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おやをもり俳諧をもりもりたけ忌 虚子
もりたけ(荒木田守武)
室町末期の俳人・連歌師 天文十八年八月八日没
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二、三年来『
玉藻』誌上に載せた短い俳話を集めて本書が出来た。されば「玉藻俳話」とでも題する方が適切かも知れぬ。いずれにせよ、私の信ずる俳句というものは
斯様なものであるという事を書き残して置くものである。
往年
岩波茂雄君から、従来発行し
来った岩波文庫の
他に今度岩波新書を発行しようと思う、それについて私に「俳句への道」という一篇を執筆してもらいたい、という話があった。私は、出来たらば書いて見よう、と約束した。その後十年、二十年と月日が
経って、茂雄君は
亡くなってしまった。が、最近また改まって岩波新書として「俳句への道」を書いてもらいたいという話があった。昔茂雄君の依嘱に
応え得なかったことを心残りに思っておったところである。その
頃『玉藻』に載せはじめた俳話類を
纏めたものでよろしければと言った。それでも
宜しいとの事であった。それから一、二年を経過して、
漸く
書物になるだけの分量になった。それに「俳句への道」という題を附することにした。
この書に
輯めたものは私が従来しばしば
陳べ来ったものをまた言を改めて繰り返したものに過ぎぬ。私の俳句に対する所信に変りはない。しかし時に応じ物に即して筆を採ったものであるから、今の俳句界に対して無用の言とはいえないであろう。
昭和二十九年十月二日
鎌倉草庵にて
高浜虚子
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私等は、日本という国ほど
景色のいい所は世界中ないような心もちがします。こういうと世界の国々を知っている人は、そんな事はない、
何処にはこういう景色がある、
彼処にはああいう景色がある、それを知らないで、世界を充分見もしないで、ただ日本だけ見て、そんな
独りよがりをいうのは、いわゆる井の中の
蛙のたとえで、物知りには笑われるから、そんな事をいうのは
慎んだがよかろうというに
極っています。
それに違いありません。私がちょっと
仏蘭西まで旅行して来ただけでも、その途中でさまざまないい景色に接して参りました。中国の
江南の景色、セイロンの落日の景色、仏蘭西のローヌ河畔の木の芽の景色、ムードンの森の
驟雨の景色、
独逸のライン
河の古城の景色、ベルギーのヒヤシンス・チュウリップ等の
花畠、オランダの風車、
倫敦の霧等、数えれば数限りなくある。しかしながら、
我が日本という国は山・谷・川・平野・湖沼・港湾・長い海岸線等が、狭い日本国というところに
納っておって、しかも暑からず寒からず、つまり酷暑酷寒というような自然の虐待を受けることなく、春夏秋冬がほどよく
環って来て、変化に富んでいて、春夏秋冬の草木
禽獣虫魚、天文地理の諸現象、それらの変化を楽しむことが出来るということは、まずまず日本国などこそ
尤も天恵に浴しておるといってよかろうかと思います。
そこで日本には昔からこの自然の景色を
諷詠し、自然と共にある人間を
讃美した文学がたくさんあるように思います。
古い歌がまず第一番にそれであります。尤も古い歌には人情を
諷い恋愛を諷い哀別離苦を諷い無常を諷うものが多いのでありますが、そのうちに風景を諷う歌もあるのであります。『
万葉』の歌人
山辺赤人になりますと、自然の景色を
詠うことが最も得意でありました。
柿本人麿にしましても景色を諷った歌もたくさんにあります。『
源氏物語』の類の物語、『
枕草子』の類の草紙になりましてもやはり景色を諷った部分がたくさんにあるようであります。謡曲の類であっても、やはり景色を諷ったものがたくさんに見受けられます。
日本のそういった文学だけを
挙げて、中国や西洋の文芸を挙げないで論ずるのはやはり井の中の蛙の
譏りを免れないことになります。私等の知って居る
極めて狭い範囲内の中国の文芸や、また西洋の文芸のほんの一部分を
覗いた感じからいうと、日本ほどその傾向は強くないような心もちがするのであります。
日本では
足利時代から
連歌とか俳諧とかいうものが生れて来るようになり、自然諷詠の傾向が強くなって参りました。
殊に俳諧から
発句というものが独立するようになってから、
殆ど専門的に景色を諷詠する文学が興って来るようになりました。景色と申しましても春夏秋冬の変化に伴って起る現象を諷うということになったのであります。
私等は日本の景色を誇りとすると同時に、この発句というものを我が国の文学として誇らしく感じて居るものであります。
なぜ西洋には景色を諷う文学が日本ほど発達しないのかしら、と不思議に思うことがあります。また、絵になると、油絵や水彩画に風景を描いたものがたくさんあるのに、なぜ文学にそれがないであろうかと不思議に思うことがあります。それには私はこんなふうに解釈をして居るのであります。
風景を写すのに長い文章で写すことは退屈をするものであります。美しい筆で美しい風景が叙されていても、その中に人間が出て来ないと退屈を感じてくるものであります。景色のみを書いた文章はどうも
刺戟が
少いのであります。人間が出て来て活動を始めると読者の心もちは急に
引立って来ます。長い文章で景色のみを叙する事は不適当であります。が、
此処に十七字という極端に短い形の詩がありまして、それで景色を諷うことをします。三十一字の歌でもいえない事はないのでありますが、それよりなお短い十七字が最も適したものであります。
連歌の発句、俳諧の発句と
遷って来まして今日では俳句という名前で呼ばれておりますが、これは発句といった昔のものと少しも変らないのであります。
それからまた私は、西洋におって見まして西洋人の住居の有様を見まして、これでは西洋人は俳句のような自然に遊ぶ文学は好まないはずだという感じがしたのであります。西洋人は
煉瓦で造った家に住まっています。花園に出るにしましてもドアを
開けて出て行かねば花園には出て行かれません。また庭を
眺めるにしましても窓を開けてそこから眺めるのであります。ところが日本の家屋になると
縁側というものがありまして、その
踏石には
庭下駄がある。それを突っかけてすぐ庭に出ることが出来る、
夜分こそ
雨戸を
閉めて家と庭との限界を
厳しくしますが、昼は
殆ど家と庭との境はないといってよいほどであります。これは西洋ばかりでなく、支那の家屋でもやはりそのような傾向があると思います。大きな厚ぼったい
塀が家の周囲に
繞らされておりまして、部屋と部屋との間には
内庭というものがありますが、そこには太湖石などを置いてある位のように想像します。とにかく日本ほど生活と庭が一緒になっているものではありません。
日本ではまだ生活程度が低くって文明的でないとも言えるかも知れませんが、しかし気候が温和で家屋の内と外でそれほどの温度の開きが大きくないので、人は天然に親しみながら生活することが出来る。春夏秋冬四時の変化を身近く感じ、これを享楽する心もちになる事が、この自然を愛好し自然を諷詠する俳句という文学を発達せしめた
所以であろうと思います。
(『玉藻』、二七、六)
私はパリに行っていわゆるハイカイ詩人の一団と
牡丹屋という日本人の経営している料理屋で会ったことがありました。ハイカイ詩人というのは、日本に滞在していたクウシュウという医者が、日本に俳諧と
称える詩があることを知って、それをパリに帰って、それに
倣ってハイカイという詩を広めたのでありました。そうして、そのハイカイと称える詩を
旺んに作って名を成した人にヴォカンスという人がありました。これはもう相当の老人でありました。その人はハイカイ詩人の集りには欠けていました。私は別にその人の家に招かれました。私と同じ位の
齢恰好と思いました。このヴォカンスでも前のハイカイ詩人の集りでも、十七シラブルの詩を作るという事は俳句の十七字ということに倣っているのですが、俳句に大切な季という事になりますと少しも問題にしていないことを知りました。そうしてその詠ずる所のものは、主として哲理めいたもの、時事
諷刺に類したもの、理想を
諷うもの、感情を述べるもの、の類でありまして、それらの思想は
剥き出しに諷詠されていました。私はそれらの人々に
向って季ということを説いてみました。俳句というものは四季の諸現象を
詠うもの、また、感情や理想や、たまには哲学めいたものを詠うのもよろしいが、それにしても季に
拠ってこれを詠うものである。それが俳句の特色である。そういう事を説明してみましたが、多くのハイカイ詩人はその事を
首肯しませんでした。ただ、その席にいたクウシュウ(前に言った
如くハイカイというものを日本から持って帰って、それをパリの詩界に移し植えた人)は、こういう句を作って私に示しました。
露の世に Dans un monde de ros
e
ぼたんの花の下で Sous la fleur de pivoine
お目にかかったひと時(意訳) rencontre d'un instant.
ポール・ルイ・クウシュウ Paul Louis Couchoud
というのでございました。これは
遉に露という季を入れていて、私に
逢ったクウシュウの心もちを述べたものでありまして、俳諧の規則に
叶っております。が、その他の人のになりますと俳句とは全く縁の遠い季のない
唯の詩でありました。十七シラブルという型を守っていることのみによって、ハイカイと称えていることを知りました。私は、それでは俳句ではない、という事を申しましたが、それには
合ッ
点が行かないようでありました。詩というものは感情を述べるものである、思索を述べるものである、そんな季という如きものを必要とするということは合点がいかぬと申しました。
今、急に季の事を申したところで、それを
諒解するまでには相当の年月を要するでありましょう。第一歳時記というようなものはフランスにはないのであります。日本でも
北村季吟がはじめて『
山之井』という季を集め評釈したものを作り、それからだんだん
元禄・
天明を経てその季の数もふえて来、
曲亭馬琴のあの綿密な頭で『歳時記
栞草』なるものを
拵え、明治・大正・昭和になって種々の歳時記が刊行されるようになり、季題というものの
集輯排列がやや整備したものになっている現状であります。日本ですらそうでありますから、今
俄かにパリで季の事を言った所で、それが人々に受け入れられるということは無理な
註文であります。私は徐々と彼らに日本の本当の俳句というものを知らしめるために、俳句の
翻訳を試みてそれを毎月の雑誌に載せ、せめて季ということに親しまそうと試みましたが、モロッコに居るフランス人がそれに
刺戟されて、季のあるハイカイ詩を送って来たこともありましたが、その後大きな戦争が起ってその事は中絶してしまいました。最近にヴォカンスと戦後はじめて書簡の往復をしましたが、ヴォカンスはやはり季ということは問題にせず、ハイカイ詩を作っておるということを言って来ました。
僅の間の旅行でありましたが、この六十日ばかりの旅の間、各地の天然の風光が俳句には成りにくいような心持がするのでありました。それは前に申しましたように、その土地の人々の住居と自然の風景とが日本ほど親しめない、ということが一番の原因であったかも知れません。また山川草木の上の気候の現象が顕著でないのに原因するかも知れません。ベルリンに行った時分に、ヴェルダーという所に車を駆って行ってみました。そのヴェルダーという所は桜の名所となっている所だそうでありまして、沢山の桜の木がありまして、その桜の下には沢山のテーブルがあって客が
殆どいっぱいに占領していました。が、どうもその桜というのが私に与える刺戟が薄うございました。またその桜を見ている人々の
容子が、私に句を作らすという
雰囲気を作ってはくれませんでした。ベルギーのアントワープの郊外にヒヤシンスやチュウリップが沢山に咲いている花畠を見に行きましたが、その時もその花畑の中にラジオの車が
据えてあって
盛に
唄を歌うていた以外には少しも感興を
唆るものはありませんでした。また、ロンドンのキュー・ガーデンに吟行のつもりで行ってみました。
折節ロンドンの
子女は春のさかりの
梨の花や日本から移された桜の花の咲いておる中に三々五々歩を運んでおりましたが、その光景が日本の花の盛りに見る感じとはどことなく違っておりました。
これらは天然その物、季節その物の感じが日本とは違っているのか、またはその天然、季節に対する人々の感じが違っているのか、とにかくそこに俳句というような花鳥風月を詠う詩を生み出すべき原因が
虧けているように思われました。今日まで西洋に花鳥諷詠詩というものが興らなかったという事も、やはりそうであるべき運命であったのかと思われました。
尠くとも今の所、「季寄せ」「歳時記」というものが制定されず、人々をして人間生活の外に花鳥風月の世界のある事を知るに至らしめない原因があることを思わしめました。
斯く考え来りますと、我ら日本人が祖先からこの天然の種々の現象に心をとめ、四時の
遷り変りに情を動かし、この大自然と共に豊富な生活をしてゆくことは天恵といわねばならないのであります。
縁と庭とは極めて親しいものとなっていて、人を煉瓦の壁の中に閉じ込めずに、草木の間に常に開放するように出来ておる日本の家屋に住んでおるという事は、
極寒極暑の世界に居るものの知らないところで、温帯
殊に我が日本に特に恵まれた自然の
賜ものではないでしょうか。そうして俳句という自然詩が生れ来ったということは何よりの幸福ではないのでしょうか。
日本でも都会生活がすすんで来、高層ビルデングが建ち並んで来ると、自然に生活が西洋風になって来る、それのみでなく、西洋の文芸の思想が日本人の頭に浸潤してくるとその思想も西洋化してくる、一応はそういう風に考えられもするのでありますが、しかしながら天然の風光が
明媚で、また、四時の巡環が順序よく行われる、その天恵を享受しているこの日本にあっては、祖先伝来の特殊の文芸である花鳥諷詠詩が存在して居るということを忘れてはいけません。のみならずこの世界に独歩せる民族的文芸を更に更に発達せしめなければならぬのであります。また西洋から浸潤して来る新しい文芸思想を花鳥諷詠詩たる俳句に移し植えようとするのは無理な註文といわねばなりません。俳句は私等の父祖より伝わって来ている伝統の文芸でありまして、私たちはこれを守り育ててゆくことに義務と誇りを持って居るのであります。
その土地に育って来たものはその土地に育つべき運命を持っているものであります。ロシアの文芸、フランスの文芸、それらはその民族の生んだところの文芸であります。その民族の
匂いと誇りとを持っているものであります。我が日本の文芸もまた日本に生れるべき運命を持って生れて来た文芸であります。これまた民族としての匂いと誇りとを持っているものであります。
私はどこまでも俳句というものは季というものをおろそかにすることは出来ない性質の文芸であるという事を、牡丹屋におけるハイカイ詩人の集りの席上でも、ヴォカンス邸の集りでも強調したのでありました。しかしながらフランスの人々が、季という事に重きをおかないばかりか、季ということを問題にしようともしないという気もちもほぼ分るような心持がしたのであります。それはフランス始めその他の地方でも見た景色、山川草木に現れる四季の変化、その色彩、その感覚というものが、日本の内地におけるものとは
異ったものがあり、その四季の変化が人に及ぼす力、また人のそれを受取る用意、それらは日本人とは大いなる相違のあることを見たからであります。
私はその点において、日本を振り返って
蓬莱島という言葉を思い出しました。(私は以前に、「日本百景」の俳句集を毎日新聞社で発行する時、その書物の題字を何と書いたらよいかということを社長の
本山彦一氏に聞かれて、「蓬莱島」でよかろうと答えて、その通り書かれたことがあった。)日本は東海の孤島ともいうべきものでありましょう。アジアの大陸、ヨーロッパの大陸、アメリカの大陸等に
較べたら
寔に
渺たる島であります。しかしながらその比較的小さい範囲の中に山岳があり湖沼があり高原があり平原があり、河川があり
瀑布があり、火山があり温泉があり、海岸線の屈曲は非常に多く、
白沙青松のところもあれば
断崖絶壁のところもあり、黒潮の北上、寒波の南下、種々雑多のものを小さい島に
纏めております。しかも春夏秋冬四季の変化は比較的順調に行われ、草木花鳥の色彩は濃厚であってしかも温雅(熱帯地方で見るような強烈でしかも単純な色ではなく、また欧洲大陸で見るものに較べると、色の数が多くしかもこまかい)、また
行燕帰雁その他春夏にかけて飛ぶ
蝶のかずかず、秋冬にかけて鳴く虫のかずかず、それら自然界の現象は複雑多岐にわたっているのであります。その
外前にもいった如く、人々の生活その物が自然に接触していて、われらは常にその中に
嬉遊しているような感じがするのであります。われらは四時の変化に富んだ自然界に住む民族であります。
従ってこの蓬莱島にあってはおのずからその風景を礼讃する傾きが生じて来て、前言った如く和歌、物語の類をはじめとして、
遂にそれを専門に諷う俳句の如きものが生れ来ったのは偶然でないのでありまして、フランスでハイカイと称える詩が興ったとしましても、それは十七シラブルという俳句の形は取り入れましたが、それもたしかに要求の一つではありますが、
肝腎の季ということを忘れていたのは残念な事であります。振り返って我が日本の俳句を見る時は、あるいは日本にしてはじめて興る文芸であるかとも考えられて、ここに尊い誇らしい心持がするのであります。
(『玉藻』、二七、七)
人類の始めはどんな状態であったか。とにかく生活しなければならないということが第一の条件であったのでありましょう。暑さ寒さを
凌ぎ、雨露を凌ぐという事も大事な条件であったでありましょうが、何よりも大事なことは食物を得るという事であったに相違ありません。それには田畑に物を作るということもありますが、そんなことを考えつく前に木の実を食い獣を狩り魚を
獲るということが
先ず第一に
為されたことでありましょう。アフリカや南米等に住む原住民の生活の状態を見れば、ほぼ想像がつきます。そういう風にして生活しなければならなかった時代は、花鳥を諷詠し風月を楽しむというような事は縁遠いものであったでありましょう。
衣食に営々としておるということは原始時代も今もなお変りがないとも言えましょう。現代の人も一握の米、一片の肉を得るためには血みどろの戦いを続けているとも言えるのであります。がしかしそれは考え様であります。現代の人間の生活は昔の人の生活とは違って、一方には営々として衣食を得るために働き、一方には花鳥風月と共に嬉遊しておる余裕を持つようになっておるのであります。それが天から与えられた人間の幸福な半面と言えない事もないと思うのであります。
人によると、花鳥諷詠は閑事業である、そんな事をしている暇があるならば、もっと他に為すべきことがある、苦しい人世を逃避しようとして
徒らに
易きに
就くものである、もっと苦しまねばならぬ、若くして老人の
真似をしてはならぬ、と言うものがありますが、それは一を知って二を知らぬ言であります。
花鳥諷詠ということは原始生活を離れて段々文明の進んで来るに従って、自然に生れ来った人間の余裕であります。この余裕があればこそ、人間の
眉は常に苦渋の
顰みを見せていないで済むのであります。
魚が泳いでいるのを見ればすぐこれを漁獲せん事を思い、鳥の飛んでおるのを見ればすぐ狩猟せんことを思い、また樹木があればそれを伐採せん事を思う人はあわれむべきであります。我らはそれらのものに
依って衣食住の材を得る事は承知しておりますが、また同時にそれらに依って遊楽の天地を形造る事も知っております。ひとり汗ばかりを流すのが人間なのではありません。涼風を満喫するのもまた人間であります。花鳥と共におり、風月と共に居る、これが人間の一面の姿でもあります。
俳句というものは花鳥諷詠の文学であります。これは我国にひとり存在するところの特異な文学であります。花鳥諷詠の文学(詩)が存在しているということは、我が国民の誇りとすべきものであります。
(『玉藻』、二七、八)
今まで主として日本の景色、並びにその景色に対する日本人の親しみ、というようなことをお話したのでありますが、景色と言ったばかりでは意をつくさないのでありまして、前にもちょっとその事に言い及んだように思いますが、その景色に冠するに四季の循環という事を
以てせねば意をつくさないのであります。四季の循環によって花鳥草木その他天然界の
森羅万象はその形象を異にします。春夏秋冬という事を忘れては、景色は存在しないのであります。今まで簡単に景色々々と言って来たことは、この四季の循環を前提としての景色であります。私がロンドンやパリでその景色に比較的親しみを感じなかったというのも、季節の現れが日本ほど顕著でなかったというのに帰すると思います。
日本では春夏秋冬の季節の変化は顕著でありまして、それに依って天然界、動植物界等の種々の現れが絶えず目の前にあるのであります。それのみでなく人間界もまた、その季節の変化につれて、種々の現象が続出します。
一年間の大半は酷暑の赤道近い地方、一年間の大半は雪に
閉されている寒帯地方、また温帯地方にあっても一年中
殆ど同じような時候の続く北米カリフォルニア州の如きものもあるのでありますが、春夏秋冬四季の現れが等分に行われている我が日本の如き国は
少いかと思います。これも厳密に調べたならば、まだ他に沢山そういう国があるのかも知れませんが、我が日本は最もその点においても自然に恵まれた国土であるように思います。それでこそ昔から春夏秋冬を讃美した詩歌の類は多く、物語類であっても四季の変遷を描いたものはかなり沢山あります。
殊に俳句というものが起ってからは歳時記というものが段々発達して来て、四季の現れを
仔細に記録しております。
尤も日本の国土は南北に長くなっていて、北辺と
南陲とを比べたらばよほど寒暑の差があるのではありますが、それでも寒流や暖流の関係でその寒さも
相殺されて、住みよい国になっている所もあります。従って春夏秋冬の変化によって種々の現象を楽しむ心の余裕を人々は皆持っているのであります。前に言った如く山岳河海、湖沼平原、断崖絶壁、白沙青松、
飛瀑湧泉と種々雑多の変化があります。それを
経とするならば、春夏秋冬の絶えざる変化を
緯として、ここに
錦繍の楽土が織り出されているのであります。そうしてその中に住む国民は、その緯、経で織り成された楽園に絶えず親しんでいるのであります。
日本人としてこの日本国に生れ育った者は、その天の恵みの中に抱擁されていながら、天の恵みを忘れている者が多いようでありますが、
一旦他国に出て異郷にさまようてみたならば、
如何に日本の国土が自然の豊富な現れを持って私等を親しく抱擁しているかという事を知るでありましょう。
否々、我らはそれらの特別の恩恵を意識せずにいながらも、やはり自然に親しみを持って春夏秋冬の四季の中に抱擁されて、変化多き快適な生涯を送っているのであります。
酷暑と言えば早く秋冷の候になる事を
冀い、酷寒と言えば早く春暖の候になる事を冀うのが人情であります。しかし、そのまた酷暑の中に、汗を流して働く快味もあれば、山に登り海に遊ぶ涼味もあるのであります。酷寒といえども、雪の野山を
渉る
壮図もあり、大炉を
燻して語る快味もあるのであります。その他歳時記に収録された夏冬の諸種の現象は、一々愉快な題材となって我々の目の前に現れて来るのであります。春秋の
諸々の現象は
固より言うまでもありません。要はそれら四季の変化が等分に行われてその現象が絶えず転換し、飽く事を知らない所にあるのであります。
この春夏秋冬四季の変化に心を留めて、その中に安住の世界を
見出すという事は我が日本人の特に天より授かった幸福ではないでありましょうか。これを
空しく看過する者は天の恵みをおろそかにする者であります。
(『玉藻』、二七、九)
私は今まで日本の風景、気候の変化、四時の現象を話して来ました。花鳥諷詠(後に説く)の我が俳句が、日本の詩として自然に発生したいわれを明らかにしたものであります。
が、独り日本のみならず、全世界の全人類も、たとえ日本ほど天の恵みは豊かでないとしても、日本の俳句で養われた自然に親しむ感情、酷寒酷暑のうちにもなお楽しい天地を見出すという習練を経て、自然の現象に心を留め、花鳥風月に詩を見出すに至らんことを希望するものであります。太陽の熱という生物の根元、地球の回転によって生ずる春夏秋冬、
雷霆風雪、禽獣虫魚、草木
花卉、
凡てこれらの広大なる現象に詩を見出すことは我が俳句の使命であります。科学の力はだんだん進歩して来ていますが、それは詩の世界とは関係が薄いのであります。人間を描く文学も結構でありますが、宇宙の諸現象を謡う詩もまた
疎かにすべきものではありますまい。この山川雲霧、禽獣虫魚、草木花卉という横糸、春夏秋冬という縦糸、
即ちこの経緯の織りなす天地を描き、その天地に情を寄する心が我が俳句への道であります。
(『玉藻』、二九、九)
[#改ページ]
私は
敢て客観写生ということを言う。それは、俳句は客観に重きをおかねばならぬからである。
俳句はどこまでも客観写生の
技倆を
磨く必要がある。
*
その客観写生ということに努めて居ると、その客観描写を
透して主観が浸透して出て来る。作者の主観は隠そうとしても隠すことが出来ないのであって客観写生の技倆が進むにつれて主観が頭を
擡げて来る。
客観写生に熟練して来ると、知らず
識らず作者の個性が隠そうとしても隠すことが出来なくなり、その
鋭鋒が客観描写という袋を突いて出て来る。
*
修行の道程としてはまず客観写生に基礎を置いて、そこからだんだんと進んで行って、
遂に作者の主観をそのうちから
汲みとることが出来るようなものに到達するのである。
*
今日われわれ仲間の句であって主観の濃厚に出ている句であっても、なおそれは客観描写の基礎に立っているいわゆる客観写生の修行の出来た上の句であることを看取せねばならぬ。
*
客観写生という事を志して俳句を作って行くという事は、俳句修業の第一歩として是非とも
履まねばならぬ順序である。
客観写生という事は花なり鳥なりを向うに置いてそれを写し取る事である。自分の心とはあまり関係がないのであって、その花の咲いている時のもようとか形とか色とか、そういうものから来るところのものを
捉えてそれを
諷う事である。だから
殆ど心には関係がなく、花や鳥を向うに置いてそれを写し取るというだけの事である。
しかしだんだんとそういう事を繰返してやっておるうちに、その花や鳥と自分の心とが親しくなって来て、その花や鳥が心の中に溶け込んで来て、心が動くがままにその花や鳥も動き、心の感ずるままにその花や鳥も感ずるというようになる。花や鳥の色が濃くなったり、薄くなったり、また確かに写ったり、にじんで写ったり、濃淡陰影
凡て自由になって来る。そうなって来るとその色や形を写すのではあるけれども、同時にその作者の心持を写すことになる。
自分の心持を諷う場合にも花鳥は自由になる。
それが更に一歩進めばまた客観描写に
戻る。花や鳥を描くのだけれども、それは花や鳥を描くのでなくて作者自身を描くのである。
俳句は客観写生に始まり、中頃は主観との交錯が色々あって、それからまた
終いには客観描写に戻るという順序を履むのである。
*
こう言ったばかりでは、はっきりわからないかも知れんが、絵に例をとってみる事にしよう。絵も始めはその対象物を向うに置いて形なり色なりを研究するに始まって、その形や色が出せるに従って自然々々にその対象物と作者との距離が近くなって来て、自分の心に感ずるような形や色が自由に描けるようになって来る。一つのモデルであっても十人が十人描いたものは皆違っておって、自然にその人が、
即ち作者自身が、その上に現れて来る。たとえて言えば、その対象物が
真直ぐに写されているものもあるし、いびつに写されているものもあるし、
柔かい線で描かれているものもあるし、強い線で描かれているものもある、少し暗いものもあるし、少し光っているものもある。そういうのは対象物を向うに置いて写す間に、自然々々にそれが作者に近づいて来て、対象物を写すのではあるが同時に作者を写すことになるのである。それがいよいよ進んで来ると、
如何にもその作者でなければ描けないというものになって来て、純粋な客観写生の作品であるけれどもその中に作者の人格が現れているというようになって来る。こうなって来ると主観の影が内に沈潜してまた客観写生の様相を備えて来るのである。主観を喜ぶ時代は必ずあるものである。がその主観の時代を経過すると、また
何時か客観に戻って来る。
*
俳句は宿命として絵画と
甚だ
似通ったものである。絵画が色や線で形を現すと同じく、俳句は文字を以て景色や事件を現すのである。
しかしながら絵画は形態を描くばかりでなく、その描くところの形や色を
透して、作者の好み、感じ、
匂い、こころを描くのである。同じ
林檎一個でもこれを描く人によって違うのである。その人というものは隠すことは出来ない。それと同じく、俳句も描くところの人によって読者の受ける感じは違う。これは即ち形を描くのみでなく、その作者自身を描くことになるのである。
隠そうとしても隠すことの出来ないところのものである。
客観写生といっても決して客観写生に終るものではない。
客観写生というのは写生の
技を磨くものである。客観写生の技を磨くことはやがてその作者そのものを充分に描き得ることになるのである。
*
決してそれは大きな事実でなければならぬということはない。
勿論大きな事実が描かれておるために、大きな感銘を得るということはあるのであるが、如何に微細な平俗な事実であってもそれを透して大きな作者の主観がぬっと頭を出しておる、というような俳句であれば結構なのである。だからして必ずしも大きなものにたのむことは
要らん。その事柄は平俗なことであっても、そのうちにひそむ主観が大きければそれでよいのである。
*
その小さいことを透して大きな主観が
泌み出るということは、作家の技倆に
依る。作者が一句を仕上げる上の多年の修練、その人の天才、ひらめき、つまりその句が玉成されているか、あるいは
瓦礫に終っているかによって
極まるのである。
言葉の複雑ということも、場合によっては効果的であるが、しかし多くの場合は言葉の単純ということが大事なことである。省略に省略を重ねて
一塵をとどめないところに
到ることが
極意である。即ち、なるべく単純に、その句から受ける表面的な事実は少しも心を労せずして流れる如く心に受取って、その下から起り来たる作者の主観が読者の心に響き渡る、というようにありたいものである。
不可解
難渋であっては、その事に読者の心が労されて、作者の主観を受取ることが出来ぬ。
俳句を作ることの年の浅い人は得てこういう弊におちいる。
年の浅い人は平易な句はもの足りなく思う、その奥にひそむ主観を解し得ないからである。それらの人もだんだん修練を積んでくればおのずからそれがわかって来るのである。
*
中には自分の感じを
諷おうとして手っとり早く作者の主観を述べた句、
若しくは作者の主観に
依って事実をこしらえ上げた句等は、私等から見ると
外道である。
思いをひそめ考えをめぐらし、苦心
惨澹するのは勿論そうあるべきである、がしかしこれを現す時にはこれを客観写生の上に立って、自然に、円滑に、その感懐を運ぶに足る事実の描写をすべきである。
感懐はどこまでも深く、どこまでも複雑であってよいのだが、それを現す事実はなるべく単純な、平明なものがよい。これが客観描写の極意である。
主観の匂い、主観の光り、というものはその単純な平明な描写の中から出て来るのである。
その単純に似たる客観の描写のうちに図らずも作者の深い複雑な主観を
捉え得たときは、読者はそれから深い感銘を得るのである。読者はその単純に似た事実の描写のうちから大きな作者の主観を感得するのである。
*
今日世間で評判されるものは主観の暴露されているものである。そうでないと一般に分らないのである。
私は最もそれを忌む。
*
描写は
茫洋として大海の如きものであれ。そのうちから遠く深く主観の光を認めよ。
*
ゴツゴツと主観の壁にぶつかる如き作品は私は
嫌いだ。
(『玉藻』、二七、一)
俳句でない他の文芸に携わって居るものが「花鳥諷詠」を攻撃するなれば聞えるが、俳句を作っている者が「花鳥諷詠」を攻撃するということはおかしい。
俳句は季題が生命である。
尠くとも生命のなかばは季題である。
されば私は俳句は花鳥(季題)諷詠の文学であるというのである。
*
一時俳句にも季題は不必要だ、なくってもいいという説もあった。今でも少数の人はそう言って居る、が、それでは俳句というものの特色がなくなって来る。俳句だと
強いて主張するのがおかしくなって来る。自然その説は有力であり得ない。
季題というものにこだわっているのはばかな話である、文芸は人の心を
詠うもの(詩は志なり、という言葉があるように)である以上、何も季題に束縛される必要はないではないか、という議論は、詩論としては正しい。が、俳句論としては成り立たない。季題というものを除いては俳句はあり得ない、それは俳句ではないただの詩となる。詩としては成り立つが俳句としては成り立たない。
が、それらの人はなおこれを俳句と
称えたがって居るようである。それは詩として存在が薄弱であるから、俳句という
母屋を借りてその軒下に住まおうというのである。それは弱い。弱い人のする事だ。
*
生活派とか人間派とかいわれている人はなぜ自分の志を詠おうとする場合に俳句を選むのであるか。それを私は不思議に思う。十七字という型に離れられない
因縁があってそれで
何処までも十七字の俳句に
拠るのであろうか、恐らくそうであろう。
*
それはそれでよいとして、なぜ季題というものが付き
纏うている俳句を選むのであろうか。
*
俳句は季題(花鳥)というものを切り離すことの出来ない文芸である。
*
生活派人生派、というような人が、その志を詠おうとするのに季題が必要なのであろうか。私の考えでは季題はむしろ邪魔になるのではなかろうか。たまたま季題が役に立つ場合があるかも知れないがそれは
極く
少い。季題に
頓着なく詠う方が深刻でかつ自由であろうと思う。
人生を詠う詩として季題が必要なのであろうか。つき詰めた人生を詠う場合に季題が必要なのであろうか。
*
俳句は自然(花鳥)を詠い、また、自然(花鳥)を透して生活を詠い人生を詠い、また、自然(花鳥)に依って志を詠う文芸である。私はそう考えて居る。
俳句は生活を詠い人生を詠う文芸としては、そうつき詰めたせっぱ詰まった(他の
或文芸が志しているような)ことは詠おうとしても詠えない。それはなぜかと言えば季題があるからである。たまには詠える場合もあるが総じて季題があるから詠えないという場合が多い。
*
総じて自然現象(花鳥)はわれわれの生活にゆとりを与える。これは否めない事実だ。それで苦しい
極み、貧しい極み、生活を否定しようとするような場合、世の中に絶望したような場合、深刻な悲痛な情緒を
愬えようとする場合にでも、天然現象(花鳥)に心を留めると
忽ちゆとりが出来る。
尠くとも諷詠しようとする人の心にはゆとりが出来る。
*
俳句は激越な文学ではない。それは先天的に
極まった性質である。それは季題というものがあるからである。
よくそこを考えねばならぬ。先天的にきまった性質は変えようと思っても変えることは出来ない。
俳句はその先天的性質に適した文芸であるべきである。
*
自然(花鳥)と共にある人生、四時の運行(季題)と共にある人生、ゆとりのある人生、せっぱ詰らぬ人生、
悠々たる人生、それらを詠うのに適したのが我が俳句の使命であると思う。
花鳥(自然)諷詠という事は俳句それ自身の
謂である。
これは俳句
未生以前本来の面目である。
*
いわゆる生活派人生派と称える人の俳句をよんで見ても、格別
刺戟を受くるものはない。これは季題を用いているため、勢いそうならざるを得ないのである。
季題の拘束のない他の文芸に
赴けばよい。
*
季題と素材と感情とが別々になって何の事か解し難いものがある。
*
なかには調子もととのうたものもある。それはとりもなおさず花鳥諷詠詩になっている。
(『玉藻』、二七、二)
この頃の私の目にふれるだけでも月に何千何万という句がある。それらの句は何百人、何千人という人で作られる句である。それらの人は私を信頼してその中で良い句を選んでくれと言う。私はその要求に従って、すぐれていると思う句に
印をつけて返す。
そんな風に作者と選者とが力を
協している中にそれらの人々の俳句は幾らかずつ進歩して行くものと思う。またこれを俳句界全体から
眺めてみると、幾らかずつその俳句界全体の進歩がみとめられるものと思う。私はこんな風にして四、五十年の月日を重ねて来た。その四、五十年間毎日のように俳句を作る人と俳句を選む私とが協力して今日に来ているように思う。
この、時の流れ、自然の推移、というものは決しておろそかに考える事は出来ないのである。かくして俳句界全体は進歩して行く。
私はこの間松山における
子規五十年祭の時分に、松山ホトトギス会主催の俳句会席上でこんな事を言った。
それは子規が
未だ生きている時分に、現在子規の周囲に
集って来ている俳人たちの未来の進歩も計り知られぬものがあるが、それよりも今木登りなんかをして遊んでいる
腕白の子供の、後に俳句の研究者になってどんな新しい方面に足を踏み込むか、その事を考えてみると
恐いような心持がする。現在頭を出している俳人は、未来にどんな事をするかという事は大体想像がつく、が未だ世の中に出ない木登りなんかをして遊びくらしている腕白な子供が大きくなって、それらが
一廉の俳人になってどんな事を仕でかすか、どんな新しい方面を開拓して行くか、我らの思いも及ばぬ事をするか、それは計り知られぬものがある。自分はそれらの人に期待をかける、またそれらの人を恐れる、とそういう意味の事を言った事がある。
私もこの子規の言と同じような考えを抱いておる。現在私の後に生れて来た俳人諸君の
為す所を見ると、大概その為さんと欲する所の事は想像がつく。それらの人が一生涯かかってやるにしても大概それは想像がつく範囲内の事に限られている、が、ずっと先の未だ世間に現れない俳人が飛び出して来て、それがどんな思いも及ばぬ事をするか、どんな俳句を作り出すか、それは計り知られぬ事である、というような考えが生じたのである。
尤もこれは一応子規の考えに同じな考えである。私のみではなく
誰びとの頭にも起って来る考えであろうと思う。がしかしまた、こういう反対の考えも起る。
それは、三、四百年の今までの俳句の歴史を
遡ってみても、その変化の程度というものは或範囲内のものである。今後変化するにしてもそう大きな変化があろうとは考えられない。過去の歴史に逆戻りするか、あるいは発達すべくして未だ発達しなかった
あるものに及ぶか、それ位な程度のものと思う。過去の歴史において頭を出しかけていたのであるが、不幸にして他の方に押えられて発達するに至らなかったもの、それが新たに
勢を得て発達する位のことはあるであろう。全然未知の世界のものが頭をもたげてくるということはあり得ない。十七字、季題という鉄索にしばられている俳句にあっては、或範囲内のことに限局されている。これは俳句の運命である。俳句の月日は
徒らに流れているのではない。それは何らかの道を
辿って今日に来ているのである。
例えば
芭蕉の思想も、突として芭蕉に
創まったものではなくて、既に何百年か前の、連歌の
宗祇の思想に根ざしている。
否々、その思想は古き仏教の思想である。宗祇や芭蕉の旅行癖も、古き仏者の樹下石上の修行を踏襲したものとも言える。
世にふるも更に時雨の宿りかな 宗祇
という句に対して
世にふるも更に宗祇の時雨かな 芭蕉
という句がこれを証明しているように、芭蕉もそれを認識し告白しているのである。その宗祇時代から芭蕉に至るまでの間には
宗鑑、
守武、
貞徳、
宗因等の時代を経ているのである。また芭蕉以後
蕪村、
一茶、子規を経て今日に至る。今日の客観描写といい花鳥諷詠というものもまた元禄時代に
遡り、
殊に
凡兆に遡る。また芭蕉に遡り、蕪村に遡る。
芭蕉忌や遠く宗祇に溯る 虚子
ここにおいてか、先に子規のいわゆる「木登りをしている子供」のその新俳人が生れ
来って、何らかの新しい仕事をするにしても、それらも決してこの歴史を離れて
破天荒なる新しい仕事を成し得るものとは考えられない。必ずやこの歴史の流れの中にあって先人の試みて
未だ達せざりし所のものを見出してそれによって新しい境地を開くか、現代の俳句の
趨向に
反撥して
敢えて新境地を開こうと努力するものか、何らかそうした必然的の趨向の途上にあるものと思う。そうしてまた、反対の方向に
趨こうとしながらも現代の大きな力に支配されて、いつの間にかまた反抗し切れず、現代の力の下に融合されるようになるものと思う。
小石を積んでゆくような努力、それは幾千万人が作る句を選んで来たというその小石を積むような努力、それは多少とも個人の進歩を促し、ひいては俳句界の進歩の動機となり、その四、五十年間の俳句の流れが、自然々々に俳句の歴史を形づくっているものと思う。
総ての歴史の流れと共に俳句の歴史も
滔々として四百年の昔より今日まで続いておる。われらもまたその中にある。子規が恐れ、われらがまた恐れる所の新人
出でよ。しかしながらその新人もさほど恐れるに当らぬものである事を思うのである。
(『玉藻』、二七、三)
人生の複雑なる経験から来る深い思慮、哲学上の思索、道徳の観念、すべてそれらのものは文学の基調を
為すべきものであろう。しかしそれが文芸の上に
如何に表現されるかという事について問題がある。
一時、思想小説という言葉もあった。観念小説という言葉もあった。作者の思想観念が顕著に出ている小説でなければ価値がないという点から出発している小説の
謂いであったのであろうと思う。また、俳句にも同じような要求がいつの時代にも繰返されつつあるようである。それらは皆一部の
尤もな要求である。しかしながら小説としてまた俳句として如何にそれを表現するかが問題である。
*
その思想小説、観念小説といわれるものを読んで見ると、作者の言おうとしている思想なり観念なりが
露骨に陳述されて、
唯、演説されていて、読者は圧迫を感じながら、緊張を
強いられながら、その説を聞いて居るような感じである。少しもそこに文芸品としての潤いの感じがない。俳句もまた同じことである。
*
私は壁につかえる、という言葉でそれを現わしておる。それは小説を読んで居るうちにすぐその作者の露骨な主観にぶつかることをいうのである。それはその思想の宣伝ならばそれでよいのであるが、しかし小説という一つの芸術品であってみればそれではいけない。思想のなまなましい醜い壁にぶっつかって興味が
忽ち索然としてしまうのでは
駄目だ。俳句もそうである。その俳句を
一誦してみると忽ち作者の露骨な思想にぶっつかってしまって、芸術品としての潤いは少しもなく、そのとげとげしい思想が感興を
壊してしまう。殊に俳句は文字の
少いものであるから唯
理窟を述べたものになってしまう。
*
俳句はそんなものでなくって今少し潤いのあるべきものである。思想の壁ではなくして感情の林であるべきである。
*
ここにおいて描写というものが必要になって来る。説明ということでなくって描写ということが必要になって来る。自然界人事界の描写をして、その中に自ら作者の心を述べる、そういうものでありたいのである。
剥き出しに説明をされているとそれに対して感服するよりもむしろ反感が起る。自然界人事界の
諸々の現象を描いてそれによって知らず
識らずの間に作者の志を知るというようなものになると、雨が土に浸透するように心に
沁みこんでいつか作者と同じ所に立っているようになる。
*
作者が読者をいざなっていつの間にか自分の所に立たしておるということは文芸の目的ではなかろうか。自分はこう議論した、読者はどう議論するか、というのは文芸ではない。自分はこう感じた、こういう天地を見た、読者はどう感じるか、どういう天地を見るかというのが文芸の目的であろう。
作者に
依ってその志に高下深浅はある。しかしそれら諸々の作品が文芸品を作り出そうとするならば、そこに叙述という事の必要が起って来る。叙写という事の必要が起って来る。作者の
観た天地を描き出す必要が起って来る。
*
自然々々その境地に連れられてゆく。文芸はその描写が必要なのである。一見したところでは、作者の思想は隠れて見えないが、しかし事実の描写によっていつの間にか引きずられて来ている。これが文芸の天地であろう。
*
説明でなくって描写である。感情の
洗煉されていない人は、この作者の描いた描写の中からその志を
汲み取ることはむつかしいかも知れん。主観の暴露しておる作品にまず飛びつく読者があるようである。そういう人は、作者の意図がすぐ説明によって
諒解されることを喜ぶものである。私はそういう人にはくみさない。
客観写生ということの必要が起って来る。主観というのは、一念三千の
謂いである。客観というのは諸法実相の謂いである。もろもろの法は
千変万化摩訶不思議である。これを描写しようとしても容易ではない。しかしながら作者の感じたところの客観を写すことは出来る。人々によって違う客観の天地がある、作者はその作者が見た客観の天地を描く。これが即ち客観写生である。
*
客観写生ということは、客観を
観る目を養い、感ずる心を養い、かつ描写表現する技を練ることである。客観を見る目、感ずる心、そうしてそれを描写する技、それらを年を重ねて習練し、その功を積むならば、その客観は柔軟なる粘土の如く作者の手に従って形を成し、客観の描写ということがやがて作者の志を
陳べることになり、客観主観が一つになる。客観写生とは
斯くの如きものである。
*
客観写生という事を習練した人の俳句と、客観写生をおろそかにした人の俳句とは直ちに見わけがつく。客観写生をおろそかにした人の俳句はたとい豊富な感情を
裡に蔵していても、その表現されたところを見ると
落莫として砂を
噛む如きものが多い。これは描写が
拙いからである。客観写生ということによって苦労して来た人に
較べて
根柢の習練が足りないことがすぐに分る。
*
客観写生の技に苦心して来た人の俳句は、その心に映った自然を描写するために、前に言った如く、その自然は
柔かき粘土の如く作者の手の
赴くままに形を成すものである。言いかえれば作者の感情のままに自然は
剪定されるのである。自然は自由に作者の前にひざまずく。これは決して形容ではない。客観写生の妙技である。
*
絵画にしても彫刻にしても
先ずはじめは写生ということである。写生を習練して
漸くその道に入る、その技術が
或る点に達した後もなお写生ということは大事なことである。俳句もまた写生という事を
手始にしてその道に入り、年を経てもなお怠ることなく励むことによって表現の自由を獲得することになる。如何にその心が深くとも表現の自由が欠けては無為に終る。心の深さと表現の自由ということは
相俟って
全きを得る。
*
客観写生ということは浅薄な議論のように考えて居る人が多い。しかし自然を
軽蔑する人に大思想は生れない。大自然を知ることが深いほど作者の心もまた深くなって来るわけである。自然を外にして何の心ぞや。
(『玉藻』、二七、四)
私が昔俳句を作っている時分に、新しい文学を唱える人の鼻息は荒かった。主としてロシア文学が紹介されて、そういう傾向の文学でなければ文学でないような勢いであった。俳句のようなものは時代遅れも
甚だしいものと
見做された。続いて自然主義文学がもてはやされて、そういう傾向の文学でないと通用しないような傾向であった。私等俳句を作る者は、ただ黙って俳句を作った。
「自分を透しての自然」を「如何に表現」すべきか、「自然を透しての自分」を「如何に表現」すべきか、そういう事にのみ苦心した。
その後、またいろいろ転変があって、
泰西の文運に遅れざらんとして、種々の説、種々の主義を迎えるに
暇がない一部の俳人はそれに耳を
藉して、俳句もまた時流に遅れざらん事を心掛けているが、我々多くの俳人は依然それにかかわらず、相変らず「自分を透しての自然」を「如何に表現」すべきかという事にのみ苦心しておる。
俳句という独自の立場を守って何ら他のものにわずらわされない。大きな観点に立って見た場合、或るものの後について走っている文芸よりも、独自の立場を守っている文芸の方がかえって清新なのではあるまいか。
蕪村が言ったように、流行というものは円の線上を走っているようなもので、人に
後れているように見えているがかえって人の先を走っている事になる。
俳句の性格と言えば一番に「季」という事を
挙げねばならぬが、この「季」という事については
未だ新人諸君の詳説を聞かない。
自分の志している思想を俳句に盛ろうとして「季」の無用なことを悟って、季題廃止という事を唱えた人は過去にあった。その論は正しかったのであるが、なおそれを俳句と唱えたがために失敗した。
私等は甘んじて「自然を透しての自分」「自分を透しての自然」を「如何に表現」するかという事に苦心を続けてゆくであろう。
深く高くという事は申すまでもないことである。
また最も新を欲している。
(『玉藻』、二七、五)
下萌えぬ人間それに従ひぬ 立子
という句がある。天地の運行に従って百草は
下萌をし、
生い立ち、花をつけ、実を結び、枯れる。人もまた天地の運行に従って、生れ、生長し、老い、死する。
私の如きはもはや八十に近き
頽齢である。もはや死を待つばかりである。
経来った八十年という月日は長いようであるが、また短い。生を
享けてから今日まで、まことに一瞬時である。人生の偉大を説く人があるが、一草の生滅と何の変るところがあろうぞ。草の生命が一年で、人の生命が八、九十年であるとしても、宇宙の生命に比べたならば、共に共に一瞬時である。
しかしながら八十年という月日は考え様に
依ればまた相当に長いものともいえる。私は八十年の月日を多くの人と共に暮して来たが、また多くの山川草木と共に暮して来た。私は人の生活にも多少心をとめて来たが、春夏秋冬の移り変り、花の開落にも心をとめて来た。そうして人間の生滅も、花の開落と同じく宇宙の現象としてこれを眺めつつある。
春夏秋冬の移り変りは私等の眼前をよこぎりつつある。また、
澎湃たる
波濤の如く常に身辺に押寄せつつある。私等はその
響とその波の中に生滅しつつある。しかしながら私等は、人間の場合は、他の智情意に妨げられて、種々雑多の現象に
眩惑されて、
動ともするとこれを
見逃そうとするが、山川草木の間に起る変化は他に煩わされることなく明らかにこれを見る事が出来る。花鳥を諷詠するという考えは
此処に根ざしている。
また私等の感情も、意思も、生活も、これを山川草木、禽獣虫魚にうつして、詠嘆することが出来る。何となれば、人も禽獣も草木も同じ宇宙の現れの一つであるからである。八十年の人の命も、一年の草の生命も、共に宇宙の生命の現れであることに変りはない。花鳥だといって軽蔑する人間は愚か者である。花鳥にも、人間に宿る如く宇宙の生命は宿っているのである。よろしく花鳥諷詠の意義を知るべきである。
世界の大陸、
島嶼のほんの一部分に人間は生存している。大陸、島嶼の大部分には草木禽獣の類が
棲息しているのである。陸の何倍かある海洋には魚介の類が棲息しているのである。考えが幾多の
星辰に及び、宇宙に及んでゆくとはかり知られぬものがある。
畢竟人も草木禽獣魚介の類と共に、宇宙の表れの一つであるに過ぎない。
大も無限であれば、小も無限である。一握の土の中にも幾億万の微生物の世界がある。いわんや眼前に展開されている禽獣虫魚の世界は偉大である。
其処に常に種々の変化は
嵐の如く起り、雲の如く過ぎ去ってゆく。これを諷詠する詩は偉大なる存在ではなかろうか。
また人の姿を花鳥に見、人の心を風月に知ることは、如何に
活溌溌地の詠嘆であるか。
(『玉藻』、二七、七)
この頃『俳句とはどんなものか』『俳句の作りよう』を
併せて一冊として重版するという事になって、それを校正しながら読んで見た。その二冊の外に「俳諧談」と
称える小篇も
添附されているのであるが、その「俳諧談」の中にこういう意味の事がいってある。
俳句を知らんと欲すれば俳諧以外の文学を知らねばならぬ、俳諧以外の文学を知る事によって俳句の性質が明らかになって来る。
と、こういう意味の事がいってある。これは大正二年に稿の成ったものである。そうすると今から四十年前のことである。
俳句を論ずる者は、
先ず一番に俳句とはどういう性質のものであるか、という事を知る必要がある。
第一に、俳句は十七字である事、が一番問題である。それは三十一字の歌でもなく、何十字か何百字を連ねた詩でもなく、また、長い小説でもない。
唯、十七字のものである事。
次ぎに、季というものが重大な役目をしておる事。これは他の文芸にはない所のものであって、季というものの束縛をうけて、しかしながら季というものの大いなる力に
拠って、
成立って行くところの文芸である。それは決して他の文芸にはない所のものである事。
この二つの事をよく知るためには、先ず他の文芸を一と通りしらべて見て、なるほど和歌にはこういう長所があり、詩にはこういう長所があり、小説戯曲にはこういう長所がある、ということを知って、
翻って俳句を見ると、なるほど俳句にはこういう長所がある、俳句は他の文芸の間に
挟まってこういう性質のものである、という事がわかるようになるであろう。
他の文芸を知らず、ただ俳句のみを知って、それで他の文芸の長所とする所をも
真似て見ようとするのは
愚なことではあるまいか。
他の文芸を研究すれば研究するほどその文芸の長所が
解って来ると同時に、また、俳句の長所もわかって来るという事を知らねばならぬ。それは、他の文芸の真似をすることではなくって、他の文芸にないところのものを俳句が持って居るということを悟ることである。
(『玉藻』、二七、八)
四十年前に、俳句を
引摺って他の文芸のあとを追うことのみを
専らとした一派の人があったがために、私はその
蒙を
啓こうと思って、俳句は自然を
詠う詩であることを力説したのであった。俳句は日本のもの、伝統の上に立っているもの、としてこれを説いたのであった。その時分の
勢からいうと、日本的なもの、伝統的なもの、と説くことが因循
姑息なものとして、
嘲笑軽蔑されやすい立場にあった。
文壇の表面に立って居る人は常に流行の
魁におる人である。青年には常に古いことが
嫌われる。私は
敢て文壇の表面に立とうとは思わない。私は守旧派と自ら呼び、伝統派と自ら名づけて、四十年間
闘って今日に来て居るのである。伝統派と言ったところで、陳腐を礼讃するものではない、常に新を志しているものである。
四十年間を振り返って見て、俳句を論ずるものは依然として俳句のみを見て他の文芸を研究する事をしないようである。研究しないことはないのかも知れんが、
尠くとも他の文芸と俳句との比較研究を怠っているようである。他の文芸の志している所を聞いて、すぐそれを俳句に当て
嵌めようとするのは
愚なことである。その文芸の性質が違っていることに盲目なためである。他の文芸で現し得る所が俳句において現し得るかどうか、
殊に季という重き荷を背負っている俳句は、他の文芸に
倣うに便宜なものであるかどうかという事をも考えないで、他の文芸と歩調を一にしようというのは誤ったことではないのか。
これは
強いて理論で争う必要はない、その作っているところの句を見れば
一目瞭然である。
彼らの新しいと考えている俳句は、俳句になっていないのが多い。
そうして彼らの作るところの句で比較的いい句と思われるものは、従来の俳句と何ら変りがない。
(『玉藻』、二七、九)
俳句の範囲内で新しい仕事をしようと思えば出来んことはない。労働問題を
取上げることのみが新しい俳句ではない。
新しい言葉に陶酔する弊がある。種々の新しい言葉を作って俳句はその言葉の如きものでなければならぬという。前に言った十七字・季という鉄索の下にある俳句では到底出来ない相談であることを要求する。そうして俳句とはいえないものを作っておる。他の文芸ならそれを現すことが出来るであろうが、俳句では不適当であることに気がつかない。なにも好んで俳句をそこまで
引摺って行かねばならぬ理由はない。俳句は俳句として表現するに適当な思想内容があるはずである。
其処に気がつかないというのは
迂遠なことである。
俳句は言葉が極端に短いばかりでなく、季題という重大な性質を持っているから、これに盛る内容には
自ら限界がある。何を好んで俳句に難きを求めようとするのであろうか。その点最も理解に苦しむのである。俳句に最も通した十七字・季という本来の面目に適応した思想を詠うべきことは自明の理である。自然の欲求である。芭蕉、蕪村、子規を経て今日に至る発展の経路である。
難きを求めるのも面白いことではある、出来にくいものをやって見ようとするのもまた一つの仕事といわねばならん。けれどもそれは到底無理の
附き
纏う仕事である。
自然人生の現実に重大な意味を持つ写生ということに
根柢の基礎を置かねばならぬ。写生というのは自然人生の現実に重大な意味を持つことである。自然は偉大な容相をもって常にわれわれの目の前にある。これに驚嘆し、これに
愛著し、そうして、俳句に適した範囲内のものを諷詠する。
其処に俳句の天地がある。その自然の現れを天台では諸法実相とよんでおる。――実相観入という言葉は知らない――
諸法実相を裏返せば一念三千となる。諸法実相を知ることによって一念三千を知ることが出来る。客観写生を進むることによって主観もまた到達するところが測り知られない。われらは
斯の如く客観写生を試みてまた深き主観に到達せんと欲するものである。
芸術の極意は、やわらか味という事ではあるまいか。彫刻の線の
柔か味というものはその人の感情の高く貴い現れである。線といったのはその一例である。芸術品の高貴な厳粛な柔和なすべての現れは、つもりつもった写生の技とその人の精神から来る。その人の精神が生れながらにして高貴荘厳なものであっても、写生の技がそれに伴わなかったらそれは芸術品として高貴なものではあり得ない。
またこういうことも言える。一心不乱に写生の技を
練磨し、習得し、練磨するに従ってその人の精神も向上してゆくということ。
写生々々と技を練るに従って、その技も心と共に向上してゆくものであることを思えば、俳句を作るは
唯写生という一路に
邁進すればよい。何物にも
囚われることなく唯
一途に写生に邁進すればよい。そうしてその或る点まで到達した時分に自ら自分を振り返って見るがよい。芸術の高所に達するということはかかることをいうのである。
写生々々とやかましく言うておるうちは、写生ということが
際立って響いて、写生はしながらも写生に
拘っているような心もちがしていくらか疲労を感じる。この事がずいぶん永く続くのである。
殊に客観写生というと、その客観の文字にこだわって窮屈なような感じがするであろう。しかし少し進めば客観写生でありながら必ずしもそう限局したものに限らない事がわかって来る。
暫くそんな事に拘ったり離れたりしておるうちに写生ということにそれほど心を労することなく、俳句を作るということが即ち
自ら写生になっているということに気づくであろう。またやがてそれが作者の心の
涵養に役立って居ることに気づくであろう。作品をなすという事はそういうものである。
唯、
或ものに囚われての作はどこまでも窮屈である。また、理窟に
陥ちていい作品は出来ない。客観写生より進んで行った作品は何らの拘束がない、そうして自然と共に自由である。
(『玉藻』、二七、一〇)
客観写生、客観描写という事を私はやかましくいうのであるが、客観描写をした俳句であってもそれは
遂にその人を隠すことは出来ないのである。
その客観描写が堅実であるというのはその人が堅実であるからである。
その客観描写が
瀟洒であるというのはその人が瀟洒であるからである。
その客観描写が高尚であるというのはその人が高尚であるからである。
その客観描写が軽浮であるというのはその人が軽浮であるからである。
その客観描写があくどいというのはその人があくどいからである。
その客観描写が俗悪であるというのはその人が俗悪であるからである。
その人を隠すことは出来ない。これが芸術の尊い
所以である。
わかりにくければこれを絵画にとって見れば直ぐ明らかである。たとえば、一匹の犬を描いても百人が描けば百様の犬が出来る。その中で高尚な犬が
何故出来たか。それはその画家が高尚な人であったからである。また、俗悪な犬が何故出来たか。それはその人が俗悪だからである。客観描写というのは客観を描写するために尊いのではない。その客観描写に
依ってその人を現すがために尊いのである。
然らば何故特に客観をいうか、これは俳句の性質からいうのである。
自らいい俳句を作らないで、俳句論をするものがある。そういうのは絶対に資格がない。俳句では、作る人が論ずる人であり得ない場合は多いが、論ずる人は立派な作家であるべきである。
禅家の公案に、父母
未生以前本来面目というのがあるが、人間は
何処から来て何処に去るものか、これは
判らない。父母から生じまた子孫に伝える生命の
繋りというもののある事は判っているが、さて自分一個の生命というものは何処から来て何処に去るものか判らない。つまり人は誰でも死ななければならないという事が
儚ないことのようにも思われる。
今
此処に談笑して居る一群の人がある。しかしこの一群の中に
明日死ぬ人がないとは言えぬ。明年明後年になって死ぬ人がないとは言えぬ。百年
経ったならば
悉く死滅する人々である。現在では現前の社会、現前の世界をわれらのもののように思っているけれども、百年後の社会、百年後の世界は全く他人のものである。人は死滅して行かねばならぬものである。
この死滅して
行方知れずなるという事が、もののあわれを感ずることになって、文芸の基調を
為しているように思う。
昔から世をはかなんで頭を
円めた男女はもとよりのこと、頭は円めないが、普通の生活をしていながら、世をはかなんだ男女の数は数限りもなくある。
否々死に近づくに従って深いか浅いかこの
淋しさに
捉われぬ者はまずまずあるまい。
生活の楽しみを失った貧と苦、それはやがて死と
連る。もののあわれはそこにもある。文芸の基調を為すものはこれである。
古来幾多の
世捨人は人間の死ということに心を置いて、樹下石上の旅にさまようた。
西行も
宗祇も
芭蕉もまたそれら世捨人のあとを
慕うて旅にさまようた。そうして宗祇も芭蕉も旅に死んだ。
西行や宗祇や芭蕉の思想は仏者から見れば別に新しい思想ではない、むしろ陳腐な思想である。唯それらの人々の文芸の基調をなしたが故に目立つのである。
文芸に携わる者は誰も皆
其処に基調を持つ。芭蕉と同時代にあった
近松でも
西鶴でもいずれも、もののあわれを感じて筆を執ったことに変りはない。
人は戦争をする。悲しいことだ。しかし
蟻も戦争をする。
蜂もする。
蟇もする。その外よく見ると獣も魚も虫も皆
互に
相食む。草木の類も互に
相侵す。これも悲しいことだ。何だか宇宙の力が自然にそうさすのではなかろうか。そこにももののあわれが感じられる。
俳句は最も簡単な詩型であるということがその特色の一つである。寡黙に近いということがその特色である。寡黙ということは、最も大きな人間の力の表現である。
俳句は全く沈黙の文芸であるとはいえない。しかし、多く言わず
少く言う文芸である。少く言いて多くの意を運ぶ文芸である。叙写は
尠くって多くの感銘を人に与える文芸である。
叙するところは片々たる事柄である。しかしながら伝うるところは複雑なる感想である。
一片の落花を描き、一本の
団扇を描き、一茎の
芒を描き、一塊の雪を描き、唯片々たる叙写のように見えていて、それは宇宙の現象を描いたことになる所に俳句の力はある。
俳句は簡単なる文芸であるが故に簡単なる叙写を必要とする。多くを語らずして多くの意を運ぶことを目的とする。多弁
饒舌なる文芸は他にある、そういう文芸は多弁饒舌を武器とする。
この頃の俳句は多弁饒舌なる文芸を
真似ようとしているものが多い。十七字といううちに沢山の材料、沢山の言葉を使用して複雑怪奇となり、何を言っておるのかわからぬものがある。
独りよがりで他には通じにくいものが多い。これは単純の味を解せぬものである。寡黙の武器を扱うことを知らぬものである。
洗煉された単純なる言葉のいかに強力であるかを解せぬものである。
描くところは単純であらねばならぬ、しかもその句の力は強くなければならぬ。
とかく俳人には俳句界のことを軽く見て、小説とか和歌とか絵画とか他の文芸の分野を尊敬する弊がある、これは自ら卑しくするもので私はとらない。
小説には或る点進んだ所があるであろう事は私も認める。しかし多くは西洋の影響を受けて新しいところを取り入れて、それが大変新しいものの如く目に映ずるのである。一時新しく目に映じたものはすぐまた古くなる。和歌はその調べが俳句とは違って幽玄な思想であるように響いて来る、しかしその幽玄と感ずるところは歌の形体から来る感じが
主なものである。絵画は俳句と同じく形体は客観描写であるけれども俳句は文字を
以て
現し、絵画は線や色を以て現す相違がある。それ故に絵画はその色彩から来る感じ、線から来る感じが、強く響いて
刺戟が強い。俳句はそれらの文芸に
較べて
各々短所を持っているものといえる、しかしそれと同時に俳句は他の文芸にない長所を持っている。小説の如き長篇で現すことの出来ぬ端的な描写、歌の調べと
異る俳句の調べ、また、絵画で現せない景色の時間的活動、そういったものがあるのである。
俳句を作るものは俳句を以て最も尊い文芸であると自任する要がある。俳句でなくっては現せない或るものがあることを認めねばならぬ。
小説を自分で作ることをしないがために小説を
恐しいものと思っておる、また、和歌を作らないために和歌を恐しいものと思って居る、絵画を自ら描かないために絵画を恐しいものと思って居る、というのは何と馬鹿々々しい事か。
俳句は従来存在し
来った日本文芸の一形体である。それはなかなか
亡びるものではない。
俳句を作るものは他の言に迷わされ、俳句を他の文芸以下にあるものと考えるのは笑止である、自分の弱い心をどうすることも出来ないでややともすると他の文芸の下にひざまずこうとするのは
唾棄すべきである。
従来私のやっておった『ホトトギス』の選句について一言して置きたい。
『ホトトギス』の雑詠欄はかつてもいった事のあるように、これは一個の私塾であって、その成績を塾の壁にかかげて
互の
研鑽の料にするのである。
敢て天下に展観しようというのではない。これに投句する諸君は塾生ばかりであった。その塾生の中にはよほど年を重ねて老熟した者もあり、また指を染め始めたばかりの若い塾生もある。これらの人の月々示す所の作品は何万という数にのぼった。私はその中から句を選んでこれを毎月の誌上に掲げるのであった。
先ず私は俳句らしいものと、俳句らしくないものとを区別する。その思想の上から、またその
措辞の上から。
思想の上からは大概なものは採る。非常に
憎悪すべきものは採らない。
措辞の上からは最も厳密に検討する。
材料の複雑と単純、ということになると比較的単純なものを採る。俳句本来の性質として単純に叙して複雑な効果を
齎すものを尊重する。
斬新なるものをもとより喜ぶが、斬新ならんとして怪奇なるものは
唯笑ってこれを
棄てる。
陳腐なものはもとより好まぬが、しかしその中に一点の新し味を存すればこれを採る。材料は
殆ど同じものであっても、措辞の上に一日の長あれば喜んでこれを採る。
老練な作家の句は標準を高くして選む、幼稚なる作家の句は標準を低くして選む。しかしいずれも俳句であるという点に重きを置く。
斯の如くして毎月数千の句を発表するのであるが、
悉くそれらの句は
金玉の名句であるということは出来ない。
特に推賞に価する句は少数に過ぎない。他の多くはそれら
峻峰を
取囲んだ高低様々の山々である。
そういう風にして教育して居る中に低い山もようやく高い山となり、またその中に一峻峰を見出すことが出来るようになる。歳々年々斯の如き形態を執って進んで行くうちに幾多の俊秀を見出す事が出来る。
俳句の限界というものを確立して、その限界以外のものは断じて採らない。その限界内のものはたとい幼稚であっても採る。但し幼稚といううちにどこか一点の見どころあるものでなければならぬ。その丘の如き
相貌を呈したものが他日の峻峰とならぬと誰が断言出来よう。
選抜という事は、その個人々々にとっては大きな
鞭の教訓である。あらぬところに
外れようとするものは落選という鞭を以てこれに警告を与える。独りよがりの怠け者にも同様である。落選という鞭はその人に力を与える。選抜ということはその人に進むべき方向を指示する。
一たび塾生となった者には絶えずその句の動向に注意を払う。
その鞭にあきたらずして塾の外に
飛出した者はその行動の自由であることを喜ぶであろうが、その喜びは
暫くのことであろうと思う。
私は斯の如くして『ホトトギス』の塾生諸君を引連れて四、五十年の月日を
閲した。
『ホトトギス』以外の選句でも同じことである。
(『玉藻』、二七、一一)
花鳥諷詠ということを言ったのは随分古い事になる。俳句は季題に
拠る詩である。従って季題諷詠の詩であるといってよい。季題を花鳥の二字で代表すれば花鳥諷詠といって
差支えない。という所から花鳥諷詠という言葉は出たのであった。これは当然俳句そのものの性質をいった言葉であるから誰も異存のあるはずはないと考えて居る。
ところが世間には私に反対する者も沢山あるし、また
徒らに理論を好む人も沢山ある。従って花鳥諷詠の
花鳥という二字を狭く解釈し、また
諷詠の二字を狭く解釈し、これを非難する人も沢山あるようである。
これはやむをえない世間の常態である。私という者が俳壇に存在する限り非私なる者も俳壇に存在するのは当然である。その非私なる者の花鳥諷詠に
悪罵を加えることもこれまた当然な事である。
私は俳句は季題諷詠、即ち花鳥諷詠の詩であるということを当然過ぎるほど当然な言葉であるとして
些かも疑う所がない。
我が『ホトトギス』同人諸君『玉藻』の読者諸君の中にも、
「あれは諷詠派である。」
と言って高く自ら標置する
輩がある。また私の花鳥諷詠という語を
戸棚の中にしまい込んで置いてなるべく手を触れないようにしておる者もある。
私は俳句は花鳥諷詠の文学であるという事をあくまでも主張する。これは俳句は俳句である、というのとシノニムである。
写生という語は花鳥諷詠に
較べればやや世間に普遍しておる。またアンチ虚子の人々もときどき写生を口にする。少しは写生の有難味を知って居るようでもある。
しかし客観写生という事になると二の足を踏む。何も客観に限らず主観もまた写生をすればよい、と考えて居るらしい。
しかし客観性の強い俳句にあっては
敢て客観性という事を主張する。歌は主観的の傾向が強く俳句は客観的の傾向が強い。俳句の客観性から客観写生という。客観写生を修練したものの俳句はすぐ分る。
諸法実相という言葉がある。これは目に見、耳に聞き、手に触れる実相の世界をいうのである。客観の世界というのと大体似寄ったものであろう。一念三千というのは、念々の世界である。心の中の大千世界である。これは主観の世界というのと同じことである。実相観入という言葉があるようであるが、これはどういう事をいうのであろう。実相はどこまでも実相である。観入というのは一念三千の世界に踏み込むのではないのか。
古壺新酒という言葉は言い得たりと考えて居るのであるが、しかしこの言葉を口にする人は沢山はないようである。第一、十七字という形に思想を盛ろうとするのである。それに季題というものを排することが出来ない。その極端な制限の中に新しいものを盛ろうとするのである。
俳句は古壺新酒の文学であるという事は今でも言い得たりと思って居る。
深は新なりという言葉も、私は用いて久しくなっておる。これは
碧梧桐が常に新を欲して踏み迷うた感があるのを残念に思って言った言葉である。何か新しい事をしようとしてむやみに足を
埒外に踏み出すのは危険なことである。それよりも自分の携わっておる事、研究しておる事に専心して、深く深くと掘り下げて行くことによって、
其処に新しい水脈が発見されて来る、その事が尊いのである。花鳥諷詠、目標をそこに置いて年月を重ねて研究を積むことによって新しい境地はいくらでも
拓けてくるのである。
徒らに
左顧右眄確信なき徒輩たる
勿れ。
(『玉藻』、二七、一二)
私はかつて極楽の文学と地獄の文学という事を言って、文学にこの二種類があるがいずれも存立の価値がある、俳句は花鳥諷詠の文学であるから勢い極楽の文学になるという事を言った。
如何に窮乏の生活に居ても、如何に病苦に悩んでいても、一たび心を花鳥風月に寄する事によってその生活苦を忘れ病苦を忘れ、たとい一瞬時といえども極楽の境に心を置く事が出来る。俳句は極楽の文芸であるという
所以である。
貧乏人は窮乏を描いた文芸に接する事によってその心を慰む事が出来る。また病人は病苦に
喘ぐ事を描いた文芸に接する事によって、その病苦を慰む事が出来る。考え様に
依れば人生は
陰鬱なもの悲惨なものとも見る事が出来る。その事を描いたものは地獄の文学と言ってよかろう。
私が言う極楽の文学というものは逃避の文学であると解する人があるかもしれぬが、必ずしもそうではない。これによって慰安を得、心の
糧を得、
以て
貧賤と
闘い、病苦と闘う勇気を養う事が出来るのである。
能楽には舞というものが
附物である。悲惨な人生を描いたものであっても、その悲惨に終った主人公が必ず(多く)舞を舞う。
何故舞を舞うのかというと、これに依って救われた事を意味するのである。この舞に依って今までの生涯が救われ、極楽世界に安住する事を示すものである。ただ、中に「
隅田川」とか、「
綾の
鼓」の如きものがあって、これらはどこまでも
苦悶憂愁
執著が続くのであるが、こういうものは異例である。大概
成仏して舞を舞うという事に終る。
能楽は舞い歌い遊ぶ芸術である。即ち極楽の芸術である。
翻って人間というものを考えてみると、生活に苦しまねばならぬもの、
遂には死なねばならぬもの、これほど悲惨なものはない訳である。しかしそれが悲惨だからと言って明け暮れ悲しんでいる事は出来ない。その中に
強いて楽しみを
見出し、歌舞の世界を創造しようというのである。人間において悲惨そのものを描き、痛い所を
叩き、
痒い所を
掻くという文学もまた必要であるが、それらを忘れ去って歌舞の世界に遊ぶのもまた必要である。
俳句は花鳥諷詠の文学である。花鳥風月に遊んでこの人生を楽しむという事は、俳句の生命とする所である。徒らにクヨクヨジメジメして苦渋の人生に執著すべきでない。
地獄の文学もとより結構、しかしまた一方に極楽の文学が存在する事は、人生にとって必要な事である。
(『玉藻』、二八、一)
心に感動なくて何の詩ぞや。それは言わないでも分っている事である。ただ、作家がその小感動を述べて
得々としているのを見ると
虫唾が走るのである。そればかりでなく、そういう平凡な感情を暴露して述べたところで、何の得る所もない事をその人に教えたいのである。目を天地自然の
森羅万象に映してその心の沈潜するのを待って、そうしてあるかないかの一点の火がその心の底に
灯り始めて、その感動が
漸く大きくなって来てその森羅万象と
融け合って初めて句になるような径路、その径路を選ぶ事が正しい句作の誘導法だと考えるのである。客観写生を説く
所以の一つ。
さなきだに心の底には押え切れぬ躍動するものがある。この躍動するものを長い文章とするか、短い詩とするか。短い詩でも歌とするか俳句とするか。そこで二つの道に
岐れる。歌はその三十一字という調子からも、また何ら季題の制約もない所から主として
抒情に適する。俳句は十七字という格調、並びに季題の制約から歌の如く抒情には適さない。抒情に適さないと言っても、情を述べる事が出来ないのではない。俳句ももとより抒情詩の範囲に属する。抒情が出来なくて何の詩ぞや。ただ、その情を述ぶるに季題を
藉り、客観の叙写を
よすがとするのである。客観写生を説く所以の二つ。
詩は志なり。心の感動なくて何の詩ぞや。それは言わでもの事なり。しかも
敢て客観写生を説く所以。
文章に、写生文という一体がある。文章といえども、もとより感情を土台にする。しかし、綿々として感情を
縷述する事をせず、その感情を内に蔵して
逢著する人事を写す。読者はその写す所の事を通して、作者の感情を
覗う。
写生文の
未だ至らぬものは事実の描写に
拘泥する。ややその境地に到達せんとするものになると、その事実よりもむしろ作者の感情に重きを置く。たとい平凡な事実であっても、その事実を通して作者の感情の躍動するのを喜ぶ。
(『玉藻』、二八、二)
私は理論は実行のあとから来る方がいいと考えておる。
尠くとも創作家というものはそうあるべきものだと考えて居る。理論に導かれて創作をしようと試むるものは迫力のあるものは出来ない。それよりも何物かに導かれるような感じの上に何ものも忘れて創作をする。出来て後にその創作の中から理論を見出す。創作家の理論というものはそんなものであるべきだと思う。
論理を先立てて創作をする者は弱い。その上かつて私が言った事があるように、その創作を読んでおるうちに理論の壁にぶつかるような不愉快を感ずる。これに反して、唯神に導かれる如き心持で創作するものは常に感情の雨にうるおい
涯なき林に遊ぶような心持がある。私はこの方を採る。
(『玉藻』、二八、三)
私はかつて『俳諧
須菩提経』というものを書いた。これは仮りにも十七字という俳句に接したものは
悉く
成仏するという意味のことを書いたのである。
仏を信仰しなくっても、仏像にゆき会っただけでも、仏の名前をきいただけでもその人は仏に縁故が出来たのである、すでにゆき
逢っただけでも名前をきいただけでも無縁の
衆生ということは出来ない。
それと同じ事で、仮りにも俳句という名前をきいたか、もしくは俳句というものを一句でも二句でも見たか、そういう人はすでに俳句に対して
有縁の衆生である。まったく俳句というものの存在をすら知らない人々に
較べたらば大変な相違である。
分水嶺の峠のようなもので、片側はまったく俳句というものを知らない人々の住する国、片側は
少くとも俳句というものが世の中にあるということを知って居る人々の住する国、という事になる。俳句というものの立場からいえば、この「知る」「知らぬ」という境は大変な相違であると言わねばならぬ。
私は『須菩提経』においてこの事を説いたのであって、立派な俳句を作る人はもとより成仏する。立派な俳句を作らぬ人でもとにかく俳句を作った人なら成仏する。俳句は作らないがしかし俳句を読んで楽しむ人ならこれまた成仏する。読んで楽しまなくっても
唯俳句を読んだことのある人も成仏する。読まなくても俳句というものに目を触れた人なら成仏する。また、俳句という名前だけに接しただけの人でもなお成仏する。成仏するというのは俳句に対して有縁の衆生となるというのである。
この『俳諧須菩提経』というのは明治の末か大正の
始に書いたもののように思う。今でも同じ考えである。
私が『ホトトギス』塾を開いて塾生諸君と協力して、雑詠欄というものをこしらえてから、雑詠を選するときの心もちもやはりそれに似よった感じが
附き
纏って来ているのであった。
それは仮りにも選をするのであるから
選りわけて悪いものは落し良いものは採る、という厳正な批評の眼を向けることは
勿論であるが、そこにこういう考えが浮ぶのである。
人はそれぞれ天分がある。その天分相当の仕事をするより外に仕方がない。だから俳句も
上品上生の人の俳句はそれなりに選抜をして採る。以下
下品下生に至るまで
九品の仏のそれぞれの俳句は、それぞれの天分に従って採る。とこういう考えが私の頭の中にあった。上品上生の人は上品上生の位において成仏させる。上品
中生の人はその位において成仏させる。上品下生の人はその位において成仏させる。
中品上生の人はその位において成仏させる。中品中生の人はその位において成仏させる。中品下生の人はその位において成仏させる。下品上生の人はその位において成仏させる。下品中生の人はその位において成仏させる。また、下品下生の人はその位において成仏させる。これが私の塾生諸君を導く指導の方針であった。
「狭い俳句の門」という感じを起さしめるのは人を
成道せしめる
所以ではない。「広い俳句の門」と感ぜしめることが即ち仏の道に入らしめる所以であろう。そうして下品上生、下品中生、下品下生の仏をその位置にあらしめるのみでなく、上品上生、上品中生、上品下生の仏あることを見落さないで、
各々その位置につかしめることが肝要である。
(『玉藻』、二八、四)
俳句とか歌とかいうものは他の文学と違っておって、大衆的なものである。大衆的といった所で大衆小説などというものとは少し意味が
異っておる。
和歌はさて
措いて俳句のみについていうのであるが、俳句というものは、世の大衆がそれを愛読するというような性質のものではない。それは大衆小説というようなものと較べものにはならない、
極く限られた範囲内の読者ほか持っていない。その読者はたいがい作家である。
しかしながら俳句を作る人は割合に多い。読者は少ないが、作家は多い。その点で俳句は大衆文学といえるのである。
通俗小説を大衆文学というのはやや
軽蔑した意味が含まれているようにも受取れる。けれどもその文学に
由って大衆が慰安を得るという点からいえばなかなか価値が大きい。ただ俗悪なものが横行する弊があるのはよろしくない。俗悪でなくってしかも大衆性のあるものは結構である。
俳句もまた大衆が作りかつ味わう、という点にその価値を認める。小説を作るということは専門家以外ではなかなか出来ないことであるが、俳句は専門家ならずとも余技の範囲で結構その道に遊ぶことが出来るのである。この世の
伴侶として常に自分の影の如く伴って行くことができるのである。
俳句は幾万幾十万、という人によって毎日のように幾万幾十万という句が作られつつあるのである。そうして自分の志を述べ、人の志を
汲み取り、
互に憂い、互に喜んで居るのである。そういう俳句の世界というものがある。
こういう大衆文学を
如何に処理して行くかというと、勢い選者というものが必要になって来る。これは他の文芸にはないことであって、世の中には選者無用論を唱える人があるが、しかし勢いとしてやむをえないことである。ただわれもわれもと選者になりたがって居る傾きがあって、そこに弊害が生じるのはやむをえない。
大衆はとかく感情をむき出しに
詠いたがる傾きがある。その感情はもう飽き飽きして居る陳腐なものである。それは好ましくない。
そこで客観写生という方法を教えるのが良いと思う。即ち感情を起さしめたその事実景色を
諷わしめるのである。そういう句には陳腐なものもあり平凡なものもあるが
嫌味を感ぜしめるものは
尠ない。
客観写生ということで導いて行くと、大衆の中に
秀でた人も出て来ればまた平凡で終始する人もある。偉い人が出て来れば主観客観自由自在の境地に達することができる。しかし平凡な人はどこまでも客観描写に終始してそれで終るがよろしい。客観描写という事は、やがてその人の安心立命の助けともなる。
(『玉藻』、二八、五)
この前、あなたがいった言葉のなかにこういうことがあったように思う。それは、自分の作る句は主観句が多いように言われる。それは結果においてそう見えるかも知れないが自分はあくまでも客観写生を志しているのであるとそういった事があるように思う。
私は自分の主観を述べようとする場合でもその主観の上に立つ客観描写をしようと志して居る。即ち、客観の事実(景色)を通して自分の主観が
窺われるようにしたいと考えて居る。その主観を
汲み取ることが出来ない人は、無味な客観描写の句であると
軽蔑するかもしれない。それは俳句をほんとうに解釈することのできない人であると思う。ただ平凡と見える客観の写生の底に作者の主観の火を見得る人のみが句を善解する人であると思う。私の句ばかりではない、私の選句も同様である。
然るにあなたの句はこれと反対に、客観写生を試みようとして、いつかそれが主観描写の句になってしまうというのである。客観を描写したのでは自分の面白いと感じた景色が出なくって、主観描写をしたためにその面白いと感じた景色が出る、というのである。
これは一見私の志している所と
背馳しているようであるがそうではない。よく両立し得るものである。私の志すところも俳句として大事なことと考えるが、あなたのいう所もまた俳句を作る上に大事な一方法であると思う。
あなたの主観句は、空想から生れたものは少ないのであって、客観を写生しようとして客観の描写だけではもの足らず、それに主観描写を加えてはじめてその景色を写し得る、ということである。これは他人でもそういう場合があろうが、あなたが自ら認識して新しく開拓した俳句の一分野であると思う。
あなたの俳句を例に引いてもすこし詳しくその事を話して見ようと思う。
別に稿を起すことにする。
(『玉藻』、二八、六)
美しき緑はしれり夏料理
夏の料理、それは魚であっても野菜であってもよかろう。とにかく新鮮な緑色がさっと走った料理であるというのである。形態は描かれていないけれども緑の一色で、新鮮な、涼しげな夏料理というものが想像される。
泊り客あるも亦よし夜の秋
肌が冷えびえと
夜涼を覚えるようになって、やれやれと打ち
寛ろいで居る心持。泊り客などがあると気づまりであるのが普通であるが、しかしその夜は泊り客のあるのもまたいい、共にこの夜涼を味わおう、というのである。
茄子もぐは楽しからずや余所の妻
郊外近い道を散歩しておる時分に、ふと見ると
其処の
畠に人妻らしい人が茄子をもいでおる。それを見た時の作者の感じをいったものである。あんな風に茄子をもいでおる、
如何に楽しいことであろうか、一家の主婦として
後圃の茄子をもぐということに、妻としての安心、誇り、というものがある、とそう感じたのである。そう叙した事に
由ってその
細君の茄子をもいで居るさまも想像される。
住み馴れて時雨しこともあまたゝび
この家もようやく住み馴れて来た。秋から冬になって
時雨れた日もたびたびあった。そのたびたびの時雨に
逢ったということも住み馴れた心持にぴったりと当て
嵌るものだ。
侘び住んで居る静かな人の
境涯がおのずから描かれておる。
失せものにこだはり過ぎぬ蝶の昼
或る物を捜したけれどもどうしても見当らない。その事が気になって捜して見たりまた考えてみたりする。打ち晴れた心もちになれぬ。一日中その事が気になって居る。外はうららかな春の日が照りわたって蝶々が飛んでいる。それは知って居るのであるが失せ物のことが気になってとうとう一日をつぶしてしまった、というのである。
ハイカラはいきに同じや煖炉燃ゆ
ハイカラハイカラと軽蔑して呼ばれる場合が多い、しかしハイカラというものもまた都会人の
洗煉されたいきというものとおんなじような場合がある。或洋間のたたずまい、煖炉のちろちろ燃えているようすなど、まことにハイカラでありまたいきである、というのである。
銀漢や吾に老ゆといふ言葉聞く
自分も若いつもりではいるがしかし
齢は争えないもので、あなたも齢をお取りになりましたネ、といった人があった。自分もそんな齢になったのだ、と思って空を仰ぐと銀河が
明かにかかっていた。あの
悠久を象徴したような銀河に対して、はかない我が一生を思う。
銀屏にけふはも心さだまりぬ
或る事について自分の心が迷っておった、その迷いは久しくつづいておった。しかし今、座敷に
坐っておるうちにようやく決心することが出来た。その座敷には銀屏が立ててあった。銀屏は沈んだ美しい光りを
湛えて静かに立っていた。銀屏のために静まったというわけではないけれども、その環境が心を静める
仲立ちになった。
下萌ゆる心を籠めて書く手紙
草は下萌えておる、やがて地をつんざいて萌え出ようとする気を籠めておる、われは人にわが意志を伝えんために心を籠めて手紙を書いておる、という句である。いかに大事を伝える手紙か、それらは
総て言外に想像されるところである。
(『玉藻』、二九、一)
多くの限られたものより帰納した理論というものがある。それはその多くの限られたものに対して価値を持っておる。ここにその多くの限られたもののうちに入らない一つのものがあるとする。この一つのものには前の帰納した理論は
当嵌まらない事になる。
その理論の当嵌まらぬ
あるものに、その理論を押付けようとすると、
反撥する。
俳句は特異な文学である。どこまでも俳句として
芽生え、発達存在しておる。他の一般文学とは類を異にする。
先ず俳句とはどんなものかという事を研究して、それから論を立つべきである。俳句というものを知らずして論議しようというのは
愚なことである。世の文学者に俳句は
判らない。文学者かぶれのした俳人にも、俳句は判らない。ただ多年俳句を研究した人にのみ判る。
なんだか病人らしい俳句がもてはやされているように見える。若い人々はそれに感心しているように見える。時代のせいもあるであろう。
子規は病人であった。しかし病人くさい句は好まなかった。肉体はだんだん衰えて行ったが精神は断末魔まで健康であった。
をとゝひの糸瓜の水も取らざりき 子規
死に直面しながらこんなことを言った。この頃一部の俳人仲間にやかましい、
鶏頭の十四五本もありぬべし 子規
の如きは、
病臥していて実際鶏頭の数を数えることが出来なかったので、十四、五本もありぬべしと言ったので、十四、五本位あるであろうと正直に言ったのである。子規はかつて
四方太のいった如く、
「まず物の数をかぞえておこう。」
というような
明瞭なことをこのんだ。子規の頭は病気していなかった。健康な頭脳の持主であった。
頭の健康なる人は健康なる俳句を作れ。
溌剌たる俳句を作れ。堂々たる俳句を作れ。病人の句は病人に任して置け。
(『玉藻』、二八、七)
この間、
笹子会の連中が宅へ来て俳句会をやった時分に、
成瀬正とし君が、こんな事をいった。
「私のクラスの中に歌を作るものがある。その男がよくいうのは、“青年は理想を
抱いておる処に本領があるべきだ。その青年が
諦観に住する俳句を
弄ぶことは意外である。俳句なんかは老人にまかして置いて、われら青年は夢を追い理想を
諷うべきである”と、こういう事をいうのです。(多少言葉が違っているか知らないが、そういう意味の事であったように思う。)そういわれるとちょっと返答に困るのです。」
と言った。
それから切れぎれに他の人々からも話があった。近代思想といえば先ず貧富の問題、労働問題等。私は聞いて見た。
「生死の問題はどうなんですか。」
花鳥子君は答えた。
「マルキシズムから出ているのですから社会の実際問題であって、そんな事には関係ないのでしょう。」
それから私の死についての感想をきいた。私はこう答えた。
「死というものは分らないけれども、人が死んでしまって、無に帰してしまうとは考えない。仮りに宇宙が生きているとすると、どこまでもその宇宙の一分子となって残る、という事だけは考えられる。分子といったところで形のあるものではなく一つの
精力となって残る。それがどんなものになるのか分らないがとにかく一つの精力となって残る。私はそんなことをただぼんやりと考えておる。」
「生死の問題なんか近代思想ではないでしょうね。」
「そんな事は考えないでしょう。実際主義ですから。」
私は夢を追い理想を説く青年というものを考えてみた。それは青年に限らず老年になってもそういう人もある。また青年から夢を追わない人もある。
その人の言うが如く夢を追い理想を説く文芸もまた尊いと思う。そういう青年を満足さすためには俳句は不便な文学である。よろしく他の形の文学を選ぶべきである。
けれども俳句は決して思想を制限はしない。その青年の希望する如き思想を俳句によって
諷い得ればそれも結構である。
私は重ねて言う。俳句は思想を制限するものではない。思想は自由であるべきである。ただ俳句は季題の文学である。花鳥諷詠の文学である。花鳥によって盛り得るだけの思想を盛るべきである。また、俳句は客観描写を主とすべき性質のものである。客観描写を主とする範囲内で思想を諷うべきである。
新しい試みを
為さんとする青年を歓迎する。しかし新しいからいいわけではない。
畸形児として誕生しつつあるものもある。それは
戒むべきである。また必ずしも諦観を諷うのみが俳句ではない。俳句はもう少し融通の
利く文学である。
また近代思想にのみこだわる人が俳句を選ぶのは愚かな事である。これに適した他の文学を選ぶべきである。
近代思想を俳句によって諷おうとする人の労を多とする。ただしかしながら
無駄な労に終ることを悲しむ。俳句に花鳥諷詠、客観描写という鉄則は変らない。
(『玉藻』、二八、一一)
私はかつて極楽の文学、地獄の文学ということをいった。そうして俳句は地獄の文学でなくって極楽の文学であるということをいった。これを今少し
精しくいってみようならば、極楽の文学というのは地獄を背景に持った文学である。地獄の文学というのは極楽を背景に持った文学である。
例えば、人は
遂に死なねばならぬ運命にある。これほどたよりない残酷な
淋しいことはない。死刑を受けた人がその処刑を受ける時間が目前に迫っていて時計はカチカチと時を刻んでいる、というような場合に、もうその人に一点の希望、一点の慰安を与えるものはあるまい。もしあるとすればそれは極楽という空想であろう。また目の前に現れて来る光というものであろう。私の父が
呼吸を
引取る前にランプの光を見つめたことを覚えておる。そうして私はランプの
芯を出して、その光を出来るだけ大きくしたことを覚えておる。ゲーテが死ぬ前に、光という一語を
洩らしたとも聞いておる。極楽の文学というのは即ちその光というものを描いて、絶望に近い人間になおかつ一点の慰安を与えようとする文学である。
地獄の文学というのは
畢竟、極楽の世界を望見して到底あの世界に達することは出来ない、
唯病苦、貧困、悪魔の
跳梁に任していなければならぬ苦しい世界があるのみと感ずるところに出発する。極楽の世界を見ていさえしなければ、自分らの住んでおる世界が唯一のものであってどうする事も出来ないという
諦めがあるであろう。それが諦められぬのは一方に極楽の世界があるからである。地獄の文学は極楽の天地を想望すればこそ存在するのである。
地獄極楽は相対的なものである。地獄がなければ極楽はない、極楽がなければ地獄はない。
極楽の文学というのは地獄を背景にしてあるのである。地獄の文学というものは極楽を背景にしてあるのである。花鳥風月に遊ぶという事も、俳諧に遊ぶという事も、風月に神を破り花鳥に心を労するということも畢竟
憂世を背景にしていうことである。俳諧は世の辛酸を
舐むる人のために存在しているものともいえる。花鳥風月は苦痛なる人間生活の上にはじめて有意義に存在しているものである。悠々たる人生を描き、美妙なる花鳥風月の天地を描くのも、すべて地獄を背景として価値がある。
俳句は花鳥風月を吟詠する文学である。即ち極楽の文学である。しかしながらそこには地獄の裏づけがあることを常に忘れてはならぬ。
(『玉藻』、二八、一二)
連句の
発句と
脇句とは
挨拶であるという事がいわれておる。甲の俳人が乙の俳人を訪問したとする、その場合、訪問して行った甲なる俳人が先ず挨拶の一句を贈る、それが発句である。その時、挨拶を受けた乙なる俳人がそれに返す、それが脇句である。例えば、
餞二乙州東武行一
梅若菜まりこの宿のとろゝ汁 芭蕉
かさあたらしき春の曙 乙州
これは人を訪問した場合とは違うが、乙州の江戸の方へ旅立って行く、それを芭蕉が送る、それの挨拶が発句であって、それを受ける乙州が脇句を附けたことになる。即ち挨拶の意味であることは訪問した場合と同じである。梅も咲くだろう若菜も摘まるる頃である。その梅や若菜の時分に東海道を旅して
鞠子の宿について、そこのとろろ汁を食べもするであろう、と乙州の旅行を思うて挨拶を贈ったのが発句。それに答えて、新しい
笠を買ってそれを
被って春の朝早く旅立ちまする、という挨拶を返したのが脇句である。またこういうのがある。
狂句こがらしの身は竹斎に似たるかな 芭蕉
たそやとばしる笠の山茶花 野水
この発句は、自分は狂句を作っている
風狂人である、また
凩のような境遇の人間である、凩の吹きすさむ中に漂うておるような人間である、そうして『竹斎』というあの物語に出て来る架空の風狂人にも似たものである、そういう人間でありまする、とそこに
草鞋を解いた芭蕉はまず主人公に挨拶をしたのである。そうするとその挨拶を受けた主人野水は、その挨拶に答えて、先刻お見えになった時はどなたか知らんと思っておりました、が笠を召して山茶花の咲いておる下をいらっしゃるところをお見受け申した。山茶花がその笠に触れて花が飛び散っておる、その下を来られるさまを見ると、その笠を被っておられる方と山茶花とが相応じて山茶花も心あるものの如くその笠の上に飛び散っておる、そのお方が誰であろうかとお迎え申すと、それがあなた、芭蕉さまでおありなされたのか、という意味の句であろうと思う。
互に風狂の
輩であろうが、一方は
謙遜し一方は喜び迎えておる心もちがよく現れておる。即ち、発句と脇句とはそういう挨拶の意味から成り立っておる。こういう説も一応
首肯が出来る。
後世の
月並宗匠あたりがこの挨拶という意味を尊重しすぎて、俗悪な句を作って、それで挨拶の意味を伝え得たというだけで満足している者が生ずるようになった。これもまたやむをえないことであろう。
しかしながら、単に挨拶の意味ばかりでこの発句脇句を解するのはいけない。そんな風にのみ解すればこそ、月並宗匠のような誤りが生じて来たのである。ここに注意しなければならん事は、
独り挨拶の意味があるばかりでなく発句も脇句も両者共に諷詠ということをしておるのである。この諷詠という大事があることを忘れてはならないのである。
元来詩というものは諷詠する文芸である。俳人が二人寄って互に挨拶をする場合にもただ挨拶だけではない。そこに大事な諷詠ということが残されておる。甲の俳人も天地の景勝
風物を諷詠する、その間に挨拶の意味を
罩めて。乙もまたそれに答えて花鳥風月を諷詠する、同じく挨拶の意味を罩めて。
斯の如くして現れ
来ったものが連句の発句と脇句である。そうしてその諷詠は続いて三句四句となり、花の座月の座等を経て三十六句に達し五十句に達し百句に達する。この諷詠ということを忘れては発句も脇句もない。天高く地広く、諷詠を
擅まにするところに俳諧の精神があるのである。
一旦諷詠ということを忘れ去った時にはそこに俳諧はない。
俳諧の発句が独立して今日の俳句になったのである。俳句もまた諷詠の文学である。諷詠がなかったら詩という性質を
忽ち失ってしまう。
諷詠する時の高揚したる精神は、自信に満ちた、天地と共にあるが如き気宇快濶なものである。
(『玉藻』、二九、一)
私も常に俳句の新しい事を
希って居ることは人後に落ちない。しかしそれは
何処までも俳句としての新しさである。俳句でないものの新しさには関係ない。俳句そのものの本来の性質から逸脱したものの新しさには重きを置かない。どこまでも俳句らしい俳句、そういうものの新しいことを
冀って居るのである。
たとえば、この頃の社会問題では、労働問題などが先ず重大な問題であろうが、しかしながら、それを俳句として取扱うという事になると疑問がある。
尠くとも俳句でそれを取扱うことは、他の文芸で取扱うのに
較べて幾多の不便がある。十七字という事、季題という事、それらは決してその問題を取り上げてゆくのに適当な形の文芸という事は出来ない。
十七字・季題ということは、
自から俳句を駆って花鳥諷詠ということに針路を取らしめている。花鳥諷詠を
慊らずとしながら、やむをえず花鳥諷詠の方向に進んでおる。これは当然過ぎるほど当然な事である。
花鳥を
透し、花鳥を
藉り、花鳥を描いて人の心を
詠む。人間を諷詠するもの、これが俳句である。文学を二つに大別して、苦渋を訴え闘争を描く文学と、慰楽を描き和楽を描く文学とに分けて見て、俳句は前者に属するものではなくって後者に属するものである事を知る。
俳句を駆って労働問題等を
詠わしめようとする事は、新しきにつくことではなくって、俳句本来の性質を無視することになる。ちょっとは新しいもののような錯覚を起こさすが、やがて俳句らしからざる俳句として
憎悪されるようになる。四季を
憧憬し花鳥を称讃するのは陳腐な思想をくりかえして居るように見えるが、そうではなくその内に一歩々々新しい境地を見出しつつあることに気づくであろう。
慧眼の士のみ
夙にこれを知っておる。
(『玉藻』、二九、二)
「歌を忘れたカナリヤ」という童謡かなにかがありますが、この頃の俳句は諷詠を忘れた俳句が多いようであります。調子が
佶屈で言葉が難かしくって、我々には
判らない句が多いようであります。歌を忘れたカナリヤではなくって諷詠を忘れた俳句とでも申しましょうか。そういう俳句の横行するのは不愉快です。
「平明にして余韻ある句」というのは、かつて私が当時のいわゆる新傾向句の難解にしてやはり諷詠を忘れた句の多かったのに対して、正しい俳句を
標榜した言葉であったのでした。それから何十年か
経ちましてまた再び興って来た難解な佶屈な句に対してこの標語を掲げねばならんかと思います。
(『玉藻』、二九、三)
俳人の交遊は心の上の交遊である。心と言っても学問
智見の上の事ではない。社会道徳の上の事でもない。自然の景勝を透して花鳥風月を介しての心の交遊である。
俳人が二人逢いたる時は
互に
挨拶を
交す。それは普通の人の言うが如く、
「お寒うございます。」
「よい天気でございます。」
というのよりやや進んでいる。
鳶の羽もかいつくろひぬ初しぐれ 去来
一ふき風の木の葉しづまる 芭蕉
去来が芭蕉に、
「時雨が今日始めて降りました。木に止っていた鳶が、その時雨に
濡れて翼をはたはたとはたいてまたもとの通り収めました。」
と言うと芭蕉は、
「そうであった。その時私の見た景色は、さっと風が吹いて木の葉がはらはらと散ったが、すぐそれはもとの通りに静まった。」
とそう言い交したのである。「お寒うございます」というのと大した相違はないが、その初時雨の降った時の景色を言い合って挨拶を交したのである。共にその景色に同感し合い語り合ったのである。景色を通じて心は共鳴したのである。そうしてその景色を諷詠し合ったのである。
市中は物のにほひや夏の月 凡兆
あつし/\と門/\の声 芭蕉
「暑い夏の夜市中を通っておるとむくむくと物の
匂いが鼻を
衝く、
肴屋も
果物屋も酢屋もまたごみ
溜の匂いも交って鼻を衝く。空にはうん気につつまれた夏の月が出ております。」
と凡兆が言うと、
「本当にそうだ。あれ御覧。門ごとに人が出ていて、暑い晩だと口々に言っているではないか。」
と声に応じて芭蕉が答えたのであった。これもその景色に同感し合って互に心の挨拶を交したのである。
灰汁桶の雫やみけりきり/″\す 凡兆
あぶらかすりて宵寝する秋 芭蕉
「桶の灰の中に水を入れて、下の口から少しずつ
灰汁が落ちる仕掛になっている、古風な家のさま、その灰汁の音が
何時の
間にか
止んでしまった。その灰汁桶の水が切れたのでありましょう。そのしずくの音が止んだと思うと、今度はきりぎりすの声が
何処からともなく聞え始めました。」
と凡兆はその夜の
侘しいさまを
陳べますと、
「そうだ、いかにも倹約な家であって、
行灯の油を惜しんで、一家中早寝をするという有様であった。」
と、これも凡兆の話に芭蕉が
相槌を打ったのである。(たといその場所にいなくっても
差支えない。そういう事を想像してお互に語り合ったのでもよい。)
餞二乙州東武行一
梅若菜まりこの宿のとろゝ汁 芭蕉
かさあたらしき春の曙 乙州
「乙州が江戸に行くというのでそれを
餞けする事にする。東海道を通って行くうちに、だんだん春らしくなって来て梅も咲こう、若菜も摘まれよう、またまりこの宿についた時分には、そこの名物であるとろろ汁は是非とも食べて行ったらよかろう。」
と、芭蕉が
弟子を送る心を陳べると同時に東海道の
風物を思い浮べたのである。そうすると乙州は自分の身を振返って、
「有難うございます。笠も新しく
買求めまして、
凡て旅の用意も整いました。春の曙に乗じ心も軽く気も晴れやかに旅立つ事でございます。」
と、陳べたのである。この応対は前の三つの応対より更に進んで、送別留別の意味も加わっておるが、なお景勝を謡って心の交渉を呈しているのである。
以上は『
猿蓑』の連句の発句脇句を取り出して、俳人の心の交遊の
如何に花鳥風月を透して成されるかの一端を言ったのである。
私はこの頃
大和高取に
素十君の仮住居をたずねた。その時の句にこういう句があった。
素十居を訪ひ秋日和安心す 虚子
そうすると素十君にまたこういう句があった。
鳥威し皆ひるがへり虚子が行く 素十
これは前に掲げた連句の発句脇句とはやや異なるが、しかし当時の景勝を描写し諷詠したところは似ておる。
尤もこれは偶然のことである。
唯作った句があとから見れば挨拶の意味にも取れぬことはないというだけである。挨拶
云々のことよりも、ここに言いたいのは俳人の交遊は花鳥風月を透しての互の心の交遊であるという事である。
そうしてまたそれは唯の挨拶ではなく、唯の言葉ではなく、詩である、諷詠であるということである。
(『玉藻』、二九、四)
この頃俳句において
求道ということが言われておる。これは大変立派な言葉である。俳諧を振り返って見て、差し当り芭蕉などがまず求道という事を志した人であろうかと思う。あるいは意外なところにそういう人があったのかも知れないが先ず芭蕉などがその目標になる人かと思う。
芭蕉の思想は仏教の影響が
極めて大きいようである。芭蕉の道というのは仏の道であろうと思う。
尠くとも仏者の道に加うるに儒者の道であったのであろうと考える。
しかしそれが芭蕉の俳句と
如何に交渉があるかという事は難かしい問題である。そうしてそれがまた如何に俳句の価値に影響したかということも考えて見ねばならん。
俳句は
寡言の詩である。言い尽さざる詩である。そのために、解するものに
依って如何にも解されるものである。私の目から見ると求道の句と目さるべきものは、芭蕉の句の中でも第一位に置くべきものは
少いように思う。
俳句の目的、大きく言えば文芸の目的というものは求道ではないと思う。俳句その他の文芸の目的は美にある。高尚な美にある。求道の精神に
基いた高尚な美もあることは否まないが、そればかりではない。自然を諷詠した高尚な句も沢山にある。目的は真ではなくて美である。
求道の句というものはかえって月並に陥りやすき弊さえある。
(『玉藻』、二九、五)
三月二十日の『ホトトギス』の「句会と講演の会」に、
上村占魚君が講演をされた。その講演について私の感じた事をちょっと述べることにする。占魚君の講演の終りの方にこういう一節があった。
真というものを追及して行くと、美というものがその
後に
従いて来るものだと思う、と、こういう事を言われた。これは占魚君ばかりではなくこの頃の人々の中によく聞く言葉である。
真を追及することは結局真に終ることになる。それを美とするには手腕を要する。それが芸術家の働きである。真は
何処までも真である。それを如何に美化するかが芸術の大事である。芸術家の苦心は
其処にある。そのプロセスを考えずに、真が直ちに美になるが如く考えるのは誤りである。
(『玉藻』、二九、七)
難解の句というのには古典を調べなければ分らない、また
辞引を引かねば分らない、またむつかしい文字が並べてあって分らない、というような句がある。
またここに、意味は
極めて分りやすい、何を言ったという事はすぐ分る、が面白味が分らないという句がある。これは普通に難解という部類には
這入らないが、しかし
煎じつめればやはりその部類に入るといってよかろう。
が、ここによく考えなければならぬことがある。いろいろ調べて見たり考えて見たりすると、
漸くその句の意味が
判って来たり、また面白味が分って来る。かえって難解な句であったが
故に分って見ると面白い、という場合がある。
殊に平凡な事を叙しておるが、それは作者の深い考えの上に立っているのであって、よく考えて見ると、その一見平凡なような事の内に深い感情の伏在している事が分るような句がある。これは平凡に叙したからこそその感情がスムースに読者に伝わるのであって、むつかしく叙したのではその深い内部のものを伝えることが出来ない、という種類のものである。その句を吟味する者はこの境をよく区別して考えなければならん。
平坦に叙してあってちょっと見たところでは平凡な句としか見えないが、それを平凡な句としてうっちゃってしまうのは鑑識のない人であって、いわゆる
眼光紙背に徹するという人であって、はじめてその句の面白さを解することが出来るのである。その短見者流はとかくここまで達せずに、唯
上ッつらばかりを見て平凡な句としてしまう傾きがある。それは
己自身の不明を暴露するものであって、俳句の如き短詩型にあっては殊に
慎むべき事である。
(『玉藻』、二九、八)
言うまでもなく和歌は叙情に適し、俳句は叙景に適する。これは今更あらためていうには及ばんことである。
和歌は五・七・五・七・七という形である。俳句は五・七・五という形である。この形がその和歌と俳句の性質を限定する要素である。和歌の特色は俳句に比べて、終りに七・七という調子を持っているという事である。俳句は五・七・五ばかりであって七・七という調子を持っていない、という事である。
終りに来る七・七という調子は情を述ぶるのに適した調子である。だから歌は叙情に適する。俳句はそれを持っていない。それ
故に情を述べる暇がなく、叙景をするに終る。一応そういうことはいえる。しかしながらそれより前に、詩を三つに大別して戯曲、叙事詩、叙情詩とするなれば、歌はもとより俳句もまた叙情詩に包合せなければならない。そのことを少しここに言って見ようと思う。
俳句は目に見た景色を写すのである。しかしながらその景色を写す動機は、作者の感動である。
唯その感動を歌には言葉に現わすが俳句には言葉に現わさない。例えば、
古池や蛙とび込む水の音
といったのは、唯景色を叙しただけのものである。が、その景色を叙したのは、芭蕉の心がその景色を叙さねばならん衝動に駆られたのである。我らがこの句を
咏じて感動するのは、その景色に感動するばかりでなく、芭蕉の心に感動するのである。
譬えてみれば
此処に一本の木がある。その木は地上に出ている部分だけを人は眺めているが、同じ深さにその根は地中に
蟠っているのである。幹や葉のみを見て全部と思うのは間違い、根も
捜ってみなければ木というものの本体は分らない。俳句も同じ事、その詠ぜられたところのものを
味うばかりでなく、その詠ぜなければならんその人の心、即ち木の根に当る部分をも考えてみねばならぬ。歌であるならばその幹や枝のはびこっている様も叙し、同時にその根の蟠っている様も叙するので、よくその全体の様が分るわけであるが、俳句はその地上に出ている部分だけを叙して地下の部分は叙さない。唯、その場合
秀でたる作者は地下の部分を連想すべく地上の部分を叙する。また、秀でたる鑑賞家は、地上の部分を見て直ちに地下の部分を想像する。俳句にはそういう事がおのずから約束されておる。
和歌に
馴らされた人が俳句を見る場合は、味のない叙景というであろう。また、俳句に馴らされておる者が歌を見ると、それは言わなくってもいい事までが述べてある、と感ずるであろう。
ここでちょっといって置くが、七・七のみが情を叙するのに適しておるわけでなくって、あるいは七・七に事柄を叙し五・七・五に感情を叙する場合も
勿論ある。七・七が叙情に適するというよりは五・七・五・七・七が叙情に適しているのである。またそれに反して五・七・五という調子が、叙景に適しておるとはいうものの、時にはこれで叙情に適する場合もある。しかし、概してこれをいえば、歌は叙情に適し、俳句は叙景に適する。また、大きくこれを見れば歌も俳句も叙情詩である。歌は
喋る叙情詩、俳句は黙する叙情詩。
根のない木を土に
挿したものは生気がない。根の深い木には生気が充実している。またこういうことを造庭師から聞いた。庭にある石は唯石を地上に置いただけでは力がない。その石の地中に埋まっている部分が、深ければ深いほど力がある、と。
私が古くから言っておる「余韻ある俳句」という事もまた「背景ある俳句」という事も皆この地下に蟠っている感情、
若しくはその因果、事実の連続等をいうのである。
(二九、九 稿)
私が花鳥諷詠という事を言ったのは、俳句と他の文学とを比較してその顕著な特質を言ったのである。他の文学に比較して、俳句は特別な性格を持っておる。それは、季ということである。四季を諷詠するということである。そういうことを言ったのである。
ところが世間の一部では、それは『ホトトギス』の俳句を言うものだということにしておる。虚子の俳句を言うものだということにしておる。それでも結構である。
私も五十年間俳句界におる。世間の一部の人は虚子の俳句に飽いているのである。次に興り来る新しい俳句はどういうものであろう。私の俳句に反対している人からであろうか。また私の俳句を学んでいる人からであろうか。どちらから出るか。これが興味ある問題である。芭蕉は
宗因に俳諧を学んでから、自分を打建てた。
守武は忠実に
連歌を学んでから俳諧を
創めた。
『ホトトギス』の中にも絶えず新しい気運が動きつつある。雑詠の中には常に新しい句が
醗酵しつつある。
新しいものが生れるということは「新しいものを作るぞ」と
前触れしてから生れるものではあるまい。沈潜して研究している結果、自然々々に生れ出て来るものであろう。いわゆる「深は新なり」である。
写生ということは解釈の仕様によっては、どこまでも広いことになり、どこまでも深いことになる。それを狭く解して攻撃する人がある。それらの人は別に
恐しいとは思わない。広く解し深く解し、鋭意それによって新しい境地を
拓いてゆく人には、なんだか恐しいような尊敬の念が起るのである。
かつてもしばしば聞いたことであるが、このごろまた時に俳句の季が問題になっている。俳句に季がなければならぬという
理窟はない、季がなくても俳句ではないか、という議論がある。それは俳句の定義の下しようである。私等は伝統的な連歌以来の発句即ち俳句と心得ているのである。そんなことに
頓著なく十七字の詩即ち俳句だというならばそれまでである。ただ季のない句がどれほど価値があるか。実際に価値のある句が生れるか生れないか、それが問題なのである。
人生探求ということが言われるが、そればかりならば季は必要でないわけである。やはり季を必要とするならば、それだけ花鳥諷詠に傾いて来るわけである。
(『ホトトギス』、二三、七)
私は昭和十一年『句日記』の冊子を出版する時にこういう序を書いた。
心の生活は深く湛えたる潮であり、詩は表面の波であるともいえる。『句日記』は私の生活の表面に現れた波であって、善読せらるる方は、この波を透して私の生活をよく諒解せらるるかも知れない。
私はこの間札幌で簡単なお話をした時分に、
俳句は私の生活の波のその上に立つ泡の如きものである。
と言った。
波というのは潮の一部分であるが、やがて潮そのものである。泡というのは波の一部分であるが、やがて波そのものである。虚子の俳句は虚子の心の生活そのものである。
人の大問題は生死ということである。何人の前にも死は口を
開けて待っている。が、これは天地の運行と同じく自然の現象の一つである。
私等は死を前にして生活しつつある。死を逃避するのではない。逃避しようとしても逃避出来るものではない。
唯営々として生活しつつある。その生活を包むものに花鳥風月がある。花鳥風月を透して私等の生活を
諷うのが俳句である。
諸君は皆それぞれの生活を俳句によって記録しつつあるのである。諸君の内生活、外生活、共に知らず
識らずの間に諸君の
句帖に記録されつつあるのである。
日月星辰の運行、四季の変化、草木花鳥の開落往来、それらの中に人は生活しつつあるのである。人の生活がそれらによって影響せらるることは
固より当然のことである。否々、人が自分の力によって生活しつつある如く感ずるのは自然の力を無視するためである。無視するというよりも忘却しているためである。一たん気がついて自然の中に立っておる自分を
顧れば
芥子粒の何億兆分の一よりも小にして更に小なる存在であることに気づくであろう。
しかしそこにはまた自分というものがあり、自分の生活というものがある。否々、自然を忘れ去って自分のみを観ずる時、そこに広大なる宇宙に等しき自己の人生があり生活がある。
その人生の記録、生活の記録の一つに花鳥風月を透して諷う俳句というものがある。
心の生活の記録は様々ある。小説があり、詩があり、日記がある。
各々存在の価値がある。俳句もまたその一つである。
俳句の特色は花鳥風月を透しての生活の記録ということである。
俳句は花鳥諷詠の文学として他の文学にない特色を持っておる。
俳句は花鳥諷詠の文学として文壇に独歩しておる。
(『ホトトギス』、二三、九)
先ず季題一々の性質をよく吟味することである。
先人が
如何にその季題をとり扱ったかをよく知ることである。
われらは如何にその季題をとり扱うべきであるかということを考うべきである。
或る事柄、或る感情を詠じようとする場合に、如何なる季題を配すべきかということは、よく吟味しなければならぬ。
適切な季題を見出した場合は、その事柄なり感情なりが、極めて力強く描写される。
季題は
厄介なものではなくて、有効に働くものである。
例えば慶弔の句などは、その人に対して如何なる季題を見出すかということが大切なことである。
季題は
微かな存在ではなくて、力強い存在である。
(『ホトトギス』、二四、七)
深い心の人、浅い心の人、広い心の人、狭い心の人、大きな思想家、小さい思想家、懐疑派、楽天派、憤慨家、
呑気者、労働者、知識階級、貧乏人、物持ち、それらは問わない、如何なる種類の人でも、本当の心持を
詠ったものは結構。
如何なる種類の人でも、気取ったり、装ったり、
衒ったり、もの欲しそうな、
附焼刃なものは鼻もちがならぬ。
しみじみと深く心に感じたところにいい句が
芽生える。
(『ホトトギス』、二四、九)
福岡県若松市の村岡
籠月君から句稿を送って来る手紙の端に、こんな事が書いてあった。
『玉藻』七月号「虚子俳話」――真ということ――拝読
致しました。真を追及すれば美というものがこれに
従いて来るということを否定された先生の論に眼を
瞠ったものであります。
世間には真を追及して美のない俳句が多いのを知っています。また先生の提唱される客観写生を浅く解して単なる写生に終り、それにて事足れりとし、またいたずらに文字を複雑にし句を象徴の高さまで推し進める事を忘れている人の多いのを知っております。
先生の提唱される客観写生は「真ということ」なる俳話に裏づけさるるごとく底知れぬ深いものだと常に考えておりました。
失礼の段
平にお許し下さいませ。
真を追及する事によってのみ美は生れて来ない、ということは私が申さなくても多くの人はよくおわかりの事と思います。その事よりもあなたの客観写生ということについてお書きになったことに私の注意は
留りました。その事について一言してみたいと思います。
私は理論の完備という事はちっとも考えておりません。ただ私は俳句や写生文を自ら作る上において客観写生という事を志しております。もともと俳句や文章にも自分の感情を露出する弊の多かった過去の自分を顧みて、感情は内に秘めておいて客観写生をすべきだと先ず自分に教えたのであります。そうして今日の私の俳句や文章は客観写生という信条によって得つつあるものだという事に満足しております。心の底では大地を揺るがす地震のような感情の動きを覚えましても、それは
何処までも内にこめて、あえて客観写生をするという所に私の俳句、私の文章の信条はあります。
また、人を導く上にも私の信ずるところの客観写生を
以てします。それは決して感情を粗末にせよという意味ではありません。感情は内に
籠めて置いて
露わに出さずにその感情の上に立って客観写生をせよという意味であります。この方法で何十年間か過してまいりました。そうして幾多の優秀な俳人を養成し得たと信じております。
客観写生という言葉は不完全な言葉であります。が、
確乎たる信条であります。
私は以前、感情移入、という説を聞いたことがあります。それは私の客観写生の説に
慊らないで、客観の事実の中にも常に作者の感情を移入しなければいい俳句は出来ない、そういう意味の言葉であったように思います。そんな輸血をするような感情はなんの役に立つものではないと思います。感情は前に申したように、心の底にたぎっているものでなければ
駄目だと思います。地球の内部には恐らく激烈無比の烈火が伏在しているのであろうと思います。それと同じく、地球の子であるわれら人間の心の中にも絶えず熱情は燃えたぎっているのであります。その感情の上に生れた俳句や文章は、一見冷静な客観句や文章であって、その実深いところに潜む熱情に動かされたものであることに気づいて来るでありましょう。
客観写生というのはそういう意味のものであります。初心者はすぐそこに到達することは出来ません。少数な人を除いては徐々にそこに歩を進めて行くのであります。或る点に達するまでは唯事実を
羅列した平浅な客観写生句であることもやむをえません。私は
辛抱してそういう句をも選んでやがてその
上堂を待っています。
私は常に客観写生句を唱導しております。大きな静かな主観を
踏えての客観写生句を熱望します。時にはまた強烈な熱情を踏まえての客観写生句を熱望します。
それから
徒らに複雑に文字を
遣ったりまた
晦渋で難解であったりすることは、俳句本来の性質をわきまえないものだと思います。俳句は十七字で簡単なものであります。だから簡素ということに生命があります。簡単ということを生かして用いねばなりません。それが俳句本来の面目であります。簡単率直であって、その
味いは深遠であり複雑であるということが生命であります。あなたの象徴の高さというのも
畢竟そのことだろうと思います。しかしこのことは別に論ずる機会があろうと存じます。ここにはお手紙にあった「客観写生」ということについて一言致しただけであります。
(『玉藻』、二九、一〇)
人間の一生は短いものである。私が今日八十一歳の長寿を保って居るが、それでも長いものとは言えない。宇宙の存在の悠久に
較べたら
蜉蝣の如きものである。その当時はさほどにも思わなかったが、今になって思うと、俳句は「花鳥諷詠詩である」と断じた事は、その私の短い一生のうちの大きな仕事であったように思うのである。始めはこれはただ俳句というものの性質を説明しただけの極めて平凡な言葉と思っていたが、その後いろいろな説をなすものが出て来たのを見るに及んで、はじめてこれは大きな仕事であったと思うのである。
先ずそれには
碧梧桐の新傾向論が
遂に俳句を無季、非定型のものにしようとしたのに初まる。碧梧桐は、俳句が幾多古人の力によって築き上げられた伝統的のものであることを忘れて、それを頭から陳腐だと感じはじめて、二つの大きな性質である十七文字と季題とを、頭から
毀してかかろうとした。これは伝統的の詩である俳句に対する
不遜な無謀な処置であった。そういう考えがあるのならば何も俳句にたよらなくっていいわけである。新しい詩を
創ればいいわけである。それを今まで自ら
携って来た俳句というものの伝統的価値を忘れて、これを根本から
覆し去ろうとした所に誤りがあったのである。
私はその時に、自分は守旧派である、自分は伝統派である、俳句は伝統の詩である、俳句は十七字、季題という二つの大きな鉄則に縛られた詩である、その鉄則の下にある詩が即ち俳句なのである。俳句は「花鳥諷詠」である。花鳥とは、春夏秋冬の移り
遷りに
依って起る自然界
並に人事界の現象をいうのである、その現象をいわゆる花鳥風月と
称えるその「花鳥」の二字に約して言った言葉であると言った。芭蕉も、
しかも風雅におけるもの造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。
といったその言葉を節約していったのであると言った。俳句は花鳥を諷詠するとはいうものの、心に映る花鳥を諷詠するのである。心を
余所にして考えることは出来ない。また花鳥を諷詠し、あるいは花鳥を透して心を諷詠すると言ったのは、言葉を分っていったばかりで、
畢竟同じことである。詩は大方叙情詩である。俳句も叙情詩であることはいうまでもない。ただ花鳥を諷詠する叙情詩である。花鳥を除外したならば
其処にはもはや俳句というものはない。一方から言えば俳句は花鳥に束縛されているといえるが、また一方からいえば、俳句は花鳥あることによって、存在するのである。狭い窮屈な詩であるともいえるが、また特殊な
稀有な詩とも言えるのである。即ち花鳥諷詠に限られた詩であるということは俳句の短所でもあれば長所でもある。一言にしていえば花鳥諷詠は俳句の面目である。私は、俳句は花鳥諷詠詩であると言った事に誇りを持つ。
こういうことは繰り返し巻き返し
陳べ
来ったことである。
その後、新傾向論は影をひそめて二、三十年間は先ず何事もなかった。それがこの頃になってまた反花鳥諷詠論を
為す人々が出て来た。その中には
強いて理論を好む人もあり、定義の争いだというべきものもあり、それらは俳句本来の性質たる花鳥を無視し定型を破壊するというまでには至らないと思うが、
頃日漸く季題に重きを置かない説も見えて来た。また実際の俳句について見ると、季題はただ
申訳だけに句の中に入れてあるという類が多くって、それは季題を省いても一向に
差支えがない、ただ従来の俳句の型を守るがためにやむをえず季題を入れた、という類の句が散見されるようになって来た。これらは季題が働きをしない即ち、花鳥諷詠にはなっていないのであって、伝統俳句の反逆児ともいうべきものである。
私はそれらの試みもまた必ずしも悪い事とは言わない。伝統的な詩に
慊らないで新しい詩を試みたいという念慮は誰にもあることである。特に若い人々のためにそういう熱意のあることは同感に価する。しかし私はそれらの人々に
向って、新しい試みがしたいならば
何故俳句という形を選ぶのか、と尋ねたくなる。俳句という伝統詩によって
強いて新しいものを試みてみようとするのは愚かな事である。それよりも自由な詩があるべきである。なぜその思想に適合した新しい詩を選ばないのか。私は常に
其処に不審を持つ。それらの諸君は古い形によってその古い形には出来ないことを
敢てしようとする。これは無理なことである。新しい形を創造する事はむつかしい。古い形による方がちょっと安易なように見えるが結局かえって難かしい事になる。それでは古いものをぶち
毀したままで新しいものを建設するには至らない。それは無意味な事である。それよりも自由な天地で自由に創造すべきである。諸君が古いと感ずるものには古いそれだけの歴史があり、それだけの特色があり、それだけの価値があり、また存立する権利がある。諸君が勝手にぶち毀そうとしてもそれはなかなかぶち毀れるものではない。諸君がぶち毀そうとするハンマーはかえって諸君に
反撥して来る。我が伝統詩である俳句は、いくら諸君の力を以てしても容易に
壊れるものではない。
私はこの頃になってまた「俳句は花鳥諷詠詩である」と断じた事に誇りを持つようになった。碧梧桐一派の後に新興俳句というものが起りかけたことがあった。その時も私は多少それに応酬したことがあったが、今また反花鳥諷詠論の
旺んになろうとすることを見るに及んで、私はまた私の説の価値を自ら大きく評価するようになろうとしている。それは何も新しい議論ではなく俳句本来の性質を説明したまでの言葉であるが、我が伝統俳句本来の性質はこの言葉の外には出ない。かかる平凡な言葉を言い得た事を何故私の誇りとすべきであるか、それはむしろ悲しむべきことである。幾多諸君の新しい言説が生れれば生れるほどこの言葉は力強いものとなって来る。私の生涯は短い、しかしその短い生涯にこの一語を残し得たという事は私の誇りということになる。それは諸君のような議論が出て来ない間は、本来の平凡な言葉として
歯牙にかけるに足らないであろうが、ひとたびそれらの説が現れ来ることに
依って
俄に表面にその光を現して来る。諸君の言説が多くなればなるほどその光は顕著になって来る。
人間の一生は短いものである。誠に
蜉蝣に等しいものである。私の俳諧生活もまことにあっけないものである。唯その中に「俳句は花鳥諷詠詩である」という言葉が、諸君によって顕著なものにされるかどうか。私はそれを当然の言葉として特に注意をひかないようになることを希望するものである。
(『玉藻』、二九、一〇)
『
青』が
早や第二巻になりました由。この老人の年がまた一つ加わったことになります。それだけ『青』という青年のすくすくと成長していった事を喜びます。
『青』には一つの宿命があります。それは「花鳥諷詠」の血をひいておることであります。諸君はこれをどう考えておりますか。
新しいことを好むらしい諸君の頭の底には「花鳥諷詠」という
絆は脱却したい、
尠くとも脱却して考えて見たいというお考えが潜んでいるか知らんと考えるのであります。それはご
尤もであります。
が、私の考える俳句を学ぼうとお考えになったその時から、「花鳥諷詠」という宿命が諸君のからだに魅入っているのであります。諸君の今まで作っていらした句は
嫌でも応でもその宿命を背負って居るのであります。その点について諸君がどういう考えを持っていらっしゃるか、それが伺って見たいのであります。
季題がかりそめに取扱われているものは私の信ずる所の俳句ではありません。
少くともいい俳句ではありません。また、十七字という調子は自然に
備っているのです。その調子をないがしろにするものは俳句とは考えません。少くともいい俳句ではありません。
あなた方が今まで作ってらした俳句は私の所期しておる所の線に沿うたものであると思います。
叙情の天地は広大であります。自由であります。しかし諸君は誤って俳句の天地を選んだ。俳句の天地は限られておる。「花鳥諷詠」という宿命は
遁れることは出来ない。もし諸君がその宿命に甘んずる決心がつけば俳句の天地に
留って
勉められよ。
俳句の天地は限られた天地である。狭い。しかしながら局外の者の
窺い知らない楽しい天地であります。
(『青』、二九、一〇)
立子が御地へ一遊しますので、御地の俳人に
言伝をします。
*
新人というものは移植した植物のようなものでは駄目であります。大地から
萌え出たものでなくてはなりません。
*
花鳥諷詠といっても、花鳥ばかりを言うのではありません。地球が太陽のぐるりを
廻るがために生ずる四季の変化、そのあらゆる現象、その現象が私等に働きかける、私等もまたその現象に働きかける。それによって慰安を得る。それに風懐を
遣る。そのあらゆる現象を「花鳥」の二字で代表させて「俳句は花鳥諷詠詩」といっております。
*
人は気がつかずにおりますが、この四季の変化の間に人間が生活しているのでありまして、
明暮れその影響を受けております。これを諷詠する「伝統の文芸、俳句」は特殊な偉大な文芸であると思っております。
*
花鳥、即ち四季の現象のどこを捕えて諷詠しようかという事も大事なことでありますが、どういう風に諷詠しようかという事もまた大切な事であります。写生といいましても何を写生するかという事と、どういう風に写生するかという事と両方とも大切な事であります。
*
句の
良し
悪しも
畢竟、作者の心にあるのであります。作者の心が
奥床しい心であれば自然に奥床しく映じ、奥床しく諷詠するようになります。作者の心が無邪気ならば、無邪気に映じ無邪気に諷詠するようになります。作者の心が新鮮ならば、新鮮に映じ新鮮に諷詠するようになります。作者の心が浅はかならば、浅はかに映じ浅はかに諷詠するようになります。
*
若い諸君は理窟をいわないと、あき足らないでしょうが、理窟は後にして、先ず句の味を知ることが大事だと思います。
*
私は
川端茅舎の句集に、
花鳥諷詠真骨頂漢
と題した事があります。
*
私はこういう句を作りました。
明易や花鳥諷詠南無阿弥陀
人がどういう意味であるかと質問しました。私はただ、私の信仰である、と答えました。
(『玉藻』、二九、一一)
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ここに俳句の母体である俳諧というものがある。俳句は、その俳諧の一番始めの句が独立したものである。その始めの句をもとは
発句といっておった。子規が出るまでは発句という名前で世間に通用しておったのであるが、子規が
専ら俳句といったのでこの頃ではもはや発句という人はなく、俳句という名前で呼ばれるようになった。
発句というのは最初の句という意味である。
即ち俳諧の第一句という意味である。
俳諧の第一句には必ず季がある。しかもそれは俳諧のみならず
連歌に既にあった。連歌の発句に季があり俳諧の発句に季がある。そうしてその第一句の独立した発句にも
固より季があり、その発句が俳句と名を変えた今日なお季というものを生命とする運命となっておる。今、左に芭蕉時代の俳諧数篇を
挙げて見て、俳諧と季との関係を調べて見ようと思う。
左に掲ぐる俳諧五篇は俳諧を作らない人にとってはその意味は不可解かもしれぬ。ここには
唯俳諧と季との表面の関係だけを明らかにして置こうと思う。
は季を示す。季のある句は諸所に散在しておって、季のない句を抱擁して居る。
殊に発句から二、三句、即ち第一、第二、第三等の句と、揚げ句、即ち終りの句
並にその前の句とは必ず季のある句であって、それが全体を引締めておる。
季のない句は自由に世態人情を詠じておって、十七字十四字という文字の制限の外は何の束縛もないが、それが数句続いて来るとまた
其処に季の句が現れ、それからまた数句、季のない句で続いて行くと、また季の句が現れる、という風になっていて、季のある句が半ば以上を占めている。三分の二に達しているものもある。こういう形のものが連歌時代から俳諧時代と四、五百年連綿と続いて来ておる。
さてその伝統的存在としての俳諧というものをよく見ておると、その発句が独立して今日の俳句というものとなったが如く、その中の無季の句が独立して或る名前を備えた詩となる可能性は充分にあるのである。十七字であって、季というものがなくって、それで独立した句となる事は可能である。既に
川柳というものがあって、これは季に関係がなくしかも十七字詩である。が、その他にまだ独立して詩を成すべき余地がある。十七字詩であって季を問題にしないという主張を持って居る人々は、伝統を重んずる上からいってもなおかつ
成立ち得るのであるから、大いに考慮を払うべきであると思う。
しかし、季がなくって独立した詩となると、それは川柳の如く、人情の機微を
穿つという点で独立した詩となる力を持っているのである。が、同時に品位において俳句と
較べると劣るものになっておる。けれどもとにかく独立した一つの詩となっておる。その他に独立した新しい或る詩を
創り出そうというのなら、何か或る物を
掴んで人を
惹きつけるようにしなければならぬ。ふり返って見て俳句には、季という有力なるものがある。これに
依って独立した俳句として今日まで形態を保って続いて来ておる。この季に代る或る物を見出す事は容易なことではあるまい。
季という事は実に重大な働きをして居るのである。俳諧でも無季の句は色彩が
少く、其処に季の句が現れて色彩を加える。無季の句のうちに
神祇、
釈教、恋、無常、疾病、
羈旅等があって、人間生活を縦横に謡うが、それを
点綴して季の句が過半数を占めておる。
とにかく、日本の国土というもの、その豊かな四季の変化、その中に住む人間の生活、それらが俳諧となったのである。
俳諧もまた大きな眼で見れば花鳥諷詠詩といえないことはない。否、これをも花鳥諷詠詩と呼ぶことは正しいと思うが、そのことは
暫く
措いて、唯
此処には花鳥諷詠詩たる俳句の母体である俳諧というものが、また
如何に四季の現象(季)を重要に取扱っているかということを明らかにして置くにとどめる。
笠は長途の雨にほころび、紙衣はとまり/\のあらしにもめたり。佗つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂歌の才士此国にたどりしさまを不図おもひ出て申侍る。
狂句こがらしの身は竹斎に似たるかな 芭蕉
たそやとばしる笠の山茶花 野水
有明の主水に酒屋つくらせて 荷兮
かしらの露をふるふ赤馬 重五
朝鮮のほそりすゝきのにほひなき 杜国
日のちり/″\に野に米を刈る 正平
わがいほは鷺にやどかすあたりにて 野水
髪はやすまをしのぶ身のほど 芭蕉
いつはりのつらしと乳をしぼりすて 重五
きえぬ卒都婆にすご/\となく 荷兮
影法のあかつきさむく火をたきて 芭蕉
あるじは貧にたえしから家 杜国
田中なるこまんが柳落るころ 荷兮
霧にふね引人は跛か 野水
たそがれを横にながむる月ほそし 杜国
となりさかしき町に下り居る 重五
二の尼に近衛の花のさかりきく 野水
蝶はむぐらにとばかり鼻かむ 芭蕉
のり物に簾透く顔おぼろなる 重五
いまぞ恨の矢をはなつ声 荷兮
ぬす人の形見の松の吹折れて 芭蕉
しばし宗祇の名を付けし水 杜国
笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨 荷兮
冬かれわけてひとり唐苣 野水
しら/\と砕けしは人の骨か何 杜国
烏賊はゑびすの国の占かた 重五
あはれさの謎にもとけし郭公 野水
秋水一斗もりつくす夜ぞ 芭蕉
日東の李白が坊に月を見て 重五
巾に木槿をはさむ琵琶打 荷兮
うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに 芭蕉
箕に鮗の魚をいたゞき 杜国
わがいのりあけがたの星孕むべく 荷兮
けふはいもとのまゆかきにゆき 野水
綾ひとへ居湯に志賀の花漉て 杜国
廊下は藤のかげつたふなり 重五
木のもとに汁も鱠も桜かな 翁
西日のどかによき天気なり 珍碩
旅人の虱かき行く春暮て 曲水
はきも習はぬ太刀の※[#「革+背」、150-8] 翁
月待て仮の内裏の司召 碩
籾臼つくる杣がはやわざ 水
鞍置る三歳駒に秋の来て 翁
名はさま/″\に降替る雨 碩
入込に諏訪の涌湯の夕ま暮 水
中にもせいの高き山伏 翁
いふ事を唯一方へ落しけり 碩
ほそき筋より恋つのりつゝ 水
物おもふ身にもの喰へとせつかれて 翁
月見る顔の袖おもき露 碩
秋風の船をこはがる波の音 水
鴈ゆくかたや白子若松 翁
千部読む花の盛の一身田 碩
巡礼死ぬる道のかげろふ 水
何よりも蝶の現ぞあはれなる 翁
文書ほどの力さへなき 碩
羅に日をいとはるゝ御かたち 水
熊野みたきと泣給ひけり 翁
手束弓紀の関守が頑に 碩
酒ではげたるあたまなるらん 水
双六の目をのぞくまで暮かゝり 翁
仮の持仏にむかふ念仏 碩
中/\に土間にすわれば蚤もなし 水
我名は里のなぶりもの也 翁
憎れていらぬ踊の肝を煎 碩
月夜/\に明渡る月 水
花薄あまりまねけばうら枯て 翁
唯四方なる草庵の露 碩
一貫の銭むつかしと返しけり 水
医者のくすりは飲まぬ分別 翁
花咲けば芳野あたりをかけ廻り 水
虻にさゝるゝ春の山中 碩
市中は物のにほひや夏の月 凡兆
あつし/\と門/\の声 芭蕉
二番草取りも果さず穂に出て 去来
灰うちたゝくうるめ一枚 兆
此筋は銀も見しらず不自由さよ 蕉
たゞとひやうしに長き脇指 来
草村に蛙こはがる夕まぐれ 兆
蕗の芽とりに行燈ゆりけす 蕉
道心のおこりは花のつぼむ時 来
能登の七尾の冬は住うき 兆
魚の骨しはぶる迄の老を見て 蕉
待人入し小御門の鎰 来
立かゝり屏風を倒す女子共 兆
湯殿は竹の簀子佗しき 蕉
茴香の実を吹落す夕嵐 来
僧やゝさむく寺にかへるか 兆
さる引の猿と世を経る秋の月 蕉
年に一斗の地子はかる也 来
五六本生木つけたる潴 兆
足袋ふみよごす黒ぼこの道 蕉
追たてゝ早き御馬の刀持 来
でつちが荷ふ水こぼしたり 兆
戸障子もむしろがこひの売屋敷 蕉
てんじやうまもりいつか色づく 来
こそ/\と草鞋を作る月夜ざし 兆
蚤をふるひに起し初秋 蕉
そのまゝにころび落たる舛落 来
ゆがみて蓋のあはぬ半櫃 兆
草庵に暫く居ては打やぶり 蕉
いのち嬉しき撰集のさた 来
さま/″\に品かはりたる恋をして 兆
浮世の果は皆小町なり 蕉
なに故ぞ粥すゝるにも涙ぐみ 来
御留主となれば広き板敷 兆
手のひらに虱這はする花のかげ 蕉
かすみうごかぬ昼のねむたさ 来
鳶の羽もかいつくろひぬ初しぐれ 去来
一ふき風の木の葉しづまる 芭蕉
股引の朝からぬるゝ川こえて 凡兆
たぬきをおどす篠張の弓 史邦
まいら戸に蔦這ひかゝる宵の月 蕉
人にもくれず名物の梨 来
かきなぐる墨絵おかしく秋暮て 邦
はきごゝろよきめりやすの足袋 兆
何事も無言の内はしづかなり 来
里見え初て午の貝吹く 蕉
ほつれたる去年のねござのしたゝるく 兆
芙蓉のはなのはら/\とちる 邦
吸物は先づ出来されし水前寺 蕉
三里あまりの道かゝへける 来
此春も廬同が男居なりにて 邦
さしきつきたる月の朧夜 兆
苔ながら花に並ぶる手水鉢 蕉
ひとり直し今朝の腹たち 来
いちどきに二日の物も喰て置き 兆
雪げにさむき島の北風 邦
火ともしに暮れば登る峰の寺 来
ほとゝぎす皆鳴仕舞たり 蕉
痩骨のまだ起直る力なき 邦
隣をかりて車引きこむ 兆
うき人を枳殻垣よりくゞらせん 蕉
いまや別れの刀さし出す 来
せはしげに櫛でかしらをかきちらし 兆
おもひ切つたる死ぐるひ見よ 邦
青天に有明月の朝ぼらけ 来
湖水の秋の比良のはつ霜 蕉
柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ 邦
ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ 兆
押合て寐ては又立つかりまくら 蕉
たゝらの雲のまだ赤き空 来
一構鞦つくる窓のはな 兆
枇杷の古葉に木の芽もえたつ 邦
餞二乙州東武行一
梅若菜まりこの宿のとろゝ汁 芭蕉
かさあたらしき春の曙 乙州
雲雀なく小田に土持つ比なれや 珍碩
粢祝ふて下されにけり 素男
片隅に虫歯かゝえて暮の月 州
二階の客はたゝれたるあき 蕉
放ちやるうづらの跡は見えもせず 男
稲の葉延びの力なきかぜ 碩
ほつしんの初にこゆる鈴鹿山 蕉
内蔵頭かと呼声はたれ 州
卯の刻の箕手に並ぶ小西方 碩
すみきる松のしづかなりけり 男
萩の札すゝきの札によみなして 州
雀かたよる百舌鳥の一声 智月
懐に手をあたゝむる秋の月 凡兆
汐さだまらぬ外の海づら 州
鑓の柄に立すがりたる花のくれ 去来
灰まきちらすからしなの跡 兆
春の日に仕舞ひてかへる経机 正秀
店屋物くふ供の手がはり 来
汗ぬぐひ端のしるしの紺の糸 半残
わかれせはしき
の下
士芳
大胆におもひくづれぬ恋をして 残
身はぬれ紙の取所なき 芳
小刀の蛤刃なる細工ばこ 残
棚に火ともす大年の夜 園風
こゝもとはおもふ便も須磨の浦 猿雖
むね打合せ着たるかたぎぬ 残
此夏もかなめをくゝる破扇 風
醤油ねさせてしばし月見る 雖
咳声の隣はちかき縁づたひ 芳
添へばそふほどこくめんな顔 風
形なき絵を習ひたる会津盆 嵐蘭
うす雪かゝる竹の割下駄 史邦
花に又ことしのつれも定らず 野水
雛の袂を染るはるかぜ 羽紅
(二九、九 稿)