァ、
竹柄杓もとんと駄目じゃ……」
店土間の片隅で内職をしている父親が話しかけた。この土地には多い
孟宗竹の根ッこで竹の
柄杓とか
箸とかを作るのだが、
不恰好で重たくてもまだ百姓達の間には売れた。女房に死なれてから、ひどくボケたような父親は、白髪頭に
鉢巻を締めて
皺で小さくなったような人の好い顔をあげて云うのだった。前歯が
殆んどないので「フア、フア」という風にきこえる。「
銓」という両方に握りのついた刃物で竹の皮を削りながら、それが固い節にぶっつかるたびに、枯枝のような腕がしばらくトコロテンのようにふるえていた。
「そッでもこないだは、「三井」から
註文があってなァ――」
「三井?」
大きなことをいうと思ったが、だんだん
訊くと、大牟田にある三井の染料工場から「劇薬」をシャくうのに使うとかで、
別誂えの
註文だったという。――
「ウンととってやればよかった?」
「そうも
不可ンたい、相場があるけンな」
軒の名札に、勲八等鷲尾某と書いてある父親は「日露戦争」の生残りだが、不自由に
胡座をかいている左の足は、弾丸の破片でやられた
痕が、二本の指を失くして紫色に光っていた。小心で馬鹿正直で、その
癖どっか
依怙地な貧農
気質が、血を
享けた鷲尾にはよくわかる。たとえば今朝も鷲尾の女房が気を利かして、初めてみる二人の孫を連れさして、どっかへやったのだが、すぐプリプリ怒って途中から戻ってきた。
「おじいちゃンのバカヤロ……」
ワンワン泣いている上の男の子に
訊ねると、途中でおじいちゃンが殴ったんだと云う。
「どうしたンだい、お
父つぁン?」
と、鷲尾が訊いても、むっつり怒った父親は、土間の仕事場へきて
坐ってしまった。
「大体、東京のガキは生意気じゃ……」
そンな癖、妹と
口喧嘩するときは、きまって、俺ァ東京さん行ってしまう――と怒鳴るのだった。妹と父親はよく鷲尾夫婦の前でも喧嘩したが、そンなとき妹もやぶれかぶれの態度で、はァい、
どこさんでんゆきなはりまッせ――と云い返すのだった。
「兄さん、あの「
益城屋」の坊ッちゃんな、死ンなはりましたばい」
その妹が、何を思い出したかフッとそんなことを云い出した。
「幾田君が、何で?」
「たしか腹膜炎とか
てち、それも永ァ間、………にひっかかって、監獄へ入っとなはったもん――」
鷲尾はギックリして妹の顔をみた。こッちに大嵐があったという事は風の便りにきいていたが最近はまるで知らなかった。幾田君は質屋の
倅で、このまえ帰郷したときも二三度たずねてきたが、文化サークルのメンバーでおとなしい青年だった。
「世間体が悪かてち、葬式もこッそりでしたばい」
「幾田君だけか、F君は?」
「はァ床屋の息子さんなァ、あの人も
一寸引張られなはッたげな」
「それから」
「
ようと知らんたい、まだ新聞にも出ンとだけん」
妹は戸外から馬の鼻づらを引寄せた百姓が、店先に入ってくると面倒くさそうに話を打ち切ってしまった。
鷲尾は
苛らだった顔色で、懐中の子供を揺すぶり歩きながら、裏口の方をセカセカとのぞいてみる。ひくい灰色の雲の中に太陽がかくれてしまうと、足下の陽だまりはすッかり消えうせて、凍りついた地べたをさむざむと風がふいた。
「おい、まだグズグズしてるかァ」
到々我慢しきれぬように、裏口でまだ洗濯の終らない女房へむかってドナリ出すのだった。
鷲尾は帰郷するとすぐ、K警察へハガキを出しておいた。――家庭的用件ノタメ帰省
候間、
此段御届及候也――。
ハガキをポストにいれてしまってから、それが少しも不自然でないのに自分でおどろいた。彼は「合法的人物」で、法律に触れてる訳でもなンでもなかったのだ。しかしそれと入れ違い位に警察の男がやってきた。
「よウ、しばらくだね」
馬糞に汚れた県道筋を、一直線にとんできた自転車は、軒先にたっている鷲尾のまえで輪を描いてとまった。
「こんどは…………という訳かね」
軒先に自転車ごと入りながら、ブラシのような
口鬚と、ブツブツのある肥った顔の四十男は、意地の悪いニヤニヤ笑いをした。
「お
阿母の一周忌だよ、ちゃンと届けたじゃないか」
鷲尾はツイむきになったが、自転車の男は訳のわからぬ
肯き方をしながら、
煙草の火を
点ける間もちらッちらッと、彼の肩越しに家ン中をのぞきこんでいた。
「女房子供づれだから、今度は勘弁してもらいたいな」
だんだん平静を取戻して冗談笑いにしながら云った。
「たかが一小説かきじゃないか、あンまり眼の
仇にするなよ」
「………………」
相手は「ウフン」と笑っただけで、
暫らくどっちも黙って寒い風の中にたっていたが、やがて自転車を向け換えると、その男は苦笑した顔をそっぽむけたままで
呟いた。
「しかし何しろ、君ァこの土地じゃその方の草分だからな」
「………………」
弱腰をガクンと突き戻された形だった。――
自転車の男が帰ってゆくと、懐中の子を女房へ渡して、鷲尾は裏口から
田圃の方へ出た。
己れが
忌々しいような、情ないような気持だった。
冬枯れた田圃はホンのちょッぴり麦の芽があるだけで、
赫ちゃけたひどく荒廃した感じだった。
橋桁の
陥っこった土橋、水が
涸れて河床の浮きあがった小川や、
畦道は霜に崩れて、下駄の歯に
絡らんでひどく歩きにくかった。
こんなとき、近頃神経衰弱のひどくなった彼の
癖で、まるで大急ぎの用件でもある人のようにセカセカと歩く。小川のヘリにカサカサと音をたてているジュズ玉草の枯茎の間から、まだチッ、チッとしか鳴かない
赫ちゃけた土色の
若雲雀がころがるようにとびだしてきても、それに気がついていながら振り返ってみる心の余裕がないのである。
不断に上ずった、とめどない
焦らだった考えを追いながら、その癖もう
シンは疲れきっている感じで、この広い野ッ原のどっかに腰掛ける場所を、休憩する場所を探し歩いている気持だった。そして結局はどこにもそンな場所が見当らない。どの
畦道も崩れ、
河土堤のどの辺も、ちかづいてみればとげとげしく肌を
剥き出し、
空らッ風に
曝らされている、といった工合だった。そしてフッと気がつくと彼は
慌てて口を開けながら――ハァ――と吐息する。それまで何時間も、何十時間も
呼吸をツめていた気がしているのだった。
――君ァこの土地の草分だからな――と云ったさっきの男の言葉が、彼の焦らだった気持をつつきたてた。考えてみれば、この
田圃のある町
(当時村だった)を、運動のために追われてから十四五年にもなるか。その間
鷲尾は実際運動から文化団体へ移っていったりしたが、抜き差しならぬ過去は、こうしてちゃンと現在へ
繋がっていた。――
――東京ではいくらかボカして考えていた「ふるさと」もこうやってみると、今更ながら
嘘ッ八だと
沁々わかる。この野ッ原だッて小川のうねり工合や、田圃の傾斜や、河土堤一めんの
木槿などに、幼少のころの
懐しみと云ったものを、ボンヤリ頭においていたが、鼻ツキ合わしてみれば馬鹿げていた。鷲尾が物心地つく頃には、彼の両親は小作田さえ持たなかったし、彼はいわばこの田圃の「
継子」として育ったようなものだ。小川の魚を
掬っては百姓達に怒鳴りちらされ、
雲雀の巣を探っては、
肥びしゃくで追っかけまわされた。そんな苦々しい思い出ばかりが
湧いてくる。――
「プロレタリアに故郷はない」とかいう、
誰れかの言葉を思い出して鷲尾は苦笑しながら田圃を横切った。百姓家などもまじっている部落は、もう見知らない人ばかりだった。年寄なぞに
偶々見覚えがあって会釈しても、相手はキョトンとした顔をしていた。
片ッ方に
竹籔があって、倒れかかった垣根の内側に、泥壁を
剥き出した
藁屋根の家のまえまでくると、鷲尾は二三度ゆきかえりした。入口には行商でもするらしい
笊に
天秤などがたてかけてあった。
しばらくすると、縁側の方の陽だまりから
頓狂な声がして、坊主頭に汚ない
絣を着た若いような、老人のような男があらわれた。
「バカッ、バカッ……」
懐手して、ずンぐりな男は
頸がねじれているようで、右仰向きに空へむかっては、怖ろしい勢いで、
百舌鳥のような奇声を発するのである。――
「N君、N君……」
鷲尾は帽子を
脱りながら、二三度声をかけてみたが、まったく反応がないのをみると、黙ってそのままたっていた。
この男は三・一五の被告で、
娑婆へ出てきたときは狂人であったが、以前は電車の車掌だった。鷲尾より二三年下の、同じ小学校出で、このひどく変った
容貌をみても、
微かに幼顔が
憶い出せたが、――六七年前、熊本市の市電争議の指導者だった当時の彼の
風貌がどこにあるだろうか……。
「N君……」
こんどは少し大声で呼ぶと、何と感づいたかN君は、何か落し物でもしたように、
足許へ顔を
俯むけてグルグル舞いをするのである。こけた
頬、
涎を流しているしまりのない
顎のあたり、三年まえきたとき見掛けたよりは、グッと衰弱しているのがわかった。
「コラ、コラ……」
家の中から、大きな下駄を突ッかけた六歳ばかりの女の
児が、鼻汁を
啜りあげながら出てきた。そしていきなり品物でも
搬ぶように、狂人の
脊へ両手をあてがうと、グングン家の方へ押しやった。――
「きみ、きみ……」
たぶん妹か、
姪らしい女の
児に声をかけると、
曼珠沙華のように
赫ちゃけた頭髪はくるッと振りむいて、ひどく
憤った顔色で「赤ンベイ」をしてみせた。
きっと鷲尾をだれかと勘違いしたのだろう。狂人はおされてヒョロつきながら、それでもおとなしく家の中へはいってゆくのだった。
鷲尾はまたセカセカと歩き出した。――
鷲尾はどうかすると朝早くから、裏の
田圃に面した風の吹っこむ
室で本を読んだ。堅い社会科学に類する書物で、衰え上ずった頭脳では
却々入りにくかった。それでメチャメチャにアンダーラインを引張ってみたり、それでも駄目だと一つところを何回も何回も大きな声を出して繰り返した。そうしてるうちに次第に心も落ちつき、生米を
噛むような味が出てきて、調子もつき、やがてほのぼのとした明るさになるのだったが、きょうは
却々それでも駄目であった。
昨夜もひどい強迫観念に襲われた。それは誠にツマらない恥ずかしい夢で、彼はそれを他人に話したことはなかったが、ひどいときは夢の中の出来事がマザマザと一日も二日も頭脳にコビリついていた。いまもそれが頭脳の大半を占領していて
却々撃退出来ない。昨夜の夢には昼間きた刑事の顔も加わっていて、ひどく
惨めな敗北的な
己れの姿だった――
そんなとき彼は、全身汗をかいて
蒲団の上に起きあがってしまう。そして薄暗い
闇の底をキョトキョトと
見廻す。芋の子のように転がり眠っている子供達、疲れて正体もなく寝くたびれている女房と赤ン坊……。電気を
点けて深呼吸してみたり、
煙草を
喫ってみたりするが、怖ろしくささえのないような不安で、
到々女房を揺すぶり起すのだった。
「な、なにさ……」
しかし相手は
疲で、語尾はすぐ眠りの中に
嗄れてしまう。――
「また、夢、でも、みたンでしょう――」
そして彼はひとり
闇の中にとりのこされ、
暁方まで
悶々するのだが、不思議なほど
脆くなった心には、自分が過去に書いてきた作品さえが、まるで別人の
仕業のように思われ出してくるのだ。……
やがて夜が明け、人々の間に立ち
雑じると、この病気に対して撃退しようとする積極的な気持に帰れるのであるが、近頃ではそれがヒドくなり、この病気が直接にいまの暗い情勢に関係を持っているのだと気づき始めると怖ろしくなってきて、火がついたように
慌てだすのであった。
この病気の一番の薬は、科学的信念だ。曇らない眼と、逆流に突ったった身構えだ、と思うのだがたとえばいまでもこうして眼だけは活字の上を走っていても、一向に上すべりしてしまうのである。
「ちょッと、だれか呼んでるわよ」
「ど、どこに……」
背後で、子供に乳を含ましている女房に注意されて、そッちの窓外をみると、
田圃の
畔に青く
痩せこけた若者がウロウロしていた。茶っぽい
襟巻と、
脊の丸くなった古トンビを羽織っているので、最初は老人のようにみえたが……。
「何だ、M君じゃないか」
「ええ、
久濶でした……」
ひどく痩せて、ながくなった顔を窓ぎわへおっつけて、M君は微笑したが、すぐ「
一寸」という様子をしてみせて、田圃の方へ離れていった。
鷲尾もマントをひっかけると、裏口から田圃へ出ていって、人目の少ない
土堤で一緒になりながら、それから
麓道を龍田山の方へあるき出した。――
「君ァ、大丈夫だったのかい?」
「は、わしァ去年の夏から、ずッと寝込んどりましたけん……」
M君は標準語と土地言葉をチャンポンにしながら、
自嘲を交ぜたこの土地人らしい
豪傑風なわらい方をした。
彼は東京のH大学の文科にいたころから、演劇サークル員だったが、二年前肺を
悪るくして郷里にかえり、それからずッと文化団体支部員で働いていたのだ。
「大変だったらしいね」
鷲尾が云うと、相手はこけた
頬骨を
尖らせて
遮ぎるように、
「いや、まだポツポツあるンですよ」
と云った。
道々、M君の
昂奮したふるえを帯びた言葉を、とぎれとぎれにきいても、それが………………のだということがわかった。それはまるで………………と云った感じだった。
「もッとも、もう大分出てきた連中も居りますが……」
M君は、風をくらうと、
暫らくは激しく
咳きこんだ。その
癖、どっか家ン中か、
木蔭に入ろうと云っても
諾かなかった。何かに追ッたてられてるように山道をのぼりながら、激してくると
凹んだ眼が
怖えたように光った。
気がつくと、私達はいつの間にか、龍田山の頂上まで来てしまっていた。低い山ではあるが、鷲尾の家から小一里はあったろう。少しばかり平地になったところが小公園風に出来ていて、そこからこの農業都市の、樹木の多い熊本市街がひとめに
展らけていた。
………の多くは名前を云われても、鷲尾の知らない若い人ばかりだったが、知ってるんでもたとえば出るとすぐ病気が重くなって死亡した幾田君や、路頭に迷っているH君の家族の話や
沢山あった。
「そうそう、これが幾田君の処女作ですたい。あなたに読んでくれ
てち、あずかっとりました」
松の根方に腰を下ろして、
呼吸をしずめているM君は、思い出したように古トンビの懐中をガサガサさぐって、小型のチンマリと
綴じこんだ小説原稿をひっぱりだして、鷲尾にわたした。
「処女作の、絶作か…………」
銀行員だった幾田君の青白い坊っちゃん坊ちゃんした顔を
憶いだしながら原稿をめくった。「退屈な町」というのが題名で、
馬糞に汚れた
此町の事をスケッチしたものだが、まだ
稚い作品だった。
M君はささえている
両膝の上に、
痩せた二本の手をダラリとさげ、
喘ぐように口を開けて、足下ばかり凝視していた。まったく
潰滅した「サークル」の模様や、転向していった連中のことを口数少く語って、あとは黙ってしまう。鷲尾が東京の同じような模様を話しても、それに
肯くでもなく、もッと他のことを考えているような暗い顔色だった。
「ま、
落つきたまえ、え?」
「…………」
「こんなときゃ、ツイつまらないことを考えるもンだよ、いやホンとだよ」
鷲尾には、この若者の追いつめられた気持がわかる気がしていた。
「…………、こんどが初めてじゃないんだ。何度もあったもんだよ。――それに君ァ病気じゃないか、落ちついてそれからまず
癒したまえ……」
「え――」
「ぼくらはいつも健康でなくちゃいかん。健康な精神こそ……………判断できるんだ。落ちつきたまえ、ねえ、落ちつきたまえ」
云いながら、フッと気がついてそれは自分自身に納得させているのだと思うと鷲尾は顔が
赫くなった気がした。――
きょうはまるで朝から日射しものぞかせない灰色の冬空がますます低くおりてきて、ふきあげるひどい
空らッ風が、腰かけている赤肌の松の巨木をユサユサと
揺ぶった。
二人は山道を降りかけたが、いくらか元気になったようなM君がこんなことを云った。
「――竹永愛子
てち、知っ
とんなはりますど。ホラ、町の米屋の――」
「竹永愛子?」
鷲尾は
一寸憶い出せなかったが、相手の次の言葉で、思わず足をとめてしまった。
「ああたが奉公しトンなはったげな……」
「ああ、あの米屋の娘……」
愛子と云えば、鷲尾が子供の時分小僧奉公していて、よくおぶって歩いては小便ひっかけられた赤ン坊だった。色白の福々しく
肥っていた
幼な顔だけが記憶に残っていた……。
「それがこんど…………やられましたたい」
「ええあの子が
」
何と云っていいか、急に
身体があつくなった気がして、ヘェ! ヘェ! と幾度も繰りかえした。M君は後になり先になりしながら、彼女は女学校を出るとK電気会社の事務員をしていたことや、もう転向して
娑婆に出ているなどと話した。
「
逢ってみたいな」
「とても家のもンが厳重で、ダメ
でッしゅ」
「そうかな……」
ついウッカリと、古い記憶に
溺れながら坂道を
降っていった。あの小便ひっかけられた赤ン坊が自分の小説を読んだ。そしていまは自分よりもたかい道を歩いている――それはまるで夢のような気がした。
「
一寸?」
フッと気がつくと、先刻からうしろを振り返り振返りしていたM君が、いそいで片ッポの
木蔭に
身体を寄せた。
「なに、………?」
「ええ、どうもそう
らしいが」
成程二十間ばかり離れたうしろの、松の
樹立の間にちらちらしている茶色の帽子と、
襟をたてた黒いオーバーが、顔は見えないが、のぼるときにもたしか背後から歩いていたようだった。――
「じゃ、また会いにゆきます」
「ん、そうしよう」
急に早足になって、二人は
麓ちかくの
小径でわかれた。鷲尾は途中で一度も振返らなかったが、家まできてからまさかと思いながらうしろを見るとハッとした。製材木置場に半身かくした黒いオーバーは何気ない風でこっちを注視しているのだった。まだ若い丸顔の下品な
鰐口が、こんどはこっちからもよくみえた。
鷲尾は帰郷してこのかた、
二タ月も以前からプランをたてていた小説に何度もとりかかった。子供達を寝かしてから
室の隅に電灯をおろして、指先まで凍えながら幾晩も座ったが、どうしても駄目だった。油気のない文章の中に
泛びあがる人間は生気も熱情もなかった。そしてどどのつまりはそれが作者である自分の態度にあるんだ、この
フラついている気持にあるんだと気がつくと、もう壁にぶっつかったようにペンを
鷲づかみにして、原稿紙をピリピリさせながら――この
臆病者、
卑怯者、子供にも親にもひかれるこの
偽者め――などと殴り書きした。
その
癖もうすぐ気が
滅入り、M君がきた翌日などは、終日戸外へも出なかった。いつもの伝で、…………………書物や原稿紙まで始末してから、軒先の
陽だまりにボンヤリ腰かけていた。
どっかで演習でもあるのか、朝からひっきりなしに兵隊が、県道筋を百姓部落のある方へ通っていった。みんな頭から緑と黄のだんだん染の網を
冠って、二人、三人ずつで機関銃をかついでいた。
背嚢、弾薬帯、短剣、小銃、黄色い鉄帽、その他鷲尾が知らぬようなものを背嚢わきにくくりつけていて、近頃の歩兵は歩くだけでも大変だと思われるほどだった。
腰から下は
濛々と舞いあがる
埃にかくして、歩兵の一群が過ぎると、間もなく
輜重兵の隊列が、重い弾薬車の
軌りで町並の家々をゆすぶりながら通った。馬は湯気の様な息を吐き、兵隊達はもう水を浴びたように汗に
濡れている。激しい怒声がきこえて、
そく足の伝令騎が泡を
噛んで一散に
駈けすぎる。……
そンなとき鷲尾は思わず
呼吸をつめていた。威迫されるような光景に、
吾れ知らず懐中の赤ン坊を抱きしめているのである。――
白い埃の渦がしだいに遠のき、だいぶおくれて、指揮官らしい三四人の……が、しずかに馬の上で揺れながら、笑い声をひびかして通りすぎると、いままで軒先や、
道傍に避けていた荷馬車や、百姓達がホッとしたようにうごき出した。
「あれは何だい?」
うしろの団子焼の
釜の上から首を出している妹に、鷲尾は
訊いた。リヤカーに白米を積んだのや、
天秤でつっかけた
笊に、味噌とか野菜とかを入れた百姓女達、中には赤いネルの腰巻をたらした娘なぞも
雑じって、毎朝のように群をなして通る。
「ありゃああた、町ィ売りい出らすとたい。このごろはどうして、
よか百姓でん現金な無かとだもん……」
よか百姓でない貧農の女房たちは、売る物もないせいか、
ヨイトマケなどに働きにゆく群が、夕方などは鷲尾の家の軒先に、泣き声を
嗄らした
脊の赤ン坊を揺すぶり揺すぶり近よってきて、赤銭の一枚か二枚かで団子を買って赤ン坊を黙らせ、暗くなった県道筋を帰ってゆくのだった。
県道筋に沿うた
土堤上を、鷲尾の末弟たちが勤めている郊外電車が、一時間おき位に通った。
塗の
剥げた
赫ちゃけた電車はグラグラ揺れながら、いつも
空らッぽであった。鷲尾が軒先にいると、車掌台からまるくて寒さで赤らんだ弟の顔がツン出て、オーイと叫びながら弁当箱のあいたのを、
道傍へ
抛り出してゆくことがあった。
そして
空らッぽの電車をやりすごし、やりすごし、赤
錆びた枕木の上を百姓達が歩いていた。
草鞋ばきの古トンビや、市の学校へゆく学生や、大きな風呂敷を
脊負った行商人たちや、そんなのがウルさそうに電車を見送ってはあるいていた。
「この不景気は、ナカナカなおる見込みがないんだね……」
夜、めずらしく大工の妹婿が早く帰ってきたので、父親をまじえて酒をのみながら鷲尾はそンなことを
喋べりだした。
「第一、世界の資本主義国の
何処見渡したッて、景気が回復する材料がないそうだよ」
「はァ、そぎァんですかな……」
一二杯でもう眼をトロンとさせている大工は、さされた
盃を不器用に大きな
掌をそろえて受取りながら、間の抜けた
返辞をした。
鷲尾はいろいろと酒の
勢も加わって、社会情勢や、近頃の出来事について語った。こんなとき自分の理解を、聴き手の知識程度まで調節して話すことに
馴れている鷲尾であったが、今夜はひどく主観的に相手構わず
喋べっていた。判るのか判らんのか、それでもいつもは飯が終るとすぐ眠りこけてしまう大工も、それから冷えた盃をポツネンと抱えている父親も、ボンヤリ口を開けたまま彼の顔を眺めていた。
「そういった時勢だからみんな苦しい。ぼくらのような一小説書きでもそれが労働者の立場にたっていると、
却々ラクでない、これからも
益々ひどくなるだろう――」
いつの間にか、対社会的な話が、自分個人におちていったのが、鷲尾には別に作為があった訳ではなかった。
「おやじの事だって、長男であるぼくとしてはしょッちゅう気にかかっているし、君達におっつけておいて、それでいい気でいる訳じゃ毛頭ないんだが……」
傍で、むっつりとめしを喰っていた妹が、そのときガタンと飯びつの
蓋をして、台所の方へ起っていったのを、鷲尾は酔ってる頭にピンと感じたが黙っていた。
「いや、わしらにゃ
恰度子供も出来まッせんけん、なんのおとっつぁん一人くらい……」
人の好い大工は、べつにとりなし顔でもなくそう鷲尾に云った。
「
義兄さんは学者じゃけん、まァ一つ兄弟じゅうば代表して名前ばあげて下はりまッせ」
「ありがとう――」
鷲尾は苦笑どころでなく、あらたまった気持で盃をもらいながらこたえた。
「いいとも、ぼくが君たちを代表してそのゥ、名前ばあげるよ」
しかし父親はポツンと
淋しそうに肩をすぼめていた。こんなときの
癖で、
反向けた顔のどッかをボンヤリと見つめているのが、まるで子供のようだった。鷲尾は何かハグらかすようなことでも云わずに居られない気がした。
「それにネお父っつぁン、なかなか老人は東京に居つかないんだよ」
皺くちゃな横顔を追いながら、そんな事実を
憶い出しながら云った。
「金持の家じゃべつだけれど、貧乏人の工場町じゃ青い草一本ロクに育たないんだ。家と家とがくっつき合って、太陽のめもささんし、老人の
茶呑話なンてしたくも出来ァしねえ――」
「はァい、そうでッしゅなァ」
傍から、妹婿が
合槌うった。鷲尾は工場時代からの友達、KやMなどの実例を話した。Kは印刷工で、田舎の兄弟が死んでしまったために、
年老った両親を東京へひきとったが、眼のうすい父親も、耳の遠くなった母親も、半年も
経たぬうちに田舎の土を恋しがりはじめ、それでも
倅のKに怒りつけられれば
悄々と、近所の省線電車の
土堤などから雑草をぬいてきては、軒先三尺の路地口へそれを植えて、陽のめのささぬ
廂ごしに、見えない太陽を振り仰いでいるんだと、Kはいつだったか鷲尾に眼鏡をはずして涙をぬぐいながら語ったのだった。――
「実際、そんなこたァ東京の工場町じゃザラなんだ。田舎が何とかしてるうちぁ貧乏人の年寄ァ東京に来ない、ホンとだよお父っつぁん――」
鷲尾は父親のおこられてでもいるようにしだいに
俯むく顔をのぞきながら
「若い者ァ東京だってすぐ育つ、プロレタリアになれるからなんだ。けれど骨の
髄まで百姓の年寄ぁダメなんだよ」
老人はクスンと鼻を一つこすっただけで、
矢張り何とも云わなかった。勢いあまって
喋べってしまったものの、鷲尾はとっつきないような気持で
盃をとりあげたが、酒はすっかり冷えていて
ニガかった。
気がつくとまたすっかり気持が上ずっていて、
醒めかかった頭脳がズキズキしていた。妹婿は昼間の
疲で、飯台に
凭れたまま眠ってるし、鷲尾はいつものように台所へいって水枕をつくると、子供たちの
傍にいって横になったが、とても寝つけそうでなかった。――
襖の破けたとなりの
室では、亡母の
位牌に灯明をあげたらしく、黄色い光が
洩れて、やがてチーンと鐘が二つばかり鳴ると、父親の「お題目」を唱える
嗄がれた声がきこえてきた。――
おっかぶさるような冬空が毎日つづいた。頭は
鉄兜をかぶっているようで、ささえのない下ッ腹は絶えず何かに追ッかけられてるように、トカ、トカと
喘えいでいるのだった。さむい家ン中にも落ちつけず、
田圃の方へ飛び出してゆくが、どの
畦道も
土堤道もすぐゆきづまりになって、三十分もすると何か忘れ物でもしたように
慌てて帰ってくる。この南九州の特徴で、東京のように寒くはなかったが、大陸的な気候の変化が激しかった。
徴かに
[#「徴かに」はママ]陽ざしが
洩れてるかと思うと、もうまたたくうちに野づら一めん真ッ暗になってしまう。丘陵のような山脈の遠くから激しく移動する灰色の雲と一緒に、湿気をもった
空らッ風が
轟々と
唸をあげて襲ってくるのだった。
「オイ、
灸をすえてくれ……」
縁ばなへきて
双肌ぬぎになると、いつものように台所から
濡れ手を
拭き拭き女房があがってくる。
「いったい、いつ頃まで滞在するの?」
彼女は線香の火をかざしながら、亭主の顔色をみいみい不平を
愬えるが、鷲尾はけんめいに下ッ腹に力をいれ眼をつぶっているのだ。
「ちゃんと食費まで入れてるのにさ、まるで食客みたいにツンツンされるンだもの、たとえ
乞食したってまだ東京の方がいいわ」
「…………」
「ゆんべも○○さん
(妹)が、毎日米が三升ずつも減るッて、大声で怒鳴っていたのよ」
「
あッちち……、もう
止せ」
鷲尾はまた戸外へ出た。しかし会いたい人達のところへもウッカリ出かけてゆかれず、こんどの帰省には訪ねてくる人もパッタリという程少ない。非常に狭い世間だった。――
終日、
肥汲車や荷馬車のゴトゴトとひびいている退屈な町、
馬糞に汚れた一本筋の町を、一日に二三度は往復した。町並はひどく
不揃いで、ここでも不景気が
剥き出しにあらわれていた。大きな穀物問屋の白壁に「売家」の
貼紙が雨風に
曝されて黄色くなっていたり、鷲尾がまだ土地にいた頃は
旺んだった時計屋の看板が、
傾むいて軒と一緒に倒れかかっていたりした。町の中程にある「竹永米屋」も、彼が小僧していた頃の
面影はなくて、土蔵の壁は落ち、低い軒先にシオたれた
暖簾の文字が読めないほど古ぼけていた。鷲尾はゆきかえりに店先をのぞくのだが、しかしそれらしい娘の姿は見出すことが出来なかった。
「オイF、おれだよ……」
赤いペンキで「○○理髪店」と書いてある
硝子戸に顔をくっつけて中をのぞくと、彼と同年ぐらいの、白い仕事着を
被た男が、読んでいる
将棋の本ごしに
億劫そうにこっちをみたが、やっと判ると「おう」と云った。
「寒かね……」
内部へ入るとFは、いつ帰って来たかとも、
暫らくだったとも云わなかった。職業に似合わないヒゲづらの、
物憂そうな眼で、鷲尾を
一瞥したきり、あとは黙ってしまった。
Fは元来、鷲尾と小学時代からの友達で、古いトルストイアンから転向してきた男だった。いつも先頭に起つようなことはなかったが、この虚無的な変りようには
駭かずにはいられなかった。口の重い、どっか
己れまで棄てきったようなもともとの性格が、ヒヤリとするほど
鋒鋩をあらわしている。
「君もやられたというじゃないか?」
「うふん……」
ツマらないという風に苦笑して、あとは黙ってしまう。鷲尾が様子をきいても、「さァ」とか「ウン」とかいうだけで、すぐ将棋の本と一緒にうしろへヒックリかえるのだった。
「景気はどうだい?」
「
ようなか……」
店先にはスリッパがひっくりかえっていて、古い型の
塗の
剥げた鏡が、曇ったように鈍く光っていた。体格のいい、在の人らしい妻君がお茶をもってくると、Fはゴロリと起きあがりながら、眠そうな眼を二つ三つまたたくと、突然他人事のように云った。
「Oは国家社会主義になったげなばい」
「Oが
」
鷲尾が驚いて相手をみると、Fはワッハハと笑い出した。
「こないだ○○町で
逢うたらば、ホラ
侠客の『○○天山』の新聞で働いとるげな
てち――、その言うこつがええたい、こんどはぬしどんが四の五の言うなら
叩ッ
斬ってしまうちゅうけんな、おッそろしか――」
Fは止め度なくゲラゲラ笑いしながら、そのとき店先に客の顔がのぞくと、渋々と
身体を起しかけた。
「君のみたところで、こッちは今後どうなりそうかね、え?」
低声できくと相手は、白い上ッ張りの
紐をのろのろと結びながら、無感動な調子の大きな声で答えるのだった。
「さァ、どぎァんなるかな、俺達にゃァさっぱりわからんたい」
そしてあとはもう忘れたように、客と二人で世間話を始めているのだった。――
戸外へ出たが、いまに
霙でも降ってきそうな空模様であった。軒下をあるきながら竹永米屋の前まで来ると、でッぷりした赤ら顔の、
禿げのこりの白髪頭を仰向けて、空を
睨めあげていた親父がフッとこっちを向いた。
「親方さんですか、しばらく……」
昔の
業つくな主人に会うのは、やっぱりいい気持ではなかった。禿げ頭は
面喰ったように
慌てて頭をさげ、ジロジロと見あげ見おろしていたが、気がついたように
頓狂な声をだした。
「あれェ、和吉じゃにゃァか!」
親爺は二十年もまえの調子で呼び
棄ててから、三角な小さい眼がかくれるほど
皺を寄せた。
「ぬしゃァ、東京へ行っとるげなが? ふゥン、あっちア景気アよかどだい」
「なンのああた、同じこッてすばい」
ツイ鷲尾も田舎言葉になりながら、店先へ入っていった。穀類や、雑貨やをゴタゴタとならべてあって、帳場には昔のままの
小格子が黒く光っていた。
「親方も、元気でよかですな」
「いんにゃ、もう昔のごつぁにゃたい」
きかん気の
業突の親爺は、相変らず
尻端ょりで、話の合間ちょくちょくたっては小僧を
叱りちらしている。土間の暗いところで
糠を浴びた
印半纏の男たちが、鷲尾の昔と同じように働いていた。そんな様子をグルグル
見廻しながら、そっと帳場格子の向うをみると、二十二三の
痩形の、文金だか島田だかに
結っている娘がお針をしているのだが、どうも見当がつかなかった。
「愛子、お茶もってきなはり……」
親爺が呼ぶと、
件の娘がたちあがって不愛想なものごしで、茶盆をかかえてきた。
「ヘェ、
あァちゃんですか?」
少し顔を
反向けている娘をみて、鷲尾は思わすジロジロとみつめた。福々しい
幼顔はどこにも残って居らず、骨太にすくすくとのびた娘だった。青白い
頤の角ばりや、メリンスの羽織を着ている肩の
削げたあたりに、どっかただごとでなかったような、暗いとげとげしさが残っているのをすぐ感じながら……。
「大きゅうなりましたなァ、ほんとに――」
そんな言葉が自然に出た。
「なァンのぬし、
年齢ばかり
おッとって――、昨年なァ
得知れンこつば
仕出来ゃァたもンだけん……」
「はァ?」
「もう早う、嫁れッちまわンと安心されん
ばい」
「ヘェ、お嫁にゆくんですか」
鷲尾は何だか知らぬ風に装いながら、ちらッちらッと娘の方をみた。
反ッぽむいて脇の下に両手を突っこんだまま、彼女はボンヤリとどっかをみつめているのだった。――
親方は姉娘には、もう二人も孫が出来ていて、お内儀さんはしょッちゅうそッちに行っていることや東京にも……ちゅウのがあるかとか、そんな話をしながらも、たえず忙しそうに
米搗場の方へたっていった。
「ぼく、鷲尾和吉ですよ!」
隙をみてそういうと、ハッと気づいたらしい娘の顔がこっちを振り向いた。
親爺似の白い
頬の上に小さくきれた眼が傷ましいほどオドオドし、瞬間のうちに紅潮していったが、重たそうな頭髪をだんだん
俯むけてしまった。――
「電気会社にいたそうですね」
「ええ…………」
「大変だったですね」
娘は前掛のはしを
弄くりながら低声で
肯ずいたが、そこへ戻ってくると、くるッと向うむきに起ってしまった。
「ぬしゃァ東京で何ばしとるか?」
「はァい、職工ですたい」
鷲尾はいい加減な
返辞をしながら、もう一言娘に云いたい機会をネラっていたが、最初は小格子の
蔭にうずくまり、次には奥の
佛壇の
傍で向うむきのまま
佇んでいたのが、やがて荒っぽい足音がきこえると、縁側から二階の
梯子段へむかっていたたまれぬように
駈けあがってゆく後姿が見えた。――
番傘を借りて出たが、もう
霙はやんでいて、凍りついた地べたに
霰が
仄白く残っていた。裏通に出て
田圃道を近道しながら、娘はきっとあのまま泣き崩れているに違いないなどと考えた。
県道筋に沿うたまばらな人家には点々と灯がみえ始めて、もう
足許も暗かった。野づら一めんを
轟轟と
唸っている風をまともに浴びると、
呼吸が
塞りそうだった。暗灰色の夕空、濃い
闇につつまれてゆく野ッ原――、何もかも窒息させられてしまい、この
凄惨な景色のどこに「春」が
潜んでいるなどと考えられようか
鷲尾は急に東京へ帰りたくなった。もう
呼吸が塞りそうで、たった一ン日もいたたまらない気がしだしたのだった。
――まったく、つむじ風に
揉まれている木葉のような気がした。片足でケンケンしているような危なッかしさに、自分自身に腹たてながら、その
癖、昨日たてたプランも今日は
跡方もなく見失ってしまう。あたふたと東京から逃げ戻ってきて、いまはまた時計の振子のように、何の解決もアテもなく舞い戻ってゆく気持だった。
亡母の一周忌も半月繰上げて、ホンの型だけ済ませ、ガラクタな手荷物などを
纏めたが、出発の前日になって上の男の子が
猩紅熱に
罹ってしまった。
三四日前から風邪をひいていた子供に、売薬をアテがって、出発の日までにはいつものようにケロリト
癒ると思っていたのが、三日めごろから熱が急にたかくなって、手足から首へかけて紅い
斑点がいっぱいにふき出してきた。「真正」だと判断した町の医者に、
避病舎に入院を命ぜられると、女房はまるで間の悪さの全部が子供のせいででもあるように口汚なく
罵しるのだった。――
「バカヤロが、とんでもない病気をツカまえてきやがって……」
龍田
山麓にある、廃屋のような避病舎へ、
蒲団やバケツなどリヤカーにつんで、鷲尾が
附添っていった。
藁のハミ出した畳、泥壁のくずれ落ちたとこから笹の葉がのぞいている汚ない
室に
倅をねかして、鷲尾は毎日、家の者がハコんでくれる弁当と新聞だけ読んでいると、ちょうど留置場に入ってるときのような気持になるのだった。
子供はしだいに
痩せ細って、便器にかかえていても、その手ごたえでもわかったが、十日めごろから、
紅い斑点が少しずつとれていって、しなびた皮膚が粉のように一めんに
剥げ始めてきた。
「お父ちゃン……」
ある夜中に、鷲尾は病人に
喚び
醒されてガバと起きあがった。全身汗をかいていて、怖ろしくマザマザした夢が、まだ眼先にチラついていた。
「おしッこだよウ……」
「よし、よし」
鷲尾は倅の
凹んだたよりなげなウツロな眼や、でッかちになった頭などを、まるで夢心地でシゲシゲと
凝つめながらやっと抱えあげた。便器に黄色い小便を少したらした子供は、寝床にねかすと白くカサカサな唇を開いて、「お湯ウ」と云った。
「もういいか?」
匙ですくってやるのを、金魚のようにパクパク吸いながら、病人は「ウン」と首をうごかした。
「ボク
癒ったら、東京へ帰るんだねェ」
「ああ、だから早く
癒るンだよ」
毛布をかけてやると、子供はおとなしくだまり、ウッスラと眼を閉じていた。青く
萎びた
頤や、
微かな呼吸ごとに
ヒクついている
痩せた小鼻のあたりを、じッとみているうちに、急に寒さを感じて、鷲尾はあわててドテラをひっかけた。
もう眠る気はしなかった。消えかかった火鉢に炭火を
オコしながら、ときどきガタガタと軒を揺すぶる風の音や、近くの部落あたりかららしい
二番鶏の声をきいていた。――
……それはたしか、郷里の
田圃のようでもあれば、東京郊外のNあたりの原ッぱでもある景色だった。夕方のように暗くて、風が
轟々と
唸っているのだ。自分の前方を仲間の作家が現在は獄中にいる
筈のNやTや、それから去年から……………Kなどが歩いている後姿だけが見える。自分は
夫に追ッつかなければならぬと考えているのだが、風が激しくてどうにも
駈けられない。モガいてもモガいても足は同じところを堂々めぐりしているのだ。気がつくと仲間達の姿はどこにも見えず、広い原ッパに自分一人だけが取り残されていた。――オーイ――とはるか遠くから誰かが呼んでいる。「オーイ」と呼び返すが、先方の声はだんだん遠くなってしまい、
四辺にはいつの間にか
犇々と、おそろしい牛とか馬とかの顔をした人間の群が自分を取り
捲いている。その人間の顔は鷲尾が子供のころ、よくお寺で見かけた「地獄の絵」にある鬼共と同じだった。――オーイ、子供なンか
棄てッちまえ――とだれかが呼んでいる。彼はそうしようと思う。そして子供の手を突離して駈け出そうとする、が
可怪しなことに死んだ
筈の
痩せ青ざめた子供達が、彼の先へ先へとコロがって
足許を
塞いでしまう。上の男の子のゴム長靴を
穿いた足や、三番めの女の
児のお
襁褓をあてた
蜘蛛のような尻ッぺたやが、風にふかれる紙片のように、コロコロところがってゆく――。そンな夢だった。
ツマらない眠気から覚めようと、鷲尾は自分の頭をコツコツたたいたり、白湯を二三杯のんでみたりした。そして家から持ってきた書物を二三頁めくってみたが、てンで眼にも頭にも
馴染んで来なかった。病人はまた
咽喉でも渇くのかカサカサの唇を無意識にパクパクうごかしているのが見えた……。
「どうだ?
臆病者……」
だれかが
耳許でささやいている。
「親や子供があるのは、お前一人じゃないぞ」
「それはわかっている……」
も一人のだれかが、苦しそうに答える。
「決心つかないか、どうだ
」
「…………」
坐ったまま
三番鶏も四番鶏もきいた。火鉢の炭が白い粉になって、最後の小さい赤い火がポッツリ消えるのも見ていた。風が少しずつ静かになっていって薄明るい
暁方の光が、泥壁の破れめから
射しこんできても、鷲尾は坐ったまま、まだあらぬところを
凝視めていた。――
「オーイ、兄さん……」
気がつくと、もう黄色い
朝暾を
脊に浴びた末弟の虎吉が、若々しい声と一緒にニコニコした
円顔を窓からのぞかせていた。
「弁当持ってきたばいた……」
入口がめっからぬらしく、少年車掌の制服を着た若者は、エイと
掛声しながら窓から入ってきた。
「どうしたンだ、今日は?」
はじめて弁当をもってきた末弟は、いつも
嬉しそうにしている顔をよけいニコニコさせて、兄貴のまえにまるい
膝を
揃えて坐った。
「公休たい、月に一度の公休たい」
………哀れなるかな少年車掌――と、おしまいの方は
唄のように云って弁当箱をカチャッとおいてちょッとも哀れそうでない笑い声をたてた。病人の顔をのぞいて話しかけたり、
綻びたズボンのポケットから「絵本」を出してくれたり、汚ない
室ン中が、急にパッと明るくなッてしまって、鷲尾の
面喰った気持はキョトキョトしていた。
「そりゃ気の毒だった、めしはも少しあとでもよかったのに……」
そういうと
弾ずんだ声が、くるッとふりむいた。――
「
冗談ば云いなはりますな、公休日に寝とられるもンかいた」
「あッはは、そうか、そうか」
工場時代の自分を思い出して鷲尾も笑った。
「きょうは正午まで講義録読んで、それから床屋へいって、風呂にいって、活動写真ばみて……」
低い鼻と、
膨れた赤い
頬っぺたをもった若者は、五本の指で足りずにモ一つの
掌をひろげて数えたてたが、またフイと云い出した。
「あの、『ロシアの五ヶ年計画』ば聴かしてくだはり、わしどんが仲間で、そのこつで
モメとったい」
「何だ。モメとるとは?」
弟は彼ら仲間の共済会で、この事で一方は新聞記事的な……と、一方はそうでないのとが対立していることを話した。彼はその共済会の少年部の幹事だった。鷲尾が知ってるだけの材料で話し終る間若者は熱心に破けたズボンの穴を
弄くりまわしながら、
鳩のように丸い眼をクルクルさして聴いていたが、
執拗い程質問を繰りかえした
揚句、「よウし」と云った。
「見とれ、明日は
あやつどんばたたきつけてやるけん――」
この若者には少しも屈託がなかった。いま非常に調子のたかい、こんど出来たという第××団の軍歌を
唄ってるかと思うと、非常にハッキリした階級的なことを話す。鷲尾が内心
駭いてるのは、この若者には
一寸も左翼
がったところがないこと、ちょっとも不自然でないことだった。その
癖何でも知っている。兄貴に
訊かれれば非常に明確に自分達の勤務状態などについて、たとえばダイヤが非常に強化されたこと、自分は五年も勤続して既に少年ではないのだが、依然として七拾銭の賃銀であること、近頃では交代が少なくなったので一ン
日に一度は、弁当を車掌台に突ったったまま食わなければならぬこと等や、また土地で起った……………についてもびっくりするほどよく知っていた。
「それで、そんなにヒドくて、お前達の共済会は黙っとるのかい?」
というと、弟はわるびれずに
「はァい、黙っとる」
と答えた。「電気学講義録」がポケットから
喰み出している制服オウバアの
襟の中で、茶っポい
一重瞼の眼がノンキそうにまたたいているのだ。
彼は不思議な気がした。こいつもいい加減のおッちょこちょいかも知れんと思った。しかし
訊ねれば、びっくりする程批判的に答えるのである。たとえば彼らの共済会に入ってる従業員は、その五割までがフラフラで、二割は反動、更に二割が世の中が
厭になったニヒリスト、あとの一割が積極的でないまでにも
真面目な分子だという風に答えた。その一割も従業員では勢力のない若者ばかりだと。その批判は
冷酷な程客観的だが、しかもこの若者自身にはちょッとも悲観的なところがなかった。
癪にさわるほどノンビリしていると思われた。
「でも、ボンヤリしてりゃ
益々真面目な分子は減ってゆくじゃないか?」
鷲尾が畳みかけると、
微笑っている無邪気そうな眼の中を、おそろしく
老せたものが一瞬キラリとよぎったと思われた。
「ばッてんが、負ける戦争は出来んもン……」
鷲尾はハッとした。何か虚を
衝かれたように
慌てだしながら、ノメるような勢いで、
「闘わんさきに勝負がわかるか、犠牲をおそれて戦争ができるか――」
彼は性急にマクしたてた。心底ではしだいにフラつき出したが、自分の言葉に激して、客観的な情勢や、
沢山の悲壮な犠牲者などを並べあげていったが、相手の顔がキョトンとした当惑から、
到々崩れて笑い声をあげてしまったとき、鷲尾はモンドリうつように言葉がつまってしまった。――
「そぎゃン無理なこつば云うたッちゃァ……」
「無理?」
相手の笑い声がつづけばつづく程、鷲尾は慌てた。その慌てかたは
益々つよくなっていって何かじッとしていられなくなってきた。少年車掌はいくらかテレ臭そうに坊主頭を
掻いているのだが、その様子にはどっかテコでも動かぬものが隠されていて、鷲尾は到々立ち上ってしまった。――
「ちょッ、ちょッと散歩して来るから頼むぞ」
「はァい、よかたい」
出口にある下駄がどうしてもうまく突っかからないほど鷲尾は慌てていた。「無理? とは何だ、無理とは?」
窓外へ出ると、子供に絵本を読んできかせている虎吉の若々しい声がきこえてきた。――そこで、
のらくら上等兵は……。
何という図太さだ! 何という「働く者」の図太さだ
黄色い
朝暾のなかに音をたてて崩れてゆく
足許の
霜柱をみつめながら、鷲尾は
呆然とたちすくんでしまった。――
上の男の子が退院すると、すぐ鷲尾一家は東京へ出発した。混んでいる三等車の片隅に女房や子供達を腰掛させると鷲尾は
殆ど立ちッ通しだった。まだ予後が充分でない男の子は、大儀そうに
痩せた
脛を腰掛からブラさげていた。
「じゃお
壮健で……、アバヨ、アバヨだ」
荷物を車内まで
担ぎこんでくれたりした虎吉は、汽車が動き出すまで、
円い笑顔を窓口から
覗かして子供達とフザけていた。父親は少し離れたところで、ボンヤリたっていた。
「おとっつぁン、じゃ……」
鷲尾が首をのぞかすと、「ハ、ハイ」と慌てたように一二歩前へ出てきて、キョトンと見つめた……鷲尾は
一寸言葉がめっからなかった。恐らくはこんなにヒドく
呆けた父親ともこれが最後の別れであろうと思ったが、べつに悲しいなどという気も起らなかった。鷲尾も間の悪そうな眼をまたたかせ、父親はポカンと口を開けたままで、汽車は動き出したのだった――。
九州線の折尾駅あたりではもう暗くなった。日暮れ頃には必ずむずがり始める子供達を
叱りつけながら、四番めを妊娠している女房は、汽車酔が出たのか青い顔して、三番めの子に乳をふくませていた。
「のんきに書くよ、子供も育てるさ――」
鷲尾は何度もこんな言葉を繰りかえした。――俺のような小胆者でも、俺ァ俺なりの使い道があろうじゃないか、なァおい――。
そして彼の
著るしくめだつ白髪や、険しく
尖った
頬のまわりに、雲間をのぞくような
一沫[#ルビの「いちまち」はママ]の明るい笑いが
洩れるのを女房はわかったような、わからないような顔色で見つめるのだった。
「Kや、Mや、K・Tなどは
勿論えらい、しかし俺だって
棄てたもンじゃないぞ」
「…………?」
腰掛の間の汚れたところへ新聞紙を敷いて座っている鷲尾は、大工の妹婿が
餞別した
小瓶の酒を飲みながら、
独り合点に
喋べった。彼の過去にある
沢山の経験を思い出しながら、一ツの労働組合の経営が一ツの争議が、どんな風に行われるかを女房に語った。いろんな種類の人間が、その特徴を
渾然と発揮した場合だけ勝利が可能だったことなど……。
「労働者の
癖にいつの間にか、俺も観念論者になってたよ、
冗談じゃねえ、老いたりと
雖も鷲尾和吉これからなんだぜ」
汽車が門司につくと、女房は一人おぶって二人を両手にひき、鷲尾は三つも四つもあるこまかい手荷物を赤帽のようにかついで
桟橋を渡っていった。
巨きな箱のような連絡船が動き出すと、もうすぐ向うに、下関のながいホームや暗い建物が見え出した。潮流の激しい海峡は黒い波の逆まいているのが、
巨きな箱の揺れ加減でも、じかに
身体に感じた。十四五年前故郷を追われて出京するとき、初めてここを渡った当時のことが
憶い出された。
絣の
単衣一枚に、二日分の握飯を腰へ
結えつけた田舎青年は、このデッキの
欄干にツカまって…………
唄ったものだが。
対岸のホームに降りると、「朝鮮・釜山行」の札のある改札口には……………………………………………………起立していた。暗い待合所のあたりには、そこに一団、ここに一団、故郷を出てきたばかりらしい…………………………おしかたまっていた。
冠みたいな帽子をかぶった髪の長い男や、桃色の美しい
裳を旅疲れたように
よれよれにしている若い女などが、荷物に腰かけてバナナを喰ったりしていた。
ホームの反対側から、汽車を降りてきたらしい……の一群がすれちがった。みんな防寒用の
外套を着て、重々しい歩調だった。………低い声で、
平常て……などにみるあンな軽い
溌溂さのないのが、
スクむような感じだった。
この連絡駅は、いつも
刺々しく緊張していた。東京行の列車がはるか向うに見えて三四丁もあるホームには、見送りの群衆の鼻ッ先に、一群の男達が無遠慮に旅客達をニラめていた。中折帽の
庇下からチラチラ光っている無感動な冷たい眼や、鉄柱の
蔭で一人一人に薄笑いを浴びせている若いモダンボーイ風のや……。
ホームの
半程から、鷲尾も先を争う人々に
雑って、赤く力みながら
駈け出したが、ひょッと横合から出て来た男に肩をツカまれてひっくり返りそうになった。――
「きみ、きみ――
何処へ行くんですか」
「東、東京です」
ギックリして、声を
嗄れさせながら、鷲尾は自分のネクタイが歪み、ズリ落ちそうな帽子の下から、
蓬々の頭髪がハミ出してるのに
慌てて気がついた。
「東京は
何処だネ、職業は?」
一々答えながら、はァはァ駈けて来る女房を手招きすると、例の男は安心したのか、質問を途中で打ち切って、向うへ去った。
「怖いわね……」
「……………」
女房はオビえたような顔色で、汽車が無事に動き出してからも幾度も繰りかえした。鷲尾はいつの間にかさっきの明るさを失い、また軽くも返事出来なくなっている自分を発見したが、
却々簡単にナオらなかった。
闇を
衝いて
疾走っている三等急行は、非常に動揺が激しかった。女房は
到々三番めの子を腰掛に
抛り出し、真ッ青な紙のような顔をして窓口にしがみついていた。鷲尾は赤ン坊を抱いたり、一人一人を右左にぶっつかりながら、便所へ連れてッてやったり、停車場
毎に駈け出していって水を汲んできたり、おまけに子供達をねかすと、自分は赤ン坊を抱いたまま突ったっていなければならなかった。
何のへんだか、何時頃だか判らなかった。汽車は無限に
疾走ってるようで、いつ夜明が来るとも思われないようだった。ひどく疲れて、軽石のように
ボサけた頭脳は、ハッとした瞬間、
眩暈でのめりそうになってきた。「俺まで倒れたら大変だ!」フッとそんな気が起ってくると、鷲尾は眠ってる上の男の子を揺すぶり起して、
遮二無二赤ン坊を背に結びつけてやった。男の子はヒョロけて倒れかかるとその
度に赤ン坊の泣声がたかくなった。
新聞紙も敷かず板の間に
坐ってしまうと、両手で顔を
蔽うて眼をツブった。「休まなくては
不可ない、俺が倒れてはならぬ」そンな
切ッ
端つまった気持だった。――そして
何故かそンとき、フッとある光景がツブった眼前にあらわれてきた。それは昨年の七月二日に、日本消費組合連合会が「消費組合デー」をやったとき、鷲尾も参加した芝浦の工場街で「原価販売」の売場の場景だった。赤ン坊をおぶったある…………が、両方に二三人の子供を連れていたが、五銭玉と引換えに一袋の
餡パンをツカむと、イキナリ自分の口へもっていったその顔! 泣き叫ぶ背の子や、両手に
争って
獅がみつく子供達を振りもぎって、まず自分の口へもっていったその顔! 頭髪は乱れ、眼は血走り、黄色い歯を
剥き出してパンに
噛みついているその
醜い激しい顔
――それが
とっくりと判った気がした。
赤ン坊の泣声や、男の子の叫びたてる声が、断続的に遠く近く、またはるかに遠くきこえていた……。
「父ちゃん――」
フッと、うつろな眠りから
醒めると、眼の前の腕木に
凭れて、男の子のションボリした顔がのぞいていた。
「赤ン坊はどうした?」
男の子は、隣の腰掛に、赤ン坊を抱いていてくれる田舎風の婆さんを指さしてみせた。鷲尾は礼を述べて赤ン坊を受取ると、いくらか
ラクになった気持で
四辺を
見廻した。夜中ででもあるか、車内は眠ってる人が多かった。女房は相変らず力無い眼をうッすらと開けたまま窓に
獅がみついていて、子供達は
窮屈そうに眠っていた。
「シッカリしろよ」
そういうと、女房は
微かに
肯いた。
「
蜜柑でも喰べたらどうだ、次の駅で買ってみるか!」
要らない、という風に相手は首をうごかした。鷲尾は赤ン坊を自分の背に
括りつけ、腕木に腰かけながら、フッと窓外を見ようとした。すると意外なことに、そこにはスチームに汗ばんた
窓硝子に、怖ろしく
爺くさい、こけた
頬の、
凹んだ眼がキラついている顔が映った。それはまるで他人のように見えた。――
窓外は
勿論何にも見えなかった。鷲尾はやがて手帳を出して、二三枚ちぎりながら別れてきた末弟へ
宛てて、手紙を書き始めた――。
……虎吉君、俺は君に
逢った事が今度の帰郷での第一の収穫だった。俺はツイそっぽむいていた。足が地べたを離れていたのだ――。君達は近代プロレタリアートだ。君達は働く、君達は偉大な忍耐力をもっている、君達は……。
背中で赤ン坊が泣き出すと、鷲尾は「ヨイ、ヨイ」と揺すぶらねばならなかった――。
……君達は焦らない、そして常に準備している。成程、いまは冬だ、怖ろしい冬だ。しかし君達は世界のだれよりも必らず「春」が来るだろうことは疑わないのだ……。
書きかけては鉛筆を
甜めながら眼をあげた。どのへんだか、何時頃だか判らなかった。ただ激しい風と
暗闇を
衝いて
疾走りつづけている列車の
轟音だけがきこえていた。