俳句はかく解しかく味う

高浜虚子




 俳諧の歴史というものは厳密にいえば殆んどまだ調べがついていないというてよい。芭蕉とか蕪村とかいうおもな二、三の俳人については相当の研究をした人もあるけれども、俳句全体の歴史を文学史的に研究した人はまだ一人もないといって差支ないのである。しかして世間で普通に説いている俳諧史は極めて簡略なまりきった説話に過ぎん。今一層大胆に引っくるめて言えば、徳川初期から明治大正の今日に至るまで、多少の盛衰もあり多少の変化もあるにしたところで、要するに俳句は即ち芭蕉の文学であるといって差支ない事と考える。即ち松尾芭蕉なる者が出て、従来の俳句に一革命を企てた以来二百余年にわたる今日まで、数限りなく輩出するところの多くの俳人は、大概芭蕉のやった仕事を祖述しているに過ぎん。そこで今俳句を解釈するに当っても、元禄の俳句はこういう風に解釈せねばならぬが、天明の俳句はそれと全く違うてこういう風に解釈しなければならぬとか、明治大正の俳句はこういう風に解釈しなければならぬというような、そんな複雑した変化のあるものではなくって、或る俳句を抜き出して来て、一応それを解釈する事が出来るようになった以上は、大概の俳句はそれに準じてさほど困難を感ぜずに解釈の出来るものである。唯その中に読み込まれている材料の解釈がむつかしいがために、解釈が出来ぬというような場合は論外であるが、俳句なる或る特別の一つの詩形を解釈するだけの事は、若干句の解釈によって容易たやすく領得せらるる事と考える。そこで私は殆んど時代なんかに頓著とんじゃくなしに数十句の解釈を試みて、諸君の俳句に対する解釈力というようなものを養うという事にしようと思う。

な折りそと折りてくれけり園の梅    太祇たいぎ

 春先きになって、或る人の庭に梅の花の咲いているのを見て、彼処あすこにいい梅の花が咲いている、あの枝が一本欲しいものだと思うて、それをその家の人にことわりもしないで折ろうとしていると、意外にもそこにその家の主人がいて、その梅を折ってはいけない、と叱りながらも、そんなに欲しいのならば上げようといって、かえってその主人が手ずから梅の枝を折ってその人に呉れたというのである。同じ物を盗むのでありながらも、いわゆる風流泥坊で、その盗む者が花卉かきの中でも殊に清高な姿をして芳香を持った梅の花である事が、一種の面白味を持っている。またその梅を折る人も物を盗むは悪い事と知りながらそれを金にえようというわけでもなく、多寡たかが梅の花の一枝位だから折ってやれと、ひそかに折り取ろうとしていると、思い懸けなくも其処そこに主人の声がして梅の花を折ってはいかんととがめられたので、吃驚びっくりして手をめたのであるが、其処の主人もまた、それを尤めたばかりで無下むげに追い払うのも、それを折る人の心持を十分に解釈することの出来ぬものとして、何処どこかに自分自身不満足を感ずるので、そんなに黙って折るのはいけないが、欲しいのなら上げようといって、かえって手ずからその枝を無造作むぞうさに折ってその男にやったのである。かくしてその盗もうとした人も、それを尤めた人も、梅花そのものを通じて互にその心持を領解し合うところに、この小葛藤の大団円はあるのである。

親鶏おやどりのひよこ遊ばすあおいかな    成美せいび

 庭先きに葵がついついと立っていて、その青い葉の頂きの方に赤い花が咲いている。夏といってもまだそうむやみに暑くならない頃で、むしろすがすがしい心よさを感ずる位の時候であって、その葵の近所には赤い鶏冠とさかを持っている親鶏が、黄を帯びた小さなひよこを連れて餌を探しながら歩いている。葵の幹の曲りくねったところもなしについつい立っている形や、強味のある葉や、堅いような花やが初夏の心持にふさわしいと同じように、ひなかえして間もない親鶏が満足気にその雛を引き連れて歩いている様子からその親鶏の大きく丸い形や雛どもの小さく丸い形やまでが、やはり初夏らしい心持を持っている。その上色の配合の点からも葵の葉の青いのに、花は赤く、親鶏の鶏冠は一層赤く、雛は黄いというところに余り色の混雑がなくなってしかも色彩の配合の面白味がある。それがまた初夏の心持を十分に好く現わしている。今一層はっきりした印象を描き出して見るならば、その葵も親鶏も雛もそれぞれくっきりとした影を地上に落しているような心持もする。この種類の句は絵画と同じような力をもって人に迫るのである。

新蕎麦しんそば長田おさだが宵の馳走ぶり    合瓜

 この長田は長田の荘司しょうじの事で、例の源の義朝をめて置きながらこれを暗殺して平家の方に党した等の事蹟にもとづいて作ったもので、長田が義朝を家に泊めて置いたのは節季から正月にかけての事であったのだから、それにすると新蕎麦というのは事実に合わぬけれども、俳句には往々にして事実には頓着なしに趣きの方から趣向を立てる事が多いからこの句もやはりその一例と見るべきものである。いよいよ今夜か明日は義朝をたばかってしいしてやろうという前の晩に、折節おりふし出来た新しい蕎麦粉を打って、新蕎麦が出来たから一つ召上らぬかと他意もなげにそれをすすめて、心から義朝を款待かんたいするように見せかけたというのである。なまじい際立きわだった御馳走などをしては、どうもいつもと違うた御馳走を今夜に限ってするのは、少し変だなと万事に警戒している落武者おちむしゃの事であるから、たちま気取けどられることもないとはいえんのであるが、同じ馳走をするのにも、新蕎麦を打ったからというて蕎麦を勧めるという事は無造作であって、しかも親しみのある馳走ぶりであって、それで酒でも勧めて義朝に油断をさすとしては、いかにも事実ありそうに思われる事柄である。季節に頓着なしに感じの上から、新蕎麦を持って来たところが詠史の句としては取柄とりえである。俳句の詠史は漢詩や和歌などと違うてその事柄を優美にしたり、荘重にしたりすることはしないで、むしろその事柄と反対に卑近な物を持って来たり、滑稽な物を持って来たりして頓挫とんざを与えるものが多い。この句などもその一例で、長田忠致おさだただむねが源の義朝を弑したというような事柄は歴史の中でも悲壮な事柄であって、もしこれを漢詩にでもすれば堂々たる文字で、英雄の末路をちょうするのであるが、それが俳句になると極めて卑近な新蕎麦というようなものを持って来て、長田が義朝を弑す前の晩には新蕎麦を御馳走して一杯飲ましたのだそうだ、はあはあ、なるほど新蕎麦で一杯やったのか、などと話すとすると、その悲壮な事実に頓挫を与えて其処そこに一種の軽味かるみが生ずるようになって来る。これが即ち俳諧趣味ともいうべきものであって、俳句の詠史は多くそういう風になるのである。

易水えきすいにねぶか流るゝ寒さかな    蕪村

 詠史の句の話をしたついでに、今一句この句の解釈を試みて見よう。『唐詩選』五ごん絶句ぜっくの第三句目に「易水送別」という題で、駱賓王らくひんのうの、「此地別レシトキ燕丹。壮士髪衝ケリ。昔時人已。今日水猶。」とあるのは人口に膾炙かいしゃした詩句で、秦始皇をしいそうとして壮士荊軻けいかえんの太子の燕丹に易水のほとりで分れた事蹟を咏じたのである。この事蹟を簡単に説明すると、戦国時代に燕の太子の燕丹というのが、秦の国に人質ひとじちとして行っていたのを始皇帝が虐待した、それを憤って燕丹は燕の国へ逃げ帰り、何とかしてその恨を報じようと思っていた矢先、秦の将軍の樊於期はんおきというのが罪があったのを逃れて燕の国へ来た。そこでその樊於期の首をって、その首と燕の国の地図とを持って、それを始皇帝に献上すると見せかけて、暗殺しようとしたのが燕の国の壮士の荊軻であった。これは燕丹の依嘱いしょくを重しとして荊軻はもとより一命を棄てるつもりで出掛けたのであったが、不幸にして見現わされて殺されてしまった。そのいよいよ秦の国へ入り込もうとする時易水という川で燕丹と別れた。その遺跡として易水を唐の駱賓王がとむろうた時に、この詩は出来たのである。蕪村はよく唐詩を換骨奪胎して句を作っておる。この句も恐らくこの詩から思いついたものであろう。蕪村は実際支那へ旅行したことはないので、易水の景色を知っておるわけはないが、日本内地などで見る景色から想像すると、恐らくその易水という川もただの川で根深ねぶかなどが流れているであろう。「風蕭々トシテ兮易水寒」とか、「今日水尚寒」とかいうと格別な景色かとも思われるが、恐らくそうではなかろう。川上には根深を洗う百姓などが沢山いて、その洗った根深の葉片が薄濁りのした水の中に青い色を見せて流れているのであろうというのである。蕪村の想像からいえば「あろう」であるのだが、それを実際その景色を見たように「ある」としておるところがこの句に力を与えておるのである。想像も断定もその人の心の内の現象として見れば畢竟ひっきょう同じ事である。蕪村などは好んでこの断定の形式を取っておる。即ちこの句の如きも前の長田の新蕎麦と同じ事で、漢詩などでは「風蕭々兮」と言ったり、「壮士髪衝冠」とか言ったりして、ものを仰山ぎょうさんに言って易水の寒さを咏じておるところを、俳句であっては極めて卑近に「根深の流れる」という事を以て軽くそれを叙しておる。前に漢詩を控えた上でこれを見るとやはり一種の頓挫があって、軽い滑稽味を覚える。そこが即ち俳諧趣味である。
 同じく滑稽味と言ったところで、これらはげたげた笑うような滑稽ではなくて底には淋し味も含んだ品のいい滑稽である。ユーモアというような部類に属するものである。ところが俳句の滑稽もずっと以前になると、大分趣を異にした駄洒落だじゃれに類するものがある。ついでにその一句を挙げて見ようならば、

かぜ寒し破れ障子しょうじ神無月かみなづき    宗鑑そうかん

 この頃は大分風が寒くなって来た。その寒い風が吹くにつけ自分の住居の破れ障子が今更のように目についてびしく、それから吹込む風も寒い、のみならず世上は八百万やおよろずの神々が出雲いずも大社たいしゃへ旅立をせられて、いずれのやしろもその御留守の即ち神無月であると思うと一層の寂しさを覚える、というこれだけのものとすれば、「神無月の破れ障子に風が寒い」という普通の叙事に過ぎないのであるが、この句で注意すべきことは「障子の神無月」と連ねられた文字の使い具合でこれは「障子の紙」という掛言葉かけことばになっているのである。この作者宗鑑という人は今からおよそ三百年ばかりも前の時代の人で、その時代はこの掛言葉が流行して、その掛言葉の上手下手じょうずへたがやがて俳句の上手下手と見做みなされたのであって、自然その掛言葉から来る滑稽趣味、地口じぐちともいうべき一種の駄洒落が句の生命を為していたのであった。それを改革して文学的生命あるものとしたのが前言った松尾芭蕉で、それ以来かかる流行はすたれたが、なお時にその種の句も存在しないではなかった。その一例を言えば、

愚痴無智の甘酒作る松ヶ岡    蕪村

 この句は鎌倉の松ヶ岡即ち今は宗演老師のいる東慶寺のことを言うたのであるが、この松ヶ岡(地名)の東慶寺という寺は北条時宗の細君が開山の尼寺で、今でいう女権保護のために建てた寺で、この寺に一歩でも足を踏み込んだ女にはもう法律の権威が及ばない、尼の許しを得なければ将軍であろうが大名であろうが、その女をどうすることも出来ないのであった。それは北条時代からこの御維新前まで続いて来たのであって、自然この寺には沢山の女が庇護ひごされてもいたし、またその女の望みによっては末寺の坊に落飾らくしょくして住まっていた女も沢山あった。そういうところから女は元来愚痴でかためた無智なものであるが、その愚痴無智の尼が退屈の余りに甘酒を作るというのである。普通の家庭でも女等が集まると、おすしをつけるとか牡丹餅ぼたもちをつくるとかする、それと同じような訳で、尼どもが集まって甘酒をつくるというのである。この句の「尼」と甘酒の「甘」とが掛言葉になって、それがこの句の主な趣向になっておる。易水えきすいの句などに比べると同じ蕪村の句でも下等な句である。

郭公ほととぎす大竹原を漏る月夜    芭蕉

 この句を見るとすぐ京都の嵯峨の修竹林などを思い出す。大竹原というのは大竹藪というのも同じ事であろう。広々とした藪であって、しかもその竹も小さい竹ではなく大きな幹をした竹でありそうに思われる。その大竹原の上には夏の月がかかっていて、その月影はそのあらい大竹原の間を洩ってちらちらとその大きな竹の幹などにも落ちている、そこに郭公ほととぎすが一声二声鳴き過ぎた、とこういう景色である。初夏の清涼な心持が句にみなぎっておる。こういう句を解する時分に、時鳥ほととぎすの大竹原を漏る、という風に解する人があるかも知れん。それは俳句の句法に慣れないためである。郭公で一度切って、郭公(鳴くや)、大竹原を漏る月夜、という風に読めばいいのである。その「鳴くや」とか「鳴き過ぐや」とかいうような動詞の省略されるという事は俳句には普通の文法である。郭公は耳に聞いた声、大竹原を漏る月夜は眼に見た景色、両者相俟あいまって大景を描き出しているのである。

はら/\と稲妻かゝる芭蕉かな    樗堂ちょどう

 芭蕉は人も知っているように、人間でいえば僧などを聯想れんそうするような飾りっ気のない青一色の、大きな葉をしておる、しかも長大な植物である。その芭蕉の広葉ひろばに稲妻のする秋の夜の景色を言ったのである。芭蕉の葉の上に稲妻が落ちると言ったばかりでは、唯事柄の筋道を言っただけであるが、それに「はら/\と」という形容を加えたために一篇の詩となっているのである。即ちあの芭蕉の広葉に稲妻のぱっとかかった時の心持をはらはらと言ったのである。どうも稲妻のするような晩であるから空は曇っておる。今まではその芭蕉も唯黒いかたまりにのみ見えていたのが、その闇を破ってぱっと稲妻が光ると、唯黒い団りと見えていた芭蕉は、そうではなくって、長い葉を何枚となく大空に突出していて、それははたはたと風に揺れておる。稲妻のかかると同時にその青い色も長大な形も葉揺れも見える。同時にその葉の上に受けた稲妻をはらはらと目に映じたのである。唯静まり返った水の上とか、硬い石の上とか、突立った杉の木の幹とかにかかった稲妻であったならば、決してこのはらはらという心持はしない。それが芭蕉葉の上であったことによって初めてはらはらという心持が生れて来たのである。

旅人や馬から落す草の餅    子規しき

 この句などは解釈を待たないかも知れぬが、念のために一、二言を費して置く。一人の旅人は馬に乗ったまま或宿場しゅくばの茶店の前に在って、その茶店で売っている草の餅を買ってそれを馬上ながら頬張ほおばりつつあった時、ふとしたはずみにその草餅を取り落としたというのである。あるいは宿場は已に出離ではなれて、今茶店で買った草の餅を馬上で食いながら悠々と打たせていると、どうかした拍子にその草餅を取り落とした光景かも知れないのである。しかしそれはどちらでもこの句の価値の上には損益するところはない。要は馬上で草餅を食っていてそれを取り落としたというその滑稽味と、暢気のんきな旅情とに興味を持ちさえすればいいのである。

蜂の子の蜂になること遅きかな    子規

 この句も意味は明瞭であろう。蜂の巣の中に在る蜂の子が蜂になるのにはなかなか時間がかかって容易にはならぬ、というだけであるが、ここに注意すべきことは、そういう表面の意味だけを辿ったのでは、句が殺風景になってしまうことである。この句の表面の意味はそれだけであるけれども、裏面に作者の或意味のあることを認めなければならん。それは何かというと、蜂の巣に初めてちょっと頭の黒い針のさきで突いたほどの小さい子が出来てから、それがだんだん大きくなって、遂に羽根が生え、本当の蜂になって飛ぶようになるまで、この作者は常に親しくその蜂の巣を眺めていたのである。人間の子ではなくって蜂の子であるから、何も成人を待つ、というほどの熱心な待ちようではなくっても、やはり一つのなつかしみを以て、いつこれが蜂になることかと明暮れ眺めくらしていたのであったが、心待ちに待っておればおるほど、なかなか容易に蜂にはならない。何十日もって漸く蜂になった、というのである。実際蜂の巣にそういう親しみを以て接したことのあるものでないと、「なに蜂の子が蜂になるのか。そりゃすぐだろう。」と訳もなく言ってしまうのである。なんでもない句のようであるけれども、この句が出来た裏面には、そういう作者の忠実な観察があることを忘れてはいかん。

逢ひ見しは女のすり朧月おぼろづき    太祇たいぎ

 朧にかすんだ春の月の出ておる晩、表を歩いておると、ふと美目みめのよい一人の女が目についた。美人だと思いながら、それほどたいして気にとめるでもなくすれ違ったのであったが、懐をさぐって見ると財布がなくなっている。さては今の女がすりであったのかと驚いたという句である。「逢ひ見しは」というのは、ふと行き逢って何となくこちらが眼にとめて見た、あの女が賊であったというのである。あるいは自分がられたのではなくって、あのちょっと目にとまった女が、後に掏摸すりであったことがわかって、あの女が掏摸であったのかというように解しても差支ないのであるが、しかしやはり前解のように自分が掏られたと解する方が作者の意を十分にみ得たものかと思う。沢村源之助の舞台などを思わせるような句である。

今はやる俗の木魚もくぎょや朧月    太祇

 元来木魚は仏前に置かれて僧の手によって取扱われるべき性質のものであるが、俗間の好事家こうずかは、それを居間などに置いて唯ポコポコと打って喜んだり、あるいは人を呼ぶ時の呼鈴よびりんの代りにしたりしておる。あの妙な形をした仏臭い木魚を脂粉しふんの気の漂っている辺に用いているというところに、かえって一種のおかしみがある。この頃は何かというと木魚を用いるのであるが、またここにもそのポコポコいう音がしておる。空には朧月が出ていてえんな光を漂わしておるというのである。この作者太祇は京の島原に住まっていたというのであるから、あるいはその辺の光景かとも想像されるのである。俗の木魚というだけでは、あるいは俗人で仏信心のものが持仏じぶつの前で木魚を叩いているものとも解されぬことはないが、「今流行はやる」というような言葉から推すと、もっと極端に木魚を単に好事的にもてあそぶものと解するのが至当であろうと思う。今でも座右に木魚を置いて、それを叩いて婢僕を呼ぶようなことをしている人が随分あると思う。

たらちねのつままでありやひなの鼻    蕪村

 雛のちょびっと持ち上ったようになっている小さい低い鼻を見た時に興じて作った句である。赤ん坊を抱いておる母親は、まむと子の鼻が高くなると言って、よく戯れ半分に摘まんだりする、この雛の鼻の低いのも、この雛のお母さんが摘まむことを忘れたがためであったのかというのである。雛の鼻の低いのは、雛を作った人が低く作ったのであって、その無生の木偶でくにお母さんのあるわけもないのであるが、かくそれを人間の如く見ていう所に、雛に対する親しみと、打ち興じた興味があるのである。これらは殊に作者の主観の働きで、客観の事実は唯雛の鼻の低いというに過ぎないのを曲折をつけてかく一篇の詩としたのである。なおこの雛も、近来鼻の小高く出来ているのなどを見ると感じが薄いが、能の面などに近いような古い時代の雛を思い出すと殊に興味が深いのである。作者も百年前の人である。

雛の宴五十の内侍ないし酔はれけり    召波しょうは

 これは大内おおうちなどで催おされた雛の宴で、いつもは厳粛な宮中も、今日は雛祭りとて皆うちくつろいで笑いさざめいておる。その中に五十余りの内侍がいたく白酒に酔われて、その酔態が殊にその日の興味になって皆の眼にとまった、というのである。宮中といってもつぼねなどで催される宴かとも想像されるのである。五十にもなった内侍の酔態は余りいい図でないかも知れない、けれどもその背景は美くしく飾られた雛壇、いくら年を取ったといっても官女の事であるから、粉黛ふんたいをも施し例のはかまなども穿いておる、下々しもじものものが取乱したような醜態ではないに相違ない。その上もう五十といえば色気いろけなどはなくなりて、唯おかしみ一方の酔態であろうと思う。

春の夜や昼雉子きじうちし気の弱り    太祇

 これは猟に行って昼間雉子を打った。鳥の猟のうちでは、小鳥などよりも山鳥、山鳥よりも雉子といったような順序で、雉子は一番に功名とすべき鳥である。あの美くしい毛色をした長い尾の見事な雉子を昼間打った、その張り詰めた昼間の反動で、夜は気が抜けてがっかりしておる、というのである。多寡たかが小鳥位なら何でもないと格別嬉しさが大きくない代りに、夜になったところで別に気分に違いもないのであるが、昼間の喜びが大きかっただけ夜はがっかりするのである。その上前に言ったように、おおきい美々しい鳥を殺したのだという事が、美くしい春の夜らしい心持はしながらも、何処どことなく落莫らくばくの感じがある、そこにも気の弱りを導く一つの原因はあるのである。次の句と併せ考えれば、そこの消息はよくわかるのである。

牡丹ぼたんって気の衰へしゆうべかな    蕪村

 牡丹が大きな花を咲かせておる。その牡丹を伐ろうという考がありながらも、あの花の王といわれておる見事の牡丹を伐るという事は、どうもそう軽々にやることが出来ないような心持がして、まあまあと一寸いっすんのばしにしていたが、いつまでほうって置くわけにも行かないので、遂に決心してそれを伐った。そのあとはがっかりして、殊に夕になってその気の衰えを感ずることが大きいというのである。前句は動物、この句は植物の相違はあるけれども、鳥の中の雉子と、花の中の牡丹はよく似寄ったもの、それを打ったり伐ったりしたために、がっかりして気を弱らす心持は似通っておる。

野馬かげろうに子供遊ばす狐かな    凡兆ぼんちょう

 春の日の当っておる時に土地とか石とか草とかの上に、ゆらゆらとうごくところの或気を感ずる。水蒸気の作用か、それとも単に光線の作用か、いずれにしても春の日影のうららかな中に立騰たちのぼる気のような感じがするのである。和歌で糸遊いとゆうというのもこれである。陽炎かげろうという字を用いる者もこれである。さてその陽炎の立っている草原とか堤とかいうようなところに、一匹の老狐は子狐をれて遊んでおる。子狐が無邪気に遊んでいるのを、老狐は楽しげに見ておるというような光景である。狐は化けるものであるとか霊のあるものであるとかいう聯想から、その草に立っておる陽炎があたかもその霊気と相応じてゆらめいているような心持もするのである。一方に春のうららかさを覚えると同時に、何処か霊気を感ずるようなところが陽炎に調和するのである。狐の身になって見ると、ここは化けるとか何とかいう表舞台ではなくって、人間などに気兼ねなく単純に子供を遊ばしておる心持であろう。この子供を人間の子供と解されぬこともないけれども、それでは余り芝居みて来る。やはり狐の子とする方が穏当であろう。

肌寒し竹きる山の薄紅葉    凡兆

 秋になって、もう肌にうすら寒い寒さを感ずるようになった、その頃の或光景を言ったので、山には一面に竹がえておる、その山の竹をこの頃人夫が這入はいって伐っておる、青々としたその竹藪の向うに紅葉する木があってそれがもう時候を知り顔に薄紅葉しておる、というのである。この句の如きは、あるいは竹山ではなくって、竹も生えておれば松もあり紅葉する樹もあるというような山に作者が竹を伐りに行って、竹を伐りながらも薄紅葉する樹を見たという風にも解されぬことはないのであるが、しかし「竹伐山」という言葉からしても、全体の調子のはっきりした印象を人に与える点から言っても、青々とした竹山は折節彼処あすこにも此処ここにも人夫が這入って竹を伐っておる、その向うの更に高みになっているそばに薄紅葉のしておる樹のあるのが、その竹山に打ちえて見える。竹を伐るということ、薄紅葉という事につけても、時候の肌寒はださむを身に覚えるという風に解する方が適切かと考えるのである。俳句は言葉が単純なためにかくの如き両様の解、時としては三様四様の解を試むることも出来るのである。この句の如きは両様の解いずれに従うとしてもその趣味の上には変化はないのである。

三葉みは散りて跡はかれ木や桐の苗    凡兆

 桐の苗木なえぎを描いたもので、その苗木には三枚だけ葉が附いていたが、その三枚の葉が散ってしまった跡はもう枯木になってしまった、というのである。俳句の方では落葉した木を枯木という、で落葉した冬木の別名と見てもいいのである。実際枯れてしまった朽木の意味ではないのである。これは極めて簡単に桐の苗木そのものの特質を描いたところがかえって力ある句になっている。桐の葉は人も知る如く大きなあらい葉で、それが桐の幹にまばらについておるのであるが、その葉の落ちるときはぽくぽくともろく落ちやすい。その僅か三枚の葉が落ちてしまったあとは真直ぐに突立っている幹ばかりになってしまって、おやおやもう枯木になってしまった、と驚かれるのである。

家主いえぬしの無残にりし柳かな    子規

 借家の庭に柳があった。その柳が枝を延ばし葉を茂らしていたのを、借家人は余り延びたままになっているとか、葉が茂って鬱陶うっとうしいとか、いろいろに感じていたのであったが、それでもまた一方からは、毎日住み慣れ見慣れた庭の柳であるから親しみもなつかしみもあったのであるが、或日家主から植木屋を寄越よこして庭の植木の手入をすると言って、その柳を何の容赦もなく滅茶苦茶めちゃくちゃ枝下えだおろしをしてしまったというのである。あるいは伐りしという以上は根方ねかたからその柳を伐ってしまったものかとも解釈が出来るのであるが、しかし「無残に」という言葉から推すと、まだその柳は全生命を取られたのではなくって、敗残の形を其処そこに留めているものと見る方がよかろうと思う。即ち伐というのは枝を伐ったので乱暴にもその枝も伐りこの枝も伐りいかにも無残に伐り下してしもうたというのであろうと思う。生みの親よりも里親の方が情けがあるというのと同じ事で、借家人は自分の持物というではなくっても、朝暮あけくれ馴染なじんでいた柳の木の事であれば、伐るにしても、もっと伐りようがあると思うのであるが、家主方にはかえってその情けがなくって、他の木と違って柳の事であれば、どんなに伐ったところで枯れる憂はないから、度々手数のかからぬように思い切って伐って置いた方がよかろうと随分思い切って伐り下ろした、というのである。植木屋を寄越したのではなくってあるいは家主自身でったものとしてもよいのである。いずれにしても感じは同じことである。

木々の芽や新宅の庭とゝのはず    子規

 春になって庭に在るいろいろの木がそれぞれ芽を吹いた。この家は建築して間もない新宅の事とて、その庭もまだ十分に手入が出来ておらず、いろいろの木がそれぞれ思い思いに芽を吹いて、さなきだに余り整っていない庭が益々整わぬ形を示したというのである。古い庭であって見ると、多年刈り込まれたり手入をされたりした庭であるために、たとい木の芽が吹いたにしても、そう「庭整はず」というほどの不恰好ぶかっこうさは示さないのであるけれども、まだろくろく庭師を入れたというでもなく、手当り次第に雑木ぞうきを植えたというに過ぎない庭であるから、枯木の間はさまでになかったものも、芽を吹いて見ると、いよいよその不恰好さが目に立つようになったというのである。

水仙にたまる師走しわすほこりかな    几董きとう

 師走となると何かと多忙である。商人はもとよりの事、普通の家であっても、おしつまって来るほどに匆忙そうぼうとして日は暮れる、とこけてある水仙――もしくは鉢に植えてある水仙――も、その多忙のために余りかえりみる人がなくって、いつの間にか埃が葉にたまっているというのである。花を生けるというのも、水仙の鉢を置いてそれを見て楽しむというのも畢竟ひっきょうひまがあっての上の事で、多忙となるとなかなかそういう悠長なことに時間をつぶしているひまがない、けれども埃はそういう人の匆忙に頓着なくいつでも物の上にりる。それが水仙の花の上に降りたところに師走の急がしさが思われるのである。水仙の鉢でも花生けでもどちらでもいいと言ったが、普通ならばとっくにもう花も変えて生けかえるべきものを、いつまでも水仙を生けたままでほうって置いてあったものとすると、水仙の鉢とするよりも花生けとする方がより多く適切なように考えられるのである。

除夜
年ひとつ老いゆく宵の化粧かな    几董

 大三十日おおみそかの晩の句で、今宵こよい寝ればまた一つ年を取るというその宵に化粧をする女を咏じたものである。察するところこの女はもうそろそろ老という事を気にしはじめる三十代の女を言ったものであろう。十代の子供々々した女ではもとよりなく、二十代の若々しさでもなく、三十代になって女としてはそろそろもう老境に入りかけたというような女が、大三十日の晩に宵化粧をする、その女の目出度めでたい元日を待ちながらも、また一歳ひとつ年を取るという淋しい心持を言ったのである。老いそめた女の化粧はなお一点の美くしさをとどめながらも、化粧をするという事その事がやがて一つの淋しさを思わしめる。この句もその心持を言っておるのである。

たのみなき若草ふる冬田ふゆたかな    太祇

 若草といえば、これから先きだんだん茂って春の草になって行くものであるが、それがまだ冬田にちょいちょいと生いそめたところを見ると、その若草はいつまで茂るべき未来があるかを疑わねばならぬのである。冬田は、二作田であればやがて打ち耕されて畑になるか、そうでないにしてもそのまま打ち棄てられてかえりみられないはずであるが、其処そこえる若草は他の地面に生えるものに比べると、まことに頼み少ない心持がする。その冬田に生えた若草を見た時の作者の心持を言ったのがこの句である。あるいは十月に返り花が咲くようにまだ冬の初めのに、日当りのいい処などに、若草が生えておるが、これはやがて来る寒さや、雪や霜やにたちまちいためられて枯れてしまわねばならぬものである、其処に生える若草は頼みないものである、という風に解釈されぬこともないのであるが、しかしやはり前解の方が適切であろうと思う。

鼠追ふや椿生けたる枕上    田福でんぷく

 夜鼠が出て来て枕もとをごそつかすので、寝ていながらしっしっとそれを追うた、その枕もとには椿が生けてあるのだ、というのである。鼠が出る位であるから恐らく灯火は消されてしまってあるので、全くの闇夜あんやであろう。目にはあやなしで、唯枕もとに荒るる鼠の音が聞こえるばかりであるが、その闇中にも自ら目に描き出さるるものは昼間生けて置いた、あの美くしい椿の花である、とそういうのである。鼠が出てあばれるような殺風景な闇の中に一点の椿を点出して来て色彩を添えたところがこの句の価値である。鼠が椿の花をひっくりかえすであろうからそのために追うたのだとか、何とかいうような解を試むる人があったら、それは無用の弁といわねばならぬ。枕上は「まくらがみ」とよむか、あるいは「まくらもと」と読むか、いずれでもよかろうと思う。

あながちにくれなゐならぬ紅葉かな    橘仙きっせん

 紅葉はあかいといったところで、穴勝あながちに紅ばかりではないというそれだけの句である。穴勝というような俗語を使って「くれなゐならぬ」というような雅語をつなぎ合わせたところにこの句の手際はあるのである。紅葉と一概に言うけれども黄色もあれば、同じく紅いなかにもいろいろ濃淡がある、そのさまざまの色を織りぜた美しさを想像せしめるところもまた一方の働きとせねばならぬ。

古寺に狂言会や九月尽くがつじん    雁宕がんとう

 狂言会というようなことは今でもある。狂言は大概のうの間にはさんでやるものであるが、時によると狂言ばかりを催おすことがある、それを狂言会というのである。ああいう滑稽を主とするものであるけれども、もと品格のいいものである上に、その狂言のみが続けて演ぜられるという事が、かえって淋しみを人に起させるのである。場所というと古寺、時候というと秋の末の九月尽、いずれも荒廃したような淋しい感じを起さしめる中に、狂言会を催おすというのである。

又或日扇つかひ行く枯野かな    暁台きょうたい

 夏炉冬扇かろとうせんという言葉がある通りに、冬日扇は必要のないものとなっているのであるが、それが或日村里を通っていると、汗ばむほどに暑さを覚えたので、また扇を遣いながら行ったというのである。「又」の字は夏遣うた扇をまた冬になっても遣ったという意味である。冬といえば寒いことになっているけれども、小春という言葉もあるようになかなか春めいた暖さを感ずることもあるので、そういう時に荷物でも肩にかけながら歩いていると相当に暑さを覚えるのである。それが町中とか山路やまじとかいうのでなくって、枯野であるところに、殊に日のあまねく照っている暖さを思わしめるのである。また「或日」という初五字が働いているのである。

出代でがわりおさな心に物あはれ    嵐雪らんせつ

 嵐雪の句にはこういう優しみのある句が多いといわれているのである。出代というのは三月に年季奉公の男女が入りかわる古来の習慣がある。今までいた奉公人は新らしき奉公人と入り交るために、長々の恩義を謝して暇を貰うて出て行く。新らしい奉公人はその古い奉公人の為しきたったことを少し見習って、その古い奉公人の出て行ったあとは自分ですべての事に当るようになる。へっついも昔の竈、七輪しちりんも昔の七輪、戸棚も昔のままの戸棚でありながら、其処そこにいる人間の変ったのを見ると、何となく、ものになじまぬようなうら淋しい心持のあるものである。それが大人であってもそうであるが、ことに子供で見ると、親しみなじんでいた昔のものが去って、なじみの薄い新しいものが来たのであるから一層もの淋しい心持がする。その上、そのなじみのある昔の奉公人のしみじみと主人に暇乞いとまごいをして出て行くのを見ていると、まだ凡ての情の十分に発達していない稚いものでもさすがにあわれを覚える、その者をつかまえてこの句にしたのである。出代の句には前説明したように新旧の交代したことを咏じたもの、新らしく這入はいって来た男女のおかしみなどを咏じたもの等があるが、主としてこの句のように出て行くふる傭人やといにんの方のあわれを叙したものが最も多いのである。

君見よや我手入るゝぞ茎の桶    嵐雪

 これも嵐雪という人の凡てもののやさしみをいうのにけておる例証としてよく挙げられる句である。男世帯などを聯想れんそうする句で、友人が尋ねて来て、晩飯でも一緒に食おうとする時に女房か下女でもあるならば、そのものが膳立をしてくれるのであるけれども、そういう女気は勿論のこと、下部しもべも小僧もない、唯物草太郎ものくさたろうの男が一人で自炊をしておるのであるから、漬物を出すのも自分でせなければならぬ。君と言ったのは其処に来会きあわせておる友人に言ったので、君見てくれたまえ、僕は漬物桶に自分で手を入れるんだぞ、というのである。茎の桶というのは、冬三河島菜みかわしまなのような菜を漬ける、それを茎の桶というのである。寒い冷めたい臭い茎の桶に自分から手を突込むというところにびしい心持もあるが、同時に何処やら得意なところもある。『鉢の木』のうたいに佐野の源左衛門が「あゝ降つたる雪かな」と貧乏人のひだる腹を抱えながら雪の降って来るのを興じているが、それと同じことで、むさくるしい男世帯でも、その茎の桶に手を突込むところに、自分で興味を見出して多少得意なところがある、それは優にやさしいというようなみやびた情ではないが、滑稽を帯びた軽みのある情味がある。嵐雪の句のやさしみというのは主としてそういう点である。余事ではあるが、嵐雪というのは芭蕉の主な弟子の一人で、其角とならびしょうせられ、芭蕉の門人に其角、嵐雪ありと言ったと言われおる男である。

灌仏かんぶつや捨子則ち寺のちご    其角きかく

 灌仏というのは、四月八日の釈迦の誕生日に寺で灌仏会かんぶつえというものを修じ、参詣人に甘茶などをくばるのである。これはその灌仏の日に寺に一人の児がいるのが人の目につく。さてあの児さんはどうした児さんかと人が目をそばだてて見るがそれが則ち何年か前にこの寺の門前に棄ててあったあの捨子なので、寺の和尚は仏の道に携っておる慈悲から、それを拾い上げて育てたのが、あんなに大きくなって児になったのだというのである。あるいはこの句を解して、自分が寺の門前に子を捨てて置いたのじゃが、何年かって恐る恐る灌仏会にその寺に来て見るとちゃんとその子が成人して寺の児になっている、という風に取る人があるかも知れぬが、それは少し穿鑿せんさくに過ぎているであろう。灌仏の日は甘茶をんで参詣人に渡したりするために、寺の人も世話して皆総がかりで働いておる、参詣人も多い、そこで多くの参詣人が、「あの児さんが捨子じゃそうな。大分大きくなったものだ。」などと人にまじって端近はしちかく立働いているその児を見て評するというような句と解する方が至当であろう。「捨子則ち寺の児」というような磊落らいらくな句法が其角の長処で嵐雪の句のやさしみとは大分趣を異にしておる。

もどかしやひなに対して小盃こさかずき    其角

 雛に向いて、「さあお雛様召し上れ」とか何とか言って女の子などが小さい盃をその前に置き、それに白酒でもついでおる光景か、それとも雛の祭ってある前に団居まどいして小さい盃で人々が酒盛りでもしている光景か、いずれにでも解されぬことはない。あるいはまた団居して多勢の人がいるのでなくって、美くしい雛を眺めながら、その家の主人か誰かが、小盃でちびりちびりと飲んでおるのかも知れないのである。作者はどれか或一つの意味で作ったのであろうけれども、もともと十七字で文字が少ないために十分の叙述が出来ず、解する方では三通りにも四通りにも解することが出来るというような場合が随分沢山ある。それは俳句として不完全といえば不完全であるが、事実そういう場合がよほど多い。唯その場合に考えねばならぬことは、かく意味が違った場合に、その句の趣味に変化を来たすかどうかという事である。たとえば、この句の如きに在っては以上三通りの解釈が出来るにかかわらず、いずれにしてもこの句の生命は「もどかしや」という初五字に在るので、そんなに雛に対して小盃をいじっていたりするのを大酒飲みである其角が見ていると、もどかしくって――じれったくって――仕方がない。そんな真似のような事をしておらずに、大盃でぐびぐびと引かけたらよかろう、というのである。そこで雛に対して小盃という光景は強いて解すれば二、三様の解を得るけれども、要するに、それを見てもどかしがるところがこの句の生命であるから、それらの不明瞭な点があるにかかわらず、この句の趣味の上には何の影響もないのである。これも「もどかしや」という豪放な主観が其角の特色である。雛などに対してはとかくやさしいことを言いたがるものであるが、其角は、「面倒臭い、もっと大盃でやっつけろ」というような乱暴なことを言ったのである。嵐雪の雛の句には次のようなやさしいものがある。

石女うまずめの雛かしづくぞあはれなる    嵐雪

 石女というのは妊娠しない子のない女。女として子のないのは不幸なものとされておる、その石女が雛を祭って、何かとそれにものをそなえたりなどしておる、それを見て嵐雪は、ああ憐れだ、子供があるならばその雛祭も子供のためにするのであろうけれど、子供の声のせぬ淋しい家庭に、雛祭をしておるのが、見るからに気の毒だというのである。石女と極った以上は少くも三十を過ぎた女位に解釈される、その女が身じまいをして、若々しく化粧などをして、世間に多くの娘を持った同年輩の婦人の身の上を羨ましく思いながら、めて雛祭などをして、淋しさを慰めている光景をあわれと見たのである。其角の「もどかしや」とは大分情味に相違がある。

あれ聞けと時雨しぐれ来る夜の鐘の声    其角

 嵐雪などの句は判りやすいが、其角の句には判らぬのが非常に多い。前に挙げた句などは、其角の句としては比較的まだ判りやすい方である。この句もちょっと判らぬところがある。景色は冬の初め頃はらはらと時雨の降って来る夜に鐘の声も響いて来たのであろうと思うけれども、「あれ聞けと」の初五字が十分に判らない。強いて解すればこうであろうか。時雨がはらはらと音を立てて降って来た、その時雨の降って来たのは、あの今響く鐘の声を聞けと、そう人に注意を与えるために降って来たのである。即ち時雨をパーソニファイしたものとするのである。しかしまたかくも解することが出来る。それは鐘をパーソニファイしたもので、時雨が降って来たことを人は知らずにいるかも知れぬ、それを折節おりふし鳴って来た鐘が人に警告を与えて、あの時雨の音を聞きもらすまいぞよ、とそう言ったものとも取れぬことはない。――少し無理かも知れぬが――なおまたこうも解することが出来る。「あれ聞け」というのは二、三人集まっている席上の一人が、「あれを聞け、鐘の音がして来た。」とそう言ったので、それは折節時雨の降って来た途端とたんであったというのである。中でこの解が穏当かと考えるのであるが、しかしいずれの解にしても時雨るる夜に――あたかも時雨来る途端に――鐘の音も聞えて来たという光景は一つである。今度は前の雛の句と反対に光景は一つであって、「あれ聞けと」という初五字の意味が曖昧なのであるが、その初五字はどう解釈するにしても、時雨来る夜の鐘の音について、作者の打興じた心持はうかがうことが出来るのである。やはりこの句の趣味の上にはたいした異同はないのである。殊にこの句の如きは一直線に叙した調子がよほどおもむきを助けておるので、初五字の意味は曖昧でありながら、なお時雨るる夜の趣を強く受入れることが出来るのはこの調子の力に帰すべきである。其角の句は難解であって一部『五元集ごげんしゅう』を初めから終まで解釈し得る人は一人もあるまい。それは其角が偉いというよりも、其角という男はそんな判らぬ句を作って得意であった男だと言ってしまって差支ないのであるが、それでいて判らぬながらも何処やら面白いという句が相当に在るところは、やはり其角の偉いところである。それは其角の頭に起って来た或る感じを、彼は殆んど文字に頓着とんじゃくなしに――意味に頓着なしに――今一つ言えば世人がそれをどう解するかという事に頓着なしに――感じそのままを現わそうとして、そういう句を作ったものとも解する事が出来るのである。我らに或る感じがある。どうかしてその感じを現わしたいと思って、折節其処にある楽器に手を触れる。四絃一時に音を発して、丁度その作者の感じをその音によって現わし得たというような場合が随分ある。其角の句を先ずそういう風に解したらよかろう。意味は何処やらぼんやりして判らぬところがあるけれども、しかし其角の感じはよく現われておるというような傾があるのである。

渡りかけて藻の花のぞく流れかな    凡兆

 其角の句などを解釈して、二通りにも三通りにも意味が取れるというような事をいうと、初学の人は定めて、そういう事になると俳句というのは誠に不安心なものだ、と考えるかも知れぬが、決して其角の句のようなものばかりが俳句ではないのである。凡兆はやはり其角同時の芭蕉の弟子の一人であるが、この人の句の如きは最も明白で、何の疑議も挿む余地のない印象明瞭な句を作っておる。この句の如きもその一例で、一つの流れがあって、その流れをしりをからげて渡りかけたのであるが、ふと下を見ると川底にえておる藻に白い花の咲いておるのが目にとまった、そこでそれを水の上からのぞいて見るというのである。夏川の涼しそうな澄み渡った水、藻の花の小さいながらもはっきりした花、それを中流に立ちどまって覗いている人の容子ようす、それらがはっきりと目に浮ぶ。其角の句などとは大変な相違である。

上行くと下来る雲や秋の空    凡兆

 これは秋の水蒸気の少ない空気の澄明ちょうめいな空の或現象を描いたもので、晴れ渡った青い秋の空にも少しばかりの白い雲がある。その雲もちょっと見ると唯一様に白い雲であるが、よく見ると上の雲はたとえば北から南に動きつつある、下の雲はそれと反対に南から北に動きつつある、上の雲は向うに行くような心持がすると、下の雲はこちらに来つつあるような心持がする、というのである。「行く」とか「来る」とかいうのは多少曖昧な言葉であるけれども、しかもそれにしても上層雲と下層雲とが反対の方向に動きつつある光景は、はっきりと受取れる、それに雲を描きながらも打ち晴れた秋の空の心持もはっきりとうかがわれる。やはり印象明瞭の句なることを失わぬ。

なが/\と川一筋や雪の原    凡兆

 この句の如きも画のような句である。一面に雪が降り積っておるので、何処どこもかも真白いが、その中に一筋長くつらなって黒いものがあるのは川であるというのである。一面に白い胡粉ごふんで塗り詰めたような中に、一筋の黒い川の遠く流れている光景が実にはっきりとよく描かれてある。

わら積みて広く淋しき枯野かな    尚白しょうはく

 元禄時代、即ち芭蕉時代の作家で、印象明瞭な句を作る人は凡兆が一番であるが、この尚白という人なども、やはりその傾向の一人である。この句はちょっと油画などでよく見る光景で、冬枯の野に外にこれというものもない、稲を刈り取った田にところどころ積藁が残っておる、ここにも藁の山があれば、かしこにもある、それらの積藁を中心にして広々と見渡される枯野は、何処を見ても淋しい眺めであるというのである。やはり凡兆の句に劣らぬ印象明瞭の句である。

ほとゝぎす今日に限りて誰も無し    尚白

 これは印象明瞭というほどの句ではないけれども、それでも其角の句のような疑わしいところは少しもない、わかりやすい句である。ほととぎすが鳴いた。珍らしい一声であるから、自分の外誰かに聞かせたいと思うけれども、生憎あいにく今日は誰もいない。いつもこんなことはない、誰かがいるはずであるのに、今日に限って誰もいないというのは誠に生憎であるというのである。御馳走があると、自分一人でそれを食う気になれず誰かにそれを食わしたいと思うのは人情である。子規ほととぎすの一声もそれと同じことで、待ち兼ねておった子規の一声が聞えたのに、生憎誰もおらぬとは残念だとその一声を愛惜するのである。

枕元にたゝまぬ春の晴衣はれぎかな    格堂かくどう

 本書は前にも言ったことがあるように、俳句というものを解釈する力を養うことを目的にしているのであるから、近代人の句もこれを掲げてその解釈を試みて見ることにする。春になって花見に行ったとか、もしくは芝居を見に行ったとか、そうでなくっても何処かの人の集りに出て行ったので、余所行よそゆきの晴衣をて行った。それから家に帰って来たのはもう遅かったので、平常著ふだんぎに著替えもしないで、そのまま晴衣を枕許まくらもとに脱ぎ棄てたままで寝たというのである。晴衣をたたまずに枕許に脱ぎ棄てたままで寝るというところに、春の遊楽に耽っているあわただしい趣もあるし、ややしまりのないような濃艶な趣もある。

笠ながらぬかづき行くや春の寺    三湖さんこ

 笠ながらというのは笠をたままというので、寺の前に行っても笠を脱ぐのは面倒であるから笠を著たまま、その本尊に礼拝をして行き過ぎるというのである。この句の表面に出ていなくっても一番に想像のつくことは「旅」というので、この人は旅をしておるので、笠をかぶって旅をしておる時に或るよしある寺の前に来た。笠を脱いで礼拝すべきのを、そのままで礼拝するというのである。これを普通の人の旅とすると、そう信心家というでもなく祖先の習慣に従って唯頭を下げたというのだけで、暢気坊のんきぼうのように取れるし、また信心のために巡礼というようなものとすると、手に種々いろいろなものを持っているとか子供をれているとかして、笠を脱ぐことが自由でなかったために笠をけたまま礼拝をしたのであるが、それでも唯儀式のための礼拝というのではなくって心からぬかずいたものと解されるのである。いずれにしても春風の吹いておる長閑のどかな光景という点に一致するのである。これが夏の暑い盛りとか冬の寒い日とかだと、この笠ながら礼拝をするという心持がすっかり変って来る。右両様のいずれとするも、うららかな春の日とすればその心持には共通な点があるのである。

鉢に咲く梅一尺の老木おいきかな    鳴雪めいせつ

 これは盆栽の梅を咏じたので、普通に老木といえば少くとも一間いっけん以上の梅であろうけれども、これは盆栽の事であるから僅か一尺ばかりの木であるが、それでいてやはり老木なのである。その一尺位の木であってしかも嵯峨さがたる老木の趣を備えたところが即ち盆栽家の苦心の存するところで、その一尺の老木は梅の花が咲いておるというのである。何でもないことをそのまま言ったのであるけれども「梅一尺の老木」と言ったところがよく盆栽の梅そのものを現わしていると言っていいのである。

春寒く咳入せきい人形遣にんぎょうづかひかな    水巴すいは

 人形遣いは義太夫ぎだゆうばかりに限ったことでなくて、他の声曲類にも昔は大分人形が附随しておったのだそうであるが、現今では人形遣いというと先ず大阪の文楽座あたりの義太夫節に附随したものをすぐ聯想れんそうする。作者の意も恐らくそうであろう。文楽座あたりに行って見ると、今は死んだけれども、もとの吉田玉造よしだたまぞうとか桐竹紋十郎きりたけもんじゅうろうとか言ったような老人が上下かみしもけて、立役たちやくとか立女形たておやまとかの人形を使っておったものであるが、今でもまた相当の老人が恐らく主な人形遣いとして立っているであろう。そういうような年取った人形遣いが、春の寒さに風邪かぜを引いて咳入っておるというのである。あるいは作者の意は年は取っていなくってもいいので、とにかく今の世にはやや時代遅れの職に携っている男が、春の寒さに風邪をひいているというところに同情があるのかも知れぬ。句の上に老人というのは明らかに出ているわけではないのであるから、その方の解でもよかろうと思う。年齢は老人でなくっても時代遅れの職業に携っている男というのがやはり老人同様のびしい感じを抱かせるのである。そうして一つ忘れることの出来ぬことは、そういう佗びしい人間ではあるが、もともとあでな人形遣いであるというのが、同じ寒さに風邪をひくにしても、厳冬の寒さよりは春さきの寒さにひいたという方が、その艶な心持によくそうのである。こういう点は見逃すことの出来ぬ点である。

行春ゆくはるやあまり短き返り事    水巴

 行春というのは春の末のことで、春を生物の如く考え、その春がもう行ってしまうという所から行春と言ったのである。それを生物の如く見るところに春に対する愛惜の情が十分に在るのである。さてこの句意は、その春の末に或人のもとに何か用事があって手紙を出した。その用事というのも恐らくしかつめらしい殺風景な用事ではなく、何か文芸に関することとか、もしくは多少艶味えんみを含んだ情事に関することかであったろう、こちらからった手紙には十分に意を尽くし情をめて長い文句を書いてやったのであるから、その返事も同じような情意を尽くした長いものであろうと予期していたのに、それは余り短い返事であったというのである。即ちこの句のうちには春の暮れ行く怨みの上にその返事の余りに短かかったのをも怨む意が含まれているのである。

行春や選者を怨む歌の主    蕪村

 前の句から聯想してこの句を思い出したからついでに解釈する。晩春の怨につけて人に対する怨を叙した点は両句共に同一である。昔平家の武士の忠度ただのり俊成卿しゅんぜいきょうの『千載集せんざいしゅう』の中に自分の歌を読人知らずとして載せられたのを残念に思って、いくさに赴く前に俊成の門を叩いて、その怨をべたというようなこともある。そればかりでなく自分の歌について選者を怨むというようなことは随分ありがちの事である。同じ怨みでも一句の歌の主、即ち作者が選者を怨むというようなところには、やさしいみやびたところがある。それが暮春の情とよく調和するところから、この蕪村の句は出来たのである。お岩が伊右衛門を怨むとか、ハムレットが叔父を怨むとかいうのは、物凄ものすごかったり気味悪かったりする大分だいぶ深刻しんこくな怨みであって、それは秋の暮とでもいう心持にふさわしいであろうが、この選者を恨む歌の主の怨みはそれほど深刻ではなくって、何処どこかに一点のあだを存しておる、其処そこが暮春の怨みに相当するのである。こういう事が事実と季題との調和問題となるのである。俳句の季題きだいというものは、そういう点に意を用いて適当な人事に配合するのである。忠度の俊成をうた時が暮春であったからだろうとか、何とかいう理由でこれを解釈しようとするのは趣味の方を忘れた解釈である。この前咏史の事を言った時に、新蕎麦しんそばは長田が義朝を殺した時の時候と違っていることを言って、それに頓着とんじゃくしないのがかえって句をよくしているという事を話したが、こういう場合も同じような心持で句を見るがいいのである。すべてこういう風の句は事実の穿鑿せんさくよりもおもむきより来るべきである。

領土出れば身に王位なし春の風    水巴

 王位は人間の第一位と考えなければならず、また王位に在る人の幸福も思いやられるのであるが、いずくんぞ知らん、その位置に在る人になって見ると、その王位にあることが非常の苦痛で、どうかして暫くの間なりともそれを離れて見たいような心持がする。この句は別に王位を退しりぞいたものとは見られぬが、とにかく自分の領土を離れて単に一人の旅人となれば、もう自分の身にはその王位はなくなって、いかにも気軽な一私人となったのである、折節おりふし時候は春の事であるから、うららかな春風はその一私人の衣を吹いて、心も身ものびのびとするというのである。

豪奢飽きて心に遊ぶ春日かな    水巴

 豪奢の限りを尽くして、物質上の慾望は出来る限りの事をした。さてやはりこれでもう満足という処には達しないで、何か物足らぬものがある、この上はどうしたらいいか、唯心の上の快楽を求めるより外に道がないとさとって、心に遊ぶというのである。心の快楽というのは、ものを遠方に求めるというのでなく、一輪の椿の花を見てもそれを味う上に心の快楽を得る、唯机にもたれているばかりであるけれども、油然ゆうぜんとして楽しいのはやはり心一つに遊ぶからである、というような、そういう心の遊びである。贅沢の限りを尽くした人の最後の落著おちつき場所である。それが貴い悟りであるかも知れぬ、また止むを得ぬあきらめであるかも知れぬ。

出代でがわりのおのが膳くなごりかな    青々せいせい

 出代の事は前に言った。その時も言ったように出代りの句には出て行く方の古い奉公人の方を咏じたものが多いのであるが、これもその一例である。これは女中で、いよいよ今日の午過ひるすぎにお暇を貰うことと極っていたので、主人らの昼飯が終って後ちに台所の片隅で自分の昼飯をもすませ、さて自分の膳として与えられたままに今日まで用いて来た古膳も、自分で洗って自分でいて、それで一切の後片附あとかたづけを終って、その膳を拭いたという事を最後の名残なごりとして――いよいよ出て行くというのである。自分の膳を拭いてそれを名残として出て行くという所に淋しみもあわれもある。

出代の今や来るかと飯時分めしじぶん    格堂

 これは新らしく来る方を咏じたもので、新らしく来るはずの傭人やといにんは一向来ない。もう来そうなものだと待ち兼ねている光景で、折節おりふし飯時分になった、それにつけて来るのが遅いことである、ということである。

出代に教ゆ調度の置所    寒楼かんろう

 これも新らしく来た方のことを言ったもので、これは中働なかばたらきといったようなものらしく、この硯箱すずりばこはここに置くことになっている、この抽斗ひきだしにはこういうものを入れることになっている、あれは其処そこ、これは此処こことそれぞれ道具類の置場所を教えるというのである。前の格堂の句は飯時分とあるところからほぼ台所の女中の事を想像し、この句の方は調度とあるところから中働を聯想れんそうするのである。

出代に早くしたしむ子供かな    五城ごじょう

 前の嵐雪の句は、稚心おさなごころに出て行く傭人のものあわれを感じたことを咏じたのであったが、この句はその裏で、新らしく来た傭人に子供というものは慣れやすいもので、早もう親んでいるのを咏じたのである。これもなかなか考えようによれば人生の哀れさを覚えさせる句である。去る傭人をあわれがる子供があわれか、来た傭人にすぐなじむ子供があわれか。どちらかとも言い兼ぬるのであるが、大人の目から見るとかえって後者の方がよけいに物あわれなような心持もするのである。

出代や父が年貢ねんぐのとゞこほり    吾空ごくう

 これはまた小説的の趣向を言ったもので、父の年貢が滞ったがために娘は奉公に出て、その幾分を助けることになったというのである。年貢が滞ったために初めて奉公に出たのでなくって、已に奉公に出ている娘のその貧しい実家では、今度父の年貢が滞って更に窮迫を重ねておる、その場合その娘は今までの奉公先はひまが出て今度新たに他の家に奉公すると言ったような場合を言ったものとしてもいいのである。要するにその出代る女の身の上を咏じたのがこの句の趣向である。この句の場合はこの女が出る方か入る方かは、たしかにどちらという事は出来ない。唯そういう境遇にいる女と見ればいいのであるから、詰り出代りという言葉によって傭人という事を現わし、同時にその傭人の身の上に変動のある出代の季節であることだけを描き出したものとすればよいのである。またこれは女に限ったことはあるまい、男でもいいではないかという説があるかも知れぬが、その父の年貢のとどこおりにたいして手助けにもならぬというような心持が何処か言外に在るところが、どうしても倔強な男よりは繊弱かよわい女の方に想像されるのである。近松の『道中双六どうちゅうすごろく』に在る馬方三吉うまかたさんきちの情婦の父は年貢の滞りで水牢みずろう這入はいっているとある、何だかそういう聯想も何処やら在るような心持がするのである。

女夫めおとして住持酔はしぬ花に鐘    几董

 これは夫婦連めおとづれで寺へ花見に行って、もとより酒肴しゅこう持参の事であるから、どちらが主人やら判らぬようなわけで、その夫婦がとりどりにもてなして、住持を酔わした。折節入相いりあいの鐘が花のこずえに響き渡った、というのである。この住持はもとより徳のある坊主らしくも受取れぬ、一言でいえば生臭坊主で、夫婦のいたずら半分の勧めに、前後不覚に酔ってしまったのであろう。梵鐘ぼんしょう是生滅法ぜしょうめっぽうと響いたところで、坊さんは酔い倒れてしまっているというようなわけであろう。もっとも「女夫して……酔はしぬ」とある句法から見ると初めは住持の方はそれほどたがはずしていなかったのを、女夫して遂に酔わしてしまったというような、多少強迫的なところも見ゆるのである。が、いずれにしたところで有徳うとくの知識とは申されぬのである。寺へ酒肴持参の花見もなものである。これは檀那寺だんなでらの和尚さんを自分の家へ呼んで酔わしたものであろうという人があるかも知れぬが、特に下五字に「花に鐘」と置いたところから言っても、また「僧」とか「和尚」とか言わずに、「住持」と言ったところから言っても、どうしても寺ということをその光景中に描き出したくなるのである。天明時代にもそういう事実はよくあったことではあるまいか。今の世の中には勿論もちろんある。

花火尽きて美人は酒に身投げけむ    几董

 これは花火見の夜の光景で、東京でいえば両国の川開きの夜というような時、花火の盛に上っている時分はまだそうでもないが、もう花火が終って後は、今度は酒もりが盛になって、宴に侍しておる美人は遂に酒の中に自分の身を投げる位に盛りつぶされてしまうであろうというのである。芸妓げいぎのようなものの境界きょうがいを言ったのであるが、その芸妓が酒に身を投げる位であるから、客の方はもとよりいうまでもないことである。要は花火の後はいかに乱脈の酒宴が到るところに行われるか、想像に余りがある、というような句である。几董は蕪村の高弟で、天明の其角を以て任じ、酒をたしなんでおったとかいう事があるから、こんなに酒の句が多いのであろう。

蜂花に入りて落ちけり赤椿    牛眠

 物狂わしいように蜜を尋ねて飛び廻っている蜂が、一つの赤椿を見つけて、その花の一つの中にぶんぶんうなりながら這入はいって行った、その時、その椿の赤い花は、ぼたりと地上に落ちたというのである。椿の花に限って、俳句の方では散るといわずに落ちるという。これはよく椿の花の性質を現わしたもので、あの大きい花が、一弁ひとひらずつ散るというようなことなしに、ボタリと落ちる、其処そこに他の花にない趣があるのである。木蓮もくれんの花なども弁の厚ぼったく大きいところは椿の花によく似ておるが、それでも地上に落ちた時は崩れてしまっていて、紫や白の花片があちこちに散らかっているのである。それが椿になると、大概花全体が固まったままで、まだ白は白、赤は赤と美くしい色をしながら地上に落ちるのである。この落ちるという言葉のうちに固まって大きく形を為していること、地上に落ちた時に或る音を発するような心持等が聯想される。

赤い椿白い椿と落ちにけり    碧梧桐へきごどう

 其処に二本の椿のがある。甲は白椿、乙は赤椿というような場合に、その木の下を見ると、一本の木の下には白い椿ばかりが落ちており、一本の木の下には赤い椿ばかりが落ちておる、それが地上にいかにも明白な色彩を画してはっきりと目にうつるところを言ったのがこの句である。この句でも落ちるという字から、ぽたぽたとあの大きな花が重なり合って重げに地上に落ちている光景が聯想されるのである。これが「赤い椿白い椿と散りにけり」では、椿らしい心持はしないのである。

花二つ重り落ちて椿かな    竹奴

 前の句はあちらに一団、こちらに一団と落ちている景色を言ったのであるが、この句は二つの花が重り合って落ちているという、く狭い或る格段な場合を言ったのである。これも木蓮とかその他梅とか桜とかいうようなものなら、花になって二つ重なるどころか、一つの花が散り散りになってしまうのであるが、崩れずに形を備えたまま地上に落ちる椿の花であればこそ、かく特別な場合を見出し得たのである。またこういう光景はよく見ることである。

音のして椿落ちたる笹の中    鬼史きし

 これはまたその椿の落花の重たいことを音で現わしたので、あの大きな花が形を備えたままで落ちて来る、それが下に笹の生えているところであったので、ばさと音がして落ちたというのである。これも椿の落花を一方面から叙したのである。

ぽつたりと椿落ちけり水の紋    橡面坊とちめんぼう

 これもやはり音を現わしたことは前句と同様であって、下に池か川かその他何らかの水たまりのある上に椿の花が落ちた。重い大きな花であったので、ポッタリという音がした、というのであるが、前句と異るところは、同時に目に映る景色の活動を描いたところに在るので、その水の上に音をして落ちると同時に波皺なみしわが出来て、その椿を中心にして周囲に拡がって行くというのである。

流れ得ざる水のよどみの椿かな    子規

 この句は前句のように水上に落ちたる椿の花が、流れに従って流れて行くうちに、その水の淀んでいて十分に流れぬところに来た。其処そこでは水上に浮いたまま、やはり水と共に淀んでいる光景を言ったのである。桜その他の花でもこういう光景はよく見るところであるが、それが大きい目立たしい椿の花であるところに、明瞭なる印象を受けるのである。

活け下手べたの椿に彼方あちら向かれけり    蓼太りょうた

 これは落椿を言ったのではないが、やはり椿の花の目立たしい心持は前句と同じことである。即ち花生はないけに椿の花を生けようとする場合に、手並てなみが上手でないために、椿の花が正面を向かずに向うを向いたというのである。これも椿の花に限らず、どの生花いけばなにもよくあることであるけれども、あのものものしげな大きな花であること――椿の花の重いこと――椿の花の向うに向いたという事の目立つ事――等が特にこの花について言ったのである。この蓼太というのは天明時代の名高い俳人の一人で、の嵐雪の何代目かの後継者になっているのであるが、蕪村などにくらべると名高い割に句は上手ではなかったのである。才智は縦横であったようだが、趣味の上において大分劣っておったようである。この句の如きも、「活け下手」という言葉も俗臭があり、椿を擬人法にして、下手の力の及ばぬままに椿の花に向うに向かれてしまったという風に叙したところも気がいていてかえって厭味になっている。天保時代の梅室ばいしつ※(「虫+礼のつくり」、第3水準1-91-50)そうきゅうあたりの句を月並調つきなみちょうと言って排斥するのであるが、天明時代のこの蓼太の句などに、すでにその傾向は多少見えていたのである。この句の如きも天保時代の句に比すれば、なお多少雄健なところが何処かにあるけれども、決して讃すべき句ではないのである。俳句では芭蕉を中心とする元禄時代、蕪村を中心とする天明時代をむねとすべきである。

春の水背戸せどに田作らんとぞ思ふ    蕪村

 春の水の汪洋おうようとしてたたえている趣は豊かないい感じのあるもので、いつも見慣れた背戸ではあるけれども、かくまでに春の水が満ち満ちている処を見ると、ふと田でも作って見ようかという気になるというのである。この句は蕪村として決していい句ではないけれども、前の蓼太の句よりは句の品格がいいのである。蓼太の句は趣向が必ずしも悪いというのではないが、「生け下手」とか「椿に向うに向かれた」とかいう句法の上に欠点があるために、品格の悪いものになってしまっている。この蕪村の句は、趣向が必ずしもいいというのではないが、「背戸に田作らんとぞ思ふ」という風に調子がいやしくないために、句が一等上になっているのである。この調子というものは大事なもので、言葉つきで人間の品格が隠くされぬのと同しことで、句の調子で自然にその品位は極まるのである。これは句を作る人もおおいに注意しなければならぬことであるが、また句を見るものもよほど心に掛けて見分けねばならぬのである。ちょっと一読して見て、面白いことを言っているとか、うま穿うがっているという点からいえば、この蕪村の句よりも前の蓼太の句の方がはるかに上かも知れぬけれども、春水しゅんすいというものの趣――春水満四沢というような趣――を味って、その趣に根柢を置いた点をいえば、蓼太のちょっとしたところに眼をつけたのよりは大分深いところがあるのである。

磯山や小松が中を春の水    几董

 几董は前にも言ったことのある通り蕪村の高弟で、やはり蓼太などよりは句は上手である。海岸近い磯山の小松がえている中に、春の水が流れておるというだけであるが、磯山という所から何処となく清浄な感じがある、中に小松ばかりが生えていて、他の雑木ぞうきまじえぬところにまた一層潔い心持がある、その中をちょろちょろ、春の水が流れておるというので、この句は春水の美くしさを現わしたのが主眼となっておる。蓼太の句のような巧みさはないが、素直すなおに趣を専一とした句である。

近江路おうみじや何処まで春の水辺なる    月居げっきょ

 これは琵琶湖の光景で、東海道の道中でもする時分に近江路を歩いておると広々とした琵琶湖は霞を棚引たなびかせて際涯もないように春の水をたたえておる。あの大きな琵琶湖のことであるから、近江路を歩いておる間は殆ど琵琶湖を離れることがない位である。全体この水は何処まで続いているのであろう、というのである。「何処まで春の水辺なる」というあたりに調子の巧みさはあるけれど、やはり趣を専一とした句で、ちょっと人をあっと言わせてやろうというようないやしい巧みはないのである。この作者月居もやはり蕪村の高弟の一人である。

源は柳なるべし春の水    蓼太

 それが蓼太になると、やはり気取った作り物のような句になるのは、この句などはいい例である。春の水の美くしく流れているところを見ると、この水の水上みなかみあくたや小石などの間からいている水とは思えん、多分水上は柳の木のある辺から湧いているのであろう。この春の水の柔い味のあって美くしい処は、木でいえば先ず柳の糸のなよなよと青みがかっているものと似通っているから、是非そう想像をつけねばならんというのである。これらはちょっと考えるとやさしい考えのようであるけれども、ものにこだわり過ぎた俗な思想であって、いくら春の水が美しいと言ったところで、その水上が柳の木から流れ出ているであろうというのは理窟である。実際また落葉や芥や小石やらの間から、ちょろちょろと流れ出ているところに実際の美くしさはあるのであって、それが是非糸を垂らしておる柳の木の下からであるように解するのはいわゆる月並である。殊にこの句の最も大きな欠点というのは「柳なるべし」という言葉で、一応、柳の木の下から流れ出ている、という風に解釈して見たけれども、よく考えて見ると「柳なるべし」というのは曖昧な言葉で「水上は柳だろう」というのは厳密にいえば何のことやら判らぬのである。「柳なるべし」というので「柳の木の下から流れ出ているであろう」と解するのはむしろ解するものの無理かも知れないのである。いて解釈すればあるいはこう解釈することが出来ないでもない。ここに流れているのは水である、しかしこの水上を探り探って行くとそれは一本の柳かも知れん、今目に水と見られるところのものも、ずっと水上に探りのぼれば水ではなくって一つの柳の木かも知れん、柳の糸のなよなよと枝垂しだれているのが地上に垂れて、それが水になって、その末がかく流れになっているのかも知れん、とそんな風の意味とも解釈の出来ないことはないのである。いや恐らく作者も、またこの蓼太時代の蓼太の崇拝者もそんな事は穿鑿せんさくせずに、唯春水から柳を聯想して水上は柳だろうと言った、其処に一種の思いつき――巧み――があるものとしたものかも知れぬ。蕪村、几董、月居などの句と比べて見るといかに力の入れ処に相違があるかという事が判るであろう。前に俳句というものは僅かに十七字で簡単な字数であるから二様にも三様にも句意が解釈される場合があるという事を言ったけれども、しかしこの句の如く曖昧なことを承知の上で叙したような句は好ましくない。一種の誤魔化ごまかし句と言われても弁護の余地がないのである。其処の区別はよほど注意しなければならぬ。

春の水山無き国を流れけり    蕪村

 春の水がゆったりと流れおる光景を言ったもので、山なき国というのは日本ではやや空想に近い言葉ではあるけれども、先ず平原の続いた広々とした国と見ればいいのである。その山のないような広々とした国を流れている川は、折節おりふし春の事であるから雨がしばしば降り、今までれておった冬川と反対に沢山の水をたたえおるというのである。広々とした平野を汪洋おうようと長く流れおる春の水の光景は、のんびりしたいい感じである。

足弱あしよわの渡りて濁る春の水    蕪村

 春の水は春夏秋冬四季の水の中でいえば最も女性的なものである。優し味もあれば美くしさもある。そこで足弱――女の事――が渡っても、その春の水はやさしく濁るというのである。ちょっとものがさわっても抵抗力がなく、すぐしなうというようなところに女性的なところがある。春の水もそのように女性的で抵抗力がなくって、あの足弱が渡っても、そのために早濁るというのである。反言すれば強い男の猛者もさなどがかね草鞋わらじなどで踏みにじるのならば濁るのももっともであるが、あの足弱が渡っても濁るところはどうしてもやさしい春の水である。この句などは優しい春水を咏ずるのにやや理窟にちかけたもので、蕪村の句のうちでもいい方とは言えないのである。「水上は柳なるべし」ほどではなくってもややそれに類する嫌いがあるのである。

小舟にて僧都そうず送るや春の水    蕪村

 僧都といえば僧正というのについだ位の坊主の事、その身分ある僧都の何処かへ行くのを送るのに、大きな舟ではなく小さい船で送るというところに、春水のやさしみと調和するところがあるのである。殊にこの僧都は天台てんだいとか真言しんごんとかの美くしいころもでもた坊さんであろうから、それが春の水の上に浮んでいるところに、美くしさの上の調和もあるのであろう。この句は足弱ほどではないけれども、殊に春水に拘泥こうでいして小舟と言ったり僧都と言ったりした痕跡があって、何処やら作りものらしい感じがするところがある。蕪村集中の佳句の方ではない。

昼舟ひるぶねに狂女のせたり春の水    蕪村

 謡曲『隅田川』の狂女をにしたような句である。舟に狂女が乗ってそれが春の川に浮んでおる、というのである。殊に昼舟と断ったのは、朝でもなく夕方でもなく――勿論夜でもなく――春の日永ひながの頃の、しかも真昼中まひるなかであるというところに、一層ゆったりしたような心持を含ませたものであろう。物狂ものぐるいといいながらも、そう乱暴をするような狂女ではなくって――たとえば謡曲『隅田川』の狂女のように、都鳥の問答をしたりするようなやさしい狂女であって――それが川を渡るためか何かで舟に乗っている、その女が普通の女と違うところに、かえってゆったりした心持がある。それが前いうように昼間であるということが、いよいよその心持を強めるのである。前の僧都の句と似寄った句であるけれども、こちらがいくらか作りものであるという痕跡が少ないかとも思う。しかし程度も先ず似寄った句である。

重箱じゅうばこを洗ふて汲むや春の水    蕪村

 これは些細ささいな人事を咏じたものであるけれども、前の二句などに比すればよほど自然である。何処か水辺に野遊びに行った時か、もしくは舟遊びをしている時かの光景で、たずさえて行った行厨こうちゅうを開いて楽しい昼飯を食った、その御馳走のからになった重箱をすぐ其処の水で洗って、その重箱に水を汲み上げた、というのである。野遊びなどに行ったことのある人は必ず実見したことのあることで、その重箱に汲み上げた水をすぐ飲むか、もしくは土瓶どびんにでも入れてわかして飲むか、いずれにしても、今ものを洗った水をすぐその洗った器で汲み上げて飲むという処に、野遊びらしい暢気のんきな心持も十分にあるし、またその水の美くしさも思いやられるのである。この句の如き事柄は前の二句にくらべてむしろ些事さじであるけれども、作りものらしい痕跡がなくって、自然の趣を得たことにおいては遥に上位に位しているのである。好句の一たるを失わない。

橋なくて日暮れんとする春の水    蕪村

 ある川に出た。是非この川を渡らねばならぬのであるが、ちょっと見たところでは何処にも橋がない、それにもう日暮であるから、ぐずぐずしていると日が暮れてしまう、そういう時の光景である。けれどもこれが秋の日の釣瓶落つるべおとしというような時だと、そういううちにも日が暮れてしまうのであるけれども、「暮遅し」という言葉のあるような春の夕暮のことであるから、そうは言いながらもなかなか容易に暮れてはしまわない。其処そこに流れている水も春の水でやさしく静かに流れている。そう差し迫った心持がしない。そのゆったりした感じが十分によく出ているのである。この句の如きは趣向も下鄙げびておらず、趣も自然であるし、たしかに好句である。

人音にこけ込む亀や春の水    太祇

 太祇も天明の俳豪の一人で、蕪村よりはむしろ先輩で、しかも蕪村の友人であった。几董の句などは蕪村の感化を受けたと同じ程度に太祇の感化も受けているように見える。この句は春の水のほとりを歩いていると、今まで岸辺に出て遊んでいた亀が、その足音に驚いて逃げようと走りかけたが、あの大きな甲羅こうらを持っている亀のことであるから、素早く逃げることが出来ず、自分の重みでころころと水の中へんでしまったというのである。長閑のどかな春の水の趣も一方に想像されるが、しかしこの句の如きはその亀を描いたところに特色があって、いかにも亀らしい心持のするところに面白味がある。

我事わがこと泥鰌どじょうの逃げし根芹ねぜりかな    丈草じょうそう

 この句を芭蕉が丈草出来でかされたりとか何とか言ってめたという事がある。この句は根芹をもうとして水の中に手を入れると、其処にいた泥鰌が、驚いて逃げたというのを、自分がどうかせられるのかと思って逃げやぁがった、という風に叙したところにおかしみがあるのである。泥鰌にはよく見る光景を捕えてはいるのであるが、しかし、「我事と」という作者の主観でおかしみをつけているので、まだ何処か句に幼稚なところがあるが、前の太祇の句になると「こけ込む亀」と言って亀の行動を客観的に叙していて、しかもおかしみを十分にそなえたところに、この丈草の句よりは一歩を進めたところがある。

ゆくふねに岸根をうつや春の水    太祇

 また太祇の春の水の句に戻って今一句この句を解釈しようならば、春の水に浮んでいる一そうの舟が水上をいで行くと、その水面に起った波動がしまいに岸まで及んで、その岸根をちゃぶちゃぶと打つというのである。これは春の水の美くしいとかつやがあるとかいう方よりは、静かな心持を言ったものであろう。その舟が行く以前は鏡の如く静まり返っていた水が、はじめて舟によって波を起して、その波が及び及んで遂に岸根を打つというのである。

城外や水春にして四方よもの船    水巴

 ある城がある。その城の外に大きな川があって、其処には諸国の船が集まって来ている、というのである。繁華な城下の或光景を捕えたものである。「水春にして」という言葉などは明治になって殊に多く使用されるようになったものである。この意を延べて言えば、水ばかりでなくすべて春の光景であるけれども、殊に水の景色も春らしい色を帯びて、とでもいうのである。春になれば人の心も動き始め、凡てのものが活溌になる。城外の川に集まって来る諸国の船も従って多くなって来たのである。この句の如きは春水の盛な趣を言ったのである。

春水やいくつ舟出す三井みいの僧    水巴

 これも近江の琵琶湖を言ったもので、春になって三井の僧が舟遊びをするために或日湖水に舟を浮べた。一艘々々と漕ぎ出て行くところを見ていると、もうおしまいかと思うのにまた一艘漕ぎ出して行った。全体何艘舟を出すつもりなのだろうと言ったのである。三井の僧の盛んな遊びを叙したのである。この句も春水の盛んな光景を捕えたものである。

競漕の旗ひたりけり春の水    景水けいすい

 これは隅田川のボートレースを叙したものであろう。春の水の上に何艘かのボートが殆んど沈むかと思うようにへさきを水に突込んで、速力をきそって漕いでおる、その一つ一つのボートに在る旗が、いろいろ違った色をしているのであるが、そのうちの一艘のボートの旗は、水の中にひたっているというのである。その旗の水にひたっているところを見つけたところに、春水に親しみあこがれるような作者の心持は現われておるのである。これらは春水に対する作者のなつかしみというようなものが、主な背景を為しておるのである。

地震ないふつて春の沢水あふれけり    青々

 地震のために急に水が吹き出したり、また水がれたりすることは随分よくあることであるが、しかしこの春水は必ずしもその地震が原因というわけでもあるまい。折節おりふし地震がゆった、その地震もそう烈しい地震ではなかった、野沢の水は春になって一面にち溢れているというのである。こう考えると、地震もまた景色の一つを為すのみで、春の野沢の水の溢れ充ちてある光景に、更に一つの景色を添えたことになるのである。即ちおそるべき地震もまた豊かな春の野の一点景物となるのである。水巴の句以下は現代の句である。これを以て見ても、今日の句は必ずしも天明時代の句に劣っていないことが判るのである。

下ろし置くおい地震ないふる夏野かな    蕪村

 この句も地震を咏じたものである。或修行者のようなものが、笈を負うて夏野を歩きつつあったのが、其処に笈を下ろして休んでいると、その時地震がゆったというのである。笈に地震るとあるから、その笈が地震のために少し動くのも目に映ったのであろう。この地震も恐らく大きな強震ではなく、ああ地震がゆると言ううちにその笈も少し動くのが見えると言ったような光景であろう。草木なども茂って勢力のうちに籠っているような心持のする夏野が、僅に地震によって力を上部に現わしたような感じがするのである。その点から言ってもこれが大きな地震であると、かえって夏野の大きなゆったりした感じをぐのである。体も大きいし容貌も魁偉かいいで声音も多いという人が、別に大きな声も出さず、僅に微笑をしたところに、かえって偉大な感じを起すのと同様である。

行々ゆきゆきてこゝに行々ゆきゆく夏野かな    蕪村

 これも夏野の大景を言ったもので、何処まで行っても広々とした原野で、なかなか果てしがないことを言ったのである。行って行ってまた行って行って、現在もまだ歩きつつあるのであるが、やはり夏野を越し切らないというのである。「ゆき/\てこゝにゆきゆく」というような畳句たたみくが一層その果てしなき夏野の力を強めているのである。前に調子のことをちょっと言ったことがあったが、この句の如きは調子によって趣きを助けている一例と言っていいのである。

たえず人いこふ夏野の石一つ    子規

 これも夏野の広々とした感じである。夏野の中に道があって、その道のほとりに一つの石がある。その石は丁度適当な場処に在って、適当な形をしているために其処を通る旅人はよく休む。一人の旅人が休んで立去ったと思うと、もう其処に他の旅人が休んでおる。――時としては二人も三人もやすんでおることがあるかも知れぬ――何にしてもその石の上に旅人の絶えたことがないというのである。夏野の道を旅人の小止おやみなく通っていることも聯想さるれば、その石を唯一の休み場処とする夏野の広々とした光景もうかがわれる。この句もまたこの切字きれじのないような一直線な叙法が、旅人のいつも絶えずに其処に休んでいることを聯想さすに十分の力を持っているのである。この句の作られた時から今日までもまだその野中の石には、いつも入りかわり立ち交り旅人は休んでいるような心持がするのである。

夏野尽きて道山に入る人力車じんりきしゃ    子規

 夏野を人力車で越していると、随分長い夏野のみちではあったけれども、漸くもう野を越えてしまって、それから道がまた山に入るようになった、人力車はやはりその山路を通るべく其処へ引き入った、というのである。これらは夏野を正面から描かず、広い夏野は遠景の方にぼかしてしまって、目前の景色はその夏野の果になって、これから山路にかかろうという所に、一人の旅人を乗せた人力車を描き出したのであった。人力車が夏野を過ぎて山路にかかるところに、よく旅で出会でっくわす情景が浮び出るのである。この句は夏野を正面に描いていないにかかわらず、やはり夏野の広大な感じは想像されるものである。

実方さねかた長櫃ながびつ通る夏野かな    蕪村

 蕪村は夏野というような大景を句にすることにおいては、たしかに儕輩せいはいに卓越しておった。太祇や几董などにはこの種の題の句は余り沢山なく、あってもそれほど自由でないが蕪村は自由である。ここらが蕪村の大家たるところであろう。そこで今一句蕪村の夏野の句を解釈して他に移ろう。この句は実方中将が、宮中で物争いをしたために「歌枕見て来れ」というような勅諚ちょくじょうの下に東北の方に追いやられ、仙台近くの笠島かさしまという処まで行って、落馬したのがもとで死んだというその憐れな故事を材料にしたもので、とにかく公卿の旅行の事であるから、その旅荷物として長櫃位はあったろう、その長櫃が、とぼとぼと実方の夏野を歩いて行くあとについてやはり夏野をかくれて行くというのである。きの『隅田川』の狂女の句と同じように、こういう歴史的の句を作るという事もまた作者の一技倆ぎりょうではあるが、しかし下手へたにやると見られぬものになってしまう。先ず蕪村などは比較的上出来の方と言ってよかろう。

笠島やいづこ五月さつきのぬかり道    芭蕉

 この句は『奥の細道』中に在る句で、次のような文章がある。「奥州名取のこおりに入りて中将実方の塚はいづくにやと尋ねはべれば、道より一里半ばかり左の方笠島といふ処にありと教ふ。降り続きたる五月雨さみだれいとわりなく打過ぐるに。」即ちこの文章にある通り、旅行のついでに芭蕉はこのあわれなる歌人のあとをとむらおうと思ったけれども、何分五月雨が降りしきって不本意ながらも行けなかったのである。さて句意は、笠島は何処ら辺であろう、その方向を見渡して見ると唯五月雨のぬかり道が見えるばかりであるというのである。実方中将の句にはなお次の一句がある。

実方中将の墓にて
君が墓たけのこのびて二三間    子規

 この句は作者が「はて知らずの記」と題する紀行文をものした奥羽行脚あんぎゃの時の句である。同じく夏ではあったけれども、芭蕉と反対に親しく笠島に実方中将の墓をとむろうて触目しょくもくした光景をそのまま言ったのである。実方中将に向っていうような心持で、君の墓には二、三間にも延びた筍が突立っておるというのである。「はて知らずの記」にはこの句は載っていない。あとで作ったものか、あるいは収録するに足らぬ句として入れなかったものか、いずれかであろう。「はて知らずの記」の文章をここに引用して置くことは無用の事でもあるまい。

 巡査一人草鞋わらじにて後より追附かれたり。中将の墓はと尋ぬれば我れにきてよといふ。道々いたはられながら珍らしき話など聞けば病苦も忘れ、一里余の道はかどりてその笠島の仮住居かりずまいにしばし憩ふ。地図を開きて道程細かに教へらる。いと親切の人なり。野径のみち四、五町を過ぎ岡の上杉暗く生ひこめたる中に一古社あり。名に高き笠島の道祖社なり。京都六条道祖神の女の商人に通じてついにこゝに身まかりたりとかや。口碑もとより定かならず。

われは唯旅すゞしかれと祈るなり

 杉の中道横に曲りて薬師の堂を下れば、実方の中将馬より落ち給ひし処大方こゝらなるべし。中将は一条天皇の御時の歌人なり。ある時御前にて行成卿の冠を打ち落しゝより逆鱗げきりんにふれ、それとなく奥羽の歌枕見て来よと勅をこうむり、処々の名所を探りて此処にかゝり給ひし時、社頭なれば下馬あるべきよし土人の申しゝに、さては何の御社にやと問ひ給ふ。土人しか/″\のむね答へしかば、そは淫祠なり馬下るべきにもあらずとてさかを上り給ひしに、如何いかがはしたまひけん馬より落ちて奥州の辺土にあへなく身を終り給ふとぞ聞えし。田畦たあぜ数町を隔てゝ塩手村しおでむらの山陰に墓所あり。村のわらべにしるべせられて行けば、竹藪の中に柵もてめぐらしたる一坪ばかりの地あれど、石碑の残欠だに見えず。唯一本の筍誤って柵の中に生ひ出でたるがたけ高く空を突きたるも、中々に心ある様なり。其側に西行の歌を刻みたる碑あり。枯野のすすきかたみにぞ見ると詠みしはこゝなりとぞ。ひたすらに哀れに覚えければ我行脚あんぎゃの行末を祈りて、

旅衣ひとへに我を護りたまへ

 塚の入口のかなたに囲はれたる薄あり。やう/\一尺許り生ひたるものから、かたみのすすきとはこれなるべし。云々。

 この筍の句がいかなる光景を読んだものであるかという事は、この文章と照し合わして見ると一層よく判るのである。芭蕉の句が五月雨さみだれの句であったのを縁にして、元禄以来の五月雨の句を少し評釈して見よう。

五月雨さみだれをあつめて早し最上川もがみがわ    芭蕉

 これもやはり『奥の細道』に在る句で、折節おりふし五月雨の降る頃であったので、最上川の水勢を増してものすごい勢で流れているのを咏じたのである。降り続く五月雨のために水嵩みずかさの増しているのを「五月雨をあつめて早し」と言ったのである。広い国原に降る五月雨をこの最上川だけに集めているような感じがするところに、この句の強味つよみがあるのである。

五月雨の雲吹きおとせ大井川    芭蕉

 これも大河と五月雨との配合であるが、大井川は人も知るように昔東海道でよく川止めなどのあった難所の一つ。その大井川に芭蕉が行った時に、あたかも大変な出水でみずで、いつ五月雨が晴れそうにも見えぬので、どうか晴れてくれればいいと祈る心から、五月雨を降らすその雲を大井川の中へ吹き落としてしまえと言ったのである。そうすれば空が晴れて、雨もみ自然この出水もなくなるであろうというこころである。以上二句は芭蕉の五月雨の句としてよく壮大な句の例に引合いに出されるのである。

五月雨に家ふり捨てゝなめくじり    凡兆

 これは五月雨の大景というよりは、むしろ小景を見出したのである。五月雨の降る中をなめくじりがよく出歩いているのは人の見る通りである。木の幹などはいうに及ばず窓のふち縁側えんがわや時としては鴨居かもいまでにおる、なめくじりは雨を喜ぶあまりに自分の栖家すみかもふりすてて高歩たかあるきをしておるというのである。この句の場合は右の家の中などにいる場合ではなく、竿の先とか竹垣とか、その他雨の降りそそぎつつある中を出歩いている場合であろう。

髪剃かみそりや一夜にさび五月雨さつきあめ    凡兆

 五月雨の降る頃はすべてものが錆びやすい。ぎすました剃刀が一夜の間に錆びてしまったというのである。これも五月雨の大景を見出したのではなく、小さい或事実をつかまえて来たのである。けれどもこの句も前の句もその小さい事実を通して五月雨の降り続いている湿しめっぽい天気が十分に想像が出来る。

馬士うまかたいい次第なりさつき雨    史邦ふみくに

 これは五月雨の降る中を歩いていた旅人が、ついに道の悪いのにえかねて馬に乗った場合の句である。こちらの足許を見すかされているのであるから、万事馬方の言いなり次第で、賃はもとよりの事、急ぐ旅であっても何処かの茶店で暫く休むといえば、それも聞入れねばならず、その他万事客でありながら少しも頭が上らぬのを言ったのである。雨中の困難というような事がこの句の背景となっているのである。

縫物やもせでよごす五月雨    羽紅うこう

 羽紅というのは凡兆の妻だという説がある。尼羽紅とあるところから見てもとにかく女には相違ない、この句も女らしい句である。縫物をどういう風にした場合かという事はこれだけでは判らぬが、あるいは風呂敷ふろしきにくるんで雨中持って歩いておるような場合でもあろうか。何にせよまだ著物として手を通しもしないのに五月雨のためよごしたというのである。五月雨のために天も地も家の中も湿しめっぽくなってしまったような心持で、新らしいと言ってもまだ著物にも仕上らない縫物にまで泥をつけた、といって嘆息するのである。以上は皆元禄の五月雨の句である。

五月雨や夜半よわに貝吹くまさり水    太祇

 それが天明になると先ずこの句のようなのがある。五月雨のため水嵩みずかさが増したと言って、沿岸の民家を警戒するために夜中に法螺貝ほらがいを吹き立てるというのである。これは随分大正の今日でも見る光景であって、たとい法螺の貝を吹かぬにしても、半鐘はんしょうでも乱打らんだして人の眠りを驚かすのである。

つれ/″\と据風呂すえふろ焚くや五月雨    太祇

 この句は前と反対の暢気のんきな句で、毎日々々雨が降って退屈しておるのに、今日もまた降り続いて退屈で仕方がない、そこで仕方なしに据風呂でも焚いて這入はいろうというのである。をうつにも相手がなく書物を読むにも鬱陶うっとうしい、その上著物も畳も凡て湿しめっているようで気持も悪いから据風呂でも焚いて湯に這入ろうとするのである。

塩魚しおうおも庭のしずくや五月雨    太祇

 塩魚をはりか何かにって置いたところが、連日の雨で空気が湿っているのでその塩魚の塩が溶けて土間の上にポタポタと雫が落ちるというのである。天気がよければからからになっている塩魚が、雫になるまで湿っぽいというのは、五月雨頃の鬱陶しい心持をよく現わしておると言ってよい。

五月雨や大河を前に家二軒    蕪村

 太祇の句は五月雨という壮大なものを捕えて来ても、むしろそれを人事に持って来て――小景として取扱ったことは、元禄の凡兆などと似たところがあるが、蕪村はやはり大景を捕えて来ている。その点が元禄の芭蕉に似ておると言ってよい。それらの点から芭蕉、蕪村と併称してもいい資格の一つである。この句は五月雨の降る頃、そのために水嵩みずかさの増しておる大河を前に控えて家が唯二軒あるというのである。物凄ものすごいほど水が増して轟々ごうごうと濁水がみなぎり流れておるそのつつみに沢山の家もあることか、小さい藁葺わらぶきの小家が唯二軒あるばかりだというので、その川の壮大な力強い感じと、それを控えて平気な顔をしている二軒の家の心細いような、しかも何処やらそれにえて力強いようなところが現われているのが、この句の力となっているのである。これが沢山の大きな家が並んでいるのであると心丈夫らしくって、かえってその川水の勢力にじっと堪えている力は弱いようなところがある。それが唯二軒の家であるために、その強大な力をその唯二軒の家でじっと耐えているようなところに、かえって内に籠って外に発せぬ強大な力を認めるのである。

湖へ富士をもどすや五月雨    蕪村

 ことわざに一夜の間に富士山と近江の琵琶湖とは出来たというようなことを言っておる。これも其処から思いついた句で、こう小止みなく強雨ごううが降っては、極端富士山を湖へ戻してしまうであろうというのである。一夜の間に出来たというのは、取りも直おさず湖の窪んだその土が富士山となって突起したのであるが、雨のために富士山の土は流されてもとの処へ戻されて湖は埋まってしまうであろうというのである。五月雨のため山の土を流し、それを湖海に推し出すことを極端に言ったまでの句であるが、大きなことを言ったといえば言えるのである。しかし余りいい句ではない。

五月雨や仏の花を捨てに出る    蕪村

 五月雨の降り続くために仏前にそなえて置いた花も取りかえることが出来ず、日を経て枯れた上に腐るような心持もする、そこで或日雨中にその花を棄てに出るというのである。雨中の鬱陶しい心淋しいような心持がよく出ている。この句の如きは大景を言ったものではないけれども、いい句たるを失わぬ。

五月雨や滄海あおうみ濁水にごりみず    蕪村

 五月雨のため川の水は濁ってしまって、濁水が非常な勢で流れておる、それが海に這入はいる時の光景を言ったもので、大海はそのために濁るというわけでもなく、やはり毎日のように日に二回の干満をやって寄せてはかえしているのであるが、その中にその川の濁水は非常な勢で突入っているというのである。これも壮大な方の句である。

五月雨や水に銭ふむ渡し舟    蕪村

 これはまた小さい人事を言ったのである。渡し舟の中も五月雨のために水がたまって、跣足はだしでその舟に立っておると、その水の中に銭が落ちている、それを足の腹で踏んだというのである。五月雨頃の光景が極めて適切に書かれておる。滄海の句などよりも、むしろこういう句の方に五月雨らしい心持は強く出ているのである。

五月雨のなおも降るべき小雨こさめかな    几董

 降り続いている五月雨が、何処やら晴れそうになって来て明るくはなったのであるが、しかも小雨がしょぼしょぼと降っておる。この塩梅あんばいだととても晴れはしないで、遠からずまたざあと降って来るであろうというのである。五月雨そのものの或場合の光景を描いたもので、「猶も降るべき小雨」と言った句法が巧みである。

五月雨や船路ふなじに近き遊女町    几董

 五月雨の降っておる海岸か、もしくは川っぷちに在る遊女町のことを言ったので、出船でふね入船いりふねのあるその船路に近い遊女町は、五月雨の鬱陶しい中にもなお絃歌の声が聞えておる。流連いつづけの客もかえって雨のためにある位であるけれども、さすがに何処となく物淋し気で一種の哀れがあるとでもいうのであろう。そういう感じの方は読者の随意に任すとして、とにかく船路に近い五月雨の遊女町というものをつかまえて来て、人々の前に突出したところに、この句の働きはあるのである。以上で天明の句はおしまいとする。

五月雨の合羽かっぱつゝぱる刀かな    子規

 これは維新前のさむらいの道中などを想像したもので、五月雨のため合羽をて歩いていると、刀が定めて突張るであろうというところから出来た句である。維新前の人であったら余りありふれた事で、そんな事は句にしようとも思わぬかも知れぬのであるが、その時代を過ぎ去って見ると、こういう事を句にして見て何処やらその時代をなつかしむ心を満足さすのである。

しいあるじ病みたり五月雨    子規

 椎の舎の主というのは誰の事を言ったものともわからぬが、とにかくこの文字から想像のつく通り、大きな椎の木のある家の主人に違いない。そういう大きい椎のある家であれば、自然そのかげになっている家は鬱陶しいに相違ない。晴れた日であっても余り晴れ晴れしくない家が、五月雨のためにますます陰気で鬱陶しい、そのためというのではあるまいけれども、主人は病気で寝ているというので、いよいよ鬱陶しい陰鬱な心持は強くなるのである。

病人に鯛の見舞や五月雨    子規

 これは前の句と違って、同じ病人を叙するにも陰鬱に一方を言わず、その陰気な中へ或処から病人へ見舞と言って美くしい鯛を見舞に届けたというのである。その鯛のために一点の打晴れた陽気な心持を呼び起すところがこの句の生命である。

五月雨や晴るゝと思ふ朝の内    格堂

 先きの几董の句とやや似寄った題で、朝の間は明るくなって、この塩梅なら今日は晴れるだろうと思っていたに、また暗くなって降り続けたというのである。

川越しの小兵こびょうに負はれ五月雨    紅緑こうろく

 五月雨に水嵩みずかさの増している川を渡る場合に、人の背に負われて渡る、その自分を負うてくれる男は小兵であって、自分よりも背の小さい男である、という処にちょっとした矛盾と滑稽とを感ずるところがこの句の生命である。

五月雨の漏るやかわやに行く処    寒楼

 五月雨の漏るというのは、ありふれたことであるが、その場所が厠に行く所だと指定したところに、この句もちょっとした滑稽があるのである。要するにここに挙げた近代の句は芭蕉や蕪村やの大景の句に相当するほどの価値のあるものはないと言ってよい。但しこれが近代の句の粋を抜いたというのではない。手当り次第に取り出したので、代表的の句とするには足りないのである。それに反し芭蕉、蕪村等の句は代表的の句である。次に秋風の句に移って見よう。

加賀の全昌寺に宿す
終夜よもすがら秋風聞くや裏の山    曾良そら

 曾良というのは芭蕉の弟子で、芭蕉奥羽行脚あんぎゃの時ともとなって、何かとその世話をして歩いた男であったのであるが、加賀に這入はいった時病気になって芭蕉に別れ、一人江戸に帰ったのである。これはその芭蕉に別れた夜、加賀の全昌寺という寺に泊って、腹が痛むために終夜眠られなかった時の句である。眠れないために終夜裏の山を吹き鳴らしておる秋風の音を聞いたというのである。旅のしかも病中の物凄い秋風を咏じたのである。

人に似て猿も手を組む秋の風    珍碩ちんせき

 珍碩もまた芭蕉の弟子である。秋風の吹く頃はうら淋しく、どこかに寒さを覚えはじめるので、猿もじっと手を組んでおる、それが人に似ておるというのである。この句の如きは秋風のもの淋しさを現わそうとして、無心の猿もまた自然その物淋しさを知っておるという風に言ったところに、多少の厭味いやみを持とうとしておる。元禄の句には質朴なところがあって、僅かにそれを救うておるのである。

旅行
あか/\と日はつれなくも秋の風    芭蕉

 旅中の物淋しい心持を言ったもので、秋の風のたもとに寒い頃、夕暮になって来ると、赤い夕日は西に沈んで、その日は我につれないような心持がすると言ったのである。芭蕉のような孤独の境界きょうがいにいる人が、秋の夕暮旅に在りてまだ宿しゅくにもつかず、これからまたとうげを一つ越さねば宿がないというような場合の心持は、いかにもこの句に現わされたようなものであろうと想像されるのである。「日はつれなくも」という言葉など、これが他の人の言葉であるとあるいは厭味を感ずるかも知れないのであるが、元禄のしかも、始終そういう境遇に身を置いた芭蕉であるとすると、その言葉に権威があってしかも真実が籠っていて、その厭味は感ぜられないのである。こういう事をいうと、人によって句の価値を二、三にすると言って攻撃する人があるかも知れないが、俳句にはそういう傾は実際あるのである。一概にそうばかりとはいえないが、作者を離して俳句を考えることの出来ない場合は決して少くはないのである。次に天明に移ると、

おもひ出て酢つくる僧よ秋の風    蕪村

 ふと思い出でて、そうだ一つ酢を作って見ようと言って、或坊主がそれに取りかかった、それは秋風の吹く頃であったというのである。別に秋風に酢っぱい味があるというのではないが、夏も過ぎて秋風の吹く頃になると人の心も引きしまり、忘れていた事も思い出しやすく、その上酒などと違って酢というものを造ることを思い立ったという処に、何だかその秋風に心の引きしまった僧の思いつく事として、さもありそうなことのように思われる。これが牡丹餅ぼたもちを作るとか白酒を作るとかいうのに比べて見ると、その冷めたい酸っぱのする酢を作るという所に、どうしても秋の心持がある。

秋の風芙蓉ふようひな見付みつけたり    蓼太

 この句は蓼太の句としてはいい句である。別に秋風の淋しさを言おうとしたような句ではなくって、むしろ下十二字で叙した芙蓉の花の下に鶏の雛を見つけたという事の添物として置かれたに過ぎないといってよいのである。あの小さい雛がどこへ行ったか見えなくなった。よく見ると芙蓉の花の下にいたというのでむしろ美くしい句である。秋風としても色彩に富んだ珍らしい句である。

網をすくともし火あほつ秋の風    乙総おつふさ

 漁師りょうしか、そうでなくっても楽みにりょうをするもの、もしくは網をすくことを商売としておるもの、と言ったようなものが、灯火ともしびの下に背をかがめてその網をすいておると秋風が吹いて来て、そのともし火を吹き動かすというのである。以上挙げたどの種類の人としても、もとより世に時めいているものでなく、貧しげな暮しをしておるか、自ら世を韜晦とうかいしておるか、いずれかの人として淋しい心持がつきまとう、其処に秋風らしい心持があるのである。

秋風や捨てばはうの越後縞えちごじま    几董

 越後縞というのは、どういう縞か知らぬが、とにかくそれを売りに来た男があるが、外に必要もないのであるから少しも買う気はない。しかし向うも持て余しているので捨てでいいからどうか買ってくれという。そういう売買の応対が行われているというような場合に、何となくその縞の捨て売りにされているというところに、一種の淋しさを覚える。それが丁度秋風の頃で、いよいよその感じを強める、と言ったような場合である。秋風というものを単に景物として、縞の売買という人事を主題としたところに目新らしい処がある。尤もこの傾向は後世になるほど強いのである。

蔓草つるくさや蔓の先なる秋の風    太祇

『太祇句集』中に在る唯一句の秋風の句である。太祇のみならず天明の秋風の句は一体にふるっておる方ではないようである。さて句意は、蔓草を見るとその蔓の先に秋風は吹いておるというのである。蔓草の蔓の先を見ると風のために動いておるのを見て、なるほど秋風がその蔓の先に在る、といったような句である。芭蕉の「日はつれなくも」の句などに比べると、秋風というものについての感激の度がよほど違っているので、余り秋風というような題について多くの興味を見出さなかったか、それともむずかしくて相手にしなかったのかも知れぬ。秋風というような題は、むずかしいものである。明治に至っては、

秋風のはなむけも無きわかれかな    愚哉ぐさい

 人に別れる時、何かその人に贐をやりたいと思うけれども、遂にることが出来なかった。その志を致さぬということが一層この別れを本意ほいなくする。それが秋風粛殺しゅくさつの候であるから、一層その心持を強うする、というのである。詰り「秋風の」というのは「秋風の吹く時に」という位の軽い意味である。

落書らくがき酒肆しゅし障子しょうじや秋の風    抱琴ほうきん

 酒を売る店の障子に酔った客の落書がしてある、それは酔中のいたずらであるけれども、それがかえって秋風の中に淋しさを見せておるというのである。酔って障子に落書する人も、心に何らかの不平とか憂とかがあってすることである。その人はいつまでも酔っておりはしない。今障子に落書は残っていても、その人はもうとっくに醒めているのである。唯その憂いとか不平とかを落書として障子の上に残して置いたまでである。秋風の中にそれを見るにつけて、淋しい心が動くような心持がするのである。次に冬木立ふゆこだちに移る。

砂よけやあまのかたへの冬木立    凡兆

 海岸に行くと、その海岸の砂を畑や人家に吹きつけるのを防ぐために、わらやその他で、砂よけというものをこしらえておる。この句の場合は人家に吹きつける砂を防ぐための砂よけで、漁師の家がある、その傍に冬木がある、その冬木立のところに砂よけがしてあるというのである。冬木立そのものも砂よけの働きを幾分かはしておるのであろうけれども、更にその冬木立を利用して其処に藁とか柴とかいうもので砂よけが拵えてあるのであろう。

からびたる三井みい仁王におうや冬木立    其角

 三井寺の山門に仁王がある、その仁王は年月を経て、色彩などもげておるのであるが、それが殊に冬になって、その山門前に突立っておる木が、皆落葉して冬木立になっておる時に見ると、殊に乾びた感じが強いというのである。木々が若葉しておる頃に見ると同じ仁王でも、やはりその若葉に打映うちはえて何処か生々しいところがあるように感ずるのであるが、その木が皆冬木立になっていると、仁王も同時に枯れ朽ちたような心持がするのである。三井の山門が木立の間に在る光景も自然に想像されるのである。

冬枯の木の間尋ねん売屋敷    去来きょらい

 この辺に売り屋敷があるという事を聞いて見に来たのであるが、ちょっと見当らない。大方この冬枯れておる木立がある、その間の辺にでもあるのであろう。その木の間を尋ねて見ようというのである。家も住む人がなくなって売屋敷となっておるその落莫らくばくの感じのするところのものを、天然も冬枯れておる木立の中に尋ね入るのである。冬枯の木といわずとも冬木と言うてもすむのであるが、それが元禄時代の事であるから、まだ冬木立という成語がそう大きな力を持たず、自然こういう句も出来たのであろう。だんだん後世になって来ると冬木立というちゃんとした題があるのに、それを「冬枯の木の間」というようなことはかえって言えないものである。後世から見るとおかしく思うことでも、時代という事を頭に置いて考えると、おかしいと言えぬ場合が随分あるのである。この句の如きはそれほどおかしいというのではないけれども、ついでに一言して置くのである。天明に移ると、

二村ふたむらに質屋一軒冬木立    蕪村

 何村々々という余り立派でない村が二つある、その間には冬木立もある、そうしてその二村を通じて質屋は唯一軒ほかないというのである。寒村の趣で、冬木立と相俟あいまっていかにもありそうな景色と受取れる。

この村の人は猿なり冬木立    蕪村

 これはもっと極端な寒村で、冬木立のある中にぼつぼつと人家があるが、この村の人は人間ではなくてまるで猿みたようだというのである。

おの入れてに驚くや冬木立    蕪村

 冬木立の中に木をりに這入はいって行って、或一つの樹に斧を打込むと、思いも設けぬいい香が鼻を打った。それはもう朽ちた木で何ともわからなかったが、白檀びゃくだんとか伽羅きゃらとかいう霊木ででもあったのだろうか、不思議の名香に驚いたのである。

みよし野やもろこしかけて冬木立    蕪村

 これは吉野山よしのやまは、だんだんそれを分け入って行くと、唐土もろこしに通じているという話のあるところから思いついた句であろう。謡曲の『国栖くず』にも次ぎのような文句がある。「総じてこの山は都卒とそつの内院にもたとへ、又は五台山ごだいさん清涼山せいりょうぜん[#ルビの「せいりょうぜん」はママ]とて唐土までも、遠く続ける芳野山よしのやま、かくれ多きところなり。」即ち吉野山へ逃げ込めば唐土までも通ずる道があって、自由に何処へでも隠れることが出来るというのである。即ちその三吉野みよしのも春は桜の花で名あるところであるが、冬になると満山一面の枯木となって、その枯木は唐土までも続いているのである。

冬籠ふゆごもり心の奥のよしの山    蕪村

 これは冬木立の句ではないけれどもちょっとついでに解釈して見よう。この句もやはり前句などと同じ聯想から来たもので、冬籠りをしてじっと想をいろいろの方面にはしらせているとさまざまの事を思う。それは殆んど際限もないことである。たとえて見ると、心の奥に吉野山があるようなもので、その吉野山は唐土までも続いているという事であるが、あたかも我心も唐土は愚か天竺てんじくまでも和蘭オランダまでも続いておるというのである。あるいはこの句は冬籠りをしていて、かつて見た春の吉野の光景などを思い出しているという風に解釈が出来ぬこともないが、それでは「奥の」という字も十分にかない。奥のよし野と続いた処は「奥吉野」という言葉もあるところからではあろうけれども、やはり奥深くどこまで続いているかわからぬ吉野という心持がなくてはならぬのである。已に「もろこしかけて冬木立」の句がある以上、この句も第一解の如く解することが至当であろう。冬籠りというのは、冬の寒さに外にも出ず、家の中に閉じ籠っているのをいうのである。また冬木立に戻って、

盗人に鐘つく寺や冬木立    太祇

 木立の中に在る寺で、その木立も冬枯れて一層淋しさが増している。ところがその寺へ盗人がやって来たので、その急を村人に知らすために鐘楼しゅろうの鐘をゴーンゴーンとき鳴らすというのである。隣りにすぐ人家でもあれば声を上げて「泥坊々々」と叫ぶ位でも聞えぬことはないのであるが、冬木立にさえぎられているために急に知らすため鐘を撞くのである。時ならぬ鐘の乱打らんだに村人は何か事あることを知って直ちにせつけるのであろう。

夜見ゆる寺の焚火や冬木立    太祇

 これも前句同様冬木立の中の寺を咏じたもので、夜その寺で焚火をしているのが、冬木立をすかして見えるというのである。昼間は冬木立の中に寺があるという事を承知していながらも、その寺のいらかもはっきり見えない位であるが、夜になってあたりの暗い中に焚火をしているのであるから、その焚火が冬木立をすかして、よく見える趣を言ったのである。木立は皆灰色に冬枯れている中に焚火の赤いのが際立って赤く見える心持がする。

あけぼのやあかねの中の冬木立    几董

 この句は前の太祇の句と反対に、夜明方の冬木立を言ったもので、朝暾あさひが赤い色をして天地を染めている中に、一叢ひとむらの冬木立が立っているというのである。なおこの句には強い必要はないけれども「旅行快天」という前置きがある。旅をしていて朝早く宿を立出た時分、晴れ渡った野路のじの曙の景色を言ったものであろう。次に明治に移ると、

門前のすぐに坂なり冬木立    子規

 或家の門を出ると、すぐ其処がもう坂になっていて、その辺に冬木立があるというのである。その冬木立はその家の向い側に在るか、坂の上に在るか、はた他に在るのか、それらははっきりしていないが、要するにそのあたりは冬木立もあるような人家の建てこんでいないところであることさえ判ればよいのである。山がかった辺鄙へんぴを言ったものか、また市中の或場所を言ったものか、どちらとも取れぬことはない。またいずれと解しても句の趣の上には変化はないのである。この句の主眼は家を出ると門前がすぐ坂になっているという点に在るのである。冬木立は点景物にすぎないのである。

鳥の巣のあらはに掛る枯木かな    寒楼

 冬木のこずえの方を見ると他と違って少し黒ずんで密生したようなものがある。何であろうかと見ると、それは鳥の巣であったのである。常磐木ときわぎの梢に在るのだとそれほど目立たないのであるが、落葉してしまっている枯木であるから、それが特に目立って見えるのである。

本堂に足場かけたり冬木立    静子

 太祇の句同様冬木立の中の寺を見つけたのである。殊にその寺は普請ふしんをするために本堂に足場をかけておるというのである。普通の人家でも足場をかけているのは目に立つものであるが、それが寺であるから一層目立って見える、殊に冬木立の中に在るという事が一層その感を強めるのである。以上元禄、天明、明治と並べ立てて見ると多少変化がないでもないが、しかしそれは小異動であって、本書の冒頭に言った通り、俳句は要するに芭蕉の文学であるという事にたいした異論の挿みようがないであろうと思う。天明、明治は芭蕉時代の祖述と言っても間違いはないのである。大正に至ってどう変化するかは未定の問題である。今少し芭蕉の句をしらべて見よう。

古池や蛙とび込む水の音    芭蕉

 芭蕉の句といえば先ず古池の句というほどに有名なものになっているが、この句は果してそれほどいい句であるかどうかという事については已に大分議論のあったことである。実際この句の如きはそうたいしたいい句とも考えられないのである。古池が庭に在ってそれに蛙の飛び込む音が淋しく聞えるというだけの句である。牽強附会けんきょうふかいの説を加えてこの句を神聖不可侵のものとするのは論外として、これ以上に複雑な解釈のしようはないのである。唯この句は芭蕉が、いわゆる芭蕉の俳句をはじめるようになった一紀元を画するものとして有名だという説は受取り得べき説である。即ちそれまでの芭蕉は談林調だんりんちょうと言って、つとめて滑稽こっけい洒落しゃれを言っていた時代の句になずんでいたが、この句を作った時代から初めて今日のような実情実景をそのままに描く芭蕉流の俳句を作るようになった、そもそもその頓悟とんごの句がこの句であるというのである。或日芭蕉が深川の草庵にいると庭の古池に水音が聞える。それは外の音でもない蛙の飛び込む水音である。四辺が静かであるので、その水音は独り際立って耳に響く。芭蕉はそれを句にしようとして「蛙飛び込む水の音」と言い、上五字はありのままに「古池や」と置いた。それがすこぶる自分の意に適して、かく何の巧もなくそのままを咏ずることが、今後俳句の歩むべき正しい道であると悟った。同時にまた滑稽でも洒落でもなく、かかる閑寂かんじゃくの趣こそ俳句の生命であるべきを悟った。閑寂趣味とそのままの叙写という事が、この句によって初めて体現されたという事が何よりも芭蕉の満足することであって、自分もこの句を以って初めて悟りを開いたように考えたのであろう。柳緑花紅が仏者の悟りであるように敢てものを遠きに求めるわけでもなく、実情実景そのままを朴直ぼくちょくに叙するところに俳句の新生命はあるのであると大悟して、それ以来、今日に至るまでいわゆる芭蕉文学たる俳句は展開されて来たものとすれば、この古池の句に歴史的の価値を認むべきは否定することの出来ないことである。

物いへば唇寒し秋の風    芭蕉

 この句も有名なる句の一つである。沈黙を守るにかず、無用の言を吐くとも舌に及ばずで、たちまち不測の害をかもすことになる、注意すべきは言葉であるという道徳の箴言しんげんに類した句である。こういう句を作ることが俳句の正道であるという事はいえない。俳句はやはり古池の句の如く実情実景をそのままに叙するという事を正道とすべきである。この句のように道徳的の寓意を含んだ句の如きは、たまにあってもいいけれどもむしろ脇道にれたものである。

荒海や佐渡に横ふ天の川    芭蕉

 越後の出雲崎いずもざきという処で作った句である。奥の細道を辿たどって酒田より越後路に出で、出雲崎に宿った時あたかも秋の晴れ渡った空で、銀河が遠く佐渡が島の方に流れていた、その光景を咏んだのである。荒海というのは、元来日本海は太平洋よりも荒るることが多いので、殊に秋から冬にかけては浪が高い、その荒海が星月夜に遠く見渡される。その果てには一抹の佐渡が島が長く帯の如く見えておる。空には銀河が出雲崎の真上からその佐渡が島の方へかけて流れておるというような大きい景色である。芭蕉の壮大な句といえば、よく引合いに出される句である。

一笑いっしょうとむら
塚も動けわがなく声は秋の風    芭蕉

 一笑という俳人の墓を弔った時の句で、我が哀哭あいこくの声は秋風の吹くが如く強く切なるものがある。そのために塚も動けよかし、というのである。少し仰山おおげさ過ぎる嫌いはあるけれども、調子の強いところが慟哭どうこくの情を現わすのに適しておる。ことに女々めめしくめそめそしたところがないために読んで痛快である。やはり好句たるを失わぬのであろう。

秋風や藪も畑も不破ふわの関    芭蕉

 不破の関のあとは今は藪や畠になってしまっている。そのあとをえば、唯秋風の吹いておるばかりであるというのである。「藪も畠も不破の関址せきあと」の意であろう。これも調子の強い句である。

菊の香や奈良には古き仏達    芭蕉

 奈良へ行って見ると興福寺とか東大寺とか西大寺さいだいじとかまた法隆寺とか、古き都のあとで、しかも仏法が初めて隆盛を極めた時代の名残なごりが沢山残っている。その寺々にはそれぞれ古い仏体が沢山あって、とうとく拝まれる。その古い仏たちの沢山ある奈良に行った時の心持は、清高なる菊の香をぐ時の心持と似通ったところがある、というのである。実際奈良に行けば菊の花も咲いていたであろう。その菊の香を嗅ぎながら、仏を礼拝して廻ったのであろう。けれどもこの句はそういう実際の景色を写生したというよりも、奈良に行って古い仏たちに接した時のすがすがしい尊い感じを現わそうとする場合に菊の香に思い到って、それを配合したというような句である。俳句は往々にしてこういう句がある。これを単に菊の花を古い仏たちとの比喩と見てしまっては殺風景である。単純な比喩ではなくて、菊の香と奈良の仏たちと相俟あいまって、蒼古な敬虔な感じを起すところに句の生命はあるのである。

うき我を淋しがらせよ閑古鳥かんこどり    芭蕉

 うれいを抱いている自分を淋しがらせてくれ、憂にえぬ自分ではあるが、お前の声によって一層淋しさを覚ゆるところに、かえって慰むところがあるぞよ閑古鳥、というのである。閑古鳥は山深くいる鳥で、その声を聞くと淋しさに堪えぬような心持がする、しかし淋しさに住することは芭蕉の生命である。淋しさに安住することが即ち芭蕉の憂を慰む唯一の方法なのである。ウンと聞いてウンと淋しがらせてくれというのである。この句の如きも余人は知らず、芭蕉の言としては偽らざる告白として首肯しゅこうさるるのである。芭蕉はこの心持を抱いて一生を送った人である。

もとに汁もなますも桜かな    芭蕉

 この句の如きは景色そのままを描いた適例として見るべきである。桜の木の下に花見客が陣取じんどっていて、其処そこには鍋に入れた汁もあり、鉢に入れた鱠もあるが、いずれも落花が降りかかっている、というのである。咲き乱れた桜花の下に狼藉ろうぜきたる落花をかぶって人も打ち興じている様が想像されるのである。

金屏きんびょうの松の古びや冬籠り    芭蕉

 金屏に墨絵の松がいてある。その松の絵もよほど古びている。その金屏を立てた下に冬籠りをしているというので、この人は貴人か、しからざれば金持のようなものであろう。金屏は贅沢ぜいたくなものではあるけれども、その墨絵の松の古びているもとに冬籠りしている人は、よしありげになつかしい心持もするのである。

ちまきふ片手にはさむ額髪ひたいがみ    芭蕉

 粽は五月の節句せっくこしらえるもの。その粽を作るために笹を結んでおる時、額髪即ち前髪が前へ垂れ下った。それを両手で直おすことは出来ぬから、片手には粽を持ったままで、他の片手でその額髪をはさみあげた、というのである。女の或姿態を句にしたものである。

衰へや歯にくひあてし海苔のりの砂    芭蕉

 海苔を食べておるとそれに砂のあったのを、がりと歯にくいあてた。これが壮健な頃であれば、海苔の砂位多寡たかの知れたもので、何とも感じないのであるけれども、だんだん年とって衰えて来ると歯も弱っているので、その砂を噛んだために歯も浮く、自然その事が気にさわるというのである。

名月や池をめぐりて夜もすがら    芭蕉

 名月の晩にその清光を称するため、或池辺に在った。余り月が明かなために帰り去るに忍びず、その池の周囲をめぐって終夜歩きつつあったというのである。この句の如きも唯事実そのままを叙したのである。

飲みあけて花いけにせん二升樽    芭蕉

 芭蕉は大酒家ではなかったろうが、まんざらの下戸げこでもなかったようである。その消息文のうちに、人から酒をもらった礼状などもあるようである。この句も恐らく芭蕉の実況で、二升樽の酒をくりやに蔵していた。飲みあけて、というのは一晩や二晩で飲みけようというのではなく、幾日かかかって飲み空けたら、その樽を花生けにしようというのである。この場合の花生けというのは、桜を生けようという意であろう。「花生け」そのものは季はないけれども、花といえば桜を指すことになっているところから、この際はその花で春季の句としたのである。恐らくまた作者の意は桜を生けようというのであろう。これもまた春興と目すべきであるが、その中に、妻帯もせず、男暮しの暢気のんきな心持、別に急ぐわけでもなく飲み空けたらその時花生けにしようと考えつつなお毎日少しずつ酒を飲んでいるようなところに芭蕉その人の生活がうかがわれるようである。

鶯や餅に糞する縁の先    芭蕉

 何処かの茶店に休んで餅を食っている時に、のき近く飛んで来た鶯が、その手にしている餅――もしくは皿の中に在る餅――に糞をしたというのである。これも餅に糞をされて困りはしたものの、春らしい長閑のどかな心持に打ち興じた句である。

秋之坊あきのぼう幻住庵げんじゅうあんにとめて
我宿は蚊の小さきを馳走かな    芭蕉

 秋之坊という俳人を幻住庵にめた時の句で、何も御馳走はないが、唯だ蚊が小さいのだけが御馳走だというのである。『蚊相撲かずもう』という狂言に近江おうみの国から出て来た男をかかえると、それが蚊のせいであったというのがあるが、大方近江に蚊は名物なのであろう。殊に蚊は大きい方はまだ始末がええが、小さい方と来たらいよいよ始末にえないものである。秋之坊先生も少々その小さい蚊に盛んにやられるのに閉口していたのであろうが、其処を芭蕉はかえって、その小さい蚊がせめてもの馳走だと滑稽的に言ったのである。さてこの幻住庵というのは近江の石山の近傍の或山にあった庵で、幻住老人という人がすまっていたあとへ芭蕉は這入はいりこんで、其処で一年半ばかりを過ごしたのであった。その時の記事に『幻住庵記』という立派な文章がある。この清貧の隠士芭蕉の生活を十分覗うことの出来る文章である。また芭蕉の文章中で最もすぐれたものとして『奥の細道』とこの『幻住庵記』とを推すべきであろう。芭蕉は奥羽北越の旅を終って後ちにこの幻住庵に入って静養したものである。この頃が芭蕉の成熟時代で、その生活もその文学も底光りのする貴いものとなったのである。

先づ頼むしいの木もあり夏木立    芭蕉

 これはその『幻住庵記』の終りにくっつけてある俳句で、食物にこまれば椎の実を拾って食えばいい。先ず何よりも頼りとする椎のもある、その辺一面の夏木立の中に、というのである。『幻住庵記』の大意を言えば、冒頭にはその庵の位置を説明し、その由来を説き、自分が長い東北の旅行をして後、湖水のほとりのその庵に暫く足をとどめて静養するよしべ、それから筆を極めて湖水の眺望のいい事をいておる。それからまた一転して、その庵に起臥おきふししている自分の生活を叙してかく言っている。
すべて山居といひ旅宿と云ひ、さる器貯ふべくも無し。木曾の檜笠、越の菅蓑ばかり枕の上の柱に懸たり。昼はまれ/\訪ふ人々に心を動かし、或は宮守の翁、里のをのこ共入り来りて、猪の稲食ひ荒し兎の豆畑に通ふなど我聞知らぬ農談、日已に山の端にかゝれば、夜坐静に月を待てば影を伴ひ、燈を取りては罔両もうりょうに是非をこらす。かくいへばとてひたぶるに閑寂を好み、山野に跡をくらまさんとにはあらず、やゝ病身人にみて世を厭ひし人に似たり。
とこう言っている。自然に任して少しも気取りつくろったところのないところが、この数句によく現われておる。とかく俳人などという形式のみ殊勝しゅしょうぶり、心にもない隠遁生活をよそおうたりするものが多いが、それは芭蕉のこの一句に愧死きしすべきである。芭蕉は山中の一孤屋に狐や兎に等しい簡易生活をしていたのであるが、それでも「かくいへばとて単に閑寂を好み山野に跡を晦まさんとにはあらず」と言っておる。そうして病身であるために世を厭うている人に過ぎないと言っておる。遁世家ぶって得意でいる似而非えせ風流は少しもないのである。それから筆をすすめて自分の俳諧にたずさわる志というようなものをべておる。それも少しも気取ったところはない。
つら/\年月の移りこしつたなき身のとがを思ふに、ある時は仕官懸命の地を羨み、一度ひとたび仏籬祖室ぶつりそしつとぼそに入らむとせしも、たより無き風雲に身を責め、花鳥に情を労して暫く生涯のはかり事とさへなれば、ついに無能無才にして此一筋につながる。
とこう言っておる芭蕉だ。ところで初めから俳諧師になるつもりでもなかったのである。一度は立派な官位にありつきたいとも思った。また一度はもう世の中がいやになって仏につかえたいとも思った。が、そのいずれも果たさず、風雲花鳥即ち自然界の趣味に心をかれてそれを俳諧にすることを好んだところから、それがやがて衣食のたずきともなり、しょうことなしにこの一筋即ち俳句の道につながっている、というのである。この時の芭蕉の心持を推しはかるに、それは現在の自分の境遇が一番優れた境遇とも思っていやしないし、また仕官懸命の地位、仏籬祖室に身を置くことが必ずしもすぐれた境遇とも考えてはいやしなかった。目に見ゆるものそのままが成仏じょうぶつの姿で、人間の職業などに何の甲乙があろう。それもよくあれもよい。今の自分の境遇を一番いいとも思わぬがまた悪いとも思わぬ。現在としてはやはり現在の境遇に安心して、他に何も求むるところはないような自由な境地に住していたのである。古池の句によって芭蕉は已に最初の悟りに入ったのであるが、言う事、為すことがすべてそのまま心にかなって悟りの奥に達したのはこの頃であろうと思う。「奥羽行脚」から引続いて、幻住庵時代の芭蕉は最も研究にあたいするものがある。

年暮れぬ笠草鞋わらじはきながら    芭蕉

 芭蕉の生涯は旅行で終始したと言ってもいいのである。西行さいぎょう法師や連歌師の宗祇そうぎの跡をしたって、生涯を笠や草鞋に托することがその希望であったのであるが、また無妻で無一物で孤独の生活をしておる芭蕉の如き人に在っては、旅行でもしなければ淋しさにえなかったであろう。この句はそういう境涯にいる自分の歳暮のさまを咏じたもので、今年ももう暮れる。自分はどんなようすをしているかというと、笠を著、草鞋をはき、世上の人が歳暮よ新年よと殊更めきて騒いでいるのとは違って、やはりいつもと変らぬ一個の旅人であるというのである。

寒けれど二人旅寝ぞたのもしき    芭蕉

 これもまた実情で、いかに旅宿の寒さはしのぎ難いにしても、いつも淋しい独り旅であることを思えば、今宵こよいかく二人で旅寝をしていることは、いかにも心丈夫で頼母たのもしいことぞ、というのである。

すくみ行くや馬上に氷る影法師かげぼうし    芭蕉

 これも旅中の実景で、寒い日に馬に乗ってとぼとぼと行っておると、自分は寒さに耐えず小さくなってすくんでいるのであるが、その自分の影法師は馬の上に落ちて、馬の背中に氷っているように見えるというのである。いかにも寒さに堪えぬ孤影の憐れさが思いやられる。

一ついで後ろに負ひぬ衣更ころもがえ    芭蕉

 これも旅中のことで、だんだん寒さが減じて春になり、その春もいつの間にか夏になって、著物きものを重ね著しているのが暑くなって来た。そこで一枚脱いでそれを背中に負って行くというのである。これが俗に世間の衣更ならば、綿入を脱いで新らしいあわせと著替え、すがすがしい軽い心持になるのであるが、生涯を旅で暮らす芭蕉のような人に在っては、そういう事は思いもよらず、二枚重ねていた著物を一枚脱いでうしろに負うのが取りも直さず衣更になるのだというのである。

のみしらみ馬の尿しとする枕もと    芭蕉

 これも芭蕉が旅中で遭遇した事実で、非常に汚い百姓家ひゃくしょうやに泊った。そうすると蚤や虱が盛んに食ってかゆくって眠れない。また馬小屋がすぐ隣なので、その馬のジャアと小便をする音がすぐ枕許に聞えるというのである。こういう苦痛な目にあっても、昼朝暁のすがすがしい気を吸うてその宿を立出でて後はなかなかにその寝ぐるしかったその一夜がなつかしいような心持もするのである。

住みつかぬ旅の心や置炬燵おきごたつ    芭蕉

 旅中に或家へ泊って置炬燵をしてもらってそれにあたっておる。元来旅行中の事だと思うと、その炬燵にあたっておるというような落著いた心持にふさわしくなく、其処に住みつかぬような心持がするというのである。

いかめしき音やあられ檜木笠ひのきがさ    芭蕉

 檜木笠をかぶって旅をしておると、その上に霰が降って来る。菅笠すげがさなどよりも一層音が大きくって、いかにもいかめしいパリパリという音がするというのである。

旅寝して見しや浮世の煤払すすはらひ    芭蕉

 旅中煤払をしている人家を見た時の句で、前の「笠著て草鞋はきながら」というように、旅に年の暮を迎える身は少しも暮らしい心持はないのであるけれども、俗世間では正月のもうけに急がしくして煤払をしておる、それを見る時は自分の境遇を憐むような、また浮世の人を憐れむような、要するにそれらの人と自分との間に隔りのあるような一種の心持のする其処を言ったものである。

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる    芭蕉

 果たして芭蕉は遂に旅中に病んで死んだのである。この句はその病中に出来た句で、今もなお旅中であって、その旅中にかく病んでせっておるし、命ももう旦夕たんせきをはかられぬのであるが、それに夢に見るところの事もなお旅であって、枯野に淋しい一人旅をしておる時などの光景がいつも夢に入る、一生を旅で暮すことが本来の目的であったのであるが、旅中に病んで死に近きにかかわらず、夢もなお旅中のことであるというところに、その本懐に満足するところもあろうし、同時にまたもの憐れなところもある。芭蕉は好んで自分も旅という事を言っておるが、殆ど定住とするところの家もなかったのであるから、西に行くも東に行くもことごとくこれ旅であったのである。の『奥の細道』の冒頭に「人生は逆旅げきりょ」と言っておるが、そういう見地からいえば、いずれの人生か旅中ならざるであるが、その逆旅たる人生に在っても江戸に住むも近江に住むも悉く旅中の一小宿やどりたるに過ぎなかった彼に在っては、死の外に帰る棲家すみかはなかったのである。いよいよ死も遠からずと覚悟した時にその夢に入り来るところのものは何ぞ。いわく、枯野をかけめぐるのみ。かくして其処に芭蕉の生涯は結末を告げたのである。

これがまあつひの住家すみかか雪五尺    一茶

 芭蕉死後幾多の風騒の人が出て、俳諧史の頁を目白推めじろおしに埋めているのであるが、天明の蕪村に遅るること数十年にしてと流星の如く一人の俳人が生れておる。それが俳諧寺一茶である。一茶は信州の高原柏原かしわばらの産で諸国を放浪した末また柏原に戻って来て、それから一生を其処に終った人である。今でも柏原に行くと、その一茶のすまっていた古荘などがそのままに残っているのを見ることが出来る。この句はその放浪の末、生地である柏原に戻って来た時の句で、この雪が五尺も深く積っておる、この土地がまあ自分の最後を送るべき土地であるか、このわびしい藁家わらやが自分の息を引取るべき家かというのである。柏原近傍は信州でも最も雪の深いところで五尺も六尺も積るのである。今でも信越線が雪のために立往生をするのは、いつもこの柏原近傍であるのを見ても、いかに雪が深いかを想像することが出来よう。この柏原という土地は、北越に通ずる街道の一宿しゅくではあるけれども、土地が土地だけに余り繁華な所ではないのであるが、その中にも一茶は極めて貧しい百姓であって、ことに硬骨で疎懶そらんで、俗世の事に頓著しない男であったから、非常に変人扱いにされて土地のものから軽蔑されておったという事である。――尤も少数の人には敬愛されておったらしいが――その俳句には三百年の俳句界を通じてない特色がある。その一つは俗語を自由に斡旋あっせんしたことで、たとえばこの句の如きも「これがまあ」という如き極めて鄙近ひきんな言葉を使って「つひの住家」という雅語に結びつけ、それでどことなく悲調を帯びているところなどは、ちょっと他に例のないところである。

ことしからまるもうけぞよ娑婆しゃばの空    一茶

 大病をしたのが幸に全治して新らしい年を迎えた時の句で、もう去年の病気に死んでおったものとすれば、それまでなのであるが、それが幸に生きてまた今年から新しい命をつないで行くとすれば、今年からは丸儲じゃというのである。「娑婆の空」というのは、その丸儲の新しい命で再び娑婆の空を見るというのである。この句も「まる儲ぞよ」というような俗語を使ったり、「娑婆の空」と言ったりするところが特色である。

桜へと見えてぢん/\端折ばしょりかな    一茶

「ぢん/\端折」というのはすそうしろの中央を取って、帯のところにからげるのをいうのである。人がその「ぢん/\端折」をして歩いているのは、花見に行っているのと見えるというのである。「ぢん/\端折」というようなことを、平気で俳句に使用したのは恐らく古今を通じて一茶一人であろう。

白壁のそしられながらかすみけり    一茶

 権門の白壁が遠く小高いところに見えて霞んでおる。人はその白壁を見る度にその横暴をにくむのであるが、壁は一向御存じなしに誹られながらも霞んでおるというのである。この諷刺ふうしも一茶の句に散見するところの一特色である。維新前徳川太平の時代の水呑百姓にしてこの硬骨の漢あり、世に容れられなかったのも無理からぬことである。

馬までもはたご泊や春の雨    一茶

 これも身分のある人の旅を諷したもので、あの人たちは贅沢をきわめて旅籠はたごに泊る、人ばかりでなく――供廻りばかりでなく――馬までも旅籠に泊るというのである。「春の雨」はのんびりとした、ゆるやかな春雨の時候を言ったのである。唯豪奢な人の春の旅宿を吟じたものともいえるのであるが、その裏面に贅沢を諷する心は十分に在る。それは「馬までも」という言葉で推しはかる事が出来る。作者一茶の如きはその馬にも劣りて、いつも木賃きちんに泊ったものである。

雀の子そこのけ/\御馬が通る    一茶

「下におろ」とか「のいたのいた」とか人払いをして大名の馬が通る。それを見る度に一茶の眼には憤慨の涙がにじみ出たものであろう。この句は雀の子が、まだ十分にづくろいも出来ずに道の上にりておる。そこへ大名の行列が来た、「雀子よ其処をのいたのいた、そうしないと馬にふまれて死ぬるぞ」というのである。雀子に托して百姓などのみじめさを言ったものである。

いうぜんとして山を見る蛙かな    一茶

 悠然トシテ南山という陶潜とうせんの言葉がある。それを持って来たので、蛙が木の枝にいてぼんやりと一方を見ているのは、悠然として南山を見ているのだな、というのである。前に俗語を使って滑稽の句を為したのと同じく、この句は蛙に対して隠士を形容した言葉を使って滑稽の句を為したのである。結果は同じことになっているのである。

大沼
うきぐさの花からのらんあの雲へ    一茶

 大沼を眺めた時の句で、その沼の向うには雲の峰が立っておる、その雲へ乗るのには、その沼にえている萍の花から乗るがいいというのである。真逆まさか萍の花から雲へ乗ることの出来ぬことは一茶も承知しているのである。そんな知識はけて子供みたような心持になって、いかにもその萍の花から雲に乗れそうに思えたのを、そのまま句にしたところにかえって妙味があるのである。この子供らしい詩人的なところがまた一茶の特色の一つである。

蟻の道雲の峰より続きけん    一茶

 この句も同じような句である。夏大地の上に蟻の行列が長く続いている、それを辿たどって行って見ると、「おや」「おや」と行けば行くほど驚かるるように遠方から続いておる。いくら辿って行ってもまだまだ先がある。この蟻の道はあの向うにそばだっている雲の峰から続いているのであろうか、というのである。雲の峰というのは白雲が山の如くそびえている、夏になって天気の時によく見るところの雲のことである。大沼の句と共に打晴れた感じである。

初蛍其手はくはぬ飛びぶりや    一茶

 はじめ一匹飛んで来た蛍で、皆が大騒ぎをして取ろうとするけれども、ついと軽く逃げて向うへ飛んで行ってしまった。子供が鬼事おにごとなどをする時に「その手は食わぬ」などとよくいうものである。その言葉をここへ持って来たもので、なかなかその手は食わぬ飛びぶりをして、蛍は巧みに逃げてしまった、というのである。

江戸住居
青草もぜにだけそよぐ門涼かどすずみ    一茶

 江戸に住っていた頃の句で、江戸は何事も銭の事で、青い草さえ銭相当のそよぎようをするというのである。門涼みをしておる場合に其処に草花でも売りに来る、この草は何銭、この草は何銭という時、やはり少し涼しそうに見えて風にでもよくそよぐやつはそれ相当に値段ねだんが高い、やはり銭相当の戦ぎようをする、というのである。これも表面は滑稽で、裏面には真面目まじめな憤慨がある。「銭だけ」という俗語を「戦ぐ」事に用いたところが手腕である。

九輪草くりんそう四五輪草で仕舞しまいけり    一茶

 柏原辺は冬の寒さが強いので、宿根草の草花なども十分に発育しないものが多いそうである。九輪草を植えて咲かして見たけれども、なかなか九輪草の名の如く沢山の花はかず、四、五輪咲いたばかりであった、というのを「四五輪草でしまひけり」、と言ったのである。「四五輪草でしまひけり」と何でもなく滑稽的に言った底に「おやおやこの花も十分に咲かなかった」という真面目の失望がうかがわれるのである。

さと女三十五日墓
秋風やむしりのこりの赤い花    一茶

 一茶は非常に細君や子供に不仕合ふしあわせの人であったのである。このさと女というのもたしか子供であったかと思う。そのの三十五日に墓参りをして、その赤い花を手向たむけた、この花はその亡き児が生前にむしり取って遊んでいたそのむしり残りの花だというのである。「秋風や」は折節おりふし秋の時候であったので、淋しい心持を寓したのである。なおこの句から聯想した一句がある。

春雨はるさめや食はれ残りの鴨がく    一茶

 これは春雨の降る時、川辺の料理屋の前の川か、もしくは普通の人家の庭の池か何かに鴨が泳いでいて、があがあ鳴いておる場合に、今あの鴨はがあがあ鳴いているけれども、その仲間であった鴨は必要の度々に取って食われたのである、というのである。即ち現在其処に残っている鴨を「くはれ残りの鴨」と見るのが一茶一流の主観で、人間の無慈悲を諷刺したのである。

酒尽きてしんの座につく月見かな    一茶

「しんの座」は「真の座」の意か。酒のある間は月見を名として食ったり飲んだりばかりしていたのであるが、酒がなくなってしまうと、初めて月を見る気になって、本当の座について月を見るというのであろう。これも人間に対する諷刺の一つである。

百舌もずの声かんにん袋きれたりな    一茶

 秋の小鳥の中でも百舌が高音を張り上げて鋭い声で鳴く、その声は堪忍袋のひもをきらしたような鳴きようだというのである。人がこらえにこらえていた癇癪かんしゃくを一時に破裂さした時のような声だというのである。単に百舌の声を形容したのでそれ以上の意味はないが、例の俗語を使用して百舌鳥もずを人間視したところが滑稽になっているのである。一茶の句としては浅い方で佳句ではない。一茶の滑稽には前の「くはれ残りの鴨」みたように涙のあるものが多いのであるが、この句はそれほどの深さがないのである。

善光寺門前憐乞食
重箱の銭四五文や夕時雨ゆうしぐれ    一茶

 この句は一茶らしい特色がないといえばないが、しかし前置にもある通り、特に乞食に対する同情がこの句になったのである。乞食を咏んだ句は随分あるけれども、大概それを余所よそから興味を以て眺めたり、ひややかに眺めたりする句ばかりで、一茶のように深い同情を以てそれに対した句は滅多にない。重箱の中に沢山の銭のあることか僅に四、五文ほかないことは、一茶自身物さびしく苦痛なのであろう。折節日暮方で、時雨の降っていることが、いよいよその心持を強めるのである。

餅搗もちつきが隣へ来たといふ子かな    一茶

 子供が「お隣りへ餅搗が来た」というのは、それをうらやましがっていうのである。それを聞く親は黙って聞き流すほかはないのである。この句の裏面には「貧」という一字が隠れておる。柏原の水飲百姓みずのみびゃくしょうで、しかも俳句三昧ざんまいに日を費している一茶の家は、貧乏も一通りではなかったのであろう。餅を搗こうにも搗くことが出来ない境遇であって、子供にそういう事を言われると、親はますます苦痛を感ずるばかりである。

我門に来さうにしたりくばもち    一茶

 自分の家へ来そうにした配り餅が、自分の家へはず隣家へ行ってしまった、というのである。こんな事はよくあることであるが、世の中に虐遇されて、失望に慣れている一茶には、その些細ささいなことも深く頭にしみ込んだのであろう。いやしい目つきをしてその配り餅を見ておったのではなく、「おやおや不思議にもあの配り餅は家へ持って来そうにしておる」と注意深い目を以て見ておると、やはり隣の間違であって、それに気がついて隣へ行ってしまった、という所に不遇の人の「冷笑」が読まれる。読者も唯「あはははは」と笑ってしまうことは出来ないのである。

おのれが姿に
ひいき目に見てさへ寒いそぶりかな    一茶

 一茶の自画像に題した句で、自分の形であるから、ひいき目によく見たいのであるが、いくらひいき目に見たところで、いかにも振わない寒そうな貧乏そうな姿だというのである。一茶の如き熱情は、世をあざけり人をいきどおるのであるが、結局何よりも自分を嘲るのに終るのである。彼の俳句をけみして行ったら、遂にこの「自嘲」が全体を通じた一番大きな特色かも知れないのである。芭蕉と一茶との句を比較的多く解釈した上は、明治俳句の復古の功を双肩に荷っている子規の句をも更に若干ここに掲げて見たいと思う。

口紅や四十の顔も松の内    子規

 四十代の女も年が改まって松の内となれば、一つは儀式からまた一つは身嗜みだしなみから、薄化粧をもし口紅をもつけて、ちゃんとしておるというのである。世の中の普通の儀式などを軽んじなかった作者の心持はこういう所にも現われておる。

暖かな雨が降るなり枯葎かれむぐら    子規

 葎は枯れてしまっていて、春になったとはいうもののまだ春が浅いから、少しも青いものは見えぬ、けれどもさすがに春らしい暖い雨が降って、その枯葎の上に降りかかっているというのである。春の初めの或光景を捕えたもので、実際よくある光景である。口紅の句にしてもこの句にしても非常にモデレートであって、少しも奇をろうするようなところ不自然なようなところのないのが、この子規の特色である。もっともこれらは明治もまだ日清戦争などのあるより前の時代の句であるが、この自然を貴ぶところ、また客観的の描写を重んずるところ等が、主な傾向となって遂に明治の一特色を為すに至った写生句というものが現われて来た。尤も芭蕉以来の句にも已に事実そのままを写すという傾向のあったことは、前にもべた通りであるが、この明治に入っての写生句というのは、更にその度を強めて、精細にものを見てそれをなるべく客観的に写すようになって来たのである。自然些事をも厭わずに句にする傾きも多くなって来たのである。主としてそういう句をこれからあげて見よう。

草庵
雪の絵を春も掛けたるほこりかな    子規

 これは子規の庵をうたことのあるものは、誰も一度は必ず目に入れたに相違ない。木立に雪の降っておる小さい水絵が※(「木+眉」、第3水準1-85-86)びかんにかかって久しい前から位置もかえずに掛っていた。――今でも旧の如く掛っている――それをそのまま句にしたので、雪の絵を春もそのままに掛けておる、そうして久しく掛けたままになっているから埃が積っておるというのである。精細な写生ではないが正直な写生である。

手に満つるしじみうれしや友を呼ぶ    子規

 蜆を取りに野面のづらに出た時の句で、蜆を取っていると手に一杯取れた。その辺を見渡して見ると、友は少し遠方にいるので、「おいおい、こんなに蜆が取れたから、早くその籠を持って来てくれ」と、呼ぶのである。今までは蜆を取る方にばかり夢中であって、友と離れておる事などは心にかからなかったのであるが、手に一杯蜆が取れて見ると、それを入れるものがなけりゃならぬ、初めて籠を持っている友の事に思い及んで、それを呼ぶというのである。些細ささいなことを言うたものであるけれども、何の巧みもなく事実を叙しておるために力がある。

連翹れんぎょうや紅梅散りし庭の隅    子規

 この句の如きも何でもないことを言ったようであるけれども、事実をそのまま写生しているところに隠くすことの出来ぬ力がある。或庭の光景で、其処そこの紅梅はもう散ってしまったが、その頃庭のすみには連翹がもう黄色い花をつけていた、というのである。紅い紅梅の花の散ってしまったのは目立たしいが、しかもそのあとにもうちゃんと外の花が咲いている、それは庭の隅に在る黄色い連翹の花で紅梅ほど目立ちはしないけれども、それでもなお人の目は自らそれに映って、小庭ながらに春花に富むような感じがするのである。この句の如きは非常に自然である、ありのままを写生したのである。

野道行けばげん/\の束のすてゝある    子規

 野道を歩いておると、其処には菜の花も咲いていよう、田の中には五形花げんげんも咲いていよう。しかしそれらは目に入らぬので、野道に束ねた五形花の棄ててあるのが著しく目についたのである。我より先きにこの道に遊んでいたものは子供で、それは五形花をんで束にして遊んでいたのが、しまいいてかく地上に棄てて去ってしまったものであろうというのである。唯一点の五形花の花束を地上に描き出したところに単純な色の力がある。

浦家先生の家に冷泉あり
庭清水藤原村の七ばん    子規

 浦家先生というのは漢学の師範をしている人であって、維新後も塾を開いて、其処に通学している人は多かった。其処は松山市外の藤原村という処で、丁度其処が七番戸であったものと見える。この家は冷泉の湧くので有名な薬師のあるところとすぐ近処で、その浦家先生の家にやはり冷泉が湧いたのである。其処でその冷泉が湧く浦家先生の家は藤原村の七番戸だというのである。この句は唯この七番戸が生命で、其処まで事実を摘み出して来たところに、いかにも田舎らしい家を彷彿ほうふつせしむる力があって面白いのである。これが何十番戸というのではそれほど人の注意もかず、またその家がどんな家であるかということもわからぬのだが、たった七番戸で、しかもその庭に清水が湧いているとすると、大概もの淋しそうなその家の想像もつくのである。七番戸を見出して、しかもそれを句に用ゆるところに写生の信仰はあるのである。

地に落ちしあおい踏み行く祭かな    子規

 これは加茂かもの葵祭を咏じたもので、葵祭にはさまざまのものに葵を掛けるのであるが、その葵が地に落ちている、それを人が踏んで行くというのである。葵祭を描くにもいろいろの事があるであろうが、その葵が地上に落ちていてそれを人が踏むという一事実を捕えきたったところが、この句の清新な味のある所以ゆえんである。かく新らしき事実の発見が写生の大事である。

梅干すや庭にしたゝる紫蘇しその汁    子規

 梅干を作る時の光景で梅を紫蘇の汁に浸して置いては干し干しするのである。それで竹のむしろのようなものの上に梅を干すと、その梅についている紫蘇の汁が庭に垂れるというのである。地上を赤く染めている、紫蘇の汁も想像されるのである。これも誠に一些事を見つけ出したものであるが、それによって梅を干している光景に魂が這入はいって、動かすことが出来ぬようになっているのである。やはり写生の力である。

葭簀よしずして囲ふ流れや冷し瓜    子規

 或茶店の前に清水の流れがあって、その流れを葭簀で囲っているのは何をしているのかと見ると、其処に瓜を投げ込んでその清水で冷しておるのであるというのである。往来に葭簀を囲うていわゆる葭簀茶屋を出しているなどは少しも珍らしくないが、これは流れを葭簀で囲っているところに新らしみがあるのである。そうしてこれは机の上で考えても及びもつかぬことで、そういう実景を見たことがあって、それを写生したからこそ出来たのである。

鴨の子をたらいに飼ふや銭葵ぜにあおい    子規

 鴨の子の孵化ふかしたては池や川に放すわけに行かぬので、盥を庭に置いてその中に飼うて置く。小さい雛はうようよとその盥の中で騒いでいるのである。そのそばには銭葵の花が咲いておるというのである。夏の庭の或光景を捕えたものであるが、子鴨が盥の中に飼われているのは珍らしいところを見つけたものである。そればかりでは何となく物足らぬが、傍に銭葵の小さい花が沢山咲いているところを見つけたことによって、ちゃんと一幅の画になったのである。鴨の子も小さいのが盥の中にうようよしておる、葵も小さい赤い花が青い葉かげに沢山咲いている、其処に景色の調和もあるのである。

稲刈りてにぶくなりたるいなごかな    子規

 子規はよく稲の中道を散歩して螽を研究したことがあった。そうして稲を刈ってしまう頃になると、螽は大変弱ってしまって以前のように活溌に跳ね飛ばず、人の来るのにもようやくに飛び逃げるという風に、大変にぶくなる事を発見して、この句を作ったのである。この句の如きは長い日数の研究を経て出来た写生句である。

小庭
野分のわき待つはぎの景色や花遅き    子規

 前置きに在る通り、自分の家の小庭を咏じたので、その庭に在る萩はまだ花が咲かない。毎年今頃になるといつも野分が吹いて来て、この萩はもとより多くの草花を地にすりつけていためてしまうのであるが、今年はまだその野分も来ない。しかし庭の景色を見ると、もうまあ野分が来るであろうと萩なども待設けているような景色に見えるというのである。萩が待設けている訳ではないけれども、毎年野分の前に見るのと同じような庭の模様であるので、そんな心持が作者の頭に起るのである。この句の如きもちょっと見てちょっと写生したという句ではなく、年をけみして自然親しんだ景色の写生である。趣の深い写生である。写生もこういう風に進んで来なければ駄目である。

煤掃すすはきほこりしづまる葉蘭はらんかな    子規

 煤掃をすると家の内は綺麗きれいになるけれども、一時は煤埃すすほこりが空中に舞い上ってその辺一面に大荒れに荒れるのであるが、その煤掃も終って暫く時間がつと、空中に散ばっていた埃も自然と地上に静まって来る、その埃は庭の葉蘭の上にも懸っているというのである。葉蘭の大きな葉の上に埃が静まったという事が、いかにも的確に空中全体の埃の静まった事を証明しているような心持がするのである。この句の如きも写生の句である。これで子規の句の解釈も終りとしよう。
 以上の解釈で大概俳句というものはこんなものだ、こんな風に解釈すればいいものだという事が判ったことと思う。けれども限りある紙数になるべく多くの句を解釈して見ようと思ったために多くは略解に流れて、一句を詳解するという事は余りしなかった。ここに天明時代の二、三句に向って比較的詳解を試みて本書を終ることにする。

等持院寓居
元日や草の戸ごしの麦畑    召波しょうは

 この句の作者召波という人は蕪村の門人で、漢学の素養があった人で、卓然とした見識もあったのであろう。蕪村に導かれ、かつ重んぜられておった人で、格調は最もよく蕪村に似ている。蕪村の句が金ぴかの上下かみしも、長い朱鞘しゅざやをぼっこんだような趣きとすると、召波の句は麻上下あさがみしもを著て、寸の短い大小を腰にしたような趣きがあるといってよかろう。品格がよくて引きしまっていて、元禄天明を通じて、大作家の一人に数えられる。等持院というのは京都から嵐山に行く途中に在る寺で、嵐山に行った事のある人は、等持院の門前を通ったことがあろう。「等持院寓居」というのは、召波がその等持院の一間か、あるいは境内けいだいの小庵か何かを借りて、其処そこ住居ずまいとしておったのであろう。その仮り住居をしている時、丁度元日に際会したので、次のような句を作ったというので、その事を特に前置として置いたのである。さて「元日や」というのは、唯元日という事を現わすためにいうたので、この「や」の字には別に意味はない。俳句では、昔からこのような文字を切字きれじといっている。この切字という事について、やかましい事をいう月並つきなみ俳人もあるが、別にやかましくいう必要はない。これを俗言にたとえていうと、我らが話しをする時に、きっと「何々です」とか「何々だ」とか「何々した」とかいう、この「です」「だ」「した」などいう文字がないと、話につづまりがつかぬ。また我らが文章を作るにも「たり」「ぬ」「けり」等の文字で一節々々の結びをつける。俳句の切字というものも、これと同様のもので、元来俳句は十七字でまとまっている文章の一節のようなものであるから、同じく意味のつづまる処がなければならぬ。即ち自然に切字というものが必要になって来る。切字はかかる自然的のものであるから、その中にも、文章と同じく「たり」「ぬ」「けり」等の文字もある。が、最も多く用いられてちょっと普通の文章と異っているのは、「や」「かな」の二つの切字である。しかしこれも決してむずかしい意味があるのではない。「元日や」というのは、唯「元日」といったばかりでもよいが、「や」という字をここに置くため「元日」という感じを深く人の頭に起さすようになる。たとえば普通の談話の時でも「元日にこうこう」というより「元日にねこうこう」という方が、人の頭に「元日」という感じを深く呼び起すことになる。「ね」という字に意味のない如く「や」という字にも意味はない。しかし俳句にて「や」という場合は、極めて広いので、大概な場合を「や」の字一字で間に合わしてしまう。それは元来十七字という短文字の詩であるから、つとめて文字を節略せねばならぬ。その文字のうちでも、動詞、関係詞、形容詞、副詞等をつとめて節略する。「や」という字の如きは、この点において最も便宜な字で、例えば「春風や」という場合の如き「春風の吹くや」「春風の吹く日や」「春風の吹いて長閑のどかなる様や」という如く、だんだん春風に伴う形容動作等が、この「や」の字一字に対して聯想れんそうされて来るように出来ている。何も「や」の字一字にさほど沢山の意味があるわけではないが、動詞や形容詞のあるべきを略して、名詞の次ぎに直ぐ「や」を置く事が、昔からの習わしになっているので、自然と「や」という一字に一種の特別な意味があるようになって来たのである。即ち俳句の文法の上に、こういう約束が成立っているのである。「元日や」も同様で、「今日は元日であるよ」「心地よい静かな元日よ」というような心持が「元日や」という五文字の内につづめられているのである。これは独り「や」の字ばかりの働きではなく、無論「元日」という文字に伴う聯想も多いのであるが、「元日の草の戸ごしの」というのと、「元日や草の戸ごしの」というのと、元日という感じを人の頭に起こす力の上に強弱がある。「元日や」という方が「元日」という感じをしっかりと人の頭に起こす。これは「や」の字の働きといわねばならぬ。「や」の字の説明はまだ足りぬが、先ず上陳の如く、切字として、文章の一段落をなし、かつ文字の節略を為すという事が、不取敢とりあえずここに説明して置くべき二つの大きな働きであろうと思う。次に「草の戸ごしの麦畑」というのは、等持院寓居の目前の景色で、「草の戸」というのは、草を結んだ戸、草でこしらえた戸、というので麁末そまつな戸の事、その戸を越して彼方かなたに麦畑が見えるというのである。なおこれを詳しく説明すると、あまり高くない竹垣か生垣が庭を囲うておる。その垣の中ほどにいわゆる柴の編戸あみどとでもいうような、麁末な戸がある。座敷に坐るか、えんにでも出て見ると、その戸を越して、即ち戸の上から向うに、ひろびろと麦畑が見えるというのである。草の戸というのは、元来草で編んだ戸の事であったらしいが、前にもいう如く、麁末な戸というべき場合に、後には草の戸というようになったのである。草庵というのも、び住んだ庵で、必ず草でいた庵ではなく、草家くさやというのも必ず草で葺いた家ではない。草戸もそれと同じ事である。この麦畑という二字の名詞も、普通の文章としては、何の事だかわかるまい。麦畑がどうしたのだろうという疑問が、必ず人の脳中に起らねばならぬ。これもまた俳句の約束として、下に動詞が略されているのである。即ち「麦畑が見える」とか「麦畑を見る」とかいう意をなして、文字を略しているのである。「戸ごしの」の「の」の字は、普通の文章にも用いらるれど、なお詳しく説明すれば「戸越しに在る」という位の意味になるのである。故に厳密にいうと、この麦畑という名詞でも意味が切れて、名詞それ自身が、切字の名代をも勤めているようなものである。もしこの句を散文に翻訳すると「今日は元日なり、草の戸越しに在る麦畑を見る」とでもすべきであるが、それでは調子も悪るく、文字も粗笨そほんになるので、「元日や草の戸ごしの麦畑」と整然とした十七字にしたのである。先ず等持院の寓居を想像せよ、京都近郊の田舎に在る、しかも足利歴代の将軍の位牌いはい木像などの由緒ゆいしょある古い大寺を想像せよ。その大寺の裏がかった処にあるささやかな一間を想像せよ。俗家は、皆新年の事であるから、門松を立てたり、〆飾しめかざりをしたりしている中に、お寺の元日はしんかんとして、平生へいぜい静かな上にも、殊に静かな趣を想像せよ。召波一人、その静かな一間に在って、低い垣ごしに外面そとの麦畑を見ている趣を想像せよ。召波はこの時詩情動いて「元日や草の戸ごしの麦畑」という句を得たのである。寺の一間の元日の静かな趣きに、人は趣味を感じないだろうか。垣ごしに外面の麦畑の見えるような田舎びた光景に人は趣味を感じないだろうか。かくの如く両者を取り離して別々に考えて見ても、それぞれ面白い趣がある。更に両者を結び附けて、元日の寺の一間にいて、垣越しに外面の麦畑を見る、その時の心持を想像して、一層深い趣味を感ずるのは勿論の事であろう。もし月並宗匠そうしょうに、この場合発句を作らしたら決してこうはいわぬ。ついでに月並的の句と、文学的の句との区別を、ちょっと説明して見よう。これ反面からこの価値を明かにする所以ゆえんであるから。月並宗匠がこういう場合に作る句は、かくの如く目前の景色を無造作むぞうさにいってのける事はせぬ。何とか此処へ一理窟を持って来る。寺にわび住む我でさえ目出度めでたい新年に逢う事が出来る、などいう位ならばまだよいので、寺だから〆飾や門松は立てぬ、その代り自分の心の内に、門松が立っているとか、何とかいうかも知れぬ。月並的の句はあまり作った事がないから、その真似をすることは出来ぬが、要するに月並は、或景色を面白いと感じても、その面白い景色をそのままに叙することをしないで、何とか其処に理窟をこじつけ、その理窟を面白がるのである。たとえば、三日見ぬうちにつぼみであった桜が、もう満開になってしまった、というだけでは満足しないで、「世の中は三日見ぬ間に桜かな」といわねば承知せぬ。即ち桜のまたたくうちに咲くという事を世の中の事にたとえ、世の転変は皆かくの如きものであるといわねば、面白くないように心得ているのである。暁になって湯婆たんぽがさめた、というような場合には、何となく淋しく哀れなような心地がして詩情が動くものである。その暁になったから湯婆がさめた、とそのままにいえば、趣味のある文学的の句になるのであるに、月並家はそれでは不承知なので、「夢よりは先へさめたる湯婆かな」というて得々としているのである。ただ早くさめたというだけでは面白くない、夢よりさきにさめたといって始めて面白いというのは、湯婆のさめたことには趣味がないが、夢よりさきにさめたと理窟をいうところに趣味があるという事になる。さて以上のような月並的の句と、召波の元日の句とを比較したらどうであるか。等持院の一間にいて、垣ごしに裏の麦畑を見ながら、元日の長閑のどかな淋しい趣味を感じた召波は、「世の中は」とか「夢よりさきに」とかいうことは言わなかった。唯目前の景色そのままを叙して、「元日や草の戸ごしの麦畑」といったのであった。この目前の景色そのままを叙するという事は、俳句の上に最も大切な事である。ついでだからについてちょっと説明して見よう。菜の花の咲いている景色を見て、美しいと感じた時、如何にしてこれを画に書くであろうか。いやでもおうでも菜の花の咲いている景色をそのままに写さねばなるまい。菜の花畑の間に細い小路こみちがあるのが面白ければ、その小路も写さなければなるまい。その傍に古びた草家が一軒あるのが面白ければ、その草家も写さなければなるまい。即ち何でも眼に見たところそのままを写せば、その天然の景色が画かきに面白いと感じさせたように、その画は見物人に面白いと感じさすのである。俳句は文章、画は色彩、その相違はあるが、その美感に訴えるものであるという点に二つはない。召波の「草の戸ごしの麦畑」というのも全く目前の景色を写した画のようなものであると見ればよい。なおちょっと附加えて置きたい事がある。それはこの句に、何故「等持院寓居」という前置を置いたかという事である。前にもいった如く、実際等持院で作ったのであるから置いたといえばそれまでだが、それはこの句のみならず、どの句にでもそれぞれ作った場所がある。しかるに他の句には前置がなく、この句には前置のあるのはどういうわけであるか。その他の句の如きは、作った場所を指定していなくても、その句の趣味を解する上に格別の相違がない、しかるにこの句の如きは、すくなくとも「寺」という事が明かでなけりゃ何故「草の戸ごしの麦畑」といったかがわからぬ。前の解釈中にもいった如く、「他の在家即ち百姓などでは、新年の事であるから、門松〆飾などで飾り立てられた中に、寺であるから何もない」という意味が、前置によって聯想さるればこそ、「草の戸ごしの麦畑」という淋しいひなびた、元日らしからぬ景色が生きて来るのである。すべて前置というものは、かくの如く置かねばならぬ必要ある場合に限りて置くべきものであって、必要のないのにむやみに置くべきものではない。

雛店に彷彿ほうふつとしててまりかな    召波

 雛店というのは、説明をするまでもなく、節句前に雛人形を売っている店。新暦の三月三日はまだ薄寒いが、旧暦の三月三日は、いわゆる桃の節句で、桜も咲けば、桃も咲き、蝶も飛び蜂も飛ぶ、一年中の最も長閑のどかな季節である。五節句の中で、雛祭りという時候の関係からいっても、華美な艶麗な感じで聯想さるる。紅白粉べにおしろいをつけて美しく著飾きかざっている女の子を聯想する。のみならず、雛そのものが極めて濃艶なものに出来ている。雛店というと、目の前に描き出されるのは直ちに店一杯真赤な色をしている、その赤い中に、金色もあれば、青色もあり、紫色もあり、白色もあり、紅紫こうし燦爛さんらん、人目をくらまするような感じである。更に眼を定めてよく見ると内裏様だいりさまもあれば、官女かんじょもあり、五人囃子ばやしもあり、衛士えじもあり、小町姫もあり、また雛道具としては箪笥たんす、両替、膳、鏡台、ボンボリ、屏風びょうぶ、各形を為して種々雑多のものである事がわかる。東京あたりの雛店は、殊に十軒店とか両国とかいう専門的の雛店は雛人形、雛道具しか並べておらぬ。ぜ物なしである。しかし東京でも専門的でない、平生へいぜいオモチャ店であるのが、節句前になって急に雛店に変ずるというような所は、片隅かたすみになお多少のオモチャが割拠している。京都あたりでも専門的でないのは恐らく東京などと同じ事であろう。かような店があるとしてさてこの句の解に立入るとしよう。雛店に彷彿として毬かな。毬を「てまり」と読ますつもりであろう。彷彿は「ほのめく」とか、「あるかあらぬか」とか「さもにたり」とかいうような字義を持っている。雛店が上述の如く美しいものであると同時に、手毬というものも赤や青の糸で飾った、形も手頃なまんまるい可愛ゆい美しいものである。手毬一つだけ手に取って見ても美しいものだが、それが沢山一緒に置いてあると、の雛店の紅紫相映ずるというほどには行かぬとしても、赤糸青糸相映じ累々乎るいるいことして錦を織り出しているところは極めて美しいものである。なお雛と手毬とその色において相似を持っているばかりか、その性質からいっても似ている。一は飾り立てられて美しく祭られるのと、一は手に握られてもてあそばれるのと相違はあるが、何処か似通っているところがある。その手毬が雛人形や雛道具が並べ立てられた店の片隅に在る。その店に並べられてあるか、上から釣り下げられてあるか、どちらにしても、雛店の一部にうちぜられて売られてある。召波はこの場合雛店に彷彿として手毬かな、という句を作ったのである。これで概略この句の意を解し得たものと思うが、更に贅弁を附加して置こう。この「彷彿として」という中七字が、最も作者の技倆を認めてやらねばならぬところである。仮に「雛店の片隅に在る手毬かな」とでもいったものと仮定して見ると、同じ景色を捉えて来たには相違ないが、句の価値は数段の相違がある。「片隅に在る手毬かな」といっただけでは唯片隅に手毬があるという事だけが説明的にわかるばかりで、雛や手毬についての美しい聯想が浮んで来ぬ。唯「彷彿として」という中七字があるために句の美しいことまた手毬の美しいこと、また共に美しい中にも場処の広狭、品位の高下、美しさの主客等が自然に聯想されて来るのである。雛店がある。雛人形や雛道具が美しく飾り立てられてある、その一方に手毬がある、さてその手毬も赤や青やいろいろの糸で綺麗にかざられているのが、雛様の美しいのとさも似ている、どこか雛の面影をうつしたように見える、何だか雛様の影法師が其処にうつっていてそれが手毬になっているような心持がする。孔雀の傍に鶏がいるような感じで、孔雀と鶏との間に品位や美しさの相違はあるが、しかし孔雀の傍にむぐらもちがいるような相違ではない、どこかに相似た点がある。雛と手毬との関係はあたかも孔雀と鶏との関係のようなものである。「彷彿として」というのは其処の心持をいったのである。たとえば、ぼんやりと幽霊のようなものが見える、こういう場合に彷彿として人影を認めるというのである。人間の幽霊では心細いが、雛様の幽霊が出て、それが手毬であったのは美しいばかりで少しもおそろしい事はない。また「彷彿として」という二字があるために何だか雛にも手毬にも魂が這入はいって両者共に有情うじょうなものとなったような心地がする。尤もそれは雛や手毬が動き出すというのではない。作者の趣味深き観察が両者の間に一種の情を吹き込んだのである、作者の情がやがて両者に寄せられたのである。雛店は「ひなみせ」と読んでも「ひなだな」と読んでもよい。彷彿は「ほうふつ」と音読する。

蚊帳かやくぐる女は髪に罪深し    太祇たいぎ

 この太祇の句の性質は蕪村とはすっかり違っている。蕪村がさむらいならこれは町人といってもよい。蕪村が九代目団十郎なら、太祇は五代目菊五郎である。蕪村の句は天籟的てんらいてきで大きな岩石のそばだっているような趣がある。太祇のは人籟的で小さい石で築き上げたような趣きがある。前にもいった如く召波の句は或る一面たしかに蕪村に似ている。しかし太祇の句は全然歩調を異にしている。もし太祇に似たものを求めたなら几董きとうであろう。几董は召波と太祇との中間にいるものといってもよかろう。かくいうと蕪村と太祇とは非常に異っていて、あるいは同一標準では論ずる事が出来ぬと思う人があるかもしれぬが、しかしこれも度合論だ。蕪村と太祇とその間に全く別個の趣味があるには相違ないが、しかも共に天明の俳人たる事においては一致している。他の関係は一切取りのけて蕪村、太祇等の仲間だけで比較すればこそ非常に違ったもののように思われるが、これを元禄の諸俳家と比較する時は、はぎ女郎花おみなえしの秋草に対して牡丹ぼたんや百合の夏草を見るようなものである。元禄時代の諸俳家の句はめいめい比較すればまたそれぞれ違っている。萩と女郎花のように違っている。しかしとにかくに秋の草には相違ない。それと同じく天明時代の諸俳家の句を、それぞれ比較して見ると牡丹と百合のように違っている。しかしとにかく夏咲く花という点においては争われぬ相似の趣味を持っている。蕪村と太祇との比較も丁度こんなものである。もし蕪村と召波とが牡丹と芍薬しゃくやくとの比較とすると、太祇は先ず百合位のものであろう。しかしこれを、も一歩進めていうと、元禄の俳人も天明の俳人も秋草夏草の相違はあるにしてもやはり草花たる点においては一致している。桜とか柘榴ざくろとか梨とか松とかくすのきとかもみとかいうものと比較したら、やはり草花としての相似点を持っているといわねばならぬ。即ち芭蕉の文学としての俳句は、他の桜や松や樟やに相当する他の文学と比べたら、如何なる時代を通じても殆んど同じものと言わねばならぬのである。その差を論ずるのは草花の中の差を論ずるのである。俳句を芭蕉の文学として講ずる本書においては、その差は大問題とはならぬのである。太祇は句三昧くざんまいとなえて一切他事をなげう蟄居ちっきょして句作にのみ苦心する事などがあったそうな。とにかく作句に苦心して熱心であった事は古今有数の一人とせねばなるまい。その句の傾向は平生へいぜい目睹もくとする卑近な人事景色の内から、比較的趣味の深い趣向を見つけ出して、屈折をつけて平凡でないように叙するのである。団洲が好んで英雄豪傑に扮するように、蕪村の取材は必ず卑近でない方に傾こうとしている。よし卑近な人事を叙するにしても、一度蕪村の口に上ると、どことなく蕪村的となってしまう。団洲が百姓町人になっても団洲的となってしまうのと同じ事である。蕪村の句だから蕪村的となり、団洲が演ずるのだから団洲的となるのは当然の事で、不審するのがそもそもの間違いではあるが、その不得意な方面に働くために、面白いと感ずるよりも、多少の不自然を感じて、いわゆる蕪村臭、団十郎臭を感ずるのである。しかもその趣向が太祇の手に移ると、その得意の舞台であるためにそれが活動して描出されるのが、丁度大工や左官が菊五郎の畑であって技、しんに迫るのと同様である。ここの所をよくわきまえて太祇の句を読まんと、蕪村や召波の句を読みなれて突然太祇の句を見たら、品格が悪くって光沢が少なくって、興味が索然さくぜんとしてしまうような心持がするであろう。しかも太祇の句の決して趣味索然たるものでない事は、この一句を解釈してもわかるであろう。「女は罪深きもの」という事は、古くよりいい習わすところである。この句はその言葉をそのまま借りて来て、蚊帳に這入る時の光景を叙しているのである。男ならば大きなまげっておるでもなく、かつチョンまげが少々こわれたところで格別もないが、女の髷は大きなものであるから、とかく蚊帳に這入る時にひっかかりやすい。従ってその髷をこわす憂いがあるので結い立ての髪などは、殊に大事そうにして蚊帳をくぐる。其処を見て太祇が作ったので、女は罪が深い深いと世間でいうが、あの蚊帳をくぐる時を見ても罪の深いのがわかる、といったのである。「髪に罪深し」という言葉は曖昧な言葉である。何も女の罪深い事は髪のみに原因しているのではないが、唯この場合に触目しょくもくすると同時に、「女は罪深いものである」という言葉があるのを思い出し、「髪に罪深し」といったのである。これを普通の文章のように、「髪を見るにつけても罪深い事がわかる」と延べていったら、たるんでしまって俳句にならぬ。たとえ少々言葉に無理があろうとも、調を整えて言葉を出来るだけ省略していったところに面白味があるのである。さてこの趣向はどうであるか。前にもいった如く、いかにも卑近な我らが日常よく目に触れている平凡な事実である。蕪村であったら、たとい目にとめても棄てて顧みぬ事実である。その蕪村が「草の戸によき蚊帳たるゝ法師かな」とか「蚊帳釣って翠微すいび作らん家の内」とか、かように飛び離れた趣向を案じている間に、太祇は目前の卑近な事実を捕えてこの句を作っている。卑近な事実を捕えて作ったのではあるが、その句柄くがらはどうかというに、「罪深し」などいう語を巧みに斡旋あっせんし、言葉に屈折をつけ、調子をひきしめて卑俗ならざる句にしている。尤も蕪村召波などの句のように品格のよい句ではない。しかしてこんな趣向をこれ位までにこぎつけて、さほど下卑げびた句にせぬところは太祇の手腕を認めねばならぬ。我が日常目睹している事実の点からいえば陳腐な事実である。しかしいにしえよりこの事実を取って俳句にした者はない。否これを俳句にしようと思いついて、その事に注意する人が一人もなかったのであろう。一歩をしてその人はあったとするも、その事実をこれほどの句にする人は、一人もなかったであろう。太祇なる人があってはじめてこの平凡な事実を平凡ならざる句にしたとすれば、この一句だけでも敬服せねばならぬであろう。ましてこの種の句は、太祇集中の一半を占めているので、やがてはこれが太祇の特色を為し、容易に他人の模倣を許さぬとすれば、更に大に敬服せねばならぬであろう。蕪村の句は模しにくい、太祇の句は模しやすいという事は、つとに世人のいうているところで、またそれはたしかに事実だが、しかしそれも比較的の話しで、太祇の句も決して模し易いことはない。ためしに太祇のこの種の句を模して見るがよい。それはついに卑俗な句になってしまって、容易にこの太祇のような気のいた句は出来ぬであろう。蕪村の句の模し難いのは著想の点が多きにいる(ママ)ので、思いもつかぬものとあきらめる人も、太祇の句は著想が卑近なだけに及びやすいことのように思うが、よし著想だけ及ぶとしても、太祇のようにいいこなすことは容易でない。

短夜みじかよに敵のうしろを通りけり    几董

 几董は前にもちょいちょいといったように蕪村の高弟であって、天明作家中五指の中に在るべき人である。その句柄くがらは蕪村に似ているところももとよりあるが、どちらかといえば太祇に学んだ所が多いようだ。召波が蕪村に似ているように几董は太祇に似ているのである。短夜というのは夏の夜の事で、日が長くなって最も夜の短くなるのは夏であるから、短夜というとすぐ夏の夜の事になる。さてまた単に短夜といっただけで、その意味は三通りになる。一つは夜涼みなどをしてしまいに人の寝る位までの間、即ち夕暮から十時乃至ないし十二時位までの間をいうので、次はどことなく白みかけて早や明けかけたという時分、即ち三時から四、五時頃の間、の「明けやすし」というのはこの場合である。次はまたそういう一部分をいうのでなく、短夜全体をいうので、日が暮れてから明けるまですっかりいう場合である。短夜という字の本義からいえば、この最後のが一番普通なわけであるが、しかし我らの実際感じるのは起きている場合のみであるから、短夜を咏じた俳句のうちには、はじめと中との場合が多い。即ちよいあかつきとの場合が多い。なお筆のついでであるからちょっとここでいって置きたいのは、日永ひながが春で、短夜が夏で、夜長よながが秋で、短日みじかびが冬であるのは、理窟からいったら合わぬ話になる。短夜と短日とはよいとして、日永と夜長は理窟に合わぬ。春と秋とはどちらかといえば昼夜平分である。春季皇霊祭と秋季皇霊祭を中心にしてその前後には多少の差があるにしても、夏や冬に比すれば平分に近い。それであるのに夏を日永、冬を夜長にしないで、春と秋とにしたのは不理窟極まるわけになる。昔の人は不注意であったかも知れぬが、今の人はすぐこういう事に気がつく。なるほどこれは一応尤もであるが、再考すると理窟に勝って感情にうとい説に成る。春はなるほど事実からいって日永の代表者たる資格はないが、しかし今まで夜が長くって日の短かかったのが彼岸の中日(春季皇霊祭)になって昼夜平分し、それからだんだん日の方が永くなって夜の方が短くなる。終に夏至に至ってその極に達するが、しかし日永を感ずるはその極点の時よりも今まで短かかったのが、これからだんだん長くなって行くという時である。これは人の談話を聞いて見てもわかる。夏のまん中頃、「この頃滅法に日が長い」などいわぬ事もないが、しかし春の半頃、「だい分日が永くなって来ましたな」という挨拶の方がむしろ多い。夏になってしまうと日の長い事になれるのである。だから、理窟からいったら日永は夏でなけりゃなるまいが、感情からいったら春である。秋の夜長も全く春の日永と同様である。理窟からいったら冬が一番夜長であるが、感情からいったら秋の方が夜長の感じが強い。右の外なおも一つの理由は、仮に一歩を譲り、よし実際の感じも夏の方が日永という感じが強い、冬の方が夜長という感じが強いとしても、その趣味の点から、春に日永の趣き秋に夜長の趣きがあるのである。夏は日が長くても暑さに苦しむ所から「日永かな」などと呑気のんきに趣味を味わっているいとまがない。暑い方からというと、「日盛り」というような感じが強いし、また人事からいうと「昼寝」でもしてしまうようになり、「日永」というような悠長な趣きはかえって夏には乏しいのである。それに反し春の方はよし夏ほどに永くないにしても、暑からず寒からず身体に好適の時候であるから、他の「長閑のどか」、「うららか」などいう感じと共に「日永」という趣味は十分にある。秋の夜長もまたこの点において春の日永と同様である。さて夏の短夜、冬の短日はどうであるか。これは事実からいって春の日永、秋の夜長のような不合理の問題は起こって来ない。即ち実際夜の最も短いのは夏、日の最も短いのは冬であるから、その点に何の不審もおこるわけはない。しかしかえって春を日永、秋を夜長という以上は何故に春を短夜、秋を短日とはいわぬかとの疑問が起るかもしれぬが、其処はまた実際の感じ及び趣味の点から説明されるのである。即ち日永という実際の感じは前にもいう如く夏でなくかえって春の方である、短夜という感じは春でなくってかえって夏の方である。「マア夜が短くなった事、四時頃にもう明るくなっている」などというのは、夏になってよく人のいう事である、また趣きからいっても日永の趣きは春の方に在る、短夜の趣きは夏の方に在る。まだ日の出ぬ涼しいうちに起きいずるとか、明け易い空のしらしらと雲の流れている潔い感じとかいう、凡て短夜の趣きは夏に至って初めて現われるのである。故に理窟からいったら日永、短夜共に夏の領分でなければならぬが、実際の感じ及び趣味の上からは日永は春に横取よこどりせられ、短夜のみ夏のものとしてそのままに在留していると言ってよいのである。冬の短日も同じ事で、夜長という実際の感じ及び趣味は冬でなくてかえって秋であるに反し、日の短いという実際の感じ、及びその趣味は秋でなくてかえって冬である。「実際に日が短い」というのは秋でなく、誰でも冬になっていうのである。また寒い日の暮れやすい淋しい心持は、冬になって初めて現われるのである。故に理窟から言ったら短日、夜長共に冬の領分でなければならぬが、実際の感じ及び趣味の上から夜長は秋に横取りせられ、短日のみ冬のものとしてそのままに存留しているといってよいのである。右の如く考えて見ると、昔の人は直覚的で不理窟であっただけそれだけ季のものの命名など自然に文学的に出来ている。今に至ってなお改めることの出来ないのは、独り習慣ばかりでなく、この類の理由に基くのが多いのである。几董の句には必要のないことであるけれど、ついでに駄弁を費して置いたわけである。さてもとに戻って、この句の短夜は前陳の宵、暁、夜中のうち、どの種に属すべきものであろうか、先ず夜中に属するものと言ってよかろう。即ち短夜の句中最も少き種類に属するものである。句の意味は、夏の夜少数の兵士、もしくは本陣に使するものなどが、ひそかに敵の陣営の後ろを覚られぬように通り抜けたというのである。これが夜長とか春の夜とかでは、敵陣の後ろを通るというような際どい勢のよい傾向には適せん。何事も積極的な壮大な夏の夜であるから、殊に妙なのである。また前にも言った如く、短夜には涼しい清い感じがある、それもこの事柄の趣味に最もよく調和するのである。夜の短いという点も、敵の後ろを通るという嶮難な事に一層感じを強めるようになる。この句の如きは、短夜の句としても最も珍らしい句と言ってよい。几董集中にも珍らしい句の方である。
「芭蕉の文学」である俳句の解釈はこれを以て終りとする。
――了――





底本:「俳句はかく解しかく味う」岩波文庫、岩波書店
   1989(平成元)年10月16日第1刷発行
   2005(平成17)年10月17日第20刷発行
底本の親本:「俳句は斯く解し斯く味ふ」新潮社
   1918(大正7)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ボタリ」と「ぼたり」、「詠」と「咏」の混在は、底本通りです。
※引用文の旧仮名は、底本通りです。
入力:kompass
校正:木下聡
2023年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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